2014年12月31日水曜日

大晦日、真の満員札止め

今日で閉館する新宿ミラノ座。閉館上映会は結局、一度も行けませんでした(年末、風邪ひいてしまったりして)。
で、最終上映の1時からの「E.T.」、ツイッターによると満員札止めで、入れない人が外に立っているとのこと。優勝が決まる試合で、入れない人が球場の外でその瞬間を待っている、ということがありましたが、ここもそうなのだろうか。入れた人にはクラッカーが手渡されたそうで、終映とともに1400発近いクラッカーが鳴るのか。うーん、煙すごそう。(ミラノ座の定員は、立ち見入れると1400人弱だそうです。)

ツイッターで、新宿ミラノ座で検索すると、このような風景や感想が出てきます。
https://twitter.com/search?q=%E6%96%B0%E5%AE%BF%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%8E%E5%BA%A7&src=typd
行った人、行けなくて残念な人の思いが語られていますが、その中で、こういうツイートも。

「E.T.」満員札止めであぶれた人たち(僕含む)が多数いたんですが、おばはん二人組が「何か他の映画見ればいいんじゃないの?」とクールにすたすた歩き去ったのがカッコ良かった。正しい映画観客。(カセット館代表後藤さん)

本日の閉館を惜しむ人々でいっぱい。ただ、通常営業最終日の映画「インターステラー」の最終上映回がガラガラだったことは書いておこう。(ヒトリカンケイさん)

ミラノ座ラスト上映は朝から並ぶ客がいることを予想して、お客さんはすでに閉館したミラノ座のビルの他の映画館の中やロビーに並んだらしい。ミラノ座より一足先に閉館していた、新宿東急などのことで、早くから並んだ人はある意味、奇妙な体験だっただろう。上映1時間前には座席が埋まるくらいには並んでいたようだ。30分前だともう立ち見もいっぱいで入れなかったかもしれないなあ。その前の「荒野の七人」を見た人はすぐに並んでも立ち見だっただろうか?
うーん、私は実は、「荒野の七人」は上野東急、「アラビアのロレンス」は松竹セントラル、「タワーリング・インフェルノ」は丸の内ピカデリー(旧)、「E.T.」は新宿ピカデリー(旧)で、今回のラストショーのラインナップでミラノ座で見たのは「戦場のメリークリスマス」だけみたいなのだ。上映作品リストを見ても、松竹セントラル、丸の内ピカデリー(旧)、渋谷パンテオン、丸の内ルーブル、千葉の京成ローザや千葉劇場、そして大宮の映画館を思い出してしまったのだった。このすべてが、昔とは同じ形では残っていないと思う(名前は残っていても)。

というわけで、2014年もあとわずか。
このところ、映画の鑑賞報告をしていませんが、試写はいろいろ見ているので、いずれまとめて短評を書くつもりです。最後に見たのはチャン・イーモウの「妻への家路」(試写)。
では、よいお年をお迎えください。

2014年12月30日火曜日

謎の学生が訪ねてきた。

哲学的しろくまさんのツイッターから

謎の学生が訪ねてきた。
学生「出席が足りないので、冬休みのレポート課題を出してください」
おいら「なぜ」
学生{え?」
おいら「なぜ」
学生「え? それで評価してもらえればと」
おいら「なぜ、こちらの負担を増やすと評価してもらえると思うの?」
学生「え?」
おいら「え?」

これはよくありますね。学生のくずに等しいレポートを読むのがどれだけ苦痛か、彼らはわかっていない。書けば評価されると思っている。
しかし、上のように思う先生は少ないのか、教授が学生に「レポート課題を出してもらって単位をもらえ」と指示した、と言ってくる学生もいるのだ。一度、その教授の経歴をネットで調べたことがあるが、NHK教育くらいには出たことのある先生だった。
それでも、上の「謎の学生」はまだよい方なのです。
試験が終わった後、「出席も悪いし試験もできなかったのでレポート課題を出してくれ」という学生が時々いる。しかし、非常勤講師は期末試験が終わったらもう次の学期まで大学に来ない、いや、雇い止めなり辞職で二度と来ない可能性も高いのだ。
つまり、レポートを受け取れない(自宅の住所は個人情報なので教えるつもりはない)。
もちろん、出来の悪いレポートなどただで読みたくもない。
第一、ほかの学生は、たとえば出席が悪ければその分試験でがんばろうと努力しているのに、なんで、このずるい学生だけえこひいきしなければならないのか。
あ、これよりすごいのは、4年生は再試験を受ける権利があり、年度末にそれを受ければ合格可能性あるのに、「合格できるわけないから、今、不可の成績を可にしてほしい」としつこくねばる学生がいたことだ。この学生は中堅私大の法学部の学生である。恐ろしい。
スポーツ推薦で入学し、大学ではスポーツしかやっておらず、スポーツの実業団のある一流企業に内定し、という学生が多い大学は上のようなことが多いような気がする。
はるか昔、私の大学の教授が別の大学にいたとき、その近くの大学で非常勤講師をしていたのだが、その大学がスポーツで有名なところだった。そして、受け持ちの学生で1度も出席せず、試験も受けていない学生について、大学から「この学生はスポーツの実業団のある某企業に内定したので、レポートを出して合格にしてほしい」との依頼があった。そこで、その先生はレポート課題を出したが、学生はレポートも出さなかった。しかし、その学生はなぜか卒業し、サッカーで有名な実業団(当時はJリーグがなかった)でプレーしていたとのことである(私は知らなかったが、かなり有名な選手だったらしい)。
私が今、非常勤をしているある大学で、別の非常勤講師が「学生が頼んでも合格にしないが、親が頼んできたら合格にする」と言っていた。親が相手だと面倒なことになるからで、中には卒業させないなら訴える、という親もいるらしい。
小保方事件は、上のようなことの延長上にあるのだとしか思えない。
なんにしても、非常勤講師は大学生の新卒給料より低い収入で生活しているので、「こいつ、ずるいことして就職して、自分よりいい給料もらうのだな」と思われるのだ、ということは、上のような学生は気づいた方がいい。

追記 リンク貼り忘れていました。
https://twitter.com/eis_baerchen/status/547595108967645184
反応のツイッターを見ると、学生が悪くないと思う人が圧倒的多数ですね。でも、現実には、まじめな学生が損をする結果になるケースばかりです。同情の余地のあるケースだったら、先生の対応も違うはず。つか、こういうことがあるとは知らなかった、という人もいるようだけど、他の学生がまじめにがんばっている陰で、こういう人がずるく立ち回っているのだけれど。それを優秀と勘違いした結果が小保方事件。

2014年12月24日水曜日

フランケンシュタインの映画

いろいろな形でよく映画になる「フランケンシュタイン」ですが、ジェームズ・マカヴォイとダニエル・ラドクリフ主演の「ヴィクター・フランケンシュタイン」(原題)というのが2015年10月にアメリカで公開になるらしい。監督は「シャーロック」の人で、イギリス映画だそうだ。
で、内容は、というと、マカヴォイがヴィクター・フランケンシュタイン、ラドクリフが助手のイゴールって、メアリ・シェリーの原作と関係ないじゃんか! つか、これ、ボリス・カーロフの映画のパスティーシュだろう。
ただし、カーロフの映画では、フランケンシュタインはヴィクターでなくヘンリーになっていた。そして、フランケンシュタインの親友ヘンリー・クラーヴァルがヴィクター・クラーヴァルになっているという、脚本家、何考えてんの?な映画なのだった(でも傑作)。
でも、イゴールは原作には出てこないけど、イゴールという助手が最初に登場する「フランケンシュタイン」はカーロフの映画以前にあったのかもしれない。なにしろ、「フランケンシュタイン」は小説出版後わりとすぐに舞台化されたらしいし、映画もカーロフ以前にもあったのだ。
で、「シャーロック」の監督でマカヴォイとラドクリフなら、日本公開あるでしょう。そのためだったか、新潮文庫。
ケネス・ブラナーの映画のときは、角川が映画のノベライズの翻訳(単行本)を出した関係で、映画との原作タイアップは角川文庫のみ。しかし、創元は映画の写真を出せなかったが、帯に「原作」とでかでかと書いて売ったのだった。タイアップなくてもそこそこ売れたのは、角川の翻訳が非常に古いもので、全訳ではなかったからだった。
さて、そのマカヴォイの映画のときは新潮だけがタイアップするのか、はたまた新潮、角川、創元、光文社の4文庫そろい踏みに、さらに20世紀末に出た講談社の単行本と、21世紀初めに出たマイナーな出版社の単行本が加わるのか? いっそ、国書刊行会から出ていた単行本も出してしまえば?
以前と違い、今は本はネットで買うのが主流で、書店に映画の写真のついた本を平積みにして映画の宣伝にするのはすでに過去の話。タイアップは出版社には得になっても配給会社には何の得にもならないのが現実。なので、古典の映画化の場合、原作とのタイアップなしもある。

一方、演劇では「シャーロック」のベネディクト・カンバーバッチが主演する「フランケンシュタイン」が好評で、日本でも舞台中継録画の上映が映画館であったようです(知らなかった)。

2014年12月22日月曜日

さびしいのう

さびしい、といっても、今日は新宿ミラノ座閉館のことではなく…
あ、今夜は「アラビアのロレンス」か。夜、仕事で行けんわ。

さびしいのは、「フランケンシュタイン」の新訳が新潮文庫で今日発売だからです。
解説書いた創元の翻訳が出て早30年。来年2月は31周年。
しかし、数年前に光文社古典文庫から新訳が出てからは増刷もほとんどなくなり、やっぱり文字が小さいし、定価上げちゃったし、30年前の日本語だし、てわけで、さびしくなっていたのですが、それでも光文社のよりは定価が安いし、キンドルは激安設定なので、まあ、少しは売れてたかな、というところでした。
しかし、全国区の新潮文庫から出てしまっては(しかも定価が創元より少し安い)、創元も光文社もかなりわりを食うでしょう。書店へ行けばわかりますが、創元や光文社は地方区です。
キンドルがあるので、なくなることはないのですが、やっぱりさびしい。
その一方で、私自身は今はもう「フランケンシュタイン」なんてほとんどやってないわけで、某大学の英語圏文学入門でちょっと紹介するくらいなものです(学生はけっこう興味あるようだ)。
というわけで、自分にとっても過去、さびしい…
などといってないで、新しいことせねば。

「フランケンシュタイン」は今は絶版ですが角川文庫にも入っていて、こちらは多少省略された箇所もある翻訳ですが、挿絵がよかった。また、著作権が失効した古い翻訳がキンドルで無料配布されているようです。
「なんで今頃新潮社から?」という声もありますが、時期的に「アイ・フランケンシュタイン」のブルーレイ発売に合わせたような印象。まあ、それがなくても創元と光文社に流れていた分をとれるとか、フランケンシュタインなら時々映画になるからとか、そういう目論見があることでしょう。

2014年12月19日金曜日

セパミのミ

明日12月20日発売のキネマ旬報1月下旬号の新宿ミラノ座閉館特集に執筆しています。
この号のメインの特集は市川雷蔵。特集の中心的執筆者は元キネ旬編集者・橋本光恵さん。橋本さんには当時、いろいろとお世話になりましたが、雷蔵の話もよく伺った気がします(そのわりには私は雷蔵の映画、あまり見てないのですが・汗)。
そして、明日20日から大晦日までは新宿ミラノ座ラストショーとして、いろいろな映画が上映されます。明日は早速、「E.T.」と「戦メリ」かあ。キネ旬の新宿ミラノ座特集にはなつかしい写真がたくさん掲載されています。
その特集の中の記事でも書いたのですが、新宿ミラノ座は松竹セントラル、渋谷パンテオンとトリオを組んで、同じ作品を上映していたのです。記事には書きませんでしたが、ファンにはセパミと呼ばれていたらしい。セがセントラル、パがパンテオン、ミがミラノ座。
「セパミがルパミになり、ルとパが消えて、ミもなくなるのだという」というような意味のツイートを見かけましたが、ルはセントラルが閉館したあと、マリオンにできた丸の内ルーブル。が、セントラルに続いてパンテオンが閉館、そしてルーブルも閉館、最後に残ったミラノ座が大晦日に閉館。
このセパミのような上映館グループをなんというのかなあ、と考えていたのですが、系列とかチェーンとかいうのは、東宝系とか松竹東急系、あるいはTYチェーン(東宝)、STチェーン(松竹東急)という場合に使うので、作品ごとの上映館グループは、たとえば、日劇系とかいう言い方であったと思います。
で、セパミですが、以前は松竹セントラル系と言われていたように思います。そして、セがルになったあとは丸の内ルーブル系でした。つまり、銀座日比谷有楽町界隈の映画館の名前に系がついていたと思うのです。日劇系とか、丸の内ピカデリー系とかですね。こういう言い方もまた、すでに古くなっているわけですが。

2014年12月16日火曜日

有楽座というよりはニュー東宝シネマが閉館

来年2月末に閉館ということは8月にすでに発表されていたのですが、地味な映画館なのであまり話題にもならず、気がつきませんでした。
現在の館名はTOHOシネマズ有楽座だそうです。
長い間、ニュー東宝シネマと呼ばれていたのですが、2005年に、かつて日比谷にあった大劇場・有楽座の名前を引き継ぎ、館内も大幅にリニューアルして新・有楽座として開館。
うわ、こんなゴージャスな映画館になってたのか!
http://www.cinema-st.com/road/r047.html
私が知っていたニュー東宝シネマはこれですね。映画館最後尾の眺めというサイトの中に、最後尾から見たニュー東宝シネマがあります。
http://www.holysnow.com/coffee/k-tai/
ウィキペディアでは有楽座のところにこの映画館が紹介されていますが、ニュー東宝シネマは1950年代開館なのに80年代からの上映作しか紹介されていない。
ここで見た映画の思い出というと、70年代はじめにリバイバルされた「卒業」。
初公開のときも大ヒットでしたが、このリバイバルもかなりの人気で、日曜日に行ったら、お目当ての回はもう満員で、さらに次の回を待つ人の列がものすごくて、出直そうと思ってその日は帰りました(別の日に出かけて見た)。
当時はここは750席くらいで、ウナギの寝床みたいに細長い映画館で、あまり見やすくないし、同じ映画をよそでやっていればここには来なかったので、「卒業」以外に見た映画をすぐには思い出せません。
そんなわけで、有楽座の名を襲名すると聞いたときは、あのしけた映画館が有楽座を名乗るとは許せん、と思ったのですが、座席の数を半分に減らし、名前にふさわしいゴージャスな映画館になっていたとは。
ここも何かお別れ上映とかあるんですかね? 「卒業」やってくれないかしら。(でも、狭いから、やったら大混雑で大変そう。)
閉館の理由は入っているビル自体が閉鎖ということで、有楽町界隈も相当に景色が変わってしまいそうです(すでに昔の阪急がなくなって全然違う風景になっているが)。

2014年12月12日金曜日

明日公開の映画

明日13日公開の映画、「天国は、ほんとうにある」の劇場用プログラムで、作品評と、インタビュー&プロダクションノートの抄訳を担当しています。
が、この映画、全国で2館でしかやらないらしい。関東はヒューマントラストシネマ渋谷のみ。
重い病気で生死の境をさまよった幼い少年が、天国へ行ってイエス・キリストに会った、という話。実話の映画化、ということで、「大霊界」の子供版か、と思いましたが、意外に宗教色は濃くなく、どちらかというと田舎町の人々と家族のホームドラマのような感じでした。
監督、以前はランダル・ウォレスといっていたので、私はランダルにしてしまいましたが、最近はランドールにしているところも多いのですね(調べたら両方ある)。たぶん、発音はランドールの方が正しいのだと思うけれど。
主演のグレッグ・キニアの演じる田舎のプロテスタントの牧師さんがとてもユニークです。こんな牧師ってあり?と思ってしまいました。

2014年12月7日日曜日

インターステラー@新宿ミラノ座

クリストファー・ノーランは処女作「フォロウイング」からずっとフォローしていて、雑誌やこのブログにも必ず文章を書いていたが、新作「インターステラー」は正直言って、あまり見る気がしなかった。理由はまず長い。おまけに内容が、滅亡する人類を救うために人間が住める惑星を探しに行くって、それ、いつのSFや?という話(昔からある話なんですよ)。これを3時間もやるのか、おい、てな感じだったのだが、上映館が年末で閉館する新宿ミラノ座なので、これを見納めにするのは悪くないと思って行ってみた。
で、ふだんは映画館は平日に行くことにしているのだけど、やはり年末ということで平日も忙しく、土曜日に出かけた。土曜日の新宿なんて行きたくないのだがしかたない。行ってみると、チケット売り場の前に10人くらい並んでいた。お、こんなに並ぶのめずらしい、と妙に喜ぶ。入ってみると、さすがに平日よりは客が入っている。平日だとほんとガラガラだけど、まあ、ガラくらいにはなってる(土曜でもこんなものか、というくらいでした)。
ミラノ座は20日頃からラストショーということで、過去に上映した作品をいくつも上映する予定だけど、これも行けるかどうかわからない、たぶん行けないだろうな、と思うから、ほんと、これが最後かもしれないと思い、帰りに2階のロビーを見てみたり、1階に置かれたポスターを全部見たりした。パンフレットの販売会もやっていたけど、映画が終わる頃には閉店していた。
で、「インターステラー」なんだが、今出てるキネ旬では妙にヨイショしていて、これってもしかしてベストテンに入れようというステマ?とか勘ぐってしまうのだけど、特集の方はヨイショっぽいのは1人だけで、あとはわりと納得の解説文であった。
クリストファー・ノーランの大ファンを自認する私に言わせれば、これ、今までで一番つまんないよ。
まあ、つまんないわりには3時間まったく飽きなかったので、それはさすがだと思う。きちんとできているから飽きさせない。
でもねえ、終わったあと、カップルの女性が「で、これ、何が言いたいの?」と男にたずね、男沈黙、というシーンを見てしまったが、私もこの映画「So what?」です。
難解な映画では全然ないんですよ。難解な方が「2001年宇宙の旅」や「惑星ソラリス」みたいで、いろいろ考えるところがあって、さすが、と思えるのだが、全然難解じゃない。ブラックホールやワームホールを抜けて別の場所に行くというのはいまやSFファンじゃなくたって知ってるだろう。
愛がすばらしい、とか書いている人いたけど、ノーランの映画は常に愛が隠し味だったのに、この映画は最初から愛だ愛だとうるさい。もう、愛のてんこ盛りで、見ているうちに食傷してしまう。さりげなく愛、だからよかったのにさ。
だいたい、人類が滅亡しそうになってる、と言ったって、なんだか重力が変で、それで砂嵐が起きて、雨が降らなくて、農業がだめになり、それで滅亡しそう、という設定が、はあ?という感じ。そうなりそうになったときに何かできただろう?と突っ込みたくなる。黙って砂嵐が来るのを待ってたわけ? シェルター作ってとか考えなかったわけ? ただもう、科学を捨ててあきらめたの? わからん。
この種の勝手に人類滅亡しそう状態を作るSFって、以前は批判する人いたよね。今はいないのか?
で、冒頭の主人公と娘のシーンはなんだか「シックス・センス」の監督っぽいし、宇宙に出てからは「ゼロ・グラビティ」の二番煎じっぽいし、新しさをまったく感じない。「彼ら」とか言ってるので、「2001年」みたいに宇宙の神みたいなのが出てくるのかなあ、と思ったら、それはなかったのでよかった。この辺はノーランはやはり現実的。そのかわり、謎とか神秘とか無縁。
上で、「ただもう、科学を捨ててあきらめたの?」と書いたけど、ノーランとしては科学を捨ててあきらめることをしない、というテーマを頭でひねくりまわして作ったんじゃないのかな、と思う。というのは、映画の中で何度も繰り返されるディラン・トーマスの詩「あの心地よい闇に静かに入っていってはいけない」というのは、病気で死にかけている父親に詩人が語りかける詩だからだ。トーマスはウェールズ出身で、のちにアメリカに移住した無頼の詩人だが、病で死にかけている父親に対し、これが運命だと思ってあきらめて死ぬな、と言っているのである。しかし、映画を見ている私たちにとって、科学をあきらめて捨てた人類はノーランが勝手に作り出した人々でしかない。まあ、ノーランは観客に向かってあきらめるなと言ってるわけじゃないと思うが。
3時間近く、そして地球の時間では100年近く、すったもんだしたあげく、ラストでは人類が他の惑星へ移住する計画が進められているけど、まだ入り口に立ったばかりみたいだな。ブラックホールの中で主人公は、遠い未来の人類はすごい科学の発達をなしとげたとわかるようだけど、あのシーンは科学的には反則だと思う。
あと、stayという単語がキーワードになっていたけど、この単語は「E.T.」でいろいろな意味で使われた単語。なんかいろんな過去の映画のモチーフで作られた、かなり懐古趣味的なSFにしか見えなかったというのが私の感想です(はあ。溜息)。
その他いろいろ言いたいことあるけど、ノーランはストレートに人間を描くと底が浅いのがバレバレなのもなあ(もう一度溜息)。
でもまあ、きちんとできているので3時間飽きないというのがとりえ。

2014年12月3日水曜日

昭和な時代の終わり

高倉健に続いて、菅原文太が世を去った。
菅原文太といえば「仁義なき戦い」や「トラック野郎」だけど、社会活動家でもあったとは。
なんだかほんとに昭和な時代の終わりを実感。


昭和な時代の終わりと言えば、戦後昭和の時代を象徴する大劇場映画館・新宿ミラノ座と、ミニシアター・シネマスクエアとうきゅうの入ったビルの映画館4館が年末に閉館とのことで、上の2館に関する原稿依頼が来ております。
そして、さっきは、執筆翻訳で協力した今月公開の映画のプログラムのゲラがPDFで来ていました。
さらに、郵便受けには、毎年恒例のベストテン選考の依頼が。これ、依頼から締め切りまでがものすごく短いんだよね。なので、あまり考えずに好きな順に選んでしまうというか、だいたい8位まではすぐに決まるけど、残り2つが候補がいくつもあって困る。
特に忙しいわけではないのだけれど、なんとなくせわしない感がある。師走です。

2014年11月27日木曜日

高倉健の映画・思い出の9本

訃報から少し時間がたってしまいましたが、高倉健の映画について、個人的な思い出を書いておきたいと思います。
とりあえず、年代順に。


「ザ・ヤクザ」
最初に見た高倉健の映画は「新幹線大爆破」だと思っていたのですが、公開日を見るとこちらが先ですね。もともと若い頃は日本映画はあまり見ていなくて、特にやくざ映画を上映する東映の映画館は入りにくかったので、高倉健の東映時代のやくざ映画はまったく見ていないのですが、この映画はシドニー・ポラック監督のアメリカ映画なので見ました。が、ほとんど覚えてない(汗)。高倉健はこれ以前にも「燃える戦場」でハリウッド進出しています。


「新幹線大爆破」
ウィキペディアでは完成が遅れて試写会もできなかったと書いてありますが、私は試写会で見ました。公開直前であったと思いますが。そして、映画はとにかく面白かった! これに尽きます。知り合いの映画ファンは、高倉健の部分が退屈、とか言っていて、実際、欧米では彼のエピソードをだいぶカットして公開し、大ヒットしたそうですが、私はあの部分がなければただのパニックものと思いましたね。日本ではヒットしなかったとはいえ、観客には支持されたと思います。


「君よ憤怒の河を渉れ」
「新幹線大爆破」で、高倉健、いいじゃん、と遅ればせながら思った私は、監督も「新幹線~」と同じ佐藤純弥監督なので見ました。これまた面白い! 原田芳雄もかっこよかったねえ。


「野性の証明」
この頃の私はかっこいい健さんを求めていたので、やはりこの映画の健さんが大好きでありました。薬師丸ひろ子もよかった。監督、またしても佐藤純弥。この路線が好きだったのだな。


「幸福の黄色いハンカチ」
「遥かなる山の呼び声」
山田洋次監督の2本。山田監督の映画は寅さんも他の映画もよく見ていましたが、なぜかこの2本はリアルタイムで見ていなくて、しばらくたってから見ました。見ればやっぱりどちらも傑作で、特に「遥かなる山の呼び声」の方が静かな傑作という感じがしますが、「幸福の黄色いハンカチ」で、アクションスターとは違う魅力をいろいろな層に知らしめた感はありますね。


「駅STATION」
黒澤明は「乱」の主役に高倉健を想定していて、本人も出たかったけれど、この映画のために断念したそうですが、この「駅STATION」もまぎれもない傑作です。


「ブラック・レイン」
「駅~」までは一介の映画ファンだった時代。その後、評論や翻訳の仕事をするようになり、この「ブラック・レイン」は配給会社で資料翻訳をしました。そのおかげで披露試写会に行かせてもらえ、後ろの席になんとジョイナー夫妻が、というハプニングが。松田優作が来ないのはなぜかな、と思っていたら、その後、訃報が。テレビで「俳優の松田優作さんが」とアナウンサーが言った瞬間、亡くなったのだ、とわかりました。


「ホタル」
キネ旬で映画評を書かせてもらった映画。泣ける映画です。


以上、思い出の作品、好きな作品でした。気になりながらも見逃している作品もあるので、これからいろいろ見たいです。

2014年11月23日日曜日

セイバーズ3連勝

NHLのバッファロー・セイバーズはリーフスに勝ったあと、シャークスとキャピタルズにも勝って今季初の3連勝。今季に入って3つしか勝てなかったのに、ここに来て3連勝で6勝となり、まだ最下位ではあるものの、ぶっちぎりどころか2チームに並ばれている模様。来年のドラフト全体1位危うし?
しかし、リーフスに勝ったのはまあ、リーフスだしね、という感じだけど、シャークスやキャピタルズ相手の試合の勝ち方はかなりよかったっぽい。特にキャピタルズ戦は守護神エンロスがすばらしかったそうな。
そして、セイバーズ公式サイトには殿堂に向けてのハシェックのインタビューが出ています(まだ見てない)。


さて、毎年デレク・プラントにクリスマスカードを送っている私ですが、そろそろ送るのやめようかな、と思っていたら、セイバーズのサイトで日本での経験について語っていたので、今年も出すことにして、土曜日は丸善丸の内本店へ。ここはクリスマスカードが豊富。そして、カレンダーフェアもやっていたので、まずそっちからのぞいてみようと会場に入ったら、猫の卓上カレンダーが。
これです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-2015%E5%B9%B4%E5%8D%93%E4%B8%8A%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC-WORLD-CAT-%EF%BD%9E%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E3%81%AD%E3%81%93%E7%B4%80%E8%A1%8C%EF%BD%9E-ACL-572-%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/dp/B00EN6U84A
欧州ねこ紀行。上のサイトの2番目の画像をクリックするとわかりますが、表が猫の写真の中にカレンダー、裏がカレンダーがメインで下に猫の写真。
このデザインもいいのですが、丸善の見本の展示の仕方がニクイのですよ。
というのも、12月の猫の写真が一番かわいくて、それを展示してあったのです。
しかも、見本の後ろに在庫があるのだが、なんと、1個しかなかった。
買わないわけにはいきません。
しかし、ネットだと定価より安いところもあるようですね。
クリスマスカードは毎年迷うのですが、今回も迷いに迷ってけっこう長居してしまいました。
毎年、日本から変なカードが来るなあ、と思っているだろうな、デレク。
そして、東京駅の地下街の和幸でカキフライとロースカツ定食。年に一度だけのぜいたく。ふだんは安いかつやですが、最近はカツは胸焼けするのでかつやもあまり行きません。しかし、比べては悪いが、やっぱり和幸はかつやよりずっとおいしい。まあ、値段が全然違うので。
余談ですが、今日、上野の回転寿司屋に入ったら、寿司を握る人たちが今日食べたカツ丼がうまかった、という話をさかんにしていて、どこのカツ丼かと思ったら、吉池らしい。新しくなった吉池、前にレストランをのぞいてみたらかなり高そうで、とても無理、と思いましたが、やはり高いのでおいしいのか。吉池は昔の食料品売り場や靴屋の雰囲気が好きだったけど、新しいビルになってユニクロが中心になってしまいました。

2014年11月16日日曜日

デレク・プラント、クレインズ時代を語る

セイバーズは相変わらずのぶっちぎり、ではないものの、最下位まっしぐらでほとんど勝てないので、もう全然チェックしなくなったNHL。そしてアジアリーグもちらちら結果は見ているものの、今週末の横浜も行かず、最後に試合見たのいつだっけ状態。
が、今日はセイバーズ、リーフス相手に大勝してるじゃん、と思って、久々にセイバーズの公式サイトをのぞいてみたら、なんと、11月13日にデレクが取り上げられているじゃありませんか。
http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=738996&navid=DL|BUF|home
そのほか、ハシェックについての記事や、喉頭癌で休んでいた名物アナ、リック・ジャネレットの復帰のニュースがあります。今日のリーフス戦の1ピリだけ実況したらしい。このパソコン、フラッシュを新しくしてないので、ネットラジオも聞けない状態ですが、セイバーズがあの状態なので、ついつい後回しになっています(RJの声、聞きたい。ハイライト動画で聞けるかな?)。


さて、そのデレクの記事なのですが、簡単な紹介のあと、デレクに電話インタビューした内容が書かれています。
大学時代はゴール、アシスト、ポイントの3冠を達成、ホビー・ベイカー賞の候補にもなった、というのは知ってましたが、受賞者はポール・カリヤに、っていうのは初めて知りました。
そして、セイバーズ・ファンにとっては忘れられない1997年プレーオフのファーストラウンド第7戦のデレクのOTゴールの話題と、そして99年のファイナル(ダラス・スターズ対バッファロー・セイバーズ)で、ダラスにトレードされたデレクがトレード後初めてバッファローに戻り、ファイナルには出場しなかったものの、バッファローでダラスが優勝を決め、カップを持ち上げた話。「優勝はうれしかったけれど、相手がセイバーズだったので悲しかった」と語っています。
そしてそのあと、NHLを離れ、欧州に渡り、そしてアジアリーグの日本製紙クレインズでプレーした2年間について。デレクが日本時代について多くを語ることはあまりなかった上、大学のコーチになった今、振り返って、ということなので、興味深いです。
というわけで、一部抄訳。


プラントと家族はユニークな機会をほんとうに楽しむことができた。
「すばらしかった。僕と家族は日本の北部に住んだのだけれど、そこはミネソタ州北部やカナダにそっくりで、雪が多く、ホッケーがメインスポーツだった。
 サポートがたくさんあった。人々はサービス重視で、いつもわざわざ手を貸してくれたり親切にしてくれた。妻と、そして当時そこですごした2人の子供(日本を離れてから3人目が誕生)にとって、すばらしい体験だった」
チームは外国人枠が1人だったが、クレインズには10年くらい日本でプレーしているカナダ出身の日本国籍の選手が数人いた。彼らは彼が日本の文化になじんだり日本語を学ぶのを助けてくれた。
では、彼の日本語は?
「僕の日本語は悲惨だよ」と彼は笑って言った。「ドイツ語は少しはわかる。ドイツにしばらくの間いたから。でも、日本語はついていけなかった。僕にとって、日本語は学ぶのがとてもむずかしい言葉だよ」
こうした異なる文化と人々との出会いや経験のすべてが、彼の現在のコーチの仕事に役立っている。
「何かをする方法は1つじゃない、ということに目を開かせてくれた。方法はいくつもあって、みんなが受け入れるなら、どの方法も成功する可能性がある」


このあとは母校の大学のコーチとして2011年に優勝したこと、そして、今年、チェコで行われたU18の大会のアメリカ・ナショナルチームのヘッドコーチになったことが続きます。
そして、大学のヘッドコーチやさらに上のレベルのコーチになりたいという夢はあるけれど、今の仕事にも満足している、とのこと。また、スカウトとしてバッファローに何度か足を運んでいるようです。

2014年11月11日火曜日

シビックランド日成が廃業していた…

春日の周辺で買い物をしようと、後楽園駅から白山通りを歩いていたら、銭湯とサウナがあるシビックランド日成の灯りが消えて真っ暗なのを見て、どうしたことかとそばに寄れば、なんと、10月20日で廃業していた!
このリンク先に、廃業のお知らせの写真があります。
http://blog.livedoor.jp/wadainowadaiko/archives/1011846352.html
最初の木造の銭湯からは60年以上、ビルになってからは50年だそうです。上の記事には東大の近くと書いてありますが、それほど近くではないです(住所は本郷だけど、東京ドームの近く)。昔は東大正門のすぐそばに銭湯があったものだけどね。
お知らせでは、ビルの老朽化、燃料費高騰、利用者の減少といった理由があげられてますが、円安による燃料費高騰が銭湯を廃業に追いやっている、というのは、昨年、長年通った銭湯が廃業したときにも言われていました。
シビックランド日成は安い銭湯のコースと、サウナなどがあるVIPコースがあって、銭湯の方は東京都浴場組合に所属する銭湯だったのですが、数年前に脱会して、スーパー銭湯になってました。料金は浴場組合の銭湯より安くなっていたと思います。
私はこの銭湯の方に何度か入ったことがあって、結構好きでしたが、わりといつも混んでいたので、利用者減少というのが信じられないです。でも、前は定休日がなかったのに、最近の情報だと火曜日定休だったらしい。やはり以前よりお客さんが減っていたのでしょう。私も浴場組合抜けたあとはほとんど行ってない気がします。VIPコースに入りたかったなあ。
このシビックランド日成の周辺はほかにも銭湯がいくつかあるので、このあたりなら風呂なしの安いアパートに住めるなあ、と思っていたのですが、近くの他の銭湯もこれからどんどん廃業になってしまうのか?
それにしても、まさかの廃業です。ここはやめないと思っていたのに。
10月は感謝料金で銭湯は200円、VIPコースは600円だったそうで、かなりの混雑だったようです。お知らせには「一旦廃業」と書いてありますが、おそらくビルを建て直すのだと思いますが、そのとき復活するのかどうか。ここで銭湯やるよりマンションにしてしまった方が儲かるのは確かだけど。

2014年11月6日木曜日

昨夜は十三夜

昨夜は171年ぶりの1年に2度目の十三夜、とのことでしたが(もちろん、旧暦の話)、あいにくの曇り空。が、夜中の12時をすぎた頃にベランダに出てみると、雲が薄くなったところに満月が。その前を薄い雲がとおりすぎていくので、暗くなったり明るくなったり。しばらく見ていたら、やがて雲が厚くなってきました。


このマンションでは、皆既月食、金環日食も見たのだけれど、去年あたりから周囲が新築ラッシュで、見晴らしがどんどん悪くなっている。今は隣に3階建てのマンションを建設中で、うちの3階より向こうの3階の方が高いので(昔のマンションなので天井が低い)、ベランダからのある方向への眺めが完全に壁で覆われてしまいました。
うちのマンションは3階の一部にロフトがついていて、このロフトが4階に相当するのですが、私の部屋のロフトから外を見ても、向こうの3階がこちらの3階より上になっているのがわかる。でも、4階なのでかろうじて向こうの建物越しにこれまで見えていた風景の上の方が見えます。
マンションの反対側は2軒先が新築予定。そのほか、わずか50メートル以内に3ヵ所新築予定、または新築中。ここだけではなく、周辺の地域も次々と更地になり、新築、という具合。非常に落ち着かない状態です。このあたりは相続税が高いので、土地の所有者が死ぬと相続人は税金を払えず、土地を売って引越、そこに建った新しい家やマンションによそから人が来る、という感じです。今、更地新築ラッシュなのは、土地を所有していた高齢者が次々と亡くなっている、ということでもあるのです。


話変わって、前にも書いたノーベル賞受賞の中村修二氏ですが、けんか別れした元の勤務先、日亜に関係改善を求めて断られた、というニュースが。
中村氏は、一度あいさつに行って、将来は一緒に研究したい、と言ったようですが、日亜は、ノーベル賞受賞のときに弊社に感謝してくれただけで十分、貴重な時間をあいさつなどに無駄に使わないでください、と返したとか。
なんかこれでまた日亜が悪者にされるのかなあ、と思ったのですが、ツイッターでの面白い反応を紹介。(ある人のツイッターにあった、数人の人の意見を時系列で紹介)


一方的に殴っておいて、「もうオフサイド、仲良くしよう」と言われてもねえ。まずはごめんからが日本人のルール。


重要なメッセージを”本心から伝えたい”と思えば、一回ネガティブな反応があったくらいで引き下がってはダメなのは、世の常じゃねーの?


関係を改善したいと表明してメッセージを直接相手に伝えた時点で、一つの目的は達してるんでしょうね。これ以降周りが何と言っても、「こちらから関係改善の提案はした」と言えるし。


大きな名誉を手に入れると、その現状にあわせて、過去を変えたくなる、繕いたくなる、といった程度の気持ちでは? 個人史修正主義?


Wikiを綺麗にしたい? またはこれ?(別人のツイート:日亜と仲直りして研究費出して欲しかったんじゃないかと思ったり。)


おそらく前者だと睨んでます。私の周りを見ていると、それが人間の本質みたいに見えます。中にはほんの些細な「成功」なのに、それに合わせて過去を虚飾する人がいますから、ノーベル/文化の2つとなれば。


成功を手に入れると過去を変えたくなる、というのが非常に興味深いですね。上のツイートの3番目の人は、研究職への就職が決まったあと、けんか別れしたラボの教授にあいさつに行ったら、「関わるな」と関係改善を拒否された話を書いていて、自分自身がやはりそうだった、関係改善を表明したことで目的は達成されてすっきりした、というようなことを書いています。

2014年11月1日土曜日

表紙でふりかえるキネマ旬報

2つ下のエントリーで紹介した本ですが、なんと、いただいてしまいました(ありがとうございます)。
「表紙でふりかえるキネマ旬報」。
ビジュアル的にすばらしい、なつかしい、貴重な本です。
前に書いたとおり、「アレンジメント」のフェイ・ダナウェイが表紙の号がありました。1970年3月上旬号。その前のバーブラ・ストライサンドの表紙も見覚えがあります。
それ以前の表紙はまったく見覚えなし。そして、それ以後の表紙は見覚えのあるものがいくつもあり、このあたりからキネ旬を見るようになったのだな、と思いました。
しかし、1960年代までは表紙が欧米の女優で、これじゃ「スクリーン」と変わらない。が、70年代からは映画のシーンが表紙になるのですね。ここから「スクリーン」などのファン雑誌との差別化が始まったのか。当時は私はまだキネ旬はとっつきにくく、もっぱら「スクリーン」中心でしたが、初めて自腹で買ったキネ旬は、ビリー・ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」の主演女優ジュヌヴィエーヴ・パージュが表紙の71年2月下旬号。ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」は、セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が現れるまで、私のオールタイム・ベストワン作品でした。
その「ワンス・アポン~」の特集号、84年9月下旬号では、分析採録をやってます。80年代には分析採録をやった号がいくつかあり、表紙を見るとなつかしいのですが、この「ワンス・アポン~」は私はオリジナル版の試写を見て、オリジナル版の採録をしたのですが、結局、数十分カットされた版が公開されることになり、編集部で私の原稿をいじったので、誤植は多いわ、つながりが変だわで、なんだかなあ。でも、あの時点でオリジナル版をフィルムで2回も見れた幸運には感謝。
特集で採録と映画評の両方をやらせてもらったのが「インドへの道」、85年7月下旬号。原作者の研究者だということを前もって編集部に連絡していたので、やらせてもらえたのですが、編集部でもこれはおそらくデイヴィッド・リーンの遺作になるだろうと思って力が入っていたというか、特に、表紙にリーンのよい写真を使えることになった、と編集者が喜んでいたのを覚えています。
あとは思い出の号というと、「ジャッカルの日」の73年8月下旬号かな。この頃から定期購読をしばらくしていました。「ジャッカルの日」の試写会に応募したら当選して(当時はキネ旬の試写会当選率はものすごく高かった)、試写に行ったら、白井編集長が舞台挨拶していました。そのときの下ネタジョークを今でも覚えているぞ。
ビジュアル中心の本ですが、元編集者2人の表紙に関する裏話も面白いです。

2014年10月30日木曜日

今日届いた本

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E6%98%A0%E7%94%BB%E9%81%BA%E7%94%A3-%E5%A4%96%E5%9B%BD%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%94%B7%E5%84%AA%E3%83%BB%E5%A5%B3%E5%84%AA100/dp/4873768012/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1414677702&sr=1-1&keywords=%E6%98%A0%E7%94%BB%E9%81%BA%E7%94%A3


男女優5人ずつ投票しましたが、例によって、ほかの人があまり投票しない人ばかりになってしまったなあ。もともと好みがマイナーなのだけど。


しかし、こういう本、売れるのでしょうか?
読むところがあまりないような。

2014年10月23日木曜日

あれまっ

10月29日発売という「表紙でふりかえるキネマ旬報」。
http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%A8%E7%B4%99%E3%81%A7%E3%81%B5%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%8D%E3%83%9E%E6%97%AC%E5%A0%B1/dp/4873767997/ref=zg_bs_500492_19
ちょっと、この表紙、ど真ん中にあるヒッチコックの似顔絵、かの有名な和田誠画伯の作品ですが、これ、たしか、私が初めて原稿料もらって書いた号の表紙だよね、と思って調べたら、やはりそうだった。
1984年5月下旬号。まだ在庫あるのか、と思ったら、古書店のサイトでした。
http://www.art-blue.jp/kj2/1984/
権利の関係で長らく公開もビデオ化もされていなかったヒッチコックの5作品、「ロープ」、「知りすぎていた男」、「裏窓」、「めまい」、「ハリーの災難」がリバイバルされたときの特集。
なお、読者としての投稿が載ったことは70年代に何度かあります。
私が初めてキネ旬を見たのは高校の図書館でしたが、そこでは古くなった雑誌は机に並べて希望者が勝手に持っていっていいことになっていて、「アレンジメント」のフェイ・ダナウェイが表紙の号をもらっていった記憶があります。たぶん、一番古い記憶のキネ旬の表紙がそれ。

2014年10月22日水曜日

要するに、ここは丼勘定の出版社、だよね?

時間泥棒の次は原稿料泥棒の話です。
芥川賞作家の柳美里氏が、「創」という出版社で連載などをしていたにもかかわらず、数年間分の原稿料が払われていない、ということをブログに書き、その後、インタビューにも応じています。
http://getnews.jp/archives/686281
この記事の下の方にブログ記事へのリンク、編集長の言い訳へのリンク、そして他の執筆者の反応などへのリンクが貼られていますが、
要するに、ここは丼勘定の出版社、だよね?
最初のうちは払っていたけれど、だんだん金額が減り、その後まったく払われなくなったとか、原稿料がいくらなのかの明細も出してないとか、別の執筆者は未払いはないとか、要するに、その場その場の気分で払ったり払わなかったりしてる、また、人によって払ったり払わなかったりしてるわけで、こういうところは私だったら最初からお断りです。ボランティアで書いて、っていうのは何度か書いたことあるけど、経理がきちんとしてないところはヤバイ。
出版社が赤字続きで払えない、という実情が背景にあるとしても、最初から丼勘定ってのはヤバイだろ。
ちなみに、私がかつて受けた原稿料未払いは、相手はどう見ても赤字などあるはずのない大手配給会社だった。そこはすでに解散しているので(倒産ではない、念のため)言ってもかまわないと思うが、最初に20万円ほどの翻訳をしたのに、2年以上、支払いがなかった。その20万円のあとの仕事はきちんと払ってくれていたのだが、何度催促しても最初の20万円を払ってもらえす、ついに私がキレて、お金は払ってもらえたが、そこで仕事はできなくなった。
噂によると、そこは相手によって払ったり払わなかったりするところらしかった。
まあ、確かに儲かる翻訳だったので、未払いに目をつむって仕事を続けた方が収入的にはよいから続けている人もいたのだろう。でも、私はお金にきちんとしないところは我慢できなかった。
私が映画評などを執筆していたところはどこも原稿料が安くて、出版社や雑誌の規模からしたらこのくらいの安さだろうな、ということは感じていたので、安くてもきちんとしている方が安心だった。最初は原稿料は400字1000円から1500円、翻訳だと400字500円とか、そんなくらいだった。その後、400字で3000円のところとかたまに来るようになったが、執筆で生活ができるほど稼いだことはない。翻訳書も年に何冊も出さないと生活は無理で、今は年に何冊も仕事を得ること自体が非常に困難。
柳美里は講演やテレビ出演をほとんどしていないというが、作家や評論家はタレントにならないと食えない時代だと思う。さもなきゃ中沢けいみたいに大学教授になるとか。さっき、20分もの予告編を我慢して「アメリカン・ハッスル」を見たんだけど、サバイバルは重要な芸術(アート? なら技術もあり?)みたいなことを言っていて、まったくそのとおりだと思った(映画はあんまりおもしろくなかったけど)。作家や評論家をやりながらしっかり大学教授に収まった人は多いが、そういう「人間力」が大事なんだよね。ただ、作家や評論家を教授に採用するというのは一時期の流行にすぎないので、今後はわからないと思う。


追記
「創」は編集長が1人で30年もやってる雑誌だったのか。どうりで丼なわけだ。
http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/25823/

時間泥棒

時間泥棒といえば、ミヒャエル・エンデの「モモ」。
が、それはともかく、レンタルDVDのスキップできない予告編て、時間泥棒じゃないのだろうか?
ツタヤで5枚1080円のレンタルで借りたディスク。
「19歳」は短いので時間泥棒の予告編が20分以上あるだろう、と思っていたら、スキップできないのは1本だけだった。
「ハンナ・アーレント」も時間泥棒があるだろうと思ったが、すべてスキップできた。
「アナと雪の女王」は最初から本編見たい人はこちらというのがあった。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は予告編がまったくなかった。
そして、5枚目の「アメリカン・ハッスル」。夜中に見ようと思ってかけたら、予告編がスキップできない。2時間20分もあるのに予告編が20分も30分もあったら大変だ、と思って2つスキップしようとしてだめだったところで見るのをやめた。
返すのは2日後なので、まだ時間はあるのだけど、5枚借りたら1枚は見ずに返す可能性は最初から考えていたので、見ないで返すかもしれない。
レンタルDVDだからといって、予告編を数十分も見させるって、どういう考えなのだろうか。
スキップできない予告編の時間も表記すべきではないのか。
時は金なり、という言葉があるように、時間は金より重要なものだ。
その時間を、金を払ってレンタルする客から奪うのだ。
最初から、スキップできない予告編の時間を表記していれば、それを承知した上で借りるので問題はない。しかし、借りてみたら数十分も予告編を見ないと本編が始まらないというのは詐欺ではないのか。
誰かが訴訟でも起こせば何かが変わると思う。でも、とりあえず、ここは時間泥棒の販売元だというのは把握しておきたい。時間泥棒されても見たいものだけ見るようにするから。
ちなみに、「アメリカン・ハッスル」の販売元はハピネット。

2014年10月9日木曜日

猿の惑星:新世紀(ネタバレあり)

水曜日はレディースデーで「猿の惑星:新世紀」。
これ、見ようかどうか迷っていたのだけど、上映館が今年で閉館の新宿ミラノだと知り、はせ参じた。が、いつも通り中はガラガラで、お客さんが「なにこの映画館、こんなにガラガラで」と驚いていた。
思えば30年以上前、ここで映画の日に「戦場のメリークリスマス」を見ようと出かけたが、目当ての回はすでに満員で、次の回の列ができていた。そこで3時間くらい並んで次の回を見た。並んでいた人が、「大島渚監督、ヒットしてよかったねえ」と言っていて、うんうん、とうなずいたのを覚えている。
閉館間近ということで、ロビーには過去に上映された作品のポスターが並んでいたが、戦メリはなかった。
新宿プラザとコマ劇場があったところはすでに新しいビルが建っていて、ミラノ前の公園も何か作るようで壁で囲まれていた。戦メリのために並んだあたりも今は空き地ではない。
スクリーンの前に幕があるというのが今では珍しいというか、過去の遺物なんだろうな。


さて、「猿の惑星:新世紀」。ノベライズの原稿を読ませてもらっていたのでストーリーは全部わかっていたが、映像はなかなかすばらしく、話もテンポがよかった。シーザーのドアップで始まり、ドアップで終わるので、ノベライズの最後のエピローグは省かれている。
一応面白かったので、文句はないのだけど、この映画、日本以外では大ヒットで、前作「創世記」を超えるヒットになっている、というのがどうにも信じられない。
というか、「創世記」はウィルスを使った治療薬が恐ろしい伝染病になってしまうという設定が斬新で時代に合っていて、また、猿のシーザーを囲む人間たちのドラマも面白かったが、これの続編がウィルスの話の続きを一気に飛ばして猿と人間の戦いの話に、というのが猿の惑星ファンでない普通の観客にはちょっとね、という感じがするのだ。
「新世紀」の方は人間の多くがウィルスで滅びた世界が舞台で、そこで森に暮らす猿とサンフランシスコに暮らす生き残った人間たちが出会い、一部の猿と人間の憎悪や恐怖から戦争になってしまうという話で、「創世記」が現代を舞台にした人間中心のSFだったの対し、「新世紀」はディザースター後の未来が舞台のディザースターSF&戦争ものみたいな感じになっている。そのディザースター後の世界や戦争の映像がみごとで、アクションもキレがある。しかし、こういうタイプの映画、最近のハリウッドに多いタイプの映画は、暗い未来とキレキレのアクションで、グローバルな人気を得ているわりには日本で受けないという典型。これをもって日本は遅れているとか、世界から孤立しているとか言う人がいるのだけど、どうなのだろうか。単に世界がコレに洗脳されてるだけなんじゃないか、日本だけ、この種のものを刷り込まれなかっただけでは?という気もする。
それはともかく。話のテンポはいいんだが、その分、ノベライズにあった、猿と人間が協力する中で友情が生まれるとか、シーザーと人間の主人公マルコムが互いに名前を名乗り合うシーンとかが省略されているのが惜しい。こういう部分があった方が、平和共存を望みながら戦争になってしまう悲劇が生きるのだが。
ゲーリー・オールドマン扮するドレイファスはノベライズどおりの人だった。オールドマンだから狂気の人物に変わっているのでは、というのは杞憂であった。しかし、クライマックスのドレイファスの行動には本当は狂気が必要なのだけど。それがないので唐突な感じがする(ノベライズでもそう感じた)。
ドレイファスはノベライズの原稿では軍人出身と書いてあったので、解説にも軍人上がりの政治家と書いたら、編集者からドレイファスは元警察本部長だと言われ、解説でもそのようになった。しかし、映画を見たら、確かにドレイファスは軍人出身だった。軍人から警察本部長になり、政治家になった可能性もあるが、映画ではドレイファスがタブレットの画像を見るシーンで軍隊の写真が出てくる。
「新世紀」の前日譚にあたるノベライズ「ファイヤーストーム」(映画化はされず)ではドレイファスは警察本部長なのだそうだ。「ファイヤーストーム」と「新世紀」はノベライズの作家が別の人なので、ドレイファスの経歴にずれが生じたのかもしれない。また、私が読んだ翻訳原稿は初期のもののようだったので、その後変更された部分もあるかもしれないと思う。


さて、以下が結末の部分についてで、ネタバレがあるところです。

2014年10月8日水曜日

シニア1枚

火曜日はイーストウッドの新作「ジャージー・ボーイズ」を見てきた。
シニア料金で見られるようになったので、窓口で初めてシニア1枚と言ったら、証明書の提出も求められず無問題。今日は女性1枚で行こう。
映画はイーストウッドとしてはそこそこかなあ、というところかな。面白く楽しく見られるけど、傑作とかそういうものではなく、いろいろな面で不満も残る。もっとよくなったのに、と感じる部分もある。特にクライマックスが、娘との関係がそれまであまりきちんと描かれていないこともあって、「君の瞳に恋してる」が盛り上がらない感じ。この曲は私は別の歌手でなじんでいる、ということもあるのだが。
役者は4人中3人は舞台のキャストそのままだそうで、いい味を出していてうまい。フランキー・ヴァリ役の俳優が歌もすごいし、演技もいい。トミー役はこの時代のこの種の青年にすごくはまっている。クリストファー・ウォーケンは、私には物足りなかった。あと、女性が単調。娘も含めて。マイケル・マンの映画か、ってくらいに。


火曜日は例の小保方晴子氏の早稲田大学での博士論文についての茶番劇がまたあって、早大は1年の猶予を与えるので、その間にまともな論文を出せば学位は維持としたようだ。しかし、まともな論文を新たに書くには実験室も必要だし、時間もかかる。それを1年で、というのは、コピペの部分を自分の言葉で書き直して、本文を適当にそれらしく直せばいいてことだろうか。これなら実験室はいらない。あるいは、1年後にしておけば忘れられると。この問題はとにかく、先延ばし、先延ばしにして忘れられるのを待っている印象が強い(早大も理研も)。
そして、そのあとに入ってきたノーベル物理学賞のニュース。青色LED実用化に貢献した日本人2人と、元日本人のアメリカ人1人が同時受賞。何年か前に日本人同時に何人か受賞したとき、1人が実はアメリカ国籍を取って日本人ではなくなっていたということがあったが、そのときはなぜ日本国籍を捨ててアメリカ国籍になったのか疑問に思う人はいなかった(私はこの人は学生時代に本を読んで知っていたけど、だいぶ年配の方で、アメリカ人になったのもすでによく知られていたのだろう)。今回の元日本人、中村教授はかつて自分が所属していた企業と訴訟になったので、非常に有名になった。しかし、アメリカ国籍を取ったことは知られていなかったので、驚きが走った。(日本は二重国籍を認めていないので、外国籍を取ると日本国籍を放棄しなければならない。)
そしてさらに驚いたのは、中村教授が日本の科学界の人たちにはとても嫌われているということだった。小保方晴子氏と比較する人までいる。
捏造剽窃だらけで中身のない小保方氏に比べ、中村教授は青色LED実用化に貢献している。しかし、マスコミを利用して世間をだましている、と彼は見られているのだ。
青色LEDは中村教授とともに受賞した2人の日本人研究者が基礎を作り、それを中村教授が実用化した。だが、中村教授は、青色LEDの発明そのものを自分の手柄にしているふしがあるらしい。今回、基礎を作った2人の研究者が先に名前が出ているのは、貢献順としてはしごくまっとうなのだとか。
また、例の裁判でも、中村教授が対価として多額の金額を求めていた特許は、青色LED実用化の特許ではなく、その技術は今は使われていないのに、あたかも青色LED実用化の特許を自分1人で取り、その対価を求めているように見せかけた。そのため、世間では、中村教授は所属する企業の理解も得られず、1人で青色LEDを発明した、なのに会社は2万円しかくれなかった、と思い込んだ。実は私も思い込まされた1人だったが、会社社長の手厚い援護があってこその成果であったことは中村教授自身が本に書いていることがわかった。
当時の社長は社員であった中村教授に多額の資金を与え、工場で何度も爆発事故が起きても開発を中止させなかったそうだ。もちろん、一緒に研究した仲間もいた。
ところがこの社長が亡くなったあと、中村教授は会社とそりが合わなくなり、冷遇され、それが訴訟の最大の原因であったらしい。
中村教授は性格的にどうもいやなやつと言われてもしかたないところがあるようで、それがたまたま理解ある社長とめぐりあったので、いやなやつでもノーベル賞級の仕事をさせてもらえたのだろうが、そのいやなやつのところが科学界の人にはかなりよく知られていて、同じくノーベル賞受賞の利根川氏と同じくらい嫌われているのだという。
実際、青色LEDの発見を自分の手柄に見せたり、実用化を自分1人でやったかのように言い、別の特許での訴訟なのにこの実用化での特許のように見せて世間を味方につけ、その後は日本社会批判で世間の人気を集め、そして、アメリカ国籍を取ったのは、アメリカで予算をたくさんもらうには軍の予算をもらう必要があり、アメリカ国籍でないとその予算がもらえないから、などと発言した。
中村教授は、研究者は研究の金を稼いでなんぼだということも書いているので、研究の金のためにアメリカ国籍を取った、それも軍事予算のため、というのは彼の主義には合っている。ただ、こういうこと言うかね、普通、というところ。正直っちゃ正直なんだし、偽悪趣味というか、ワルな自分を演じるのが好きなんだろうね。アメリカ人だって、うわべをつくろうだろ、普通。
外国へ行った日本人の日本批判は日本ではとても受ける。日本社会に不満を持っているが何もしない、できない日本人が多くて、そのガス抜きになっている。彼らの日本批判は何の役にも立たないが、それでガス抜きしている日本人が一番悪い。
小保方氏に対しては、右にも左にも擁護派や批判派がいるが、中村教授についても左右に関係なく擁護派と批判派がいるようだ。中には自称哲学者の山崎某のように、小保方擁護で若山氏や遠藤氏を攻撃しながら、中村教授のことは攻撃している輩もいる。ただ、共通するのは、小保方氏も中村教授も、マスコミで持ち上げられ、事実とは違うヒーロー、ヒロインに祭り上げられた、そして、その背景には、小保方氏や中村教授の自分を肥大化してアピールする能力があったということだろう。


参考
http://togetter.com/li/729077



2014年9月19日金曜日

残るということ

「猿の惑星 新世紀」今日から公開なのだけど、なんか、アメリカでも日本でも相当評判よさそうだけど、そんなにいい映画なのかな?という疑問が。
久々に、解説という形で参加した文庫本ノベライズが大きな書店には積んであって、執筆過程ではいろいろあったけれど、やはり自分の参加した本が書店にあるのはうれしいことだ。もっとも、中規模書店では1冊も入らないところも多いようで、ノベライズはほんとに売れなくなっているみたい。アマゾンでも全然だめじゃん。「創世記」と「新世紀」の間にあたる小説「ファイヤーストーム」の方が売れてそう(これは映画化されていない)。
「新世紀」の方はねえ、ノベライズ読んだ限りだと、そんなにいい映画になるとは思えなかったのだよ、正直なところ。わりとよくある話で、「創世記」のような斬新さが感じられなかった。
映画も試写の日程とか全然知らされなかったので、見に行くチャンスもなかった。
8月に、ついにシニア料金で映画が見られるようになったので、いつでも安く見られるんだけどね。
このシニア料金て、証明書必要なのかな、と思って、健康保険証を持っていったのだけど、全然チェックされなかった。見かけでわかるのだろうか。わかるんだろうな、自分では若いつもりでも、若い人から見たら。


というわけで、人間は必ず死ぬ、誰でも刻一刻と墓場へ近づいているわけだが、さっき、変なツイートを見てしまった。
理系の若い研究者かその志願者か何かみたいなのだが、死んだあとも自分を残したかったら論文を書け、とかツイートしていた。博士論文を書け、とも。確かに博士論文は国会図書館に保存されるらしい。
でもねえ、かれこれ20年も前に私が作ったコミケ用の同人誌というか個人誌は全部、国会図書館に寄贈して、保存されている。こういうふうにして残りたいなら、わりと簡単にできる。
国会図書館は寄贈されたら受け取る、というところで、大手出版社の本でも寄贈しないとだめ。最近は寄贈しない出版社も多いらしい。熱心に寄贈するのはむしろ、自費出版の会社。「国会図書館に寄贈します」がうたい文句だから。でも、コミケの同人誌でも送れば保存してくれるので、そういう出版社で大枚はたく必要はない。
くだんのツイート者は、子供は別の人間だから自分を残したことにならない、とか、墓もいずれは消える、とかツイートしているが、日本がつぶれたら本なんか残らんだろ、と突っ込みたい。
東京に大地震で、国会図書館が破壊され、火事で全部消失、とか、普通にありうるだろう。博士論文なら、いろいろな人にも配っているから、誰かが持っていてくれるかもしれないが、その人が死んだとき、子供はきっとそれをごみとして捨てるだろう。
私のかかわった本も、解説を書いた「フランケンシュタイン」はすでに8万部近くは刷っていると思うから、そう簡単に全部消滅することはないと思うが、それでも日本沈没したらほとんど全部なくなるだろうし、そうでなくても本がそんなに長い間生き残るものではないのはちょっと考えただけでわかる。シェイクスピアや紫式部はごくごく一部の例外なのだ。
正直、「フランケンシュタイン」の私の解説が30年も残るとは思っていなかったよ、書いたときは。
私の若い頃には、やはり、上のツイート者みたいに、書いたものや翻訳で自分が死んだあとも自分を残したいと真剣に考えている人が身近にいた。それを聞いて当時の私(20代後半)が思ったのは、私は逆に、自分が死んだら自分に関するものは全部一緒に消えてしまった方がすっきりしていいや、ということだった。
その人は、書いたものを残すことで自分が死後も残りたい、と言いながら、自分のよいものしか残したくないと強く思っていた。でも、そんなことは無理なわけで、いいものと同じくらい悪いものが残ってしまうのだ(悪いものの方が多く残ったりして)。残すとはそういうことだ。だから、全部消えた方がすっきりするのに、と思ったし、今もその考えは変わらない。
ただ、残すのもむずかしいが、残さないのもむずかしい、自分の意志では。
というわけで、あっちこっちで書きまくってきたので、恥ずかしいものも含めて、しばらくは残ってしまうであろうなあ。

麻酔科医の映画

STAP細胞のアイデアを自分のラボにいた小保方晴子に吹き込んで理研に送り込み、話題になったハーバード大学付属病院のチャールズ・バカンティ。研究の方では耳マウスとか変なことばかりやっていて、科学界ではまったく信用のない人物だったのに、理研がだまされ、真相発覚後は理研の対応が悪く、おまけに小保方と同じ早大出身の文科大臣がSTAP応援、という具合に迷走に次ぐ迷走となったSTAP問題ですが、こちらはもう世間的にはあきられちゃった感じですね。バカンティがまた最近、STAP細胞は簡単にはできない、特別なこつのある科学者にしか作れない、とか変なこと言ってますが、誰も相手にしてません。
さて、このバカンティは本職は何かというと、麻酔科医なのです。はじめにこの人物の話を聞いたとき、あんなペテン師みたいな科学者がハーバードにいられるのは、麻酔科医として優秀なのだろうか?と思ったのを思い出します(単に研究費を取るのがうまいだけかもしれないけど)。


麻酔科医というのは、麻酔をする手術のときに患者の様子をしっかり観察して患者を守るのが仕事だそうです。その麻酔科医が主役の日本映画「救いたい」を見てきました。


原作は仙台の医療センターの麻酔科医の女性が書いたノンフィクションで、麻酔科医の仕事に対する世間の無知、無理解を憂慮し、麻酔科医の仕事を理解してもらおうと書いたのだそうだ。映画は著者と夫をモデルにした医師夫妻を中心に、架空の人物を加えて、心に傷を抱えた人々のドラマにしている。
主人公は原作者と同じく、仙台の医療センターの麻酔科医。あの東日本大震災から2年半、医院を経営していた夫は震災のときに避難所へ出かけたのがきっかけで、津波で大被害を受けた海辺の町の診療所の医師になっている。当然、夫婦は別居となり、毎週末に妻の麻酔科医が夫のもとへ行く生活。震災から2年半がたち、被災地の人々も活気を取り戻しているが、深い傷も残っている。
一方、仙台の医療センターでも、震災で父を失った若い女性麻酔科医が大きな地震があるとショックを受けて仕事ができなくなったり、一緒に父を探してくれ、今は彼女に思いを寄せている自衛隊員を見ると、死んだ父を思い出してパニックになってしまったりする。
震災後の東北を舞台に、心に傷を負った人々のドラマとしてよくまとまっていて、感動的な映画だった。新婚の夫を震災で失い、夫を思いながら義母と暮らす診療所の看護師のエピソードには「東京物語」を連想させるクライマックスがある。新しい人生に踏み出せない彼女と、悲しみを乗り越えて麻酔科医として再生する若い女性の物語が対照的な構図になっている。
原作の意図であった、麻酔科医への理解を深めるということは、具体的にせりふとして複数回出てくる。ここがちょっとしつこいかな、というか、映画なら言葉でなく映像で見せる方がいいのでは、と思った。
しかし、海辺の町の漁師たちの働く姿を描いたシーンをはじめ、映像的に美しいシーン、光のとらえ方がすばらしいシーンもあって、映像としてよいところもたくさんある。
仙台の医療センターはじめ、医療関係者や自衛隊の協力を得ているが、映画の趣旨に賛同する団体や個人の寄付で製作された映画であることが最後に字幕で出る。いろいろな人の思いがこめられた映画なのだろうと、素直に納得できる作品だ。

2014年9月15日月曜日

Don't Cry Out Loud 歌詞の解説

最近、ドトールへ行くと、なつかしの名曲、メリサ・マンチェスターの「Don't Cry Out Loud」がかかっているのですね。1970年代末の作品で、当時、英文学者になるという夢を追いながらきびしい現実にぶつかり、悩んでいた私にとって、この歌は私を励ましている歌に思えたものでした。
しかし、なぜか、メリサの歌う「Don't Cry Out Loud」(邦題は「哀しみは心に秘めて」だったかな)はアメリカでは大ヒットしたのに、日本ではあまりヒットしなかったのです。そして、そのあと、リタ・クーリッジがメリサとはまったく違う歌い方でカバーし、日本では「あなたしか見えない」という、英語の歌詞とは全然違う邦題がつけられて大ヒット。そして伊東ゆかりが日本語の歌詞で歌い、さらにヒット。そのせいでメリサの歌まで「あなたしか見えない」という邦題にされたとか(怒)。
すばらしい歌唱力で歌い上げるメリサの「Don't Cry Out Loud」に対し、クーリッジの静かな歌い方は私にはインパクトが全然なかったし、その上、日本語バージョンの方はカマトトぶった女の恋心になっちまっていて、ほんと、怒り心頭でありました(クーリッジや伊東ゆかりの方が好きな方、ごめんなさい)。
メリサの歌う「Don't Cry Out Loud」は、夢を追い求めて失敗するという経験を持った女性が、年下の、おそらくは思春期の少女がかつての自分と同じような経験をしているのを見て、彼女に語りかけ、励ます、という内容に思えました。そして、歌い手の私も、きっとまだ夢を追い続けていて、たとえ落ちてもまた挑戦するという強い信念を持っている、比較的若い大人に思えました。メリサの歌唱にはそういう力強さがあるのです。
しかし、クーリッジの静かな歌い方だと、歌い手は娘を諭す母親のような感じです。実際、ベイビーを幼い娘ととっている人が少なくない感じ。
そういうわけで、夢を追いかけて、あと少しで夢に手が届くところだったのに、失敗して落ちてしまい、でも、それにもめげずに生きるという、敗者を励ます歌みたいなところが日本じゃ全然受けなかった理由かな、と思いましたが、好きな人は好きなようで、ブログに自分なりの訳を載せている人もいました。が、これが誤訳が、誤訳が、誤訳が。。。
つか、このキャロル・ベイヤー・セイガーの歌詞がむずかしいんですね。英語の詩としては難度が非常に高いです。サーカスが出てくるけれど、このサーカス自体が比喩である可能性が高い。サーカスで何か別のものを表している可能性が高いのです。それは華やかな愛や夢のある世界だけれど、ショーが終わるとみじめな現実に戻ってしまうような世界。夢を追い求めた人が現実に突き落とされる、そんな状況をサーカスで表現しているようにも感じます。
そんなわけで、いろいろに解釈できる歌詞ですが、一応、私なりの訳と解説をつけてみました。
英語の歌詞はこのサイトからです。
http://www.stlyrics.com/lyrics/intolerablecruelty/dontcryoutloud.htm


2014年9月13日土曜日

意外によかった映画2本(ネタバレあり)

あまり期待していなかったが、意外によかった2本の映画をご紹介。結末に触れないとなぜよかったかを書けないので、ネタバレありです。


試写状を見たときはピンと来なかったが、RottenTomatoesの評価が高いので見に行ったマイケル・ファスベンダー主演「FRANK フランク」。ファスベンダーが大きな被り物のお面をずっとかぶっている映画らしい、としかわからなかったけれど、開けてみたら、これがなかなかに優れた映画だった。
主人公はイングランドのしがない会社員ジョン(ドーナル・グリーソン)。彼は音楽界で成功することを夢見てキーボードで作曲をする日々。ある日、海岸でバンドのキーボード奏者が自殺未遂をはかった現場を目撃し、居合わせたバンド・リーダーからその日の夜の演奏でキーボードを担当してくれるよう頼まれる。
そのバンドは無名なのだけれど、メンバーは奇妙な人ばかり。大きな被り物のお面をかぶったボーカルのフランク(ファスベンダー)、彼を守る女性クララ(マギー・ギレンホール)、やたら突っかかってくるフランス人、そしてリーダーもかなり変。
フランクはお風呂に入るときも食事のときもお面を脱がず、素顔はわからないが、人間としてはなかなか面白く、しかも優れた作曲家であることがわかる。
メンバーはアイルランドの田舎の家でレコーディングをするが、ジョンはフランクのすばらしい曲やバンドの仲間たちを世界に紹介しようとネットで映像を流す。やがてテキサスの音楽祭から声がかかり、ジョンはフランクを売り出す絶好のチャンスだと思うが、仲間たちは有名になることには乗り気ではない。有名になりたいという野心を持つジョンは仲間を説き伏せ、テキサスへ行くが、という物語。
とにかくぶっ飛んでいるエピソードの連続で、時々くすっと笑ってしまうようなシーンもあり、おかしなバンド・メンバーたちの奇妙奇天烈な行動や、顔を見せないフランクの人間味ある行動も面白いのだが、途中、自殺してしまうメンバーもいたり、けんかもあったりと、けっこうダークな部分がある。そして後半、テキサスへ行くと、そのダークな部分が前面に出てくる。ジョンはフランクの才能に感動し、彼を有名にしたいと野心でいっぱいだが、このバンドのメンバーたちはみな、心を病んでいたり傷ついていたりする人たちで、そういう野心とは無縁でいないといけない。野心で人前に出たりすると彼らは壊れてしまうのだ。それがわからないジョンは、結局、メンバーを、そしてフランクを傷つけてしまう。
youtubeの再生回数が数十万回あったからといって、彼らは人気者だったわけではなかったとわかるシーンの残酷さ。お面を失い、どこかに去ってしまったフランクをジョンが探しあてたときに知る、フランクの本当の姿。心を病んだフランクの苦悩がすばらしい曲を生んだと勝手に思うジョンの勘違い。
奇妙奇天烈で、楽しくもおかしいシーンの連続なのに、そこには哀しく残酷な真理が隠れている。丸顔の被り物のお面と、その中にあるファスベンダーの苦悩の表情の対比がまさにそれだ。ジョンのような野心のある平凡な人間には、それはなかなか見えないもので、ジョンのように善意から人を傷つけてしまうことがあるということを痛切に感じた。


「フランク」はアイルランドの監督レニー・アブラハムソンの作品だが、もう1本はノルウェーの監督エーリク・ポッペの映画「おやすみなさいを言いたくて」。
原題はA Thousand Times Good Nightで、邦題と似た意味だけれど、このヤワな邦題がまったく似合わないシリアスな内容だった。
主人公は報道写真家の女性レベッカ(ジュリエット・ビノシュ)。アイルランドの海辺の家には海洋生物学者の夫と2人の娘がいるが、レベッカはコンゴやアフガニスタンなどの紛争地に取材に出かけ、たまにしか帰ってこない。家族はレベッカの身が心配で不安な毎日だが、彼女は紛争の現場を見ると血が騒ぐという、典型的なこの手の報道カメラマン(「サルバドル」のように)。
監督自身が紛争地の報道写真家だったそうで、主人公を女性にすることで仕事と家族の問題を鮮明にしようとしたようだ。
アフガニスタンで自爆テロに向かうタリバンの女性を取材した彼女は、取材に深入りしすぎて爆発に巻き込まれ、負傷。娘ともども不安な日々を送っていた夫はついにキレる。レベッカは夫と娘たちの苦しみを知って、紛争地の取材はやめることを決意。家族はアイルランドで平和な日々をすごす。
レベッカの長女ステフはアフリカの問題を研究する会に入っていた。そんなとき、レベッカのところにケニアの難民キャンプでの取材の依頼が来る。そこは紛争地ではなく、まったく安全だと聞いた長女は自分も取材に行きたいと言いだすが、レベッカは断る。それでも行きたがる長女に、夫も行っていいと言いだし、レベッカとステフはケニアへ行く。ところがキャンプで襲撃事件が勃発。娘を安全な場所に避難させたレベッカは、カメラを持って現場へ行ってしまう。母は自分よりも仕事を取ったと、ステフはショックを受ける。
このあと、レベッカは夫と娘たちから総スカンとなり、家を追い出されてしまうのだが、それまでの経過を見ると彼女だけが悪いとも思えず、ちょっと展開が甘いかな、と思うが、そのあとのクライマックスがすばらしい。
レベッカが取材した自爆テロの女性の写真はアメリカ政府の圧力で没にされていたが、その後、出版が決まり、追加の取材の依頼が来る。一方、ステフも母の仕事の大切さがわかってくる。アフリカ研究会の発表会で、ステフがケニアで撮った写真を紹介しながら、現実を世の中に知らせるには写真を撮り続ける人が必要で、それが母なのだ、難民キャンプの子供たちは母を必要としている、と言う。
映画の中盤、娘に、なぜ写真を撮り続けるのかと聞かれ、レベッカが、怒りからだ、と答えるシーンがある。レベッカは写真を撮ることで少しでも世の中に現実を知らせようと努力してきた。だから写真を没にされると怒るし、世間の人が紛争地での悲惨な現実に目を向けないと怒る。
もしも写真という手段がなかったら、彼女は過激派になったかもしれない。タリバンの自爆テロの女性のように。
冒頭のシーンの自爆テロの女性は子供のいる母だった。テロによって世の中が変わると彼女は信じていて、子供よりも死を選ぶのだ。
レベッカの写真が没になったのは、自爆テロを美化していると思われると困る、というエージェントの判断だった。
レベッカ自身は自爆テロをする女性の気持ちも理解し、しかし、テロで人が傷つくことは承認できず、現場では「爆弾よ」と叫ぶ。
家族か仕事かだけでなく、仕事の中でも彼女は相反する2つのものにはさまれている。
(以下、ネタバレにつき、隠します。)

2014年9月7日日曜日

デング熱その後

金曜日の日付が変わった直後くらいにデング熱で代々木公園閉鎖というニュースを書きましたが、その日の夜には発病者が70人以上になってました。
しかも、代々木公園周辺以外で蚊に刺された人が2人。1人は新宿中央公園、もう1人は神宮外苑か外堀公園で蚊に刺されたとのこと。
うーむ、代々木公園と新宿中央公園なら私の行く場所じゃない、と思っていたら、だんだん、というか、神宮外苑はすでに8月に3回くらい行っています。また、前にちょっと書いたけど、半蔵門で試写を見たあと、北の丸公園を通って神保町まで歩いたのですが、間一髪で外堀公園の近くを通らずにすんだことが判明。もしも半蔵門から九段下を通って神保町へ行ったら、外堀公園の近くをかすっていた。(訂正 外堀公園は九段下の方ではなく、四谷の方にあるようです。勘違いでした。)
神宮外苑は蚊に刺されるようなところは通りませんでしたが、北の丸公園を通ったときは蚊に刺されそうな場所だった。ランナーがたくさん走っていたけど、マラソンやジョギングをする人は蚊が怖いのでは?
そして、「都内に行くから蚊よけスプレーを」なんていうツイートまで見てしまった。
蚊よけスプレーって、汗で落ちてしまうから、一度つけたら安心てことはないよ。
実は私は2、3年くらい前の夏に、いきなり高熱が出て、からだ全体の筋肉が痛くなり、こりゃ夏風邪だと思ってすぐに寝たのですが、なぜか鼻や喉の風邪の症状がまったくない。そして、6時間後くらいになったら、すべての症状が完全になくなって、すっかり元気になってしまったのです。
なんだこりゃ、と思いつつ、忘れていましたが、あれがデング熱の超軽い症状だったのかも。
蚊なら猫スポットでさんざん刺されてるし、コーヒーショップやバーガーショップや電車の中でも刺されるので、そういうことがあってもおかしくはないです。
蚊がいないのは、分煙している店の喫煙室ですね。蚊は煙草の煙に弱いみたいです。
都内は自然を残すということに熱心で、農薬や殺虫剤もあまり使わないようだし、禁煙が徹底しているので(外でも煙草禁止とか)、蚊はけっこういます、都心。
ああ、そういえば、高圧線の鉄塔のすぐそばに引っ越してしまったとき、その周辺に蚊が全然いなかった。蚊も出ないところは人間の住む場所としてはあまりよくないのではないかと思うのですが。
あと、今の人は知らないかもしれないが、私らの子供の頃は日本脳炎というのがあって、これが蚊が媒介するのですが、デング熱なんかよりずっと怖い病気でした。治っても後遺症が恐ろしいのです。それに比べたらデング熱はまあ、風邪の重いやつくらいな感じでしょうかね。

2014年9月6日土曜日

めぐり逢わせのお弁当(ネタバレあり)

インド映画「めぐり逢わせのお弁当」。いい映画、好もしい映画であることは確かなのだが、傑作といえるようなものなのか、という疑問がずっと頭を離れないでいたところ、キネマ旬報最新号で、宇田川幸洋氏の連載「映画とコトバの間にはふかくて暗い河がある?」がこの映画を取り上げていた。
この連載はある映画についての雑誌や新聞の映画評をいくつも紹介していくのが基本だが、インド映画としては「この映画ほど多くの紙誌にとりあげられているものはめずらしい」そうだ。
多くは、歌って踊る従来のインド映画とは違う、静かな映画であるところに感動しているらしい。こんなインド映画もあったのか、と驚いている人が多いのだが、宇田川氏も書いているように、かつての日本はサタジット・レイのような静かで芸術的なインド映画ばかりが公開されていたのは私もよく覚えている。もちろん、「ムトゥ 踊るマハラジャ」のような歌って踊るインド映画の方が本来の主流なのだが、日本でそれが認識されたのは「ムトゥ」以後。しかし、今ではレイは忘れられ、「ムトゥ」がインド映画の基本になっているので、「めぐり逢わせのお弁当」が静かなインド映画として受けたようだ(宣伝もその方向でやっていた)。
宇田川氏のこの映画への評価はかなりきびしい。
「「静か」なだけがとりえではね」
宇田川氏はムンバイの弁当配送システムについて、リアリズムでかためるか、映画的なウソをあざやかにつきとおすかしないといけないが、この映画はどちらもやっていない、と言う。また、欧米で映画を学んだ監督が故郷で映画を作るとき、視点が外国人のものになってしまうという危惧を述べ、この映画の監督リテーシュ・バトラもそうなってしまう可能性があると指摘する。実際、この映画を喜ぶ評者は、宇田川氏によれば「ムンバイでもりそばが食えた、と感激しているような感じ」で、インド映画らしくない、ヨーロッパ・テイストを喜んでいるようだ。
「ここにインド映画の可能性を見るのはいささか、さびしすぎるのではないか」と、宇田川氏は結んでいる。
この記事を読んで、私はこの映画に対する迷いが吹っ切れた。
たしかに「いい映画」であり、好きか嫌いかと聞かれれば好きな映画だ。でも、積極的にほめるような映画ではない。
見ている間は楽しかった。ただそれだけ、の映画だと、実際、試写を見ながら思い続けていたのだ(そういう映画も好きだけど、積極的にほめるような映画ではないということ)。
迷いが生じたのは、クライマックス、お弁当箱の中に入れた手紙のやりとりが縁で、見知らぬ他人であった男女がカフェで会おうということになったとき。
女の方は専業主婦で、夫のために毎日弁当を作っているのだが、夫は不倫しているらしい。昼も愛人と食べるのか、弁当にも関心がなさげだったのが、誤って役所に勤める男性のもとに届き、男性が喜んで食べたのがきっかけで、手紙のやりとりが始まる。会おうと言いだしたのは女の方で、夫と別れる決心がついている。
しかし、男はカフェに来なかった。
いや、行ったのだが、女の姿を見ただけで帰ってしまった。
あとで、彼は女に手紙を書く。洗面所でなつかしいにおいがしたが、それは祖父のにおいだとわかった。自分はもう祖父の年に近づいているのだ。きみは若い。私と一緒になるべきではない。
これよりも前の方で、男が電車の中で席を譲られ、とまどうシーンがある。これが伏線だったのだ。
どうやら、この、老いへのきづきのようなものに、私は惹かれたようだ。それは自分自身がそういう年齢になっているからだろう。
しかし、こうした展開自体がすでに使い古されたものであり、そこに新しい味付けがないのは事実だ。
ちなみに、宇田川氏があげている雑誌や新聞の映画評の著者の名前を見ると、ほとんどが男性で、女性と思われるのは1人だけだ。媒体からしても、映画の主人公の男性と同じく老いを感じる年齢の男性が多いのではないかと思われる。そのあたりに受けると考えるとよくわかるのだが。


この映画で一番面白いのは、主婦の部屋の上に住む声だけのおばちゃんで、このおばちゃんの助言で主婦は料理したり手紙を書いたりする。とても庶民的な雰囲気だ。しかし、この主婦と夫は身なりがよくて、そこそこ裕福な感じもする。
次に面白いのは、役所で働く男がもうすぐ退職するというので、若い人が雇われるが、この若い男がやたらしつこくてうるさいやつだな、と思っていたら、主人公に変化を起こすけっこういいやつだったこと。
おばちゃんの方はイタリア映画には出てきそうだが、若い男の方のパターンはあまり見た記憶がない。一番ユニークなのは彼か?
インドはカースト制度があり、身分の差、貧富の差が激しいのだが、大金持ちの上流階級では女性は家事も育児も使用人任せ。インドでは女性が活躍しているのは女性が結婚しても家事や育児を人任せにできるからだそうで、その家事や育児をする使用人が貧しい女性だ。
日本でも、女性が結婚・出産しても高い能力を生かして仕事ができるように、東南アジアなどの女性を雇って家事育児を任せればいい、というような提案があった。女性を活躍する女性と家事や育児をする女性に分けてしまうわけだが、人を雇うとなるとお金がかかるので、やはり託児所や夫の家事分担の方が現実的であるだろうけど。
日本でも欧米でも、大金持ちで身分の高い女性は家事育児は使用人任せのはず、特に昔はそうだったはずで、「ベルサイユのばら」でもオスカルは乳母に育てられている。ヨーロッパのこういう古い時代の話だと、母親が家事育児をしないというシーンはあると思うが、こういうシーンって、そういえば、あまり見なくなったな、と思う。日本の時代劇でも、武士の妻が家事育児をしているように見える映画が多いが、実際はどうだったのだろうか。
「めぐり逢わせのお弁当」の主婦も、そこそこ裕福だけど家事育児は自分でする専業主婦というところが重要で、インドではそういう層ははたしてどのくらいいるのだろうか、ということも気になった。

2014年9月5日金曜日

代々木公園閉鎖

代々木公園付近で蚊に刺され、デング熱と診断された人がついに59人にもなったそうです。捕獲した蚊からデング熱のウィルスも発見され、ついに代々木公園閉鎖とか。近くには明治神宮やNHK放送センターもあり、明治神宮で蚊に刺された人やNHK職員にも発病した人が。
デング熱は感染しても発病するのは2割とかいう説もあるので、約60人が発病したとなると、感染者は300人以上かもしれません。しかも発病した人はみんな代々木公園かその周辺で蚊に刺されたとなると、いったい何匹の蚊がウィルスを持っていることか。専門家が100匹くらいはいると書いている記事がありましたが、ウィルスを持っている蚊が100匹って、1人の感染者を刺してこの数とはとても思えない。
日本では69年ぶりの流行と言われていますが、海外でデング熱に感染した日本人や外国人が日本に来て発病、というのは毎年200人くらいいるそうで、その余波で日本で感染した人は過去にもいただろうと思います(昨年夏に日本を旅行したドイツ人が帰国してデング熱になったそうだ)。
ただ、その場合、今回のように多数の人が感染ということはなく、1人か2人が熱を出して、夏風邪だろうですんでいたのではないか。今回のように、同じ地域で蚊に刺されてデング熱になった人が60人近く、というのは異常ではないか、という気がします。
で、以下は妄想ですが、デング熱は生物兵器として開発されようとしたことがあるそうです。ただ、実はこの病気、感染しにくい、感染が拡大しにくいので、兵器としては使えないということになったとか。でも、サリンをまいた某団体がいたように、デング熱のウィルスを持った蚊を100匹くらい代々木公園に放った人がいてもおかしくない、と私は思ってしまうのですが。
たぶん、2ちゃんねるレベルではそういう話が出ているのだろうな。見てないけど。
(追記 ぐぐってみたら、デング熱は代々木公園で行う予定の反原発デモつぶしのデマだとかいう話が出てました。うーむ、私はむしろ。頭のおかしな生物学者がテロとか、そういう妄想を考えていたのだけどね。あくまで妄想ですよ。まあ、デマぐらいの陰謀論なら無害かもしれないけど。)


蚊といえば、今年は猫を見に行く某所が蚊が少ないのです。例年、私はこの場所で蚊に刺されまくりで、もちろん、長袖を着て、携帯蚊取りも持って、万全の装備で行くのですが、それでも刺されまくりです。携帯蚊取りなんて効きません。首から下が万全だと、顔を刺されます。
で、今年は蚊が少なかったのですが、9月に入ってから増えてきた感じで、先日は某所の入口で長袖を着る前にすでに2か所くらい刺されました。
この某所はもうあきらめているのですが、今年はこの某所が少ないかわりに、自宅など、以前はあまり刺されなかったところでよく刺されます。
自宅についていえば、例年、夏はマンションのコンクリートが蓄熱して、昼間は37度、深夜でも34度という温度なので、蚊が来ないのですね。蓄熱したコンクリートが結界だったのだ。
が、今年は一時暑かったですが、その後、涼しくなったら蚊が入ってくるようです。自宅の蚊はアカイエカだからデング熱は媒介しないはずですが。


デング熱自体はそれほど怖い病気ではないみたいなので、騒ぎすぎかもしれませんが、一か所であれだけ多くの人が、というのが気になります。


話変わって、9年前に買ったデジカメがついに故障。修理代高いだろうから新しいの買うか、と思っていましたが、修理代が1万円以内だったら修理しようかな、と思い、ヨドバシカメラへ。すると、修理代は8千円代であることがわかりました。ただ、部品がないなどで修理できない場合もあるとのこと。とりあえず、カメラを預けてきました。

2014年8月31日日曜日

Amazonの順位

アマゾンの売れ行き順位というのはものすごく売れている本(少なくとも1000位以内)以外はまったくあてにならない、というのが私の感想。
理由は、ある人が本を出して、その友人がアマゾンで買ったら、1冊売れただけで順位がものすごく上がった、という話を聞いたから。
実際、私が関係した本もそういう感じがします。
で、前の記事で解説を書いた文庫本の紹介をしたら、その後2日くらい順位が急に上がり、その後また戻りました。
ここを読んで買ってくれた方が2、3人はいたのでしょうか?


さて、このところまったく増刷されていない創元推理文庫「フランケンシュタイン」。
全体の10分の1くらいが私の解説ですが、ページ割の印税で、1984年の初版以来、増刷のたびにささやかながら印税が入ります。
そんなわけで、ケネス・ブラナー監督主演の映画が公開されたときも角川文庫にタイアップをとられ、創元は映画に便乗できなかったにもかかわらず、増刷はそこそこされていて、もう30年も生き残っている本なのです。数年前に光文社古典文庫から新訳が出てからもしばらくは創元の方が売れている感じだったのですが、ここ2、3年、どうも立場が逆転してるっぽい。あっちが増刷になってこっちがならない、アマゾンでもあっちの方が順位が上。でもよく見ると、創元はキンドル版も出していて、300円と安いので、これを買う人が多いのかな、と思ったけど、このキンドルはじめ電子版の印税ももちろん入るのですが、年に200円とかそのくらいなので(!)、売れてるとは思えない(紙の本と違い、何部売れたかの報告が毎年入るので、実数もわかる。電子版は1冊売れるごとに印税が入る仕組み)。
そんなわけで、アマゾンの順位はあてにならないというか、実際はそんなに大きな差はないのかもしれないけど、確実に光文社の翻訳がメインになっていくのかな、と寂しい思いをしていたところ、この週末、わずかながら順位が上がり、一時的に光文社を抜いたのです。
光文社の方も売れているようで、順位が上がっています。
これって、もしかして、ブログでも書いた映画「アイ・フランケンシュタイン」の影響?
原作者が違うので、タイアップはしていませんが、もともとの原作を読んでみようと思う人が数人はいるのでしょう(あのくらいだとほんと、数冊売れる程度の上昇だと思う)。
創元は「屍者の帝国」とタイアップした帯がついていたな。でも、それでは売れまい。
創元の「フランケンシュタイン」は30年前初版なので、文字が小さい。光文社は最近なので文字が大きいのと、改行を多くして読みやすくしているのが今の人には受けそうです。
もちろん、私の解説は創元推理文庫にしかありません(当たり前だ)。
30年前というか、執筆したのは83年秋だったので、もう31年前ですが、「ブレードランナー」と「フランケンシュタイン」の関係を指摘したほとんど最初の文章の1つと自負しています。


というわけで、宣伝。創元推理文庫「フランケンシュタイン」。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3-%E5%89%B5%E5%85%83%E6%8E%A8%E7%90%86%E6%96%87%E5%BA%AB-532%E2%80%901-%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/4488532012/ref=zg_bs_2220088051_33

2014年8月29日金曜日

解説執筆

http://www.amazon.co.jp/%E7%8C%BF%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F-%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%B4%80-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4041015502/ref=tmm_pap_title_0?ie=UTF8&qid=undefined&sr=8-1


アマゾンであんまりというか全然売れてないみたいなので、紹介しますか。
「猿の惑星 新世紀」ノベライズに解説を書きました。
映画は見ていません。
「猿の惑星」シリーズについての解説が主です。


ところで、アメリカのアマゾン(英語)の原書のレビューに、映画とノベライズは結末などいくつか違うところがある、という指摘がありました。
このレビュアーは、映画よりもノベライズの方がいいと書いています。
私も、ドレイファスという人物がゲイリー・オールドマンと聞いて、なんか最初からエキセントリックな悪役になってそうだなあ、でも、ノベライズだとわりとまともな人で、最後に悪役っぽくなるだけなんだけど、と思ったのですが、どうでしょうね?

2014年8月28日木曜日

フランスおとぎ話も日本アニメの世界か?

ヴァンサン・カッセルが野獣、レア・セドゥが美女ベルを演じるフランス映画「美女と野獣」。
「アデル、ブルーは熱い色」の男っぽい女性セドゥがベル?はともかく、カッセルの野獣ならぜひ見たい、と思って試写に駆け付けた。
普通、「美女と野獣」というと、ボーモン夫人作の短い小説がもとになっているが、これはボーモン夫人以前にあった小説「美女と野獣」をもとに大胆に新解釈を加えた作品らしい。
舞台はナポレオン時代のフランス。破産した商人が不思議な城に迷い込み、そこで娘ベルに頼まれたバラの花を一輪、手折ってしまったのがきっかけで、野獣の城に住むことになったベル、というのはこれまでと同じ。
で、このあとが改変されているのだけれど、ベルは毎晩、野獣の過去の夢を見る。ベルの時代から300年前、王子だった野獣はプリンセスと愛し合い、結婚しているのだが、2人に不幸が起こる。それがきっかけで、王子は野獣にされてしまったことがわかる。この不幸な出来事というのが(ネタバレになるので詳しくは書かないが)ギリシャ神話ふうの味付け。
そして、この野獣の城は森の中にあるのだが、森が生きているというか、森の神や森の精が支配する世界。その描き方が、もろ、宮崎アニメ! なので、宮崎アニメに影響を受けた「アバター」に似てるところもある。
一方、ベルの家族は兄たちが悪い連中とかかわって困ったことになっている。そして、家族に会いたいと家に帰ったベルが高価な宝石を身につけているのを見て、兄たちと悪い連中が野獣の城へ。というところでアクションが始まるのだが、これがやっぱり日本アニメ。巨人が出てきますよ、巨人が! ヨーロッパなので巨人の出てくるヨーロッパのおとぎ話っぽい感じもあるが、描き方が日本アニメの影響大。
というわけで、日本アニメおたくの作った「美女と野獣」。ただ、どうも演出のテンポがよくない。日本アニメの影響を受けているけれど、「アバター」ほどすごくない。おまけに「美女と野獣」といえば、フランスにはジャン・コクトーの名作があるのだから、フランス映画でこれはないだろう、と思う。
また、野獣は合成を使ったメイクだけれど、野獣のメイクのときはカッセルでなくてもいいような感じ。コクトー版のジャン・マレーのような、この役者が演じているんだ、という感じがない。合成があまりうまくないのだろうな。最近の「猿の惑星」映画の猿の顔と比べると、表情が全然足りない。
というわけで、カッセルはもっぱらベルの見る夢の世界の中で顔を披露ということになる。
しかし、この映画、一番よくないと思うのは、本来はベルが野獣の人間性に触れてしだいに彼を好きになり、という展開になるのに、この映画ではベルが野獣にひかれていく様子がきちんと描かれていないのだ。セドゥの演じるベルはタカビーな女で、タカビーでも包容力があるとかならいいのだけど、ただタカビーなだけで、野獣ともいがみあっていて、全然2人がひきつけあう感じがない。で、結局、ベルがなんで野獣を好きになるかというと、それは夢の中で王子が野獣にされた悲しい出来事を知り、同情したからなのだ。
でもねえ、同情では十分ではないのよ。愛になっていなければ。
しかも、ベルは夢の中で、野獣が人間の女性に愛されれば王子に戻れるということを知ってしまうのだ。本来は、ベルが野獣を愛したので野獣は王子に戻る、ということは、王子に戻って初めてわかるべきことなのだが。
でも、この夢の部分も含めた、宮崎アニメの影響大の森の神話はそれなりに見どころはある。それにしても、宮崎アニメ&日本アニメの世界的な影響はすごいと思った。「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」、「アナと雪の女王」は「聖闘士聖矢」と、いまや世界基準はディズニーではなく、日本アニメというところか。

2014年8月25日月曜日

デレク・プラントの話題

このところホッケーの話題からはだいぶ遠ざかり、アジアリーグの試合もしばらく見に行っていないし、NHLやデレクがアシスタントコーチをしている大学のホッケー部のサイトもほとんど見なかったのですが、なんと、デレクがスロバキアで開かれたU18の大会で、アメリカ代表のヘッドコーチをつとめ、3位になったとのこと。デレクとしては初のヘッドコーチ体験だったそうです。
以下、大学(UMD)のサイト。クレインズを去ってから7年、デレクも顔がだいぶ変わりましたね。
http://www.umdbulldogs.com/news/2014/8/18/MHOCKEY_0818145458.aspx?path=mhockey
デレクのコーチとしての才能はクレインズ時代にも若手の指導などに片鱗が見られていたようですが、コーチとしての道を着実に歩んでいるようです。


追加
上の大会のアメリカ代表のページ。
デレクのインタビュー映像があります。相変わらず高い声だが、目つきが鋭い。
http://www.usahockey.com/ivanhlinka

2014年8月24日日曜日

ニンフォマニアックVol.1/Vol.2

いずれ書くといってなかなか書かないと忘れてしまうので、書いておこう。
「最近見た映画から」記事で少し触れたラース・フォン・トリアーの「ニンフォマニアック」。第一部と第二部の二部構成で、合計4時間。トリアーの映画4時間か、こりゃつらいなあ、パスしちゃおうかしら、と思って、RottenTomatoesを見たら、第一部の評判がものすごくいい。第二部はイマイチ。じゃあ、とりあえず第一部見て、さらに見たかったら第二部を見ようと出かけた。
見終わったみると、これは一気に両方見るのが正解の映画だと思った。第一部終わった時点で帰るなんてできない。映画館では時期を分けて公開するようだけど、同時公開の方がよい気がする。
映画は、中年の女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)が殴られて倒れているのを初老の男性セリグマン(ステラン・スカルスガルド)が助けるところから始まる。警察も救急車も呼ばないでくれ、というジョーをセリグマンは自宅に入れてやり、ジョーから色情狂の過去を聞くことになる。
子供の頃から性に対する欲求が強かったジョー(若い頃はステイシー・マーティン)は、やがて、初恋の男性ジェローム(シャイア・ラブーフ)と初体験。が、これは痛いだけだった。これにもめげず、ジョーは色情狂の道を突っ走る。友達と列車の中で何人ナンパできるか競争したりと、愛なんかどうでもいい、性がすべて、の少女時代。話を聞きながら、書物をたくさん読んできたインテリのセリグマンは、それはアイザック・ウォルトンの「釣り魚大全」みたいだね、という感じで、ジョーの話にインテリの薀蓄を傾ける。
こんな具合に第一部は進むのだが、若い頃のジョーを演じるステイシー・マーティンが溌剌として魅力的で、彼女のあっけらかんとした性遍歴が面白く、それに対して薀蓄を傾けたりするセリグマンが面白い。傾けられている相手はゲンズブールの演じる中年のジョーなのだけど、若いジョーのエピソードと、話をする中年のジョーと聞くセリグマンのシーンの絶妙なコンビネーションもあって、第一部はとにかく楽しい。
学校を出たジョーは印刷会社の秘書になるが、そこで初体験の相手ジェロームと再会。しかし、ジェロームとはすれ違いに終わり、ジョーが愛を感じたときにはジェロームはすでに結婚して、どこかへ行ってしまっていた。
その後は多数の男と同時に関係を持つが、中には妻子と別れてジョーと一緒になろうとする中年男もいる。このエピソードが一番面白い。妻子と別れたといってジョーのもとに男が来ると、妻子がそのあとからやってきて文句を言う。ジョーは次の男が来るので、早く彼らを追い返したいのだが、妻は夫を責め、ジョーを責め、という具合に修羅場が続き、やがて次の男が来てしまう、という展開。ここは役者たちの演技のぶつかりあいもあって、なかなか見応えがある。妻が直接的には夫を責めながら、実はジョーも責めているというあたりも面白い。ジョー自体は夫はどうでもいいので、修羅場だけど笑ってしまう。
その後、ジョーはまたジェロームと再会する。ジェロームは妻とけんか別れしていたので、ジョーとつきあうことになるが、なんと、ジョーは性不感症になってしまう、というところで第一部は終わり。
唯一愛を抱いた男ジェロームと関係したら不感症になってしまったジョー。2人の間には子供も生まれるが、ジョーは不感症を直すため、サディストの男(ジェイミー・ベル)のもとに通う。この第二部からは中年のジョー(ゲンズブール)になっているのだが、若いマーティンから急に疲れた顔のゲンズブールに変わるのがかなりギャップがあるが、ジョー役がかわったことで映画も急展開。前半のコミカルで楽しい雰囲気はなくなり、いかにもトリアー的な重い話になっていく。
サドマゾのエピソードは例によってセリグマンの薀蓄が傾けられるが、それに対してジョーのつけたサブタイトルがユーモアといえばユーモアか。
そんなわけで、後半は重いのだけど、このサドマゾのエピソードが実はトリアーの旧作「奇跡の海」を連想させるのである。
「奇跡の海」は事故で下半身不随になり、妻と関係を結べなくなった夫(セリグマン役のスカルスガルドが演じた)が妻に、ほかの男と関係を持って、そのことを自分に報告してほしい、と頼む。妻は夫を愛しているので、他の男と関係を持つのはつらくてたまらないのだが、夫のために実行する。世間は彼女をふしだらな女と責める。そして最後には、妻は殺されてしまう。それからしばらくののち、夫が回復して歩けるようになったというシーンで映画は終わる。
これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でも描かれた、愛する者のために苦行をして命を落とすと愛する者の障害が治る、というパターンだ。
「奇跡の海」はそれが本当に奇跡のような、ある種の宗教的な神々しさをもって描かれていた。
「ニンフォマニアック」のサドマゾ・エピソードで、セリグマンは、キリスト教は西のカトリックでは磔にされたキリストの画像が圧倒的に多く、東の正教会では聖母子像が多い、つまり、西は受苦、東は愛だ、と言う。このエピソードのタイトルが東方教会と西方教会となっているのはそのことだ。
ジョーは最愛のジェロームとようやく結ばれたが、性不感症になってしまう。本来なら子供も生まれ、聖母子像のような愛ある家庭を築いているはずが、性不感症のためにしだいに夫も子供もどうでもよくなってしまう。彼女はサディストのもとを訪れ、鞭打たれることで性的な満足を得る。
つまり、これは「奇跡の海」のパロディみたいなものだ。ただ、今度は夫の側には問題がなく、妻が問題を抱えて受苦に走るというわけ。もちろん、ジョーの受苦は誰も救うことなく(自分は救えたが)、結果的に夫とも子供とも別れてしまう。
このあと、ジョーは借金取り立ての闇ビジネスの組織に加わり、そこで才能を発揮する。そして、仲間とある男の取り立てに向かったところ、なんと、その男はジェロームだった。ただ、役者はラブーフが老けメイクではなく、別人(マイケル・パス)が演じている。ジェロームと会いたくないジョーは、この仕事は自分の後継者と見込んだ若い女性P(ミア・ゴス)と他の部下たちに任せ、自分は何もしないことにする。ところがジェロームとPが恋に落ちてしまい、という具合に、映画は結末に近づく。
ジョーはジェロームと4度遭遇する。最初は初体験のとき。次は秘書になったとき。次は結婚。そして最後に後継者と見込んだ若い女性に彼を奪われたとき。
面白いのは、4度とも、ジョーはジェロームとは性的快楽を得られないということだ。
最初は痛いだけだった。次はすれ違い。3度目は性不感症になる。そして最後は、最初とはまったく別の意味で痛い。
すべてを語り終わったジョーは、性に無関心な人間になりたいと願う。書物だけで生きてきたセリグマンは性に関心がないようで、ジョーの話を冷静に聞いていた。
で、このあと、オチがあるのだが、これはそれほどびっくりするようなオチでもないので、ちょっと残念だった。
前半の若いジョーのエピソードがとにかく楽しく、全体を通じてジョーとセリグマンのやりとりも面白い。後半はよくも悪くもトリアーだ。

2014年8月21日木曜日

猛暑の映画めぐり

今、統計を見たら、全期間のページビューの数字に6が3つ並んでいたので、オーメンかと思った。すぐに数字は変化するはずだけど(と思ったら、666は万、千、百のところだったので、しばらくはこの数字が残ります)。


さて、先週は気温が低めでよかったのですが、今週はまた猛暑。今年の夏は気温が高く、湿度も高いので、汗が乾燥せず、困るのですが、昨日(水曜日)は生まれて初めて軽い熱中症のような症状がありました。
なにかちょっとこれはやばい、と思ったので、扇風機の風をガンガン体に当て、ジュースや水を飲んでしのぎましたが(水分だけでなく、塩分や糖分もとった方がいいような気がする)、やはりエアコンのない部屋は危険だと思います。
バスタブに水はっておいて、いつでも飛びこめるようにしておいた方がいいかもしれない。


というわけで、熱中症を避けるためにも外出して冷房のある場所に入るのが一番、ということで、今週は月曜から水曜まで試写室へ。


月曜は韓国のテノール歌手、ベー・チェチョルの実話の映画化「ザ・テノール」。ヨーロッパで活躍していたチェチョルが突然、甲状腺癌にかかり、声を失うが、日本人プロデューサーやファン、そして名医の力で歌声を取り戻す、という物語。
もともと声を失う前に日本で公演して人気を博していたそうですが、声を取り戻す過程で日本が大きくかかわっていたということで、日本のテレビで何度も取り上げられ、私は知らなかったのですが、かなり有名な話だったようです。
イギリス映画「ワンチャンス」もそうでしたが、テレビで取り上げられて有名な話の映画化だと、すでに知られているので映画自体にあまり興味が持たれない、ということがあるのか、どちらも試写が混んでないのですね。実話の映画化とはいえ、脚色されているので、実話そのものとは違うところもあるのですが、知らなければなかなか面白い映画なのに、むずかしいところだなあという気がしました。もちろん、ファンにとっては見る価値のある映画でしょう。
同じテレビで取り上げられたものでも、例の偽ベートーベンと違って、チェチョルは本物。活躍していた時代の歌声が使われていますが、なかなかすばらしい声です。


火曜はリチャード・リンクレイター監督が12年かけて撮った「6才のボクが大人になるまで。」。原題は「少年時代」ですが、邦題の方がいいです。まさにそのものずばりで、6才の少年とその家族を演じる4人の俳優が、毎年数日間ずつ撮影して12年かけて完成した劇映画。両親を演じるパトリシア・アークエットとイーサン・ホークはプロの俳優なので、12年間撮影してもそれなりに予想がつくと思いますが、子役の6才のエラー・コルトレーンと、姉役の9才のローレライ・リンクレイターは子役経験があるとはいえ、プロの俳優とは言えず、12年のうちにどう変化するか予想できないのに、よくやったというか、また、この4人の身に何か起こらないとも限らないので、ものすごい賭けだったと思うので、とにかくこの企画そのものに驚愕してしまいます。
そして映画は、12年間、細切れに撮影されたにもかかわらず、2時間45分のドラマの中で自然に子供たちが年をとり、大人たちも変化して、ドラマとしてきちんとまとまっています。シーンが変わると、子供たちの顔が少しずつ変化しているのがわかるし、特に少年が中学生になると、いきなり身長が高くなるのもリアル。
この12年間の間にリンクレイターは毎年のように別の映画を作っていたし、ホークとアークエットはさまざまな映画やテレビに出演していたわけですが、そのかたわら、こんな映画を作っていたとは。
映画の冒頭では両親はすでに離婚していて、母親が2人の子供の面倒を見て、父親はミュージシャンめざして風来坊生活をしていますが、その後、母親は2度も再婚して失敗、大学院を出て大学教師になるけれど、子供たちが巣立ってしまうと自分の人生が終わってしまうような感じ、そういう母親としての性(さが)、女としての性(さが)みたいなのをアークエットがみごとに演じています。彼女の場合、大学の先生といっても研究職ではなく、あちらは教育専門の大学の先生というのがいて、彼らは給料も高くないし、終身雇用でもないのですね(日本の非常勤講師のようなひどい待遇ではないが)。だから、大学の先生になったとはいっても、研究している先生とは立場が違うのです。一方、父親の方はやがてミュージシャンに見切りをつけ、保険会社に勤めて再婚し、まっとうな父親になっていきます。
少年役のエラー・コルトレーンが、青年になるにつれて濃い顔になっていくのが幼い頃の顔と比べてギャップがあるのですが、これがまさにリアルな男の子の成長で、普通の映画では絶対に表現できないものでしょう。彼にとっての新たな始まりを示すラストの夕暮れのシーンがすばらしい。監督もスタッフもキャストも、12年間、お疲れ様でした。


そして水曜は「柘榴坂の仇討」。浅田次郎の短編の映画だそうで、桜田門外の変で敬愛する井伊直弼を救えず、生き残ってしまった主人公が、逃げた犯人の仇討を命じられ、13年間、仇討の相手を探し続ける、というもの。その間、時代は変わり、明治維新、廃藩置県、そして最後は仇討禁止令と、江戸時代が過去のものになっていく中で、武士の魂という過去の美学を失うことなく、新しい時代に入っていくべし、ということがテーマになっているのかな。この間に仇討の相手は1人だけになってしまい、最後にこの2人が対決する。
この明治維新の前後というのは、何が正しくて何が間違っているのか、誰が正しくて誰が悪いのか、当時生きていた人にはよくわからなかったのだろう。その辺が人物たちのやりとりで描かれていて面白かった。主人公が仇討にこだわるのは井伊直弼という主君への愛だった、というのも納得できる。一方、ただ1人、死ねずに生き残ってしまった方も、自分を慕う未亡人と幼い娘がそばにいながら、未来への幸福を拒否してストイックに生きている(阿部寛が適役ですな)。
主人公(中井貴一)の妻、主人公をいさめる警部の妻と、女性陣も重要な役回りになっている。また、ミサンガや金平糖といった西洋のものが、主人公たちが新しい時代を受け入れるシンボルとして登場するあたりもいい。


火曜日は映画が終わったら6時すぎで、日中よりは涼しくなっていたので、試写室のある半蔵門から北の丸公園を通って神保町まで歩いた。そしたら、歩道がマラソン大会みたいにランニングする人でいっぱいだった。10人くらいでかたまっている人たちもいた。反対側の歩道を歩いていたのでよかったが、こんなにたくさんの人が走っているのか、と驚いてしまった。私は走るのは苦手。

2014年8月16日土曜日

誰よりも狙われた男

ジョン・ル・カレの小説の映画化「誰よりも狙われた男」を見た。
キャリアの絶頂期で亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンの最後の主演作(出演作はこれから「ハンガーゲーム」の第三部が来るので、遺作ではない)ということで、試写室は大混雑。開映25分前に行ったらもう座席はいっぱいらしく、それでも10人近い人が並んでいる。補助椅子の準備をしているらしいのでそのまま並んでいたが、私のあとにもどんどん人が並んでくる。係が説明もしないので、イライラしながら待つこと15分くらい? 私の前で、補助椅子では、とあきらめて帰った人が数人いたので、なんとか入って見ることができた。
普通は補助椅子だと体が痛くなってしまって、けっこうつらいのだが、映画が面白かったので、ほとんど苦痛も感じずに最後まで見ることができた。
舞台はドイツのハンブルク。9・11テロの犯人たちが作戦を練った町として、今はテロリストを警戒するさまざまな組織が怪しい人物を見張っている。ホフマン扮するギュンター・バッハマン(名前からわかるとおり、ドイツ人)をリーダーとするグループは、町にやってきたイスラム過激派と見られるチェチェン人の青年を監視し、そこからテロリストに資金供与していると思われるイスラム教の学者をターゲットとしようとする。一方、チェチェン人の青年は女性弁護士の支援を受けながら、父親の遺産のある銀行の経営者に接近する。バッハマンは手段を選ばず、弁護士や銀行家を脅して仲間に引き入れるが、その一方で、チェチェン人の青年や、基本的には人道主義者である学者にも最善のことをしてやろうと考えている。しかし、ドイツの諜報機関やアメリカCIAも彼らをねらっていた。
という具合に、けっこう人物関係が複雑な話なのだが、映画はかなりわかりやすい。テロリストに関する話とはいえ、アクションシーンなどはなく、もっぱら頭脳戦なのだが、これがハリウッド映画とは一線を画す洗練された仕上がり。監督のアントン・コービンはオランダ出身とのことで、ヨーロッパ映画のような雰囲気がある。
ただ、主役のドイツ人3人が、北米俳優なのですね。
バッハマンのフィリップ・シーモア・ホフマン。アメリカ人。
女性弁護士のレイチェル・マクアダムズ。カナダ人。
銀行家のウィレム・デフォー。アメリカ人。
一方、CIAのベルリン支局の女性(アメリカ人)は、アメリカ人のロビン・ライト。
バッハマンの部下のドイツ人はドイツ人のニーナ・ホスとダニエル・ブリュール。
ロシア人の父とチェチェン人の母から生まれた青年はロシア人のグレゴリー・ドブリギン。
イスラム教の学者はイラン人のホマユン・エルシャディ。
つまり、脇役はみな、役柄と俳優のエスニックな背景が一致しているのだ。
そして、彼らの方が、主役の3人よりリアルに見える。
ホフマンもマクアダムズもデフォーも演技力のある俳優だが、彼らはやはりスター中のスターであって、役柄以前にホフマンであり、マクアダムズであり、デフォーなのだ。だから、彼らの演じる人物がドイツ人であるということに、終始、違和感があった。
原作者のル・カレによれば、「裏切りのサーカス」でゲイリー・オールドマンが演じたスマイリーを演じさせてもよい唯一のアメリカ人俳優がホフマンだったのだそうだ。ル・カレはホフマンの演じるバッハマンには満足しているようである。確かに、ドイツ人に見えない、ということを考えても、ホフマンがバッハマンを演じたことは成功だったといえる。バッハマンは複雑な人物で、狡猾だが、自分が利用した人々には最善のことをしてやりたいと思っている。立場上、狡猾で非情にならざるを得ないが、できるだけ人のためになるようにしたいという良心の持ち主なのだ。こういう役に一番ふさわしいのがホフマンだということは明らかだ。
だから、主役の3人がドイツ人に見えないので、これがドイツの話だということが今一つ際立たない、という欠点はあるものの、ホフマンの演技はその欠点を補う以上のものをもたらしている。
しかし、同時に、ドイツ人に見えない、ドイツの話としての印象が薄い、ということが、結末を弱めている、ということも言えると思う。
ホフマンでなければならないが、しかし、それだけではだめ、という、非常にむずかしいところなのだ。デフォーとマクアダムズをドイツ人俳優にしたらどうだっただろうか?


それにしても、フィリップ・シーモア・ホフマンという人は、どんな役をやっても内なるデーモンを感じさせる。俳優としての彼はまさに「魔物」だったと言ってよく、それゆえに、あのような最後は衝撃的ではあったけれど、魔物であればそうならざるを得ないのか、という感慨はあった。魔物的な要素を持つ俳優はたくさんいるが、ホフマンのように魔物そのものだったと感じた俳優は思い出せない。

2014年8月14日木曜日

アデル、ブルーは熱い色

昨日は名画座で「アデル、ブルーは熱い色」を見て、それからコーヒーショップで「リスボンへの夜行列車」の最後の100ページを読んだのだった。
「アデル~」は若い女性の性愛の物語、「リスボン~」は人生の終わりに近づいたことを実感し始めた男性の物語。現在の年齢だとやはり「リスボン~」の方が心に響くのだが、「アデル~」は若い頃でもあまり共感しなかったと思う。
正直、私はこの手の映画が苦手だ。
レズビアンだからではない。
セックスシーンがあるからでもない。
この映画に登場するアデルやエマのような女性に共感できないからだ。
特にアデルのようなタイプは英語で言うところのbeyond me(私には理解不能)。エマのようなタイプは理解はできるが、好きではない。
映画の原題は「アデルの人生、第1章と第2章」。原作はフランスの劇画で、劇画のタイトルが「ブルーは熱い色」のようだ。
物語は主人公アデルが高校生の時から始まる。アデルは愛と性を求めるごく普通の女子高生だが、あるとき、すれ違った髪を青く染めた女性にひきつけられる。しかし、彼女は告白してきた男性と関係を持つが、何かが違うと感じる。それは彼のせいではなく、自分のせいだ、と。
この映画には食べる場面が非常に多く、特にアデルの家で家族で食べるスパゲッティ・ボロネーズが何度も出てくる。アデルが食べ物を噛むのを映画は執拗に映し、口の中まで見せる。食欲=性欲というわけだ。
やがてアデルは道ですれ違った女性エマと知り合う。エマは美学生で、レズビアンだった。あっという間に2人は恋に落ちる。
で、このあと、2人のセックスシーンがリアルに描かれ、これがものすごい話題になっている映画なのだが、確かに若い女性2人の肉体がからむシーンにはエロス以上の美がある。
このセックスシーンについては、偽の性器を貼りつけて演技した、という女優たちの証言がある。(英語)
http://www.thedailybeast.com/articles/2013/09/01/the-stars-of-blue-is-the-warmest-color-on-the-riveting-lesbian-love-sory-and-graphic-sex-scenes.html
日本では性器が映るとそこをぼかしてしまうので見えないが、見えてもそれは本物ではないということだ。また、このシーンを本番だと思っている人もいるようだが、本番ではないということになる。
実際、上のインタビューを読むと、テイクを100回くらいやるとか、10分のセックスシーンを5日もかけて撮ったとか、明らかに本番はやってない。つまり、演技なのだ。
この記事では2人の女優(アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥ)は、もう二度とこの監督(アブデラティフ・ケシシュ)とは組みたくない、と言っていて、理由は、監督が支配的で、テイクを100回くらいやるし、2か月か3か月で撮影終了のはずが5か月半にも及んだとか、不満たらたら。カンヌでパルムドールを受賞しても、それでもいやなのだ。
アメリカでは細かい契約をするが、フランスでは監督が全権力を握っているので、いったん出演をOKするとどこまでも自分を差し出さなければならない、とも言っている。それでもこれほど支配的な監督はいないようで、セックスシーン以外でも不満たらたらのようだ。
第1章と第2章というタイトルだから、まだ続編があるのかも、と思ったが、女優たちがこれでは無理かも。
とにかく2人の女優はとてもよいので、3時間という長さを感じさせないが、やっぱり、2人のヒロインがパターン化されていると感じる。
アデルとエマを比べると、アデルは庶民の娘で、父親は保守的、堅気の仕事につくのが一番と考えていて、娘が同性愛などとはまったく思わない。アデルもそんな父の影響を受けてか、幼稚園の先生になる。
エマはアデルよりは裕福な家の娘のようだ。しかも、両親はおそらく娘の同性愛を知っていて、画家になりたいというエマの希望にも賛成している。
アデルの家ではスパゲッティ・ボロネーズをみんなでたっぷり食べて、庶民的ではあるけど、他の映画のような庶民のよさみたいなのはあまり見えない。食べ方も美しくないし、アデルはセクシーでキュートで魅力的だけれど、どこかだらしなさみたな、よく言えば素朴さみたいなところがある(映画が進むにつれて洗練されてはいくが)。エマの家では生ガキを上品に食べていて、家族の食卓もエレガントな感じ。
エマは文学が好きなアデルに、あなたも文章や詩を書けば、と提案するが、アデルは幼稚園教師の堅気な生活からはみ出そうとはしない。一方、エマはやがて画家として成功する。
同棲するようになった2人だが、やがて2人の関係にひびが入り、男性と浮気したアデルをエマが追い出すという展開になる。
この頃のエマはもう髪を青く染めていない。そして、なぜか、「キッズ・オールライト」でレズビアンのカップルを演じたアネット・ベニングふうになっている。アデルの方は、ベニングのパートナーなのに男性と関係してしまうジュリアン・ムーアに近くなる。若い女性の溌剌とした肉体に隠れているが、2人の関係は「キッズ・オールライト」ですでに見られた、よくあるパターンなのではないかという気がする。
セックスシーンと2人の女優の溌剌としたボディや表情を取り除いたら、そこにあるのは意外とステレオタイプな女たちなのではないのか?
アデルのような、恋する相手にメロメロな女性は苦手なのだが、クールで自立したエマも、ある種の男性原理を生きる女性に見える。画家としての成功はそうした男性原理に基づいているように見える。つまり、この映画のアデルとエマは、案外、昔ながらの女と男のタイプじゃないかと、そんな気がするのである。
今では男女の関係で表現しても面白くない、あるいは政治的に正しくないものを、同性愛で表現すると新鮮になる、というのはわりとあるように思う。私としては、「アルバート氏の人生」のグレン・クローズとジャネット・マクティアの方が新鮮に映るのだが。

「リスボンに誘われて」映画と原作

8月9日付の記事「最近見た映画から」で少し紹介した「リスボンに誘われて」の原作「リスボンへの夜行列車」を読み終えた。
映画とはだいぶ違う内容というか、映画よりも原作の方がはるかに奥の深い作品だった。
映画は原作の中の映画になりやすいところをピックアップして、映画として見やすいように改変した作品、という感じである。
原作では、主人公のスイスのギムナジウムの教師、57歳のグレゴリウスの人生と、1970年代にリスボンで死んだポルトガル人医師、アマデウの人生が重なるように描かれている。学校で古典を教えるグレゴリウスはかなり前に妻と離婚、子供もなく、親しい友人はギリシャ人の医師だけ。ただ、非常に優秀な古典学者で、教え方もうまく、生徒から人気もあるので、学校では重宝がられている先生。本人も、教師としての仕事と書物に囲まれた生活に満足しきっている。
そんな彼がポルトガル女性を飛び降り自殺から救ったあと、ポルトガルの言葉にひかれて偶然、手に取ったのがアマデウというポルトガル人の書いた自費出版の本。それを読むうちにアマデウという人物について知りたいと思い、仕事を捨ててリスボンへ旅立つ。
原作ではこのアマデウの書いた本の言葉が何度も引用されている。アマデウは裕福な貴族の生まれで、誰もが尊敬するような立派な青年。裁判官の父を批判したり、キリスト教会を批判したりと、体制批判もする。当時、ポルトガルは独裁政権下にあり、反体制運動をする人々は秘密警察によって逮捕され拷問されていた。そして、アマデウは秘密警察の将校であるメンデスという男が死にかかっていたとき、医師のつとめとして、彼の命を救った。それにより、アマデウは人々の怒りを買う。
アマデウの人生のもう1つの汚点は、親友ジョルジェの恋人エステファニアに一目ぼれしてしまったことだ。映画ではこのアマデウ、ジョルジェ、エステファニアの三角関係を物語の柱にしている。しかも、映画ではこの3人は若い男女なのだが、原作ではエステファニアは20代なかば、アマデウとジョルジェは彼女より30歳近く年上なのだ。
だから、映画では、この3人の関係は若い男女の愛のもつれ、エステファニアを愛するジョルジェと、エステファニアに一目ぼれしてしまったアマデウ、そして、アマデウに一目ぼれしてしまったエステファニアの3人が、独裁政権下の反対制運動の中で、危機に直面していく、といった内容になっている。
しかし、原作では、3人の関係はそのとおりで、反体制運動の中での危機も同じなのだが、アマデウがエステファニアより30歳近く年上なので、アマデウのエステファニアへの思いは単なる男女の愛ではなく、死が間近に迫った男が生を取り戻したいという思いから彼女に熱情を燃やす、というふうになっているのである。
アマデウは脳に病気を抱えており、このあと、脳内出血で死んでしまう。アマデウが理想を燃やし、人生について、社会についての哲学を持っていたことは彼の手記でわかるが、その彼が結局、50年以上生きて、ほとんど何もなしえなかった、ということが、原作から浮かび上がってくる。そして、それは現代のスイス人、グレゴリウスも同じなのだ。
映画では、グレゴリウスがアマデウの知り合いだった人々に会うことで、アマデウとジョルジェとエステファニアの物語が浮かび上がり、メンデスを助けたこともあとで役に立つということになり(これは原作にはない)、最初のポルトガル女性が誰かもわかり(これも原作にはない)、そして、アマデウについて調べるうちにグレゴリウスが反体制運動家だった男性の姪と親しくなって、新たな可能性が生まれるという結果になっているが(これも原作とは違う)、原作に比べると人物模様中心になったという感が否めない。ただ、ポルトガルの現代史を浮かび上がらせるという点は、映画の方が優れている。
原作では、人生の終わりに近づき、めまいなど体調不良もあって重い病気の可能性もあるグレゴリウスが、すばらしい人物であったが何もなせずに死んだアマデウの人生を知ることで、自分の人生を振り返る、という構成になっている。原作の方がずっと内省的で、これを映画にするのはむずかしいから、映画と原作はポイントが別、と思えばいいのだろう。ただ、グレゴリウスと同じ世代であり、同じように自分の人生を振り返ることが多い私には、やはり原作の方が心に残る。
なお、原作はけっこうわかりづらいところもあって、映画を先に見ていたおかげでとっつきやすかった。そういう点では、映画を見てから原作を読むのもよいかもしれない。


最後に、アマデウの言葉から。
「魂とは、事実の宿る場所だろうか? それとも、いわゆる事実と呼ばれるものは、ただ我々が語る話の見せ掛けの影にすぎないのだろうか?」
「人生とは、我々の現に生きているものではなく、生きていると想像しているものだ。」




訃報
ロビン・ウィリアムズに続いて、ローレン・バコールの訃報があった。
バコールは好きな女優だったが、89歳とのことなので、大往生だろう。
デビュー作「脱出」の彼女はまだ20歳だったという。20歳にはとても見えないが。
モデルのアルバイトをしながら演劇学校に通っていたが、モデル出身ということ、そしてわりとタイプ化された役が多かったので、はじめのうちは演技派とは思われていなかったが、年とともに演技派として認められ、大女優の貫録を得た人だった。
それでも、「脱出」、「三つ数えろ」など、クールなハスキーボイスのハードボイルド・ヒロインが一番印象に残っている。

2014年8月13日水曜日

アイ・フランケンシュタイン(ネタバレあり)

メアリ・シェリーの小説「フランケンシュタイン」からヒントを得た新しいフランケンシュタインもの、ということで期待した、と言いたいところだけど、RottenTomatoesでの評判があまりにも悪いので、全然期待していなかった。
ただ、一応、「フランケンシュタイン」だから見ておかねばならないな、と思っていたら、試写状が来たので、見に行った。
物語は原作小説の最後から始まる、といっても、実際は原作とは違うところもあるのだけれど、とにかく、自分を造った科学者ヴィクター・フランケンシュタインが亡くなり、怪物は彼を埋葬する。と、そのとき現れたのが天使軍団と悪魔軍団。この天使と悪魔の争いに巻き込まれた怪物は、天使軍団の女王からアダムと名づけられ、協力を求められる。が、怪物はそれから200年間、世間とは隔絶した世界でひきこもり。が、200年後の現代、人間の世界に戻った怪物(不老不死なのだ)は、再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれる、というお話。
原作を知る人ならご存知のように、フランケンシュタインの造った怪物には名前がない。怪物は原作ではモンスターではなくクリーチャーと呼ばれ、それはこの映画でも踏襲されている。
で、怪物はフランケンシュタインが生んだ息子のようなものだから、姓はフランケンシュタインでおかしくないよなあ、と思っていたら、天使軍団の女王からアダムと名づけられた怪物は、最終的にはアダム・フランケンシュタインとなる。
最後にフランケンシュタインという姓を手に入れるところがいいのだが、日本語の解説では終始、彼をフランケンと呼んでいるのだ。うーん、映画の趣旨とは違う。あと、字幕では科学者フラケンシュタインを博士と書いているが、フラケンシュタインは博士ではない(博士号を取っていない)。映画でも英語のセリフにはドクターという言葉はない。まあ、字幕だと字数の問題があるので、しょうがない部分はあるのだが。あと、ビル・ナイ扮する悪魔のリーダーを、魔王の王子としてるんだけど、英語はデーモン・プリンスで、このプリンスは王子じゃないのだけどね。ちなみに、プリンス・オブ・ダークネスといえば、悪魔のことです。まあ、ビル・ナイのリーダーはサタンではなく、サタンの手下だとは思うが。デーモン・プリンスで魔王じゃないのかな?
怪物がアダムと名づけられるのは原作を知っていれば納得なのだけど、原作ではフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読んで自分の来歴を知った怪物が、神はアダムを造って楽園に住まわせ、イヴという彼女まで造ってやったのに、フランケンシュタインは自分を造ったあと放り出してしまった、本当なら自分はアダムのはずなのに、と怒るのだ。で、怪物がなんでアダムとイヴの話を知っているかというと、その前に森の中でジョン・ミルトンの「失楽園」を拾って読んでいたから。「失楽園」は聖書の創世記をもとにした叙事詩で、神に挑戦するサタンがイヴに知恵の木の実を食べさせ、それを知ったアダムがイヴへの愛から自分も木の実を食べて楽園を追われる、という物語。アダムとイヴの物語であると同時に、神に挑戦するサタンの物語でもある。怪物は、本来ならアダムであるはずの自分が迫害されたことに腹を立て、サタンになってやる、と決意する。その一方で、自分にとってのイヴを造ってくれとフランケンシュタインに頼むが、拒否され、さらに復讐鬼に、というのが原作。
そんなわけで、怪物がアダムと名づけられるのは非常にもっともなのだ。
それから200年たって、怪物ことアダムが再び天使と悪魔の戦いに巻き込まれ、ここからアクションがいろいろ始まるのだけど、アクション中心で脚本が弱い。
天使軍団と悪魔軍団の戦い、その両方にねらわれるアダム、そして悪魔軍団が女性科学者を使って、かつてフランケンシュタインがやったような人造人間製造を目論み、そのためにフランケンシュタインの日誌(実験ノート)と怪物(アダム)を手に入れようとする、という陰謀が繰り広げられる。
その若い女性科学者と頭の禿げた中年科学者と、デーモン・プリンスのビル・ナイがなんとか事件の誰かに似ている?という話はやめておきます(いや、別に似てないですが)。
しかし、フランケンシュタインの実験ノートを読んだら、人造人間製造のときに電気ウナギを6匹使ったとか書いてあるのが笑える。原作では電気を使ったとは書いてないのだが、原作の最初の方に雷の話が出てきていて、当時のガルヴァーニ電流などを考えると、電気を使ったに違いないと想像されるので、ボリス・カーロフの古い映画からケネス・ブラナーの新しい映画まで、怪物製造には電気が使われることになっている。でも、これまでは雷だったのだが、電気ウナギとは。
それはともかく、脚本があまりにも工夫がないので、話はあまり面白くないのだが、ヴィジュアルはなかなかにすばらしい。
脚本的に惜しいなと思うのは、最初にアダムと名づけられた怪物が、物語が進む中でフランケンシュタインの日誌(実験ノート)を読み(原作ではすでに読んでいるのだが)、それで自分のアイデンティティがわかって、最後にアダム・フランケンシュタインとなる、という設定が、もっと工夫すれば面白くなるのにな、と思うからだ。
怪物役はアーロン・エッカートで、原作の怪物とは違って二枚目だが、魂がまだない、ということになっていて(これも原作とは違うのだが)、この魂を得ることがアイデンティティの獲得と重なっているので、ここをもっと脚本でうまく描けていたらと思う。
アーロン・エッカートは「ダークナイト」のトゥー・フェイスが有名だが、俳優としてはかなり前からいろいろな映画に出演していて、二枚目なのに今一つ芽が出ないな、と思っていた人。地味な文芸物の二枚目とかではイマイチ、パッとしなかったのか、トゥー・フェイスやこの怪物のような、崩れた二枚目みたいな方がよいのかもしれない。
とにかく、「フランケンシュタイン」好きなら一応見とけ、って感じの映画。
あ、あと、天使軍団の人々がガーゴイルという名前なのだが、ガーゴイルというのは西洋の大聖堂のような大きな建物の屋根にある、怪物などの彫刻のついた雨どいのこと。バットマンもこのガーゴイルふうにビルの上に立っていたりするが、高いところから見下ろしている怪物や天使ですね。天使軍団がガーゴイルというのは映像でばっちり見せてくれます。

2014年8月12日火曜日

訃報 ロビン・ウィリアムズ

コメディ俳優、ロビン・ウィリアムズが亡くなったというニュースをついさっき、見た。
重いうつ病で、自殺だという。
陽気で、人を笑わせたコメディ俳優がうつで自殺とは。


実は私は「バットマン・リターンズ」のペンギンをロビン・ウィリアムズだと思い込んでいたことがわかった。実際はダニー・デヴィートだったのだが、どこで記憶が書き換えられたのだろう。
なんか、間違えて、どこかに書いてしまった気がする。たぶん、ブログだと思うけど。


ロビン・ウィリアムズを最初に見たのは「ポパイ」だったが、次の「ガープの世界」が彼の代表作の1つになるだろう。舞台専門だったグレン・クローズが35歳で映画デビュー、老けのメイクでガープの母を演じていた。当時はよくわからなかったのだけど、変わり者のシングルマザーに育てられたガープのどこか奇妙でほのぼのとした人生模様だったような気がする(もう一度見たい)。
それから、「グッドモーニング・ベトナム」のディスクジョッキー。これでアカデミー賞を取るべきだったと思うのだが、取れず。
その後も「いまを生きる」や「レナードの朝」など日本でも人気の映画に次々主演。
そして、マット・デイモンとベン・アフレックが脚本賞を受賞した「グッド・ウィル・ハンティング」で助演男優賞受賞。受賞はよかったけど、これで受賞というのがやはり残念だった。
それから、本格的に悪役を演じた「インソムニア」。これはノベライズの翻訳をしたので、個人的に思い入れのある作品。ウィリアムズの悪役はこれが初めてではないけれど、いかにも人のよさそうな柔和な表情でサイコキラーを演じたところがすごかった。
最近では「大統領の執事の涙」のアイゼンハワー大統領役。
まだまだ十分活躍できる年齢(63歳)だったのに。


どこかで読んだのだが、ウィリアムズはサインを求めるファンのために、「あなたはロビン・ウィリアムズに出会ったことを証明します」というカードを用意して、出会ったファンに渡していたのだという。すべての人にサインできないので、カードを用意していたのだろう、律儀な人だなあ、と思ったのを思い出す。

2014年8月10日日曜日

松屋はもう本当にいらない。

2020年4月追記
この記事からすでに6年近くがたち、以下のような状況はもうありません。
一時的なことで、その後は松屋を愛用しています。

********************

プレミアム牛めし導入で大幅値上げ、だけならまだしも、好きなメニューを全滅させてくれやがった松屋ですが、以来、松屋には行ってませんでした。
が、好みのうまトマハンバーグ定食が復活したので、久々に松屋へ。
入ってみると、あれ、冷房が?
客が一人もいないので冷房切っていたのか?
私が席につくとおもむろに冷房が動き出しました(全然客いないってことじゃん?)。
そして、出てきたハンバーグが、なんと、表面だけ焼いて、中は全然火が通ってない!
実は松屋は以前、こういうことがよくあって、文句言わずに食べているお客さんが多かったのですが、私は苦情を言って作り直してもらっていました。
実際、うまトマは夏のメニューなので、文句言わないと食中毒が出る恐れも。
どうもスタッフに指示が徹底していなくて、スタッフが「今まで全部生焼けだったんだ」とあせっている店もありました。
その後、本部が改善したのか、最近は生焼けハンバーグにはお目にかからないでいました。
で、今回も苦情を言ったのですが、店員が苦情の内容を理解できないのです。何度言っても理解不能。こんなこと初めて。
やがて先輩らしい店員が奥から出てきて、作り直してくれましたが、火が通っていてもハンバーグは以前よりまずいし、なによりトマトソースが以前よりまずい。おまけに客いないからごはんが最初から冷めてるっぽい。
もう松屋は二度と行かん!
この店は以前はベテランっぽいおじさんやおばさんが店員だったのに、なぜか、この日は経験不足っぽい若い人が厨房にいて、あとから出てきた先輩も若い人でした。
手間がかかるというプレミアム牛めしのせいで、ベテラン店員も逃げだしているのか?
松屋は牛めしをやめて定食路線で行きたいのでは、という予想をする人もいますが、実際は定食メニューが減っていて、なおかつ、うまトマ定食がこんなまずいんじゃ、定食路線も無理でしょ。
7月はネギトロ丼で売り上げはよかったみたいだけど、そのプレミアム牛めしのせいでネギトロ丼も短期間で姿を消しています。辛みそ炒めも人気、とか書いてあったけど、それもプレミアムのせいで姿を消したのだよ。カレーが値下げしているけど、もともと松屋のカレーは好きではない。


というわけで、松屋がだめになったので、なか卯や吉野家や富士そば、そして値段高いけどココイチやファミレスに行っているのですが(夏は暑くて自炊は無理。エアコンないし)、なか卯は手際の悪い店に当たると大変だと判明。店によるなあ、ここ。吉野家は私好みではないのだけど(券売機じゃない店は苦手、あとメニューが少ない)、牛バラ野菜焼き定食がけっこういけます。ただ、夏なのにコンロと鍋ってどうよ、と思いますけどね。でも、おいしいし、ワンコインでおつりが来るのもうれしい。今は割引券も配ってます。
ココイチのカレーは好きなんだけど、最近、カレーを食べると必ず胸焼けがするようになってしまい、それで、ココイチではハッシュドビーフを頼むことが増えました。これ、なかなかよい。軽く食べたいときはハーフもあるし。
カレーといえば、ジョナサンのタイ風カレーもうまかったな。まだやってるのかな? ごはんがインディカ米なんですよ。これがカレーに合う。
カレーで胸焼けしてるので、トンカツ、フライ、天ぷらは避けています。その他、ウェンディーズのチリ(大好物)でも胸焼けしてしまう。ひどいときは食パン食べただけで胸焼け。調べたら、胃と食道の間の弁の締りが悪くなると胃酸が逆流して胸焼けになるのだとか。年とともにいろいろなところが弱ってくるようです。

2014年8月9日土曜日

最近見た映画から

7月下旬から積極的に試写に行っています。
その中から気になった映画について。


「不機嫌なママにメルシイ!」(ネタバレ注意)
ギヨーム・ガリエンヌの一人芝居を自ら監督・脚本・主演した映画。
ガリエンヌは自分の分身である主人公ギヨームとその母の二役を演じる。元の舞台ではすべての人物を一人で演じたらしい。
ギヨームは裕福な家庭の3人兄弟の末っ子。女の子が欲しかった母親の影響で女の子のように育ってしまい、自分は女なのかゲイなのかと悩む。
普通に考えたら、これは性同一性障害でしょう、と思うところだが、ギヨームの少年時代や青年時代にはまだ性同一性障害という概念は一般的になっていなかったのだろうか。この映画では性同一性障害のことはまったく出てこないが、確かにこの概念が普及するまでは性同一性障害の人は同性愛だと思われていた。
そんなわけで、しぐさが女っぽくて、男性に恋心を抱いてしまうギヨームは自分でもゲイじゃないかと思い、それを確かめるためにヨーロッパ各地へ行ったりしていろいろな経験をする。それがコミカルに描かれていて笑ってしまう。
でも、見ていて思ったのだが、ギヨームは母親がすごく好きなのだ。要するにマザコン。心が女だったら、普通、母親より父親に恋するよね。ゲイの男性なら母親が好きかもだけど、心が女だったらこんなに母親命だろうか?と疑問に思っていたら、やっぱり、という結末に。
つまり、これは、女の子のように育てられたヘテロの男性の話だったのだ。
まあ、女性でも、少女時代には男性的な女性の先輩や同級生に恋したというような経験はある。だからといって、彼女たちが同性愛というわけでもなく、その時期をすぎると男性に恋するようになる。
ギヨームの場合は、男性にもそういう性が不確かな時期があるという話、なのだろう。ただ、男性が性のアイデンティティをこういうふうに求める物語、というのはなかなかない。その点で、非常にユニークな話だ。


「記憶探偵と鍵のかかった少女」
スペイン人の監督がハリウッド・スターを使って作ったミステリー映画。記憶の中に入り込んで事件を解決する探偵会社の探偵が主人公。
が、しかし、これ、「インセプション」の二番煎じ。特に主人公の妻との過去が完全に「インセプション」のパクリ。これはまずいでしょう。
だいたい、人の夢や無意識の中に入って事件を解決、というアイデアはかなり前からあって、「インセプション」はそれを夢の階層とか夢の構築といった斬新な手段で描いたからすばらしかったのだが、この映画の場合は夢のかわりに記憶になっているだけで、新味が何もない。夢のかわりに記憶にしたわりには、夢とどこが違うの?な展開。
話の展開もすぐに先が読めてしまうので、驚きもない。


「ニンフォマニアック」
ラース・フォン・トリアーの新作で、色情狂の女性が語る赤裸々な過去を2部作、計4時間の映画に仕立てた作品。前半がコメディタッチで楽しい。後半はえぐい展開になるが、以前のトリアー作品ほどのえぐさはないので、前半に比べると後半はイマイチ。でも、つながっているので、全部見ないわけにはいかない。
この映画についてはもっと詳しく書きたいので、また別の機会に書きます。


「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」
女優としての絶頂期に引退し、モナコのレーニエ大公と結婚してモナコ公妃となったグレース・ケリー。2人の子供をもうけるが、夫は公務に忙しく、夫婦の間には隙間風も吹き始め、その一方で公妃としての自覚が足りないグレースはただの主婦になってしまっている。そこへアルフレッド・ヒッチコックから新作「マーニー」への出演依頼が来て、という話。実話にもとづいているが、かなり脚色されているようで、冒頭、ヒッチコックがモナコまで来るけれど、実際は来ていないとのこと。
グレースは映画復帰に意欲を見せるが、そのとき、フランスがモナコに圧力をかけ、国の存亡の危機に。今こそ公妃としての自覚を持て、と言われたグレースは映画復帰を断念し、公妃としての政治力を身に着け、モナコのために活動する、という物語。
ちょっと「英国王のスピーチ」の女性版のような感じもするが、王族に嫁ぐということの意味は、という問いかけが繰り返されるように、公妃になるということは普通に結婚して妻になり母になるということではないということなのだ。
結婚がそのまま仕事であるのが王族だ、というのは、今もそうだと思うが、それでも半世紀前と今ではまったく同じではない、という気がする。ダイアナ元妃はそういう考えになれなかったから、皇太子と離婚した。
この映画ではグレースとレーニエ大公は愛を取り戻すので、公妃であることと愛のある結婚をすることは矛盾していないが、王族の妻であることが即、仕事である、というメッセージは十分に伝わってくる。それは特別な世界であり、半世紀前だから堂々と言えるメッセージだという感じはぬぐえない。
レーニエ大公がグレース・ケリーと結婚した背景には、モナコという小国を維持するためには彼女のような華やかな妃が必要だったということがあった、ということは当時から言われていた。当時、モナコは男の子が生まれないとフランスに接収されてしまうので、グレースは男の子を生む必要があった(実際、息子を生んだので、とりあえず義務を果たしたと言われた)。現在では男の子が生まれなくてもフランスに接収されることはないが、小国を維持するための政略結婚的意味合いがあったのは事実だろう。
映画はフランスとモナコの対立の中で、フランス側のスパイが誰かというミステリーの要素もあり、なかなか楽しめる。グレース役のニコール・キッドマンははまり役だが、レーニエ役のティム・ロスはじめ、脇役もいい。シーンごとにキッドマンが衣装を変えるのも見もの。


「蜩の記」
「グレース・オブ・モナコ」は半世紀前の話だったが、こちらは江戸時代が舞台の時代劇。原作も読んだが、原作の胸を打つセリフの数々が映画の中でみごとに決まっていて、それを話す俳優の演技もすばらしい。
これもまた、古い時代だから成立する話であり、テーマなのだが、現代では成立しないけれど、それでもこういうテーマや人間の生き方を知るために時代劇が必要なのだ、ということを考えさせられた。
この映画については、詳しく書く機会がありそうなので、そのときに。


「リスボンに誘われて」
スイスの作家パスカル・メルシエの小説「リスボンへの夜行列車」の映画化、だそうで、映画を見て原作に興味を持ったので、図書館で借りようとネットで本がある図書館を調べ(貸し出し中だと行ってもむだなので)、出かけたが、見つからない。スイス文学というくくりはないので、作者の名前からしてフランス語だろうと思い、フランス文学を見るが、ない。その他のヨーロッパ文学にもない。しかたないので図書館員に探してもらい、本の表紙を見たら、原題はドイツ語だった。
確かにスイスのベルンから始まるので、ベルンはドイツ語圏だから当然ドイツ語だわ。私としたことが。
主人公はベルンのギムナジウム(日本でいうと高校?)の古典の教師。書物と学校の生徒を相手にするだけの生活を何十年も送ってきたが、ある日、橋から飛び降りようとしている女性を助けたことから、ポルトガルのリスボンへと旅立つことになる。
このリスボンへ行くきっかけが映画と原作ではかなり違っているが、映画の方がうまくまとめている。ただ、ベルンからリスボンへの直行の夜行列車はないだろうと思っていたが、原作では列車を乗り継いで、最後に夜行列車でリスボンへ着く(原作はまだ途中までしか読んでません)。
主人公は自費出版でわずかな数しか出ていないポルトガル語の本を読み、その作者について知りたいと思ってリスボンへ行く。そこで、1970年代まで続いたポルトガルの独裁政権時代の忌まわしい歴史を主人公は知ることになる。
この独裁政権時代については、プレスシートに詳しい解説が載っていて、大変参考になった。最近のプレスはこの手の解説が充実しているものが多い。
映画はその過去の時代の物語と、書物の世界に没頭していた主人公が現実の世界に触れて変化する物語が交互に描かれている。このあたり、面白いし興味深いのだが、映画はイマイチ語り口がうまくないかな?という感じがして、原作が読みたくなったのだ。原作を読み終えたら、また書きたいと思う。

2014年8月2日土曜日

これは知らなかった「新しい学力観」

http://toyokeizai.net/articles/-/44110


「振り返ってみると、きっかけは1989年改定の学習指導要領で、「新しい学力観」と言いだしたことだったと思います。それまでは、テストを受けて点数が高ければ、満点を取りさえすれば、相対評価で5がつくのが一般的な常識だったでしょ。ところが、その常識が崩れたんです。
たとえば満点を取ったA子さんと80点のB子さんがいたとします。そこで、B子さんのほうに5(の評価)がついて、A子さんに4がつくなんてことがザラに起き始めたんですよ。
何が起こったかと言うと、(授業への)関心・意欲・態度が評価項目の最上位にきて、それまで重視されていた学力の技能、得点力が最下位に位置づけられるようになったのです。
当時、文科省はそれをメディアに発表していなくて、当然、メディアもまったく報じない。だから、現場は大慌てですよ。塾などからは、テストの点はいいのに3しか取れないなどと、電話の問い合わせがいっぱい入ったり。」


先生の目を気にするようになり、先生に反抗すべきでないと思う若者が育ち、大人になるのに必要な反抗期を経ていない若者が今、大学に入ってくるようになった、ということです。
そうなのか。
しかし、これだと、学力というものが評価されず、そのままAO入試で大学入って、という具合に、日本人はますますバカになるのでは?
そして、小保方みたいに調子のいいやつが無能なまま、世の中をいつのまにか牛耳っているという。
日本、終わりか?

2014年7月29日火曜日

なんでこうなるの?

https://twitter.com/kakinaguru_zo/status/493952613784637442


NHKスペシャルのSTAP特集で小保方氏の論文の間違いをいろいろ追及したそうですが、それについて、小保方氏の弁護士三木氏が「集団リンチ」と言ったというのが話題になっています。
研究の誤りを指摘するのが集団リンチでは、学問も研究も教育もできなくなる、ということで、まったくそうなんですが、この三木弁護士は小保方氏についてはかなり変な発言ばかりしているので、またか、という感じなんですが、上のツイッターのやりとり見ると、単に三木氏のバカ発言ではなさそうな。
先週と先々週は3つの大学で期末試験があり、合計400人くらいの学生を教えているので、試験の採点は片っ端からやらねば大変、ということで、2つの大学の成績は先週中に出し、3つ目の大学の成績は昨日出してきました。これで夏休みだ、わーい。
まあ、私は非常勤なんで、ゼミとかないし、授業もあまりきびしくしてないのですが、それでも、間違いを指摘されることへの耐性がない人が多いというのはよくわかります。
これは最近に始まったことではなくて、私が非常勤講師を始めた30年くらい前からすでにありました。
以前は英語の授業ばかりだったのですが、英語というのは学生に発表させて、間違いを直すことで学んでもらうのが原則なのですが、その、間違いを直すというのがいやな学生が多いので、最近はもう発表はやめて毎回小テストになってしまっています。
発表をさせていたときは、もちろん多くの学生は間違いを直してもらいながらしっかり学んでくれていたけれど、やはり一部に、自分が常に完璧でないと気が済まない学生がいるので困りました。
大学生では間違うのが当たり前、大学生で英語完璧だったら授業来なくても単位やるよ、というくらいなのに、とにかく自分が間違うのがいや。というか、人前で間違いを指摘されるのがいや。
なので、小テストにしたら、人前で間違いを指摘されるのがなくなったので、平穏無事になりました。
しかし、今年は久しぶりに英作文を発表形式でやったら、発表をやりたがらない学生が多くて、やはり間違いを直す授業はだめなのか、と思いましたね(もっとも、慣れてくると平気になる学生も多いです)。
やっぱり慣れなんでしょうね。たぶん、小学校からずっと間違いを指摘されることに慣れていれば、耐性もつくのだろうけど。でも、30年前に英語の授業したとき、「高校では先生が全部説明してくれて、発表なんてなかったのに、なぜ発表をさせるのか」と抗議されたことがありました。30年前でもすでにそうだったのだ。
先生が一方的に教えるのではなく、学生同士で議論させろ、と言いますが、学生同士で議論というのは、それこそ人前で間違いを指摘し合うことなので、今の日本じゃ無理だろ、と思います。
上のツイッターでは、日本の大学生は学ぶ姿勢がない、と書いてありますが、単に学ばないというよりは、間違いから学ぶのが勉強、という理念が教育現場から消えてしまっているのだと思います。
まあ、私が行ってる大学は中堅かそれ以下なんで、やる気のある学生はやる気があるし、やる気のない学生はプライドも何もないので、間違いを指摘されて怒るような学生はいませんね。それだけはありがたいです。

日経サイエンス9月号

日経サイエンス9月号を買ってきました。
今回は自分にとって興味深い記事が多く、コーヒーショップでいくつか読みましたが、面白かったです。
目当てはSTAP細胞最新情報で、例のマウスの染色体の話が詳しく解説されていましたが、日曜夜にはNHKスペシャルでSTAP騒動の特集もあったようですね。私は見てませんが、ネットの書き込みなど見ると、なかなか見ごたえがあったとか。
小保方氏と笹井氏のメールのやりとりが情感たっぷりの声で表現されていて、なんか、ネットでは騒然となってましたが、テキストになったのを読んだら、ただの業務連絡にすぎないような感じが。
案の定、小保方側は抗議しているようです。
日経サイエンスはSTAPは特集ではなく、国内トピックスの扱いです。特集の方では記憶についての話、インドの天才数学者の残した論文から最近、ものすごい発見があったという記事、そして麻酔の副作用についてが興味深かったです。
また、夏休みということで、子供と楽しむ科学の別冊つき。


先週水曜に松屋で新発売のプレミアム牛めしを食べ、それが90円も高いのに全然うまくなく、おまけに好きなメニューが消滅、ということで、もう松屋は行かない、ということになってしまったのですが、かわりにココイチやなか卯やサイゼリアに行っています。そして、月曜は、今までなんとなく気になっていたが入りにくかった富士そばに入ってみました。
ここはサラリーマンのおじさんばかり、という印象だったのですが、入ってみると、女性もいるし、外国人のカップルもいる。意外にいろいろな人がいました。
で、食べたのは冷たいそばに肉や大根おろしや梅干しが載っているそば。490円でしたが、なかなかおいしかったです。

2014年7月25日金曜日

松屋が要らなくなる日

牛丼チェーン店では私はダントツ、松屋でした。
もともと牛丼はあまり好きでないので、それ以外のメニューが豊富でおいしかった松屋。
牛丼ならぬ牛めしも240円のミニがごはんの量が手頃で、牛めしはもっぱらこれを愛食。
しかし、ついに、私の夕食の選択肢から松屋が消える日が来てしまいました。
それはまず、水曜日。プレミアム牛めしなるものとの出会いから始まります。
水曜は夕方にマックでポテトのLが150円だったので、思わずそれを食べてしまい、ちょっとおなかがいっぱい。そこで、遅い夕食では松屋の牛めしミニ240円で軽く行こう、と、某所の松屋へ。
券売機を見ると、なんと、どのサイズも90円高いプレミアム牛めししかない。
ミニは330円もする。
でもとりあえず、その自慢のプレミアム牛めしを食べてみるか、と、ミニを買って中へ。
それまでの牛めしに比べ、肉が厚いが、その分、肉の量が少なく見える。薬味がついているが、別にどうってことのない味。そして、肉の味が以前の牛めしと全然変わらない。
要するに、肉の厚さが少し暑くなって(でも肉の量は少なくなった)、薬味がついているだけで90円値上げか!
かなり怒りを感じましたが、それでも松屋愛は消えず、翌日、今度は別の松屋へ。2週間前に始まったばかりの山かけネギトロ丼を食べようと券売機の前に立つと、
なんと、メニューが激減している!
プレミアム牛めしと、その変化形(ネギと卵が乗っかったやつとか)と、カレーと、定食が3種類しかなかった!
2週間前に始まったばかりのネギトロ丼はどこへ?
鶏肉の甘辛いため定食とか、豚焼肉定食とか、生姜焼き定食とか、すべて消えていた。
定食は牛肉の定食とデミタマハンバーグ定食しかなかった。
私が好きだったメニューがすべて消えていたのでした。
それがわかったので、券売機にお金を入れることもなく、すぐに店を去りました。
もう松屋に行くことはないのか。
あのプレミアム牛めしを食べるくらいなら、なか卯の牛すき焼き丼を食べる。というか、牛すき焼き丼は以前の松屋の牛めしより高いけど、その高さを補うだけのうまさがあるのです。
しかし、プレミアム牛めしはうまくもなんともなくただ高いだけ。
と思ったところ、プレミアム牛めしはきちんと作らないと以前の牛めしと同じ味になる、というサイトを見つけました。
http://news.livedoor.com/article/detail/9034602/
たれとか全然違うって、私が食べたのはまったく同じだったぞ。
松屋は店によってきちんと作るところと手抜きのところがある、というのは経験でわかっていたので、おそらく水曜に行った店は手抜きの店だったのでしょう。私のほかにも次々プレミアム牛めしを食べる人がいましたが、これで松屋の評判はおそらくガタ落ちです。
一方、きちんと作るとバイトが大変っていったい?
いっそ、前の牛めしのまま、やむなく少しだけ値上げ、にした方がよかったのでは?
つか、私の好きなメニュー全滅って、どうよ、つか、許せねえ、松屋!


実は、私は松屋の牛めしの並みを決して食べないのですが、それは、作り置きしたのをレンジでチンしたと思われるのを何度か食べさせられたからです。プレミアムは賞味期限1時間ていうのは、レンジでチンする期間のことか?と思ったのは私だけか?


なんにしても、さらば、松屋。長年世話になったのは忘れないけど、これからはなか卯の牛すき焼き丼です。なか卯は今の時期は冷たいうどんもおいしい。冷たいうどんのミニと牛すき焼き丼のミニの組み合わせで食べるのが好き。


追記
そういや、最近、なか卯が混んでいるのだが、松屋のせいだろうか?
松屋がアレだと、なか卯も手抜きになってしまうのかなあ。
そして、ただでさえ重労働でバイトが集まらないすき屋に客が殺到して、さらにすき屋のバイトが悲惨なことに、とならないだろうか?
松屋の社長がプレミアム牛めしの値段について、これが高いと思う客は来るな、と言ったそうだけど、言われなくても行きません(私の場合は好きなメニュー全滅のせいだけど)。

2014年7月22日火曜日

かねもちはくしとびんぼうはくし

http://id.fnshr.info/2014/07/21/two-docs/
「おとぎばなし:かねもちはくし と びんぼうはくし」


これって、けんきゅうのせかいだけのこととはおもえないので、はっておきます。
しかし、ひらがなだけって、よみにくい。

2014年7月20日日曜日

早稲田大学の恐るべき(笑うべき?)言い訳

スタップ問題はもうやめようと思っていましたが、ここに来て、出ました、早稲田大学が小保方氏の博士号をはく奪しないという決定。その理由がすごいので、一部で話題になっていますが、一般人はしらーっとしています。
確かに私も一般人としては、しらーっとせざるを得ない。
もともと早稲田の博士号って、そんなにすごいものだと思ったことなかったし。
早稲田は学部出て一流企業に入るのがすごいので、大学院をすごいと思ったことなかったし。
もともと日本の大学の多くはディプロマミル的で、特に私大はほとんどがディプロマミル的だと思ってたし(そういうところでも立派な論文を出している人はいると思いますが、全体として)。
だから、早稲田は死んだ、と言われても、所詮は大学院の話で。
もともと早稲田の優秀な人は大学院は旧帝大などへ行っていたわけで、学部早稲田の人も別に困らないわけで。


また、早稲田の論理が研究教育倫理を根底から揺るがしているのは事実だとしても、実際、それは現実にすでにあることだよね、と思うのは私だけか?
たとえば、「博士号をはく奪すると就職に影響が」というのは、「出席もしてないし、試験もできてないけど就職が決まったから単位を出してくれ」てな圧力はわりと普通にあるというのと同じ。
カンニングしても、それを報告したりするとあとが面倒なので、その場で注意するにとどめる、なんてこともある。ある短大で、先生の目の前でカンニングした学生がいたので、その学生を不可にしたら、「カンニングなんて誰でもやっているのに私だけ不可はおかしい」と抗議され、全員再試験にしたという事実がある。カンニングを注意するとこれだけ面倒なのだ。
小保方氏の博士号も、剥奪すると、日本全国に波及するので、それを避けるために文科省もグルになってああいうことをした、と予想する人が多い。その文科省が道徳を普通の教科にして成績つけるそうだが、自らの道徳の成績をまずつけろよ。
また、日本の社会は、特に文系では、大学時代、勉強しなかった人が人間力やら何やらで企業で出世しているので、中身のない論文で博士号くらいでは一般人は驚かない。
だいたい、一般人にとっては、というか、文系は博士号を出さなかった時代に院生だった私にとっても、博士号ってどの程度の重要性があるのかわからない。なんだかよくわからないけど、ある特殊な業界では必要な免許証らしいな、くらい。
末は博士か大臣か、なんていうのは昔の話で、今や博士は雲の上の人でもなんでもなく、博士になってもコンビニのアルバイトしか仕事がない時代。
それにしても、博士号はく奪されて仕事を失った人は日本にもいるのだが、小保方氏くらい有名になり、バックに文科省とかついていると何でも許されてしまう、という実例が当分続いていくようだ。
再現実験についても、小保方氏はもともと実験ができなかったのに、いいかげんな早稲田が修士号も博士号も与え、文科省は返還不要の多額の奨学金を与え、理研はユニットリーダーに採用してしまったということを隠すために、小保方氏に今、実験の練習をさせ、2カ月後に実験できるところを見せようという目的だ、という予想がある。小保方氏を守ることによって守られる人がいかに多いかということだろう。

2014年7月12日土曜日

教訓

前回の記事ではもちろん、具体的なことはほとんど書いていないが、教訓として、非常勤講師の仕事に弊害が出るようなことだけは避けるべきだということを骨身に感じた。
これまでは出版関係で何かトラブルがあっても、他の仕事に影響することはなかった。
しかし、今回は、期末試験の近いこの大事な時期に、講師の仕事に大影響を与えるような事態に発展した。実際はなんとか影響を避けることができたが、自分は複数の大学で合計数百人の学生を預かっているのであり、何かあったら学生が迷惑するということを肝に銘じるべきだと真剣に思った。
これまで、評論家・翻訳家としての自分が本来の自分で、非常勤講師は生活費を稼ぐためと思っていたが、非常勤講師は1年契約で、給料も安く、何の保証もなく、責任だけは重いという不公平な仕事ではあるけれど、人を預かっているということは忘れてはならない。
もうすぐ夏休みだ。某大学から非常勤講師にも紀要への執筆依頼がメールで来た。夏休みに何か考えてみてもいい(でも、書かないかな←ダメだろ、自分)。

2014年7月11日金曜日

身の程知らず

ネットのどこかに書いてあった記事。世間の評価と自分の評価がまったく違うのに、それに気づかない身の程知らずな例。
それまで仕事で何の実績もなかった中高年の男性がコンビニでアルバイトを始めたが、若いバイトはいい時間帯にシフトしてもらえるのに自分は深夜や早朝のような不利な時間帯しかシフトしてもらえない、という愚痴をこぼす男性について、身の程知らずと書かれていた。
確かに中高年でもコンビニやマックで責任のある仕事について、若いバイトたちと生き生きと仕事している人もいるようなので、身の程知らずなのだろうとは思う。
そして自分のことだけれど、私もこの中高年男性のように身の程知らずなのだろうと思う。
たとえば、私の書く文章をほしがる人など誰もいないのに、私の文章は世に出す価値があると信じていたりする。そういう私に、それなりの長い文章を書く仕事の話が来ると、一生懸命書いてしまう。が、依頼した相手は私の文章がほしいわけではなく、誰かが断って短い期間にかわりをしてくれる人がほしいだけだったりするのだ。だから、私がうれしくて一生懸命書いた原稿を、勝手に書き直してしまう。
そういう依頼をうれしいと思って受けてしまうのが身の程知らずなのだ。それをいやというほどわかっているのに、たまに依頼が来るとうれしくて受けてしまい、結局、後悔する。
たかが数万円のために、編集者が勝手に書き直した文章を活字にしたくはない。
そういう可能性がある仕事しか私には来ない、ということを認識すべきだ。
そうではない仕事が自分に来ると思う身の程知らず、それをしっかり頭に刻むべきだ。
ある雑誌に、もう長いこと、まともな文章を出していないのに、そこから別の会社の仕事の依頼が来るっていうのがそもそもおかしいと気づくべきだった(いや、気づいていたのに、たまに来るからうれしくて引き受けてしまう自分がバカ)。
いいかげん、向こうから来る仕事はおかしいと疑えよ、自分。
本当にやりたいことは、こっちから行かないとできない。


追記
結局、私が引き受けたことで、私も損害を受けるし、依頼した方もいやな思いをするので、引き受けること自体が双方に悪い影響をもたらすのだ。
しかも、報酬はわずか数万円で、これがなくても私の生活は困らない。ただ、久々の活字媒体で好きなことが書けると誤解した自分が間違っていたし、私の原稿を利用できると思った依頼主も間違っていたということになる。
だいたい、50歳をすぎると有名人以外は書けなくなるのだから、それにはそれなりの理由があるわけで、そこを勘違いしている自分が悪い。
どこまで行っても自分が悪いので、どうしようもないのだが、期待してしまった自分がもうどうにも我慢がならないのだ。
期待しないでただの小遣い稼ぎと思って適当に書いていたなら。
たくさん依頼がある人ならそう割り切って書くのだろう。
このブログだって少数だけど読者がいるんだから、こっちを大事にして、たまにおかしな活字媒体の依頼があっても断固断るくらいでちょうどいいのだろう。
確かに、某媒体経由の依頼って、断る割合が圧倒的多数だった。ただ、昔は会って話をして、これは自分に向かないと思って、円満にお断りできたのだが。
まあ、後悔先に立たずってことで、もう、忘れて先に進むべき、だろうね(でも相当なショックです)。

2014年7月9日水曜日

トム・アット・ザ・ファーム

「わたしはロランス」に続くグザヴィエ・ドランの映画「トム・アット・ザ・ファーム」を見た。
ドランとしては初の原作つき映画。原作はカナダの劇作家ミシェル・マルク・ブシャールの劇だが、演劇の映画化とは思えないほど映画的にこなれている。
ドランなので、当然、ゲイがテーマ。主人公トムはゲイの恋人ギョームの葬式に出席するため、彼の母と兄が住むケベック州の田舎の農場へ行く。そこでトムは、兄のフランシスから、ギョームがゲイであることは母親には秘密で、女性の恋人がいたことになっている、だから口裏を合わせろ、と要求してくる。とまどうトムにフランシスは暴力をふるって従わせる。
この暴力がしだいにエスカレートしていって、トムはだんだんフランシスの暴力が快感になっていき、トムとフランシスの奇妙な関係が生まれていく。
農場の周辺の人々は農場を避けている。それは、かつて、フランシスがバーで事件を起こしたからで、ある種の村八分になっているのだ。
フランシスはいわゆるホモフォビア=同性愛嫌悪者なのだが、単にそれだけとは思えない。むしろフランシスは弟に対してホモセクシュアルな感情を抱いていたのではないか、それで、弟の恋人のトムを弟のかわりにしようとしているのではないか、と思えてくる。トムもまた、フランシスと離れがたくなっていく。
原作にはもっといろいろな要素があったらしいのだが、映画はトムとフランシスの関係に絞って描いている。クライマックスと結末については謎がいくつも残る感じになっているが、ケベックの田舎から大都会モントリオールに戻ってくるあたりの映像が不思議な余韻を残す。
フランシスの着ている星条旗とUSAの文字の入ったジャケットは何を意味するのだろう。そして、冒頭の曲はミシェル・ルグランの「華麗なる賭け」のテーマ曲を少しアレンジして、フランス語で歌っているものだが、この歌で始まり、アメリカはもうたくさん、みたいな歌で終わる。
トムはドラン自身が演じているが、髪を金髪に染め、役者としても一皮むけた感じがする。共演者たちもいい。


グザヴィエ・ドランは最近お気に入りの監督で、「わたしはロランス」も高く評価したのだが、キネ旬のベストテンを見たらあまり点が入っていないので驚いた。社会批判とかがないからか? 若い監督が気取っているだけ、みたいな意見もあったらしい。
ドランの映画を見ると、デビュー当時のフランソワ・オゾンを連想するのだけど、現在のオゾンのようにはならないと思う。


「華麗なる賭け」のテーマ曲、英語と日本語の歌詞がここにありました。
http://udzu.blog123.fc2.com/blog-entry-87.html
フランス語の歌詞と日本語訳もあった。便利な世の中だ。
http://lapineagile.blog.fc2.com/blog-entry-324.html

2014年7月6日日曜日

奇跡の白菜

台東区をぶらぶら歩いていたら、上野の国立博物館で開催中の台湾の故宮博物院展のポスターが目に入った。
ん? 奇跡の白菜?
なにこれ、と思ってよく見ると、白菜は東京だけの展示で、7月7日まで。
この期間は無休で夜8時まで、とあったが、きっと混むだろうな、と思った。
で、奇跡の白菜って何? 本物の白菜のはく製とか?
と思って、ネットで調べてみた。
http://matome.naver.jp/odai/2139965527123298401
ヒスイを白菜の形に彫ったものだった。
大きさも高さ19センチだから、まわりに人、人、人で、必死にのぞいてもよく見えないだろう。
上にキリギリスとイナゴが載っているというが、写真で見た方がよさそう。
このほか、豚の角煮の形をした石も展示されるらしい。こちらは九州で、やはり期間限定とか。
どちらも門外不出の国宝らしい。たしかにみごとだけど、白菜と豚の角煮。うーん。日本のプラスチック製スシを連想する。ていうか、この白菜と角煮、携帯ストラップとかキーホルダーとかになってないのかな???
白菜見に行く人はこのツイッターで混雑状況を確認のこと。
https://twitter.com/taipei2014tokyo
やっぱり会場に入るまでの待ち時間と、白菜の展示室に入るまでの待ち時間があるのですね。
この国立博物館の特別展って、なんか人多い、すごい、って思ったこと何度もあるのですよ。美術展じゃここまで混まないよって感じの。私は博物館より美術館の方がずっと好きなんですが。
白菜は7日までです。角煮は九州へ。

2014年7月3日木曜日

ケープタウン

火曜に続いて水曜も試写に。オーランド・ブルーム、フォレスト・ウィテカー主演のサスペンス映画「ケープタウン」。現代の南アフリカが舞台だが、原作がフランスのミステリー小説ということで、フランス映画です。
「ケープタウン」といえば、昔、マイケル・ケイン主演でアパルトヘイト時代の南アが舞台の映画があったなあ、と思ったら、1974年の映画でシドニー・ポワチエが共演、そして、なんと、ルトガー・ハウアーも出てたらしい(「ブレード・ランナー」よりも前だ)。当時、ケインのファンだったので(今もですが)、映画館でしっかり見ています。
そのケインの「ケープタウン」は原題は「ケープタウン」ではなかったのだが、今回の「ケープタウン」も原題は「ズールー」。フォレスト・ウィテカー演じる黒人警部がズールー族出身なのだ。
「ズールー」といえば、マイケル・ケイン主演の「ズール戦争」の原題じゃなかったっけ。
日本ではやはり、南アが舞台の映画は「ケープタウン」というタイトルにした方がわかりやすいのだろう。
で、このフランス映画「ケープタウン」は、監督脚本などの主要スタッフ(フランス人)と主演の2人以外のスタッフ、キャストはすべて南アの人々とのこと。言葉も英語、アフリカーンス語、黒人の言葉で、フランス語は当然なし。というわけで、フランス的要素のない映画なのだけれど、もしもこの映画をハリウッドで作ったら、派手なアクションが中心の深みのない映画になってしまったのではないかと思う。
物語は元ラグビー選手の娘が殺害され、黒人警部とその同僚の2人の白人刑事が捜査するうちに、恐ろしい陰謀が浮かびあがってくるというもの。プレスシートには専門家の詳しい解説がついているが、南アのアパルトヘイトの時代が背後にある。
ウィテカー演じる黒人警部は少年時代、白人の暴力で深い傷を負わされている。しかし、ネルソン・マンデラが大統領になったとき、アパルトヘイト時代に迫害や殺人を犯した人でも、その罪を告白すれば許すという、許しと和解の政策を貫いたのを支持し、過去を許して未来へ進むという考え方をしている。
しかし、罪を告白して許され、その後、出世したり金持ちになったりしている人を許せないと思う人もいる。1人は同僚刑事の妻。そしてもう1人はブルーム演じる別の同僚刑事。
ブルーム演じる白人刑事は、死んだ父親の墓石に名前を刻むのを拒み続けている。その理由は映画の中盤に明かされるが、彼はアパルトヘイト時代に差別派だった父親を嫌い、父の姓を捨てて母の姓を名乗っているのだ。墓石に名前を刻まないのは、父を許していないからなのだ。
この映画はフォレスト・ウィテカーとオーランド・ブルームを起用したのがよかったと思うのだが、黒人警部役のウィテカーのもの静かな演技と存在感がすばらしい。そして、オーランド・ブルームがこれまでのイメージをかなぐり捨てて、無頼派の刑事を演じているのには驚いた。母親を大事にし、人間としても高潔な印象のウィテカーの刑事に対し、ブルームの刑事は妻と離婚、息子には疎まれ、いいかげんな暮らしをしている問題の多い人物。この対比が面白いのだが、このいいかげんだがタフな刑事を、端正な二枚目のイメージのブルームがひげを伸ばし、まるで別人のようなイメージで演じていて、これがまたみごとにはまっている。
事件は最初は被害者が麻薬の売人と性交渉したあと、トラブルで殺されただけの事件と思われたが、その売人の売る麻薬が特殊な化学薬品であること、ホームレスの子供たちが行方不明になっていて、その麻薬をやっていた子供がいたことなどから、単なる麻薬のトラブルではないということがわかる。捜査が進むにつれて、その麻薬がアパルトヘイト時代に開発された化学物質であることがわかってくる。
この映画では事件解決までに主要人物が何人も死ぬのだが、その死の悲しみが切実に描かれている。映画の中では人がよく死ぬが、死の悲しみが切実に描かれているとは限らない。特に刑事ものの映画だと、死はルーティンのように軽く描かれてしまう場合がよくある。
この映画が死の悲しみを切実に描くのは、この悲しみが人を変えるからだ。悲しみのあまり怒りと復讐に走る人、悲しみのあまり人を拒否してしまう人、そして、死の悲しみを経て憎んでいた人を許す人。原作がよいのだろうが、こんなふうに死の悲しみを切実に描き、それを許しへとつなげる映画は、ハリウッドのアクション映画ではない、フランス映画だからできた、という感じがする。
クライマックスの砂漠のシーン、そして、建物から外に出たブルームの全身を映すラストショットは美しい。原作を読みたいけど、翻訳は出ないのだろうか。
あと、この映画、カンヌ映画祭のクロージング作品だったそうだけど、アメリカではまだ公開の予定もないみたいなのだ。とにかく、日本では公開決定で喜ばしい。無頼派刑事のブルームは絶対お見逃しなく!

2014年7月2日水曜日

雑感

火曜日は久々に試写に行ってきた。
障害を持つ車椅子の息子とともにアイアンマンレースに参加する父親の物語「グレートデイズ!」というフランス映画。主演がカミュの遺作の映画化「最初の人間」に主演したジャック・ガンブランだったので、見に行った。
映画はさわやかな小品という感じで、「最強のふたり」とか、フランス映画は最近この手の感動ものが多い。ガンブランはやはり味があった。息子役も生き生きとしてよい。


神戸理研の小保方氏はSTAP細胞検証実験の初日、体調が悪いと言って欠席したらしい。なんか、小保方氏と同じくAO入試で早稲田に入った広末涼子みたいになるんじゃないでしょうね? 広末涼子はマスコミが張っているのでなかなか登校できず、結局、ほとんど出席しないまま退学した。その後女優として活躍しているので、この過去はあまり思い出されずにすんでいるが、ひところは早大横入りと言われてさんざん騒がれた。
そもそも、小保方氏はSTAPのアイデアが神戸理研に気に入られ、ユニットリーダーの公募に応募するようにと言われたのに、締切までに書類を出さなかったという。彼女のアイデア(というか、ハーバード附属病院のヴァカンティのアイデア)をどうしてもほしかった神戸理研が、英語のプレゼンなど普通は行う審査をやめて、簡単な日本語の面接だけにすると約束したので、面接当日に書類を出し(その書類がまたコピペ)、その日の内に採用が決まったという、完全出来レースだったのだが、彼女が書類を出さなかったのは、審査されるとバレると思ったからじゃないかと思う。ある意味、出さないのは彼女の「良心」だったかもしれないんだけどね。
だから、検証実験も、彼女がバレると思ったら逃げ腰になるだろう。マスコミが怖いなら、理研に泊まり込んでやればいいんだし。理研にホテル並みの部屋を1室作ればいいんだわ(壁はピンクと黄色で)。
この検証実験については、下村文科相が意味不明な日本語を言っています。「不正を起こさないと検証されることが必要」とか。わからん。下村大臣にはもう1ミリも期待しないが、こんなコメント記事にして、記者はデスクから怒られないのか? なんだこのイミフなコメントは?と言われないのか? 記者はこんなコメントもらったら、それはどういう意味ですか?って聞かないのか? 記者がバカだからイミフなコメントにして記事にしたと思われないかと不安にならないのだろうか(私だったら、公の場所に文章書くときにはこういうことが一番気になります)。
(追記 あ、大臣のイミフさを強調するためにあえてやったのでしょうか。)


集団的自衛権で一番気になること。
1 自衛隊に入る人が激減する。
2 その結果、徴兵制が始まる。
3 徴兵制をやらない場合、お金のない人や就職で不運な人が自衛隊に入る。
4 現在、若者は正規雇用に就ける人がどんどん減っている。高卒は仕事が少なくなり、大卒でも就職率が低下、そして院卒の増加による非正規雇用者の増加。若者がえり好みしているというよりは、民間も公務員も教師も非正規雇用の割合がどんどん増えていて、正規雇用になるのがどこでもむずかしくなっている。
(自衛隊もポスドク上がりとかほしくはないと思うが、小保方採用みたいなのが幅を利かせている分野なので、って、これはまた別の問題。つか、ポスドクは役に立たないだろう。)
5 アメリカでは貧しい人を軍隊がリクルートする。高卒で軍隊に入り、除隊したら貯めたお金で大学へ、と思う人が軍隊に入る。湾岸戦争以前はそれでよかった。しかし…


STAP問題で正論を言っている人が他の問題についてどう言っているかが最近、妙に気になる。他の問題だとおかしなことを言う人(少なくない)を見ると、人はそれぞれとはいえ、考えてしまう。一方、他の問題でもきちんと考えている人を見ると、この人をフォローし続けたいと思う。

2014年7月1日火曜日

なんでこうなるの?

月曜日、新聞をいくつか見てきましたが、新宿の焼身自殺未遂事件は社会面の下の方にちょこっとしか出ていませんでした。海外との違いにはやはり驚きますが、ドイツのメディアではNHKが報道しないことに厳しい意見が出ているらしい。
なんにしろ、海外には日本にこういう政治問題があるということが伝わったので、それは悪くないことかと。
あと、焼身自殺未遂はともかく、集団的自衛権の問題自体があまりというか、ほとんど扱われてないのにびっくり。
そして、こんな政治家まで出現。
http://news.livedoor.com/article/detail/8992412/
北海道議会議員、小野寺まさる
「集団的自衛権に反対して焼身自殺と?…これは公衆の場での迷惑極まりない行為であり、明らかに犯罪だ。又、死にきれずに多大な方々に迷惑をかけた愚行だが、これを「三島事件」と同列に扱うマスコミは完全にイカれている。日本の将来を憂いた国士と日本解体を目論む団塊の世代崩れは真逆の存在である。 」


確かに犯罪といえば犯罪ですが、三島由紀夫の自衛隊殴り込み切腹事件も立派な犯罪です(確か、自衛隊の人にけがさせているはず)。
「三島事件と同列に扱う」って、もともとマスコミは報道しないんだから同列じゃありません。
海外のメディアで三島由紀夫の切腹を紹介したのも、別に今回の事件と重ねたのではなくて、日本は焼身自殺が少ない、古くからある自殺として切腹があり、三島由紀夫が切腹した、と書いているだけ(もちろん、海外の記事なんか読まないで書いているのでしょう)。
「日本の将来を憂いた国士と日本解体を目論む団塊の世代崩れは真逆の存在である。 」どっひゃあ、この人、三島由紀夫を英雄扱いなんだわ。自分の思想に合う人は憂国の士で、合わない人は日本解体を目論む非国民なわけですね。
NHKに任命された委員かなにかで、三島由紀夫の切腹を美化した埼玉大学名誉教授の女性がいたけど、その人の仲間なのか。そういえば、NHKの会長や委員に任命された変な人たちもずっと居座っている。
セクハラ野次じゃないから問題にならないのか、この人は。北海道にもこういう人がいるのね。どこの選挙区だろう(セクハラ野次議員はすぐに選挙区が調べられた)。
「死にきれずに多大な方々に迷惑をかけた」というのも、死んだら迷惑かけなかったみたいで、おかしな日本語。つか、未遂だったからマスコミの扱い小さかったっていうのもありそうだな。WHOの基準うんたら、っていうのは、マスコミに都合のいいときだけ適用してるからただの言い訳。


この道議はこれから炎上するのかどうかわかりませんが(炎上したら文字通り、焼身に)、それより、なんでこうなるの?の極致は、スタップ細胞の小保方氏の全面勝利です。
ネイチャーの論文は撤回が決まったので、スタップ細胞は白紙に戻ったのですが、理研は小保方氏に再現実験ならぬ検証実験をさせることを決定。7月から11月まで、国民の税金を使って、国民の税金で高い給料もらって、またスタップ細胞を作ってみるのだそうです。
理研にしてみれば、小保方氏が処分されなければ、理研の上の方の人たちも処分されずにすむわけで、そのうち国民も忘れてうやむやに、というのがねらいとしか思えない。早稲田大学の捏造博士論文も、結局撤回にならない可能性も。
そして、理研の公式サイトには、小保方氏の「がんばりまーす」のコメントが。なんだか、プロスポーツのサイトで、チームに復帰する名選手が「がんばります」とサイトにコメントし、まわりも拍手で迎えるみたいなのを連想してしまいました。
改革委員会の提言はすべて無視、それどころか組織ぐるみの隠蔽や過ちに対して、間違っていなかったと居直り、批判した科学者たちはいつのまにか声をあげなくなり、一部のすでに教授になっている人やアカデミズムの外に出た人だけが声をあげている感じ。単なる論文不正でなく、日本が誇る最大の研究機関が組織をあげて隠蔽し、批判の声も封じられてしまうという、ここは暗黒の中世か、という感じです。
しかし、あのいいかげんな出来レース公募を、優秀な人を選ぶために必要な方法で、たまたまはずれをつかんだ、と言っている人が何人もいたのには怒りを通り越して絶望感しかありませんでした。そして、不正がわかってからの隠蔽が結局ずっと続いていて、ついに小保方氏と理研が手を携えて勝利宣言というふうにしか見えない。悪が勝ってめでたしめでたしがこれほどはっきりした出来事はほかに見た記憶がありません。
なんでこうなるの? 私は外野だけど、努力した人たちが本当にかわいそう。彼らが報復されないことを祈る。


追記 小野寺まさる氏(選挙区は帯広のようだ。帯広って打とうとしたら、オボ宏と打っちまったよ)は2年前にもツイッターで騒動を起こして、ネトウヨ認定されてました。

2014年6月30日月曜日

フランシーヌの場合

新宿駅南口の歩道で、集団的自衛権に反対する男性が焼身自殺をはかったというニュースが日曜にあった。
このニュース、なぜか日本ではできるだけ報道しないようにしている姿勢がうかがわれ、一方、海外のメディアは大きく取り上げているという奇妙な感じになっている。
日本では、「ばかげている」といった論調が主流のようで、集団的自衛権に反対ということを隠していたり、さらにNHKは報道さえしなかったとか。
一方、海外のはAP通信とロイターを見たが、淡々と事実を報じていて、日本のマスコミもただ事実を淡々と報道するだけでいいのに、何かコメントしないといけない、自分たちの立場を明らかにしないといけない(政権に都合の悪いことをしそうに見えたくない)みたいな感じがあるようで、かえって気持ちが悪い。
とはいっても、テレビは見れないので、ネットの情報で判断しているだけなのだが、ふと思い出したのは「フランシーヌの場合」という歌。ここに詳しい説明が。
http://www.k5.dion.ne.jp/~noho-hon/Travel/Africa01/Data/Francine/francine.html
なつかしい。私が若い頃に大ヒットした歌で、当時、日本でもベトナム反戦運動が盛んだったので、共感した人が多かった。
ただ、このサイトによれば、フランシーヌという女性はフランスではまったく忘れられているということで、日本だけの現象だったようだ。海外的には、南ベトナムで仏教弾圧に抗議して焼身自殺した僧侶や、チベットでやはり仏教弾圧に抗議して焼身自殺する僧侶がかなりいるということで、焼身自殺=政治的抗議と受け取られているそうで、海外では新宿の焼身自殺も政治的抗議としてとらえ、集団的自衛権や自衛隊の現在のあり方、日本は切腹のような自殺の文化があるが焼身自殺はめったにない、というような日本の自殺の紹介まである。なんにしろ、海外のメディアは淡々と事実と背景だけ中立的に紹介しているのが印象的だった。
新宿の男性は命に別状はないとのニュースもあり、フランシーヌが忘れられたように忘れられる、つまり、抗議としてはあまり効果なく終わるのかもしれない(月曜にデモがあるそうで、こっちの方が本来のやり方)。若い女性がパリで、と、中高年の男性が新宿で、というのでは、受け取り方も違うというか、うーむ。
ただ、「フランシーヌの場合」の歌詞、なかなかに深いものがあります。
あまりにもおばかさん、あまりにも悲しい、とか
本当のことを言ったらお利口になれない、本当のことを言ったらあまりにも悲しい、とか。
「ばかげてる」だけで切ってない、「あまりにも悲しい」と続ける。
そして、「本当のことを言ったらお利口になれない」って、日本のマスコミのことだろうか、と、ふと、思った。
ただ、日曜は夕刊がないので、月曜の朝刊で各紙がどういう扱いをするか、それを見ないと判断できないと思う。明日もまた新聞読みに行こう(仕事先で読めるのだ)。


追記
この事件の海外での報道まとめサイト
http://matome.naver.jp/odai/2140405501468783601

2014年6月26日木曜日

リアルな新聞を見てきた。

図書館へ行って、日経新聞の「幻のSTAP」連載の2と3を読んできた。
朝日新聞の竹市氏インタビューは日付を忘れていたので、読めなかった。
しかし、近所の図書館は新聞雑誌閲覧スペースがものすごく狭い。おまけにスペースの外から中が見えにくいので、新聞の盗難が多いらしい。人も多くて、目当ての新聞を探し出して広げて読むのも大変な感じ。しかし、世の中、新聞を図書館で読む人が多いんだ。
図書館が便利なのは、過去の新聞も探して読めることです。
で、「幻のSTAP」だけど、5月下旬から小保方氏が神戸理研で再現実験に参加したのは、もともとは文教族で早大出身でしかも兵庫県出身の自民党議員が「小保方氏に再現実験に参加させてSTAPはないと証明しないと国民が納得しない」と圧力をかけたらしい。神戸理研は「それでは科学界が納得しない」と抵抗したようだが、文科省の圧力で、ということらしい。文科省は大臣が早大出身で、STAPはあるから小保方氏にぜひ実験を、と言いまくっている人。
議員の方は「実験させてできない方がはっきりするから」と言ってるので、悪くはないのだろう。結局、理研がきちんとした検証をしない方向に行ってしまったのが問題、みたいな書き方で第3回は終わっていた。
日経サイエンス8月号が水曜に発売されて、そこにも重要なことが書いてあるらしい。こちらは買わないとだめだな、つか、こういう雑誌は高くても買う主義です。
あと、ネットの情報ですが、神戸理研は竹市センター長がほんとはもう引退しているはずなのだけれど、次期センター長を決めても何度も理事会に拒否されたのだそうです。その次期センター長というのは笹井氏だろうと、当然思われるのですが、なんで笹井氏では拒否られるのであろうか。この辺はこの世界に疎いので全然わからない。
1つ考えられるのは、笹井氏のやってるES細胞の研究は将来性がないというか、受精卵を使うので倫理的な問題があって、ヒトのES細胞の研究はできない。だから、そういう将来性のない研究をしている笹井氏をセンター長にしたらだめってことであろうか?
そこで笹井氏がESにかわるSTAP細胞をどーんと打ち上げ、ということであの騒動になったのか?
日経の連載の第2回では、竹市氏たちは笹井氏がSTAP論文の共著者になっているのを知って驚いた、と書いているけど、これは笹井氏だけが独断でやったのか? それとも、神戸理研が笹井氏だけに責任を押し付けているのか? この辺すごく疑問。日経の連載はまだ続きます(当分図書館頼りだな)。

2014年6月24日火曜日

ネットの登録会員限定記事

(午後3時に一部書き直しをしました。)
日経の登録会員限定記事を読むために登録したら、毎日大量にダイレクトメールが来るので頭に来て退会した、という話を書いたが、その日経がまたSTAP細胞の記事を連載している。
「幻のSTAP」というタイトルで、昨日が第1回、今日が第2回。昨日の分は非常勤講師先の大学で読んだ。今日の分とこれからの分は図書館でまとめて読むか、と思っていたのだが、今日の分に衝撃の内容が(ツイッターより)。


「(笹井が)論文の共著者や特許の発明者に加わっているとは」。竹市らCDB幹部は驚くしかなかった。(引用終わり)


え? 竹市氏が笹井氏に小保方氏とコラボするように言ったと、以前は報道されてましたよね?
どうなってんのさ?
(追記 新聞見たところ、竹市氏が笹井氏に小保方氏を手伝うよう言ったということは書いてあった。)


そして、同じくネットの会員登録限定記事で、竹市センター長へのインタビューを掲載した朝日新聞が、竹市氏の発言をゆがめていると関係者から猛反発。
もともと朝日は理研のマウス取り違え販売事件でも、悪いのは理研でなく理研に納入した大学ということがわからない記事になっている、と批判されていた。しかも、登録していない人が読むと理研がまた不祥事としか見えない。
そして今度の竹市氏へのインタビューだが、記事を書いた記者、大岩ゆりという人は以前に問題があった記者だったということで、またやったかと思われたようだ。
なんでも、竹市氏はSTAPはないと思っているのに、存在を信じているというような書き方になっているのだそうだ。しかも、チェックができない最終稿で変えられた、と関係者は言っている。
でも、その後の話だと、関係者というか、竹市氏の擁護者が文句を言っているというか、STAPの有無を確かめるために検証実験をする、というのだったら、STAPはないと言ってないと思われてもしかたないのでは、という気がしてきた。
ないとは思っているけど、検証実験については有無は不明という態度をとらないといけないというあたりが原因なんだろうな。
一方、日経の「幻のSTAP」第1回には、小保方氏以外に理研内部でSTAPを信じている人はいないと書いている。
この問題については毎日新聞がよくて、朝日と産経はだめ、日経もサイエンスはいいが新聞はあまりよくないと言われている。特に産経関西は小保方氏の御用新聞になっている。
そんなわけで、日経が今になって、竹市氏は何も知らなかった、というのを出してくるのは、ある方向に持っていくためなのか?と疑ってしまう。竹市氏の関与はもともと少なかったとしも、その後の理研の対応という点で責任があるはずなのだが。
なんにしろ、ネットの会員限定記事というのは、中身と違う見出しで売るのに似ているので、マスコミへの不信感が高まってしまう。朝日の方も図書館で読んでこよう(図書館って、何種類も新聞があるので便利)。


追記 朝日新聞の記事について竹市氏の周辺の人たちが竹市氏の発言を捻じ曲げたとして抗議した件、その後、関連のフェイスブックは削除されたか何かで見られなくなっていた。
この件、多くの人はガン無視なので、竹市氏の周辺の人々からの抗議の方がおかしかったのかもしれない。

2014年6月21日土曜日

メモとして

例の、小保方氏採用は出来レースじゃない、と言い訳している神戸理研の林氏のフェイスブック。
https://www.facebook.com/shigeo.hayashi.14/posts/751355204911484?comment_id=751529374894067
ここに山形方人という研究者の方がきびしいことを書いています。
山形氏は最初は林氏の意見の一部に賛同し、それから「もっと見る」のあとできびしい批判をしているのですが、その「もっと見る」のあとのところをメモとして残します。


山形氏のコメント
「また、私は、イノベーションを重視する科学者の立場からは、抜擢やスカウトは日本でもっと盛んに実施するべきだと思います。ところが、現状は、誰かを騙すといった不誠実な手法が使われていることです。一般論として、やはり出来レース、ニセ公募といった「不誠実」「騙し」行為に依存した日本の研究者リクルートのやり方は、不健全であり、もっと健全で建設的なやり方を目指すべきだと私は思います。そのためにも、こういう人事の問題点は、CDBの上層部の保身といった言い訳に終始するのではなく、卒直に過ちを認めることが、日本の生命科学分野の発展に大きく貢献すると思います。

例えば、2012年10月中旬に開始したという問題の公募ですが、ここでその内容を見ることができます。https://web.archive.org/・・・/en/06_jobs/0601_search01.html

CDBのかつての公募では、分野を特定せずに、募集することが多かったと思いますが、この公募については、2つの分野を特に強調しています。一般的には、あるPIが転出すれば、転出したPIと近い分野の新しいPIをリクルートするのは、リーズナブルなことであると思います。例えば、この分野は、若山先生、西川先生の後継、あるいは少し前になりますが京大に転出された斎藤先生の関連分野の強化というのはあるとは理解されます。この英文を作製したのは、具体的に誰なのでしょうか?最終的には、人事委員会の同意で出したということになるのですが、ある特定の先生が作製されたのではないでしょうか?


Developmental Biology and Stem Cell Biology
Several positions are open for outstanding scientists engaged in the investigation of fundamental mechanisms of development, regeneration and stem cells, and their application to regenerative medicine. Scientists at early to middle stages of their careers will be considered. The most important evaluation criteria in this recruitment are the novelty and creativity of the research plan; those seeking to undertake new research challenges are welcomed, irrespective of their scientific background or stage of career development. The size of the laboratory space and budget will be determined based on the proposed research program and the applicant’s record of achievement.

この文章を注意深く見ますと、問題の人物を含むように、書かれているように思います。例えば、earlyというキャリアを敢えて指摘していること(もう一方のsystems biologyの方にはありません)。"undertake new research challenges", "irrespective of their scienctific bakground or stge of carrier development"という表現にも、O氏のことを念頭に入れるとすんなりと理解できる部分があります。この文章の原稿を書かれたのは、どの先生か。文章を交換した電子メールなどを、header付きで公開していただき、これを書いたのが、西川伸一先生ではないということを証明していただけますか。

また、AC提言の方ですが、世の中では、そこに様々な憶測が広がっている。(例、http://blog.livedoor.jp/pyridoxal・・・/archives/2014-05.html ) それを考えると、2012年にセンター長が留任したという事実を「証拠」とともに公開していただくと、世間も納得することと思います
6月16日 16:49 」(引用終わり)
注 西川氏というのは、小保方氏の採用に積極的だった人。


そして、その下に、若手研究者の方のコメントが。こちらもメモとして。


「小田 賢幸  横から失礼します。若手研究者として発言しますが、私としては完全に公平な公募なんて建前であって、実際は内々で既決しているなんて百も承知です。今回のケースも、起こした被害に相応する責任を採用者が取れば良いと思っています。それよりも驚きなのがBWHのあの研究室のアイデアを、CDBの第一線にいる研究者が鵜呑みにしたという点です。大胆な仮説にリスクは付き物ですが、あの研究室だけは異質です。STAPの原案となったspore-like cell仮説はあの教授が長年主張してきたものであり、その怪しさは彼らの論文を読めば明々白々です。にも関わらず報告書からは、あの研究室とCDB上層部にポジティブなパイプが存在するという事実が読み取れ、愕然としました。彼女の人間性を判断できなくとも、仮説の背景を科学的に検証することは出来たはずです。
6月18日 18:33 」(引用終わり)


こちらは、2ちゃんねるでさかんに言われている、STAP騒動はハーヴァードのヴァカンティ教授の陰謀だ、というのにつながるものですね。もともとSTAPの原案はヴァカンティ教授で、ところがヴァカンティは耳ネズミで有名なイカサマ科学者としてとみに有名らしく、世界からは相手にされてないのに、なぜか理研は乗っかってしまい、まず、若山研究室にヴァカンティの部下の小島氏と小保方氏が潜入、そして、STAPのアイデアと(そしておそらく小保方氏の女子力)に目がくらんだシニアたちがそのあとどんどんねつ造の道を突っ走っていったという。そしてその背後には、セルシードという関連会社の株で儲けようとしている人々が(実際、一時的に株が急騰したので、インサイダー取引で儲けた人がいるに違いないという話)。
ああいう怪しげな教授たちと連携したのがそもそもの間違いのようなのですが、結局、詐欺師の仲間になってしまったらどこまでも詐欺師で行くしかないのか?
間違いに気づいてからはひたすら良心的な科学者として行動した若山氏ですが、最初に小島氏と小保方氏を招き入れ、信用してしまった過ちはやはり忘れてはいけないでしょう。STAPの捏造が指摘されたあとも、若山氏はしばらくは小保方氏を熱心に擁護していましたが、そのくらい催眠術にかかったようになってしまうのかと思うと。


あ、あと、神戸理研はサッカー見ているくらいのんびりしている、それだから危機感がない、とか書かれてました。こんな非常時にワールドカップを見てるのか? やっぱり首相がバックにいるから絶対安全、と思っているのね(だから首相交代しかないって)。
パワハラがあって病んでしまう人がいるくらい緊張感がある方が間違いが少ないし優秀、とも書かれていましたが、そういうのってあるかもしれないと思う。今はどうだか知らないが、かつては東大の法学部は教室にノートを忘れると絶対見つからないと言われていて、それはみんな官僚をめざしていて、ライバルのノートがあったらそれを隠してしまうことでライバルを蹴落とせるからだと。でも、そのくらいの緊張感、危機感がないと、国を動かす優秀な官僚は生まれないのかも。今はどうだか知りませんが、東大の法学部は受験者少なくて、1次試験で足切りしなかったのだよね。官僚も政治家も危機感なくてのんびりオリンピックやワールドカップ見てるやつらが増えてそう。