2012年8月30日木曜日

最初の人間(映画)の覚書

中学時代、一番好きな作家はアルベール・カミュだった。
なんのきっかけで読むことになったのかはさだかではないが、おそらく、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「異邦人」が公開されて、たまたま家に世界文学全集のカミュがあったからだと思う。
私の両親は学歴がなく、また、戦争のせいで(東京大空襲とか)自分の持ち物が焼けてなくなってしまったりして、蔵書をほとんど持っていなかった。そんな中、父が持っていた数少ない蔵書が黄色い箱に入った新潮社の世界文学全集のうちの4冊で、それは「異邦人」「ペスト」「転落」「誤解」の入ったカミュ、「悲しみよこんにちわ」「ある微笑」「一年ののち」「ブラームスはお好き」の入ったフランソワーズ・サガン、そしてロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」上下巻だった。「異邦人」がきっかけでカミュの4作品をすべて読み、テレビでサガンの映画化「悲しみよこんにちわ」「ある微笑」「さよならをもう一度」(「ブラームスはお好き」)を見たのでサガンも読んで、「ジャン・クリストフ」だけは読まなかった。たぶん、それは、私が「狭き門」でアンドレ・ジッドのファンになったからだと思う。いや、ただ単に長いから読まなかったのだと思うが、のちに英文学の先生から、ジッドが好きかロランが好きかに分かれると言われ、それで妙に納得したのだった(ロランは短い作品を読んでいますが、ジッドほど惚れなかった)。
とにかくカミュには夢中になり、自分で文庫本を買ってさらに読んだりしたのだが、私は1人の作家をえんえんと追いかけるということが苦手で、要するに移り気なので、次々と別の作家に惚れていくので、その後はカミュから離れてしまった。
第一、私が中学生の頃にはもうとっくにカミュは死んでいたし、カミュの故郷アルジェリアはとっくに独立していた。アルジェリア戦争が背景にある「シェルブールの雨傘」もすでに古い映画で、テレビ放映やリバイバルで見た。
そんなわけで、過去に惚れた作家の1人になってしまっていたカミュであるが、未完の遺作「最初の人間」が映画化され、試写状が来たときはちょっとばかり震えた。試写状の写真、カミュの分身と思われる主人公を演じるジャック・ガンブランの、いかにもアルジェリアのフランス人という風貌にもそそるものを感じた。
ちなみに、原作の「最初の人間」は1994年にフランスで出版、日本では96年に翻訳が出たが、私は読んでいなかったので、たまたま図書館で見つけて借りてきた。なんだか日本ではとっくに絶版になってたみたいで、映画に合わせて文庫化されるようだが、カミュもなんだか日本じゃ過去の作家になってしまっているのかな?
で、映画の最初の試写が水曜日にあったので、万難を排して駆けつけた。
原作は試写に行く直前に借りたので、試写を見たあと、最初の方だけ読んだところだけれど、小説は主人公ジャックがアルジェリアの村で生まれるシーンから始まり、次に40歳になったジャックがフランスで戦死した父親の墓参りをするシーンとなるのが、映画は父親の墓参りから始まり、ジャックが生まれるシーンは後半になっている。
小説は書きかけの草稿にすぎないようなので、映画は小説をもとにアルジェリア問題でのカミュの立場を加えたストーリーに作り変えているような気がするが、映画の大半は少年時代のジャックの物語になっている。原作と違い、ジャックは両親の最初の子になっているが、この最初、ル・プルミエという言葉が「最初の人間」のル・プルミエ・オムと重なるように映画では描かれている。
ジャックが生まれた翌年、父親は戦死、ジャックと母親は母方の祖母の元に身を寄せる。祖母と母と叔父(母の弟)は貧しい暮らしをしていて、祖母は非常に厳格。ジャックは小学校を出たら働きに出るはずのところを、彼の優秀さに着目した教師が奨学金を得て進学することを提案、ジャックは貧しい環境の中から大学まで進み、やがて作家として成功する。
監督はイタリア人のジャンニ・アメリオだが、この貧しい少年時代の暮らしがいかにもイタリア映画のお家芸といった感じのリアリズムで描かれ、かといってお涙頂戴の感傷はいっさいなく、淡々として、しかもアルジェリアの光に満ちた美しい映像が見入ってしまうほどのすばらしさ。フランス、イタリア、アルジェリアの合作なのだが、これはやはりフランス映画というよりはイタリア映画のよさが出ているなあ、という感じなのだ。
作家として成功したジャックは故郷アルジェリアに帰り、そこでアルジェリア独立問題に直面する。これはカミュ自身の問題でもあったようで、カミュはこの問題についてはあまり積極的にかかわらず、そのために批判も受けたようだ。アルジェリアを植民地にしておきたいフランスの欲望というものが映画からも垣間見えるが、支配者のフランス人やフランス軍に虐げられるアラブ人に同情しつつも、アラブ人側のテロにおびえる主人公の迷いは、21世紀の今だから描けるものかもしれない。
かつて、ジャックの誕生を手伝ってくれた農場の主は今はマルセイユに移住し、その息子はアラブ人との共存を望んでいるといったエピソード。貧しさの中、そこから脱していく甥を見て苛立ちを感じる叔父が、のちに何をしたかがわかるエピソード。そして、アルジェリア問題についてのカミュ自身の言葉をジャックが言うクライマックス。これらのシーンやエピソードが鮮烈に印象に残る。
虐げられたアラブ人を支持し、正義を信じるというジャック(=カミュ)が、しかし、母を傷つけたら自分はアラブ人の敵になる、と言ってしまうのは、正義や民主主義などより家族の女性を守るという、アルジェリアの男の気持ちなのではないかと、ふと思う。もう何年も前になるが、姉を侮辱されたと思ったジダンが相手選手に頭突きを食らわしたことがあったが、実存主義の文学者カミュも本質的なところではアルジェリアの男なんだと、なんとなくそんな感じがしたのだ(映画の中での話だが)。
まだ原作の最初の方しか読んでいないので、とりとめのない感想になってしまっているが、原作を全部読んだら、もう一度、考えてみたい。
ちなみに、「最初の人間」というのは、親が無名であり、貧しく何もないところに生まれた人はゼロからスタートする最初の人間という意味であるらしい。実際、カミュもジャックも何もないところから教師の助力で教育を得て作家になっていったのだが、私自身、親の蔵書がほんのわずかしかなく、6畳一間に家族で住んでいたという貧しい暮らしだったので、自分もまた「最初の人間」だったのだということに気づいたのだった。