2013年10月31日木曜日

26番のこととか

セイバーズの26番トマス・ヴァネクが10月28日(現地時間)にニューヨーク・アイランダーズにトレード、かわりに入ってきたマット・モールトンとかいう選手が同じ26番で、いつのまにか26番が入れ替わった。
ヴァネクと、あとミラーは、開幕前のオフのうちにトレードされるのでは、という噂があって、というのも、2人とも今季で契約が切れるかららしいのだが、特にヴァネクはリビルディングのチームにはいたくないと公言してたので、こりゃトレード確実、と言われてたのに、なぜか、開幕時には2人とも残留、ヴァネクはCマークまでつけていた。が、チームはただ今どん底のリーグ最下位をまっしぐら(なぜか1ポイント差でフィリーが下から2番目につけてますが)。というわけで、トレードしちゃったのね、という感じである。
今、セイバーズはほんとに、誰がいるの?という感じで、あのプレジデンツ・トロフォーを獲得したシーズンにいた選手はいまやミラーと出戻りタリンダーだけ。最近はほんとに知らない名前ばかりになってしまった。その中で、ヴァネクは特に頼れる選手ってわけでもなかったので、別にいいというか、私にとってセイバーズの26番はデレク・プラントだものね(はあと)。
が、かわりに来た選手がすぐに26番とは。
そのデレクがアシスタント・コーチをつとめる母校のホッケーチーム、ブルドッグスは、今季は勝ったり負けたりですね。一昨季優勝したあと、昨季は全然だめだめだったが。
そして、デレクがいたアジアリーグのクレインズは、今季は強いじゃん、と思っていたら、ここに来てホームで4連敗だと。ホームで、というのがここのデフォルトなんだけど。しかも同一カード3連敗で、相手は新加入の韓国の軍隊チーム、デミョンサンム。アジアリーグも全然フォローしてなくて、よくわからないのだが、サンムは魅力的なチームらしい(選手の数は少ないし、外人いないし、という状態なのに)。

というわけで、ホッケーからはかなり遠ざかってしまっている今日この頃。このブログも映画記事へのアクセスが多くて、ホッケー中心のときより今の方が読まれています。

季節は移り変わり、木の葉も落ちて、マンションの屋上からの眺めがよくなる時期ですが、南側の墓地の大きな木の枝がばっさり切り落とされて、夏の間は木の葉に隠れていた南側のある部分がよく見えるようになってびっくり。前は不忍池の前の高層マンションが見えたのに、その前に大きなビルが建ってしまって、まったく見えなくなっていた。南西の方角は、御茶ノ水のあたりに高層ビルができたせいで、その向こうにうっすらと見えていたビルが見えなくなった。そして今、西の方角に新しい建物が建設中で、こちらもまた景色が変わってしまいそうです。
ホッケーチームもそうですが、世の中はどんどんどんどん変わっていくのですね。
「東京物語」の最後、原節子演じる女性が義理の妹に「人間は変わるものなのよ」と言って、変化を受け入れるように諭すシーンがありますが、彼女もまた、戦死した夫のことを今では忘れつつあるのに再婚という変化を受け入れられずにいる。だから、変化を受け入れるというのは、おそらく、自分自身に言っている言葉でもあるのでしょう(映画のはじめの方に、どこそこの誰それは再婚したけどうまくいっていない、というせりふがあって、変化にはそういうリスクがあるので、変化を受け入れられないということが伏線として出ています)。
「東京物語」をDVDで見て、建設中のビルや工場の煙突が高度成長期に突入して変化していく日本を象徴しているのではないかと思いましたが、変わることを受け入れる、というのが最後に出てきて、なるほどと腑に落ちるものがありました。

2013年10月30日水曜日

RottenTomatoes98%Fresh

RottenTomatoesで98パーセントもの高評価を得ている「MUD マッド」という映画。試写が3回しかないので早速見に行った。
RottenTomatoesはけっこう参考になるし、評価が低くても評論家のコメントで自分好みかどうか判断できるので助かるが、逆に高評価のもの(98パーセントとか異様に高いもの)は、え、こんな程度で?とがっかりすることもある。
「MUD」はアメリカのミシシッピー川周辺に住む貧しい白人たちの物語で、主人公の14歳の少年が親友と一緒に川の中の島へ行くと、そこに殺人犯の男(マシュー・マコノヒー)が原始的な生活をしている。彼は恋人(リース・ウィザースプーン)を助けるために殺人を犯してしまったらしいのだが、被害者の家がギャングで、ボスの父親が人を雇ったりして彼を殺そうとねらっている。それでも彼は恋人に会いたがっていて、彼女も彼に会うためにこの近くに来ている。そこで、2人の少年は彼らのために一肌脱ごうとするのだが、そこで主人公は一筋縄ではいかない「大人の事情」に直面する。
よく練られた脚本で大変よい映画なのである。こういう映画にけちをつけるのはむずかしい。テーマもすばらしいし、出演者もよい。アメリカのプア・ホワイトの世界もリアルに描かれ、少年の成長というよくあるテーマが手垢のつかない新鮮な切り口で描かれている。少年が抱く恋への幻想が、大人の世界では全然違うということがわかるあたりは、ほのぼのとした雰囲気の映画なのに、きびしい現実を突きつける。
ただ、クライマックスがありきたりな銃撃戦になってしまうところだけが、欠点といえば欠点か。
そんなわけで、98パーセントもの支持を得るのはとてもよくわかるのだが、逆に言うと、賛否両論の出ない映画、無難な映画ということで、そこが物足りない。
でも、見て損はない映画なのは確か。「ウィンターズ・ボーン」、「フローズン・リバー」、「ハッシュパピー バスタブ島の少女」などを想起させるアメリカの貧しい人々の姿を描いた映画でもある。

実はこの映画の前日に、ボスニアの貧しい人々を描く「鉄くず拾いの物語」を見た。
こちらは貧しいロマの一家が主役で、幼い子供を抱える父親は仕事もなく、生活保護も子供手当ても受けられず、鉄くずを拾ってなんとか暮らしている。ところが、妊娠中の妻が突然、痛みを訴え、おなかの子供がすでに死んでいて、手術しないといけないことがわかるが、健康保険に入っていないので病院から手術を拒否される。
これは実話で、このあと、いろいろな人の協力で妻は手術を受けられるのだが、このニュースを知ったダニス・タノヴィッチ監督が激怒、映画にして訴えなければ、と思い、医者以外はすべて本人に演じさせて9日間で撮影、いわゆる再現ドラマとしての映画ができあがったのだ。
これがなかなかに見ごたえがあって、ロマの一家はまったくの素人なのにものすごく自然な演技。2人の子供の様子なんかリアルそのもの。夫はその演技でベルリン映画祭主演男優賞まで受賞してしまった。周囲の人々もみな本人が演じているというけれど、全然再現ドラマに見えない。かといって、俳優を使った劇映画とは違う雰囲気もあり、なんとも不思議で面白い映画だった。また、この映画に描かれたことが、日本ではまったくありえないとは思えないのも、考えさせられる。

さて、ツタヤで旧作100円のレンタル。今回は古いイギリス映画ばかり借りたのだけど、「わが命つきるとも」の次は「ズール戦争」。マイケル・ケインの出世作として有名な南アのイギリス軍とズールー人の戦いを描く戦争映画だけれど、戦闘が始まるまでに1時間くらいかかったのは驚いた。最初の1時間くらいは、まず、ズールー人の壮大な集団結婚の儀式を描き、そのあと、100人くらいしか兵士がいないイギリス軍の駐屯地で、ズールー人の襲来に備える兵士たちを描く。製作も兼ねるスタンリー・ベイカーの庶民出身の中尉と、マイケル・ケインの演じる金持ちの坊ちゃん中尉のやりとりが中心で、イギリスの階級がもろに現れているところ。庶民出身のケインが金持ちの坊ちゃんというのが驚きだが(ベイカーが抜擢したらしい)、なかなかの名演技。
後半は4千人ものズールー人と100人程度のイギリス軍の戦いで、このスペクタクルがすごいのだが、人が何人も死ぬけれど、なんとなくスポーツの試合みたいな描き方になっているのがサッカーが好きなイギリス人に受けるのだろうという気がする。ズールー人は民間人の宣教師とその娘にはいっさい手を出さない紳士的な人々で、誇り高い戦士として描かれている。対するイギリス人というか、ウェールズ人が中心で、その中にイングランド人やボーア人、スイス人もいるといった具合なので、イギリス軍の方は悪賢いやつとか情けないやつとかもいるが、こちらも基本的には正々堂々とやっている。そして、この少数のイギリス軍が多数のズールー人をついに追い返したあと、ズールー人がイギリス軍に、よくやった、とエールを送ったりするのである。また、戦闘の合間にお互いに歌でやりあったりする場面もあり、やっぱりこれはスポーツの試合だよね、と思ってしまった。
今は戦争をこういうふうに描くのは不謹慎だし、もはやそういう映画を新たに作って楽しめる時代でもないが、「ズール戦争」はズールー人を敬意をこめて描写し(ズールー人の全面協力でできている)、イギリス軍を賛美せず、戦争のむなしさも最後に感じさせるといったところがいい。古い映画だと欧米人以外の人々の描写がひどかったりするのだが、この映画にはそういった感じはないというか、同時代のハリウッド映画にはそういうひどい描写があるので、やはりイギリス映画は違うと思った(「アラビアのロレンス」でもアラブ人は誇り高い人々に描かれていた)。
監督のサイ・エンドフィールドはアメリカ人だが、ハリウッドではアメリカ先住民がひどい描かれ方をしていたので、そういうことはしたくなかったのだそうだ(特典映像より)。ほかにも、特典映像を見ると、アパルトヘイト時代の南アでの撮影だったので、人種差別に関する苦労があったようだ。ズールー人と白人が交流することも許されていなかったのだという(それでも交流していたようだが)。

2013年10月29日火曜日

わが命つきるとも

アカデミー賞作品賞を受賞した1966年の映画「わが命つきるとも」。エリザベス一世の両親ヘンリー八世とアン・ブーリンの結婚に反対して死刑になった、「ユートピア」の著者トマス・モアの妥協しない生き方を描くロバート・ボルトの戯曲の映画化で、ずっと前から気になってはいたものの、なかなか見る機会のなかった作品。先日、上野のツタヤへ行ったら旧作100円のキャンペーンをやっていたので、借りてみました。
なんか、なにげに地味な豪華キャスト。一番びっくりしたのは、ヴァネッサ・レッドグレーヴがアン・ブーリンを演じていたこと(ゲスト出演で、出番はわずか)。そして、あのジョン・ハートがびっくりするほど若かったこと。これが映画初出演で、当時、26歳。顔の表情ですぐにわかりました。
ほかにもヘンリー八世がロバート・ショー、枢機卿がオーソン・ウェルズ、トマス・モアの妻がのちの「エレファント・マン」で婦長の役でハートと共演することになるウェンディ・ヒラー、モアの娘がスザンナ・ヨークと、これ以外にも地味に豪華な演技派ぞろい。主役トマス・モアのポール・スコフィールドは主演男優賞を受賞。
ハートの役はモアとは対照的な生き方をする若者で、モアを裏切ってクロムウェル側につき、出世して、他の人物が首斬られたりする最後を遂げているのに、彼だけはベッドで大往生という、やっぱりモアみたいな生き方は損だよね、こういう調子いいやつが得するんだよね、という役柄。
役はともかくとして、ハート、実はモアに次ぐ準主役といっていいかも。
私がハートという俳優を意識したのは「ミッドナイト・エクスプレス」あたりからですが、その頃にはすでに渋い役者になっていて、その後、「エレファント・マン」のヒットでスターになるわけですが、その前に「ウォーターシップダウンのうさぎたち」や「指輪物語」で声の出演をしていたとは知らなかった。特に「指輪物語」はアラゴルンの役だと。あのアニメのアラゴルン、けっこう好きだったのだ。
映画「わが命つきるとも」は、日本人にはちょっと理解がむずかしいかも、と思います。私も、なんでモアがこんなに王に逆らってるのか、命まで犠牲にする価値があるのか、と考えてしまいました。
キリスト教が、ローマ・カトリックの堕落に対する反発からプロテスタントが出てきた頃で、ルターやカルヴァンはまじめにプロテステントしていたのでしょうが、イギリスはヘンリー八世がとにかく離婚してアン・ブーリンと結婚したい、ただそれだけのためにローマ・カトリックと決別して英国国教会を作って、自分がそのトップになってしまった。その身勝手さがモアは許せない。宗教とか法律はそういうふうに作ってはいかんのだ、とモアは思うわけです。しかも王のわがままを貴族や宗教界もそのまま追認、権力者はやりたい放題。こんなことでいいのか、とモアは言うわけです。
つまり、モアの主張はまさに正論。その正論が許されない社会の恐ろしさを描いているわけです。
でも、今の感覚でいうと、離婚が許されないのはおかしい、とか、ローマ・カトリックがすべてじゃないでしょ、というのがあるので、むずかしい。
そんなわけで、異論を言う人間を排除する社会の恐ろしさ、というテーマが、キリスト教がからんでいるためにわかりづらくなっているのは否めません。そこがとても残念です。今も通用するテーマなのに。
そして、正論を言い続けて死刑になるモアに対し、ハートの演じた若者が上手に世渡りしてそのまま逃げ切ってしまうのも、今の世の中を反映しているような気がするのですが、そこまで見てもらうのがむずかしい映画であるのも残念な気がします。
でも、とてもきっちりと作られた名作。アカデミー賞受賞のおかげで今も見られているのはよいことです。

2013年10月26日土曜日

10万pv

さきほど、ブログ開設以来、10万ページビューを達成いたしました。
多謝。


追記(同日14時30分)
夜中に10万pv達成を確認し、上の文章を書いておしまいにしてしまいましたが、あまりにも素っ気ないので、花束かわりに花の写真を。春に撮ったものですが、そろそろ秋バラの季節ですね。






マイヤーリング

日本では「うたかたの恋」として知られ、映画やミュージカルやバレエにもなっている「マイヤーリング」。ご存知、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリーの心中事件をもとにしたラブストーリーで、日本では戦前に作られたアナトール・リトヴァク監督の「うたかたの恋」が、皇太子の心中事件の映画などけしからん、というわけで、戦前には公開できず、戦後に公開されたという逸話もある。まあ、私の世代には、やはり、オマー・シャリフ、カトリーヌ・ドヌーヴの「うたかたの恋」の方が身近ではありますが(でも、どちらも見てない)。
その「マイヤーリング」が、1957年にアメリカでテレビドラマになり、主演がなんとオードリー・ヘプバーンと当時の夫メル・ファーラー(フェラーが正しいのだが、ホセ・フェラーやミゲル・フェラーはフェラーなのに、なぜ彼だけいまだにファーラーなのであろうか)。助演がレイモンド・マッセイ。監督は戦前の「うたかたの恋」のアナトール・リトヴァクがクレジットされているが、実際はリトヴァクは製作で、演出は別の人がやったらしい。当時のテレビドラマは生放送なので、綿密なリハーサルが必要だったから、実際の演出はテレビの演出家でないとできないだろう。ただ、このドラマは戦前のリトヴァクの「うたかたの恋」のリメイクでもあるようで、事実上、リトヴァクの作品といってもいいようだ。
で、アメリカではすでにDVDが出ているのだが、日本では来年1月に映画館で上映されることになり、先日、試写を見てきた。
生放送のテレビドラマだから、当然、フィルムやビデオとして残ってはいない(つか、当時はまだビデオは実用化されてなかった?)。では、どうして残っていたかというと、放送中のテレビ画面を16ミリフィルムで撮影したものが保存されていたのだそうだ。
そんなわけで、画質も音質もかなり悪かったのを現代の技術で修復した、ということだけど、それでも苦しいというか、特に音が大きかったのがちょっとつらかった。全編、ウィンナワルツやクラシックが流れているのだけど、これが音が大きくて邪魔というか疲れる。
ドラマとしてはしっかりとしたつくりで、生放送のせいか、演技が舞台ふうだけれど、オードリーもメルも好演している。ルドルフは日本ではルド様と呼ばれて女性に人気みたいだけど、試写状受け取ったときはメル・ファーラーのルド様で日本のファンは納得するのだろうか、と思ったが、意外によいのではないだろうか。もともとメル・ファーラーはヨーロッパ的な雰囲気の人で、背が高いし上流の雰囲気もあるので、皇太子には合っている気がする。
オードリー・ヘプバーンは今でも日本では大人気だし、ルド様人気もあるから、両方のファンから興味を持たれるかもしれない。
なお、このドラマはカラー放送だったが、マスターの関係でモノクロになっているとのこと。1957年にもうカラー放送してたのか、アメリカは、と驚く。カラーだったらきっとゴージャスだっただろう。

2013年10月24日木曜日

通りすがりの猫

このところ、毎週土曜にコインランドリーへ洗濯に行っていたが、今週末は台風が来るというので、早めに水曜に洗濯。その間、近くを散歩していたら、この前彼岸花を撮った空き地に猫が2匹寝そべっていた。よく見ると、草むらの中にもう1匹いそうな感じだったが、立ち入り禁止でロープが張ってあるので、近づけず。猫は悠々と昼寝。カメラ持ってなかったので、写真も撮れなかった。
そんなわけで夕方、カメラを持って散歩。通りすがりの猫を撮ってみました。

まさにキャットウォークというか、細長い場所にいる猫たち。






こちらはお寺の境内。飾り付けがしてあるので、門に近づいてみたら、猫が。

ススキ。

2013年10月23日水曜日

映画の耐えられない長さ?

有名人気ブロガーが、映画館で上映中にスマホや携帯を見る人がいるのは、映画が耐えられないくらい長いからだ、という記事を書いている。
んんん? ほんとかね?
このブロガー自身がどうも、映画が耐えられないくらい長いと感じているようだが、上映中にスマホや携帯をいじる人は映画が長くて耐えられないからとは思えない。むしろ、スマホや携帯を常に見てないと気がすまない人たちなのだと思う。
そういう人はどこにでもいて、昨日の夜、電車が駅に着いたので、乗ろうとしたが、前に立っている人がスマホをずっといじっていて、前に進まない。それで、脇をすり抜けて入ったが、電車が来るまでの時間に耐えられなかったからとはとても思えない。
だから、そういう人たちがいるのを、映画の耐えられない長さ、などとやられてはかなわない。
ところが、この有名ブロガーの記事を読んだ、有名なのかどうかわからない別のブロガーが、やはり賛同するような記事を書いている。
この人は映画が耐えられないほど長いとは思っていないようで、タルコフスキーの難解な映画とか好きらしい。でも、うちでDVD見るときは途中でスマホをいじってしまうので、賛同したようだ。
別に、うちで見るときは何したってかまわないんですけど。公の場と自分だけの場を区別すれば、何の問題もない。着いた電車の入口でスマホをずっといじっているから迷惑なので、自宅で永遠にスマホいじっていても誰も文句は言わない(家族がいれば言うだろうけど)。
要するに、公の場所と私的な場所を区別しろ、という話で、上映中にスマホや携帯をいじる人に対して、他の客が「それなら映画館に来るな」と言うのもうなずける。今はDVDで見られるんだから、映画館に来なくても見られる。しかも、自分のペースで。

本当に、映画が耐えられないほど長い、と言っていい人は、トイレが近い人である。
今の映画は2時間半くらいあるものが多く、トイレ我慢は2時間が限界、という人は映画館に行けないという悩みを抱えている。しかも、座っている方がトイレが近くなるのだそうだ(立ち見の方がマシらしい)。
こういう人には私は大いに同情する。
かつて、2時間半以上ある大作映画には必ず休憩が入った。4時間近い「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」はもちろんのこと、2時間半の「ウェスト・サイド物語」にさえ休憩があった。トイレの我慢は2時間が限度、というのはある意味、真実なのだろう。ところが、あの3時間以上ある「タイタニック」は休憩がなかったので驚いた。それ以後、長い映画でも休憩を入れないのが当たり前になっている。(インド映画は3時間くらいあるのが普通だが、こちらはちゃんと休憩がある。)

個人的には、映画は90分から120分が最適と思っているので、最近の2時間半が当たり前のハリウッド映画は私も長いと感じる。スマホや携帯をいじる人はたとえ60分でもいじるだろうから、映画館を圏外にしてしまうのが一番いいと思うが、それとは別に、人間のバイオリズムに合った上映時間というものを映画を作る人は考えるべきだと思う。

2013年10月22日火曜日

台風の名前

台風27号と28号が日本の南にあり、27号は週末に東日本直撃と言われている。
こっちはいろいろ予定があるので、心配なのだが、台風情報を見ると、27号はフランシスコ、28号はレキマーという名前がついている。
ん? 台風って、英語の名前をアルファベット順につけるんじゃなかったけ?

んなわけで、探してみたら、気象庁のサイトに説明があった。
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html

  台風には従来,米国が英語名(人名)を付けていましたが,北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は,平成12年(2000年)から,北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)をつけることになりました。
 平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ,以後,発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて,その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は25.6個ですので,おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。
 なお,台風の名前は繰り返して使用されますが,大きな災害をもたらした台風などは,台風委員会加盟国からの要請を受けて,その名前を以後の台風に使用しないように変更することがあります。


なるほど。最後の、大きな災害をもたらした台風はその名前を以後の台風につけない、というのが気になる。
上の説明の下に140個の名前が出ているが、日本は「てんびん」とか「やぎ」とか、星占いか、と思ったら、3つ目からは星占いとは違う星座だった(でも、「うさぎ」とか「かじき」よりは星占いの方がよいな)。
というわけで、進路が心配な27号はフランシスコで、アメリカが命名(人名だけど聖人の名でもある)、すぐ後ろに迫っている(アベックというよりはフォロワーというかストーカーというか)28号はレキマーで、ベトナムが命名(果物の名)。正直、日本とアメリカの命名する名前以外は覚えるのも大変だ。
しかし、台風委員会っていう名前もお役所っぽくなくて、なんとなく味がある。
27号は速度が遅いので、予報がどんどん変わっていくのも困りものだ。東日本直撃というのは米軍の予想らしい。

2013年10月19日土曜日

ツタヤ閉店から1ヶ月。

近所のツタヤ閉店から約1ヶ月がすぎた。同じ区内に移転して、そちらは先月末に開店したとのことだが、そこのHP見たら、こんな文章が。

永らくご愛顧いただいておりました**店ですが、9月16日をもちまして営業を終了し、9月28日に◎◎店へ移転いたします。謹んでお礼とお詫び申し上げます。

だよね。お詫びしてもらわなくちゃ。
前にも書いたけど、◎◎店は区内とはいえ、そこへ行くにはいったん地下鉄で他の区に出て、そこで乗り換えてまた自分の区に入らないといけないという、同じ区内といっても別世界なのだ。
だから、そこを利用することはないだろう。
それに、◎◎店はビルの地下1階で、コミックのレンタルもするという。**店は4階建てのビルの2階と3階がDVD、1階がCDのレンタルだったから、ものすごく豊富な品揃えだったけれど、ワンフロアでコミックのレンタルまでするのでは、品揃えは期待できない。
というわけで、先日、仕事の関係で上野のツタヤへ行き、レンタルしてきた。
そこでわかったんだけど、Tポイントが、100円で1ポイントだったのが200円で1ポイントに変更。おまけに、旧作100円レンタルがなかった。
なんでも、旧作100円レンタルは、ライバルのゲオが50円レンタルとかやってるので、それに対抗してやってたのだそうな。でも、直営店が多いゲオに対し、ツタヤはフランチャイズが多いので、オーナーはやってられない。**店の閉店もおそらくそうした事情でオーナーがやってられなくなったのであろう。こんなことならもっとしょっちゅう借りてあげるんだった。
DVDレンタルの店は年々、減っているそうで、先日もカードを持っている店がいつのまにかスーパーになっていた(おい!)。
最後に借りたのは4年前くらいだったかもしれないが、店の前は時々通っていて、いつのまにか古本屋が併設されていた。そこも最初は品揃えがよかったのだが、しだいに数が減っていって、それで行かなくなったような気がする(遠かったのもあったが)。
スーパーはまだ新しい感じだったので、閉店したのは最近なのだろう。
ちなみに、アメリカでもレンタル店はどんどん減っているようだ。ただ、あちらはネットのオンデマンドでお金を払って映画を見るのが主流だという。日本はこのオンデマンドがなかなか普及しない。
確かにオンデマンドならDVDにするよりお金がかからないので、あまり借り手がいないような珍しい映画も簡単に見られるようになるのかもしれない。また、レンタルDVDに時々ある、スキップできない予告編が20分もあるとか、そういうのもなくなるだろう。個人的には、このスキップできない予告編を延々と見せられるからレンタル店から足が遠のくというのが確実にあった。
それにしても、映画館にも一部の映画にしか客が来ない、そしてレンタル店も減少していく、としたら、これから日本ではどうやって映画が見られていくのだろうと、気になる。

追記 日本ではオンデマンドのかわりに宅配レンタルがあるが、これはどの程度の利用率なのであろうか。

2013年10月18日金曜日

「アラビアのロレンス」を初めて見るには?

大学の後期授業が始まって以来、試写にも映画館にも全然行けない。
授業のために古い映画のDVDは見ているが、新作はもう1ヶ月見てない。
それはともかく。

後期は「アラビアのロレンス」をやるんですよ。
学生の中にはこの映画を見たことがある人は1人もいません。
先日、第1回をやりましたが、まず、映像なしの序曲に驚いていました。
私が初めてこの映画を見たときは70年代はじめのリバイバルで、この頃は「ベン・ハー」はじめ、少し古い名作がよく上映されていて、序曲がある映画には慣れていました。映像がある場合(「ウェスト・サイド物語」など)とない場合(「アラビアのロレンス」や「ベン・ハー」)があって、ない場合は、場内を少し暗くして、その間、トイレに行く人は行く、そして、序曲が終わりに近づくと場内がしだいに暗くなって、終わると同時に真っ暗になり、映画が始まるという、なかなか手の込んだ上映をしていたものです(最近のリバイバルだと真っ暗な中で序曲を聞くのだと。それじゃ「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じだわ)。
教室では電気を消しても真っ暗にはならないので、そんな中での序曲でしたが、序曲の間、なんとなくざわざわしていたのに、音楽が終わりに近づくと、しーんとなったのには驚きました。わかるんですね、音楽が終わりそうだということが。

映像は重要なところしか見せず、あとは解説をして、できればレンタルして全部見てほしい、と言っていますが、「アラビアのロレンス」は解説がとてもむずかしい。なんといっても、第1次世界大戦頃の中東情勢を説明しないといけない(私は門外漢)。とりあえず調べて、オスマン帝国がどうの、当時のアラブは、と解説しますが、学生にはむずかしいようです。私も詳しくないので、ほんとに簡単に説明しているのに、イギリスやフランスなどが利権目当てでアジアなどの地域に進出する、ということ自体があまりわかってないというか、知らないというか、うーん、高校ではそういうこと教えないのですか?(あ、近現代に入る前に終わっちゃうのか、授業が)。

と、頭を抱えつつも、ふと思ったのは、私が「アラビアのロレンス」をリバイバルで見たのは高校生だったけど、この映画の時代背景とか、全然わからずに見ていたなあ、ということ。もともと、歴史は日本史も世界史も嫌いで、地理で受験したくらいなので。
そんなわけで、ロレンスがイギリスとアラビアの間で翻弄されたということは理解できましたが、それ以外の理解については果たして、という感じです。
でも、映画はすばらしかったし、楽しめました。
なんといっても、あの映像美。これは映画館じゃないとわからない。
それから、ピーター・オトゥールが魅力的で、オマー・シャリフがかっこよくて。
もうそれに尽きますね。
当時、やはり映画館に見に行って、ロレンス命になった女子高生、けっこういましたが、歴史背景なんて全然話題にならず、ひたすら、ロレンスすてき、アリかっこいい!
この映画、女性は背景にちらっと映るだけなのに、女性ファンがものすごく多い。
オトゥールのロレンスが両性具有的、つまり、半分女性みたいなところがまた女性に受けたのだと思います(JUNEとか耽美とかBLとか、そういう系列)。

というわけで、歴史背景など吹っ飛ばして、映像美にうっとり、ロレンスにうっとり、アリにうっとり、ただそれだけでも十分に名作なので、「アラビアのロレンス」初体験はむしろ、こういう形から入った方がいいような気がします。
でも、やっぱり、授業ですから、時代背景や「ロレンスとは何者か」というテーマをしっかり勉強してもらいますけどね(授業では映像は本当に一部しか見せないので、各自が映画館なりDVDなりで全体を通して見るのが初体験ということになるから別にいいのか)。
今、改めて見ると、この映画、ヨーロッパ列強による第3世界支配に対する強い批判精神に貫かれている作品です。ロレンスがアラビアの主権を望んだように、映画の作り手(特に脚本家?)もそれを主張しているように感じます。

2013年10月17日木曜日

クラリスのトラウマ

「羊たちの沈黙」は大好きな映画で、原作も面白かったが、本やネット上にあるさまざまな文章に引っかかることが時々ある。
その中でも特に気になるのは、女性主人公のFBI訓練生クラリス・スターリングが幼い頃に父を失って孤児となり、母のいとこ夫婦の牧場に預けられたとき、クラリスは養父から性的虐待を受けたと断言している文章がかなりあることだ。著名人の著書にさえ、こう書かれているものがある。
これはクラリスがレクター博士と何度目かの対面をしたときに、子供時代のことを話せと言われ、牧場に預けられたことを言う。そこで何かトラウマになるようなことがあったと見抜いたレクターは、養父から性的虐待を受けたのだろうと言うが、クラリスはきっぱりと否定する。「養父はまともな男でした」と彼女は言う。「まともな男」とは英語では「a decent man」で、性的虐待など決してしないまっとうな人間だということだ。このせりふを言うときのクラリスに迷いはない。ここは原作でもまったく同じである。
そして、その後、クラリスは、養父が牧場で子羊を殺していたのを見てしまい、それがトラウマになっていることを話す。「羊たちの沈黙」のタイトルはここから来ている。
養父は家畜を殺して肉にする職業だったのだ。つまり、養父は仕事として子羊を殺していたので、人間が肉を食べる以上、そうした仕事をする人がいるのは当然なのである。クラリスも、大人になった今では、そのことがわかっている。だから養父をまともな男だったと言うのだ。
にもかかわらず、なぜ、一部の人々は、クラリスが養父から性的虐待を受けたと思い込んでしまうのだろうか。性的虐待がトラウマの原因なら、子羊の叫び声がトラウマになったところから来た「羊たちの沈黙」というタイトルの意味がなくなってしまう。
もう1つ気になるのは連続殺人事件を追う中で、クラリスと上司クロフォードが死体発見現場の警察署へ行くシーンの解釈である。警察署にいるのは男性の保安官ばかりで、女性はクラリス1人。そんな中、クラリスの味方と思われたクロフォードが署長に、「女性の前では話しづらい」などと言って、2人で別室へ行ってしまう。男性保安官の中に残されたクラリスは男たちの好奇の目にさらされる。信頼していたクロフォードの言葉と、そして男たちの目に動揺したクラリスだが、殉職した元警察署長の父の葬儀を思い出して気を取り直す。次のシーンは、クラリスが保安官たちを前にして、「これからはFBIが担当しますのでお引取りください」と言う場面だ。保安官たちは不満げだが、彼女に従う。その後、FBIが検視を始める(この連続殺人事件は広域犯罪なので、地元の警察ではなく、FBIの管轄である)。
このシーンを女性差別のシーンと取り、重要なことを見逃す人がけっこう多い。
このエピソードの最後に、クロフォードは、署長と別室に行ったのは保安官を追い払うためだった、とクラリスに言う。つまり、彼は、「ここからはFBIが担当するので、お引取り願いたい」ということをクラリスに言わせたい、という相談を署長としたのだろう。クラリスはFBI訓練生だが、本物の捜査官になったら、そういうことをする場面も出てくる。その練習をさせたいのだ、と。
そして、クラリスには、わざと「女性の前では」と言って女性であることを意識させ、男性保安官の中に置いて、彼女が女性であることに負けないかどうか試したのではないか。クラリスは父を思い出すことによって動揺を収め、クロフォードが託した仕事を見事にやり遂げた。クロフォードの真意を理解したクラリスは、帰りの車で、彼をさらに尊敬したと語る。
男性保安官の好奇の目(ここはクラリスの視点で描かれているので、クラリスが意識しすぎている可能性もある)を女性差別と思い、そこに気持ちが集中すると、上に書いたようなことが読み取れなくなるのではないかと思う。
こうしてクラリスは成長していくのだが、一方、彼女が養父に性的虐待を受けたと誤解する観客がいるわけが最近、わかってきた。
クラリスはセクシーな美人である。だから、男たちから性的対象としていつも見られていた。たとえば、レクターのいる刑務所に行くと、ドクター・チルトンから誘いを受ける。刑務所の中では、独房の男から卑猥な言葉と精液を投げつけられる。証拠品の蛾のマユを調べるため、スミソニアン博物館へ行くと、研究員の1人が彼女をナンパする(この研究員はまともな男で、ナンパを断られればしつこくしない)。こんな具合なので、彼女は男の目を意識しやすいし、また、観客も彼女の受ける性的ストレスを感じる。そこから、性的虐待があったのでは、という誤解が生まれたのかもしれない。
思えば、クラリスを演じたジョディ・フォスターは、「タクシー・ドライバー」では少女娼婦、アカデミー賞受賞の「告発の行方」ではレイプ被害者と、ある種のセックス・シンボルのようなところがあった(「ホテル・ニューハンプシャー」でもレイプ被害者を演じている)。「羊たちの沈黙」のクラリスには彼女は向かないと多くの人が考えていたのは、彼女が知的な女性とは程遠い役を演じてきたからだ。しかし、一流大学卒のフォスターはクラリスの人物像を正確に分析して役をゲットし、みごとに女優としてのイメージチェンジに成功し、2度目のアカデミー賞を受賞した。
その後のフォスター、知的な役が多くなったフォスターをずっと見ていたので、彼女がかつてはセックス・シンボルであり、性の被害者の役が多かったということを忘れがちになるが、今、改めて「羊たちの沈黙」を見てみると、この映画には性の被害者を演じてきたフォスターが知的な女優になる過程そのものがあることに気づく。彼女のクラリスは、それまで彼女が演じてきた女性たちと同じく、男たちから性的な対象として見られやすい女性なのだ。クラリス自身、そのことに負けそうになるが、クロフォードとレクターの導きによって、そして亡き父の思い出によって、知的で強い女性に変化していく。それはまさに、蛾や蝶のようなメタモルフォーゼであり、この映画のモチーフの1つとも合致する。

2013年10月14日月曜日

体育の日

本日は体育の日、すなわち祝日。しかし、月曜日は祝日でも大学は授業がある(成人の日はさすがに休みます)。
だいたい、体育の日は東京オリンピックを記念して作られた祝日で、本来は10月10日だった。1964年10月10日が開会式だったのだ。
なのに、その体育の日を毎年違う日にしてしまって、それでオリンピックをまたやろうっていうのかい、とイチャモンをつけたくなる(成人の日を毎年違う日にするのも納得できない。つか、成人式を月曜にやるから、田舎に帰る学生は火曜日の授業に出られないのだ)。

とまあ、イチャモンつけててもしかたないので、しばらく前に撮った猫の写真でくつろごう。
で、今回はまず、後姿特集。3枚目がアングル的に気に入っています。





前向き写真も少し。2匹写っているという条件で。


2013年10月7日月曜日

おとめ湯

今年6月に廃業した文京区千石のおとめ湯の特集展示が千石図書館で開かれているというので、見に行った。
先月末に発売の週刊新潮でおとめ湯が紹介されたためか、9月20日までだったのが10月9日までに変更。おかげで今頃知った私も見に行けた。
展示は2階の廊下を使っている。写真撮影禁止と書いてなかったので、写真を撮った。


おとめ湯は広い中庭があり、そこに鯉の泳ぐ池があって、洗い場から鯉が見られるというので有名だった。だいぶ前にテレビの東京ローカルの番組で紹介されたこともある。行ってみたいと思っていたのだが、その後、忘れていた。

真ん中の写真は「テルマエ・ロマエ」でもおなじみフルーツ牛乳。そして風呂上りの定番、コーヒー牛乳。

今年6月1日の段階で営業していた文京区の銭湯。左上のおとめ湯が6月末に廃業。右上の鶴の湯が10月1日から休業中。

1999年に営業していた銭湯。青字がそれ以降に廃業した銭湯。しかし、1980年代にはもっとたくさんの銭湯があった。
右側真ん中の山の湯は、2011年3月11日、東日本大震災で煙突が壊れ、やむなく廃業となった銭湯。根津地区でただ1つ残った銭湯だった。このあたりも風呂なしアパートがけっこうあったので、影響は大きかったと思う。

廊下の奥から。

図書館を出て不忍通りを渡り、千石3丁目へ。リアルのおとめ湯を見に行く。

前の通りが狭いので、正面から全体を写すのは無理。縦だとサイドが切れる。つか、横でも切れている。バックに煙突が小さく見える。

下の部分。曇りの夕方なので、写真が暗いのが残念。


正面ではなく、真横から見たところ。

おとめ湯の一番裏にある高い煙突。煙突は銭湯のシンボルであったのだ。

実は数年前、おとめ湯の近くの風呂なしアパートに申し込みをしたことがあった。
このあたりは駅がどこも徒歩10分以上なので、古い家が多く、非常に静かな環境だった。
そのアパートは窓から隣の広い庭が見えて、絶景であったのだが、申し込みをしたあと、夜に訪ねてみたら、アパートのすぐ前の小道が真っ暗だったので、不安になって契約をしなかった。
その前に、銭湯の場所を確かめるために、おとめ湯を訪れたのが、最初で最後の訪問だった。入口まで行ったのだが、風呂の道具を持っていなかったので、入らなかった。

そのアパートは今、どうなっているのだろうと思い、そちらも訪ねてみる。このあたりは豊島区との区境なので、ちょっと歩くといつのまにか豊島区に入っているという土地。そのアパートはぎりぎり文京区で、細い路地から小道を少し入ったところにある。夜にそのアパートを訪ねたときは、この小道が真っ暗で、猫がうじゃうじゃいたのを覚えている(今にしても思えばいい環境だったなあ)。
しかし、今は、用もないのにその小道に入るのははばかられ、小道の入口からのぞくと、アパートがまだあった。そばの家も変わっていない。
しかし、すぐそばの大家さんの邸宅(庭がとても広かった)は、数軒の分譲住宅に変わっていた。分譲中の旗が立っていたので、最近できたのだろう。

一番近い巣鴨駅からその小道のある路地に行くには、もう1つ狭い路地を通らねばならず、そこも不安を感じさせる道だった。何か、非常に圧迫感がある道で、朽ち果てたような古い家があり、昼間でも怖かった。
駅へ出るために、あえてその道を通ってみた。ところが、あのときのような圧迫感がまったくない。古い家はなくなり、駐車場ができていた。そこに猫がいた。


豊島区に入り、しばらくすると、マンションの前に猫がいた。

文京区は銭湯が激減したが、周辺の豊島区、北区、荒川区、台東区は今でも銭湯がたくさんある。
豊島区の銭湯地図。
http://www.1010.or.jp/cgi/dsearch.cgi?sel=7&shiku=20
北区の銭湯地図。
http://www.1010.or.jp/cgi/dsearch.cgi?sel=7&shiku=21
荒川区の銭湯地図。
http://www.1010.or.jp/cgi/dsearch.cgi?sel=7&shiku=6
台東区の銭湯地図
http://www.1010.or.jp/cgi/dsearch.cgi?sel=7&shiku=3
銀座や神保町、御徒町のような繁華街にも銭湯がある。
その他詳しいことは東京都浴場組合のサイトへ。
http://1010.or.jp/index.php
そして、こちらでは、おとめ湯の湯桶を無料(送料負担)で譲ります、というお知らせが。
http://www.sentou-bunkyo.com/information.html
大勢のお客さんが使った桶なので、新品のような桶だと思わないように。
また、おとめ湯の展示をしている千石図書館はこちら。展示は9日(水)まで。図書館は夜8時まで。
http://www.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/lib07-sengoku.html

2013年10月5日土曜日

考えさせられる記事

神奈川県で踏切内で横たわっていた老人を助けようとした女性が死亡した事故についての神奈川新聞の記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131005-00000018-kana-l14
非常に考えさせられる記事なので、貼っておこう。

そしてまた、次のような事故もあったということを。今度は東京新聞。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013082902000171.html
認知症の91歳の男性が線路内に入り、死亡、鉄道を停めたことに対する損害賠償が遺族に請求され、裁判になり、遺族は認知症患者を監視する義務があったとして遺族に損害賠償を払えという判決が下された。遺族は控訴している。(監視のことを見守りと書いているが、監視と書いた方がこの問題の本質が見えるはず。)

最初の神奈川県の事故では老人は助かったのだが、自殺未遂では、という説もある。おそらくこの老人に損害賠償請求がされるだろうが、自殺しようとした(?)老人をさらに追い詰めることになるのかも。家族はまた損害賠償請求されたらたまらないので、老人を閉じ込めて監視せざるを得ないかもしれない。つまり、認知症の人や自殺しそうな人はみんな閉じ込めておいた方が電車も停まらず、社会は安心、だから家族はしっかり監視せよ(国が監視してくれない)というのが日本社会なのだな。まあ、国がそういう人を閉じ込めて監視っていうのもまた問題だろうけど、家族に頼るのはもう無理よ。

最初の記事の中に、新大久保で起こった、線路に転落した人を助けようとして韓国人留学生と日本人カメラマンが飛び降り、3人とも死亡した記事が出ているが、このときも、最初に転落した人(酒に酔っていた)の遺族に電車を停めたことに対する損害賠償請求がされたそうだ(その人が悪いのはわかるが、遺族に、というのが常に引っかかる)。
この新大久保の事故では、その後、線路に転落するとそれを知らせるマットが敷かれたそうで、事故後、そこに転落して助かった人がいた。あと、駅で酒を売るのも禁止になったはず。

バーチャルな人間関係

このところ、メル友トラブルについて、ネットでいろいろ調べていたが、メル友をやめたいがどうしたらいいかという相談がとても多いのに驚いた。
一番多いのはやはり異性間のメル友で、特に男性が女性にしつこいケース。
同性間だと、相手がひきこもり状態で暇な場合。ひきこもりだけでなく、子供のいない専業主婦の例があった。
私は携帯のメールはやっていないのだが、こうした相談を読むと、ますます携帯のメールは使いたくないと思う。1時間ごとにメールが来て、返事しないと「どうして返事しないのだ」とさらにメールが増える。内容はどうでもいいことばかり、という具合。携帯はメールが来るだけで金を取られるのだ。やってられん。
一方、メル友から返事が来ない、という相談も少しはあって、こちらを読むと、この人からメル友が去るのは当然だよな、という感じ。レスにもはっきりそう書く人がいて、相談者逆ギレの様相を呈している。
多くの場合、メル友は自然消滅するものらしい。これは私もよくわかる。というのは、ネットもメールもなかった若い頃、数十人の人と文通していた。当時、私はペンフレンドを募集すると、来る者は拒まずで全員を受け入れていたのだ(募集を見てこちらから応募した場合もあった)。しかし、多くの人は2ヶ月くらいで音信不通になる。残った少数の中には数年から10年くらい続いた人が何人かいたが、最後は自然消滅に終わった。私は手紙が来るとすぐに返事を書いてしまうタイプなので、向こうから来なくなったときが終わるときだと思っていた。世の中には、なぜ文通をやめるのか、とか、メールをやめるのか、と問い詰める人もいるようだが、私は去る者は追わずなのだ。返事が来なければそれ以上深入りはしないし、理由も考えない。文通相手やメル友はバーチャルな人間関係だから、深入りは禁物だ。
文通で、はっきり、もう文通はやめましょう、と言ってきた人が1人だけいたが、彼女は幼馴染で、転校がきっかけで文通をしていた相手だった。「お互い、勝手に好きなことを書きあっているだけだから、やめたい」と書いてきて、その気持ちはとてもよくわかったので、円満にお別れした。彼女は転校するまでは毎日のように学校などで会っていたリアルな友人だった。だから、彼女は文通を断っても私は理解してくれると思ったのだろう。そういう安心感はリアルな人間関係にしかない(いや、リアルでもむずかしいときが多いか)。
現実には、文通相手やメル友はバーチャルな相手であることが多い。中にはバーチャルからリアルな人間関係になる人たちもいると思うが、大部分は文字のやりとりをするだけのバーチャルな関係だろう。そういう相手だと、文通をやめたい、メル友をやめたい、と言うこと自体がむずかしくなる。手紙やメールだけでは相手がどういう人かわからないのだ。やめたいと言ったときに、相手がどういう反応をするかわからない。そうしたときのリスクを考えると、返事を書かないことで終わりにする方がリーズナブルだ。その昔、私の文通相手が手紙を書かないことで文通を終了させたのはごく自然なことだと思うし、なぜはっきりやめると言わないのか、などと思ったことは一度もない。
メル友をやめる方法についての相談を見ていると、回答者の多くは、返事を書かずに相手があきらめるのを待て、と言う。へたに「やめる」などと書くと、「なぜやめるのか」としつこく迫ってくることがあるからだそうだ。しかし、返事を書かないでいると、死ぬとかなんとか脅迫的なメールを送ってくる人もいるらしい。相手がしつこい場合は受信拒否、相手がメアドを変えてさらにしつこく来る場合は自分のメアドをやめる、と、まあ、世の中大変だな、と思った。メル友1人に対して1つのメアドを用意した方がいいのだな。無料メアドが大量に必要なわけである。
最近、メールの設定の中に、指定したアドレスのメールだけ受信と同時に自動的に削除するという機能があるのを知った。迷惑メール対策だろうけど、その迷惑メールの中にメル友トラブルもかなりあるのかもしれないと思うと、バーチャルな人間関係には慎重になるべきだと思った。

2013年10月2日水曜日

虹・携帯写真

台風一過、というほどの風雨はなかったのですが、夕方、崖っぷちの階段を下りていくとき、空に虹がかかっているのに気づきました。

階段を下りた方が視界が開けるだろうと思ったのですが、電線が邪魔に。

右の方が二重の虹になっています。

しかし、雲が動くにつれて、虹はどんどん消えていきました。

2013年10月1日火曜日

寂しい9月

文京区千駄木にある昔ながらの銭湯、鶴の湯が10月1日から休業する、というので、前日の9月30日、夜11時くらいに行ってみました(営業時間は12時まで)。
この銭湯、1980年代なかばから10年以上お世話になった銭湯です。その後、ずっと行っていませんでしたが、先日、たまたま休業を知って、驚きました。
12月に再開についてのお知らせをする、と貼紙には書いてあるのですが、確実に再開するのかどうか?
この銭湯、今は昼間は介護のデイサービスをしているので、こちらは続けるのかもしれませんが、やっぱり、夜の部の銭湯はお客さんが減っているのでしょう。
そんなわけで、終了1時間前に行ったのですが、さすがに最終日ってことで、かなりの人。特に脱衣所では閉店時間までいようという人が何人もいて、大混雑。よく見ると、どうも、番台の若奥さんの同窓会のような感じです。やっぱりこの時刻だと、普通のお客さんはあまりいないのだな、と思いました(私が通ってた頃もすでにそうだった)。
中に入るのは20年ぶりくらいですが昔とほとんど変わらず。天井が高く、濃い茶色になった柱や格子、美容院にあるような(今はないか?)かぶるタイプのドライヤーも健在。古い体重計も昔のままで、もちろん、乗ってみました。
そして、この銭湯の売りは、浴室にある3つの富士山。男湯と女湯で2つの富士山があり、そして、これは私が通っていた頃はなかったのだけど、その2つの富士山の反対側に男湯と女湯をまたぐようにして大きな(日本一とか)富士山が。
でも、私にとってなつかしかったのは、オランダの風車が描かれたタイル画でした。
中の写真は当然、撮れないので、文京区浴場組合のサイトにあった写真を転載します。
まずは外観。このお寺のような屋根。これぞ関東の銭湯。

そしてこれが日本一大きい富士山の絵。2011年に描かれたそうです。

脱衣所。とにかく天井が高いので、エアコンはたぶん入れてもむだでしょう。扇風機がいくつもまわっていました。

ここはお風呂の温度が高いのです。昔はこのくらい熱くないとだめで、ぬるい銭湯はいやだったのですが、今は熱くてほとんど入れませんでした。最初はぬるい薬湯に入り、最後にがんばって熱いのに入りましたが、肩まで入ったのはほんの一瞬。

別の富士山がはっきり写っている写真を探していろいろなブログを当たりましたが、建築士・今井健太郎氏のブログに3つの富士山の写真がしっかり載っています。
サイトはこちら。http://tokyosento.exblog.jp/18075836/
とりあえず、女湯の富士山だけ転載させてください。男湯の富士山は当然、見たことありません。
もっとも、この女湯の富士山も私が通っていたときのとは違う可能性があります。
お風呂に入るときはメガネはずすから、実際はあまりよく見えてないのだよね。あとで脱衣所からメガネかけて見たら、けっこう汚れが目立っていた。

上の写真の左側の壁にオランダの風車のタイル画があるんです。これが写っている写真が見つからない(と思ったら、上のお風呂の特徴の写真にちらっと写ってますね)。
下は、私が撮った写真。入る前に撮ったのですが、デジカメだと怪しまれそうなので携帯で。
中に入るとハロウィーンの装飾がありました(赤く見えているもの)。なかなかみごとな装飾で、写真を撮りたかったけど、帰りに、と思ったら、帰りは人が多くて無理だった。入る前にこれだけでも撮っておいて正解だった。

お客さんに配られたタオル。

この銭湯は全日空だったか日本航空だったか、どちらかの機内誌で紹介されたこともあります(たまたま飛行機に乗っていて、見つけた)。
フロント式に変えるところが多い中、番台を守っていたり、富士山の絵もおかみさんのこだわりなのだと、どこかのブログに書いてありました。近くの別の銭湯は改装のときに番台をやめてフロントにしてしまったのですが、やっぱり番台じゃないと交流がなくてつまらないな、と思ったことがあります。

下は番外編。先月閉店したツタヤ。最終日に撮ったものですが、携帯なのでボケている。これも道路の反対側からあわてて撮ったので。

というわけで、寂しい9月でした。