2014年2月26日水曜日

ステレオ出した、高いヘッドフォン買った。

段ボールからやっとステレオを出した。これがけっこう大変。
うちのステレオはケンウッドのCDプレーヤーとアンプの一体型。それにスピーカーがつく。買ってからだいぶたつが、買ったときは本体が20万、スピーカーが10万くらいしたので、それなりのよいもの。
何が大変かって、まずは置き場を作らなければいけない。あれを動かしたりこれを動かしたりしながら、奥の方に積もっていた埃を掃除しなければいけない。ステレオを出すというよりは掃除をしているみたいな感じ。うちは収納がまったくないので、引っ越しの段ボール箱をそのまま積んでいる状態。実はCDもまだ大部分は箱の中。で、やっと掃除もすんで、本体を置いて、コードレスヘッドフォンのトランスミッターをつなげ、CDを聞いてみる。スピーカーは置き場が確保できてないので、また後ほどってことで。
うーん、さすが20万円の本体、同じヘッドフォンでもDVDプレーヤーよりずっとよい音が出ている。
しかし、聞いているうちに思った。これは役不足というものではないか。五輪のメダリストがしかたなくアマチュアレベルの選手とペアを組んでいるみたいな。この本体に見合うヘッドフォンをつけてあげなければ。
で、もう迷わずさっさと買ってきました、これ。
http://www.yodobashi.com/audio-technica-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%82%AB-ATH-W1000X-%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%B3/pd/100000001001162394/
なんか箱がやたら豪華。
今、聞いています。
うーん、これ聞いちゃうと、せっかく買ったコードレスをあまり使わなくなってしまうかな。まあ、TPOで。
さて、あとはスピーカーをぜひ出したいのだが、場所が。

2014年2月25日火曜日

コードレスヘッドフォンを買う。

先週はソニーの小型ラジオを買ったが、今週はソニーのコードレスヘッドフォンを買った。
これです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC-MDR-IF245RK-SONY-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0/dp/B00931SHKC/ref=cm_rdp_product
昔はソニーのオーディオ製品が好きで、よく買いましたが、ソニー・タイマーと言われるほどよく壊れた。でも昔のソニーのオーディオ製品はやはり音質がよかったです。が、その後ソニーは凋落。昔の栄光はいずこへという感じに。
それでもヘッドフォンはずっとソニーでした。というか、2つしか買ってなかったけど、最初のはオープンエアの軽いもので、でもクラシックを聴くには十分いいもの。値段も2万5千円くらいはしたと思う。そのあと今度は3万円くらいの密閉型のを買い、これを長いこと使っていたら耳当ての部分がぼろぼろに。交換すればよかったのだが、ガムテープを貼って使用を続け、そろそろ新しいのを買おうと決意、3年前の引っ越しのときに捨てた。
そのとき目をつけたのがオーディオテクニカの5万円くらいのヘッドフォン。この頃にはもうソニーは信頼なくなっていて、店で聞き比べたらやはり10万円近いものがダントツにいいけど、いくらなんでも10万は出せない。せいぜい5万だね、と思っていたらそのくらいので気に入ったのがあった。が、高い家賃のマンションに引っ越したので金に余裕がなく、ステレオはまだ段ボールの中だし、というわけで時がたち、その間にヘッドフォンは5万円から43800円に下がっていた。そろそろ買いなんだよね。4月には消費税上がるし。
んなわけで、来月あたり思い切って買おうとは思うのだが、その前に、今、低周波音対策でポータブルDVDプレーヤーでCDをかけ、1000円の折りたためる小さなヘッドフォンで音楽を聴いている。聞き流すだけならこれで十分だけど、コードレスのヘッドフォンがあると聞きながらいろいろできて便利だなと思い、ヨドバシアキバへ行った(この手の買い物はほとんどここ)。
コードレスヘッドフォンは今はテレビ用またはブルートゥース用になっていて、ゼンハイザーの数万円する高いものから下はこのソニーの製品が5980円(ヨドバシで)。赤外線だから安いのか? 高いのはオーディオテクニカのコードありのを買うので、とにかく装着感がいいのを選ぶと、このソニーが一番でした。この値段ではもちろん音は期待できないが、とにかくお試しで、と思って買った。
買って正解でした。
音は1000円のより重低音が少しいいかなというくらいですが、ありがたいのは、オーディオ機器側がミニプラグでも標準プラグでも使えること。標準プラグの場合は音声出力から音を取ります。つまり、段ボール箱に入っているステレオが使えるのだ(これはミニプラグは使えない)。よし、明日はステレオを出すぞ。
アマゾンにはホワイトノイズがうるさいという評がありますが、音を出す方の音量を大きくしてヘッドフォン側をできるだけ小さくする、と取説に書いてあります。マニュアル読まない私がめずらしく読んでいる。また、プラズマテレビはだめみたいです(うちはテレビないから関係ないけど)。
聞こえ方については、トランスミッターの後ろ側に行っても聞こえる。狭いワンルームなので、2メートルかそこらしか離れないからなのだろうけど。
ちなみに、オーディオテクニカの高いのも装着感が非常によいので第一候補になりました。ヘッドフォンは音も大事ですが、装着感も同じくらいだいじです。

2014年2月21日金曜日

気になるニュース

都内でアンネ・フランクに関する本が250冊以上破られていた。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/02/20/annne_n_4820721.html?ref=topbar
しばらく前から図書館で借りた本を返すとき、必ず中をチェックされていた。確かにひどい扱いをする人が多いらしいのだが、これは図書館内で破られたらしい。
ネオナチが東京でも暗躍しているのか?

2014年2月20日木曜日

ジェットストリーム

ラジオの番組表をネットで調べていたら、FM東京の「ジェットストリーム」がまだやっていることを知り、深夜0時から聞いてみた。じっくり聞こうと思ってヘッドフォンを使ったが、さすがに安いラジオでは音質はかなり悪い。そのあとネットにアップされていた城達也のナレーションの「ジェットストリーム」をいくつか聞いたが、パソコンの方が断然音はいい。
さて、この城達也の「ジェットストリーム」。なつかしい、と思う人は相当な年です。
今は大沢たかおがナレーションをしていて、出だしのナレーションは城達也のときと同じでした。


きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜のしじまのなんと饒舌なことでしょうか。


という有名なフレーズ。詳しくはこちらで。番組の最後のナレーションと、城達也が番組を去るときの最後のナレーションも採録されています。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/nyanko/jetstream_narration1.htm


お送りしておりますこの音楽も、美しく、あなたの夢に溶け込んでいきますように。


というフレーズを聞いて、私は午前1時に寝ていたのだった。


「ジェットストリーム」は1967年から始まったそうだけど、70年頃にはもう聞いていたと思う。城達也はその前からグレゴリー・ペックの吹き替えで知っていた。
70年代というのは若者がテレビを見ないでラジオを聞いていた時代で、下宿の大学生はテレビ持ってない人が多かったし、受験生は深夜放送を聞いて勉強していた。野沢那智の深夜放送が人気だった。そんな中で、JALがスポンサーの「ジェットストリーム」はイージーリスニングの合間に海外の話題をナレーションで入れて、それがCMとして番組に溶け込んでいた。
youtubeで探せばいくらでも出てくるけれど、さっき、85年2月の放送の大部分を録音したのを聞いた。冒頭の部分が欠けているが、あとは最後まである。途中で雑音が入ったりして、なかなかにリアル。たぶん、ステレオのラジオとカセットデッキで録音したのだろう。85年だともうCDは出ていたけれど、放送された音楽の多くはアナログレコードだったのでは?
私は80年代後半からはクラシックのCDを夜中にヘッドフォンで聞くようになったので、「ジェットストリーム」はその頃から聞かなくなった気がする。95年2月に城達也が亡くなったというニュースを聞いたのは覚えている。
今の「ジェットストリーム」は途中でCMが入るし、音楽もイージーリスニングだけではなくなっていて、だいぶイメージが違ったが、それでも最初のナレーションが同じだったのはなつかしかった。「ミスター・ロンリー」は違う演奏になっていたね。

2014年2月19日水曜日

ラジオを買う。

ラジオを買いました。写真の投稿ができないのでヨドバシカメラのサイトを。
http://www.yodobashi.com/%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC-SONY-SRF-18-P-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA-%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF/pd/100000001001430254/
黒と白とピンクがあって、店頭には白とピンクが並んでぶら下がっていましたが、よく見ると、ピンクは1つしかなく、その奥には黒がずらり。この1つしかないピンクに惚れたので買いました。
サイトの写真のピンクと白を比べてみると、表側の模様が違うのがわかりますが、白と黒は同じ模様で、ピンクだけが違います。このピンクの模様も気に入りました。
ラジオを買ったのは、ちゃんとしたステレオだと夜はヘッドフォンになってしまうので、小さい音で部屋に音楽を流したいと思ったからです。CDラジカセという手もありましたが、家にあるCDはクラシックが多いのでやはりちゃんとしたステレオで聞きたい。だったらラジオだけの方が小さくて安くていいや、というわけでラジオ売場へ(CDラジカセも一応見ましたけどね)。私はラジオは自動選局はいやで、手動で合わせる方が好きなので、手動で合わせるものに絞ったら、もう選ぶ余地はあまりなかったです。とにかく、このピンクに惚れた。しかも1つしか置いてなかったからね。
FMの局を全部合わせてみましたが、感度はいいです。クラシックの局(NHKか?)だけはこのラジオでは不十分と感じましたが、ジャズ系の曲を流しておくのにはなかなかよいです。
一応、ちゃんとしたステレオにもラジオはあるのですが、買ったあとにラジオ局の周波数が全部変わってしまって、もともと入っていた自動選局では聞くことができなくなってしまいました。手動と違って回せば合うというようにはならないので面倒(方法はあると思うのだが、マニュアル読まない人なので)。


先週の雪でいまだに孤立している地域があちこちにあるようですが、都心でも昨日今日はスーパーにパンがまったくなかったです。牛乳とか納豆とかも少ない。流通に影響が出ている模様。幸い、今週の雪予報は変更になって、明日の関東は曇り予報なので、これ以上雪が増える恐れだけは回避できそうです。

2014年2月16日日曜日

大雪

今日、夕暮れ時に某墓地に立ち寄ったら、葉のついた枝がたくさん落ちていたのでびっくりした。
桜はまだ枝だけなので無事だったが、常緑樹の枝がけっこう大きいのがぼっきりと何本も折れていて、木の下の方がやけにスリムになっていたりした。
この前の雪のときは木の枝は折れてなかったので、今回の雪の方が重かったのだろう。
山梨県はじめさまざまな場所が大雪で孤立しているそうで、大地震や台風なみの災害。山梨県は積雪50センチ以上なんてなかったのに1メートル以上の雪が積もった。豪雪仕様の建物ではないだろうから本当に心配。早く除雪して道路や線路が復旧してほしい。
関東は今週水曜と木曜がまた雪予報。孤立しているところは早くなんとかしないと次が来てしまう。

2014年2月15日土曜日

また大雪

今回は都心は積雪10センチくらいとか言われていましたが、今回も25センチ以上だったようですね。しかも溶けるのが前回より遅い感じ。おまけに来週半ばにもまた雪かも。


またまたしつこく偽ベートーベン事件なのですが、その後、偽者本人が3年前から耳は聞こえていたとかいう謝罪文を出したようです。そしてマスコミも彼の生まれ育った故郷の人々に取材して、「ピアノを習っていたなんて聞いたこともない」、「妻の親が電話すると彼が電話に出て普通に話していた」とか、実は周辺の人はみんな知っていたんですね。でも、マスコミに垂れこむとかそういうことをする人がいなかっただけ、あるいは、そういう話してもマスコミが無視していたか。
今回の件で不思議だなと思ったのは、この種の人物を紹介するときは幼馴染や家族や他の知り合いに取材し、場合によっては一部の人をを登場させて証言させるものだと思うのに、そういうことはいっさいしないでドキュメンタリーを作っていたらしいということです。被ばく二世とか耳が聞こえないとかいうのなら、そういう背景の苦労を知る人の証言を取るものじゃないのか、と。くだんのドキュメンタリーは以前はネット上で見られたようですが、今は削除されているので見られませんが、いったいどういう内容だったのだろうと思います(誰か言葉で採録してドキュメンタリーとしての問題点を指摘してくれないものか)。
明日ママといい、この件といい、テレビの現場がおかしくなっている証拠だと思います。しかも、明日ママのときはさかんに日テレを批判していた元日テレ社員の大学教授が、偽ベートーベンの件ではテレビを弁護、自分が同じ立場だったらやはりだまされたとか、途中で気がついてもやめられないとか(明日ママを批判する資格なしの倫理観)、今度の件で現場が委縮したら困るとか(明日ママでも現場が委縮したら困るとほかの人が言うと反論してたくせに)。そんなわけで、今回、とっても残念な人になったのがこの大学教授でありました。
一方、すばらしいと思ったのは、真の作曲者が会見するきっかけになった義手の少女ヴァイオリニストの家族です。きっかけは、実は、偽ベートーベンが少女の家族に「テレビに出してやったのだから感謝しろ」とかいろいろ要求をするようになっていて、それで親が「テレビに出してくれと頼んだ覚えはない」ときっぱり(エライ!)。それを聞いた作曲者がこのままではいけないと真実暴露を決意したのだそうです。「テレビに出て有名になることが娘のためにはならない」とわかっていた、そういうことに浮かれなかった家族がいてよかったと思いました。
偽ベートーベンというか、本物の作曲家がこの少女のために作った曲で踊る高橋選手が出場したソチ五輪男子フィギュアでは、羽生選手が金メダル。羽生選手があこがれたプルシェンコ選手が出場前に棄権、そのプルシェンコ選手の羽生選手へのコメントがすばらしいと話題になっています。

2014年2月13日木曜日

コンテンツとコンテキスト

例の偽ベートーベン事件で、今の時代はコンテンツよりもコンテキストが重視される、みたいな意見を散見しましたが、これって何も今の時代だけじゃないよね、と思って考えてみたら、コンテンツ(中身)よりコンテキスト(文脈というか背景)が重視されるというか、コンテキストで人気が出るみたいなのが流行ったのは実は19世紀じゃないかということに思い当たりました。
かのベートーベンもそうだし、シューベルトとか、ショパンとか、シューマンとかリストとかチャイコフスキーとかもう数え上げたらきりがない、あの19世紀ロマン派の作曲家たち。耳の聞こえないベートーベン、早死にしたシューベルト、精神の病に侵されたシューマンなどなど、みんなコンテキストでもってる作曲家ばかりやんけ。
いや、もちろん、曲自体=コンテンツがすばらしいからそれと作曲家の背景があいまって、ということなんだろうけど、18世紀までの作曲家はコンテキストなんてほとんど問題にされてないと思う。
それは美術や文学も同じで、シェイクスピアなんていったいどんな人だったのかよくわからない。が、19世紀になると、貧乏だったディケンズとか、社会正義に燃えたユーゴーやゾラとか、まあいろいろ。画家もゴッホとか、その苦労の人生=コンテキストで死んでから大人気じゃないのかね?
そして20世紀に入ると、そういうコンテキストに対する反動が文学の世界では起こる。それがニュークリティシズムというやつで、作品そのもの=コンテンツだけを見て背景=コンテキストは見るな、という運動。でも、実際は、自殺したヴァージニア・ウルフ、奥さんといろいろあったスコット・フィッツジェラルド、というふうに、コンテキストは駆逐されなかったのだ(一部にはコンテキストがあまりコンテンツに反映してない作家もいるが)。
んなわけで、私も文学の授業とかすると、作者や当時の社会のコンテキストを紹介しながら作品を紹介している。作品そのものだけを教えるのは自分自身、あまり面白くないし、過去の名作に関してはやはりコンテキストは重要だ。
というわけで、19世紀以降、人間はコンテキストの呪いを背負っているわけだが、コンテキストが注目されるようになったのはメディアの発達が大きいだろう。シェイクスピアの時代では記録が少なく、コンテキストが知られたり残ったりする余地があまりなかったのだ。おかげで私たちは、シェイクスピアという人物を考えずに彼の劇を楽しむ自由がある。


さてさて、先週の雪がまだ残っているというのにまた雪かよ、という天気予報ですが、久々に映画についての文章を書く依頼が来たので、部屋にこもってじっくり文章を書くことにしましょうか。
プロとして原稿を書くようになってこの2月で30年ですが、その間には紆余曲折があり、原稿依頼がまったく来ない時期も何度かありました。そんなわけで、去年あたりから開店休業状態でもあまりあせってはいないのですが、以前と比べて違うな、と思うのは、映画評のような世界でもコンテンツよりコンテキストが重要になっているな、ということ。昔は編集者はこういう内容の映画評がほしいと思って依頼してくれた、少なくともそういう編集者が何人もいて、だから無名でもなんとかなったと思うのですが、しばらく前から編集者は「こういう内容の映画評」ではなく、「こういう肩書の人」をほしがるようになったというか、そういう人ばかりになっているのかな?という気がしているのです。もちろん、無名の人もどんどん出てきていて、単に昔は若かったからコンテンツで依頼してもらえたけど、年をとるとコンテキストがないとねえ、ということなのかもしれないのですが。
コンテキストがわからなくてもコンテンツで読まれる、というのはむしろブログですね。こちらはこちらで、有名ブロガーのようなコンテキストで読まれるものもたくさんあるのですが、それでも、コンテンツだけで多くの読者をひきつけるケースは多数あると思います。

2014年2月12日水曜日

写真の投稿ができない。

いつのまにかうちのパソコンのIEが11にアップグレードしていたのだけど、このブログがまだ対応していないので、写真を投稿することができない。せっかく雪景色や雪の中の猫の写真を2日がかりで撮ってきたというのに。でも、ダウングレードしても、いずれこのブログも11に対応するから、もうしばらく待ってみようと思う。


風邪とぎっくり腰から1か月、ようやくプールに泳ぎに行ってきた。
正直、ぎっくり腰の大きな原因が平泳ぎばかりやっていたからだと思うと、泳ぐのはちょっと怖かった。また、平泳ぎなら長時間泳いでいられるが、クロールとバックだけだと疲れてしまうのも心配だった。
で、とりあえず、団体のコース貸切がないと思われる祝日(平日はめいっぱい貸切が入っていたりする)に行ってみたら、案の定、すいていて、クロールとバックを交代に、そしてときどき力を抜いた平泳ぎも入れて泳いできた。バックはすいていないと人にぶつかるのでできない。まあ、人にぶつかってもかまわず下手なバックをやっている人が時々いるのだが。プールで泳いでいると、バックとバタフライをやたらとやりたがる人はだいたい下手。つか、この2つしかできない?
あと、私がよく行くプールは、去年あたりから水泳指導の2人組が何組もいて、これが邪魔というかなんというか。一応、営利目的の水泳指導は禁止となっているので、ボランティアなのかなと思うのだが、見ていると確かに金とれるレベルじゃねーだろ、その指導者、て感じの人ばかり。指導される人はもう全然泳げないかそれに近いレベルなんだけど、しょっちゅう見かけるのに全然泳げるようになってないからやっぱり金とれるレベルじゃない=営利目的じゃない、ということになるのかな。でも、団体の貸切で狭くなってる上、さらにこういう人たちが何組もいるとほんとに狭くなる。別のプールは一般コースでの水泳指導は禁止になっているのだが、どうなんでしょうね、こういうの。親が子供に教えてる、くらいな感じならいいと思うんだけど(でも、親が下手すぎて見てられない親子も)。
私自身は辰巳国際水泳場とか、うまい人がたくさんいるところで、そのうまい人を見てまねして覚えたようなところがあるので、やはりうまい人を見るのが大事だと思うのですがね(私自身はうまいか下手かといえば、まあ、下手よりは多少上かなというレベルにすぎないです)。

2014年2月9日日曜日

W3事件

土曜日は東京は積雪25センチ、夕方からは吹雪になってますが、部屋に籠城しながらネットでいろいろ調べていたら、手塚治虫のW3事件が出てきて、またいろいろ考えてしまいました。
W3事件というのは、手塚治虫が「少年マガジン」に連載していた「W3」を6回でやめて「少年サンデー」に移してしまい、その理由が、手塚のアイデアを盗んだ「宇宙少年ソラン」の連載がマガジンで始まるからだった、というものです。
実は私はこの事件、リアルタイムで知っていました。マガジンのW3もサンデーのW3もリアルタイムで読んでいます。そして、その原因が「宇宙少年ソラン」にあることも当時から知っていました。
当時私は小学校5年生。そんな子供がなんで大人の事情を知っていたかというと、「鉄腕アトムクラブ」というファンクラブに入っていたからです。これは虫プロのファンクラブで、入会すると毎月「鉄腕アトムクラブ」という雑誌が送られてきます。私は発足当初から入ったのではなかったので、全部の雑誌を持ってはいませんでしたが、欠けていたのは最初の数冊くらいでした。このファンクラブはテレビのアトムの終了と同時になくなりましたが、雑誌はだいじにとっていて、死ぬまで持っているつもりだったけれど、数年前に引っ越ししたとき、古い漫画本や映画のパンフレットを大量に処分し、そのときにこの「鉄腕アトムクラブ」も古書店に売ってしまいました。ええ、いいお金になりましたよ。ただ、ところどころ、切り取ってしまった箇所があったので、それがなければもっと高くできたのに、と古書店のお兄さんに言われました。
W3事件の大人の事情を知ったのは、この「鉄腕アトムクラブ」の手塚治虫のエッセイからです。検索したところ、1965年9月号だったそうで、のちにマガジンのW3が文庫で発売されたときに再録されたそうです。
当時の私はこの手塚治虫のエッセイでしか事件の概要を知らず(というか、手塚以外の人は沈黙していたと思う)、当然、手塚ファンなので、彼の言葉を100パーセント信じていました。だから、私は「宇宙少年ソラン」は、まわりの女の子たちに人気があったのに、決して見ようとはしなかったのです。今でもソランとかチャッピーとか聞くと、ムカっとしてしまうのは三つ子の魂百までもか?


W3事件については、このサイトにまとめが出ています。下の方ですが。
http://www.geocities.jp/mandanatsusin/nihon042fr.htm
ここにある参考文献を見ると、リアルタイムで書かれたのは「鉄腕アトムクラブ」の手塚のエッセイだけです。あとはみな、事件から20年以上たって書かれている。手塚のエッセイはもちろん、手塚の側の都合で書いているので、公平ではないですが、他の人も20年以上たってから思い出しているので、記憶違いなどもありうるのでは、という気がします(もちろん、他の人もその人なりのバイアスがかかっているはず)。
私が知っていたのは、まず、手塚の旧作「ナンバー7」をアニメ化することになったが、別の会社がよく似た設定の「レインボー作戦」というアニメを企画していることがわかり、企画を中止。このときの「レインボー作戦」がのちの「レインボー戦隊ロビン」と言われています。
手塚は次に、同じタイトルで007のような秘密諜報部員が主人公の話を提案。そのとき、主人公・星光一の肩に超能力を持つリスが載っていて、相棒になるというアイデアを出します。これが「宇宙少年ソラン」に盗まれるわけです(関係者の誰かがぽろっともらしてしまったのは事実らしい)。
手塚の頃の日本のテレビアニメ界というのは、のちのスピルバーグの映画界みたいなもので、スピルバーグがアイデアを盗まれないように必死になっていたように、手塚も常に盗まれるリスクを背負っていたわけですが、スピルバーグの頃と違ってまだ守秘義務を徹底させるとかいうのが手薄だった時代なのでしょう。
とにかく「ソラン」にリスを盗まれた手塚は「ナンバー7」の企画を中止。かわりに星光一の設定はそのままに、弟の真一と宇宙人3人組が活躍する「W3」を企画、アニメ化の前に漫画の連載をマガジンで始めたら、今度は憎い仇の「ソラン」がマガジンで連載するとわかったので、「W3」を引き上げて、新たにサンデーで連載を始めた、というのが、小学校5年生だった私の知った顛末。
上のリンク先の人は講談社に同情的で、手塚が大人げないとか書いていますが、小学校5年生の私は企画が2度もだめにされることのつらさに100パーセント共感していました(今も共感しています)。常に新しいアイデアを出し続けるクリエイターがそのアイデアを盗まれて別の作品を作られてしまうことの悔しさ、こういうのはわかる人とわからない人がいるのでしょうか。
もっとも、その後、映画をたくさん見るようになった私は、「ナンバー7」の7人1組の主役は「七人の侍」という前例があること、主人公の肩に載るリスはジェームズ・スチュアート主演「ハーヴェイ」がヒントでは?と思うようになりましたが、それでもこのリスはやっぱり絶対盗まれたくないものだったっていうのはわかるんですよ。
虫プロは毎年カレンダーを出していて、市販はされてなかったかもしれませんが、1965年のカレンダーの1枚がこの、秘密諜報部員・星光一とその肩に載るリスでした。絵柄を今でも覚えています。幻の「ナンバー7」です。
上のリンク先の時系列を見ると、手塚は65年1月の初めにはマガジンに「ソラン」が載るのを知っていたみたいですが、それならなぜ、このときに連載をしないと言わなかったのか、そこがちょっと疑問。このときマガジンを降りていれば事件にはならなかった。マガジン側が、「ソラン」を載せないと約束したとか、そういうことはなかったのか? それが連載を始めたら載るとわかったので、手塚が怒ってしまったのでは?と思わなくもないのですが。
私は手塚サイドというか、ほとんど手塚漫画に洗脳されてますから、手塚が「W3」を「ソラン」と同じ雑誌に載せたくないというのは当然だと思うのですよ。上のリンクの人が、この時期に無茶を言っていると書いてますけど、「ソラン」は載らないと思ったから連載を始めたとしか思えないのですが。そうでなければ、手塚がマガジンにいやがらせするために連載を始めて、途中でやめたということになってしまいます。マガジンとサンデーでは主人公・真一の絵柄ががらっと変わり、宇宙人3人の名前も変わっているので、アニメ放映が迫っているこんな短い期間に変えられるのか、という疑問も残りますが。あと、私自身はマガジンのW3はあまり好きじゃなくて(もともとサンデー派でした)、サンデーに移ってからの方が好みでした。
「W3」も、銀河連盟が地球は野蛮だから滅ぼすかどうか決めようというのは50年代初めのSF映画「地球の静止する日」がヒントだろうということは、のちに知ることになります。


「W3」は漫画は長編作品ですが、アニメは1回完結で、内容は毎回、真一とW3が走るタイヤに乗って世界のあちこちへ行って事件を解決するというようなものでした。各話の内容が出ているサイトがありましたが、覚えている話は非常に少なかったです。むしろ、放送から半年たったら「ウルトラQ」が裏番組になり、「W3」は完敗して、曜日を変更せざるをえなかったということが一番記憶に残っています。「ソラン」も「ウルトラQ」もTBSなんだよね。
一方、漫画の「W3」は今でもよく覚えています。連載で読み、そのあと、当時は単行本ではなくB5サイズのムック本みたいな形でまとまって出ていたのを読んでいましたが、中学に入ると漫画をあまり読まなくなったので、それ以後は読んでいないはずなのに、よく覚えています。
「W3」は次の3つのモチーフがからみあって出来ていた作品です。
1 地球を滅ぼすかどうかを探る使命を帯びてやってきたW3の物語。
2 正義感が強く、不正を見ると怒りのあまり暴力をふるってしまい、それゆえに不良とみなされている少年・真一の成長。
3 秘密諜報部員・光一の悪の組織との戦い。
この中で最も魅力的だったのは2の物語です。
実は私は、今もそうなんですが、わりとカッとなりやすい性格で、真一に似ているのです。だから、正義感が強いのに暴力をふるってしまい、誤解される真一を自分の分身のように感じていました。その真一が馬場先生の教えも受けて、しだいに成長していく姿に感動したものです。
「W3」の連載を終えた手塚は、同じサンデーで「バンパイヤ」の連載を始めます。「バンパイヤ」は何かのきっかけで(人によってそれは違う)狼に変身してしまう人々の物語で、主人公トッペイは真一と同じく正義感が強く、不正を見ると怒りを感じ、怒りを感じると狼に変身して人を殺したり傷つけたりしてしまうのです。人間の姿に戻るとトッペイは激しく後悔するのですが、どうにもなりません。そこにつけこんでくるのが悪の化身ロック、というふうに話は展開していきます。
この頃から私は手塚を、そして漫画を卒業してしまうのですが、「バンパイヤ」は面白いけれど、小学校6年生の私には受け入れがたい部分も多かったです。同じような設定でも真一なら共感し、一緒に成長できる、でも、トッペイでは共感することはできませんでした。
この頃から手塚は低迷期に入っていくのですが、不正への怒りが暴力になってしまうという主人公の設定は、リスを盗まれた手塚の心境から来ているものがあるのでは?と、大人になった今は思います(あくまで推測)。
長い間読んでいない「W3」ですが、雑誌連載からB5版のムック本になったとき、カットされたシーンがありました。それは悪人が真一のガールフレンドのカノコを痛めつけるシーンで、かなり残酷なシーンだったのでカットしたのかもしれませんが、その後の単行本でもたぶんカットされているでしょうね。雑誌からムック本になったときに変わったところがあった、というのも、もう一度読むのをためらっている理由です。

2014年2月8日土曜日

「ワンチャンス」追記

「ワンチャンス」は例の偽ベートーベン事件のせいで、率直に見られない映画になってしまうのではないかという危惧を抱いている。
でも、ポール・ポッツが優勝した「ブリテンズ・ゴット・タレント」の映像を見て、また、同じこの番組から出たスーザン・ボイルという女性歌手の映像を見て、彼らの出方は日本のスター誕生とは相当に違うと思った。
以下、この2人の「ブリテンズ・ゴット・タレント」での歌唱シーン。
ポール・ポッツ
http://www.youtube.com/watch?v=1k08yxu57NA
スーザン・ボイル
http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0
見てすぐにわかるのは、ポッツは平凡な若めのおっさん、ボイルは平凡なというかくたびれた感じのおばさん。その平凡な、見かけからいうと全然ぱっとしない人が歌い始めると、すばらしい美声が出てくるのだ。
西洋のおとぎ話には確かにこういうのがある。見かけはもう全然ひどいのに、すばらしいものを持っている。カエルの王子様とかみにくいアヒルの子とかかな。
ここにある驚きは、その才能が本物でなければ成立しない。
これが日本だったら、まず見かけで判断されてそれでNG。
むしろ見かけで売ろうと考える。
そして見かけと同じく武器になるのが、今まで苦労してきましたというストーリー。
ポッツやボイルみたいなごく普通の人ではなく、普通の人にはないような悲惨なストーリー。
実際は、フジコ・ヘミングは若い頃にヨーロッパに留学した、クラシックの王道を行っていた人。
目の見えない演奏家は国際コンクールで上位に入った実力者。
全然普通の人じゃないが、普通の人にない苦労をマスコミは売り物にする(当の音楽家にとっては才能そのものを見てもらえないからかえって迷惑かも)。
そして、今回の偽ベートーベンは張り子の虎だった。
でも実際は、この偽ベートーベン以外はみな、本物を持っている人で、この偽物騒動とは本当は切り離すべきなんだが、テレビの持ち上げ方が結果的にこういう偽物騒動になったということで、本物を持つ人までが変な目で見られる。それがいやだなと思う。
余談だが、映画「ワンチャンス」ではボッツ本人が吹き替えをして歌っているけれど、実際の映像の「誰も寝てはならぬ」のポッツの歌の方が映画のクライマックスの吹き替えの歌よりもよかった。あれは一期一会の歌だったのだろう。

ワンチャンス(ネタバレ大あり)

携帯販売員からオペラ歌手(追記参照)になったイギリス人ポール・ポッツの実話を映画化した「ワンチャンス」を見た。先月、披露試写会があって、そこで見たかったのだが、風邪と腰痛で断念していたのだ。
行ってみたら、試写室は全然混んでなくて、あれ?って感じ。
確かにこの映画を見ていると、日本人は苦労した人が成功するのをお涙頂戴で描くのが好きだけど、イギリス人は違う、というのがわかる。例の偽ベートーベンみたいなのは日本ならではだ。だいたい、ベートーベンが苦労して苦しみながら作曲をした、なんてことが異様に受けてるのは日本だけだそうで、実際のベートーベンは女性にもてたし、財テクしてたし、耳だってまったく聞こえなかったわけではないらしい。むしろ、日常会話は聞き取れないが、ピアノやオーケストラの大きな音は聞こえるという聴覚障害があって、ベートーベンはそれだったのではないかという説もある(これは実際にそういう障害を持っていた人が書いた本を読んで知ったのだが、これが受けないのは、やはりベートーベンは耳が聞こえない苦しみの中ですばらしい曲を作ったという物語を否定したくないからだろう。ちなみに、この障害は現在では手術で治療できるのだとのこと)。
話がそれたが、この映画では、ポッツは携帯販売員から一夜にしてオペラ歌手になったわけではない。ウェールズの労働者階級に生まれた彼は、幼い頃から歌の才能があり、教会の聖歌隊で活躍。家も労働者階級とはいえ、貧しくない。地元のタレントコンテストの賞金でヴェニスの音楽学校に留学もしている。そこでパヴァロッティの前で歌うというチャンスを得るが、シャイな性格が災いして失敗。パヴァロッティから「きみはオペラ歌手にはなれない」と宣告されてしまう。
その後も故郷のオペラ公演で主役に抜擢されたりと、才能は常に認められていたが、次々と襲う不幸が。まずはオペラ公演の直前に虫垂炎になり、次は甲状腺に腫瘍が見つかり、そのあとは交通事故と、不幸のてんこ盛り。日本だったらさぞやここでお涙頂戴になるだろうと思うのだが、この映画ではこの不幸のてんこ盛りがコミカルに描かれてしまうのだ。
不幸が続いたとはいえ、ポッツは歌の才能と丈夫な体を失うことはなく、家族や友人にも恵まれ、そしてついにイギリスの大きな新人発掘のコンテストに、となる。
実話をもとにしているとはいえ、いろいろ脚色されているに違いないから、ポッツがパヴァロッティから「オペラ歌手にはなれない」と宣告されたことがずっと尾を引いているという設定はフィクションかもしれない。でも、そういうことがトラウマになって、というのは自分も経験があるので、よくわかる。
なんにしても、成功は日々の努力の積み重ね。1つ1つステップを踏んで上がっていくのだということがきちんと描かれた作品だ。
ポッツが優勝したコンテストでは、審査員が下手な素人をくそみそにけなす。欧米ではこのタイプのコンテストがよくあるようだけれど、そういう批評に耐えられない人はプロになるなということだ。ポッツの場合もパヴァロッティの批評に耐えられないうちはだめだということで、こういう視点は日本にはあまりないなと思う。
パヴァロッティといえば、8年前のトリノ五輪開会式でプッチーニの「誰も寝てはならぬ」を歌い、荒川静香がその曲で優勝したのだった。ポッツがオペラ歌手になったのはその翌年で、やはり「誰も寝てはならぬ」が歌われる。ソチ五輪開催を思いながら、それを思い出した。


追記
ポール・ポッツは日本で公演もしたことがあって、けっこう有名だったのですね(ほんと、今のクラシックの人にはまったくうとい自分)。調べてみると、やはり映画はかなり脚色されていて、パヴァロッティとのエピソードはやはり創作なのかな? それに、映画だと、大人になっても親と同居して携帯の販売店でバイトしているみたいに描かれているけれど、実際は大学の人文系の学部を出て就職もしていたらしい。腫瘍がみつかったのも甲状腺ではなかったようで、でも、虫垂炎、腫瘍、交通事故の連続は本当のよう。また、オペラに出演するオペラ歌手ではなく、どちらかというとポピュラーなクラシックの声楽家という感じなのだろう。ああいう感じで有名になったので、実力はないのでは、と疑う人もいたようだが、もともとの声が非常にいいのは確かで、ただ音大で訓練を受けていないので、本職のオペラ歌手のような仕事は無理ということらしい。
ポッツはその後、前ほど売れなくなって契約を切られたりしたようだが、クラシックもけっこうきびしくて、私の好きなあるヴァイオリニストは一時メジャーと契約してたけど売れないので切られ、でも、マイナーなところでCDを出し続けていた。最近は新譜も目にしないので、引退したのかもしれない。

2014年2月7日金曜日

ゴーストライターその後

例の「現代のベートーベン」のゴーストライター、新垣隆氏の記者会見全文です。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/02/05/ghost-writer_n_4734967.html?utm_hp_ref=mostpopular
なかなか興味深い会見で、いろいろなことを考えたのですが、江川紹子氏の記事が興味深かったので、リンクを貼ります。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140206-00032407/
江川氏らしく、麻原彰晃と比べているのですが、佐村河内守氏が聴覚障害ではないと新垣氏が明言していることがわかったあと、目が見えているのに見えないふりをした麻原と比べたコメントがすぐにネット上に出ていました。佐村河内氏を麻原と比べるのはちょっとひどすぎるかもしれませんが、確かに彼はカリスマがあったのでしょう。新垣氏は前衛的な作曲をする人だけれど、佐村河内氏のもとでは一般受けする曲が書けた、という指摘は、私も会見を読んで感じたことでした。ある意味、佐村河内氏が新垣氏の新たな才能を引き出したのは確かでしょう。だから、新垣氏の作品と言い切ることもできないわけです。
今回の件、聴覚障害のふりをしなければ、佐村河内守は実は2人のユニットなんだよ、と暴露しても別にどうってことなかったのですが、聴覚障害で現代のベートーベンに祭り上げられなかったら彼らはまったく成功しなかったかもしれず、この嘘がすべての根源にあるのは否定できそうにない。そして、この嘘こそが致命傷を与えるものでもあったということ。
ではその嘘を見抜けず、いや、見抜きたくなかったとしか思えないマスコミとかはどうなのか。
NHKがドキュメンタリーで放送すれば、多くの人はそれは事実だと思ってしまうという罠。
それにしても、この事件もまた、震災後の絆だかなんだかの過程の中で増幅されてきた面があるのだなと思うとなんとも。震災後の歯車のくるった日本を表す事件の1つなのかもしれない。萌芽は90年代からあったとしてもだ(つか、2人が組んだ96年って、阪神大震災とオウム真理教事件の翌年)。

2014年2月6日木曜日

ゴーストライター

といってもロマン・ポランスキーの映画のことではありません。
現代のベートーベンといわれた、聴覚障害のある被ばく二世の作曲家が、実は18年前から音大非常勤講師に作曲してもらっていたのだというニュース。今日発売の週刊文春に長い記事が載ってるらしい。で、そのゴーストライターがこれから記者会見?
私はクラシックは古いの専門で、現代のものには興味がなかったし、この人も例によってNHKが取り上げたから有名になった人らしく、テレビがない私は全然知りませんでした。そんな人いたのか、くらい。
それにしてもこの問題、例の「朝ママ」事件と共通点が多いな。


社会的弱者をセンセーショナルに扱って金儲けしようとするが、そこには大きな嘘があって、それが現実の社会にいる弱者たちを大いに傷つける可能性があるということ。
どちらも、越えてはいけない一線を越えてしまったということ。


「朝ママ」はグループホームという養護施設自体が一般にはあまりよく知られてないのに、ろくに調査もせずに妄想でドラマを仕立てたらしい(いろいろな意見を読むと、そうとしか思えない)。これがチャールズ・ディケンズの時代、19世紀半ばの孤児院が舞台だったら、別にいいんですが。あるいは、今は存在しないとみんながわかっているような昔風の孤児院とかなら。でも、それだとセンセーショナルにならないので、新しげなものに飛びついて儲けようとするのがテレビ。が、今回は越えてはいけない一線を越えたので、スポンサーは逃げ出すわ、視聴率は上がらないわ、で、日テレ白旗?かどうかはまだわかりませんが、とりあえず、抗議した団体には謝罪したらしい。


作曲家ゴーストライター事件も、まだ詳細はわかりませんが、やはり越えてはいけない一線を越えたな、と思います。ゴーストライターなんて有名人は使っている人多い、と擁護する意見がありましたが、彼らは有名になるまでは自分の才能でやっているので、有名になってから、忙しいからとかいろいろな理由でゴーストライターを使う場合がある、ということです。しかし、くだんの人物は無名のころからゴーストライターを使っていた。そして、一番よくないのは、聴覚障害や被ばく二世を売りにしたことです。聴覚障害のある作曲家というから売れたので、音大の非常勤講師じゃ誰も演奏してくれません。
アイザック・アシモフの自伝に、こんなエピソードがありました。アシモフがある音楽の先生と知り合い、話をしていたら、その先生が交響曲を作曲したというので、それはどうやったら聞けるのですか、ときいたら、先生は、交響曲をオーケストラに演奏してもらうには大変なお金がかかるので、演奏はできないのです、と答えたのだそうです。アシモフはそれをきいて、「自分は小説でよかった。小説なら出版されなくても原稿を読むことができるから」と思ったと書いていました。
つまり、アメリカでも、クラシックの曲、特に交響曲のような大作を作曲しても、演奏してもらうのは非常に困難なのです。ゴーストライターが名前を出さなくても自分の交響曲が演奏してもらえると思ったら、その誘惑に負けるのはわかります。
スターとしてもてはやされている人の作品が実は別人の作だった、というのはフィクションの世界にはいくつもあって、私が今思い出すのは、手塚治虫の「ブラック・ジャック」のエピソード。ある若い男性漫画家の描いた漫画が大変な人気を得て、彼はあちこちで引っ張りだこなのですが、実は作者は彼の恋人の女性。彼女は重い腎臓病で入院し、つらい透析に耐えながらすばらしい漫画を描いているのですが、病気なので表に出られないので彼に代役をつとめてもらっていたのでした。
青年は実は血液型などが恋人と一致していて、2つある腎臓の1つを移植できる立場にいますが、彼はそれをためらっています。そこに登場したブラック・ジャックに、「おまえは彼女のことなんかどうでもいいんだ、有名な今の自分を維持していたいだけなんだ」と言われ、彼女に腎臓を移植し、作者についての真相を公表する決意をする、という話です。
この手の話はフィクションの世界にはいくつもあるのですが、今回のは明らかにフィクションを超えている、フィクションではできない話です。フィクションの世界では、障害のある人の作品が実は別人だった、なんていうのは越えてはいけない一線を越えたことになってしまうでしょう。上に書いた話のように、偽物は弱者であってはならないのがフィクションの掟であると思います(例外はあるかもしれないけど)。ゴーストライター事件の作曲家については、経歴や障害についても疑問が出ていますが、それ以上に、まわりが知っていたのでは?特にNHKは?というあたりが一番問題な気がしますね。本人とゴーストライターだけが仕組んで儲けたとはとても思えませんから。
NHKは会長や経営委員の問題もあって、本当はそっちの方が大きな問題なのだろうけど。


ゴーストライター事件に関連して、もう1つ思い出したこと。
20世紀半ばに、ディヌ・リパッティというショパンの名演奏家がいたのですが、彼は夭逝のピアニストでなおかつイケメンということで、大変人気がありました(今もあると思うが)。
あるとき、長年、名演奏として知られ、レコードの売り上げもよかった録音が、実はまったく別の女性ピアニストの演奏だったことがわかったのです。これはもちろん、レコード会社が間違えていたので、発売元のミスです。
そこで、新たに本物のリパッティの演奏が発売され、それまで大人気だった別人の演奏はその人の名前で発売したのですが、それまで大人気だった別人の演奏はまったく売れなかったそうです。
要するに、クラシックなんてその程度のイメージで聞く人が多く、だからイメージでアーティストを売ることがしょっちゅう行われているということです。今回の件も、そういう環境ゆえに起こったことであるのは事実。

2014年2月4日火曜日

訃報と遺作

フィリップ・シーモア・ホフマンが薬物で死亡したというニュースを見て、驚いているというか、たまたま昨日、20年ほど前に薬物で急逝したリヴァー・フェニックスの遺作「ダークブラッド」を見てきたところだったので、ハリウッドの暗部をまた見てしまったような気分。
「ダークブラッド」は完成前にリヴァーが急死してしまったため、撮影中止になっていた作品で、監督のジョルジュ・スルイツアーがフィルムを保管していたが、その監督が病に倒れ、もう長く生きられないかもしれないと思い、完成させることにしたのだそうだ。
かつて核実験が行われていたアメリカ南西部の砂漠で、車がエンコしたハリウッドの俳優夫婦が先住民の血を引く青年の家にたどり着く。妻に強くひきつけられた青年は夫婦を帰そうとはせず、3人の間に葛藤が生まれる。リヴァー・フェニックスは髪を黒く染め、金髪の美少年とはまったくイメージの違う精悍な、それでいて繊細で謎めいた魅力の若者を演じている。夫婦の役はジョナサン・プライスとジュディ・デイヴィス。
映画はリヴァーとデイヴィスのからみのシーンを後回しにしていたため、結果的にこの肝心のシーンがいくつも未撮影のまま終わってしまった。監督はそのシーンについてはナレーションで補っているが、やはり大事なシーンがいくつもないというのは痛い。それでも、ラストの重要なシークエンスは撮影されていて、ここが見ごたえがあるので、映画としての筋は通っている。また、昨年亡くなったカレン・ブラックがカメオ出演している。