2012年6月30日土曜日

なんとかならんかレンタルDVDのCM

レンタルDVDを借りてものすごく頭に来るのは、頭に予告編が何本も入っていて、合計20分くらいえんえんと続くことです。しかも、その間、スキップできず。
まあ、レンタル料が100円ならいいですよ、でも、新作や準新作で400円以上も取られて、最初に20分もCMを見せられる。こっちはそれほど暇じゃない。また、全部見た後、別の日にシーンを確認したいと思っても、この長いCMを見ないと何もできないわけです。
そういう作業のために借りたのがまさにそういうDVDだと、ほんと頭に来ます。
これって、ほんとは、ジャケットに明記すべきことじゃないでしょうか。
「このディスクには冒頭に20分間の予告編があり、スキップできません」と書いてあったら、借りて損したとは思わずにすみます。あるいは、「10分間の予告編がありますが、スキップできます」と書いてあったら喜んで借ります。
20分もの予告をえんえんと流し続け、本編を見たければ我慢しろといわんばかりのこの業界、どうなんでしょうね。頭に来た消費者が集まって集団訴訟とか起こさないとだめなのだろうか。
とりあえず、どのレンタルDVDにスキップできない予告編が何分入っているかの情報を掲載したサイトとか、あるかどうか調べたいと思います。
予告編が長くて本編が見られない、まだ本編を見てないから金返せ、とツタヤに言ったら、ツタヤが気の毒だからやらないけどね。

2012年6月29日金曜日

引用は最後まで

しないといかんよな。
 何の話かというと、内田樹氏のブログのグローバル企業批判の記事を紹介引用したブログを見て、そのあと、本家の内田氏のブログを見たら、それはないよな、と思ったからだ。
 そのブログ(いちいちリンクは貼りませんが)の主は内田氏の記事の前半だけ引用して、文句つけてんだが、後半は読んでないのかと思った。
 確かに内田氏の記事は長い。長すぎるから、興味がないのは途中で読むのをやめる。あるいは、とばす。というのは、内田氏の記事は後半がポイントだからだ。前に引いた大飯原発再稼動の記事、このブログで引用した部分はすべて後半です。
 で、くだんの記事はどういうものかというと、
http://blog.tatsuru.com/2011/11/25_1036.php
 前半では例によって例のごとしで、グローバル化批判。グローバル化する企業は国内に需要がないから海外にどんどん拠点を移す。彼らに必要なのは英語ができるグローバル・エリート。そうでないやつはいらん、グローバル・エリートになれない負け犬は勝手に滅びろ、そんなの自己責任だろ、というわけ。しかし、内田氏は、日本で暮らすしかない大半の日本人がとりあえず食えるような社会を作る責任が企業にもあるではないか、というのである(いつもの氏の主張ですが)。
 ここまでが前半(ものすごい乱暴なまとめ)。そして、この前半を引用した別のブログの主は、内田氏は国際情勢というものを考えていない、日本の企業がグローバル化しないで立ち行かなくなれば日本全体が沈没するから、という。
 そして、内田氏の記事の後半については何も言わない。後半が、長い後半があることさえ言及しない。卑怯だろ、オラ!
 内田氏の後半は落語の話です。立派な木の下に汚い雑草が生えている、それで雑草を刈り取ったら、木も枯れてしまった、つまり、立派な木と汚い雑草は持ちつ持たれつであり、立派な木は雑草にツユオロシをしないといけないのだ。
 グローバル化する企業は、世界で成功したら、国内にツユオロシしてくれると、以前は期待されていた。しかし、現実には、グローバル化した企業は国内の雑草にツユオロシなどしない。海外の雑草を見つけて利用し、そこにもツユオロシしないで、また次の雑草を見つけに行く。グローバル企業は根無し草だからだ。
 という話をしたあと、しかし、その落語のような持ちつ持たれつの世界は百年前の世界だ、私はその世界に生きていたかった、と内田氏は結ぶ。
 大事なのは後半なのだ。そして、内田氏も、こういう持ちつ持たれつの時代は過去のものだとわかっている。
 で、肝心なのは、企業がグローバル化して成功しようがしまいが、国内の雑草たちはだめになるんで、もしかしてグローバル化した企業が雑草にツユオロシしてくれるかもしれないと思って期待なんぞしてもしかたないってことなんです。
 この辺、雑草側に立つか、グローバル側に立つかで見方が違うでしょう。グローバル側は、成功したら日本がよくなり、雑草が潤う方に期待してるわけです。
 でも、雑草側に立つ人は期待してないです。むしろ、だまされるものかと思っています、よね?

2012年6月25日月曜日

DVDの選択を間違えた…

ツタヤの無料レンタル券を1枚持っていたので、「ドラゴン・タトゥーの女」のリメイクでも借りようと思って出かけ、新作の棚を見たら、スウェーデン版の完全版が並んでいた。試写で見た作品だが、30分長いという。これは見たい! と思ったのだが、その前に評判イマイチのリメイクを見ておいた方が、と思い、デイヴィッド・フィンチャー監督のリメイクの方を借りた。
 画面がやたら暗い。こりゃ、映画館で見ろという確信犯か。確かに映画館で見た方がよいのだろうとは思うが、それにしても……はっきり言ってつまらない。最初から最後までずっとスウェーデン版が頭を離れず、スウェーデン版はなんてよかったのだろうとずっと思いながら見ていた。こんな思いで2時間半て、拷問です。途中でやめられない性格なので余計困る。
 画面が暗いのは、スウェーデン版が北欧の澄んだ明るい光に満たされていたからだろう。逆にいうと、フィンチャーは、スウェーデン版とはすべて違うことをするぞ、と意気込んではいるわけだ。
 でもそれがまたすべて裏目。ミカエルもリスベットもミカエルの恋人も、みんな干からびたミイラみたいに見える。あのスウェーデン版の血の通った人間たちはどこへ行った? 単にクールだとか冷たいとかいうんじゃない、冷たくさえない。とにかく水分が干上がった感じというか、ほんと、ミイラみたいだった。
 それに、なんでアメリカを舞台にしなかったのだろう。あれじゃスウェーデンに全然見えない。
 これを見ながら、「ぼくのエリ」のリメイク「モールス」も何度も頭をよぎった。あれもオリジナルの足元にも及ばない映画だが、できるだけオリジナルと同じやり方で撮ろうという姿勢にある種のリスペクトを感じた。この映画にはそれ(リスペクト)もない。なんたって、天下のフィンチャーだ、世界的には名の知れてないスウェーデンの監督の映画のリメイクなのだ、「モールス」みたいにオリジナルに敬意を表して全部模倣というわけにはいかない。でも、「モールス」が模倣が裏目だった以上に、いや、その何倍も、フィンチャーの差別化は恨め、いや裏目(うちのパソコンは正直で、ここだけ恨めと出やがった)。
 原作小説の映画化なのだからスウェーデン映画にリスペクトする必要はないといえばないんだけど、でも、フィンチャーの映画がスウェーデン版を意識していないわけがない。
 ノオミ・ラパスに比べてあまりにも存在感のないルーニー・マーラのリスベット。最後になっていきなり世界をまたにかけるグローバルキャリアウーマン風詐欺師に変貌し、ラストはふられてかわいい女の子になっちまうのだが、これって、いかにもハリウッド映画のワンパターンヒロインの造型。悪いのは彼女じゃなくて監督ですけどね。
 それ以上につまんなくてしょうがないのがミカエルのダニエル・クレイグ。こんな魅力のないクレイグは初めてだ。スウェーデン版の包容力のあるおじさんミカエルがなつかしいぞ。
 はっきりいって、この映画のルーニー・マーラとダニエル・クレイグだったら、恋愛してもネットをログアウトするような感覚で別れるだろうなって、そんな感じ、と思ったら、これがまた、旧態依然のハリウッド調メロドラマのお別れ。愛人はつらいよ、だって、男はクリスマスは家族とすごすから~って、もろ、これなんだもの。リスベットが自分から去っていくスウェーデン版はよかったなあ。
 と、どのシーンを見ても、スウェーデン版はよかったなあ、のオンパレードなのです。
 まあ、メインタイトルだけは昔のフィンチャー調で、ホラー時代のフィンチャー好きな人にはよいと思う。でも、あれを「今の若い人はあのメインタイトルをかっこいいと思わない」と某映画雑誌が書いているのには首をかしげる。あれがかっこいいって? どこが? 第一、日本では「ミレニアム」の原作は若い人にはあまり受けてないのだけど、それを知らないのだろうか? 「リスベットみたいな女はアニメや漫画にはいくらでもいる、おじさん世代はそれを知らないから驚いて夢中になる」と若いミステリファンが言っているんですけどねえ。
 んなわけで、DVDの選択を間違えました。でもまだスウェーデン版の完全版を見る楽しみがある。あの映画のミカエルやリスベットとなら何時間すごしてもいいです。

2012年6月23日土曜日

ノバスコシアの灯台

「テイク・ディス・ワルツ」で、主人公たちが30年後に会おうと約束したのはカナダのノバスコシア州の灯台のようなのですが、最初、ウィキペディアに写真のあったペギーズ・コーヴにある灯台かと思って、写真をよく見たら、どうも違います。んなわけで、またまた訂正。
 ノバスコシア州とルイスバーグ要塞については日本語のページもあるので、興味ある方は検索してください。当然ながら、英語版の方が詳しいです。ノバスコシア出身のNHL選手にはシドニー・クロズビーほか多数の名選手が(って、カナダならどこもそうかもしらんが)。

 ノバスコシアはカナダの大西洋岸にあり、かつてはイギリスとフランスの植民地争いの舞台にもなった地。ノバスコシアとはニュースコットラントという意味で、イギリスが占領していたのですが、それに対し、フランスの植民地を守るために作られたのが映画の冒頭に登場するルイスバーグ要塞。仏語読みはルイブールで、映画でも現地ではそう発音されていました。公開鞭打ち刑のショーをする古い時代の衣装を着た人たちもフランス語を話していました。
 カナダ映画には英語のものとフランス語のものがあって、フランス語の方はフランス語圏のケベック州で作られ、アカデミー賞の外国語映画賞によくノミネートされたり受賞したりするのはご存知のとおり。近年では「みなさん、さようなら。」(受賞)や「灼熱の魂」(ノミネート)といった傑作があります。
 一方、トロントを中心とする英語映画は、デイヴィッド・クローネンバーグやアトム・エゴヤンが有名。そして、「テイク・ディス・ワルツ」の監督で、トロント出身、しかもエゴヤンの「スウィート・ヒアアフター」のヒロインだったサラ・ポーリーも、彼らのあとに続くトロントの監督となります。
 ヒロインのマーゴは2つに引き裂かれているとか、どっちつかずとかいった表現で描かれていますが、カナダはある意味、英語とフランス語、イギリス系とフランス系に引き裂かれた国です。だから、フランス圏を守るために作られたノバスコシアのルイスバーグ要塞に行くのは、それを表しているとも言えます。
 ホッケー・ファンになると、どうしてもカナダに興味を持つようになります。なかでも、トロント・メイプルリーフスの本拠地のオンタリオ州トロントは、私が応援するセイバーズの本拠地、ニューヨーク州バッファローに近く、バッファローの人は観劇などはトロントへ行くとか、逆にオンタリオ州南部の人がセイバーズのファンで、バッファローまで観戦に来るとか、そういった親しみもあります。
 そんなわけで、この映画でも、風景の中にトロントを見つけることがあって、なかなか興味深い。マーゴはトロントの郊外に住んでいるのですが、彼女やダニエルが行く湖はもちろん、オンタリオ湖です。広いので、対岸が見えず、海と勘違いする人もいるかもしれません。湖の対岸はアメリカ、ニューヨーク州です(バッファローはオンタリオ湖からナイアガラの滝のそばを通って南下したところで、すぐそばの湖はエリー湖。「ブルース・オールマイティ」に出てくる湖はエリー湖です)。
 また、ヒロインがいる場所のずっと遠くに、トロントの中心街にあるタワーが見えていたりします。このタワーはクローネンバーグの「ヴィデオドローム」にも登場しました。
 ダニエルは人力車で稼いでいる、という設定ですが、映画の中ではリキシャと呼ばれていて、これは日本語由来ですね。西洋には人力車はないのか? 日本でも台東区のあたりは人力車が観光に使われてますが、カナダのトロントにあるとは。

 カナダといえばホッケー、ということで、サラ・ポーリー監督もホッケーゆかりの映画人です。前作「アウェイ・フロム・ハー」では、主人公たちが語り合うシーンの背後で、ラジオのホッケー中継が流れていましたが、あれがトロント・メイプルリーフスの試合で、実況しているのは有名なアナウンサーでした。
 実はポーリーのおじは、バッファロー・セイバーズの初代実況アナだったのだそうです。現在のリック・ジャネレット(彼もカナダ人)は2代目です。
 「テイク・ディス・ワルツ」の中のルーのせりふで、「ホッケーで負傷してタマをとらなければならなくなった男」のことが語られますが、字幕では「事故で」と短縮されてました。でも、せりふを聞いていると、確かにホッケーと言ってます。ホッケー選手(男子)は大事な部分にカップをつけることになっているのですが、時々、めんどくさがってつけない人がいるとか…。「がんばれ、ベアース」でも、男の子たちがつけるのをいやがっていましたが、ホッケーのパックは野球のボールより危険です。
 下の紹介ではストーリーがおもになってしまいましたが、ストーリーでは語れない部分もたくさんあるということで、映画の中のカナダと、そしてホッケーのことを少し紹介しました。

テイク・ディス・ワルツ(ネタバレ超大あり)

アカデミー賞主演女優賞に連続ノミネートで話題のミシェル・ウィリアムズ主演、女優出身のサラ・ポーリー監督の新作「テイク・ディス・ワルツ」。
 愛し合う夫がいながら、近所に住む別の男性に心をひかれてしまう女性、というと、手垢のついた物語のように思えるのだが、それでいて、これまでにない手法で描かれているという感じがつきまとって離れない、そんな展開で進んでいたと思ったら、後半、急展開、そして、最後はさらに意外な結末が…。
 というわけで、以下、ネタバレ大あり、超大あり、で話を進めて行きます。見る予定の方は読まない方がいいと思います(ネタバレのところから文字の色を変えます)。

 夫と平凡な日々を送る28歳のマーゴは、ライターの仕事で訪れた古い時代の要塞を見学中、古い時代の衣装を着た人々が演じる公開鞭打ちショーに無理やり参加させられる。鞭打ちになる男の罪状は姦通罪。恐る恐る鞭をふるう彼女に、「まじめにやれ」と叫ぶ男がいる。
 マーゴはその後、飛行機の中でその男と再会する。彼の名はダニエル。マーゴが普通に歩けるのに車椅子で優先搭乗する様子を彼は見ていた。「飛行機を乗り換えられなくなるのが怖くて」とマーゴは言う。
 マーゴの夫ルーはチキン料理の研究家で、本を書くことを夢見ている。家ではいつもチキン料理をしている。二人の会話はちょっと変だ。「きみの内臓を食べてしまいたい」みたいなことをルーが言い、マーゴもそれに応えて「あなたの~が食べたい」とか言う。でも、二人はとてもラブラブ。
 ダニエルは、実はすぐ近所に住む画家だった。ダニエルが描いたマーゴの絵は、彼女が分裂している姿。それは彼女が恐れるどっちつかずの状態だった。
 ルーにはアルコール依存症を克服しつつある姉がいる。姉の子どもはマーゴになついている。
 マーゴがシャワーを浴びていると、突然水が出る。シャワーが壊れている、と彼女は思うのだが、それはルーが上から水をかけるといういたずらをしているのだった。
 プールでの仲間たちとのエクササイズ、ルーの姉の禁酒を祝うパーティ、何もかもが楽しげで、何も問題なく見える。ダニエルとのつきあいもキス以前の精神的なもの。この幸せな日常を捨ててまで恋に踏み込めないのは当然、と見える。ダニエルに対し、マーゴは言う、「30年後、灯台で会ってキスをする」と。

以下、ネタバレ。
 ある朝、ダニエルは突然、引越をしてしまう。マーゴの家の郵便受けには灯台の絵葉書、そこには30年後の日付と時間が書いてある。引っ越していくダニエルを窓からにらんでいるルー。この瞬間から、映画はそれまでのほのぼのとした、円満な人間関係の雰囲気を失う。ルーは妻にラブラブな気のいい亭主ではなくなる。にこやかな微笑みは消える。シャワーの最中に水が出るのは自分がかけていたのだと、ルーは告白する。マーゴは家を出る。そしてダニエルの住まいへ行き、心置きなく愛し合う。時には女性をまじえて女二人、男一人で。別のときは男性をまじえ、女一人、男二人で。スリーサム、という言葉を思い出した。そういう題名の映画もあった。
 広い部屋と大きなベッド。生活感のまるでない部屋。それはマーゴとルーの生活感だらけの家とは大違いだ。映像もスタイリッシュで、グラビア雑誌のページのよう。
 そのスタイリッシュな世界は、一本の電話で壊される。ルーからの電話。もといた生活感のある場所に戻ると、そこは以前のようなほのぼのとした世界ではなくなっている。アルコール依存症のルーの姉が問題を起こし、警察沙汰になっていた。彼女の子どもがマーゴに会いたがったので、ルーは電話したのだと言う。
 ルーは出て行ったマーゴに多少のうらみごとを言うが、もう二人の間は終わっている。ルーが以前のように、「きみの~を食べてしまいたい」的なサディスティックなジョークを言うと、マーゴは適当に同意するだけで、以前のようには同じジョークでは応えない。
 冒頭の、マーゴが料理をしている場面がもう一度、繰り返される。その料理を待っている男は誰?
 そして、ラスト、マーゴは以前、ダニエルと一緒に乗った遊園地の遊具に一人で座っている。

 ルーの言うサディスティックなジョーク、それに合わせて似たようなジョークで応えるマーゴ。シャワーを浴びるマーゴに水をかけるルー。ラブラブの愛し合う夫婦なのに、この二つがまるでトゲのように見る側にぐさりと刺さっていた。いったいこれはなんなのか、と思いつつ、しかし、それ以外には何の不満もないような、幸せそうな日常生活。人間関係も良好。どうしてここにダニエルが入り込めるのか。どんなに幸せでも隙間がある、というのではあまりに軽薄な感じがする。
 しかし、映画は後半、それまでのシーンは実はほんとうではなかったのだと告げる。
 夫婦の関係は実はラブラブではなかったのだろうし、姉の禁酒も見かけほどうまくいってなかったのだろう。
 マーゴが要塞で、姦通罪の男を鞭打つように言われるのは、ルーが浮気をしているからなのか。あるいは自分の願望なのか。チキン料理に夢中のルーは、何かが足りていないようでもある。
 飛行機で乗り換えられなくなる不安は、人生を自分の手で変えることができない不安だ。
 ダニエルとの愛のシーンは夢のようだが、あれはやはり夢だったのだろう。マーゴはルーからダニエルに乗り換えることはできなかった、いや、ダニエル自身がマーゴの幻想だったのでは?
 「アウェイ・フロム・ハー」で高い評価を受けたサラ・ポーリーは、女性の視点を持ちながらも、女性だけに偏らずに登場人物を見ている。ルーを鈍感な男性と評するのは簡単だ。この映画は、すべてがマーゴの妄想かもしれないという立場から、ルーもその姉も、マーゴの見た範囲でしか理解できない人物として描かれている。そして、マーゴ自身を観客がどう見るかは、観客に任されている。途中まではよくある話だと思われたが、最後には、これはすごい、と思わせる映画だ。

2012年6月18日月曜日

偶然の訪問地

ネットで検索していると、有名な方のブログにたどり着いたり、無名な方のブログにたどり着いたりする。そこでいろいろな意見を読んで考えさせられることが多いので、大変有意義だ。
内田樹氏はグローバル化やグローバル・エリートについてきびしい批判をしていて、経済にウィンウィン(両方が勝つ)ということはない、片方の国が貿易黒字になればもう片方は赤字になる、と書いている。
ブロガーとしてはすでに有名人で、これから有名な経済評論家になるかもしれない、明日著書が出る倉本由香利氏は、ブログに、かつてアメリカでテレビの製造で成功したRCAが、その後、GEに身売りし、業績不振に陥っていたテレビ製造部門をフランスの企業に売って、かわりに医療機器部門を買い、成功したという話を書いている。
テレビ部門を売ったときは、その医療機器がどうなるかもわからないときで、会社の中心産業だったテレビ部門を売ったことには批判が多かったらしいが、結果的には成功した。こういうグローバル化が必要なのだ、と氏は説く。
確かに、行き詰っている会社の打開策としては大成功だったのだし、ビジネスマンは大いに学ぶべきなのだろう。
しかし、ビジネスマン、ビジネスパーソンでない人は、話の裏を見なければならない。
元RCAが売ったテレビ部門は、買った会社に利益をもたらしたのだろうか。もたらしたのならウィンウィンで、大変よいことである。しかし、そのことは記事には書いていない。
世間は成功者の話を読みたがり、失敗者の話は読みたがらない。でも、勝者の陰には必ず敗者がいるのではないか。その敗者にならない人はいいが、実際には敗者になる人の方が圧倒的に多いはずで、その人たちのために、内田氏のようなグローバル批判が必要となる。

無名の人のブログの中には、敗者の愚痴が書いてあるものがたまにある。検索に引っかかって、私が偶然にたどり着くようなものは、たとえ愚痴であっても、読むに値する内容がある。だから思わず読んでしまって、気がついたら朝になっていたりするのだが、最近見つけたブログに、長年文学賞に応募して作家をめざしていたが、いまだ地方の文学賞の最終選考どまりの方のブログがあった。年は50代前半で、日本の文壇、特に純文学の文壇に対する批判がいくつも書かれていた。私も出版界に多少は足突っ込んでいたので、わかるところが多かったが、同時に、この人の世界は狭いとも思った。
出版社は売ることばかり考えていて、そのために文学がどんどんだめになる、志の高い作家志望者は門前払いになっている、という。そのとおりなのだが、出版社に過去のような文学の志を求める時代はもう終わったと思う。そういう志を求めるには、日本という国が大きくなりすぎたのだ。だから、そういう志の高い文学を残したいのなら、商業出版社とは別の道でがんばるしかないと思うが、その方面で画期的なことをしている人ではない。
また、この人は純文学とエンターテインメントを分けるという昔ながらの二分法から抜け出していない。いまや、純文学よりエンターテインメントの方がレベルの高い作品が多いというのに。たとえ自分はエンタメ系はめざしていないとしても、エンタメ系の優れた作品を読むことで自分を高めることができるはずなのに。
内田氏の言説が受けている理由には、こうした社会の敗者(大多数は敗者なのだ)が生きるには学ぶことで自分を高めるしかないという主張があるからだろう。
内田氏の言説には、私にとってはどうでもいいことなので途中で読むのをやめたり、これはちょっとねえ、と批判的に感じるものもけっこうあるのだけれど、社会の中の普通の人(普通の人は競争社会では敗者または勝者ではない人)が生きるための道標を提示しているのは確かである。

2012年6月12日火曜日

写真の投稿が…

やはりできません。
せっかくアジサイの写真を撮ったのに。
火狐を入れるべきか、いや、そろそろ新しいパソコンを買わないといけないのだが。
それに、冷蔵庫の冷凍室が冷えなくなったので、冷蔵庫も買わないと。
それから、5万円くらいの高いヘッドホンも買わないと。
これでいくらになる? 金がない…。

いや、ほんと、仕事探さないといけないな、と思いつつ、この年で仕事探しはやはり大変です。
翻訳も限界、評論はもともと金になってなかったし、非常勤講師を増やすにはコネをつくらないとだめ。
考えてみたら、もう2年近く翻訳してないし、評論は前からぼちぼちだし、非常勤講師だけはなんとか仕事になってはいますが、いったい自分は何をしてきのたかと思うことしばしば。この年になって、自分の人生なんだったのか、と思うのはつらいものですが、後ろを見てもしかたない、今できるのはなにかを考えなければ。
2つの大学の非常勤講師で映画や文学を教えられるようになったのは、自分としては大変な進歩です。しかも、どちらもコネがまったくないのに、経歴で採用してもらえた。ありがたいことです。
もっとも、どちらも複数採用だったので、1人くらい変わった人を採ろうと思ってもらえたのが幸いしたのだと思います。こういう幸運はなかなかない。

若い頃、翻訳とか評論とかは人気商売ではない、自分は人気商売はだめだけど、この2つなら、と思っていたのですが、結局、いろいろやってきて思うのは、この2つも人気商売だな、ということです。
確かに翻訳には人気商売ではないジャンルもありますが、私がやりたかったタイプの翻訳ははっきりと人気商売です。というか、私が若い頃は人気商売でなかったのに、いつのまにか人気商売になってしまった。ある種の翻訳家は芸能人のようになり、本を出すとデビューと言われ、翻訳サイトにインタビューが出る。いつのまにかそういう時代になっちゃったんだ。
評論は、確かに人気評論家はいましたが、そうでない地道な評論家もいました。今もいると思います。が、ある時期から映画評論家がサブカル文化人とかぶるようになってきたのですね。このサブカル文化人、特に表象ワードを駆使するタイプが私は苦手。でも、そういうサブカル文化人はやはり人気者。だからここも人気者の世界になってしまったなあ、とぐちぐち。
でも、私はいつも、もうだめだ、と思ったときに逆転があったので、これからもあきらめずに努力して、というか、何か新しい展開をめざしてがんばっていこうと思います(ミョーにまじめな決意w)。

2012年6月7日木曜日

天文ショーは1勝2敗

5月下旬からの3大天文ショー、金環食(地域によっては部分日食)、部分月食、金星の太陽面通過は、東京では1勝2敗に終わりました。
まあ、金環食見られたからいいか、とは思いますが、部分月食も、金星も、ショーが終わったら晴れやがるの、許せん! といってもおてんとうさまだけはどうにもできないのですが。
金星の太陽面通過の水曜日は午後から仕事。昼ごろまで、雲の合間から見えないかとベランダで張っていたのですが、黒い雲が次々と太陽の前を通るので、太陽がどこにあるかさえわからない状態でした。
結局、あきらめて1時すぎ、地下鉄に。地下鉄から地上に出たのが午後2時近くで、地上に出たら、晴れてやんの! 許せん!(ていってもしょうがないんだが)
晴れてるっていっても青空ではなかったし、通過が終わる前に晴れたのかどうかもわかりませんが。おまけに、そこはもう都内ではなかったのだ。
名古屋より西は晴れていたようです。朝、新幹線で名古屋へ行き、見てからまた新幹線で帰れば、午後の仕事には間に合いましたが、新幹線代…。でも、天文マニアはそのくらいはするだろう。
秋にはオーストラリアで皆既日食とか。死ぬ前に一度は見たい皆既日食。でも晴れるとは限らないのですね(皆既なら暗くはなるが)。
8年前の金星の通過も日本は曇りの地域が多かったそうです。次は100年以上先。で、どうする、日食グラス? 部分日食ならそのうちあるでしょう。

ところで、天文ショーを確実に見ようと思うとお金がかかるのですが、エベレストに登るには800万円くらいかかるのだそうで、エベレスト登頂も財布との戦い、だそうです。しかも、いまや、エベレストに登る人は多く、ぞろぞろ列をなして登っているとか。富士山みたい…。

2012年6月6日水曜日

雨が降っています。

朝からの金星の太陽面通過は見られそうにありません。日食グラスを準備しておいたのだが。

ある監督のある映画を絶賛し、最後に苦言を呈したら、それについてブログでひどいことを書いた人がいました。
その人はその監督のサポーターで、その監督の映画を上映することに情熱を注いでいる人のようです。
しかし、その人は、その監督の映画について、少しでも批判的なことを言う人は絶対に許さないのです。攻撃されたのは私だけではありません。
しかも、きちんと反論するのではなく、こういう見方をする人もいるのですね、あきれました、汚い文章です、という、罵詈雑言。私の場合は、共産主義者呼ばわり。こいつ、ネトウヨか?
私が非常に残念に思うのは、人気のある人のまわりにはこういう排他的な取り巻きがいることです。彼らは敬愛する人気者について少しでも批判的なことを言う人を許しません。
こうした取り巻きは、とにかく普通の人じゃないので、無視するしかないのですが、肝心の人気者の方は大変才能があり、なおかつ、人間的にもすばらしかったりするのです。
ただ、人気者でも、そうした取り巻きを持たない人もいます。支持者やファンはいるけれど、批判するやつは絶対許さない、みたいな狭量な人ではない、しごくまっとうな支持者やファンを得ている人もいます。
どんなにすばらしい才能を持ち、人柄もすばらしいと思える人でも、そのまわりに狭量で、他人を攻撃するような取り巻きがたくさんいたら、なんだか、そのすばらしい人もかすんでしまうというか、そういうことを無視して生きる術を手に入れないといけないのかもしれないけど。
なんだかとってもむずかしいですね。
猫スポットも、先週、いやなことがあって、でも、猫たちにとっては、私にいやな思いをさせた人の方がだいじで、私なんかどうでもいいんだ、と思ったら、もう、猫スポットに行くのはやめようと思い、数日行かなかったのですが、先日、行ったら、やっぱり猫になつかれて、また気持ちが変わったりしてしまいます。

追記 そういや、賛否両論を載せたい、とか言われて、いくぶん批判評を書いたら、ほかの人はみんな絶賛で私一人批判、てことが過去にもあったなあ。なんだかもう映画評なんか書きたくなくなったわ。つか、すでにもう、干されてるんだけどね(笑)。
追記2 私はもう二度とこの監督の映画について書くことはないだろう。これまでにも絶賛の評を書いたことがあるのだが、ちょっとでも批判的なところがあると、相手をアカ呼ばわりする取り巻きがいたら、何も言えなくなる。しかも、そいつのブログの方が私のブログよりずっと訪問者数が多いんだからさ。(ちなみに、私はある書き下ろしノベライズのアマゾン・カスタマー評で、「この訳語はなんだ、翻訳者を殴ってやりたい」と書かれましたが、まったく頭に来ませんでした。むしろ、「お金を払って買っていただいたのに、十分な配慮ができなくて申し訳ありません。でも、この本は10日で書かないといけなかったので、時間がなかったのです」と心の中で謝りました。そういう私をここまで怒らせた取り巻きだったわけで、まあ、引用すれば一目瞭然だと思いますが、そこまではしません。)

2012年6月5日火曜日

キネマ旬報6月下旬号

が届きました。
興味深い記事がいくつかあったので、ご紹介。
(その後、考えるところがあって、書き直ししたところがあります。)

1 斎藤環氏の原発問題トーク採録
 この雑誌はこれまで反原発で来たのですが(?)、ここにきて急転回、ていうか、反原発、脱原発の人が気づいていないのかな? もしそうだとしたらヤバイ。
 斎藤環氏は、原発御用学者リストのウィキではエア御用と呼ばれています。
 この採録を読むと、これは本当にエア御用です。原発を推進する理由を精神分析っつうか、夢判断みたいなやり方で探している。
 また、この記事には事実と違うことも多いように感じました。まだ第1回ということなので、これだけで判断はよくないのかもしれませんが、この第1回がかなりトンデモといいますか、1つ1つ指摘してもいいんですが、でも、通して読んで、これってただの面白おかしいトークだったらいいんですが、そういう場面でのトークでもなさそうで…。ま、もう少し様子見ます。
 しかし、キネ旬の原発震災関連特集は、だんだんおかしな方向になっていると思うのは私だけか? いや、そもそも映画雑誌だからいいのか?
追記 参考資料
http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/pages/1020.html
絆という言葉への疑問を読んだときは、私もまともそうだと思ったんですが、このサイトの一番下読むと、キネ旬の記事のトンデモとかぶります。サブカル系の人にこういう人多い、という指摘があって、ああ、そうか、キネ旬もサブカル、とか思ったり…。

2 大高宏雄のファイトシネクラブ「映画をまっとうに観るつまらなさ」
 これはすばらしい。私は大高氏と同世代だと思いますが、最近の若い論客(大高氏の相手が若いかどうかは知りませんが)はマニュアルどおりに映画を分析しているような気がしてならない。マニュアルどおりに作ってないとそれだけでダメというとか。自由な創造というものがわかってないというか。もちろん、若い人にもそうじゃない人がいますが、うーん、昔はマニュアルってもの自体がなかったのでねえ。
追記 あとでよく考えたら、その相手の方の言い分を聞いてないのに勝手に判断してしまったかな、と少し反省しました。私はこの「幸せの教室」は予告編しか見てませんが、リストラされた高卒中年男と女性大学教授の恋、つまり、映画スターと書店員が恋する「ノッティングヒルの恋人」路線だろうと勝手に思ってました。男性の方が身分が低く、女性の方が高いというタイプのラブストーリー。そのためにリストラされた高卒中年男というのを持ってきたのだろうと思い、そして、高卒だからリストラされる、というのは、現実にはそういうことはないにしても、それに象徴されることはある、だからリアリティがないとは思いませんでした。だから、入り口の部分でどう、ということ自体が、ん?ていう感じがします。ま、映画見てないので、私には参加する権利はないですけどね←実はあまり興味のない映画だった。)

3 「スノーホワイト」は観たい映画なのですが、200年前の原作って…。グリム兄弟は昔から伝わる民間伝承を本にまとめただけ。グリム兄弟が考えた話ではないのです。実際、グリム童話の中には先行するペロー童話と同じ話がいくつもあります。白雪姫は200年前どころかおそらく数百年、あるいは1000年くらい前からあった話かもしれないのです。
 私の世代は、っていうと、またまた年寄りの戯言になるが、昔はこういうことは当たり前の基礎知識だったはずなんだけど。昨年まで、某大学の英米文学入門でこういう話をしていましたが、今年はシラバスを全面変更したので、やってません。でも、やらないといけないんだなあとつくづく思います。

テスト

またちょっと投稿が変です。
写真を入れると投稿できなくなるようです。

6月4日の話題は、天文ショー第2弾、部分月食でしたが、東京は曇り空で、時々うっすらと月の光が見えたり見えなかったりする程度だったので、月食はまったくわかりませんでした。
が、月食の終わり頃、少し雲が薄くなったので、写真を何枚か撮ったところ、月食が終わる前は黄色かった月が、終わった直後の時間に白くなりました。光も強くなった感じ。
月食のせいなのか、雲のせいなのかわからないのが困るのだけど、月食が終わる前の写真だと、ちょうど欠けているあたりが暗くなっているのですね。
頭に来ることに、月食が終わったら、空が晴れてきやがりました。
月食撮れないんで、かわりにライトアップされたスカイツリーを撮ったりしたんだけどね。
文字だけならアップできるのかどうか、テスト。

2012年6月3日日曜日

機械翻訳の反対語は?

答えは、なんと、人力翻訳であった!
「翻訳には人力翻訳と機械翻訳がある」とウィキペディアに書いてある、と、あるサイトで知った。
入力翻訳とか、イカ翻訳とか、間違えて読んでしまいそう…。
人力といえば、人力車とか、人力飛行機とかしか頭に浮かばない…。
基本的に足でこぐとか、肉体を、筋肉力を使うもの。
機械にとってかわられてしまうもの。
時代遅れ、な雰囲気も漂う…。いいのか、こんな名称使ってて???

しかし、「人力翻訳」でぐぐると、出てくること、出てくること。翻訳会社も平気で使ってる。これまで私の目に入らなかったのが奇跡だったのか?
さすがに翻訳家のブログ等では見たことないです(よかった)。

付け加えると、機械翻訳にはインターネットの無料の自動翻訳から、専門に特化して作られた高いソフトを使用する機械翻訳まで、さまざまなものがあります。人力にももちろん、さまざまなレベルが(以下略)。

追記 おそらくこの場合の人力の英訳は、manpowerではなく、humanpowerなのでしょうが、後者の日本語訳に「人間力」というのがあって、こっちの方が人間による翻訳にふさわしい気がします。「人間力翻訳」、あるいは「機械翻訳」に対して「人間翻訳」の方がしっくり来るなあ……などと考える私はやっぱり文芸しか能がないのか?
 話がそれていきますが、私が産業翻訳がだめだった理由の1つは、時間があれば1人で訳した方がいいような文書が、数日でやってくれ、とかクライアントから来るので、5人も6人もでやるのですが、そういうグループ作業が私には合わなかったというのがあります。たまたま登録していた会社がやり方が下手だったのかもしれないけど。でも、こういう人海戦術って、まさに「人力」かも。

2012年6月1日金曜日

緑の季節

4月上旬、この猫が去っていく場所は、

いまや緑のカーペットに。

4月に塀の外で見かけたときは、こっちに気づいてくれなかった猫(一番上の猫とは別の猫)が、ここでは気づいて近づいてくれました。

すぐそばまで来た。

かわいい…。

でも、私が写真を撮るだけなので、このあと、別の場所へ行ってしまいました。
一番上の写真の猫は、金環食の日の午後に見たのが最後です。もう会えないかもしれない。