2010年12月31日金曜日

びっくりフェイスオフゴール

http://video.nhl.com/videocenter/console?id=87247
 1997年プレーオフ、セイバーズ対セネターズの第7戦、デレク・プラントのフェイスオフゴールの映像がNHLのサイトにアップされています。
 これで同点に追いついたセイバーズ、OTではやはりデレクがゴールしてセイバーズ劇的勝利という結末。
 が、何度か映し出されるフェイスオフシーン、最後に出てきたアングルを見ると、明らかにセネターズのヤシンのオウンゴールでした(笑)。
 しかし、大喜びのデレク、あっけにとられるタグナット、大歓声にわくバッファローのアリーナ、いやあ、デレクのファンにはとってもよい見ものです。
 さて、元旦のセイバーズの試合の前に、セイバーズの殿堂に入るモギルニーとジム・ケリーのセレモニーが行なわれる予定ですが、ホッケー・ジャーナリストのケリーはすでに故人となっているので、おそらく家族が来るのでしょう。モギルニーはもちろん、来る予定だそうです。
 そして、セイバーズ身売りの件は、バッファローでジュニアの世界選手権大会が行なわれたあとに正式に発表されるとのこと。新しいオーナーのもと、GMなども替わる可能性高いのですが、ラフォンテーヌにGMを、というファンの声も。モギルニーのセレモニーにはラフォンテーヌも来るのかな。名コンビだったから。デレクもちょっとだけ、モギルニーとチームメイトだったはず。
 デレクは今季から母校の大学のアシスタントコーチになっていますが、地元のメディアにコメントしたりしているみたいです。母校のチーム、ブルドッグズは好調で、かなり勝ってます。クリスマスには間に合わなかったけど、デレクには年賀状を送りました(時々、日本から和風のカードが届くので、なんだろこれは、と思ってるだろうな)。

 というわけで、2010年はこれでおしまいです。

2010年12月29日水曜日

新木場まで

 コミケは行かなかったけど、新木場まで行きました。
 新木場はいわずとしれた東京国際展示場へ行く臨海線の乗換駅。夜6時くらいに着いて、コミケはとっくに終わってるはずですが、コミケ帰りとおぼしき若者たちがたむろっていた。
 なぜ新木場へ行ったかというと、久しぶりに夢の島のプールで泳いできたのです。
 このプールに初めて行ったのは、2001年の正月。当時、私は水泳中毒で、1週間泳がないと禁断症状が、という、あの精神科医伊良部シリーズの第1作「イン・ザ・プール」の患者状態でした。
 ところが、行きつけの地元の区営プールは年末年始の休みがやけに長い。年始は6日か7日にならないと開かない。そこでネットでできるだけ早く始まるプールを探したところ、出てきたのが夢の島総合体育館のプールで、たしか、3日か4日から始まっていました。
 それまで、新木場はコミケへの乗換駅でしかなく、外へ出たこともありませんでしたが、初めて新木場駅の外へ出て、いかにも埋立地な空間に作られた広い公園をてくてくと歩き、ついにたどり着いた体育館。うちから新木場までかなり遠い上、駅から体育館までが徒歩15分という距離で、正直、遠いな、と思いましたが、プールの建物は天井が高く、広々として、周囲は緑の木々に囲まれ、なんだかとってもいい環境。プールも時間制とか入替制とかではなく、入ったら好きなだけいていいのです。
 そんなわけで、このプールが大いに気に入り、以後、地元のプールは捨てて、ここに通うようになりました。ところが2年ほど通ったとき、なんと、体育館が閉館。やむなく、やはり新木場から違う方向へ15分くらい歩いたところにある辰巳国際水泳場へ移動。ここも天井が高くて、全面ガラス張りの窓からは運河が見えるという眺めのいいプールで、今度はこっちが気に入って通い始めたのですが、ここはオリンピック予選が行なわれるようなプールで、来る人は上級者ばかり。その上級者に合わせてガンガン泳いでいたら、体をこわしてしまい、やむなく今度はもう少し近いところのプールに替えて現在に至っています(最初に行っていた地元のプールはその後、二度と行っていない)。
 実は夢の島体育館は一度閉館になったものの、その後、宿泊施設の建物ができてBumBuと名前を変えて再開していました。でも、いったん別のプールに移って、そこに慣れてしまうと、また戻るのもめんどうで、再開してからは一度も行っていませんでした。で、なんで今回行くことにしたかというと、いつも行っている某区のプールは当然のごとく年末年始の休み。地元のプールよりは休みの期間が短いけど、それでも1週間以上休む。最近はもう、前のような水泳中毒ではなくなったので、1週間くらいはがまんしていましたが、調べてみたらBumBuは年末年始も営業していたのです。そこで、久しぶりに出かけてみたわけ。
 たぶん、7年ぶりとか8年ぶりとか、そのくらいになると思いますが、新しい建物ができて、そこがエントランスになって、プールへ行く道が変わってしまっていたり、プール自体は変わっていなくても細かいところがいろいろ変わっていて、やはり昔なじんでいたプールと同じではありませんでした。それでも時間を気にせずたっぷり泳ぎ、ここや辰巳のプールで泳いだあとは必ず寄った新木場のシャノアールで時間をすごし、ここでよく食べたミックスサンドを久しぶりに味わったりと、とても満足な年末の休日でした。
 しかし、帰るために駅に着いたときはすでに9時近くというのに、まだコミケっぽい人たちがいたなあ。途中の豊洲からもなんだか人がたくさん乗ってきましたが、ゆりかもめ組だろうか。

日々の雑感

今日からコミケですが

 今日からコミケが始まったのですが、ネットで調べたら、私が行っていた頃とジャンルが全然変わっていて、知り合いのサークルを検索してもまったく出てこないので、行くのはやめました。今回は都条例のことがあるので、興味本位のマスコミが押しかけるので、相手にするな、というツイッターもありました。確かに、この件でのマスコミの報道にはおかしなところが多い(特に読売新聞)。週刊誌や地方新聞にはまっとうな意見表明があったけど、中央の大きいメディアの無関心というか、何というか。表現の自由、言論の自由、差別を生む可能性、人間の性の自由を奪う可能性、など、多くの問題点があるのに、この無関心。
 また、コミケの同人誌の印刷を拒否されたサークルもあるとか。もともとコミケは幕張メッセ問題のときに警察が来て、以来、ゾーニングは徹底しているはずですが、ある日突然、これはだめ、と言われてしまい、反論もできないのが今回の条例の恐ろしさ。いっそ、たくさん摘発されて、集団訴訟しちゃった方がいいかも。
 そして、都条例に反発して東京アニメフェアをボイコットした角川書店などが、幕張メッセで同時期に独自のアニメフェアを開催するそうです。例の幕張だけど、別にエッチなアニメをやるわけではないのでしょうね。パシフィコ横浜が負けて幕張になったとかいう話も? なんか、なつかしい名前だなあ。

ある牛丼チェーン店でのできごと

 もう10年以上前のことですが、日比谷と銀座の境目くらいにあったある牛丼チェーン店(今はないと思う)で牛丼を食べていたときのこと。中年の男性が入ってきて、席につくと、店員がお茶を出したのを見て、「水はないの?」と言いました。すると、店員は「お水は言っていただければ」と答えたのですが、その言葉に中年男性は烈火のごとく怒り出し、「水をくれと言わないと水を出さないのか」と文句を言い続けたのです。しかし、店員は、「言っていただければ出します」の一点張り。いたのは若い店員ばかりで、それ以外の言葉を教わっていないようでした。そのうち、男性は、「もういい」と言って、何も食べずに帰っていきました。
 そのチェーン店は、夏は水を出し、秋になるとお茶に替えるという店で、まあ、それはどこもそうだと思いますが、そのチェーン店では店内に、「お水がほしい方はお申し付けください」とかなんとか書いてありました。つまり、「この店では、水がほしい人は水をくれと言え」と言ってるわけです。
 ま、それはいいとして。「水はないの?」に対する返事が「言っていただければ」って、日本語としておかしくないですか? 中学校の英語で習ったでしょ、普通の疑問文の答えはイエスかノーだって。だから、答えは「ございます」、「あります」。で、それに続けて、「今、お持ちします」とか、「お持ちしましょうか」とか言うのが正しい。ここで敬語を使わず、普通に、「あります、今、持ってきます」でも全然オーケー。重要なのは、敬語かどうかじゃなくて、正しい日本語かどうかということ。
 ところが、最近、というか、これはすでに10年以上前の話なんだけど、それよりかなり前から敬語さえ使ってれば大丈夫みたいな風潮があって、それがかえって、相手に失礼な場合がとても多い。(敬語の使い方が正しいかどうかは、今回は触れません。)
 あの中年男性もいい年して大人気ないと思いますが(何も言わずに見ていた私もなんですが)、この牛丼チェーン店では、「水はないの?」に対する正しい答え方を店員に教えてなかった、むしろ、「水が欲しければ言ってくれ」的な教育をしていたとしか思えません。その後、この牛丼チェーン店は、水やお茶は自動給湯器で客が勝手に注ぐようになりました。こういうことをしているのはこの牛丼チェーン店だけだと思います。このチェーン店は、私はほかに入るところがないときしか入りません。メニューもよくないしね。
(追記 このときの店員は全員日本人。当時はまだ留学生のアルバイトは少なかったと思う。)

2010年12月28日火曜日

黄昏から夜景へ

 この前の東京ドームシティの夜景もアクセスがそこそこあるのですが、また、文京シビックセンターとドームシティへ行ってきました(散歩コースなのだ)。
 今回は夕暮れどき。例によってスカイツリーです。その手前のビール会社の金の火の玉も撮ってきました。文京シビックセンターの展望台から。


  展望台からの他の眺め。池袋方面(一番高いのがサンシャイン)、新宿方面(都庁周辺)、すぐ下のラクーアの遊園地。西に雲があって、夕焼けが撮れないのが残念。



 そして、暗くなってからの東京ドームシティのイルミネーション。この前とは違うアングルで。最後の船の左側にウルトラマンがいます。




2010年12月27日月曜日

今日のスカイツリーと猫、「英国王のスピーチ」補足

  今日のスカイツリーはこんな感じ。この前とあまり変わってないかな。

  猫スポット近くのお寺には猫が数匹います。猫のそばにキティちゃんの絵が。

  猫スポットに最近現れた猫。手術済みの印が耳にありました。

  亡くなったすみれちゃんのためのお花は誰かが時々取り替えています。

 そして、恒例の上野公園の木のイルミネーション。この木はイチョウで、葉がすべて落ちてからイルミネーションが始まります。

 ところで、最近、「英国王のスピーチ」の記事へのアクセスが多いのですが、あのあと、ウィキペディアでジョージ六世とエドワード八世についての解説を読んだら、ジョージ六世の母と妻は終世、エドワード八世ことウィンザー公を許さなかったのですね。その理由の1つに、英国を去ったウィンザー公がナチスドイツと親交を持ったことがあるようです。で、その背景として、実は、ウィンザー公の妻ウォリス・シンプソンがまだ彼と結婚する前、彼とナチスドイツの重要人物と二股かけてたんだとか。ウィンザー公が映画で悪く描かれているのにはこうした背景があるようです(ウィンザー公夫妻は人種差別の傾向も強かったらしい)。その一方で、ウォリスを絶対に受け入れようとしない英国王室は、ダイアナを許そうとしなかったのと重なったりして。
 ウィキペディアの2つの記事を読むと、ジョージ六世も映画では理想化されてるところもあることがわかります。ウィンザー公については、ジョージ六世と英国王室の側から見たら悪役でしかないというのもわかります。ナチスと手を結んで王位に返り咲きをねらう、なんて、ほとんど、ミステリーの世界。ウィンザー公の側にも、英国に帰ることを許されない苛立ちとかあったのでしょうが。

2010年12月25日土曜日

英国王のスピーチ(ネタバレあり)

 クリスマスイヴの六本木なんて行くものじゃないが(人大杉)、話題の映画「英国王のスピーチ」の試写会があったので行ってきた。
 「シングルマン」で初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたコリン・ファースが、エリザベス二世女王の父であるジョージ六世に扮して、またまた各賞にノミネートされている話題作。幼い頃から吃音に悩む王を支える妻にヘレナ・ボナム・カーター、王の吃音を治すオーストラリア人にジェフリー・ラッシュ、王冠よりも愛を選んで退位するジョージ六世の兄、エドワード八世にガイ・ピアース、兄弟の父ジョージ五世にマイケル・ガンボン、その妻にクレア・ブルーム、チャーチルにティモシー・スモール、大主教にデレク・ジャコビ、と、豪華共演陣。兄の退位により、思いがけず王になってしまった主人公が、吃音を治す専門家と葛藤しながら、困難を克服して王にふさわしい人物になっていく過程と、その2人の友情が描かれる。
 左利きというマイノリティとして生まれ、その左利きとX脚を幼い頃に無理やり矯正され、乳母からは虐待を受けていたジョージ六世ことアルバート(愛称バーティ)は、その頃から吃音に悩まされるようになる。現代では王族は国民に対して語りかけるのが仕事。父も兄もスピーチがうまいのに、彼は吃音のため、スピーチができない。王室に出入する医者も役に立たず、思いあまった妻が新聞で見つけた町の専門家のところへ夫を連れていく。
 このとき、アルバートはまだ国王にはなっていなかったのだが、それでも国王の次男夫妻がこっそり、お供も連れずにうらぶれた町の診療所に行くのである。なんとなく殺風景でがらんとした診療室で、オーストラリア人の言語聴覚士ローグは、お互いに愛称で呼び合うことを要求し、アルバートと対等の立場で治療にあたろうとする。当然、アルバートは反発。しかし、アルバートのトラウマをときほぐし、効果的な治療をするローグと、アルバートは何度もけんかしながら、しだいに友情を築いていく。
 対立した2人の人物が、けんかしながらも友情や信頼関係を築いていく、という映画はいくつもあるが、この映画ではコリン・ファースとジェフリー・ラッシュのやりとりが見ものだ。「シングルマン」の抑えた演技とは打って変わって、この映画ではファースは、吃音のためにかんしゃく持ちになってしまった男を演じ、怒りを爆発させたり、大声でわめいたり、卑猥なののしりの言葉を叫んだりする。彼はオーストラリア人の平民であるローグを見下す態度をとる。その一方で、吃音のために深い劣等感を持ち、自分は王にふさわしくないと思う。ファースのこうした浮き沈みの激しい演技をひょうひょうと受け止めるのがローグを演じるラッシュだ。「シャイン」で心に障害を負ったピアニストを演じ、すでにアカデミー賞を受けているラッシュは、ここではファースの動の演技に対する静の演技に徹している。治療する立場のローグは、アルバートに対して、ときには父親のようになり、ときには王の道化のようになる。ローグが王の玉座にちゃっかり座ってしまうシーンは、王の道化としての彼の真骨頂だ。
 兄の退位により、ジョージ六世となったアルバートは、ヒトラーの演説のうまさに対抗するためには自分も立派なスピーチをしなければならないと感じる。そのスピーチを作り上げる中で、2人の友情はクライマックスに達する。
 不思議なことに、アルバートもローグも妻や子供たちと一緒のシーンではまるで差がない。かたや王家の一家、かたや庶民の一家であるのに、この2つの家族はまるで鏡に映したように似通っている。どちらも、妻は献身的であり、子供たちは素直で、絵に描いたような理想の家族の姿だ。
 「シングルマン」では、「ひと月の夏」の繊細なファースが帰ってきたような印象を受けたが、この「英国王のスピーチ」の彼は、これまでの長いキャリアで彼が見せてきた、芸域の広い、演技の幅の広い俳優の集大成のように思う。脇で支えるラッシュとヘレナ・ボナム・カーターもいい。特に、カーターは最近はファンタジー映画の暗い役が多かったので、こういう明るくチャーミングな役が見られたのはうれしい。

 と、以上は映画の中心部分について触れたものだけれど、これ以外に、ちょっと気になったことがあった。
 1つは、離婚歴のあるシンプソン夫人との結婚のために王冠を捨てるエドワード八世の描写。私の記憶では、王冠よりも愛を選ぶエドワード八世=ウィンザー公は、仕事よりも愛を選んだ男として、美談として語られることが多かったと思う。ところが、この映画では、彼は人妻との恋に血道をあげて、国王としての責任感のない男として描かれているのだ。シンプソン夫人も、玉の輿をねらう、感じの悪い女性になっている。
 たぶん、これは、ジョージ六世が国王としての責任を自覚し、困難を乗り越えて王になっていく過程を描く映画なので、王冠よりも愛を選ぶエドワード八世は王としての責任を果たさない男という否定的な描かれ方になってしまうのだろう。
 しかし、家系の順番で王になる人が決まる王室の制度なんて、誰が王になったってたいして変わらない面がある。愛する女性が傍らにいなければ王としての責任は果たせない、と言って退位するエドワード八世は、愛する女性がいながら親の意向に従ってダイアナと結婚したチャールズ皇太子よりもはるかに自分に正直であり、自分の人生を自分で選んだ男ではないかと思う。
 シドニー・ポラック監督の映画「追憶」は、1936年、エドワード八世が退位し、シンプソン夫人と結婚したちょうどそのときから始まる。この映画のヒロインは、愛する男と納得のいかない人生を送るよりも、自分の生きるべき道を選ぶ。女性が愛よりも生き方を選ぶということをテーマにしたこの映画が、王位よりも愛を選んだ男性のエピソードから始まっているのは象徴的だ。保守的な世間が考える男と女の生き方とは逆の生き方を、エドワード八世とヒロインはしたことになる。
 それに比べると、この「英国王のスピーチ」は非常に保守的だ。ジョージ六世の妻もローグの妻も良妻賢母であり、男は仕事に生き、女は夫と子供たちのために生きる。仕事よりも愛を選ぶエドワード八世は否定的に描かれる。この映画は全体としては、面白い、よい映画であるが、こうした保守反動の部分を含むことは肝に銘じておきたい。

 もう1つは、この映画を見ていて、昭和天皇の玉音放送が頭をよぎったこと。国民へのスピーチを重要視する英国王室と違い、当時の日本は天皇は現人神なので、国民に直接語りかけることなどなく、天皇はそうした訓練を受けていなかっただろう。昭和天皇は戦後、日本各地をまわり、国民と触れ合ったが、いつも「あ、そう」としか言わないのが印象的だった。玉音放送、すなわち、昭和天皇のスピーチは、英国王のスピーチのような上手なものではなかっただろうが、それでも、メッセージは伝わったのだと思うと、また別の感慨がある。

2010年12月23日木曜日

批判はけなすことではない。

 私も以前、「シングルマン」原作の書評を載せていただいたネットの書評サイト、BookJapanに初めて批判評が載った。
 http://bookjapan.jp/search/review/201012/matsunaga/20101222.html
 扱っている本は、「松本人志は夏目漱石である!」(宝島新書)。
 タイトル見ただけで、こりゃ、受け狙い、売らんがための企画だな、と思わせてしまうものだが、案の定、アマゾンや個人のブログでは手厳しい批判がある。
 書評を書いた松永英明氏は、まず、自分が関西のお笑いのファンである来歴を述べ、その上で、まだ若い、しかも関西を知らないこの本の著者が、東京の、それもテレビの感覚でお笑い芸人を語る問題点を指摘し、また、夏目漱石はじめ文豪との比較もさほど適切ではないことを述べている。
 正直、このサイトで、久しぶりに面白い書評を読んだと思った。
 当の新書は未読なので、この書評が正しいのかどうかはわからない、いや、その前に、私はお笑いも日本の文豪も疎いので、読んでも正しい判断はできないと思う。ただ、この書評が、少なくとも私の興味をひいたのは事実だ。
 BookJapanは、一般からの書評を募集し、主催者が水準に達していると思ったものを掲載するというシステムをとっている。原稿料はないし、ここに書いたから書評家として活躍できるわけでもない。読む人の数もさほど多くはないから、自分のブログに書くのと比べてあまり影響力に差はないかもしれない。でも、自分のブログには来ない人に読まれる可能性は十分ある。だから、私は「シングルマン」原作の書評をブログに書かずに、ここに投稿した。
 自分のことはさしおいて何だが、実は私は、このサイトに掲載される書評が全体的にレベルが低いと感じていた。もちろん、レベルの高いものも載ってはいるが、私だったらこれは落とす、と思うものもあり、そういうものが連続して載ると、がっかりすることもあった。また、一応、水準には達していると思われる書評でも、妙に優等生的にまとめられているものが多い。覇気がないと感じるものが多い。無難に、おとなしく、まとめたようなものが多い。しかも、字数制限がないため、冗長になっているものも少なくない。しかし、上に書いたような状況で募集しているのに、ハードルをあげてしまったら、載せる書評がさらに減ってしまう。それも困る。
 そんな中で、松永氏のような批判評が掲載されたことは、このサイトにとってよいことだと思う。こういうものを書いてもいいのだ、と思う人が出てきて、サイトが活性化される可能性もある。もちろん、「批判すること」と「けなすこと」はまったく別だ、ということを、書き手は心得る必要がある。松永氏の書評は客観的な批判になっているし、最後に著者の今後への期待を盛り込むといったバランス感覚もある。関西のお笑いを愛する自分の来歴を書く必要は必ずしもなかっただろう。関西のお笑いを熟知する書き手として、客観的に批判すればそれで十分だったと思うが、最初に個人的なことを書くことで親しみを持ってもらえるという利点はある。このサイトには、個人的なことを書評に入れる書き手が時々いて、私はそういう書き方に疑問を感じていたのだが、上手にやれば効果的な場合もあるだろう。ただ、個人的なことを強調するのは批評というよりはエッセイなので、このあたりの線引きを書き手は意識して書くべきだと思う(私の注文は多すぎですか?)。注・ここで言っているのは、批評としての書評か、エッセイとしての書評か、ということで、エッセイとしての書評も大いにありだと思っている。
 以上、自分のことは棚に上げて書いているわけだけど、たとえ私の書評がだめでも、他の書評を批評する権利はあると思っている。それはほかの人も同じ。

2010年12月19日日曜日

すみれちゃん

 2週間ほど前、猫スポットへ行ったら、墓地の片隅にビンに生けた花が置いてあったので、もしかして、このあたりの猫が死んだのではないかと心配になっていましたが、このところ、出かけるのが暗くなってからだったので、猫ボランティアの人たちに会えず、詳しい話が聞けませんでした。
 そして、今日(土曜日)、久しぶりに明るいうちに行って、写真を撮っていると、猫ボラの方の1人が来たので、花のことをたずねると、その近くにいつもいた、すみれちゃんという猫が、車にひかれて死んだのだということがわかりました。
 ここの猫はみな、捨てられたのですが(捨てられた猫はみな、ボランティアが避妊去勢するので、子供が生まれることはない)、すみれちゃんがここに現れたのは2年くらい前でしょうか。いつも首をかしげたような様子がかわいいと、訪れる人にも大変人気で、引き取りたいという人もいたくらいなのですが、その一方で、車の通る道によく出ているので心配だ、という人もいました。
 今日、教えてくれた人の話によると、すみれちゃんはこの近くに住む飼い主に捨てられたので、飼い主のところに帰りたくて車の通る道によく出かけていたのだとのこと。近くといっても、どの程度の近くかはわからないですが、ほかの猫は墓地の外には出ていかないのに、すみれちゃんは出かけていたので、飼い主の家に帰りたがっていると思われたのかもしれません。
 猫の写真を撮りに通ってもう3年になりますが、いつのまにか姿が見えなくなった猫は何匹もいます(写真を撮っているのでいつごろからいないのかがわかる)。いつのまにかいなくなるというのは、たいてい、死が近づいて姿を消すのですが、中には、それほどの年じゃなかったのに、どうしたのだろうと思う猫もいます。私は週に1、2回しか行かないので、どうしたのかわからないままのことも多いです。もっとも、半年くらいたって再会することもありますが。

 今年の8月末、いつもの場所で舌を出すすみれちゃん。

 7月のすみれちゃん。この場所が指定席でした。

 先月20日に撮ったこの写真が、最後の写真に。

 今日のスカイツリー。てっぺんからアンテナも伸びています。

2010年12月18日土曜日

全部読んでほしいので引用はしない

愛媛新聞社説
「都の漫画規制条例 守ったものは子ではなく大人」
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201012160373.html

ニコニコニュース
「都条例 「議会傍聴者」に意見きいてみた」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw15252

 上のニュース見ると、若者反対、大人賛成みたいですが、実際は大人もかなり反対しているはずです。PTA会長を名乗る人々が反対表明し始めているらしい。今回の条例は、PTAのごく一部の人たちが推進しているので、大多数のPTAはそのごく一部の人たちとは無関係らしいです(賛成か反対かは別として)。
 その一方で、ゲームやCGも規制されるっていうのに、ゲーム業界の人たちが関心がないとか、無関心な人たちが多いのも問題なようだ。

追記
 あまりにも面白すぎる話題が……って、面白がってはいけないのだけど……
 竹下登氏のお孫さんであり、同人出身のプロの漫画家で、BLやってらっしゃるらしい影木さんという女性が、今回の条例はひどいと思い、いろいろな議員に意見を言ったのですが、その中の1人、三原都議は竹下氏のお孫さんとは思わなかったのか(?)、なんか、ふざけた返事をしたあげく、それを自分のブログに書いちゃったのです。
 三原都議のブログはコメントで激しい抗議を受けていて、ちとリンク貼るのためらうので(でも、mihara-togiで検索できそう)、影木さんの記事だけ紹介。
http://blog.livedoor.jp/eiki2/archives/50965748.html
http://blog.livedoor.jp/eiki2/archives/50965980.html
 いやあ、コミケへ行って、この方の本を買いたくなってしまいました!

追記の追記
 リンクは貼らないけど、影木さんのブログだけではなんだかわからないね。
 その都議さんのブログの記事引用。「目玉は次の方」って……
「たくさんの「条例改正反対」の意見が私に寄せられたが、目玉は次の方である。
 竹下登元首相の孫と称される女性の方だったが、自らも漫画を書くので、「規制強化はしないでほしい」とのことだった。私は最後に「おじいちゃん(竹下元首相)に、過激な漫画をみせたらなんと言うだろうね。おじいちゃんに怒られないかどうか、自己判断して書いてよ」と申し上げておいた。」
影木さんの反論「あと私は「自分も描いてるから規制強化しないでー」とかじゃなく、
ちゃんと条例の問題点と思われるものを具体的にお伝えしたつもりです。」

追記の追記の追記
すばらしいまとめ。
http://mikatatyou.exblog.jp/11739067/

2010年12月17日金曜日

またまた引用

 元衆院議員、保坂展人氏のブログ。
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/e96600efaf6807299e27edbdad261470

一部引用

よくあるトリックだが、「過激な性表現のマンガを子どもたちに見せないようにするゾーニング」に、妄想たくましく「表現の自由」を振り回して抗議する愚かな輩という石原流のメディア操作の図式が目につく。こうした浅はかな流れに乗って垂れ流される情報の力=世論こそ、今回の都議会民主党内の「反対論」をねじ伏せた正体だ。」

「『ドラえもん』の隣に「過激な性表現のマンガ」が置いてある書店・コンビニなどは、そもそもない。マンガ規制条例にマンガ家のみならず、文化・芸術・表現に関わる多くの人が声をあげたのは、「過激な性表現のマンガを子どもたちから遠ざける」ことに反対したのではない。今回の条例の規定が「著しく曖昧で、監視当局の裁量のままに暴走する恐れがある」ことに、多くの人々の危惧は集中している。」

「「刑罰法規」という目でマンガを見渡せば、無限に事例は出てくる。こうして、一度始めた規制は、「性行為」の枠を超えて表現全体に襲いかかる可能性がある。」

99年に国会で成立した「国旗・国歌法」は、「教育現場に影響を与えない」(野中広務官房長官)が答弁を重ねたが、「その答弁は間違っている」という東京都教育委員会によって、教員の大量処分を生んだ。そんな都知事の下で、「付帯決議」で「慎重な運用」を約束することにどれだけの意味があるのか。」

「都民の不安・不信を払拭するために、条例はゼロから見直す。出版物のゾーニングは、警察主導の治安対策本部から、一般部門に移行する…ぐらいの政策を持つ(新都知事)候補が勝つことで、今回の悲劇は転換出来る。」(石原都知事の任期は来春まで)

 現在発売中の「週刊朝日」では、この「青少年健全育成」が警察による治安維持になってしまっていることが指摘されています。

 最近見たフランス映画「神々と男たち」という作品の中に、アルジェリアで教師をしていたヨーロッパ人の女性2人が、生徒に、「恋をするのは自然なこと」と教えたら、15歳の少女に通報されて、過激派に殺されるという事件が起きた、という台詞がでてきた。ゆえに恐ろしいのは原理主義(今回の条例可決も、キリスト教原理主義の団体がかかわっているとの指摘あり)。
 おっと、この映画はイスラムを批判する映画ではなく、イスラムを尊重し、奉仕活動をするフランス人のキリスト教修道士たちの物語です。そのうち、詳しい紹介を書きます。

2010年12月16日木曜日

その後の資料

 今回の都条例の件では毎回、役に立つ情報を提供してくださった、てんたまさんのサイトに、可決後のマスコミなどの反応をまとめた記事が出ました。
http://angels-pathway.clanteam.com/What_to_do_101123.html#a101215

 東京都で決まると他の自治体に波及するということで、他の道府県の新聞が反対の意思や懸念を明らかにする社説を載せているようですが、以下は北海道新聞の社説。ここはホッケーがらみで北海道の人、わりと来ていそうなので、すでに現物の新聞でお読みになった方もいるでしょう。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/264601.html
 少し引用。
「同様の条例案は6月議会で一度否決されている。都議会はあらためて改定の重大さを自覚すべきだ。
 とりわけ、今回一転して賛成する民主党の責任は重い。13日に可決した総務委員会は、慎重な運用を求める付帯決議も行ったが、法的拘束力はない。
 子供にどんな漫画がよいか、どんな情報が役に立つかは、多様な情報に触れる中で家庭や地域社会が学ばせ、子供自身が学ぶことだ。戦前の言論統制が、わかりやすい漫画本などの規制から始まったという歴史にも思いを致す必要がある。
 一部の漫画に対する素朴な嫌悪感が、最も大切な自由を差し出すことにならないとは限らない。」

 一番最後、「一部の漫画に対する素朴な嫌悪感」というのは、以前、私がここで書いたことに重なります。つまり、不快、嫌い=有害としてしまわないかということです。

 実はこの条例、漫画規制はおまけで、本当はネットや携帯の規制が主目的なんだそうで、ツイッターは18歳未満は利用できなくなるかもしれないのだとか。確かに、今回、反対のツイッターをいろいろ見ましたが、なんか、おおっというような絵がたくさん出てたりしましたね(条例に触れるほどではなかったですが)。
 実際問題として、漫画規制のやりやすさに比べたら、ネットと携帯は規制が非常にむずかしく、むずかしいから反対、みたいなことにもなるかも。逆に言うと、やりやすい漫画を槍玉にあげて表現の自由を奪うというのは本当に許せないと思います。

 個人的には、今回はツイッターが大変役に立ちましたが、ふだんはツイッターはあまり見ることもない人間(もちろん、やっていない)で、ネットや携帯の規制は私には今ひとつよくわからないところが多いです。この辺はこれから勉強しなくては。
 漫画規制については、映画や書物など、他の分野にも波及する恐れがあるので、他人事でない、ということが1つ。もう1つは、私自身、15年ほど前まで、コミケやその種の同人誌即売会に出入して、アマチュアの漫画家や小説家と多く知り合ってきたこと、そして、私自身、いわゆるJUNE小説を書いて販売していたという前歴があるのですね(幸か不幸か、引越で、売れ残りはほとんど捨ててしまい、ご希望の方がいてもお見せできませんが)。だから、今月のコミケがどうなるのか、大変気になるところです。15年ぶりに行って、かつての仲間がいるか、見てみようかな。
 それにしても、今回の規制や、都知事の同性愛差別発言、天国の栗本薫氏や石原郁子氏はどう見ているでしょうか。怒りくるってるかも。

2010年12月15日水曜日

条例可決

 本日、例の東京都青少年健全育成条例改正案が自公民の賛成で可決されました(共産党と生活者ネットワークは反対)。
 すでに予想されていたことですが、この条例の背後にある問題点が次のサイトで指摘されています。
http://www.daimokuroku.com/?index=intsai&date=20101215

 いくつか引用。

「実は、その前に東京都治安対策本部に出向してきている警察官僚の人事異動がありました。それ以降、従来の「相談しながら決めていく」ことが通用しなくなったのです。現在の都治安対策本部のキャリア官僚は、国会で廃案になった児童ポルノ法改正案へのリベンジと考えています。単純所持禁止も含めた規制によって児童に関する治安維持を図ろうとしてきたキャリア官僚にとって、国でできなかったことを都でやったということになれば、警察に戻ったときに道が開けるわけです。」

「6月に否決された後、都青少年課と東京都小学校PTAの幹部の方は、都議の選挙区72ヵ所を回って、キャンペーンを展開しているんです。これが一番効果がありました。」

「子どもの人権を蹂躙して、金儲けの道具にすることはやってはいけない。ただ、現行の法律で取り締まることができるんです。児童買春・児童ポルノ処罰法などは非常に重い罰を課しています。ところが、被害者たる子どもをケアしたというケースが見あたらないのです。人権を守るための法律なのに、加害者は罰せられるが、被害者が救済されない不思議な法律です。さらに、マンガやアニメの場合は被害者が存在しない。児童ポルノ法にマンガやアニメを加えるかどうか、という議論が3年ごとの見直しでもあり、結果としてマンガやアニメは児童ポルノ法の対象外になってきました。これを形を変えて対象に含める、というのが今回の条例改正です。」

「現行の条例でも「不健全図書」を判断、審議するという第三者委員会があります。ところが、これらの委員会の決定は多数決ではないのです。ひとりでも「クロだ」と判断すれば「クロ」です。まったくマンガが理解できない人が委員になってしまうと、全部「クロ」にされてしまう危険性もあります。」

 2番目の引用にもあるけれど、今回の件、やはり、反対派が完全にしてやられたという感じです。私もこの問題を知ったのは今年の春だったし、否決されたら忘れていたので、人のことは言えないのですが、こういう問題は絶対忘れてはならないし、これからも目を光らせていなければいけないと思います。

神奈川県は東京都よりすごい

 これ見てください。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/seisyonen/jorei/siryou2-kisoku.pdf
 いやあ、長いんで、最初の方しか読んでないんですが、青少年に見せてはいけないものについて、具体的にしっかり書いてあります。
 東京都の方はあいまいで、これでは限りなく範囲が広がることが懸念されているのですが、神奈川県の具体性は逆に恐怖。
 東京都の方は、アニメフェアへの出版社のボイコットが広がりを見せていたり、メディアも一部、取り上げていたりと、反対の動きは相変わらずあるのですが、民主党が党議拘束かけて賛成にまわるようで、こりゃもうあかん、な感じ。その上、てんたまさんのレポート読むと、すでに漫画家や出版社の方で自己規制が始まっている模様です。
http://angels-pathway.clanteam.com/What_to_do_101123.html
 東京都の条例は、これが可決されると前よりきびしくなるのかというと、必ずしもそうではない気がしているのですが(実際、これまでの条例や法律でも十分取り締まれるという意見が多い)、新しい条例が可決されることによって、自己規制などで表現が萎縮するとか、あるいは、条例のせいで、悪いことをしていないのに白い目で見られるとか、そういった社会的影響が出ることが気になります。
 たとえば、荒川区の、野良猫に餌やったら罰金条例(正式名称忘れましたが)は、適用にいたるまでにいくつもハードルを越えないといけないので、事実上、適用ができない状態なのですが、この条例ができたせいで、地域猫の世話をしている人が暴力をふるわれる事件が起きたりしています。つまり、条例ができる=猫に餌やる人は悪人=だから暴力をふるっていい、みたいな理論で動く愚か者が出るってこと。
 今回の青少年健全育成条例でも、反対する人はエロを擁護する悪人みたいに思う人がいるように。成人が成人向けのエロを見ていただけで暴力ふるわれるようにならなきゃいいが。
 あとは、1920年代から30年代のアメリカの禁酒法みたいなことにならなきゃいいが、と思いますね。お酒を禁止するものだから、ギャングが密造酒を売るようになり、そして、飲酒の年齢制限がなくなったから、逆に、未成年や子供が平気でお酒を飲むようになったという。
 子供に禁止する=世の中から追放する、にならない方法を作らないといけないのです。

追記
 有害図書とか、不健全図書という言い方がすでに危ういというか、そういう言い方には、子供には有害、不健全だけど大人には無害であり、不健全ではない、という考え方はないと思います、たぶん。
 また、前から書いているように、近親相姦=不健全という考え方は私はおかしいと思うし、そういう考えを植えつけると、たとえば、ひっそりと暮らしている相思相愛の近親相姦のカップルがいて、子供もいたりする場合、そのカップルと子供が差別迫害を受けるのは間違いないでしょう。
 このマンガが読めなくなる、とか、そういうことより、こういう影響の方が心配です。

2010年12月9日木曜日

わたしを離さないでA Movie(少しネタバレ)

 カズオ・イシグロのベストセラー小説「わたしを離さないで」の映画化の試写を見に行きました。
 原作を読んだとき、これは映画化は絶対うまく行かないだろうと思いましたが、残念ながら、予想どおりの結果に。
 「わたしを離さないで」は「日の名残り」と同じく、世間から隔絶された状態にいる主人公が、その事実を認識しないまま、過去を振り返るというスタイルをとっています。主人公はどちらも狭い世界しか知らず、その限られた知識と思考の中で自分の物語を語るという形になっています。
 しかし、映画は外からの描写になるので、限られた知識と思考しか持たない主人公を外から描くことになります。そのため、主人公の一人称に感情移入しながら読む小説に比べ、映画では主人公を内面から描くことには限界があり、主人公は客観的に見られるようになります。
 ジェームズ・アイヴォリーが映画化した「日の名残り」にもその傾向は大いにあったのですが、アイヴォリーは原作の中のE・M・フォースター的な要素を引き出すことで、「眺めのいい部屋」、「モーリス」、「ハワーズ・エンド」に連なる作品として成功させることができたのです。
 しかし、「わたしを離さないで」(マーク・ロマネク監督、アレックス・ガーランド脚本)にはそうしたとっかかりがないため、ヒロイン、キャシーの内側から見た物語を、そのまま、外側から見た物語に変えただけになっています。
 原作はキャシーのトミーに対するせつない恋愛感情が全体の中心になっていて、その哀しみが主人公たちの人生の哀しみに重なり、失くしたものが戻ってくるというゴミ捨て場のラストでせつなさがクライマックスに達していました。しかし、映画はゴミ捨て場を始め、原作の重要なシーンをあえて切捨てていますし、また、外側から描くということからか、キャシーの恋愛感情にすべてを集約させることもやめているように思えます。
 そんなわけで、原作に比べるとあまり感動できないし、原作のダイジェストのような感は否めないのですが、外側から描いたことで非常によくわかるようになったことはあります。
 それは、キャシーやトミー、ルースといった、ある目的のために生み出された提供者と呼ばれる人々が、どうして運命に逆らおうとしないのか、という疑問の答えがはっきりするということです。
 彼らは普通の人間の持つ自我がない、あるいは、自我が確立されていないということがわかるシーンが何度も出てきます。大人になっても、彼らの精神状態は未熟です。彼らが運命に逆らおうとしないのは、運命に逆らうだけの自我がない、知識もないし、そういうことができるような発達をしていない。隔離されていた子供時代には外界から切り離され、普通の子供が受けるような教育を受けず、また、普通の子供のような成長もない。彼らは成長する必要のない人間だから。唯一、トミーだけが、怒りというものを時々爆発させることができるけれども、その怒りは大声で叫ぶとか、その程度のもの。何かの原動力になるような怒りではない。ましてや、トミー以外の人々は、運命を受け入れること以外、何も考えることができない。
 もしも彼らが普通の人間だったら、これは恐ろしい話です。人間をそういう無力な人に育ててしまう恐怖を感じるでしょう。しかし、この物語では、彼らは、石原都知事の差別発言じゃありませんが(下の記事参照)、彼らは人間になるには何かが足りないのです。それは自我かもしれない(たとえば、レストランで人と違うものを注文できるとか)、未知の世界に対する知識欲かもしれない、自ら調べ、自ら考え、自ら行動する力かもしれない。そうした、人間の成長に期待されるものを、彼らは獲得できないまま一生を終える。それは彼らを教育した人々のせいだとは必ずしも言えない。彼らにはもともと、こういうことについて、限界があるのだと思わせる。
 もしも、彼らが知的障害者として描かれたら、これまた恐ろしいことです。臓器移植を認めることに反対する意見の中には、知的障害者が利用されることを恐れる意見がありました。もちろん、この映画はそういう方向には向かいませんが。
 たぶん、上に書いたようなことは、原作の中にもあったことなのでしょう。翻訳の文章があまりにも流麗なので、キャシーの恋愛感情があまりにもせつないので、そのことに気づかなかったのかもしれない。でも、イシグロがスタッフに加わっているこの映画化では、上に書いたような問題を積極的に提議しようとしてはいません。もしも積極的に問題提議していたら、この映画は原作とは違う面白さを獲得したかもしれませんが、実際は、未発達な彼らは自分が未発達だということを知ることもなく、人間はいずれは死を受け入れなければならないのだという妙な諦観で映画は終わるのです。
 それでも、上のようなことが前面に出てきたことは評価していいでしょうが、原作を読まずに映画だけ見ると、誤解を生みそうな気がします。

2010年12月8日水曜日

東京都青少年健全育成条例その後

 例の、東京都青少年健全育成条例は、どうやら可決されてしまいそうです。なんたって、民主党が賛成にまわりそうな雲行き。
 しかし、反対派は可決されたからってあきらめないはずだし、あきらめる理由なんか何もないわけです。
 今週は「週刊朝日」、「週刊プレイボーイ」、「週刊金曜日」に相次いで、この問題が取り上げられました。本当に、いい加減で、しょうもない条例だと思います。
 それに加えて、石原都知事の、再三の同性愛差別発言て、どうなんでしょうか。テレビで放送されたり、ネットでニュースとして流れたりしているのですが、都知事の問題発言はもう、ボケかましだ、ほっとけって感じなのか。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html
(追記 石原都知事のホモフォビア発言は、英語に翻訳され、世界中に流れています。ishihara shintaro homosexualでぐぐってみればわかります。)

 それはともかく、この条例に関しては、ネットでさまざまな意見が書かれていますが、私が一番共感したのは、内田樹氏の次のツイッターです。

東京都の条例について、共同通信に1100字の原稿を書きました。新聞記事としてはずいぶん長いですね。前にブログに書いたことと同じですけれど、他人の表現について「これはよいが、これはダメ」というようなことを統計的に何の根拠もないまま、政治家たちが主観的な印象に基づいて決定し、強権的に表現を規制できるという政治的「事実そのもの」が、社会を非寛容で攻撃的なものにすることは間違いありません。それによって「他者や異物に対して非寛容で攻撃的な子どもたち」を組織的に生み出すことによる災厄の責任は誰が取るのでしょう?

 一方、ネットでは、反対派の中にも、規制は必要だ、見たくないものを見ない権利もある、みたいな主張もあります。あるいは、有害な表現とそうでない表現がある、とか。
 上の内田氏は、ブログで、「有害な表現は存在しない。表現が有害な影響を与えたと証明されたことはない」と主張しています。
 この主張には賛否あるでしょうが、多くの人にとって、見たくない表現、有害な表現というのは、本当は、その人にとって、「不快な表現」なのではないかと思うのです。
 蛇が大嫌いなので、蛇が出てくる映画は見られない、とか、レイプシーンがあるといやだとか、同性愛は嫌いだとか。
 同性愛を差別すべきではない、と思っている人でも、自分の中の「同性愛がイヤだ」という気持ちは消せない人もいます。
 今回のように、小説や映画は問題にされず、マンガやアニメばかりが問題にされるという背景には、おそらく、リアリズムから極端にはずれているマンガやアニメに対する不快感があります。言ってみれば、非実在フォビアみたいなものです。リアリズムから離れたものを不快に思うという傾向は、確かにあると思います。
 問題は、自分が不快に思い、見たくない表現のことを、有害と称してしまうことです。
 人は少数派や異質なものに不快感を持ちます。これは人間の防衛本能でもあるので、完全に消すのはたぶん無理。理性で対応するしかない(同性愛が嫌いでも、存在は認め、差別しない、など)。
 PTAに所属するある女性が、都職員が開いた条例の説明会で見せられたエロ本が、どう見てもコンビニや一般書店で売られているものではないと感じ、その後、コンビニや書店をまわってみたけれど、やはり売られていない、つまり、都職員は、コンビニでは売ることができないエロ本を持ってきて、こういうのがコンビニで売られているというように説明したのだとわかって、そのことを他の人々に伝え、しだいに他の人も彼女の意見、この条例がおかしいという意見に同意するようになった、ということをブログで書いていました。この女性の努力にはとても頭が下がるのですが、その一方で、彼女は、民主党は夫婦別姓を押し付けようとしているから本来は支持していない政党だ、とも書いています。
 夫婦別姓は、別姓を望む人だけが選べばいいもので、同姓を選びたい人(おそらく大多数はこちら)は同姓を選べます。しかし、夫婦別姓が認められたら、同姓がいい人も別姓にしなければならなくなる、と考えて反対している人が少なくないです。
 なぜ、マジョリティである同姓主義者は、マイノリティである別姓を希望する人を恐れるのでしょう。例の「シングルマン」で、主人公が大学の講義でマイノリティの問題について学生に話す中で、こんなことを言います。「マイノリティはマジョリティにとって脅威になったときだけ、マイノリティとなる。もしも、このマイノリティが一夜にしてマジョリティになったら、彼らは何をするだろうか」
 夫婦別姓を認めたら、夫婦別姓がマジョリティになる、ということを反対する人は恐れているのです。同性愛についても、同性愛がマジョリティになることの恐れが差別の背景にあるのでしょう。実際は、別姓や同性愛がマジョリティになることなどありえないと思うのですが。
(なお、上記、PTAの女性がとった行動は尊敬に値する行動なので、別姓論議とは別に、大いに評価しています。)
 自分の嫌いな表現、不快な表現を認めると、嫌いなもの、不快なものがマジョリティになってしまうという恐怖が、こうした問題の背景にあるのだと思います。「シングルマン」の原作者、クリストファー・イシャウッドの半世紀前の指摘は実に名言です。

 と書いてきたところで、「子供に見せたくないという話なんだよ」という声が聞こえてきそうですが、まず、今回の条例では、一口に子供と言っても、赤ん坊から17歳の高校生や社会人まで子供なんで、そこがまず問題。
 次に、子供に見せたくないもの、がどういう基準で決められるのかそこが問題。
 その基準を決める大人の考えが、実は、有害な表現=不快な表現であって、その不快さが存在するのがイヤだから完全排除、みたいな基準であったとしたら、それはまさに、内田氏の言う、「他者や異物に対して非寛容で攻撃的な社会になり、その結果、他者や異物に対して非寛容で攻撃的な子供たちを生み出す」ことになるのだと思うのです。特に、婚姻は禁じられているが法律違反ではない近親相姦と、表には出てこないが同じ条件の同性愛の部分に、非常な危機感を感じます。「表現の自由」とか「表現の美学」などは、「他者や異物に対する不寛容と攻撃につながる教育の問題」に比べたら、二の次、三の次でしょう。

2010年12月6日月曜日

紅葉&スカイツリー

 カメラを持って散歩していたら、東大の三四郎池のあたりも紅葉が見ごろでした。






  そして、今日のスカイツリー。東大病院の近くからこんなにドーンとよく見えます。

  そこから東に下っていくと、上野公園の不忍池に出ます。そこでもスカイツリーが。

 不忍池のカモメ。羽ばたいているところを撮るのはむずかしい。

 スカイツリーといえば、昨日(土曜日)、日光から東武線で帰るとき、北千住の少し手前、荒川を渡るときに、展望台に灯りがついたスカイツリーが夜空に浮かんで見えました。もう、いろんなところから見えるね。

2010年12月4日土曜日

古河電工メモリアルデー

 霧降でのバックス対クレインズ戦、バックスの前身、古河電工アイスホッケー部のメモリアルデーになるというので、じゃあ、行ってみようかな、と、チケぴでチケット検索したら、なんと、クレインズのベンチ裏の最前列があいている! こりゃ行かなきゃ、と思って、買って、行ってきました。
 バックスは古河仕様のジャージを着用、ということで、こういうときはしっかり練習から写真を撮りに行かないといけないのだが、霧降は今季は1時開始で、朝が弱い私はやっぱり試合開始10分前にようやく着いた。なぜか、今日は観光客っぽい人が多かったり、タクシーにすぐ乗れなかったりと、9月とはだいぶ違う。日光はすでに紅葉は終わり、枯れ木も山のにぎわいに変わっています。
 さて、霧降に着くと、まず、古河電工の時代の写真やジャージがたくさん飾られていました。私はこの時代は全然知らないのですが、とりあえず、写真はしっかり撮ってきましたよ。
 そして、試合開始前には、古河電工の写真などがスクリーンに映し出され、OBによる記念フェイスオフもありました。マスコットも登場。
 しかし、試合の方は、なんだかあんまり面白くない。クレインズがずっと優勢で、勝ったのだけど、クレインズ、東伏見の日韓集結で感じたような強さをまるで感じない。バックスは、私は今年はまだ1度もバックスが勝つところを見ていないのだが、今年の1月からまるで変わっていない感じ。そのバックスに合わせてしまったのか、あるいは、クレインズも不調なのか、なんだかぎごちなく、のったーらとした展開で、正直、飽きてしまった。3ピリになってようやく、スピード感が出てきたけどね。
 石川、福藤の両ゴーリーはすばらしかったですが、試合自体がなんとなくでれっとしてるので、ビッグセーブしても興奮しないんだよね。
 クレインズのベンチ裏とはいっても、まわりはバックス・ファンばかりなので、クールに見ていましたが、そうでなくてもクールになってしまうような試合でした。でも、久しぶりにクレインズの選手の背中が目の前にあるのは楽しい。ドア係のキヨちゃんもすぐ目の前。

 ところで、試合終了後、まだ明るいので、東照宮方面のハイキングコースを歩いていたら、後ろからジョギングする人の足音が。歩道の端に寄ると、その人は追い抜いていきましたが、なんだか、クレインズのジャンパーみたいなのを着てる。しかも、背中の上の方には小さく42の数字。え? 帽子をかぶっていたので、髪の毛で判断できなかったのですが、もしかして、あの選手?
 でもね、まさか、違うだろ、と思っていると、今度は、後ろから2人がジョギングしてくる足音が。狭い歩道で2人が来たもんだから、追い抜くときに、1人が私にぶつかってしまい、「あ、すみません」とその人は言って、そのまま走っていきました。で、その人もクレインズのジャンパーみたいなのを着ていて、背中の上の方には21の数字。え? もう1人の番号は覚えていないんだけど…。
 でも、試合終了直後に選手がジョギングして宿かどこかへ帰るものなのだろうか、という気はしますが、果たして?

 というわけで、写真です。











 クレインズの守護神、石川選手は日光出身なので、おそらく、古河電工には思い入れがあったことでしょう。

 帰りの東武日光駅で。もう暗かったので、フラッシュを使ったら、ポスターが光ってしまいました。
 

2010年12月2日木曜日

東京ドームシティの夜景

 恒例の東京ドームシティのクリスマス・イルミネーション。今年は流れ星のイルミネーションがいっぱいですが、そのかわり、他のイルミネーションがしょぼい感じもします。これは回転木馬のそばの万華鏡。

 船のイルミネーションは去年の使いまわし。

 でもって、これはムーミン・カフェ。一度入ったけど、高いわりに満足感がなかったような気が。

 ドームではボン・ジョヴィのコンサートをやっていました。


 ボン・ジョヴィ帰りのみなさま。右にウルトラマンが立っているのがわかるでしょうか。クリックして大きくしてみてね。

 そして、今夜のスカイツリーは某所の展望台からの夜景。ツリーの下に、某ビール会社の金色の火の玉が写っていました。撮ったときは気づかなかったよ。これも大きくしないとわからないかな。

2010年12月1日水曜日

セイバーズのニュース

 開幕以来、負けが込んでいて、ニュースを書く気にもならなかったセイバーズですが、訃報が飛び込んできました。
 現地時間11月30日、バッファローのラジオで、元セイバーズの番記者だったジム・ケリーがガンで亡くなったというニュースが流れたそうです。長年、バッファロー・ニュースで活躍し、ハシェックとのトラブルでも有名だったケリーは、その後、カナダに拠点を移し、sportsnet.caでNHLに関するコラムを執筆していましたが、30日にも新しい記事がアップされ、死の直前まで記事を書いていたことになります。
追記 スポーツネット・カナダに訃報が出ました。
http://www.sportsnet.ca/hockey/2010/11/30/kelley_passes_away/

 また、セイバーズは現在、身売り交渉中。もともと今のオーナーはホッケー・ファンではなく、バッファローにチームを残すためにオーナーになったという経緯があり、しかも、数年前からフロリダに移住して、チームとは離れた存在になっていました(もともと、金は出すけど口は出さないオーナーだった)。現オーナーはすでに高齢で、セイバーズのようなチームではなかなか黒字は望めず、資産も減り続けていたため、新オーナーを探していましたが、バッファローから移転させないという条件を出していたため、例のハミルトンにチームを移転させたい富豪を断ったりしていたのですが、今回はニューヨーク西部に住んだことがあり、セイバーズ・ファンであるフィラデルフィアの富豪が交渉相手とのことで、1、2ヶ月中に正式決定するとの話が出ています。

書評を書きました。

BookJapanという書評サイトに、「シングルマン」の原作の書評を書きました。
http://bookjapan.jp/search/review/201011/shindou_junko/20101130.html
(リンク切れのため、次のサイトでお読みください。http://sabrearchives.blogspot.jp/2015/02/bookjapana-single-man.html

 以前、このブログに「シングルマンを読んでいます。」という記事を書きましたが、あれはまだ途中までだったので、マイノリティがどうのという話しか書けませんでしたが、その後、最後まで読んで、これは単なるマイノリティの話ではないと思い、考えた末、書評の投稿を求めている上記のサイトに問い合わせ、投稿をして掲載していただきました。
 このサイトはまず、問い合わせのフォームで投稿についての問い合わせをして規定を送ってもらい、それから規定に従って投稿することになります(もちろん、原稿料はなしよ)。

 映画書の書評は最近、何度か書いていますが、小説の書評は実に20年ぶり。20年前はカズオ・イシグロの「日の名残り」でした(3号で消えた「ブックガイドマガジン」の第1号)。中央公論社から最初に翻訳が出たときのことです。

                  「シングルマン」原書