2013年6月30日日曜日

ミステリーズ 運命のリスボン(ネタバレ大あり)

ポルトガルの巨匠ラウル・ルイスの遺作「ミステリーズ 運命のリスボン」をDVDで見た。
昨年、試写状をいただきながら、4時間半という長さにめげ、というよりは時間の都合がつかず、その後も見逃していたが、気になっていた作品。DVDは前編と後編に分かれ、2枚分のレンタル料がかかる。しかも新作なので3泊4日。もう時間がない、ということで、土曜日の昼間に前編、夜に後半を見た。
正直、前半を見終わったときは、これはいける、と思ったのだが、後半は私には退屈で、睡魔が襲ってきた…。
ほかの人はどう見たのかな、と思い、ネットで検索をかけると、やはり退屈という意見が。その一方で、絶賛する意見もあるのだけれど、私の見た感じでは、絶賛する方の人の意見は具体性がなく、参考にならない(探し方が悪いのかもしれないけど)。
舞台は19世紀前半のポルトガルで、そこから地理的にはフランス、イタリア、ブラジル、時間的にはフランス革命前まで広がっている。フランス革命前は男性は半ズボンにストッキングをはいていたが、革命後は今のようなズボンになるので、服装でだいたい時代はわかったし、フランス革命からナポレオン戦争あたりは一応、知っている時代。ただ、この時代にポルトガルはどうだったのか、そういう時代背景と映画の内容がどうかかわっているのかがわからない。この辺がわかると面白いのだろうか。
結論から言えば、この映画は死にかかっている少年ジョアンの見た幻想なのだ。長いので2回見るわけにはいかなかったが、最初のところをもう一度見直したら、修道院のようなところの少年たちの施設にいる孤児ジョアンが同じ施設の少年に「おまえの父親は泥棒だ」と侮辱され、怒って本を投げつけたあと、けんかになり、ジョアンが気絶するほどの大怪我をしたようだ(本を投げつけたあとのシーンは映像がなく、音だけ)。その後、ベッドに横たわるジョアンが幻を見るが、この幻を見るシーンがラストでまた登場し、そのあと画面は真っ白になる({ブラック・スワン」のラストのように)。
ジョアンは本名がわからず、名前もジョアンだけで、姓がない。少年たちの世話をするディニス神父の息子かと聞かれたことがある、というせりふ(ジョアンのナレーション)がある。そして、冒頭では、回復したジョアンが人形芝居のセットをもらい、それを動かすと、母親だと名乗る伯爵夫人が登場する。
この映画にはジョアンの動かす人形芝居が何度も出てくるが、結局、このあとの話に登場する人々の多くは、ジョアンの創作だということだろうか?
伯爵夫人が登場するまで、ジョアンは父親が誰か知りたいと思っているが、母親のことは出てこない。なのに、このあとは伯爵夫人が重要な人物となり、彼女がジョアンを生んだ背景が語られる。
それによると、ジョアンの父は身分は高かったが金がなく、そのために侯爵令嬢だが同じく金のないジョアンの母と結婚できなかった。しかし、2人はあいびきを続け、母はジョアンをみごもる。怒った侯爵の差し金で父は殺され、母はどこかに閉じ込められ、生まれた子供はすぐに殺されることになっていたが、ある人物(神父になる前のディニスだと、あとでわかる)が殺すことを依頼された男(のちに新大陸の奴隷貿易で成功し、アルベルトと名乗って再登場)に金を渡して子供を引き取り、それでジョアンはディニス神父のいる施設で育てられたのだ。
この施設の子供は親が犯罪者である場合が多いようで、ジョアンをなぐった少年は父親が馬泥棒で服役中、別の子供は父親が絞首刑になる。だから、ジョアンも、父親は犯罪者ではないかと思っているのだ。
ジョアンの母はその後、伯爵と結婚させられる。このあたりから前半の最後までは非常に見ごたえがある。伯爵はディニスから、彼女は愛する人を奪われて憎しみしか心にないから、彼女に近づくな、と忠告されるが、伯爵はその忠告を無視して彼女と結婚する。しかし、彼女に隠し子がいたとわかって、妻を幽閉、自分は召使を愛人にする。その後、妻が自由になり、息子ジョアンと暮らすようになると、伯爵はあることないこと、妻についての悪い噂を流す。それに怒ったのがディニス神父と、そして、かつて生まれたばかりのジョアンを殺す予定だったアルベルトで、2人はそれぞれ、伯爵を追い詰める。瀕死の重傷を負った伯爵は妻への虐待を深く反省し、妻に許しを求め、全財産を妻に残して死ぬ。伯爵夫人は夫を許し、妻としての役目を果たさなかったとして遺産は辞退。かわりに遺産を受け取ることになった愛人も辞退。愛人は金が目当てと思っていたディニスと夫人は驚く、というところで前半の終了、休憩となる。
この前半の最後の部分が非常によくて、後半に期待をもたせるものだった。特に、神父と夫人が、遺産を断った愛人の心理を知りたいと思ったり、女子修道院にいるシスターが神父の妹といわれていたが、実は妹ではないらしい、という話が出てきたりと、おお、まさにミステリーズ、と思ったのだ。
しかし、後半に入ったら、愛人の物語も妹の物語もなし。かわりに、ディニスの父と判明した聖職者の話になる。この話がジョアンの両親の話の焼き直しで、政略結婚させられた女性が恋人とイタリアへ逃げ、そこでディニスが生まれたが、母親は死亡。父はディニスを親戚に預け、というふうに、ディニスの出生の秘密の物語が語られる。ディニスはさらに別の家に預けられ、そこで1人の女性をめぐる複数の男の恋愛沙汰に巻き込まれる。その結果生まれた双子の姉弟のうち、姉が成人したジョアンの物語に大きな影を落とすことになり、なおかつ、ジョアンの母の夫である伯爵の愛人だった女性がアルベルトと結婚、そのアルベルトと双子の姉がかつて恋愛関係にあったためにさらにこんぐらかった関係に、というふうに話が進む。
というわけで、一応、伯爵の愛人で遺産を断った女性は登場するのだけれど、遺産を断った背景の物語は全然出てこない(こっちが知りたかったのに)。そして、ディニス神父の妹?のシスターの話は全然出てこないのだ(こっちが知りたかったのに)。
つまり、私が期待したのとは全然違う方向に進んでしまうのですね、後半は。
一方、ジョアンの母はその後、ほとんど姿を見せず、いつのまにか死んでいて、ジョアンの反応がまた冷たい。こいつ、やっぱり父親が気になるだけで、母はどうでもよかったんじゃねーの?と思ってしまうのだ。
しかし、ジョアンの父とされる伯爵夫人の元恋人は出番も少ないし、その後の話でも何か重要なファクターになってるようでもない。
一方、ディニス神父はジョアンが生まれたときからかかわっていて、しかも、わざわざ生まれてくるジョアンの命を救いに行っているのだ。ジョアンの父は、実はディニスではないのか? そして、母親はディニスの妹だといっているシスターでは?(伯爵夫人はこのシスターのいる修道院に身を寄せていた。)
また、ジョアンを殺す予定だったが、金をもらってジョアンをディニスに渡したアルベルトは、ジョアンのその後を気にかけていて、この人も父親的存在。そのアルベルトがジョアンの母の夫の愛人と結婚するというのは、その愛人もジョアンにとっては母親的存在なのでは?(だから2人とも伯爵の遺産を断った?)
つまり、ジョアンの父=伯爵夫人の元恋人=アルベルト=ディニス、ジョアンの母=伯爵夫人=その夫の愛人=シスターでは? ディニスの父と母をこれに加えてもいい。
つまり、全部、死にかかっているジョアンの妄想で、たぶん、実在するのはディニスだけ。いや、このディニスも、現実のディニスと妄想の中のディニスは別人かも。
というわけで、入れ子細工とか、そういった精緻な構造を高く評価する人もいるのだが、私の感想としては、伯爵夫人のエピソードの焼き直しみたいなのが後半に2つも出てくるのはひたすら退屈。焼き直しのようなものを出すことで、入れ子細工を表現しているのだろうが、私は飽きてしまった。
映像的な見どころも、前半でだいたいわかってしまったので、後半はたいして驚かない。
ヨーロッパではロングランヒットしたそうで、また、6時間のテレビ版も放送されたという。確かにはまればリピーターになる人もいるだろう。何度も見ればわかるところも多いのだろうけど、私は前半はともかく、後半はつきあいきれない。
そうそう、後半の最後のエピソード、双子の姉弟の姉が元恋人のアルベルトを恨んで、刺客を何人も差し向け、弟も刺客になって逆にアルベルトに殺されてしまう、というのは、ジョアンの母の夫の伯爵がアルベルトの返り討ちにあって殺されるのと対になっていて、映像も似たような感じになっていたから、ここで前半の最後と後半の最後が呼応しあうのだろうけど、この辺もなんだかなあ、であった。
ジョアンの本当の父と母は、結局、わからないままなのだろう。

2013年6月29日土曜日

ギャツビーはストーカーか?

先日、久しぶりに授業で「グレート・ギャツビー」を取り上げ、映画館で上映中のディカプリオ版を紹介し、ついでにレッドフォード版のクライマックスをちょっと見せたのですが、久々のギャツビーの授業はまんざらでもなかったという感じでした。
実は、数年前、別の大学で「ギャツビー」を数回にわたって、原作を翻訳できちんと読みながら映画を参照、というのをやったのですが、どうも受けが悪かった。毎回小レポートを書いてもらっていたのだけど、女子が多いせいか、なんだかピンと来ないらしいのです。
特に、「ギャツビーは一歩間違えればストーカー」という意見がいくつかあったのには驚きました。
うーん、確かに。
まあ、彼は遠くからデイジーを眺めているだけで、デイジーがパーティに来ることを望んでいるのですが、デイジーは来てくれない。そこでデイジーの親戚のニックを利用してデイジーと再会するのですが、ギャツビーはデイジーに対してまったくごり押しはしてない。再会したデイジーがギャツビーに(あるいは金持ちになったギャツビーに)惚れ直し、という感じなので、ギャツビーはまったくストーカーではないのですが、ストーカーに変えてサスペンス映画にすることも可能か?(おいおい)
とにかく、大学生女子にはギャツビーの心情が理解できないようで、1人の女性を愛し続けるということ自体がストーカーと紙一重なのか?
学生の感想の中には、「こういうのは男のロマンにすぎない」と切り捨てたのもいて、うーん、確かにそうかも。
一応、原作の翻訳を教科書として全員に買わせ、ニックの語りの重要なところとかきちんと読んで、この結果ですので、私が悪かったとも思えないのですが。
男子学生の反応もあまりよくなく、今の若い人には受けないのかもしれない、と思ったので、それからギャツビーを授業で取り上げなくなってしまったのです。今回取り上げたのは、映画館で上映中だからということもありました。
今回取り上げた大学でも数年前までは取り上げていて、そのときはさほど反応は悪くなかったのです。ただ、こちらは1回で取り上げたので、ギャツビー、デイジー、トム、マートル、ウィルソンのぐちゃぐちゃの人間関係がどうしても強調されてしまい、逆にそれが学生には興味を持たれた、という感じがあります(今回も)。
以前はギャツビーというと、村上春樹の翻訳が一番の話題でしたが、今の若い人は村上春樹を読まないということがそのときわかり、愕然としたものです。村上春樹のファンはわりと年配の人に多いようでした。
そんなわけで、現在上映中のディズニーランド化して若者向けになった?新「華麗なるギャツビー」も、私の行った映画館はレディスデーでしたが、思ったより年配の男性が多く、「レディスデーだと損したような気分になっちゃうよ」などと言っているおじさまがいたりするのでした。
1974年のレッドフォード版はそれほど悪くない、と前にも書きましたが、レッドフォード版のファンが意外に多いこと、ディカプリオ版はレッドフォード版を超えるか、などといったことがネットに書かれていて、レッドフォード版は映画ファンにはそれなりに評価されているようです。アメリカの映画サイトのコメント欄にも、レッドフォード版は過小評価されている、という意見がありました。
「華麗なる」という言葉を使った映画タイトルには、60年代に「華麗なる激情」や「華麗なる賭け」がありましたが、現在、「華麗なる」というと、まず「ギャツビー」、それから「華麗なる一族」が連想されるようです。リアルタイムのときには「華麗なる賭け」が高い評価を受け、「ギャツビー」は低い評価でしたが、今では「賭け」より「ギャツビー」の方がはるかに多くの人に見られているのではないかと思います。

2013年6月26日水曜日

久々

猫の写真を撮りに行きました。
とはいっても、午後に雨が降り、行ったのは夕方。
しばらく行ってなかったエリアで、忘れられたかな、と思いましたが、わらわらと猫が出てきました。

この3匹は仲がよさそうだった。

どアップ。

この猫は右端の猫ににらまれてます。

遅れてなじみのミケが登場。ただ、忘れられたのか、以前のようにはなついてくれない。

別エリアへ。



舌に口内炎ができてしまい、日曜から月曜は痛くてたまらず。その上、月曜にはドライヤーが壊れた。2009年製なのでまだ4年。最近のドライヤーは壊れやすいらしい。その前のは20年以上使っていたのだ。髪を乾かそうとしたら壊れたので、携帯用の小さくて軽いドライヤーで乾かす。ドライヤーはシンプルで安いのがいいな。
そして火曜はいやなことがまとめて来る。まとめて来てくれた方がありがたい。いやなことといっても、後に尾を引くものではなく、いやだなあ、で終わるものなので助かった。
さて、水曜は?

2013年6月22日土曜日

リンディ・ラフ、ダラスへ

シーズン途中で長年つとめたセイバーズHCを解雇になったリンディ・ラフが、なんと、ダラス・スターズのHCに就任。
ダラス・スターズといえば、1999年のプレーオフ、セイバーズとスターズがファイナルで対戦。その第6戦で、有名なブレット・ハルの疑惑のゴールでスターズが優勝、という因縁の相手。そして、そのときのセイバーズのHCはもちろんリンディ・ラフだったわけです。
もう14年も前のこととはいえ、セイバーズ・ファンには忘れられない、いまだに痛い思い出ワースト3には入ろうかという出来事。当時のルールではハルのゴールはノーゴールだったはずなのに、ビデオリプレイもされず、そのまま優勝が決まってしまったのです。
もっとも、セイバーズのファンもだいぶ若返ったのか、掲示板ではあまりそれは話題になっていません。むしろ、ラフは東にとどまると思っていたのに、とか、西なら対戦は少ないからどうでもいいや、とか、そんな程度。時は流れたのだなあ。
現在のセイバーズのファンにとっては、2000年代に起こったいくつかのことの方が痛い思い出なのかもしれません。2006年プレーオフ・カンファレンス・ファイナルでけが人続出し、優勝候補ナンバーワンだったのにファイナルも逃してしまったこと、2007年のオフにドゥルーリーとブリエアを失ったこと、などなど。
一方、フライヤーズにいたブリエアがバイアウトされるということで、セイバーズに戻ってきてほしいという声と、いや、もういらないという声の両方があります。戻ってくれば2007年の痛みが払拭される、という声も(ドゥルーリーはすでに引退)。
ダラスの優勝といえば、トレードデッドラインでセイバーズからスターズに移ったデレク・プラントがカップ獲得、6戦の行なわれたバッファローのアリーナでカップを持ち上げた、ということもありました。デレクはラフが来てからアイスタイムが減ってしまって(けがの影響もあったようだが)、それでトレードを志願していた、ということがあったようで、スターズは元はデレクの故郷ミネソタのチームで、当時、デレクの尊敬する選手が現役でいたので、その辺の希望をGMがかなえてくれたのかな、と思いましたが、優勝はまさにタナボタ。しかし、デレクも引退してすでに数年がたち、どんどん時は流れていく…。セイバーズ・ファンになるきっかけになった「ブルース・オールマイティ」からすでに10年なのです。

完璧とは?

このところ、映画の授業の関係で、「ブラック・スワン」をDVDで再見していた。
そこで気がついたのは、この映画には「完璧」というせりふが何度も出てくることだった。
それは「パーフェクト」とか「パーフェクション」といった英語で、字幕でもほぼすべて完璧と訳していたが、1箇所、パーフェクトを超一流と訳しているところがあった(その方がわかりやすいからだろう)。
確かにニナは最初の方のシーンでも「私は完璧をめざしたい」というようなことを言っている。それに対し、芸術監督のトマは、「きみはテクニックは完璧だが、それだけではだめだ」といい、「自分を解き放て」という。
ニナにとって完璧なのはバレエ団のベテラン・プリマ、ベスだ。ニナはベスにあこがれていて、彼女の口紅を盗んで唇に塗ったり、彼女の私物を盗んだりして、ベスになりたいという思いをかなえようとしている。その上、トマもベスのことを「完璧だった」という。ベスは引退させられるが、トマはベスのことをずっと「マイ・リトル・プリンセス」と呼んで特別扱いしている。後半、自動車事故で大怪我をしたベスを訪ねたニナは、「あなたのように完璧になりたい」という。しかし、ベスは「私は完璧じゃない」といい、そして、自分の顔を傷つける。
一方、芸術監督のトマについては、ニナのライバル、リリーが、トマのことを「完璧主義だ」というようなことをいう(ここが字幕だと「超一流」になっている)。
そしてラスト、「白鳥の湖」を踊りきり、倒れたニナがいうせりふが「完璧」。
ニナにとって、完璧とはなんだろうか?
完璧に踊れたということか?
いやむしろ、彼女は踊りきったとき、トマとリリーと母の3人に認められたと感じ、それを「完璧」といったのではないか。
バレエの出だしで失敗したニナは、その後、みごとに黒鳥を踊りきる。トマはニナを絶賛し、ベスに対しいっていた「マイ・リトル・プリンセス」という言葉をニナに対して初めていう。ライバル、リリーはニナの楽屋を訪ね、「すばらしかった」と賛辞を贈る。そのあと、ふたたび白鳥を踊るニナの目に映ったのは、娘の踊りに感動して涙を流す客席の母。トマとリリーと母の3人に認められたことが彼女にとっての「完璧」だったのではないか。
ニナはそれまでずっと、トマとリリーと母のプレッシャーを感じていて、そのために幻覚を見るようになっていたが、それだけ、この3人に認められたかったのだ。
ラスト、腹に深い傷を負ってニナは死んでいくが、完璧な踊りができて、なおかつあの3人に認められたのだから、今ここで死ねばまさに「完璧」ではないか。
踊ることが人生の目的であれば、ニナはここで死ぬべきではない。これからも精進して、もっとすばらしいバレエを見せるべきだ。しかし、認められたいという気持ちが人生の目的だとしたら、ここで死ぬのが完璧なのだ。なぜなら、絶賛されること、認められることは一瞬なのである。今、ニナはすばらしい踊りを披露して、3人に認められ、絶賛されたが、それは今このときだけのこと。明日からはまた別の日が始まり、失敗や成功の繰り返しがやってくる。認められることが目的では、また不幸な日々が続いてしまうだろう。
人は誰だって認められればうれしい。認められないと思えば悲しい。でも、認められるのは一瞬の結果にすぎないし、すべての人に認められることはありえない。逆に、自分はいったい、どれだけ他人を認めているだろうか、と疑問に思う。認める、認めないなんて、その程度のことなのだ。だいじなことは別にあって、認められるのはそのあとについてくるおまけみたいなものであるべきなのだろう。

実は、私の授業では、「サンセット大通り」、「ミリオンダラー・ベイビー」、「ブラック・スワン」を並べて、芸術やスポーツに命を賭けた女性というテーマを出してみたのだけれど、3つとも、女性主人公は命を賭けたものをやり続けることができなくなって死んでいる(「サンセット大通り」の女優は精神的な死だが)。まさに芸術やスポーツに殉じたヒロインということになるのだが、これ以上続けることができない、ということがポイントになっていることに気づいた。ただ、この3本はたまたまそういう映画で、芸術やスポーツに命を賭ける女性の物語がすべて悲劇というわけではない。でも、悲劇のヒロインの方が絵になりやすいし、客を感動させやすい、というのはあるだろうな。

2013年6月19日水曜日

ディズニーランドの新ギャツビー

このところ、表参道駅はギャツビー一色だった、という記事にぼちぼちアクセスがあるのですが、もしかして、私の新「華麗なるギャツビー」の感想を期待している人がいるのかしらん(←いないって)。
まあ、それはともかく、先週金曜から始まったバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の「華麗なるギャツビー」、早速見てまいりました(レディスデーです)。
なんというかもう、こりゃ、ディズニーランドですね。湾があるからディズニーシーか? ギャツビーの邸宅はまるでシンデレラ城だし、私が見たのは2Dでしたが、明らかに3Dをねらってるのがわかる映像もまるでディズニーアニメ。おいおい、これ、ワーナーだよね? ディズニーじゃないよね? さすが「ムーラン・ルージュ」の監督というか、今にも出演者が歌って踊りそうで、いよいよディズニーのミュージカルアニメを彷彿とさせます。ていうか、そういうふうに作ってしまった方がよかったんじゃないの? なんか中途半端なのよ。
「ロミオ&ジュリエット」がよかったのは、シェイクスピアの英語をそのまま使って、でも映像はまったく現代で斬新だったからなのだけど、これは時代は原作そのままだし、ところどころ74年版「華麗なるギャツビー」みたいなところもあるし、やっぱりバズ・ラーマン、終わってるな、と思った。
原作と違ってユニークなのは、ニックが今はアルコール依存症その他で療養所に入っていて、その治療もかねてギャツビーの思い出を書く、という構成になっていることです。そのニックを演じるのがトビー・マグワイアで、この人、回想のシーンからすでにどこか病的な感じなのですわ。これまでのニックのイメージは、中西部からやってきたまっさらな青年がバイアスのない視点でギャツビーとその周辺の人々を語る、というものだったのですが、これは大胆な改変。が、成功してるといえるかどうかはまた別で、この改変がただの改変にしかなっていないのです。こういう病的なニックが見たギャツビーの物語、というふうにはなっていない。
まあ、とにかくディズニーランドなので、あるいはディズニーアニメの実写版ギャツビーみたいな感じなので(ディズニーとは何の関係もない映画ですので、誤解なきよう)、そういうふうに見ていればいいのかな、と思って見ていると、初めてギャツビー(ディカプリオ)の顔がアップになるシーンで、背後にドドーンと盛大な花火が……こりゃ、笑うしかない。
ディカプリオは、例の「オールドスポート」の口癖をまじえながら早口でほら話をしているあたりはとてもよいです。レッドフォードにはなかった闇の世界とのつながりのダークな感じ、本当の自分とは違う作った自分を演じている感じがよく出ています。が、デイジーと再会するシーンや、マンハッタンのホテルでトムに向かってデイジーと別れてくれと言うシーンはだめです。どちらもディカプリオは感情に負けてしまうギャツビーを演じているのですが、そういうシーンになると、ディカプリオの子供っぽさが前面に出てしまう。
ディカプリオは「ギルバート・グレイプ」などで少年俳優として出てきたときは、この人は将来どんなにすごい演技派になるだろう、と思ったものでしたが、その後、アイドル化して、演技賞とは無縁なスターになっていってしまったのですが、確かにこの人は演技に幅がない。「シャッターアイランド」と「インセプション」での彼の区別がつかないように、ディカプリオは常にディカプリオで、それがよい方に出ている映画も多いのですが、ギャツビーにはやはり向かないと感じました。
それでもディカプリオは多くの場面ではよいのですが(肝心のシーンがだめだけど)、他のキャストは74年版に完全に負けてます。トムやマートルやデイジーやウィルソンがブルース・ダーンやカレン・ブラックやミア・ファローやスコット・ウィルソンに負けてるのはまあ、しかたないのですが、ジョーダン・ベイカーまでもがあのロイス・チャイルズに負けてるのは救いようがありません。
74年版は、初公開のときに見たときは、役者はいいけれど映画としてはつまらない、と思ったのですが、数年前から大学で英米文学を教えることになり、参考としてDVDを買って見たら、思ったよりよいというか、よいところがかなりある映画だと思うようになりました。特にギャツビーの車がマートルをひき殺してしまうあたりから、トムの家から帰ろうとしたニックが隠れていたギャツビーに会うシーンは74年版の中では最もよくできた、見ごたえのあるシーンで、ここだけ見てるとこれはかなりの名作だと思ってしまうほどです(冗漫なシーンが多いので、全体としては凡庸なのだが)。今回のバズ・ラーマン版を見ると、74年版は演技と演出の基礎的な力のレベルが高いと感じます。
74年版はニックの語りで始まりますが、途中から語りがほとんどなくなります。が、今度の映画化では療養所のニックが治療をかねて手記を書いているので、ニックの語りが非常に多い。しかし、これがどうも邪魔というか、たとえば、トムがウィルソン夫妻の自動車修理店に立ち寄るシーンで夫妻が引っ越すということを聞き、トムが妻デイジーと愛人マートルの両方を失う危機だということを、今回の映画ではニックの語りで念押しするのですが、映画でこれをやってはだめなのですよ。映像と演技でわからせないといけない。74年版はこの原則に沿って作られていたのに、今回はとにかくニックの語りに頼る。いや、それだけでなく、トムがウィルソンにマートルをひいたのはギャツビーだとわからせるのをせりふでこれでもかというくらいわかりやすく話すのですね。まあ、最近のハリウッド映画はとても親切で、ぼけっと見ている人にもわかるような配慮が多いのですが、ここもぼけっと見てる人にわかるようにはっきりせりふで言うわけです。ぼけっと見てる人にもわかるように、といえば、マンハッタンのホテルでギャツビーがトムにデイジーと別れろと迫るシーン、原作でも74年版の映画でも、ギャツビーがなんで富豪になったのか、あまりはっきりとは言わない、でも、何か後ろめたいことをして金を稼いだらしいことがわかる、という描写なのですが、それをものすごくはっきりと具体的にトムはせりふで言います(原作者、ここまで書いてなかったよね)。
というわけで、ある意味、とても親切な映画で、そういう意味でもディズニーランドかもだ(ディズニーとはまったく関係ない映画です、再び念のため)。
それにしても、ニックはどうしてこのあと、療養所に入るような精神的ダメージを受けたのでしょうね? 回想でもすでにどこか病的、と書いたけど、戦争に行って心的傷害を受けたとか? ギャツビーの件だけでここまで病気にならないだろう、と思うのですが。ただ、最初にギャツビーとニックが会うシーンで、なんか、この2人、ゲイっぽい、と、ちらっと思ったのですが、ニックは実はゲイで、ギャツビーに恋してた、というくらい大胆な設定にしたら面白かったのになあ、と思うのです。そういえば、この映画ではニックとジョーダンがつきあう話はほぼなかったですね。もしかして、ニックをゲイにするアイデアがあったけど、OKが出なかったのであろうか?

というわけで、一応見てきましたが、この映画、わりと早く記憶から消えてしまいそうです。
帰ると、キネ旬の最新号が届いていました。巻頭特集がこの映画なので、特集の最初のページを見てびっくり! 「1920年代のニューヨーク、中西部からコニーアイランドの高級住宅地ウェストエッグにやってきたニックは・・・」あー、またやっちゃいましたね、キネ旬。ニックは遊園地に引っ越したのか?(笑)。
(豆知識:舞台となるロングアイランドは、最西部がニューヨーク市で、それ以外はニューヨーク市外となります(州はニューヨーク州)。ロングアイランドというときは、普通は、ニューヨーク市外の部分をさします。また、デイジーとジョーダンはケンタッキー州ルイヴィルの出身とせりふにもありますが、ルイヴィルは「インサイダー」のラッセル・クロウ演じる人物が住んでいたところだよ。ケンタッキー州は現在は南部に分類されますが、歴史的に中西部に分類されていたこともあり、デイジーとジョーダンも中西部出身となります。またトムはシカゴ、ニックはミネソタ、ギャツビーはノースダコタの出身で、これらもすべて中西部です。と、知識をひけらかしてみました。)
特集の中はまだ読んでませんが、ちらちらっと見た感じではなんだかなあな印象。

「ジンジャーの朝」はいい映画でしたが…

「オルランド」や「耳に残るは君の歌声」のサリー・ポッター監督の新作「ジンジャーの朝」を見てきました。
原題は「ジンジャーとローザ」で、1945年、広島原爆投下の年にイギリスで生まれた2人のヒロインの名前です。
2人の母は病院でベッドが隣りで、同時に娘を出産。誕生したジンジャーとローザは幼馴染として育ち、やがて1962年、キューバ危機で核戦争の恐怖が世界を覆っていた年、2人は反核兵器運動に参加するように。
ジンジャーは本名はアフリカだそうで、最初の人間である女性が誕生したのがアフリカなので、それにちなんでつけられたそうですが、生姜色の長い髪からジンジャーというあだ名がついたようです。一方、ローザは長い黒髪の持ち主。ジンジャーを演じるのはダコタ・ファニングの妹エル・ファニング、ローザを演じるのはジェーン・カンピオンの娘アリス・イングラート。
映画はジンジャーの視点で語られていきます。ジンジャーは詩人をめざし、社会問題に関心があり、知的な関心や思想に生きようとする少女。父親は思想家で、投獄されたこともあるらしい。ローザの方は幼くして父が家を出ていったという過去がありますが、こちらはごく普通の少女で、ジンジャーに比べるといわゆる女性らしい性格や関心の持ち主です。
キューバ危機の頃は、私はまだ幼くて、ほとんど何も覚えていないに等しいのですが、この映画を見ると、イギリスではイギリス政府が核戦争も辞さないと主張していて、市民の間にも不安が広がっていたようです。キューバ危機を描いたアメリカ映画は過去にありましたが、これほど核戦争の不安があったように描かれた映画はちょっと記憶にない。あるいは、これは10代の少女ジンジャーが過度に核戦争の不安を感じていた、ということなのかもしれません。
社会問題に関心があり、思想を持ち、T・S・エリオットの詩を読み、ボーヴォワールについて話すジンジャーは普通の少女ではなかったに違いありません。特に当時は女性は恋愛や結婚にしか関心を示さないのが当然とされていたので、ジンジャーは非常に変わった少女であっただろうと思います。対照的にローザは当時としては普通の少女、女らしいことに興味のある少女で、反核運動への参加も親友のジンジャーにつきあっている程度という感じです。
そんな対照的な2人の少女の間に決定的な溝が生まれる事件が起きます。かねてから不倫が多く、妻と別居していたジンジャーの父が、こともあろうにローザと不倫。しかも、同じヨットに娘が乗っているのに、父親はローザと関係を持つ。そして、やがて、ローザは「妊娠したみたい」と言う。
このジンジャーの父親というのがかなり変わった人で、思想家というけれど、何か理屈をこねくりまわしているだけの、わりと底の浅い人ではないかと思ってしまう。
結局、この父親とローザの不倫がばれ、両方の家族と知人たちまで巻き込んでの修羅場がクライマックスになりますが、ジンジャーが感じる核戦争への不安と、家族や親友との人間関係の崩壊が重なって、なかなかに深いものがあるクライマックスです。
ジンジャーが反核運動で逮捕されたあと、反核運動なんかしているなんて頭がおかしいと医者が言ったりするあたり、当時のイギリスはこういう世界だったのか、と思ってしまいます。核戦争も辞さない、という政府の態度を支持しない人はおかしいと思われていたのか。震災後の日本をちょっと連想してしまいました。
ラジオのニュースにバートランド・ラッセルの名前が出てきますが、ラッセルは反核運動でアインシュタインと共闘した人で、社会活動で2度も投獄されているそうです。

と、なかなかいい映画だったのですが、プレスにスタッフキャストの一覧がないので、驚きました。最近、試写でもらうプレスの中には、こうした必要事項がなぜか載っていないのがまれにあるのですが、役名と俳優名のリストがないのは資料としてどうなのかと思います。

また、夏に向けて気が重くなることの1つに、試写室の冷房がきいていない、ということがあり、この試写室はいつも上映が始まる直前にならないと涼しくならないのですが、混む試写だと入れない恐れがあるので20分から30分前に行くと、それから上映開始まで汗だくになって待たなくてはなりません。特に今回は室内の空気がものすごく悪く、気分が悪くなったので、外に出ていましたが、ほかにも外に出た人が何人もいたせいか、早めに冷房が入りました。が、そのかわり、上映途中で冷房を切られてしまった。
不思議なことに、試写室内は冷房をけちって暑いのに、試写室の外、スタッフがいるロビーなどはとてもよく冷えているのです。この試写室はやっぱり夏は鬼門です(いろいろ事情があるのでしょうけど)。

2013年6月16日日曜日

清澄庭園2

前回は花ショウブと鷺の写真選びに忙しく、あまり庭園内の様子のわかる写真をアップしなかったのですが、実は、そういう写真をあまり撮っていませんでした。日本各地から集めた石や、水の中に石を置いてそこを渡れるようになっているところなど、花や鳥以外にも面白い風景がいろいろあったのですが(また行こう)。
で、今回、最初に撮ったのが鳩。

鳩をロングで。庭園の真ん中に大きな池があります。

池の向こう側の涼亭。

亀がものすごく多い。池をのぞくと亀がうじゃうじゃいます。

鴨はそんなに多くない感じ。

こんな花が。

こういう石があちこちに置いてあります。

花ショウブ。白が多い。

色のついているものは青や紫でしたが、この紫以外は色がいまひとつ。


途中から陽が照ってきましたが、花ショウブや紫陽花は陽が当たると風情がなくなります。今日のような雨の日に完全防備で行く方がいいのかもしれない。

石に咲く花。
 涼亭と、手前の石に亀。

ここは5月上旬にはツツジでいっぱいになるそうです。

鷺と鴨と鯉。鯉も多い。

小魚をくわえた鷺。

庭園を出て、新大橋まで歩く。隅田川の近くなので、スカイツリーが見えます。新大橋を渡ると中央区です。庭園は江東区。

清澄庭園

雨の上がった週末、花ショウブを見に行こう、と出かけたのが清澄庭園。以前から行きたいと思っていましたが、花ショウブが見ごろということで、出かけてみました。
清澄庭園は狭いので、旧古河庭園同様、入場料は大人150円。でも狭いわりには見ごたえのある庭園でした。
ますは紫陽花と池の向こうの涼亭という建物。


池のまわりを半周して、その涼亭の奥に花ショウブがあります。

たくさん咲いてはいるのですが、まわりに水があり、近づけないので、アップでうまく撮れません。ロングだと花が細かすぎる。


花ショウブの手前に広場があり、クローバーがびっしり。その中に咲くヒメジョオン。

虫がとまっています。

こんな具合に2箇所に花ショウブが咲いています。真ん中は橋。白が多いので、白を抜こうか、と係の人が話していました。

バックは水です。

まだつぼみがたくさんあるので、これからも咲くでしょう。

たくさん写真撮ったわりには出せるものが少ない。残念。

池に戻ると、鷺がいました。

そばに人がいても全然動じず、小さな魚を取っていましたが、ここは餌が少ないと思ったのか、さっと飛んでいってしまいました。

亀や鴨を見ながら池を半周して、入口近くに戻ります。

すると、そこにあの鷺が飛んできました。

魚をくわえている。

ここは子供が鯉にエサをやっているので、小魚も来ているようで、鷺は何度も魚を取っていました。

魚をくわえている。

すぐそばに人がたくさんいても全然平気。むしろ、人間の方が気をつかって、近づかないようにしているけれど、近づいても悠然としています。バックは涼亭。

すぐそばでしばらく撮っていたのですが、それから少し高いところにあがって、紫陽花と鷺を。

だいぶ離れたところから12倍ズームで。このとおり、モデルさんのように平気です。

庭園内には庭園を造った人が集めたという、日本各地の石があり、また石仏や下のようなものが。

閉園時刻が近づき、鷺も人がいないとこへ飛んでいきました。これも12倍ズームだが、ぼけてしまっている。最近のデジカメは20倍ズームとか当たり前らしいけど、私のは古いので12倍が限度なのだ。

この日は人もあまり多くなかったので、ゆっくりできました。お気に入りの庭園になりそうです。

2013年6月13日木曜日

夜の紫陽花・携帯写真

かんかん照りのときに紫陽花祭に行ってしまい、なんとなく干からびた紫陽花ばかりでしたが火曜日から雨になり、今日はたまたま夜に神社のそばを通ったので、雨の紫陽花をのぞいてきました。
夜だから真っ暗かな、と思ったら、あちこちに電灯がついていました。住宅街の中にあるので、住民の通り道にもなっているようだ。






紫陽花はやはり雨が似合いますね。
ところで、GWに行った小石川後楽園では、今月4日にすでに花ショウブが見ごろになったそうです。もう10日近くたってしまったから、ピークを逃してしまったかもしれません。

以下は、しばらく前に撮った猫の写真。