2011年9月26日月曜日

AL公式サイトの記録を見て

 まだ4試合、王子とドラゴンはまだ2試合しか消化していないのですが、AL公式サイトの記録をちょっと見てみました。
 うーむ、ゴール、アシスト、ポイントのランキングは上位が欧米出身選手と韓国人選手ばかりじゃ。日本人は唯一、鈴木貴人(バックス)が上位に。つか、上位はバックス、ハルラ、ハイワンだけじゃないか。そして、ただ今、ハルラのラドンくん2冠。今季は契約切れる年なんで、次の契約のために相当がんばるものと思われます。
 そしてゴーリーのランキングはもちろん、福藤豊(バックス)ダントツ1位。なんといっても被シュート数20本で1失点の計算。おまけに今季のバックスは(まだ4試合ですが)、5シュートで1得点くらいの効率のよさ。つまり、福藤が60本シュートを浴びて3失点で、バックスが20本シュート打って4得点すればバックスの勝ち、って、確かに4試合ともそういう勝ちのような気が…。
 つまり、バックス勝ってるんですが、実際は攻められっ放しの時間が長い試合なのでは、と思ったら、まさにそれを臨場感あふれる記事と写真で示してくれているブログがありました。
http://x-trap.blog.so-net.ne.jp/2011-09-25
 いや、これ、写真もすごいですよ。福藤の胸に突き刺さるパックがばっちり写ってるし。
 間のコメントがまた、苦節ン十年の苦しみに耐えてきたバックス・ファンの、これってほんとだろかとほっぺたをつねりながらもうれし笑いがこぼれるみたいな感じがあらわれていてほほえましいというか、笑ってしまうのですが。
 西武がいなくなって東伏見では集結戦しかなくなって以来、この2年間、やっぱり近場のバックスの試合を一番多く見ることになりましたが、ほとんど負け試合で、なんで勝てないのかなあ、と、ひとごとながら考えてしまうことが多かったです。
 菊地、福藤と、日本を代表するゴーリーがやってきて、他の選手もグレードアップしたのに勝てず、2年連続6位。とにかく点が入らない。点を取れる人がいない。2連戦だと2日目はバテバテ。そんな印象のチームだったのです。上のブログの方が、5点取った時点で、3試合分の点を取ったと書いてますが、まさにそういう感じのチームでした。
 それにしても、村井監督のコメント、「4連勝に浮かれることなく次の勝ち点3を取ることに集中したい」って、以前だったらクレインズの監督のコメント…。まあ、バックスも、今みたいに打たれっぱなしだけど勝つ、みたいなのだと、先行き不安な気もしますが。次のクレインズ戦が、どちらにとっても試金石かもですね。クレインズは完全アウェーの方がリラックスできるかもしれないし。

2011年9月25日日曜日

ありゃりゃ

 今日はFMくしろ、最初から最後まで聞いてました。重野さんの解説は面白いね。これまではファンの方のブログに解説の一部を紹介してくれているのを読んだだけだったけど。
 しかし、どうしたのだろう、クレインズは。昨日の完敗はまあ、しゃあないとして、2ピリ終了で4対2で逆転負けするか、普通、クレインズが?
 けが人が戻ってきたばかりで戦力が整っていないのだ、という見方がありましたが、たぶん、ブレイズと同じで戦力未調整の部分があるのでしょうが、しかし……
 今回の釧路シリーズ、ハイワンに移籍したダーシが初めて釧路で敵としてプレーしたんですよね。昨季はけがで釧路には来たけれど(コーチ兼任)、出場はしなかったはず。
 で、なんか、通の方のブログ見ると、ダーシがゴール前に入るのを放置してるって…。
 クレインズはダーシに遠慮してるのだろうか。
 いやいや、ダーシの執念がすごいのだよ、きっと、とは思いますけどね。古巣には負けたくないものね。しかも、戦力外されたんだから。
 昨季、東伏見で見たダーシは、リーダーシップを発揮して、すでに中心選手になっていました。上野とのコンビがよくて、その上野がバックス移籍したので、ダーシも来るかという噂が流れましたが、やはりハイワンはダーシと井上は手放さない。やっぱりこの2人が要だもの。
 OTであっけなくダーシにやられたとき、ラジオの音がしーんと静まり返りそのあとも静まり返ったままで、語りべさんと重野さんもちとお葬式ムード。ラジオではハイワンが得点すると、歓声が聞こえるのですが、井上選手のファンの方たちだと思います。放送席のそばのアウェー側の席にいるのでしょう。昨季は上野ファンもハイワン側にいたのだよね。
 釧路アリーナは入場者数も775人と、なんかさびしいねえ。昨日は1000人以上入ったけど、負けたからか。少年ホッケー大会が同じ時間にあったせいもありそうですが。
 霧降は超満員のようで、今週末のクレインズ戦のチケット見てみようと思ってイープラスにアクセスしたら、アクセスが多くてつながりませんでした(ほかの公演のせいかもしれないけど)。バックスは今日も快勝のようです(でも、入場者数は減ってる)。

 NHLではすでにプレシーズンが始まっていて、セイバーズはカロライナ、ハブスに連勝、そしてこの週末はリーフスとのホーム・アンド・ホームで連勝と、ただいま負けなしの4連勝です。オフには地味にいい補強をしたようで、マスコミの評価も高いみたいです。
 なお、セイバーズOBのテッポ・ヌンミネンが3人目のアシスタント・コーチに就任しました。3人目なのでベンチ入りはしないようですが、今でも人気の高いテッポのスタッフ入りをファンは歓迎しています。

新学期が始まるので

 ちとプチうつ状態です(?)。
 水曜は午前中に暴風警報が出て、休校になりましたが、始まるのが遅くなるとうつ状態が続いてしまう。5月病ならぬ9月病です。その上、某大学(上とは別)の不正行為学生の厚かましい抗議とかで。
 昨日は関東でようやくアジアリーグ開幕。バックスが2桁得点でブレイズを撃沈。しょっぱなに「日光のみなさん、はじめまして」とばかりに韓国の至宝ソン・ドンファンが2得点、そのあとも取るわ取るわ、1ピリは打てば入るの6シュートで5点、その後も少ないシュートで効果的に点を重ねていくのですが、橋本が不調だったのだろか(現地行ってません)。
 そんなわけで、喜び疲れのバックス・ファンに対し、北海道開幕2週目、釧路開幕のクレインズはハイワンに完敗してしまい、こちらはがっかり疲れだろうか、公式サイトにゲームシートがまだあがっていない。釧路は今季、FMくしろがネットで実況してくれるので、一部聞きましたが、やっぱりネットラジオはいい! ホッケーはテレビもいいけど、ラジオだと現地へ行きたくなるので、とりあえず、アジアリーグは全試合ネットラジオやってほしいです。釧路はustreamで動画配信もしてたらしいけど、こっちは探せなかった。動画配信もすればもうNHL並み、いや、だただからNHL以上ですよ、釧路。
 ブレイズは外国人選手の合流が遅れたのが影響している、というのが大方の見方ですが、バックスは今季は外国人2人とも成功のようです。ウィンガーがゴール量産、センターがアシスト量産(と思ったら、外国人2人ともセンターでした。コゼックがゴール量産、ボンクがアシスト量産な感じ。タイプの違うセンター2人が活躍って理想)。おまけにドンファン、上野がゴール量産。福藤絶好調のよう。昨日の夜、ああ、そういえば、菊地が引退しちゃったんだ、と思い出して、さみしくなったけど。
 ハイワンは井上よさげだし、ダーシも活躍してそうで。ラジオで解説者の方が、「クレインズはフェイスオフが得意じゃない」と言ってましたが、デレク、ダーシといったナンバーワン・センターがいなくなったあと、いったい誰がナンバーワンに、と思っているのですが、まだ現れていないのか、ナンバーワン・センター。
 というわけで、今日は日光と釧路が午後2時開始。北京では昨日に引き続き、ハルラがドラゴンと対戦です。来週は日光はクレインズ戦ですか。ちょっと行ってみたいけど、霧降は超満員のようです。

 台風の翌日、夕方から雨になりましたが、前日台風だし、今日も雨だと猫がおなかすかしているのではないかと、雨の中、猫スポットに出かけたら、やっぱり空腹猫にまとわりつかれて大変でした。空腹じゃないときは全然ぶあいそうなくせに。
 この猫スポットも、いつのまにか姿が見えなくなる猫がたくさんいて、年寄り猫はもう年だから、と思うのですが、若い猫もけっこう姿を消しています。
 この猫は去年のゴールデンウィークのあと、姿を見ない。ものすごく人気のあったカリスマ猫で、絵葉書まで売られていたようです。

 これは3年ほど前に撮った写真ですが、このとき限りで、その後見ていません。

 この猫はもう旅立ってしまったらしい。けっこう年だったみたいです。

 この猫も2年前に旅立っていたと最近、知りました。前日に写真を撮っていたことがわかりました(この写真ではありません)。

 この猫は交通事故で。このエリアの人気猫だったので、ショックを受けた人が多かったようです。

 この猫も去年のゴールデンウィークのあと、いなくなりました。かなりの高齢でした。

 この猫は3年前、上の長老猫のエリアにいたのですが、夏か秋くらいにいなくなってしまいました。

 今年の冬くらいにいた屋根の上の猫。その後行方不明とのことです。

 そして、長老エリアにいたこの猫が、6月か7月に見たのが最後です。片方の目が病気でした。あまり人になつかなくて、エサをやろうと手を出して、2回くらい引っかかれたので、以後は手は出さないでエサだけ置くようにしました。一部の人にはなれていました。
(追記 10月13日、なんと、久々にこの猫に遭遇しました。元気そうでした。よかった。)

 手前にいる猫と仲がよくて、いつも一緒でしたが、その後、同じエリアなのにあまり一緒ではなくなったような気がします。この写真の頃は、2匹でじゃれあってる写真がたくさん撮れました。

 というわけで、最後はお彼岸特集のようになってしまいました。天国に行った猫も、どこか別の場所に行った猫も、幸せでありますように。

2011年9月24日土曜日

ウマシカは死ななきゃ治らない。

 タイトルでは馬鹿とは書きにくかったので、ウマシカと書きましたが、ほんと、馬鹿は死ななきゃ治らない、と思う出来事が。
 ちょうど2週間前に身代わり受験という記事を書きました。
http://sabreclub4.blogspot.com/2011/09/blog-post_10.html
 この中で、ある大学では他人の分のレポートまで書いて自分の分と2通提出したのが何組かあった、でも筆跡がそっくりでバレバレ、という話を書きましたが、新学期が始まって、なんと、そのバレバレな学生が何人も、「どうして不合格なのかわからない」と抗議の質問書を出してきたのです。
 しょうがないので、教務課には、不正行為の件を伝えました。
 学生が抗議しなければ、もちろん、教務課には不正行為のことは伝えません。大学によっては、カンニングなどの不正行為があった場合、その科目だけでなく、すべての科目が不可になるところもあるのです。いくらなんでもそれはかわいそう、だから、教師は不正行為を見ても、黙って不可にする。学生も、自覚していれば、黙っている。それが大人の世界。
 しかし、この大学の学生は、大人をなめているのか、あるいはよっぼどのウマシカなのか、うーん、たぶん、ウマシカそれも大が3つつくくらいのウマシカなんだろうなあ。お馬鹿はかわいいけど、大馬鹿はかわいくないってことくらい覚えておけよ。(注・ウマシカなのはごくごくごく一部です。大部分はまじめで、レポートもすばらしいものがいくつも来ました。)
 しかも、笑ってしまったのは、抗議の質問書が2通、筆跡と内容が酷似していたのです。つまり、質問書も1人が2人分書いた。もちろん、これも教務課に伝えました。時間差で出したので、教務課では気づいていないみたいです。教務課がなめられてるのか?
 もう1つの身代わり出席の方は、不合格への抗議ではなかったので、その後、何も言ってきてません。が、こっちの大学は偏差値が高い名門大学なのに、こういうことが起こるというのはゆゆしき問題。私もこれからは注意していなければ。
 しかし、大学もなめられたものですね。学生はお客様、とかいって、ぺこぺこしてるからなめられるのか。学生も、あいつは一度も出席しないで、レポートも自分で書かないで、ひきこもりばかりしていて、それで単位をもらえるのか、とか思わないのかね。ひきこもりだから同情して不正行為をするのかな。たぶん、そうだと思うんだけど。遊んでる友達だったら、わざわざそこまでしないだろう。身代わり出席もたぶん、本人はひきこもり状態なのではないかと思う。もしそうなら、不正などしないで、大学に相談すべきではないだろうか。大学も、ひきこもりの学生が友人の不正に助けられて単位を取るなんてことをしなくても、自力で単位が取れるようなシステムを作ればよいのにね。

2011年9月16日金曜日

カリーナの林檎~チェルノブイリの森

 今関あきよし監督の映画「カリーナの林檎~チェルノブイリの森」という映画を見ました。
 公式サイト
http://kalina-movie.com/top.html
 試写会には今関監督と三留まゆみ氏があいさつに来ていましたが、自主映画なので宣伝費の捻出もままならないそうです。というわけで、とりあえず、これを読んだ方で興味を持った方はご自身のブログでもツイッターでも宣伝を。
 この映画は今関監督がチェルノブイリ原発事故の被害を受けたベラルーシを訪れ、2003年に劇映画として完成させたのですが、日本公開が実現せず、お蔵入り状態になっていたところ、今年2011年が事故からちょうど25年ということで、この年に公開しようと、昨年、チェルノブイリ原発の近くなどで追加撮影、今年に入って公開の準備をしていたところに起こった福島第一原発の事故。これでまた公開延期になりそうなところだったのを、やはり今、公開しなければ、ということで、11月から東京、大阪、福岡での公開が決まったようです。明日17日には大阪で特別上映会があるそうです。
 ベラルーシといえば、先だって、ロシアのホッケーリーグKHLのチームが乗った飛行機がロシアで墜落した事故があり、そのチームが向かう予定だったベラルーシの首都ミンスクで、チームを追悼するセレモニーが行われたことを、このブログでも紹介しました。
 チェルノブイリはウクライナですが、ベラルーシとの国境のすぐそばで、ベラルーシも深刻な放射能汚染の被害を受け、危険地域からは住民が避難。その後、放射能が原因と見られるさまざまな病気が発生しているのは、テレビのドキュメンタリーその他で報道されています。
 映画では、小学校3年生、8歳の少女カリーナが、汚染地域から首都のミンスクへ移住しているのですが、父親はモスクワにいて帰れず、母親は放射能が原因と見られる病気で入院中。カリーナは母親の弟である叔父の家に引き取られていますが、叔父といとこの少年はカリーナに同情的なのに、叔母は自分に対して心を閉ざすカリーナにいらだっています。また、カリーナの母親の医療費がかかって大変だという話も出てきます。
 カリーナの故郷は汚染地域ですが、カリーナの祖母はそこに住み続けています。カリーナは祖母が大好きで、よく祖母の家に遊びに行きます。そこでとれた林檎やキノコをミンスクの家に持ち帰ると、叔母がゴミ箱に捨ててしまうこと、祖母のいる場所は人が非常に少なく、半ばゴーストタウンになっていること、やがてカリーナも病に侵され、首に包帯を巻いていることから、甲状腺の癌であることが察せられます。
 これらのシーンは非常にさりげなく描写されていて、特に説明もないため、福島原発事故の前だったら、説明なしにすべて理解できただろうかと思います。ベラルーシの風景はとても美しく、放射能という毒が撒き散らされていることは目には見えない。
 日本がチェルノブイリ周辺と同じか、もっとひどい状態になってしまってから見ると、この映画は牧歌的で美しすぎる感じがしないでもありません。でも、「チェルノブイリの街には悪魔の城があって、毒を撒き散らしている」というおとぎ話のような表現は、現実的。

関連動画
「カリーナの林檎」現地取材ドキュメント
http://www.youtube.com/watch?v=qrp0NF2skKo
今関監督、福島原発へ
http://matome.naver.jp/odai/2130135738661742901/2130264328677517203

2011年9月13日火曜日

秋の気配

 もういいかげん暑くていやになっちゃうんですけどね、それでもあと10日ほどで秋分か。12日は満月で、お月見だったみたいですが、ひさしぶりにお天道様が出ているうちに猫の写真を撮りに。
 最近、スカイツリーがくっきりと見える日が多いです。秋だからか?

 例の人なつっこい白猫。まだやせているけど、エサをねだってばかりいるとデブ猫まっしぐらに?

 この2匹は仲がいいのか?

 シャム猫地区へ移動する途中。

 シャム猫は出て来なかった。この猫はカラスがエサを奪おうとしても動じない。後ろからカラスにつつかれると、何よ、この野郎、って感じで向かっていく。

 例のガリやせ猫。人をしっかり見据える目線が強い。

 実はこの猫も、カラスが来ても動じない。意外と強い猫かも。ここはカラスが来ると、エサを譲ってしまう弱虫が多いのだが。

 黒猫と、さっきのカラスのそばの猫をまじえて。

 別の地区へ。白基調の三毛が眠っている。


 あくびが撮れたのは久しぶり。最近は自然な写真が撮れない。

 この場所にいつもいる3匹。



 また別の地区。この2匹も仲がいいのか?

 御徒町の猫。いっらしゃいませ、と言われても、これでは入れない。

2011年9月12日月曜日

気になるニュース

 昨日は9・11、例の2001年の9・11からちょうど10年ですが、日本では大地震と原発事故から半年ということで、各地でデモが行われ、新宿では12人の逮捕者が出たというニュース。時事通信は単にデモがあったとしか伝えず、読売新聞はデモ=悪の報道、うちは地デジになってなくてテレビは見れないけど、テレビではほとんど報道しなかったらしい。
 で、ネットではあちこちにいろいろ書かれていて、画像や動画もアップされていますが、以下の記事が参考になりそうです。
http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110912/1315753874
 今の若い人は安保闘争とか、学生運動とか、デモで女子大生死亡とか、そういう話をまったく知らなくて、12人逮捕くらいで反原発は悪だ、非国民だ、と思い、まんまと原発推進利権派の思惑に乗ってしまうのではないかと心配です。これまでのさまざまな闘争と違うのは、今回はマスコミが権力の味方だということ。それを端的にあらわしたのが、例の鉢呂大臣辞任劇。
http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110911/1315719158
 上の記事で、というか、引用を集めたものですが、その引用の中で印象強かったのはこれです。

「私も政治部にきてからびっくりしたんだけどさ、間接的とはいえ民主主義の手続きをへて選ばれた閣僚とか首相を「ぜったいあいつを辞めさせてやる」「昔の政治部なら、とうに首相を辞めさせられていたはず、今の政治部はなさけない」とか言ってしまう記者がナチュラルに存在するのは、なぜか、と思う。
で、そういうことを口走る記者ってたいてい30代前半とかすごく若いんだぜ。そんな記者に叩かれて、あっさりやめちゃう閣僚や首相も大したことはないとはいえ。ちなみに、私の古巣には、そういう記者はいなかったと思います、たぶん。」

 これを読んで思い出したのだけど、もう10年以上前になると思いますが、ある大手テレビ局の下請けのプロダクションが製作でへまをしたそうです。そのとき、30代のプロデューサーは烈火のごとく怒り、プロダクションの社長を呼べ、といい、プロデューサーよりはるかに年上の温厚な社長はひたすら謝ったのだけど、プロデューサーはその年配の社長をあしざまにののしったらしい。
 しかし、その社長は、実はその大手テレビ局を退職して社長になった人で、局では今も重要人物だった。その30代のプロデューサーがその後どうなったかは推して知るべし。
 この話は雑誌で読んだのですが、書いた人によると、大手テレビ局のプロデューサーは巨額の予算を扱っているため、自分がものすごく偉いと勘違いしている人が多い、特に30代に、とのことでした。大手新聞社も大手テレビ局と同じような感じなのでしょうね。もっとも、上のサイトの引用の下の方を見ると、大臣が辞めることに疑問を持っている記者もいるようですが。そして、極め付けが、一番下の引用ですね。

 最初のデモの話に戻りますと、申請されたデモは許可されず、かわりに警察が別のルートを指定してきたそうで、しかも、ものすごい数の警察と機動隊が取り囲んで、そのまわりには右翼がいて、右翼の挑発に乗った人がバカやって逮捕というパターンだったようだけど、反原発をつぶそうとする人が手下を派遣してデモに参加させ、暴力行為をさせるということもやろうと思えばできるんで、デモの主催者(今回は都の条例で逮捕とは)は今後は賢くならないとだめでしょう。

2011年9月11日日曜日

ミンスクでのロコモティブ追悼セレモニー

http://sports.yahoo.com/nhl/blog/puck_daddy/post/Video-Dynamo-Minsk-8217-s-hockey-funeral-for-L?urn=nhl-wp12157

 悲惨な飛行機事故に見舞われたKHLのチーム、ロコモティブが開幕戦を戦う予定だったディナモ・ミンスクのアリーナで、8日、ロコモティブの犠牲者を追悼するセレモニーが行われました。上のリンク先に、セレモニーの短いバージョンと長いバージョンの両方があります。
 セレモニーは非常に荘厳で、よく考え抜かれたもので、短時間でよくこれだけきちんとしたセレモニーを準備したと思います。開幕戦とのことで、試合のチケットはソールドアウトだったけれど、払い戻されたチケットは1枚もなく、観客もスタンドでセレモニーに参加。満員のスタンドには立ち見までいます。
 ミンスクの選手たちが、ロコモティブの選手の遺影前に置かれたパックを、ロコモティブの選手にかわって、自陣のゴールに入れていく儀式は、これ以上ない追悼の儀式でしょう。
 ミンスクは亡くなったサレイの故郷ベラルーシの首都。ロシア語なので、言葉はまったくわかりませんが、サレイの名前が出たときに、スタンドから大きな拍手が起こっていました。
 ベラルーシは独裁国家といわれていて、こういう立派なセレモニーも大統領の肝いりでできたのかなあ、と思うと、ちょっと複雑ではありますが、スタンドの観客の沈痛な表情といい、鎮魂という言葉がふさわしいセレモニーであったようです。

追記 セイバーズのファンの掲示板の情報ですが、今季、ロコモティブはプレーしないとチーム代表が発言したそうです。選手のほとんどを失ったロコモティブには、KHLの各チームが選手を提供するという案が出ていましたが、寄せ集めの選手ではすぐに試合はできないと判断したのでしょう。ヘッドコーチはじめ、主要なスタッフも亡くなったので、そう簡単にチームを作ることはできないだろうt思います。

2011年9月10日土曜日

身代わり受験

 大学の非常勤講師をしているけれど、最近、妙なことが多い。
 昔から学生の不正行為といえば、代返、カンニングであったのだが、最近は頼まれもしないのに身代わり受験、身代わりレポート作成というのがある。
 昔もとある短大で、私の授業じゃなかったが、別の先生の授業で、答案用紙を2枚取って、自分と友人の分を解答して出したのがいたらしい。筆跡がそっくりなのですぐわかったようだ。
 今、私が教えに行っている某大学では、答案用紙は1枚1枚、学生の前に置くようになっているが、おそらく、そうしないと1人で何枚も出すのがいるのだろう。
 その大学で、この夏、初めて期末試験ではなくレポートにしてみたが、同じ筆跡で2通でているのが5組くらいあった(内容はごていねいに変えてあるが、表紙の書き方その他がそっくりでごまかせない)。そのうち4組は幼稚園や小学校の教員免許を取るコースである。教師のモラルがないわけだ(いや、一部の人たちなのだけど)。この授業では小テストの段階で、この種の不正が非常に多かったので、何度も注意して減らしたから5組だったので、それがなければ相当数の不正が出たと思う。
 学生のモラルの低下はだいたい、大学に原因があると私は思っているが、この大学もやることが杓子定規で現実に合っておらず、それが学生のモラルの低下を招いていると思う。とにかく問題の多い大学で、講師室では講師の不満が炸裂することも少なくない。前に書いた短大と非常に似た雰囲気なので、そういうところには共通点があるのだろう。
 他の大学はここに比べたら非常にまともなので、身代わり受験とか身代わりレポートとかはないだろうと思ったら、ここに来て妙なことがあった。
 これまでに見た身代わり受験とか身代わりレポートとかは、友人の分まで答案を書いて自分の分と2枚出す、友人の分までレポートを書いて2通出す、というもので、その友人に頼まれてもいないのに勝手にやっている可能性が高いのだが(友人のレポートを写して出す、というのは、身代わりレポートではない)、今回は、大学受験でたまにある、受験生のかわりに別人が受験する身代わり受験みたいなケースかもしれない出来事があった。
 その大学(前に書いたのとは別の大学)では、期末試験を欠席した学生には追試の権利があるため、不合格ではなく、別の評価をつける。たいていは授業にほとんど出なかった学生で、追試の申請もしない。今回もそういう学生が何人かいたが、追試の申請はなかった。が、その後、「試験を受けたのに受けていない評価になったのはなぜか」という質問が学生から来たと、教務課から連絡があった。
 そこで答案を調べてみると、その学生の答案がない。受験した学生の数は数えていて、答案の数と一致しているかはチェックしている。それで、「その学生は試験を受けていない。学生の勘違いではないか」と教務課に報告した。
 そのとき、ふと、思い出したことがあった。その学生は毎回の小テストをほとんど提出していたので、試験を欠席したのを見て、追試の申請をするだろうと思っていたのだ。その後、別の大学の試験やレポートの採点があって、すっかり忘れていた。
 この大学ではカードリーダーで出欠がコンピューターに記録され、担当教師はネットで出欠を調べることができる。もっとも、授業が始まる前にカードリーダーに学生証をかざし、そのまま帰ってしまう学生もいるので、毎回小テストをしていたのだが、この出欠をネットで調べたところ、質問をした学生は1回しか出席していなかった。試験の日ももちろん欠席。これで確実に試験を受けていないことがわかった。
 では、毎回のように出していた小テストは誰が出したのだろう。同じ筆跡の答案はないので、1人が2人分出したわけではなさそう。ということは、身代わり出席していた人がいたわけだ。それも毎回。
 その人が試験も受けてくれたと、当の学生が思ったのかもしれない。
 そういえば、教務課からの連絡の仕方も変で、普通なら、学生の番号と名前をいい、こういう質問があるので答案をチェックしてほしい、と言うべきなのに、「試験を受けたのに受けていないという評価になっているが、どうしてかという質問が来た。しかし、試験を受けてもそういう評価にしてはいけないということはないので、先生の判断でそうしたのでしょう」と切り出し、私が「調べるので学生の名前と番号を教えてほしい」と言って、初めて名前と番号を言った(この対応が常識的に考えて変)。教務課は頭から学生の言うことを信じていて、学生が試験を受けたと勘違いしているかもしれない、という考えは浮かばなかったらしい。
 試験を受けていないという評価の場合、追試を受けなければそのまま不合格になる。試験を受けたのだから合格にしてほしい、とは、学生は言っていなかったようだ。不合格でいいけれど、試験を受けたのになぜ受けていない評価なのか知りたいと言っているようだった。
 で、可能性としては、身代わり出席の人が試験も受けたのか知りたかった、ということかもしれないと思う。身代わり出席の人はさすがに試験のときはばれると思って、来なかったのだろう。あるいは、試験だけは本人が受ける予定だったのかもしれない。さもなきゃ、身代わりの人が本人に試験だけは受けさせるつもりだったとか。この場合は、本人が試験を受けたかどうかを、身代わりの人が知りたくて、本人のふりをして質問したということになる(ここまで行くと、ちと考えすぎかな)。
 カンニングとか、教師をだまして不正に単位を取るというのは昔からあるが、最近、気になるのは、本人に頼まれたわけでもないのに不正をして友人に単位を取らせようとする学生が少なくないことだ(上の例は本人が頼んだのかもしれないけど)。そうした学生には、自分が悪いことをしているという意識がない、むしろいいことをしているつもりになっている可能性もある。

2011年9月9日金曜日

悲痛な事故

 ホッケー・ファンはすでにご存知のとおり、ロシアのトップリーグKHLのロコモティブ・ヤロスラブリが、開幕戦のためにチャーター機で移動しようとしたところ、飛行機が離陸直後に墜落して川に落ち、乗っていた45人のうち、すでに44人が死亡(注)という、ホッケー界最大の惨事が起きてしまいました。
 ロシアのKHLには元NHL選手をはじめ、世界から優秀な選手が集まっているのですが、このチームにもデミトラ、サレイなどの元NHL選手が何人もいて、また、今年はじめにバッファローで行われたジュニア選手権で優勝した若手選手たち、NHLのプロスペクト、ヘッドコーチになるために北米から来た元NHL選手と、優れた人材が集まっていました。サレイは最近、赤ちゃんが生まれたばかりだそうで、家族の悲しみを思うと言葉もありません。
 欧米ではチャーター機でのチームの移動はごく普通のことで、過去にもこうした事故は何度か起きていたそうです。マンチェスター・ユナイテッドの惨事が特に有名なのだとか。
 セイバーズもこうした飛行機でひんぱんに移動しているわけで、前から、飛行機が落ちたらチーム全滅じゃないか、と、一抹の不安はあったのですが。
 元セイバーズの選手はいませんでしたが、亡くなった選手の中にヴァネクの親戚が。
 今回の事故は、離陸直後に墜落と、飛行機に問題があったのは明らかで、すでに地元では飛行機会社に対して市民の怒りが燃え上がっているとのことですが、こうしたチャーター機は老朽化しているものが多く、北米でもマイナーリーグや大学チームの使うチャーター機は危険だという声があります。また、安全に関してロシアは遅れているという印象を与えたのも否めません。
 東日本大震災のとき、海外のメディアは遺体の写真をおおっぴらに出すなどしていましたが、今回も目をそむけたくなるような写真を出しているメディアも北米にはあるようです。
 原発問題に続いて、またしても、安全を軽視することの恐ろしさを示す事故が起こってしまったと感じます。

注 唯一の生存者も、その後、亡くなったという報道がありました。

2011年9月7日水曜日

「サラの鍵」原作(ネタバレあり)

昨日は映画「サラの鍵」などについてさんざん書きましたが、とりあえず「サラの鍵」の原作を読んでみようと、区内の図書館を検索したところ、1ヶ所にありました。うちの区は大きな図書館がなくて、小さい図書館があちこちに散らばっているので、どこにどの本があるか調べないといけないのです。で、「サラの鍵」があった唯一の図書館は、地下鉄に乗り、隣の区の駅で別の地下鉄に乗り換えて、再び自分の区に入ったところが最寄り駅という場所。えらいめんどうな場所だな、と思いましたが、そのあたりは近くまで行ったことはあるけれど未知の場所。未知の場所へ行くのも楽しいと思い、行ってきました。
 結果は、行ってよかった、です。「サラの鍵」だけでなく、前から読みたかったけれど近所の図書館になかった分厚い上下本を借りられました。狭いわりには品揃えがいいというか、私好みのラインナップなのですね。しかも、利用者が少ないのか、本が妙に真新しい。貸し出し中でなかなか借りられない、なんてことも、ここは少ないのではないかと思いました。穴場です。
 で、「サラの鍵」ですが、あっという間に読んでしまいました。はっきり言って、これは通俗小説です。ホロコーストを扱っているからすべて高尚とは限らない。ホロコーストをテーマにした本の中では、これはそれほどレベルが高くないと思いました。ただ、フランスがユダヤ人迫害を率先して行っていたという事実をテーマにしたこと、通俗的な分、読みやすくわかりやすいことが人気の秘密だと思います。文学的な奥深さを期待すると裏切られます。
 原作は映画よりも説明が多いので、映画よりは納得できる部分もありました。が、やはり、主人公のアメリカ人女性ジャーナリスト、ジュリアが痛いというかうざいというか、それは最初から最後まであります。ジュリアの行動に釘を刺す人物がいたり、ジュリア自身も反省したりしていますが、このジュリアの部分(全体の半分以上を占める)が、要するに、うざい女の勝手な悩みじゃん、と思ってしまうと、もうだめ。
 全体に人物描写がひどいというか、ユダヤ人少女サラ以外の人物があまりに平板で、人間として描かれてなくて、薄っぺらなのが困りものです。サラだけは魅力的なのですが、そのサラが戦後、どう生きてどう死んだのか、そこをまったく書こうとしない。戦後のサラの苦悩をきちんと書けない作家なのだと思います。サラの部分でも、サラ以外の人はまるで道具のように使い捨てられています。
 現代のジュリアはとにかく一貫性がない。フランス人と結婚し、夫とうまくいかなくなっていて、それに悩みながら、夫の家族の持つアパートにかつて住んでいたユダヤ人一家の悲劇を知り、それを調べることで、いったい、彼女は何を得ようとしているのか。映画では全然わかりませんでしたが、さすがに原作では一応の説明はしています。つまり、彼女は、夫の祖父母がアパートを手に入れたのはそこに住んでいたユダヤ人家族が強制連行されたからで、しかも夫の祖父母と父親はそのことをずっと重荷に思っていて、ジュリアもその家の一員として、事実を明らかにし、サラに謝罪したい、自分も戦後生まれのフランス人同様、フランスによるユダヤ人迫害を知らなかったことを謝罪したい、そして、夫の家族もサラに負い目を感じて生きてきたことを知ってほしい、そして、サラがすでに亡くなっているなら、それをサラの息子に知ってほしい、ということなのです。
 もっとも、このことが出てくるのはかなりあとになってからで、それまでのサラについて調べているときのジュリアは、無関係なアメリカ人がフランス人を断罪しているみたいな感じでした(実際、それについて批判する人物も出てくる)。最後には、善意のフランス人が強調されるのですが。
 そんなわけで、原作では、アメリカ人がフランス人を断罪している、という印象は最後には薄れますが、最後になっていきなり、このアメリカ人もサラに謝罪したいと言われてもねえ。しかも、彼女はフランス人に対して愛情と憎しみの相反感情を持っていて、それは夫に対する感情と密接につながっているので、まるで夫へのうらみつらみからフランス人を断罪しているように見えるところもあるのよ。
 正直、このジュリア抜きで、サラの話を最初から語りなおしてほしいです。このうざいアメリカ人をなんとかして、と何度も思ったよ。
 しかも、結末が、なんですか、離婚したジュリアと、母親の過去を知ったために妻とうまくいかなくなり離婚したサラの息子が再会して、なんか、ロマンス小説のラストシーンみたいになるのだわ。
 それでも、こういう通俗的でわかりやすい小説の方が、歴史的事実を伝えるには効果がある、ということは認めます、ハイ。

 話変わって、「スター・ウォーズ」6部作のブルーレイ発売をめぐって、ルーカスが行った改変が問題になり、ファンの間で不買運動も?というニュースがありました。
 だいたい、「スター・ウォーズ」は、公開順に見るのと、1から順番に時系列に見るのと、どっちが正しいんでしょうか。リアルタイムで劇場で見てきた者からすると、これは公開順が正しい、と思います。しかし、ルーカスは全部作ってしまってから、その結果として、前の方をいろいろいじくってるみたいなのだよね(そういういじくったのを見たくないので、私は後のバージョンは見てないのだが)。
 そうすると、1から3で若き日のアナキンが描かれると(今、穴金と変換されてしまったけど、ほとんど丸金=マルキンだな・ホッケーネタ)、4から6のダース・ヴェイダーも1から3のアナキンに合わせてもっと人間的にしたくなるのでしょうね。
 でもねえ、それは反則でしょう。だいたい、ルークとレイアが双子になった時点で、一番最初に作った4でダース・ヴェイダーがレイアを捕らえるシーンは親父と娘かよ、それはないよ、と思った私としては、別に親子でもきょうだいでもいいから、親子やきょうだいとはわからなかった時代の部分は残せと言いたい。だんだんわかってくるのがいいんでしょうに。そこに矛盾をはらむのがまたいいんでしょうに。
 というわけで、私は、まず4から6があって、そのあと、ルークに、実はおまえの父親はこういう青年だったのだよ、と誰かが語る、それを1から3にすべし、と思うのであります。
 あと、6の最後のダース・ヴェイダーの顔を差し替えるってのもどうよ。年とったら顔変わるだろうに。(ダース・ヴェイダーではなく、アナキンの幻影の顔を差し替えたのだそうです。でも、6でアナキンを演じた俳優さん、気の毒。94年に亡くなったそうだけど。)

2011年9月6日火曜日

「映画のこととか」の追記など

 この記事の前の記事「映画のこととか」で、「家族の庭」、「灼熱の魂」、「サラの鍵」について書き、特に「灼熱の魂」と「サラの鍵」についてはかなり長く書き、その下に追記までつけましたが、まだ自分の考えがまとまっていない状態で書いたので、どうも支離滅裂なところがあります。その後、少し考えをまとめたので、それをここで追記します。
 前の記事http://sabreclub4.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

 「家族の庭」で、主人公の老夫婦の友人の女性が「痛い女性」だと書きましたが、「灼熱の魂」の母親と「サラの鍵」のアメリカ人女性も、別の意味で「痛い女性」です。
 「家族の庭」の女性は性格や生き方がどうしようもなく「痛い」のですが、他の2本の女性は行動が「痛い」。「家族の庭」の女性と違って、自分は正しいことをしているという強い信念を持っているので、余計、「痛い」。
 下の記事の「追記」で書きましたが、「灼熱の魂」の母親は、手がかりを残して双子の姉弟に謎解きをさせて自分の過去を知らせるという、普通だったらやらないだろう、こんな手の込んだこと、と思うことをしている。知らせるなら、最初から手紙に全部書く方がよいだろうに。どうもこのあたりのミステリー仕立てがあざとい。
 「サラの鍵」では現代のアメリカ人女性がフランス政府が行ったユダヤ人迫害を調べていき、フランス人の夫とその家族、職場の同僚がそうしてことに無知であることをいけないとしているのですが、アメリカ人女性が自分は清廉潔白な立場でフランス人に対してそうしているというのがどうも受け入れがたい。
 だから、両方とも、悲惨な過去を生きた当事者の子供が自分の意思で過去を探るとする方がよかったのではないか、というのが前の記事の結論でした。
 この結論に達するのに非常に役立ったのが、アメリカのアマゾンの「サラの鍵」のユーザー書評だったわけです(前の記事にリンクあり)。
 これを読んで、映画「サラの鍵」は原作を誠実に映画化したのであって、映画を見て感じた問題点はすべて原作にあるらしいことがわかりました。「灼熱の魂」もおそらく、映画は原作を誠実に映画化したので、私の感じた問題はすべて原作のものなのでしょう。
 つまり、前の記事で書いた2本の映画についての感想は、映画よりは原作についてのことである可能性が高い。だから、原作を知らなければ、映画を評価できない、という結論に達しています。
 実際、「灼熱の魂」も、「サラの鍵」も、過去の社会問題を知らせるという役割は十分に果たしていて、しかも、映画として両方とも面白くできています。途中で飽きたりはしません。前の記事では批判的なことを書いてしまったけれど、その批判の対象はむしろ原作にあるとわかった以上、前に書いた批判は映画に対する批判ではないということになります。

 「痛い女性」という点では、「家族の庭」はリアルで、人間のさがを感じさせる優れた描写と演技です。「灼熱の魂」は、母親の若い頃のシーンでは女優がすばらしい演技をしています。この若い頃の部分はすばらしい。しかし、双子の子供たちに対して手がかりを残して事実を探らせたという現代の部分では、母親としてやることが不自然で、そこが「痛い」。「サラの鍵」も、少女サラの過去の部分は非常にいいのです。が、現代のアメリカ人女性の話になると、この女性が「痛い」感じになってくる。正しいということを金科玉条にして人に押し付けるのはやはり「痛い」。「灼熱の魂」の母親は不自然でしたが、こちらのアメリカ人女性はいかにもアメリカらしい「痛さ」だなあ、という気もします。ここを突き詰めたらもっとよくなったかも。

 前の記事の最後に、現在発売中の「キネマ旬報」について書きましたが、この号の「読者の映画評」に「モールス」の評が載っています。オリジナルのスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」と比べた評です。
 その前の号の「キネ旬」にプロが書いた「モールス」の映画評とクロスレビューが載っていたのですが、オリジナルにまったく触れていない、特に評論の方は、リメイクがオリジナルをそのままなぞったような映像になっているのに、それを知らずにあたかもこれが監督の個性であるかのように書いているのが問題だと、実は、「モールス」について書いた過去の記事にこっそり追記していました。
http://sabreclub4.blogspot.com/2011/06/blog-post_24.html
 そんなわけで、今号のキネ旬に読者がオリジナルときちんと比較した「モールス」評が載ったのは本当にうれしかったです。特に前半はまったく同感です。ただ、この読者がオリジナルの同性愛的な部分に気づいていないこと、リメイクでもその可能性があることを無視しているのには異論があり、結果、この読者の結論と私の結論は違ったものになっていますが、それでも、オリジナル無視のプロたちに対し、読者のこうした投稿が載ったのはよかったと思います。
 なお、「モールス」は原作の翻訳の邦題をそのまま使ったものですが、原作の邦題を「モールス」にしたのは、「モーリス」にあやかろうとしたためでしょう。オリジナルに「モーリス」のファンが好きな少年愛の世界が多少ともあるのは確かです。また、オリジナルで少年が少女の体の秘密を知るシーンに相当するシーンはリメイクにもあります。オリジナルを知っていると、というか、日本ではあのボカシが問題になっているわけですが、ボカシのないオリジナルを知っていると、リメイクのシーンをどうとらえるかは微妙な問題になってくると思います。私はこの部分をリメイクが変えて、異性愛にしたとは思いません。リメイクにはオリジナルへのリスペクトがあふれていて、こういう重要なところを、ぼかしはしても、変えるとは思えないからです。
 「ぼくのエリ 200歳の少女」について書いた「ネタバレした方がいい映画」にはアクセスが多いのですが、一応、リンクを。
http://sabreclub4.blogspot.com/2011/03/blog-post_05.html
 一方、「モールス」の記事にはアクセスが非常に少なく、関心の低さがうかがえます。

映画のこととか

 先週は重い映画を3本も見てしまい、いろいろ考えたのだけれど、どうも文章にできない。とりあえず、メモ的な紹介だけでも書いておきます。「サラの鍵」についてはネタバレありです。

 まずはマイク・リーの「家族の庭」。イギリスの老夫婦とその周辺の人々の人間模様で、マイク・リーらしい演出が光る秀作。老夫婦が主人公のように見えて、最後は夫婦の友人の中年女性が中心にいるという、このラストがなんとも秀逸なのだけれど、この中年女性がいわゆる「痛い女性」で、しかも、こういう女性って、けっこう身近にいたりするので、映画を超えて現実の世界にまでドラマがはみ出してくる感じがあります。他の人物も、老夫婦と息子以外はどこかしら「痛い」ところがあって、彼らもまた、身近な誰かを思い出させたりと、面白い映画なのですが、フィクションに終わらない感覚がまたなんとも言えない。これはすばらしい秀作です。

 次に見たのは、カナダのフランス語圏の映画「灼熱の魂」。「未来を生きる君たちへ」とアカデミー賞外国語映画賞を争った作品。原作は子供の頃にレバノンから内戦を逃れて移住してきた中東系カナダ人の劇作家の書いた劇で、日本でもすでに上演されたそうです。
 物語はカナダに住む中東出身の女性がプールサイドで突然、放心状態になり、謎の遺言を残して死んでしまう、というところから始まる。女性には双子の娘と息子がいて、2人は母親から、父親と兄を探して手紙を渡せ、という遺言を受け取る。父親のことも兄のことも何も知らなかった姉弟は驚くが、まず姉が母の故郷の中東の某国へ行ってある事実をつかみ、そのあと、今度は弟がやってきて、さらに事実を知る。そして、兄と父親に関する衝撃の事実が、というわけで、その最後の部分はネタバレ禁止令が出されております。
 この中東の国は原作者の生まれたレバノンがモデルで、レバノンはキリスト教右派がイスラム教徒の難民を迫害し、そこからキリスト教徒とイスラム教徒の内戦が起こっていた国。母親はキリスト教徒だったが、イスラム教の難民と恋に落ち、息子を産むが、恋人は殺され、子供とも引き裂かれる。いつか息子を探し出す、と誓った彼女は、その後、数奇な運命を経て、双子を産み、双子とともにカナダへ移住したことがわかるのですが、そうした中から、中東の国の宗教対立やキリスト教右派による弾圧、迫害、虐殺、それに対抗するイスラム側のテロなどが描かれていきます。
 映画は母親の過去を探る姉弟のシーンと、母親の若い頃のシーンが交互に登場するというパターンで、演出は荒削りというか、あまり洗練を感じないのだけれど、迫力があるので見入ってしまいます。物語りも面白い。しかし、最後になって、その、ネタバレするなという衝撃の事実がわかると、なんというか、ある種のあざとさを感じて、私は率直に感動できませんでした。
 次に書く「サラの鍵」もそうなのですが、この母親は事実を子供たちに探らせるけれど、事実を知ることによって傷つくのは子供たちなのです。すでに30歳くらいになっているとはいえ、カナダで何不自由なく暮らしてきた中東系カナダ人の姉弟が、中東の国の悲惨な歴史を知るだけでなく、非常に個人的なところで傷つくのです。そして、探しあてた兄も傷つく、いや、この兄が一番傷つくのではないかと思う。
 弟は最初、事実を知りたくない、と、中東へ行くことを拒みますが、姉の方は母の遺言に従って事実を知ろうとします。これも「サラの鍵」と重なるのですが、女性はどんなにつらくても事実を知ろうとするのに、男性は尻込みするというパターンです。

 というところで、3本目の「サラの鍵」へ行きます。これはすでに原作の小説が翻訳されていて、大変評判がよいようですが、私は読んでいません。が、原作とあまり違ってはいないようです。
 こちらは第二次大戦中、フランスが自ら行ったユダヤ人迫害の史実をもとにした話で、フランス人と結婚し、パリに住むアメリカ人女性が、夫の家族の持つアパートにかつてユダヤ人の一家が住んでいて、彼らがフランスの警察によって収容所へ送られたことを知ります。ジャーナリストであるアメリカ人女性はこの一家について調べ始め、この一家の幼い娘サラを探します。「灼熱の魂」と同じく、この映画も、現代のアメリカ人女性の部分と、過去のサラの時代とを並行して描きます。
 アメリカ人女性がユダヤ人一家について調べ始めると、夫やその家族はあまりいい顔をしません。過去をほじくり返されたくない、そんなことをしてもみんなが傷つくだけだ、というわけです。それでもアメリカ人女性は調査を続け、ユダヤ人一家の住んでいたアパートを手に入れた夫の祖父母に罪はなく、むしろ祖父はよいことをしていたこともわかります。運良く収容所に送られなかったサラは、善意のフランス人たちによって助けられたこと、戦後、アメリカに渡ったことなどもわかります。そして、サラに息子がいることがわかり、ヒロインが彼に会うと、彼は、自分の母親がユダヤ人だとわかってショックを受けます。
 この映画も監督がまだ新人で、あまりうまくないというか、「灼熱の魂」のような荒削りな迫力にも欠け、さらりときれいにまとめました、といった感じになっているのが不満です。過去に触れられたくないフランス人、母親がユダヤ人だと知ってショックを受ける息子、といった具合に、知らなきゃよかった、でも、知るべきですよ、といったテーマがまさに「灼熱の魂」と同じ。ただ、「灼熱の魂」の最後の衝撃の事実に比べると、こちらは本来は善意の人たちが事実に目をそらしている、そういった感じで描かれているため、全体に口当たりのいいできばえになっています(原作はそうではないかもしれない)。
 一方、「灼熱の魂」にはそうした口当たりのよさはなく、ここまでやるのか、といった感じさえある。ネタバレできないのだが、ちょっと偶然の一致ありすぎ、とか、ここまでやるとあざとさが、とか思ってしまう。中東の問題はここまで衝撃的にしないとその悲惨さが理解できないのだ、と、中東出身の原作者は思っているのかもしれない。その辺、原作の劇を知らないのでわからないのですが、あざといのか、必要な衝撃なのか、その辺がまだ判断ができないでいます。
 「灼熱の魂」も、「サラの鍵」も、悲惨な時代にはまだ生まれていなかった人や、生まれていても本人の責任や罪があるとはいえない人でも、残酷な事実を知らなければならない、たとえそのことでひどく傷ついても、ということを訴えかけている。つまり、生まれていなかったとか、当時は子供だったから、とかいう理由で、事実を知ることの苦痛から逃れてはいけないと言っているのです。
 この辺が、私は、そのとおりだ、と胸をはっていえるほど聖人ではない。歴史を知るとか、過去の事実を知るとかいうレベルならそうだと思うけれど、この2本の映画では、それは個人のプライバシーにまで突き刺さるものだから。
 気になるのは、「サラの鍵」で過去を調べる主人公がアメリカ人女性だということで、彼女は過去の事実についてはまったくの無実なのでしょうか。映画だと、問題の外にいる人がフランスの人々を断罪しているように見えてしまうのですが。
 「灼熱の魂」では、事実を探る姉弟は深く傷つきます。しかし、一番傷つくのはおそらく兄だろうと思うと、カナダで何不自由なくすごしてきた姉弟が、中東で悲惨な子供時代を送った兄を断罪しているようにも見えてしまいます。
 罪や責任から逃れていられる平和な国の人に断罪する権利があるのだろうかと、この2本を見て考えました。答えはまだ出ていません。
 事実を知らせたことの結果がどうなるのか。「灼熱の魂」ならば、母親の3人の子供はその後、どう生きるのか。「サラの鍵」ならば、自分の所有するアパートに悲惨な過去があったとわかった家族はどうするのか。「サラの鍵」の終わり方はずいぶんと能天気だった気がします。

「サラの鍵」「灼熱の魂」追記
 「サラの鍵」の映画と原作について、英語のサイトで調べたところ、アメリカのアマゾンの原作ページに興味深いレビューと、そして多数のコメントが出ていました。当然ですが、英語です。
http://www.amazon.com/review/RU61S2OKX54PK/ref=cm_cr_pr_viewpnt#RU61S2OKX54PK
 映画にしろ、原作にしろ、あちらで批判されているのは、サラの部分はいいのに、現代の部分がつまらないということ。サラの話が途中で立ち消えになって現代の女性の話になるが、本当はサラのその後をもっと書くべきだったということ。そして、当時、生まれてもいなかった人にまで責任を問うのはどうかという意見も。
 また、上のページの一番下にあるコメントでは、ホロコーストの生存者の中には、自分の体験を話すことで子供たちに重荷を背負わせたくないと思い、決して話さない人も多いことを指摘し、アメリカ人女性がサラの息子にサラのホロコースト体験を教えることを批判しています。サラが息子に自分の過去を話さなかったのはサラの決めたことで、それを赤の他人の女性が教えるのはよくない、歴史を教えることと家族の個人的なことに立ち入るのは別だ、と書いています。
 「灼熱の魂」は、母親が子供たちが真実を知るべきだと決めて遺言を残したのですが、「サラの鍵」ではサラは息子に何も話さなかった。まさに対照的な母の決定だったわけです。
 私は「灼熱の魂」を見て、母はなぜ子供たちに謎解きのようなことをさせるのか、子供たちに自分の過去を書いた手紙を残す方がリーズナブルではないかと思い、そこもあざとさだと感じたのですが、この2作にはどこかそういう不自然なところがあって、過去の事実を現代の人は知るべき、というテーマのまじめさは評価するものの、それを間違ったやり方やまずいやり方でやっているのではないかという感じがどうしてもぬぐえないのです。
 むしろ、サラの息子が自分の力で母の体験を探るのが正しい在り方ではないかと思います。
 そして、「灼熱の魂」では、母はむしろ過去を隠そうとしていたが、子供たちが真実を知りたいと思い、過去を探るのが本来の在り方ではなかったかと思うのです。

追記あります。http://sabreclub4.blogspot.com/2011/09/blog-post_121.html


 もう1つ、映画の話題。
 現在発売中の「キネマ旬報」9月下旬号は、原田芳雄の大特集や「スター・ウォーズ」対談など、なかなか読み応えがあるのですが、川本三郎氏が自身の連載ページの中で、あるテレビ番組の紹介雑誌の連載コラムで、原発問題を扱った原田芳雄主演の旧作「原子力戦争 LOST LOVE」を取り上げたところ、掲載を断られたと書いています。反原発や脱原発の芸能人が仕事を失っているという話をいくつか聞いていますが、テレビは電力会社に逆らえない、ということなのでしょう。川本氏は抗議の意味で連載をやめたそうです。

2011年9月4日日曜日

夜の猫

 9月になり、日没もだいぶ早くなってきました。猫スポットに着いたのは日没直後の午後6時10分。それでも写真を撮る。
 飼い猫。

 例のヒナと呼ばれる白猫。外国人らしき人々が墓参りに来る囲われた墓所の中にいた。

 手前にぼんやりと黒くなっているのが墓所を囲む柵。

 三日月が出ています。

 どんどん暗くなる。右上に丸く光るものがあって、原寸大の写真だとまるで太陽のようなのですが、すでに日没時間はすぎている。謎の光です。


 白猫の相方はシャム猫地区に。


 ガリガリにやせている新入り猫。初めて目撃してからすでに3週間以上たっていますが、その頃に比べて、体つきがよくなってきているような気がします。これまではエサをやっても小食だったのに、この日はウェットフードを200グラムもたいらげました。途中で足りなくなって、買出しに行ったくらい。買出しに行くとき、自分が朝からロールパン4個しか食べてないことに気づき、ひもじさのあまり、買出し前に夕食を食べ、それから買出しして戻ってくると、まだいたのでエサをあげたら、まあ、食べること、食べること。この猫、食いだめができるんじゃないだろうか?

 別の地区。もうほんとに暗い。一眼レフでもなんでもない、一体型のデジカメ、ピントも手動では合わせられない安いカメラなんですが、なんとか写ってくれました。

2011年9月2日金曜日

台風接近中

 アベック台風のうち、1つは消滅したようですが、もう1つは現在、接近中。雨もかなり降ってきました。
 というわけで、台風が来る前に、久々に猫写真を撮りましたが、どうもイマイチ。

 最近、また、コンビになっている2匹。

 塀の下から顔を出すのは、

 この猫。


 久々、今日のスカイツリー。

 先週、シャム猫地区に姿を見せたこの2匹は、この日は会えず。シャム猫にも会えず。