2013年8月31日土曜日

恋するリベラーチェ

マイケル・ダグラスとマット・デイモンがゲイのカップルを演じ、監督はスティーヴン・ソダーバーグ、共演はダン・エイクロイド、ロブ・ロウ、デビー・レイノルズと、超豪華なこの映画、実はアメリカではテレビ映画として放映されたのだそうだ。
テレビ映画とはいっても、劇場公開映画と同じくらいお金がかかっていて、ただ最初と最後が劇場用映画に比べてちょっと雰囲気が違う(冒頭があっさりしていて、エンドクレジットがしつこくない。ミニチュアのピアノをいくつも使ったおしゃれなエンドクレジットがいい)。でも、内容はしっかりしていて、RottenTomatoesでは批評家の評価は94パーセントフレッシュと、異様に高い評価を得ている。
なんでテレビ映画になったのかというと、この企画、5年くらい前にはすでにダグラスとデイモンの主演が決まっていたのに、内容が「ゲイすぎる」ということで出資者が現れず、結局、有料テレビ放送のHBOが製作に乗り出したとのこと。カンヌ映画祭のコンペに出品され、ダグラス扮するリベラーチェの犬がパルム・ドッグ賞を受賞。アメリカ以外の国では劇場公開、ということで、日本では11月公開予定。
「ゲイすぎる」とはいっても、別にハードなシーンがあるわけではなく、50年代から70年代にエンターテイナー・ピアニストとして活躍したリベラーチェの最後の10年、77年から亡くなるまでを描いている。この10年間のうち、5年間を共にしたのがスコット・ソーソンという青年(デイモン)で、このスコットの書いた本をもとにしている。
リベラーチェはアメリカでは自分の名前を冠したテレビ番組も持っていたくらいの有名人だそうで、アカデミー賞にもプレゼンターとして出演していたそうな。私はまったく知らなかった。
ゲイであることをひたかくしにしていたリベラーチェだが、その私生活は若い恋人を次々と取替え、召使にも元恋人みたいな人がいて、スコットはバイセクシュアルとのことでわりと男っぽいのだが、リベラーチェや召使はいわゆる「オカマ」と言われるようなわりと女っぽいタイプ。この女っぽいタイプのゲイをマイケル・ダグラスが絶妙な演技で演じている。ダグラスは最初は二枚目俳優で出ていたが、「ウォール街」で悪役を演じてイメージが変わったけれど、この映画ではまた別のイメージが加わった感じで、すでに父親を超えているかもだ。
ダグラスは「カッコーの巣の上で」で若くして製作者として成功、アカデミー賞作品賞を受賞したが、俳優としてはまだ映画では活躍しておらず、製作した「チャイナ・シンドローム」では主演のジェーン・フォンダ、ジャック・レモンに比べるとだいぶ格下だったので、自分が主演することなど考えもせず、別のスターを配役した。ところが、そのスターが直前になって降りてしまい、かわりに自分が主演することになったのだそうだ。この映画がきっかけで、ダグラスは映画スターとしての地位を築く。
「恋するリベラーチェ」ではリベラーチェがアカデミー賞授賞式にプレゼンターとして出演する話が出てきて、このときはジェーン・フォンダが父ヘンリー・フォンダと共演した「黄昏」が話題になっていて、リベラーチェがジェーンについて話すあたりが「チャイナ・シンドローム」を思い出しながら見ると面白い。「チャイナ・シンドローム」の頃、ダグラスとジェーンは社会活動家として有名だったのだ。
若い恋人役のマット・デイモンも好演している。最初に登場する頃は本当に若い、美少年という感じで、最後は大人になった顔に変化している。ラスト、リベラーチェの葬式で彼が夢想するリベラーチェの華麗な舞台、そこで「ラマンチャの男」の見果てぬ夢を歌うリベラーチェのシーンがすばらしい。リベラーチェのショーのシーンをもっと見たかったと思う。
なお、この映画は作曲家マーヴィン・ハムリッシュの遺作となった。
(画像はRottenTomatoesより)

2013年8月30日金曜日

「東京」の風景

「東京家族」の追記ですが、この映画では老夫婦の長男はつくし野というところに住んでいて、映画の冒頭から「つくし野」という地名が何度も出てきます。
私はつくし野というのは神奈川県横浜市だとばかり思っていて、東京なのに???東京にもつくし野が???と思って見ていました。
東京の西の方で、新幹線は東京より品川で降りた方が近い、という場所だとどこだろう、と、東京西部というと中央線と京王線と西武線の沿線しか知らない私は考え込んでいました。
調べてみると、つくし野は東京都町田市。町田市が東京都だということは知っていますが、実は、町田市を神奈川県だと思っている人がかなりいるのです。私が東京都だと知っているのは、ひとえに、私が神奈川県生まれなので、神奈川県ではないことを知っていて、消去方式で東京都になるからです(町田市民のみなさん、ごめんなさい)。
実際、町田市は神奈川県にはみだしていて、特につくし野は横浜との境にあります。ほとんど横浜、だから横浜だと思ってたのか。
このあたりは多摩丘陵を切り開いて造った昭和の新興住宅地のはずだ、と思い、ウィキペディアで調べたところ、東急田園都市線のつくし野駅がまずできて、そこからつくし野という地名になったそうです。東急が開発した住宅地で、80年代にはテレビ「金妻」の舞台になったとか。おう、ファッショナブルな町だったのではないか。
マンション建設が禁止されているので、80年代からの町並みがそのままにある、とのことで、そうか、それでここが選ばれたのか、「東京家族」に。
確かに70年代頃から鉄道会社が郊外に住宅地を開発し、そこがベッドタウンになる、という時代がありました。東京郊外や他県に次々とベッドタウンができた時代です。
この映画のつくし野は、だから、東京の代表というよりは、昭和後期にできた首都圏のベッドタウンの代表なのです。

映画に出てきた東京の風景もう1つ。
ツタヤで4枚1000円でレンタルし、「オズ はじまりの戦い」、「俺たち喧嘩スケーター」、「東京家族」のことは書きましたが、最後の1枚はタルコフスキーの「惑星ソラリス」。もちろん、初公開時に岩波ホールで見ています。あれ以来、私のSF映画ベストワンの地位を初代「スター・ウォーズ」と分け合っている映画ですが、その後見る機会がなく、記憶の中の映画になっていました。DVDもしばらく売っていない状態で、大学でSF映画の講義をしたときも、「惑星ソラリス」がないのでしかたなくソダーバーグの「ソラリス」を取り上げたのでした。
そして今年、新たにDVDとブルーレイが発売になり、DVDをレンタルして、久しぶりに、日本公開が77年だから実に36年ぶりに見ました。
この映画については1回しか見てないにもかかわらず、かなり細かいところまで覚えていたのですが、その覚えていたところが記憶の中で増幅されていたみたいで、あれ、こんな程度の描写だったのか、と思うところもいくつもありましたが(小さい画面で見たから小さく見えた、というのもあるけど)、1番印象が違ったのが、前半の東京の首都高速が出てくるところです。
この映画は1972年製作で、日本公開は5年も遅れたのですが、タルコフスキーは未来都市の映像に東京を選び、首都高でロケしたのです。
これは公開当時もとても話題になっていたので、映画館では目を凝らして見たのですが、当時はあまりピンと来ませんでした。関東に住んでる人間からしたら、あまりに日常の風景なので。
しかし、今見ると、この首都高の風景が70年代のSF映画の未来都市にぴったりなのです。
映画はまず、水と緑に包まれた田舎の家から始まり、その家を訪れていた男が車で都会に帰る、そのシーンに首都高が使われています。当時の東京は今ほどビルがなく、もちろん、超高層ビルもなく、今より空が広いですが、なぜか、この方が今の東京よりこの映画の未来都市に合っている。トンネルのシーンが多いのも意図的だと思いますが、日本語の案内板もいくつも映ります。それも、今みたいな電光掲示板じゃなくて、いかにも昭和の時代のキッチュな掲示板です。当時はやっぱり、これはあまりに身近すぎて、アレでしたが、今見るとおお、70年代のSF映画の未来都市じゃん、と思えるのは、もちろん、「ブレードランナー」のおかげです。「ブレードランナー」は「惑星ソラリス」の10年後の作品ですが、ある意味、「ブレードランナー」を先取りしてたかもだ、この首都高のシーン。
「惑星ソラリス」についていえば、あのラストの衝撃に尽きますね。あのラストも、私の記憶では、ワンカットでずっとカメラが引いていった印象だったのだけど、いくつものカットの積み重ねでした。

2013年8月28日水曜日

ジョブズの伝記映画のこととか

7月末に夏休みに入り、それまでの鬱憤を晴らすかのように試写を見たり、名画座に行ったり、DVDをレンタルしたりしている映画三昧の日々。ほんとは論文を書くはずじゃなかったのか? だが、なぜか、今年に限って、これまで論文の募集をしていた大学が募集の案内をしてこないのだ。なので、論文やめて、とにかく映画を見ることにして、約1ヶ月。忙しい時期なら避ける映画も積極的に見ています。
で、火曜日はその、忙しい時期ならパスしたかもしれない試写の2本立て。
「ウォーム・ボディーズ」はゾンビの少年と人間の少女が恋をするラブストーリー。最近はゾンビとか全然だめで、こういうのは普通はパスなのだが、RottenTomatoesの評価がばかにいい。81パーセントフレッシュ、とか出ている。例のカナダのおバカなホッケー映画「俺たち喧嘩スケーター」が、なんと、ここでは82パーセントフレッシュなのだ。アメリカって、コメディに甘いのか? で、このゾンビ映画ももしかしてティーンが主役のコメディ?と思って見に行った。
が、残念ながら、コメディじゃなくて、ジュブナイル・ラブストーリーというか、そういう感じ。こういうのがRottenTomatoesで高評価なのか。うーん、日本じゃ全然受けてないようで、試写室あまり混んでいませんでした。私としても、「俺たち喧嘩スケーター」の方がずっといいよ(単なる趣味の違いですが。「ウォーム・ボディーズ」も後半はほのぼのとしてよいよ)。
そして、そのあとは、「スティーブ・ジョブズ」の試写会。六本木のシネコンで、試写状には座席指定のことは書いてなかったので、座席指定ではないのかと思って見に行ったら、座席指定だった(がっくし)。
映画館での試写の場合、座席指定だと、私のような者は非常に見にくいスクリーンの目の前になってしまうので、座席指定の試写会には行かないようにしていたのです。
まあ、受付してから座席指定だとわかっても帰るわけにはいかないので、一応、とっても見づらい席で見てきました。
この映画、RottenTomatoesではなんか、26パーセントフレッシュとか、あまりにもひどい評価でした。なので、座席指定だったらわざわざ見に行かなかったわ、な映画なのですが、見たあと、とんでもないことが。
なんと、この映画、ジェームズ・ウッズが出ているのです!
なのに、私は全然気づかず(長年の彼のファンなのに)、エンドクレジットで初めて知った。
何の役だったのか全然わからず、帰ってからネットで調べ、映画の最初の方、大学に入ってすぐに退学してしまったジョブズに声をかける大学教授の役だった。
写真見たら、確かにウッズでした。なんでわからなかったんだろう。でも、彼も年取って、雰囲気だいぶ変わったのだな。
映画はまあ、別に映画で見なくてもわかるような内容で、あちらの評判悪いのわかりますが、ジョブズ役のアシュトン・カッチャーは好演しています。ジョブズのこと、あまり知らない人にはいいのではないかな。特に、就職がうまくいかないから起業、とか、ノマド、とか夢見てる人に、起業ってこのくらい才覚がないとだめなんだよ、ってことをわからすのにはいいと思います。また、ビジネスのきびしさ、冷酷さもよくわかります。

2013年8月27日火曜日

家族の話

フランスのユダヤ系女性監督ロレーヌ・レヴィの「もうひとりの息子」を見た。
湾岸戦争の頃、イスラエルの同じ病院で2人の男の子が生まれ、爆撃から避難させたときに赤ん坊を取り違え、パレスチナ人の子供がユダヤ人の子供に、ユダヤ人の子供がパレスチナ人の子供になってしまう。そして、18年後、イスラエルのユダヤ人として育った青年が軍隊に入るために受けた血液検査から取り違えが発覚、2つの家族は動揺するが、やがて2つの家族、子供同士の間に交流が生まれ、イスラエルがヨルダン川西岸地区に建設した分離の壁を越えて友情と絆が生まれる、という物語。
実にいい話で、どちらの家族も人間的にすばらしい人たちで、また、ユダヤ人とアラブ人が見かけだけでは区別がつかない、人種的には同じ、ということもよくわかる。いやな出来事とかもほとんどなくて、こんなにうまくいくかな、と思いつつ、人間は本来は善なのだからきっとうまくいく、みたいな希望を感じさせる。

さて、家族の話といえば、今年前半話題になった山田洋次の「東京家族」。「たそがれ清兵衛」以来、山田洋次の映画はずっと試写で見せてもらい、雑誌に映画評を書かせてもらっていたが、「東京家族」はそのような機会はなく、映画館も行かず、という状態だった。
名画座では上映されているのだけど、先日、ツタヤへ行ったときにDVD借りてしまった。
見ていて、なんとなく興味がなくて、結局ツタヤのDVDになってしまったわけがわかった。
もともと小津安二郎は苦手というより食わず嫌いで、なんでそうなったかというと、中学時代、テレビで黒澤明と小津の映画が毎週放送されていた。黒澤映画は大好きで、毎週見ていたのだが、小津映画はだめだった。しかし、映画ファンの父親が、「黒澤だけじゃなく小津も見ろ、ほら、見ろ、この低い位置のカメラ」とかいろいろ言うのである。中学生の子供に低い位置のカメラだの対峙する人物のカットバックだの、わかるか!(わかる人もいるのでしょうが。)
そんなわけで、私が小津食わず嫌いになったのは父親の影響が大きいのだが、シネフィル的言い回しが大嫌いなのも、実は父親の影響のような気がする(父はシネフィルではなかったが、小津だとそういうことを言うもんだと思ってたのだろうね)。
そんなわけで、「東京物語」はちゃんとは見てない。中学のときにテレビで見たかもしれないが、まったく記憶にない。なので、「東京家族」についても、何か言える立場にないと思っていた。
でも、DVDで見ていると、原典とは無関係に気づくことがある。まず第一に感じたのは、「オズ はじまりの戦い」のときに似てるな、ということ。「はじまりの戦い」は39年版「オズの魔法使」をいちいち思い出させるので楽しくない、と書いたけど、この「東京家族」ももしかして、と思ったら、キネ旬の山根貞男氏が同じようなことを書いていた。「東京物語」をいちいち連想するので窮屈だ、というようなことだ。また、山根氏は、描写がくどい、観客に親切にわからせるようにしているのだろうか、ということも書いているが、それはキネ旬のこの映画の特集号の山田洋次のインタビューで、山田自身が小津は描写がわかりやすいと言っていて、そこから来ているのかな?と思った。
そのほか、山根氏が書いている年齢もずっと気になったことで、「東京家族」の老夫婦は結婚前に「第三の男」を見たというから、どう見ても80歳くらいじゃないとおかしい。見掛けも80歳くらいな感じにヨボヨボ。で、老夫婦が80歳くらいだとすると、子供は50代、孫は20代になってしまい、この話が成立しなくなる。80歳の老夫婦が東京の長男の家を訪ねたら、孫はもうみんな独立していて部屋はいくらでもあいているだろう。実際、舞台美術のアルバイトをしている若い次男が現れたとき、私はこの人は老夫婦の孫なのだろうと思ったくらいだ。
途中で老夫婦の妻が68歳というせりふがあるけれど、68歳だと2000年くらいがタイムリミットだと思う。この映画は2000年くらいに設定した方がリアルになると思うのだけど、2000年とはバブルが崩壊し、失われた10年がすぎた頃で、阪神大震災やオウム真理教事件があって、「日本はこれからどうなるのだろう」(老夫婦の夫のせりふ)という感じが出始めたときだ。しかし、この映画が舞台にしている2012年ではもう、日本はどうなるのだろう、どころではない絶望感がある。
映画に登場する古い日本家屋の室内も、明らかに昭和の室内で、2000年にはこういう家やアパートがまだたくさんあったけれど、今はかなり少ない。フリーターの次男が古い木造アパートに住んでいるのは金がないからだろうし、長女の美容院が古いのは夫の持ち家だからかもしれないが、大人になってから東京に出てきて開業した長男の家は古すぎる。出てくる室内がことごとく「男はつらいよ」の世界、昭和の世界なのだ。
いつもはあまり参考にしないキネ旬なのだけど(失礼)、「東京家族」については特集はじめ、とても参考になった(山積みになってたのを全部ひっくり返して探して読んだ)。星取り評では、震災を取り入れたのが裏目に出て意味不明に、というのに共感する。「陸前高田」とか「南相馬」とか、そしてスカイツリーとか、ただの言葉にすぎない。老夫婦は観光バスに乗ってるのに、なぜスカイツリーに登らないのか(スカイツリーに登るコースがたくさんあるそうだ)。
フリーターの次男についても、これを現代の非正規の問題とはまったく見ることはできない。現代の非正規の問題というのは、ワ*ミやユ*クロでバイトしている息子に親が「正社員になれ」といい、すると息子が「ワ*ミやユ*クロの正社員はみんな過労死してるんだぜ、俺はバイトだからまだやってけるんだよ」と言う、というふうにして描くものだ(ワ*ミはイタミとか、ユ*クロはユニシロとか名前変えてね)。この次男は役者や芸術家や作家になるためにバイト生活をするという、昔からあるパターンなのだ。非正規をはじめとする現代の日本の就労状況は映画ではまったく無視されている(2000年ならこれでいいのだが)。
震災を取り入れたのが裏目、と星取り評に出ていたけど、「たそがれ清兵衛」からずっと映画評を書いてきた身として考えると、山田洋次は久々に空気読んじゃったな、という感じ。彼は「たそがれ」以前は、とちらかというと、空気を読んで観客が望むことを優先する監督だったが、「たそがれ」からは空気を読むのをやめ、自分の撮りたいこと、やり方を最優先にした、だから「たそがれ」からは以前とは違う傑作が次々と生まれた、と私は思ってきた。それを最もよくあらわしているのが「母べえ」のラストだ。あそこで母べえは自分の本音を自分の声では言わず、娘に言わせるのだが、そこを、母べえが自分で言った方が感動的だったのに、と言う評論家がいたのだ。それを聞いた山田洋次は「そうなのかなあ」とトボけていたが(?)、山田は母べえに直接言わせた方が観客は感動することはわかっていたのではないか。でも、あえて、それをしなかった。空気を読むのを拒否して、別のやり方をした。私が「母べえ」を高く評価しているのは、実はこのラストなのだ。このラストが観客受けの空気を読んだものだったら、私の「母べえ」の評価は下がる。
震災が起こったあと、映画を製作中の監督がそれを取り入れる動きがあり、さまざまな分野で震災を無視して何かを作ってはいけない、書いてはいけないみたいな風潮があったと思う。山田洋次もこの空気を読んでしまったのだと思うと残念だ(森田芳光みたいに絶対空気読まない監督の方が私は好きなんだが)。
リメイクという言葉を使わないことについては、山田洋次はリメイクという言葉を低く見ているのではなく、インタビューで言っているように「模写」のつもりなのだろう。また、「東京物語」への言及がクレジットにないのは「オズ はじまりの戦い」が39年版映画へのクレジットがないのと同じで(ボームの原作ではなく、39年版のありとあらゆるところをパクッている)、言わなくたってわかるだろう、ってことだと思う。もちろん、著作権的なことは全部裏で根回ししているに違いない。

2013年8月25日日曜日

ディズニーのオズはなぜ暗いのか?

ディズニーの「オズ はじまりの戦い」をDVDで見た。「オズの魔法使い」関係はずっとフォローしてるので(舞台の「ウィキッド」はまだ見てないが)、映画館へ行こうと思っていたのだが、3Dだというのにめげて、結局DVD鑑賞に。
うーん、こりゃ、映画館まで行かなくてよかったかも???
DVDには映像特典として、ウォルト・ディズニーの「オズの魔法使い」への思いを描いたドキュメンタリーがありましたが、1930年代、彼が「オズの魔法使い」をアニメ化したいと思ったときにはすでにMGMが映画化権を取得、そしてあのジュディ・ガーランド主演の永遠の名作「オズの魔法使」が1939年に公開。しかし、ウォルトはその後も「オズ」映画化に執念を燃やし、50年代についに映画化権を取得、実写で映画化しようとしたのだけれど、テレビ版を作ったあと、映画化を断念してしまったそうな。
まあ、あのMGMの「オズの魔法使」を超えるものを作るのは無理と、彼もわかったのでしょうが、当時のディズニーの実写ミュージカルのコンセプトはすでに時代遅れであったこともドキュメンタリーでは指摘されています。そして、新しいコンセプトで生まれたのがあの「メリー・ポピンズ」であると。
一方、MGMの「オズの魔法使」は、こちらのDVDの特典映像でも描かれているように、ディズニーアニメを実写でやろうと、MGM全体が一丸となって取り組んだ映画だったようです。そういうふうにして見ると、確かに、この「オズの魔法使」はディズニーアニメのコンセプトを実写でやったというのがよくわかるのですが、現実をモノクロ、オズの国をカラーで描いたり、現実とオズの国の人物を同じ俳優が演じたり、そしてラストの夢落ち(原作は夢落ちではない)と、現在のファンタジーの元祖的要素が多数見つけられる映画でもあります。また、CGはおろか、ろくな特撮がなかった時代に手作りで作った竜巻、1つ1つていねいに作られたセットや小道具など、今見ても驚くほど手をかけた作品。そして、世界中から集められたという小さい人たちの演じるマンチキンなど、これを見ると、CGでなんでも簡単に作れてしまう今の映画が逆に薄っぺらく感じられてしまうほど(ただ、特殊メイクの幼稚さだけはなんともしがたく、特にライオンのメイクは今見るとかなりキモイ)。
そんなわけで、39年の「オズの魔法使」を超えるのはおそらく永遠に無理と思われます。そこで、このあと生まれたオズ関連はすべて、続編だったり前日譚だったり、あるいは変奏だったりしています。変奏は黒人版「ウィズ」(舞台から映画にもなった)、続編は「オズ」(原題Return to Oz)、前日譚は小説から舞台になった「ウィキッド」。そして、「オズ はじまりの戦い」も前日譚で、奇術師が気球に乗ってオズの国に行き、そこでオズの魔法使いになるまでが描かれています。
この「オズ はじまりの戦い」は最初から最後まで39年版へのオマージュでできていて、モノクロからカラーになるところ、同じ俳優が現実とオズの国の人物を演じているところ、セットや衣装などが39年版をそのまま踏襲していること、映像も39年版を意識して作っているところが多いなど、見ている間ずっと39年版を意識させるつくりになっているのですが、これがどうもいけない。新しい作品として見れないのです。
また、一部、「ウィキッド」も取り入れられている感じですが、原作の「オズの魔法使い」は魔女は東西南北4人いるのに、39年版は北と南の魔女を1人にして、北の魔女グリンダとしているのですが(原作ではグリンダは南の魔女の名前)、今回の映画では39年版の北の魔女グリンダを南の魔女グリンダに変えています。「ウィキッド」はこのグリンダと悪の魔女の若い頃の話で、善と悪についてのシビアなテーマが盛り込まれているようですが、「はじまりの戦い」でも善と悪のテーマを中心に据えているのだけれど、これが全然効いてない。サム・ライミは「スパイダーマン」の出がらしでやってるのか、ていう感じ。
そもそも、3人の魔女の父親を悪の魔女が殺して王座を乗っ取り、という設定が、なんだか「リア王」めいてはいるけど、結局、女があと継ぐとろくなことない、だから男のオズにやらせとけ、みたいな、これちょっと政治的に正しくないんじゃない、という内容なのです。しばらく前からディズニーアニメは王子様がお姫様を助けるのではなく、お姫様が王子様を助けるようになっていて、その後、今度は男女両方が力を合わせて、みたいになってきたのだけど、ここでまた女はだめ、男に任せろ的な展開になるのか?
やっぱりシナリオが悪いと思うのですが、一応、子供も見るファンタジーとして作ってるわりにはなんだか暗くて楽しくない映画です。39年版が楽しすぎるので、比べたら酷ですが、それにしても楽しくない。
思えば、ディズニーが(ウォルトじゃなくて映画会社の方)80年代に作った「オズの魔法使い」の続編「オズ」は、原作の第2作と第3作をもとにしたダーク・ファンタジーで、これはもう子供向けとはいいがたい、一般向けでもない、でも、一部のマニアには大受けな作品なのですが(私も大好きだ)、こちらの暗さは製作のゲーリー・カーツの個性なので、暗くて当然と思えます。カーツは「アメリカン・グラフィティ」や初期の「スター・ウォーズ」でジョージ・ルーカスと組み、この「スター・ウォーズ」もまた「オズの魔法使い」に影響を受けた作品なのですが、その後、カーツは「ダーク・クリスタル」というファンタジーを作り、そして「オズ」を作ったのですが、この「オズ」が興行的に大失敗で、カーツは破産してしまったのだとか。監督は映画編集の名手ウォルター・マーチでしたが、初監督でうまくいかず、ルーカスやコッポラが手伝ったという噂もありました。
この「オズ」はもともと、39年版のラスト、まわりの大人たちはドロシーは夢を見たのだと思っているけれど、ドロシーはオズの国は実在すると信じている、という、大人と子供の見る世界の違いを表した、原作とは違うけれど(原作は夢落ちではなく、ドロシーは新しく建て直された家に帰ってくる)、夢と現実についての大人と子供の見方の差みたいなものを出した、これはこれで優れた結末だと思いますが、カーツの「オズ」はこの結末、夢を信じない大人によって精神病扱いされたドロシーがオズの国に帰る、という、もう暗くなるしかない内容なわけです。(この「オズ」のテーマについては公開当時、キネマ旬報に書き、数年後には「幻想文学」のファンタジー特集号に書きましたが、原稿はワープロ専用機で書いたので、テキストデータに変換しないとブログにアップできないのです。)
というわけで、80年代にディズニー(ウォルトではなく、映画会社)が製作した「オズ」はカーツの個性とその内容で暗いのは当然としても、なんで今回の「はじまりの戦い」まで暗いのか、ディズニーなんだからもう少し明るくできないのか、と思うのですが、この種の戦いとか善と悪とかを描くとどうしても暗くなってしまうのでしょう。39年版はドロシーは魔女を退治するつもりはないのに結果的に退治してしまったり、後半、西の魔女の暗い世界へ行っても、笑ってしまうようなユーモラスな看板が立っていたりとか、基本的にコメディとして作られていたから明るかったのですね。
「オズ」にしろ「はじまりの戦い」にしろ、そして舞台の「ウィキッド」もですが、39年版の「オズの魔法使」が基本にあって、そこから新しい物語を築いている、つまり、原作の「オズ」ではなく、39年版がスタート地点になっている、というのも興味深いところです。39年版と原作は違うところも多いのですが、39年版の映画がスタンダードになっているというのはまぎれもない事実のようです。そして、あの明るい39年版から出発した新しいオズは、どうしても影の部分を身につけてしまうのでしょう。その中で、やはり80年代の「オズ」の意識的な暗さは価値のあるものであったと思います(DVD発売希望)。(「はじまりの戦い」はなんとなくつまらないから暗くどんより、って感じなのですね。そういう暗さは困る。)
なお、MGMの「オズの魔法使」は同じ時期にMGMで製作されていた「風と共に去りぬ」と同じヴィクター・フレミングが監督としてクレジットされていますが、実はどちらも最初はジョージ・キューカーが担当し、途中からフレミングに代わったのだそうです。当時のスタジオシステムでは、映画は監督の創作物ではなく、いろいろな人が協力して作り上げるもので、監督が1人でないのも実はそれほど珍しくないということも、39年版の特典映像で語られていました。

2013年8月24日土曜日

おバカなカナダ映画、でも実話?

(ダグ・スミスについて間違いを書いてしまいましたので、訂正しました。)
ツタヤで、「俺たち喧嘩スケーター」というのを借りてきて見ました。
2011年のカナダ映画で、ジャケットを見ればすぐにアイスホッケーの話だとわかり、ホッケー・ファンとしてはこれは借りだと。
もちろん「俺たちフィギュアスケーター」に始まる「俺たち」シリーズとは何の関係もありません。
最初に、「実話に基づく」と出るのですが、原作はマイナーリーグで乱闘係として活躍したダグ・スミスという元ホッケー選手の自伝。(このダグ・スミス、調べてみたら、なんと、1980年代後半はバッファロー・セイバーズにいた元NHL選手、と思ったら、同姓同名の別人で、映画のダグ・スミスはマイナーリーガーでした)。
映画の主人公ダグ・スミスは原作同様マサチューセッツ州在住のアメリカ人。マイナーリーグのアイスホッケーを観戦中、選手とけんかになり、観客のダグが勝ってしまったことからチームに乱闘係として入団、そして、NHLのすぐ下のマイナーリーグに所属するカナダのチームからスカウトされます。最初に入ったチームはマイナーでもずっと下の方ですが、このチーム、カナダのハリファックス・ハイランダーズはNHLのすぐ下ということになっていて、実は、NHLの優秀な選手が敵のダーティなプレーで脳震盪を起こし、選手としてだめになり、NHLからこのマイナーチームに落ちてきていて、ダグはこの選手を守り、再起させるために雇われたのでした。
映画ではダグは最初はスケートもろくにできないとなっていて、いくらなんでもこれはどうかな、と思うのですが、他の部分も「スラップショット」並みの誇張が多く、シモネタも満載。名作「スラップショット」に比べるとちとおバカ映画な感じはぬぐえないのですが、ホッケー・シーンはリアルですばらしいです。なんというか、やっぱりカナダ、というか、ホッケーが好きで好きでしかたない人でないと作れない映画というか、だからホッケー・ファンは絶対見た方がいいと思えるのです。ドラマ部分のおバカとかは、ホッケー・ファンでない一般の人はつまらないでしょうが、ホッケー・ファン、特に北米の古きよき時代のホッケーが好きな人(「スラップショット」が楽しめる人でもある)なら必見です。
とにかく、北米ホッケー・ファンにはにやりとするシーンや言葉の連続なのですが、例のバーツージ事件をはじめ、NHLで起こった出来事をモデルにした話が入っていたり、敵役の選手の名前がセイバーズの乱闘係として活躍したロブ・レイに似ていたり、マザコンのゴーリーの名前がベルフォアのもじりだったりと、NHLファンならにやにやすること請け合い。おまけに、ララクやリッチがカメオ出演してますよ。
また、ホッケー選手を演じる俳優がみんな、ホッケー選手らしい顔をしています。特に主役の俳優がいい。メットかぶるといい男の典型。この主人公ダグが守ることになるケベコワ(フランス系カナダ人)の選手がいかにもケベコワの顔をしている(フランス系カナダ人が演じている)。
乱闘シーンやダーティなプレーはまあ、今のNHLでは少なくなったというか、やはり20世紀の時代の北米ホッケーですが、でも、知ってる人はにやりとするようなシーンの連続です。仲間を守る、そのための乱闘係、というのもよく出ていて、仲間同士の連帯感がけっこうつぼにはまります。
そんなわけで、シモネタとか、ちょっと寒いギャグもあるのですが、後半どんどん盛り上がって、プレーオフを賭けた試合が終了する前に映画は終わるけど、でも、見た人はちゃんとわかるよね、ってところがなんともいい味出しているのです。とにかく、北米ホッケー・ファンはDVD買ってもいい、と思える映画です。
が、しかし、さっきネットで調べたら、これ、DVD販売していないのか? アマゾンで見つかりません。ネットで無料で見られるそうですが、レンタルかネットで無料かのどちらかしかないのでしょうか? うーん、惜しい。売ってたら買うぞ。レンタルだと最初に25分も予告編があるのだもの。海外版を買うか。また、見た人の感想を検索すると、ホッケーを知らない人の感想ばかり出てくるので、ホッケー・ファンはぜひ見て感想を書いてください。

TSUTAYA閉店(泣)

久しぶりに近所のツタヤにレンタルに行ったら、なんと、入口に、来月閉店します、の貼り紙。
うそ、と思ったけど、売り場にも同じ貼り紙があった。
7月に来たときはそんなことまったく出てなかったし、今日だって、別に閉店間近の店とは思えず、いつもと同じ雰囲気でしたが。
この店がなくなると、もう、歩いて行ける範囲にレンタル店が1軒もなくなってしまうのです。
それどころか、うちの区にはツタヤが1軒もなくなるという事態に。
困った。某大学でやってる英米文学の講義の内容を変えなければならないというほどの事態です。
この店はとにかく品揃えがよく、ここに勝るツタヤといえば、元祖・渋谷と、あとは上野公園のそばかな。上野公園のそばとはかなりいい勝負の店、といえば、かなりの品揃えであるとわかると思いますが(あ、上野公園のそばの店を知らないとわかりませんね)、アート系の映画もたいていあるし、新作はたくさん入るので、発売直後でも借りられないことはめったにありません。旧作も2本くらい入っていたりする。店も4階のうち3階までがツタヤという広さ。
なんで閉店なんでしょうね。確かに店舗面積の広さのわりには客は少ない気はするけど。あと、ここは都心の一等地で、地価が高く、あちこち古い建物が取り壊されて新しい高層マンションができている地区なので、このビルも取り壊しで高層マンションになるのかな。ツタヤが去れば当然、ビルは取り壊し、新しいビルを建設になると思いますが、ツタヤが戻ることはなさそうです。
ツタヤの店舗検索ではまだ閉店の情報はまったくありません。ただ、ツタヤは最近は宅配レンタルが主流なのか、店舗は減っているみたいですね。1つの区に1軒しかないとか、けっこうありました。
この閉店するツタヤができたのはいつ頃だったのか、覚えていないのですが、最初はツタヤではなく、別の名前のレンタル店でした。その店ができる前は、一番はやっていたのはその近くにあった小さなレンタル店で、私がこの区に引っ越してきたときにはすでにあったような気がします(かなり昔の話)。当時はDVDなどなくて、ビデオレンタルだけでしたが、木造2階建ての小さな店舗だけど、品揃えはよくて、よく利用していました。その後、今回閉店するツタヤの場所に新たにビデオレンタル店ができて、そこは店舗が広いので、品揃えがものすごくよく、映画関係の原稿を書くときなど非常に重宝したのですが、そこができてから老舗のレンタル店がさびれていってしまいました。
やがてその新しい方の店がツタヤになり、DVDの時代になり、老舗の店もがんばってDVDを入れていたのですが、やはり大きいところには勝てず、ついに閉店。そこは狭くてビルは建てられないので、今は医院になっています。
一方、ツタヤになった方の店はDVDの増加で貴重な珍しいビデオがすべて店頭からなくなってしまったのですね。これで一時、この店の利用価値が減りましたが、その頃はまだ老舗がやっていて、老舗の方は古いビデオを全部取っておいていたので、この頃は老舗もかなり利用してました。
ツタヤのアルバイト店員は若い学生のような人たちばかりですが、その老舗は経営者が店に出ていたので、わりと年のいったというか、壮年や熟年の方たちで、ちょっと違う雰囲気でしたね。
そんなわけで、近所のツタヤ閉店のお知らせを見て、だいぶ前に閉店した老舗の店のことも思い出したのですが、その老舗を閉店させた広いツタヤもついに閉店とは、レンタル事情もだいぶ変わっているようです。(写真はツタヤの店舗検索にあった写真。知っている人は知っている、某大学の近くです。)

2013年8月22日木曜日

ガラパゴス

日本が世界というか、欧米先進国に比べて遅れているというか違うところをやたらとガラパゴス化という記事をよく見るけれど、ガラパゴス化って、ガラパゴス諸島に失礼じゃないのかな?
ガラパゴス化の定義は、ウィキペディアによると、次のとおり。

ガラパゴス化(ガラパゴスか、Galapagosization)とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い種(製品・技術)が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である。ガラパゴス現象(Galápagos Syndrome)とも言う。

日本で生まれたのに英語になってるのか、すごい。
最初は特に日本の携帯電話について言われたようで、ガラケーというのがそうだけど、このガラケーは上のガラパゴス化の記事http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E5%8C%96の下の方にあるように、日本独自の発達をした携帯で、外国では使えない(というか、売れない?)。それでガラパゴス携帯と言われ、現在はスマホが主流となっているが、それでもガラケーが手放せない、いやそれどころか、スマホからガラケーに戻したいという人も多いようで、ガラケーは死なず、なのです(私もガラケーで、スマホにするつもりなし)。

そして、携帯だけでなく、いまや、日本の大学教育とか、就職活動とか、あらゆる点について、日本はガラパゴス化していると、識者のような人々が熱弁をふるっています。確かに日本の大学や就職状況は欧米先進国とはかなり違っていますが、欧米が必ずいいわけでもなく、ガラパゴス化が悪いとは限らないと思うのですが、とにかくガラパゴス化といえばみんなこれは大変だ、なんとかしなきゃ、グローバル化、欧米化、となる感じで、こういう態度がまた日本的なんだけど、いやだなあと思うことも多い。

さて、こんなふうに悪いイメージで使われているガラパゴス。その元祖・ガラパゴス諸島は、ウィキペディアのページで見ると、自然が豊富ですばらしい場所のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E8%AB%B8%E5%B3%B6
ここでのみ生息する貴重な動物が多く、世界から取り残された楽園のようです。とても美しい世界のように見えますが、このガラパゴスを悪い意味に使う日本人の感性とはいったい…。

上の記事の最後に、こんないい話が書いてありました。

ガラパゴス諸島の中のフロレアナ島のポスト・オフィス湾には、無人の郵便局が存在する。郵便局とは名ばかりで木製のポストが置いてある簡素な郵便局であり、手紙を回収にくる郵便局員もいない。海賊船の時代が終わり捕鯨船の時代に入った18世紀末ごろ設置されたとされ、船乗り達がこのビーチに樽を置いて郵便を投函しておくと、立ち寄った別の船が自国宛ての郵便があれば持ち帰って届けてくれた習慣に湾の名前は由来している。今でも観光客が真似てこの郵便局に手紙を残し、残した数だけ自国宛ての手紙を探して持ち帰り、帰国した際に切手を貼って送る慣習になっている。

話はずれますが、大ヒット中のインド映画「きっと、うまくいく」、このブログの映画評へのアクセスも700近くになっているのですが、この映画のラストはまさにこのガラパゴス諸島のような自然の美しい地域に天才の主人公が住んでいて、そこにグローバルエリートになったライバルがやってくる、そこで、真の成功者がどちらかがわかるのですが(ネタバレすまん)、ここにはまさに、グローバルに対するガラパゴスの勝利があるように思います。ガラパゴスでもグローバルに稼げる才能があるからですが、それでも、この映画の魅力は、今盛んにもてはやされているグローバルエリートに対する批判、そして、それとは違う成功があるという希望であると思います。

2013年8月18日日曜日

その後の上野公園のハス

お盆の週のなかば、上野公園を通ったら、ハスがだいぶ開いていて、すでに散ったものも多いようでした。このときはデジカメを持っていなかったので、携帯カメラで撮影。しかし、この携帯、古いデジカメよりきれいに撮れている気がする…。
まずは、近所の猫にまた会いました。

上野公園。スカイツリーとハス。このときは午後6時台で、日がかげってきている。

鴨。携帯なのでズームができないけど、ピントが合うとすごくよく撮れてる。

不忍池らしい建物をバックにハスを撮る。

この日はこんな具合に、ハスの花がバックに浮き出ている光景がいくつもあった。




以上が携帯カメラですが、光が足りなくてやや暗いのをのぞけば、かなりよく撮れてます。
そして、以下が、別の日のデジカメ。こちらは午後5時台で、まだ強い西日があります。
まずは池にいた鷺。この日はなぜかカモメがいなかった。

やっぱり前回の方が花はよかったかもしれない。

逆光ですが、木陰に入って撮っています。レンズフード使えばいいのか?とあとになって思い出すのだが、レンズフードつけたことない。つか、持って出たことない。






ハスというのは開く先からどんどん散っていってしまうのでしょうね。

日暮里の高層ビルが見えます。

2013年8月17日土曜日

危険なプロット(ネタバレあり)

(最後に追記しましたが、結末についてなので、ご注意)
世間はお盆休みの1週間、できればすいているところへ行きたかったのですが、この時期は試写の数も減り、やっている試写に関係者が集中して混むし、プールは夜遅くまで子供がいっぱいいるし(この前の映画館もそうだけど、最近の子供は夜12時くらいまで起きているのであろうか?)、すいていたのは電車くらいでした。
その超満員の試写がフランソワ・オゾンの新作「危険なプロット」。フランスで大ヒットしたメタフィクション・サスペンス(?)で、とにかく面白い。書くことについての物語、という意味ではメタフィクションなのだし、教師が生徒の作文指導をしているうちに教師が生徒の術中にはまっていく、という意味ではサスペンスなのだけれど、見終わってみると、これは案外、人間的なドラマかもしれないと思えてくる、なかなかに深い映画なのだ。
舞台はフランスのとある高校。ギュスターヴ・フローベール・リセという文豪の名を冠した高校で、主人公はここの国語教師ジェルマン。作家をめざしていたが、断念し、今は教師をしているが、教え子たちが本も読まず、作文は2行しか書けないという、なんだか日本の学校のような世界。当然、ジェルマンはうんざりしているのだが、そこに現れたのがクロードという少年の書いた作文。同級生ラファの家に入り込み、ラファの家族を描写する文章の高校生離れしたうまさにジェルマンは驚くが、ラファの母親を「中産階級の女」と呼んだり、描写のニヒルさにジェルマンの妻ジャンヌは「この子は心に問題があるのでは?」と思う。しかも、作文の最後には「続く」の文字。続きが読みたい、という気持ちと、文章のうまいクロードに作家になる手ほどきをしたいという思いから、ジェルマンはクロードに作文の個人授業を始める。一方、ラファの家に入り込まないと書けない、というクロードは、ラファの一家にどんどん深入りし始め、ラファの家に通えなくなりそうになると、それを防ぐためにジェルマンに不正行為を要求、ジェルマンはそれに応えてしまう。
という具合に、フランスの中産階級の家に入り込んだ少年が同級生とその父母に影響を与え、家族を破壊し始める、というのは、映画のせりふでも言及されているとおり、パゾリーニの映画「テオレマ」のモチーフ。クロードは美少年で、ラファとその母エステルを誘惑し、息子と同じ名の父ラファにも影響を与えていく。ジェルマンは毎回、続くで終わる作文を読み、次がどうなるか知りたくてクロードの作文にのめりこんでいく。しかし、物語は、ラファの一家が破壊されるという結末にはならない。
原作はスペインの劇で、映画化に際してはかなりの脚色がされているようだが、オゾンがこの世界はイギリスのパブリック・スクールが似合う、と思ったところが面白い。実際、中産階級という言葉や制服はイギリスのパブリック・スクールの特徴だ。しかし、フランスには制服のある高校はないそうで、そこでオゾンは制服を導入した高校という設定を考えた。冒頭で、生徒たちが多様になったので制服を導入するという校長の言葉があり、ジェルマンはそれに不満そうな顔をする。
映画では制服が導入されてからの生徒たちしか出てこない。いろいろな人種や出身、貧富の差などを制服は隠してしまう。制服で隠す、というのがこの映画の重要なモチーフだ。
クロードがどんな少年かは冒頭でジェルマンがクロードについて高校の職員にたずねるシーンでわかる。彼は貧しい労働者階級の出身で、母は不在、父は無職。転校を繰り返している、という。クロードについての客観的事実はこれだけである。そのクロードは同級生ラファの家族を中産階級と呼び、ラファの家はクロードの家の4倍の広さがあるという。母は自分と父を嫌って出ていった、と彼はいうが、父親が無職の理由は、結末近くになるまでまったくわからない。
ラファの方は、父と息子を見ると、イタリアかどこかの移民の子孫なのかな、という感じ。貴族の末裔とか、そういう感じではまったくない。クロードの方がイギリスのパブリック・スクールにいそうな中産階級の坊ちゃん風。しかし、実際は、クロードは貧しく、ラファは裕福であるらしい(制服を着ているので、違いがわからなくなっている)。
ラファの父は中国と取引する、いわゆるグローバル・エリート。しかし、裕福とはいっても、大邸宅に住んでいるわけではない。この家を、うちの4倍の広さ、と感じるクロードは、相当に貧しい暮らしをしていると想像できる(実際、結末近くでそれがわかる)。だが、見かけだと、制服を着たクロードはラファとそんなに違う生活をしているとは思えない。ここがミソなのだ。
一方、教師のジェルマンは、妻が画廊をやっていて、こちらもそれなりに裕福そうである。
ラファ父子はバスケットボールが好きで、母はインテリアに夢中、という、裕福だけど体育会系のような感じの家だが、ジェルマン夫婦は見るからにインテリで子供はいない。この2つの裕福な(クロードにいわせれば中産階級)家が、そうではないクロードに見つめられることになる。
しかし、ここがまたこの映画のミソだと思うのだが、クロードが見るからに貧しい労働者階級で、頭はいいがきびしい暮らしをしていて、未来もない、みたいに描かれていたら、彼が裕福な中産階級の家族に入り込み、裕福なインテリの夫婦にもかかわってくるというストーリーは、ある種のピカレスクになるだろう。18世紀にヨーロッパで流行した、貧しいが頭がよく野心的な主人公が裕福な階級の中に入り込んで、そこでさまざまな手段を使ってのし上がっていく物語だ。
だが、この映画は、クロードに制服を着せ、労働者階級の匂いのしない上品な雰囲気の少年にしたことで、ピカレスクになることを免れたのだ。オゾンがねらったのはそこだと思う。ピカレスクにはしたくなかったのだ。かわりに、オゾンはジェルマンに「ビルドゥングスロマン」という言葉をいわせる。ヨーロッパ文学史を知る人にはおなじみ、ピカレスクが発展したのがビルドゥングスロマンなのだ。貧しく階級の低い主人公が才覚と美貌で上の階級にのし上がっていくピカレスクは、やがて、主人公の成長発展物語へと変化し、それがビルドゥングスロマンと呼ばれるジャンルとなる。ビルドゥングスロマン自体はゲーテが発祥だが、イギリス文学ではヘンリー・フィールディングが「シャミラ」、「ジョナサン・ワイルド」というピカレスクから出発し、「ジョゼフ・アンドルーズ」、「トム・ジョウンズ」というビルドゥングスロマンに移行している。一般には、18世紀に流行したピカレスクが、19世紀にビルドゥングスロマンに変化したとされ、19世紀にはこの種の成長発展小説が多く登場した。そして20世紀になると、この形式は芸術家をめざす主人公の葛藤を描く芸術家小説へと変化していく(以上、文学史の講義でよくいわれることです)。
つまり、オゾンはピカレスクの設定でビルドゥングスロマンをやろうとしている、というか、それに近いものをこの映画には感じる。
(ネタバレ注意)
以下、ネタバレになるのだが、結局、クロードはラファの家族を崩壊させることはできない。ラファはラファエルの愛称で、ラファエルといえば、聖母子とか、そういう家族の絆を感じさせる絵を描いたルネサンスの画家だけれど、そういう名前の父子の家だから、この家族は強い絆で結ばれていて、クロードごときではまったく崩れないのだ。
クロードに破壊されるのはむしろ、ジェルマン夫婦である。クロードの作文はやがてジェルマン夫婦も巻き込んでいき、ついにクロードはジェルマン夫婦の家に入り込み、そして、というのが結末。
しかし、この最後の部分も決してピカレスクではない。ジェルマン夫婦の関係が壊れるのは、むしろ、ジェルマンの自業自得のように感じられる。
ジェルマンはクロードに、作家になるためにはどうしなければいけないかと、いろいろと指導するが、彼自身はその理想を実現できず、書くのをやめたことがわかる。
クロードがラファの家に入り込んだのは、家族がほしかったからだ、とクロード役のエルンスト・ウンハウアーはいう。まさにそのとおりだと思う。クロードは家族を破壊したいのではない。適度に裕福で、親子が仲良くしているある種の平凡だが理想的な家族がほしいのだ。その理由は、結末近くで、クロードが父の介護をしているシーンでわかる。
ジェルマンとの関係は、上の文学史のところで書いた、芸術家小説の関係になるだろう。制服を着せることでピカレスクを免れ、ジェルマンにビルドゥングスロマンについて語らせたオゾンは、最終的に、ジェルマンとクロードの両方が物語の創造をめざす芸術家小説のモチーフに到達する。18世紀から20世紀のヨーロッパ文学史の見事な縮図。でも、それが鼻につかないほど人間的な、あまりにも人間的な物語になっているところに驚いた。
ジェルマン役のファブリス・ルキーニは、まるでウディ・アレンのような雰囲気で、自作自演するアレンのような人物になっている。アレンの映画で、彼がアレンの分身を演じたら面白いのにな、と思った。

追記 ラスト、ジェルマンとクロードが並んで、目の前の建物の窓を見ながら物語を作るシーンは、なんとなく、ゲーテの「ファウスト」が原作の「悪魔の美しさ」を思い出した。
ミシェル・シモンの老いたファウストと、ジェラール・フィリップの美青年メフィストフェレスに、この2人が似ている気がしたのだ。ジェルマンの物語として見た場合、ジェルマンはクロードというメフィストフェレスに誘惑されたファウストなのかもしれない。
そして、このラストでは、ジェルマンの方が面白い物語を作りそうなのだ。
結果として、これは日々の平凡な日常に埋もれていたジェルマンがクロードと出会い、作家としてよみがえる物語なのだろうか(続く?)。

2013年8月15日木曜日

書評を書きました。

久々、BookJapanに書評を書きました。
ついに完結した「テルマエ・ロマエ」です。
http://bookjapan.jp/search/review/201308/20130815
(リンク切れのため、次のサイトでお読みください。
http://sabrearchives.blogspot.jp/2015/02/bookjapanvi.html

また、訃報が2つ。
1つは、ロンドン五輪でジェームズ・ボンド役でヘリコプターから飛び降りたスタントマンが、別のイベントの事故で亡くなったとか。ベテランのスタントマンのようですが、事故の詳細はまだ不明のようです。
もう1つは、レッドフォードの「華麗なるギャツビー」でデイジーの夫の愛人マートルを演じたカレン・ブラックが癌で亡くなりました(こちらは8月8日)。
「イージー・ライダー」や「ファイブ・イージー・ピーセス」でニューシネマのスターとして登場、その後はヒッチコックの遺作「ファミリー・プロット」や「華麗なるギャツビー」、「イナゴの日」、「ナッシュビル」といった話題作で演技派として活躍、「ファイブ・イージー・ピーセス」と「ギャツビー」ではゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。「エアポート’75」で、事故で倒れたパイロットのかわりに飛行機を操縦する果敢なキャビン・アテンダントも印象的でした。70年代を代表する女優の1人でしたが、その後はあまりいい映画に出れなくなったみたいです。
今年の春には長い闘病生活で貯金が尽き、夫がネットで治療費の募金を募ったそうで、目標を超える額が集まったとか。アメリカは国民皆保険じゃないので、お金のある人は優れた医療を受けられるけれど、貧しい人は治療そのものを受けられない、という現実があり、そこで、お金のない人が重い病気にかかった場合、友人などが募金を募る、ということが行なわれています。私がフォローしているNHLのバッファロー・セイバーズの関係でも、ファンの掲示板で、一般の人の治療費の募金のお願いがあったり、また、元セイバーズの大スター選手、ドミニク・ハシェックが難病にかかったセイバーズのスタッフの治療費のための募金のイベントをしたことがあります。

2013年8月14日水曜日

久々、映画館を走る子供たちを見た。

先週に続き、今週も気になる映画2本立ての名画座へ行ってまいりました。
今回見たのは「ハッシュパピー バスタブ島の少女」と「ムーンライズ・キングダム」。
が、映画よりも驚いたのは、映画館を走り回る子供たちを目撃したことです!
映画館を走り回る子供なんて、映画館にしょっちゅう行っていたときでさえ、ほとんど見たことはありません。なんかもう、怒るより、珍しいものを見た、って印象の方が強い。
そもそも、子供はアニメのように子供向けの映画ならとても真剣に見ていて、走ったり騒いだりしません。また、子供には理解できない映画には大人は連れてこない。自分たちが大変だし、子供が小学生なら、学校に行っている間に映画に行く、という感じだと思います。
つまり、子供が走り回る映画というのは、子供も面白く見られると大人が勘違いした映画です。
今回の2本は、どちらも子供が主役の映画。「ハッシュパピー」は嵐で海面下に沈んでしまうアメリカ南部の島の少女とその父親の生きる姿が描かれた作品で、アカデミー賞にもノミネートされ、話題になった作品。「ムーンライズ・キングダム」はウェス・アンダーソン監督の新作で、12歳の少年少女が駆け落ちし、大人たちは大騒ぎ、少年の仲間のボーイスカウトたちも巻き込んで、というコメディ。
そんなわけで、映画を見にきた保護者さんは、自分も見たいけど、子供にとってもきっといい映画、と思ったに違いありません。
子供たちが来たのは私が「ハッシュパピー」を見終わったあとで、小学校低学年くらいの子供3人が最前列の私のすぐ後ろに座りました。時間はすでに午後6時。2本とも見ると終映は9時半にはなるので、まずそれに驚きましたが、保護者らしき人がそばにいないのもちょっと驚き。保護者がいないということは、この小学校低学年の子供たち3人が自らこの映画を見たいと思ってきたのだろうか? こんな幼い子がウェス・アンダーソンの新作を? と不思議に思っていると、休憩時間には走り回っていた子供たちは、映画が始まるとお菓子をほおばり、でも、そのあとはまじめに静かに見ていたので、やっぱりこの子たちはこの映画を薦められて見に来たのだろうか、でもこの映画、12歳の少年少女が駆け落ちとか結婚とか、少女がブラとパンティだけの姿でいるシーンがあるとか、少女の母親が警官と不倫してるとか、これ、ほんとに子供に見せていい映画なの?と不思議に思いつつ、でも、子供たちを中心とする話の部分は面白いから、やっぱりいいのかな?と、妙に学校の先生か父母のような気分で見ていたのですが、やがて映画が終わり、エンドクレジットが始まると、子供たちはいきなり「次も見るか聞いてこよう」と言うと、全員がスクリーンの前を突っ走り、通路を駆け上がり、そして客席の後ろの通路をまわってまた戻ってきたのです。
そのあとも、いろいろな楽器が紹介される粋なエンドクレジットの間中、おしゃべりしていて、ちょっとうざかったのですが、上映が終わると、なんと、保護者が来て子供たちのそばに座り、騒ぐなと叱ったのでした。
つまり、保護者はずっと後方の席にいて、子供たちだけが前の方で見ていたというわけ。この保護者の方がこの2本立てを見たくて、でも、子供が見ても面白いと思って連れてきたのかな、と思ったのでした。
私はもう2本とも見てしまったので、映画館をあとにしましたが、正直、「ハッシュパピー」は子供が見て面白い映画とは思えません。大人の私もちょっとこれは私向きでなくてイマイチでした。
この子供たちはエンドクレジットの前までは静かに見ていたので、それほど迷惑とは思いませんでしたが、むしろ、映画館が冷房が効いていない方が苦痛でした。「ハッシュパピー」のときは本当に暑くて、途中で扇子を取り出して扇いでいたらだんだん冷房が効いてきましたが、冷房を控えている場所が最近、多いので、扇子は手放せません。先週も休憩時間が暑くて、私以外の人も扇子で扇いでいたので、そういうクオリティの映画館なのかもしれません。

追記 映画は2本とも字幕スーパーで、文章も漢字も大人を前提にしたものでした。「ムーンライズ・キングダム」はPG-12となっていて、12歳以下は親が注意、ということなのかな? 「ハッシュパピー」は年齢については特に規制はありません。

2013年8月13日火曜日

イル・オー・ノワール=夜の島を探して

昨日はカナダのフランス語圏ケベックの映画「わたしはロランス」を見てきました。
9月初旬公開なので、早速紹介。
現在24歳にしてすでにカンヌ映画祭の常連、この「わたしはロランス」も主演女優賞などを受賞と、神童の呼び声高いグザヴィエ・ドランという若い監督の第3作です。
物語は1989年のモントリオールから始まり、国語教師をしながら作家をめざす男性ロランスが、実は性同一性障害で、女性になりたいと、女性の恋人フレッドに告白。ショックを受けるも、彼を支持する彼女に励まされ、ついに女装して職場の学校へ出かけたりするのですが、当時はまだ性同一性障害への理解がなく、学校はクビになり、町ではいやがらせを受け、そして、しだいにフレッドの心もほかの男性へ。2人は別れ、フレッドは他の男性と結婚し、子供も生まれ、モントリオールとケベックの中間にあるトロワ・リヴィエールという町で暮らしていますが、実はその町にはロランスが別の女性と住んでいる、そして、作家となったロランスが送った詩集がきっかけで、2人の間には愛がよみがえり、夫や恋人には内緒でイル・オー・ノワールという場所に出かけます。
カナダなので、雪が降っていたり積もっていたりするシーンが多く、特にこのイル・オー・ノワールという場所は雪が高く積もり、空は晴れ、道を歩む2人のまわりにはカラフルな衣服が舞うという、なんとも不思議で魅力的なシーン。youtubeにアップされていたので、ごらんください。ただ、せりふは英語に吹替えられています(公開される映画はもちろん、フランス語です)。
http://www.youtube.com/watch?v=Lx0SNALHZms&feature=player_detailpage
映画のせりふはフランス語なのですが、タイトルは英語のLaurence Anyways。「とにかくロランス」という意味で、これは映画のラストに出てくるせりふです(ここはフランス語です)。
このラストもとてもいいというか、こういうふうに終わらせたか、と納得しました。性同一性障害を告白した男性と女性の恋人の10年にわたる愛が描かれていて、題材も異色なのですが、表現が、上のシーンの衣服が舞うシーンのような奇妙で魅力的な映像が満載です。
たとえば、冒頭の埃が舞うベッドシーン(埃が誇張されている)。また、枯葉がたくさん降り注ぐシーン。光の雨が降り注ぎ、カメラが近づくと、その向こうに傘を差したロランスとその母がいるシーン。
それ以外にも映像表現がユニークで、この若い監督の才気を感じさせます。
弱点といえば、子供の頃から子役で活躍し、19歳で初監督、その後も神童の名をほしいままにしているせいか、物語や人物の設定の幅が狭いのでは、と感じるところ。この映画でも、ロランスは作家をめざす国語教師、フレッドは映画のスタッフと、監督が知っている、あるいは想像できる範囲の中だけで人物やストーリーを作っている感じがします。そのあたりはこれからどう変わっていくのか期待したいところ。
そして、この映画のもう1つの魅力はカナダのケベック州の風景。モントリオールの中心地のような有名なところは出てきませんが、普通の人の住む町の様子や、そして、上の映像にあるイル・オー・ノワールという島の風景が目をひきます。
2人が再会するトロワ・リヴィエール(3つの川の意味)は実際にある町でしたが、イル・オー・ノワール(黒の島の意味ですが、夜の島ととってみました)は検索では見つからず、架空の場所かもしれません。Ile au Noirではなく、Ile au Noixという島ならあるのですが。

追記 イルというのはileだと島ですが、彼を意味するilも同じ発音ですね。ということは、イル・オー・ノワールは黒の男、夜の男という意味にもなり、それはゲイや性同一性障害の男性を指す言葉ともとれます。となると、3つの川も何か意味深な感じ。

2013年8月12日月曜日

経験ない暑さ?

東京は日曜日は「経験ない暑さ」だったそうです。
最高気温38・3度のことではありません。これは観測史上5番目とか。
1日中、1度も30度を下回らなかったのです。最低気温は月曜になる寸前に出ました。30・4度。
「これまで経験のない大雨」は去年の流行語大賞の何かにノミネートされたそうですが、今年も「経験ない」はノミネートされるでしょうか。
私は「経験ない」というと、生後半年くらいで手術されちゃう地域猫および飼い猫たちが頭に浮かびます。

「経験ない」って言われると、主語は何?と問いたくなるのですが、このツッコミどころ満載の言葉もマスコミに定着してしまうのでしょうか。

さて、最高気温38・3度のとき、エアコンのない室内は当然38度でしたが(小数点以下は不明)、湿度が60パーセント未満だったので、扇風機をまわして水分たっぷりとっていると、汗が自然に蒸発して体温は上がらず、肌も汗でべとべとにならず、案外快適でした。
金曜の深夜の室温34度、湿度80パーセントは死ぬほど不快だったので、むしろ気持ちのいい暑さ。土曜深夜は室温36度、湿度65パーセントでしたが、このあと、さすがに気温が下がらないのはきつかった。日曜は夕方、西の方で雷雨があり、それで気温が下がったようです。

猛暑の訪れ以来、ほとんど毎日、セブンイレブンで98円のサントリーの天然水を買って帰るのですが、うちの冷蔵庫の定番は、ミネラルウォーター(サントリーの天然水か森の水だより)、麦茶、牛乳、野菜ジュース、そしてこれ、ソルティライチです。
今年はアイスキャンデーも発売され、こちらもおいしい。

ソルティライチは2年前くらいからブレイクしているそうですが、私が初めて飲んだのはそれよりさらに2年くらい前のような気がします。最初はソルティライムというのを発売して、これはイタリアのライムに岩塩をひとつまみ、という売りで出たのですが、1年で姿を消し、翌年夏に出たのがソルティライチ。タイのお母さんが教えてくれた味、という触れ込みで、これも最初は岩塩をひとつまみ、だったと思いますが、今は沖縄産の塩のようです。
私はソルティライムもソルティライチも気に入っていましたが、製造元は毎年違うのを試していたようで、次の年はソルティなんとかではなく、なんだっけ、柑橘系のドリンクで、これは好きではなかった。
そして、そのあと、再びソルティライチが登場して、ヒットとなったようです。
そのあともまた赤いドリンクが出てますが、これは飲んでいません。
で、ヒットすると必ず出る類似品。セブンイレブンによく売っているこのライチ水はソルティライチにそっくりの味で、なかなか優れもの。1リットル105円というお手ごろ感もあります。ソルティライチも2リットル198円のがあるので、2リットルだったらソルティライチの方がお得なのだが、天然水2リットルとソルティライチ2リットルを買って坂を登って帰るのは無理……いや、2リットルの天然水とライチ水1リットルもつらそうで、結局、天然水と500ミリリットルのソルティライチを買ってきたのでした(と、飲みながら書いています)。

実は先日、某薬局で、2リットルのソルティライチが158円だったのだ! しかし、サントリーの天然水2リットルを買って帰る予定だったので、あきらめました。つか、2リットルも1人で飲んじゃうと思うとカロリーが心配。
しかし、ソルティライチのアイスキャンデー、1週間前に買って食べたあと、コンビニから姿を消している。売れ行きいいのかな。ないとよけい欲しくなる…。
冷凍庫のある方は、ソルティライチを凍らせて、シャーベットにするとおいしいそうですよ(うちは冷凍庫のない小さい冷蔵庫なので、天然水と他のドリンクでいっぱいです)。

追記 ソルティライチとライチ水の写真はこのサイトhttp://m3q.jp/t/599のものです。このサイトはソルティライチのおいしい飲み方を解説しています。テキーラと混ぜるのはぜひやってみたい。

2013年8月10日土曜日

猫目線

久々、デジカメで猫を撮りに。
近所の猫。視線が鋭い。

某所の猫。この場所は久しぶりなので、視線にとまどいも。





この子は向こうから声をかけてくれた。

神妙な面持ち。

夕暮れなので、ピントが決まらない。

どんどん暗くなる。

気になっているミケの老猫には会えなかった。

2013年8月9日金曜日

ニュースから思ったこと

残暑お見舞い申し上げます。

暑くて寝れないので、朝からヤフー・ニュースなど見ていますが、気になったことをいくつか。

1 駅エスカレーター、歩かないで、とJRがアピールしているようですが、いきなり歩くなと言っても無理。なんで歩くかと言うと、エスカレーターのスピードが遅すぎる、人の数に比べて少ないから時間がかかる、かといって、階段はなかったり、あってもあまりにも長くて登山に近かったりするから、といった理由で、これらが改善されそうにないのに歩くなと言っても無理。むしろ、「どうしても歩きたい人はゆっくり歩いてください」とアピールした方がいい。たいていの人はゆっくり歩いています。
追記 このニュースでは、エスカレーターを駆け下りた人が起こした事故の例を2件あげていますが、それはどちらも、階段を駆け下りた場合に起こる事故と同じです。走るのがいけない。走るのは階段でもいけない。ゆっくり歩いている人を犠牲にするな。

2 遊園地で客の写真を撮って売る業者が、並べた写真をスマホで写して帰る客が多い、と怒ってるらしい。私に言わせれば、許可なく写真撮るんじゃねえ!!! 肖像権侵害って言葉を知らないのか!!! 今は紙の写真はいらない、スマホで撮ってすぐネットにアップしたいんだから、という声もなるほどです。ちなみに、東京ドームの遊園地の観覧車では無料で写真を撮ってくれますが、もちろん、いやな人はお断りできます。

3 「経験したことのない豪雨」とか、毎年「例年にない暑さ」とか、気象庁やお天気関係者の日本語はどうなってるの? 経験したことのないって、それは80歳の老人が経験したことがないってことですかね? 200歳の老人はいないしね。注意喚起するのに脅迫の言葉を使うのってどうよ?

4 昨日の「奈良で震度7」の誤報ですが、私は地震速報の設定を携帯にしていないので(そんなもの、来ても何もできない)、誤報は来ませんでした。が、午後5時8分すぎにたまたま携帯を見たら、「奈良の地震速報は誤報でした」みたいなメールが来ていた。そのときに思ったのは「奈良で大地震? ありえねえ」
 奈良とか京都とか、大昔の人が都を作ったところは安定した土地だろうと思います。
 その誤報のお知らせの前も、周囲はまったく静かで、騒いでいる人はいなかったので、大部分の人は気づいていなかったか、信じていなかったのかもしれません。だって、気象庁だもの(いやいや、みんな仕事中だったから)。
 あとでネットで見たら、ヤフー・ニュースがアクセス不能になったとか。やっぱりネットやスマホにしがみついている人が反応したのね。
 今回は九州から関東まで広範囲に速報を出したので大騒ぎになったようですが、本来なら関西圏だけでいいところでしたね。北海道で地震で東京も揺れるのはよくありますが、関西で地震で関東が揺れたら日本は終わりでしょ。つか、その広範囲の原発が全部やられたら…。停まっていても放射能は出ますから。(そういや、関西電力の稼働中の原発は地震速報でどう対応したのだろうか?)

そして、今日は長崎・原爆の日。

2013年8月8日木曜日

冷めたピザ追記

前回の記事で「リンカーン」を冷めたピザと切って捨ててしまいましたが、それで捨てるのは少しもったいないと思い、もうちょっと追記しておきます。
スピルバーグとしては、黒人問題を扱う映画は過去に「カラーパープル」と「アミスタッド」があり、「カラーパープル」は一般社会の中では白人から差別され、黒人社会の中では男性から差別される黒人女性たちを主人公にした映画で(原作は黒人女性作家アリス・ウォーカー)、アカデミー賞作品賞にノミネートされるも賞はシドニー・ポラックの「愛と哀しみの果て」、監督賞はポラックで、スピルバーグは監督賞ノミネートもなしと、物議をかもしたのでした。
当時、スピルバーグは「ジョーズ」や「ET」のようなキワモノの監督と思われ、それが賞狙いで文芸作品、それもユダヤ系白人のくせに黒人問題を、という反発もあったのですが、受賞したポラックは過去に優れた作品があったとはいえ、この「愛と哀しみの果て」は冗漫でつまらない映画でした(キネ旬でシナリオ採録したので、2回試写を見たのだが、長くて退屈でつらかった、という思い出しかない)。
そんなわけで、アカデミー賞からは不当な評価をされていたスピルバーグですが、社会問題への関心が本物であったことはやがて「シンドラーのリスト」をはじめとする作品で理解されるようになります。「アミスタッド」もそうした作品群の1つで、こちらは南北戦争より前の時代の奴隷問題をテーマにした、実話の映画化。「リンカーン」で重要な役割を果たしているのが黒人女性たちであるのは「カラーパープル」から、奴隷制度というテーマは「アミスタッド」から来ているといっていいでしょう。スピルバーグとしては、「カラーパープル」から一貫してあったテーマだと言えます。
しかし、残念なことに、「カラーパープル」以外はあまりよくない。「アミスタッド」はまだ温かいピザなので感動できますが、スピルバーグの真の傑作と比べると演出が弱い。最初にテーマありき、主張ありきなところは「リンカーン」と同じですが、「リンカーン」の方は冷めたピザなので、「アミスタッド」ほど盛り上がらない。
「リンカーン」はスピルバーグの作品群で言うと、上のように黒人問題路線の1つなのですが、もう1つ、比較したくなる作品があります。それは彼の最高傑作の1つ「シンドラーのリスト」です。
「リンカーン」の色彩を抑えた映像がまず、モノクロの「シンドラーのリスト」を思い出させるのですが、この2本の共通点として、心優しい物静かな主人公が虐げられた人々を救う、というテーマがあります。また、シンドラーがナチスの党員でありながら多数のユダヤ人の命を救ったという背景には、彼が純粋な生一本の人間ではなく、目的のためには妥協もできる懐の深い人間であったことがあると思いますが、「リンカーン」もまた、リンカーンをはじめとする奴隷制廃止をめざす人々が、反対派に袖の下を使ったりと、ありとあらゆる方法で賛成票を得ようとします。中でも、急進的な奴隷制廃止論者(トミー・リー・ジョーンズ)が、それまでの主張を曲げて、人種差別反対の言葉を取り下げることで賛成票を得やすくするシーンは、正しい目的、よい結果のためには妥協も必要だということを表しています。
つまり、「リンカーン」はスピルバーグの第2の「シンドラー」だという見方が可能なのですが、そういうふうに見れば見るほど、「リンカーン」が「シンドラー」に比べて劣るということが重くのしかかってきます。「シンドラー」にあったサスペンスフルな展開、善と悪の対比、善ではあるが、その内面はミステリアスであるシンドラーという人物の描写、そういった映画的に優れた点が、「リンカーン」にはまるでないことに気づくのです。
「リンカーン」が作品賞を取らなかったのはある意味幸いでした。「リンカーン」のスピルバーグは「愛と哀しみの果て」のポラックと同じ、いや、それ以下になっている気がします。私は「アルゴ」もアメリカ人さえよければいいみたいで、娯楽作品としてはそれでもよいが、作品賞は困ると思っていますが、「リンカーン」もまた、アメリカ人の自画自賛のようなところが鼻につきます。アメリカ人が奴隷制を廃止したので世界が自由になったみたいな描き方のことですが、それはちょっと違うだろう、と。

「ザ・マスター」についての追記。
前の記事でこの映画のポスターについて触れましたが、アメリカのポスターは日本とはまったく違って、主役の3人の顔が縦横斜めにいくつも並んでいるというもので、その並び方で3人の関係がわかるような仕組みになっています。フレディとマスターの顔はくっついているのに、フレディとマスターの妻の顔は離れている、など。

スローボート・トゥ・チャイナ

久しぶりに名画座に行ってきた。
「リンカーン」と「ザ・マスター」の2本立て。「リンカーン」は気になっていた映画だし、「ザ・マスター」はRottenTomatoesの批評家の評価がやたら高い(一般人はビミョー)。1300円でこの2本立てなら買いだ、と思い、見に行きましたが、近頃の名画座はロードショー館並みの設備ですね。最後に名画座に行ったのはいつでどこだったのだろう。
それはともかく。
「リンカーン」はまあ、つまらないことはないですが、特に言いたいこともないです。世間の評判どおりってところかな。スピルバーグの映画としてはつまらない方に入ると思います。彼のこだわりとか、あまり感じるところなかったし(息子が戦争に行きたがるのを父が止めるのは「宇宙戦争」を思い出したけど)。ダニエル・デイ・ルイスの演技もそうだけど、なんか、ものすごく冷めちゃってるというか、冷静とかそういうのではなく、冷めたピザって感じ。
そこいくと、ロバート・レッドフォードが監督した「声をかくす人」は現代のアメリカの問題にも通じる歴史の暗部を描いていて、こっちの方がよかったですね。レッドフォードは最新の監督・主演作「ランナウェイ逃亡者」の試写を先日見ましたが、こちらはヴェトナム戦争時代の過激派の30年後を描いて、やはりアメリカの歴史の暗部を描くことで現代の問題を突く、みたいな志があります(ただ、「声をかくす人」に比べると娯楽優先になってる気がするが、共演者が豪華ですごい)。

さて、「リンカーン」と同時上映の「ザ・マスター」。「リンカーン」はつまらないことはないと書いたのは、一応、飽きずに面白く見ることはできたからですが、この「ザ・マスター」は、飽きずに面白くは見られませんでした。
もともと、ポール・トーマス・アンダーソンの映画は苦手だったので、自分向きじゃない映画なのかもしれませんが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の方がずっと見ごたえがあったし、作品としての求心力もあったと思います。
RottenTomatoesでは絶賛が多いのですが、亡くなったロジャー・エバート(イーバート)は否定派でした。私の不満は彼の言っていることにかなり近いので、やはり否定派はこう感じるのだな、と思いました。絶賛派ではピーター・トラヴァースのを読んでみましたが、ピンと来ません。
しかし、一応、飽きずに面白く見られた「リンカーン」に比べ、飽きるし退屈だしどこがいいんだ、この映画と思った「ザ・マスター」の方が、おそらく、あとあとまで心に残る気がします。
それはつまり、否定派の私から見て、この映画は野心的な失敗作だからで、冷めたピザよりは野心的な失敗作の方がいいからです。
たぶん、「リンカーン」は焼きたての熱々の状態に作り上げられていたら、きっとおいしかったでしょう。でも、最初から冷めたピザに作ってしまった、そういう感じの作品。
一方、「ザ・マスター」はレシピが間違っていて、うまく作れなかったが、レシピ自体が斬新で、ほかに類のないもので、しかも材料(役者とか音楽とか)が高級だから、部分的にはおいしいのです。
この映画を見て、私が連想したのは、「ミステリーズ運命のリスボン」です(6月に記事を書いていますので、サイドの6月のところをどうぞ)。あれも退屈といえば退屈で、しかも最後は夢落ち? でも、いろいろ考えると面白いところのある映画、でした。(以下、ネタバレありですが、鑑賞にはあまり影響はないかも。)
「ザ・マスター」は、冒頭に砂浜に砂で作った女性の裸体が出てきますが、ラストも主人公フレディ(ホアキン・フェニックス)が砂で作った女性の裸体に寄り添うシーンです。
もしかして、この映画も夢落ち?
いや、冒頭にはフレディの仲間の米兵が何人も出ているけど、ラストは彼一人だから最初に戻ったわけではないのですが、でも、この話は全部、フレディの夢?という解釈もありだと思うのです。
そうなると、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教の教祖(マスター)も、彼の周囲の人々もみなフレディの想像上の人物? 私にはその可能性があるように思います。
フレディとマスターは共通点のある人物で、お互いに惹かれあいます。フレディはマスターの思想に異議を唱える人に暴力をふるいますが、マスターにもその傾向があります。
マスターはフレディの分身ではないのか、というのが、私の頭に浮かんだ疑問です。
マスターがどういう人生を送ってきたかは描かれていませんが、フレディについては多少、描かれています。フレディには結婚を約束した恋人がいたが、戦争に行くことになり、終戦のときにロールシャッハテストを受けると性的な連想ばかりします。その後、1950年頃、彼はデパートのようなところで写真業をやっていますが、「妻のために写真を撮ってもらう」と言った中年男性に暴力をふるい、クビに。その後、農場で出会った東洋の移民のような人たちに薬品を調合して作った酒を飲ませ、1人が死にそうになり、毒を盛ったと言われて逃げ出し、そしてマスターの家族や支持者が乗る船に忍び込み、そこでマスターとフレディの奇妙な関係が始まります。
フレディについてわかっていることは、南の島で兵士として終戦を迎えたこと、薬品を調合して酒を造っていること、戦争のために恋人と別れたこと、そして、結末近くで、その恋人はすでに別の男性と結婚して子供もいるということがわかります。
あとはマスターによるフレディの治療と称することがいくつも行なわれ、そこにマスターの輪廻転生の思想が出てきたり、マスターの周囲の人々の描写が出てきます。マスターは必ずしも家族の支持を得ていないこともわかります。マスターのモデルはSF作家でサイエントロジーのロン・ハバードのようですが、ちょっと参考にしたという程度らしいです。実際、このマスターって、ほんとに影響力のある教祖なのかいな、と思うところも多い。
印象に残るのは、フレディの突発的な暴力、そして、マスターによる治療の奇妙なエピソードです。特にクライマックスのオートバイのシーン、フレディがどこまでも走っていってしまい、どこかに消えてしまうシーンが印象的ですが、その後、フレディが恋人を訪ねていくと彼女がすでに結婚していたというシーンがあり(回想なのか、オートバイで消えたあとに訪ねたのかは不明)、そして、イギリスに渡ったマスターをフレディが訪ねるシーン。オートバイからこのシーンまでがなかなか見ごたえがあります。そして、フレディがマスターを訪ねたとき、マスターはフレディに「自分と一緒に行くのなら」と言い、「スローボート・トゥ・チャイナ」を歌うのです(村上春樹の「中国行きのスローボート」はこの歌がもとになっています)。
映画のポスターは真ん中にフレディがいて、そのすぐ両側に小さくマスター、そしてそのさらに両側にさらに小さくマスターの妻の顔があります。妻も重要人物なのでしょうが、私にはそれほど重要でないような、他の人物とあまり変わらない重要度のような気がしました。重要なのはフレディとマスターであり、そして、私の予想通り、これがフレディの見た夢なら、マスターはフレディの中にいて、マスターに関係した人たちもフレディの中に、マスターより重要度の低い人々として存在している、そんな感じがしてなりません。

異邦人:カミュじゃない方の

アルベール・カミュの小説じゃない方の「異邦人」といえば、それはもう、久保田早紀・作詞作曲の歌「異邦人」(異論もあるかもしれませんが、わたくし的には)。
この歌は詞も曲もすばらしく、歌もうまいしその上美人、というわけで、一躍有名になった久保田早紀でしたが、結局これの一発屋に終わった感もあり、それから時は流れて30年以上。
久保田早紀って、今、どうしてるの?と思ったら、なんと、結婚後の本名・久米小百合でキリスト教の伝道歌手になっているそうな。しかも、夫はあのハンフリー・ボガートの吹き替えで有名な俳優・久米明の息子だって。

なんで突然、久保田早紀のことを思い出したかというと、月曜に「カイロ・タイム 異邦人」という映画の試写に出かけたのですが、実は試写状をもらったときから、私の頭の中には久保田早紀の「異邦人」がエンドレスで流れ続けていたのです。
「カイロ・タイム」は原題ですが、「異邦人」という邦題をつけたのは、たぶん、久保田早紀の歌をイメージしてのことだと思います。そのくらい、なんか、ぴったりなのですよ。
それはともかく、この「カイロ・タイム」は2009年のカナダ映画なのですが、北米では大変評判がよく、トロント国際映画祭ではカナダ映画賞を受賞、RottenTomatoesでは批評家の評価がものすごく高い。でも、地味な映画なので、日本公開は遅れたのだと思いますが、なかなかよくできた映画でした。
(以下、ネタバレ大ありなので注意。)
物語は、カイロで夫と休日をすごす予定だった50代の女性編集者が、なかなかカイロに来ない夫のかわりに相手をつとめてくれたエジプト人男性と淡い恋をする、という、あの古い名作「旅情」のような作品です。というか、試写状もらったときは、手垢のついた設定のラブストーリーだろうと思い、なかなか見に行こうとしなかったのですが、あちらでの評判のよさに驚いて、急遽、出かけたのです。
見てみると、これは手垢のついたラブストーリーではまったくありませんでした。
パトリシア・クラークソン演じるカナダ人女性ジュリエットは女性誌の編集者、夫マークは紛争地域のガザで活動中の国連職員、エジプト人男性タレクはかつて夫の警護担当だった元国連職員で、現在は父親のコーヒー店を経営中。ジュリエットは夫が国連職員なのだから社会問題に詳しいのだろうと思うと、そうではありません。彼女はタレクに、自分の編集する雑誌は社会問題を扱っている、と嘘を言いますが、タレクが洋書店で雑誌を手に入れてみると、それはごく普通の女性誌。ジュリエットは本当に狭い自分の世界しか知らないようで、なかなかカイロに来ない夫に会いにバスでガザへ行こうとし、途中で、安全を保証できないという理由で引き返させられます。そのバスの中で出会った若い女性から手紙を託され、タレクとともにその手紙を恋人の男性に渡すのですが、ジュリエットはこの問題を抱えたカップルに対して何もできないのです。また、彼女は幼い少女たちが絨毯を作る仕事をしているのを見て抗議しますが、それに対し、タレクは、欧米の価値観で決め付けるなと言います。また、タレクが宗教の違いから結婚できなかった元恋人と再会し、彼女が今もタレクを思っているとわかっても、ジュリエットはやはり何もできません。
いくつもの紛争地帯を抱える中東で、ジュリエットはまさに異邦人であり、それは単に外国人というだけでなく、永遠にその世界のよそ者であるということなのです。
なかなか来ない夫に何か秘密でもあるのだろうかと思いましたが、そういうサスペンスはまったくなく、夫は単に忙しかっただけのようです。
夫と行く約束をしていたので、一度はタレクと行くのを断ったピラミッドへ、ジュリエットは夕暮れにタレクとともに行きます。そして、やっとカイロへ来た夫と、今度は昼間のピラミッドへ。夕暮れの彼女は水色のドレスを着ていましたが、昼間の彼女は黄色のドレス。肌をあらわにしたファッションで、最初から最後まで、エジプトの世界にまじわらない彼女を、中東系カナダ人の女性監督ルバ・ナッダは適度な距離を置いて見つめています。無知な異邦人を通して、彼女の気づかなかった世界を見せるという手法に、ただのラブストーリーで終わらない何かを感じます。

2013年8月4日日曜日

キネマ旬報8月下旬号

キネマ旬報8月下旬号が届きました。

表紙はベネディクト・カンバーバッチ。「シャーロック」とは髪型が違うので全然わかりませんでしたが、「スタートレック」の最新映画で悪役をやってるらしい。特集はこの映画と、カンバーバッチのインタビュー。うれしいぞ!
しかし、またやってしまったというか、カンバーバッチのつづりが間違ってるのだ、ああ!
インタビューはとってもすばらしいです。
私が横浜の某ホテルで「シャーロック」の第1作を見た話は今年の1月の記事にあります。
(おっと、1月じゃなくて2月でした。http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/02/blog-post_20.html
どっちかというとワトソンの役者の方が好みなんだが、あの短い原作を引き伸ばしに引き伸ばして3部作にするという「ホビット」はまだ見ていない。ピーター・ジャクソンの映画は長すぎる。「乙女の祈り」がなつかしいな。
この号は私の興味のあるページが多かったのですが、中でも訃報でディアナ・ダービン、ミロ・オーシア、ルース・プロワー・ジャブヴァーラ、ロジャー・エバートの死を知り、感慨にふけっています。
「オーケストラの少女」のダービンは、まだ生きてたのか、という感じですが、ゼッフィレッリ版「ロミオとジュリエット」のロレンス修道士役のオーシア(昔はマイロ・オーシアだったのだが)、ブッカー賞受賞の作家で、ジェームズ・アイヴォリー映画の脚本家としてアカデミー賞も受賞したジャブヴァーラ、そして、映画評を書くにあたってよく参照したロジャー・エバート(イーバートが正しいようだ)の3人には思い入れがあります。
亡くなったのは4月頃のようで、訃報を知らなかったのですが、オーシアは授業のために「カイロの紫のバラ」を見たら、彼が出ていて驚いたりしました。
ジャブヴァーラは、一時期、アイヴォリーの映画の紹介に深くかかわっていたので、本当に思い入れのある人です。ブッカー賞受賞の「熱砂の日」原作は読みました。
ロジャー・エバート(イーバート)については、かつてキネ旬に書いた「イカとクジラ」は彼の映画評の影響が大きいです。その「イカとクジラ」の巨大イカを撮影した映画が公開されるらしい。

2013年8月3日土曜日

夏休み第1週

今週は夏休み第1週で、やっと毎日のように映画を見に行けるようになった。そこで、月曜から金曜までの5日間に6本の試写を見る。昔だったら週に6本なんて全然珍しくなかったし、学生時代は週末の土日は2本立てを見に行って、週に4本は普通だったのに、6本見たらかなり疲れた。
授業があるときは週に1、2本しか見られなかったのだけど、さすがに6本は多いのかもしれない(自分的に)。ただ、先週に比べて今週はおなかがすかないので、やはり授業をする方がカロリーを消費しているのだろう。

というわけで、今週取り上げた4本のあとの2本は日本映画「凶悪」とニール・ジョーダンの新作「ビザンチウム」。どちらも面白いことは面白い。見て損ではない。でも、うーん、どっちも疲れた。この疲れたというのは私の年のせいの可能性が高いので(そして、週に4本見て疲れてきたところだったので)、それを差し引くと、どっちもそれなりに面白いと思う。
ただ、不満もあって、「凶悪」は実際に起きた事件の映画化で、実話を相当変えてある。見たあと、書店で原作のノンフィクションをちょっと立ち読みしたのだが、変えたところがどうもよくない。やはり実話の方がリアリティがあってよいような気がする。
特に主人公のジャーナリストは相当変えてあるようで、映画の中では彼は認知症の母親を妻に任せっぱなし、老人ホームに入れてほしいという妻の願いもきかず、日々苦労している妻が苦情を言うと、自分は真実の追求をしているところなんだから、と拒否。うーん、それとこれとは話が違うだろ。違う次元の話をしてもねえ。たぶん、作り手としては、主人公が事件に没頭しすぎて頭が少し変になっているというところを示したかったのだろうけど、一番凶悪なのは殺人事件に夢中になる主人公、というのはかなり無理な理屈。正義とは何かとか、報道とは何かとか、そういうレベルに達していない。悪いのはどう見たってあっちの方で、ジャーナリストが何か感じる必要もない(原作のあとがきには、犯人に対して同情は抱かなかった、というようなことが書いてある)。犯人の描写も、あれでは誤解を招くような気がする。

「ビザンチウム」はニール・ジョーダンとしては「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」以来の吸血鬼もの。確かにジョーダンらしい内容で、興味深い。
だが、しかし、あの「ぼくのエリ」が登場して以来、ちょっとやそっとの出来栄えの吸血鬼ものではもはや満足できない自分がいるのに気づく。
(以下、多少のネタバレがありますので、ご注意ください。)
物語は200年前に吸血鬼になった母と娘(なった時期が違うので、姉妹に見える)が同じ吸血鬼の秘密結社に追われている、みたいな設定で、母と娘はそれぞれ、現代イギリスの男性に出会う。どちらもいわゆるやさしい男性で、女性にやさしく、性格は善良そのもの。母が出会った男性は無人のゲストハウスを持っていて、母はそこで売春宿を経営して金儲けするが、男性は売春をいやがる。娘は白血病で余命いくばくもない青年に出会い、恋をする。
一方、母娘を追う吸血鬼の秘密結社は男性ばかりで、女性は入れない主義だったが、母が勝手に吸血鬼になってしまい、その後、今度は娘を吸血鬼にしたので、掟破りということで追われているのだった。
彼ら男の吸血鬼たちは、自分たちこそ正義だといい、女が創造をする(人を吸血鬼にする)のは許さない、と言う。要するに、彼らは母娘が出会ったやさしい男性とは正反対の、女性を抑圧する男たちなのだ。
また、母が吸血鬼になろうと思ったのは、彼女がまだ少女だった頃、男にだまされて売春婦にされ、その上結核に侵されてしまい、強い体を求めて、あるいは、弱い女性をいじめる男たちと戦いたい、と思ったからだった。実際、彼女は売春で女性を虐げたりするような男から血を吸う。
一方、娘を吸血鬼にした理由の1つは、娘がくだんの悪い男の毒牙にかかり、病を移されたから、ということで、若くして死の病にとりつかれた人が吸血鬼になる、というパターンがある。
女を虐げる男たちと戦うという母に対し、娘はひたすらやさしい少女で、死にかけている人からしか血を吸わない。
というわけで、女を虐げる男たち、彼らと戦う女、女たちにやさしい男たち(実は上の2人以外にもいる)、心やさしい少女、という図式があるのだけれど、いまいち、どれも中途半端かな、という、微妙な感じ。中心にいるシアーシャ・ローナンはすばらしいけれど、あっちにもこっちにも目配りして欲張りすぎな感じもしないでもない。
ジョーダンとしては、「モナリザ」にも通じる、暴力的な男と虐げられた女というテーマもあって、その辺は非常に興味深いのだが。たとえば、母娘に対して結局何もできないゲストハウスのやさしい男性は、「モナリザ」の主人公とダブって見える。
なお、この映画の吸血鬼は、「ぼくのエリ」の原題の英訳「レット・ザ・ライト・ワン・イン」(正しい人を入れよ=吸血鬼を家に入れるな)と同じく、家の主が許可しないと中に入れないことになっている。でも、太陽の光に当たっても平気だし、血を吸われた人が吸血鬼になることもない。
吸血鬼の母親はクララという名前だが、途中、カミラと名乗る。カミラはもちろん、シェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」だろう(そのあと、今度は「クレア」と名乗ったりもする)。この「吸血鬼カーミラ」を映画化したのが「血とバラ」で、2人の女性を主人公にした幻想的な映画だったが、姉妹に見える母と娘は「血とバラ」の影を背負っているに違いない。

2013年8月1日木曜日

よく似た映画2本+1

家に来ていた試写状を眺めていたら、よく似た映画が2本ありました。

右が「アップサイドダウン重力の恋人」というカナダ・フランス映画。
左が「サカサマのパテマ」という日本のアニメ映画。
どちらも男女が逆さまになっているわけですが、どうやらどちらも重力の方向が正反対の男女のラブストーリーのようです。
そんなわけで、火曜日は「アップサイドダウン」を、水曜日は「サカサマのパテマ」を見に行きました。
「アップサイドダウン」は設定が最初から説明されていて、非常に接近した双子の惑星が舞台。人間も物もすべて生まれた惑星の重力に従うという法則があり、上の惑星は富裕層の世界、下の惑星は貧困層の世界という格差社会です。上の惑星の企業が下の惑星の人々から搾取しているという構造。
そんな中、お互いに高い山を登っていたときに知り合った上の惑星の女性(キルスティン・ダンスト)と下の惑星の男性(ジム・スタージェス)が恋に落ちる。しかし、上の惑星の人間と下の惑星の人間の交流は禁止されていて、唯一、2つの世界を結ぶ巨大なビルの企業に入れば出会えるチャンスがあるというので、男性はある発明を携えてその企業に入り、という話。
はっきり言って設定倒れというか、壮大な設定なのにそこで起こるのはただの男女のラブストーリー、格差社会の変革とか全然なし(その後に起きそうな感じはあるが、主人公は「それはまた別の話」といって逃げてしまう)。
ビジュアル的にはよくできていて、特に上と下の惑星をつなぐ巨大ビルの中で、重力が正反対の人々がお互いに逆さまになって動いているあたりはさすが特撮金かけてるよね、という感じ。
一方の、あまりお金をかけられない日本アニメ(ジブリと違って超マイナー)の「サカサマのパテマ」ですが、こちらは設定というか、舞台となる世界の構造は最後になるまで隠されています。
始まった段階では、地底社会に暮らすパテマという少女と、地上社会に暮らすエイジという少年が出会い、重力が正反対のパテマが空に向かって落ちていくのをエイジが救う、というところから物語が始まります。つまり、地底社会と地上社会では重力が逆で、地底社会の人は地上に向かって開いた穴に落ちてしまって地上に出る、というわけ。
地底社会の方はどんな社会かいまひとつよくわかりませんでしたが、地上社会は独裁者が支配していて、人々はみな同じ方向を見て、余計なことは考えないで過ごすことを強いられています。その世界で窮屈な思いをしていたエイジがパテマと出会い、こことは違う世界があると知り、独裁者たちに追われながら、やがてこの世界の真実にたどり着く、というお話。
真実のところはネタバレ禁止なので言えませんが、これはなかなかすごいアイデアです。ただ、残念なのは、映画の中でこの世界の構造がバシっとわかるようには描かれてないことです。私が不注意なのかもしらんが、見たときはイマイチよくわからず、あとでカンニングペーパーを開いてわかった。もっとはっきりわかるようにやってくれたらすごかったのに。
あと、長篇は初めての監督さんらしいけど、脚本やせりふがあまりうまくできていない。これだけのアイデアだったら、もっとしっかりストーリーを練ってほしかったです。エイジの属する社会も、よくある全体主義的社会で、それを支配する独裁者がバカすぎる(しかもロリコン)。こういうのは悪役ももっと複雑な人にした方がよいのですよ(自分では人々のためにやっているつもりだが、実は何もわかってなくて間違っていたとか、あるいは、わかっていたけど、人々のために隠していたとか)。
その辺のストーリーやキャラクターのレベルが低すぎるのが残念でなりません(おまけに、キャラがアップになるシーンの絵の動きがものすごく悪いので、感情が伝わらない)。アイデアはほんとにいいのです。また、互いに逆さまの人々が出会い、互いに理解しあうとか、そういうテーマもよいんですけどね、物語としてこなれてないんですよ。
しかし、欧米発の映画は格差社会で貧富の差、日本発の映画は独裁的な全体主義社会、というのにお国柄を感じます。そして、欧米発の映画が設定だけで社会はどうでもよく、日本発の映画は一応、社会を変えなきゃ、みたいになってるのもお国柄でありましょうか?
また、「サカサマのパテマ」は女性の描写が古いというか、アメリカだったら政治的に正しくないといわれてしまいそうな部分があります。

水曜は「サカサマのパテマ」のあと、移動して、ダニー・ボイル監督の新作「トランス」を見てきました。こちらはさすがによくできた映画。ボイルとしては初期の作品「シャロウ・グレイヴ」のようなミステリーですが(脚本が同じ人)、こちらは主演がジェームズ・マカヴォイ、ヴァンサン・カッセル、ロザリオ・ドーソンと、演技もうまいし花もある人々。内容は、オークション会場でゴヤの絵が盗まれ、ギャング(カッセル)の一味になっていた会場職員(マカヴォイ)が実は盗み出したのだが、ギャングに殴られ、記憶喪失になり、どこに絵を隠したか忘れてしまう。そこでギャングは女性の催眠療法士(ドーソン)を使って記憶をよみがえらせようとするのだが、というお話。
このドーソン演じる催眠療法士が怪しい、というのはわりと早くからわかりますし、マカヴォイは見かけほど善人じゃないぞ、という感じもして、誰が一番悪いのか、そして、この事件の全体像は、という感じで、話がどんどん予想外の展開を見せていきます。
なかなかよくできたシナリオで、ボイルの演出もキレがあるし、役者もみなうまいので、引き込まれてしまいますが、こういうのって、あとになって考えると、なんだかうまくだまされたみたいな、すっきりしない感じが残るものがよくあります。これもそういう感じで、面白いけど、見終わってどうもすっきりしないタイプです。
あと、一番思ったのは、警察はいないのか?
これだけいろいろあるのに、警察が全然出て来ないのです。
ヴァンサン・カッセルは悪役を演じても悪い人に見えないのですが、この映画でもこれでよくギャングのボスがつとまるな、みたいな感じはあります。「イースタン・プロミス」ではだめ息子だったし、「ブラック・スワン」では邪悪に見えるシーンは全部ヒロインの妄想で、最後にヒロインに駆け寄るところなんか、完全な善人。でも、この辺がこの人の魅力で(私もそこが好きなのだが)、この映画ではカッセルのそういう魅力が全開です。

今回はネタバレなしで3本紹介いたしました。