2014年9月19日金曜日

残るということ

「猿の惑星 新世紀」今日から公開なのだけど、なんか、アメリカでも日本でも相当評判よさそうだけど、そんなにいい映画なのかな?という疑問が。
久々に、解説という形で参加した文庫本ノベライズが大きな書店には積んであって、執筆過程ではいろいろあったけれど、やはり自分の参加した本が書店にあるのはうれしいことだ。もっとも、中規模書店では1冊も入らないところも多いようで、ノベライズはほんとに売れなくなっているみたい。アマゾンでも全然だめじゃん。「創世記」と「新世紀」の間にあたる小説「ファイヤーストーム」の方が売れてそう(これは映画化されていない)。
「新世紀」の方はねえ、ノベライズ読んだ限りだと、そんなにいい映画になるとは思えなかったのだよ、正直なところ。わりとよくある話で、「創世記」のような斬新さが感じられなかった。
映画も試写の日程とか全然知らされなかったので、見に行くチャンスもなかった。
8月に、ついにシニア料金で映画が見られるようになったので、いつでも安く見られるんだけどね。
このシニア料金て、証明書必要なのかな、と思って、健康保険証を持っていったのだけど、全然チェックされなかった。見かけでわかるのだろうか。わかるんだろうな、自分では若いつもりでも、若い人から見たら。


というわけで、人間は必ず死ぬ、誰でも刻一刻と墓場へ近づいているわけだが、さっき、変なツイートを見てしまった。
理系の若い研究者かその志願者か何かみたいなのだが、死んだあとも自分を残したかったら論文を書け、とかツイートしていた。博士論文を書け、とも。確かに博士論文は国会図書館に保存されるらしい。
でもねえ、かれこれ20年も前に私が作ったコミケ用の同人誌というか個人誌は全部、国会図書館に寄贈して、保存されている。こういうふうにして残りたいなら、わりと簡単にできる。
国会図書館は寄贈されたら受け取る、というところで、大手出版社の本でも寄贈しないとだめ。最近は寄贈しない出版社も多いらしい。熱心に寄贈するのはむしろ、自費出版の会社。「国会図書館に寄贈します」がうたい文句だから。でも、コミケの同人誌でも送れば保存してくれるので、そういう出版社で大枚はたく必要はない。
くだんのツイート者は、子供は別の人間だから自分を残したことにならない、とか、墓もいずれは消える、とかツイートしているが、日本がつぶれたら本なんか残らんだろ、と突っ込みたい。
東京に大地震で、国会図書館が破壊され、火事で全部消失、とか、普通にありうるだろう。博士論文なら、いろいろな人にも配っているから、誰かが持っていてくれるかもしれないが、その人が死んだとき、子供はきっとそれをごみとして捨てるだろう。
私のかかわった本も、解説を書いた「フランケンシュタイン」はすでに8万部近くは刷っていると思うから、そう簡単に全部消滅することはないと思うが、それでも日本沈没したらほとんど全部なくなるだろうし、そうでなくても本がそんなに長い間生き残るものではないのはちょっと考えただけでわかる。シェイクスピアや紫式部はごくごく一部の例外なのだ。
正直、「フランケンシュタイン」の私の解説が30年も残るとは思っていなかったよ、書いたときは。
私の若い頃には、やはり、上のツイート者みたいに、書いたものや翻訳で自分が死んだあとも自分を残したいと真剣に考えている人が身近にいた。それを聞いて当時の私(20代後半)が思ったのは、私は逆に、自分が死んだら自分に関するものは全部一緒に消えてしまった方がすっきりしていいや、ということだった。
その人は、書いたものを残すことで自分が死後も残りたい、と言いながら、自分のよいものしか残したくないと強く思っていた。でも、そんなことは無理なわけで、いいものと同じくらい悪いものが残ってしまうのだ(悪いものの方が多く残ったりして)。残すとはそういうことだ。だから、全部消えた方がすっきりするのに、と思ったし、今もその考えは変わらない。
ただ、残すのもむずかしいが、残さないのもむずかしい、自分の意志では。
というわけで、あっちこっちで書きまくってきたので、恥ずかしいものも含めて、しばらくは残ってしまうであろうなあ。

麻酔科医の映画

STAP細胞のアイデアを自分のラボにいた小保方晴子に吹き込んで理研に送り込み、話題になったハーバード大学付属病院のチャールズ・バカンティ。研究の方では耳マウスとか変なことばかりやっていて、科学界ではまったく信用のない人物だったのに、理研がだまされ、真相発覚後は理研の対応が悪く、おまけに小保方と同じ早大出身の文科大臣がSTAP応援、という具合に迷走に次ぐ迷走となったSTAP問題ですが、こちらはもう世間的にはあきられちゃった感じですね。バカンティがまた最近、STAP細胞は簡単にはできない、特別なこつのある科学者にしか作れない、とか変なこと言ってますが、誰も相手にしてません。
さて、このバカンティは本職は何かというと、麻酔科医なのです。はじめにこの人物の話を聞いたとき、あんなペテン師みたいな科学者がハーバードにいられるのは、麻酔科医として優秀なのだろうか?と思ったのを思い出します(単に研究費を取るのがうまいだけかもしれないけど)。


麻酔科医というのは、麻酔をする手術のときに患者の様子をしっかり観察して患者を守るのが仕事だそうです。その麻酔科医が主役の日本映画「救いたい」を見てきました。


原作は仙台の医療センターの麻酔科医の女性が書いたノンフィクションで、麻酔科医の仕事に対する世間の無知、無理解を憂慮し、麻酔科医の仕事を理解してもらおうと書いたのだそうだ。映画は著者と夫をモデルにした医師夫妻を中心に、架空の人物を加えて、心に傷を抱えた人々のドラマにしている。
主人公は原作者と同じく、仙台の医療センターの麻酔科医。あの東日本大震災から2年半、医院を経営していた夫は震災のときに避難所へ出かけたのがきっかけで、津波で大被害を受けた海辺の町の診療所の医師になっている。当然、夫婦は別居となり、毎週末に妻の麻酔科医が夫のもとへ行く生活。震災から2年半がたち、被災地の人々も活気を取り戻しているが、深い傷も残っている。
一方、仙台の医療センターでも、震災で父を失った若い女性麻酔科医が大きな地震があるとショックを受けて仕事ができなくなったり、一緒に父を探してくれ、今は彼女に思いを寄せている自衛隊員を見ると、死んだ父を思い出してパニックになってしまったりする。
震災後の東北を舞台に、心に傷を負った人々のドラマとしてよくまとまっていて、感動的な映画だった。新婚の夫を震災で失い、夫を思いながら義母と暮らす診療所の看護師のエピソードには「東京物語」を連想させるクライマックスがある。新しい人生に踏み出せない彼女と、悲しみを乗り越えて麻酔科医として再生する若い女性の物語が対照的な構図になっている。
原作の意図であった、麻酔科医への理解を深めるということは、具体的にせりふとして複数回出てくる。ここがちょっとしつこいかな、というか、映画なら言葉でなく映像で見せる方がいいのでは、と思った。
しかし、海辺の町の漁師たちの働く姿を描いたシーンをはじめ、映像的に美しいシーン、光のとらえ方がすばらしいシーンもあって、映像としてよいところもたくさんある。
仙台の医療センターはじめ、医療関係者や自衛隊の協力を得ているが、映画の趣旨に賛同する団体や個人の寄付で製作された映画であることが最後に字幕で出る。いろいろな人の思いがこめられた映画なのだろうと、素直に納得できる作品だ。

2014年9月15日月曜日

Don't Cry Out Loud 歌詞の解説

最近、ドトールへ行くと、なつかしの名曲、メリサ・マンチェスターの「Don't Cry Out Loud」がかかっているのですね。1970年代末の作品で、当時、英文学者になるという夢を追いながらきびしい現実にぶつかり、悩んでいた私にとって、この歌は私を励ましている歌に思えたものでした。
しかし、なぜか、メリサの歌う「Don't Cry Out Loud」(邦題は「哀しみは心に秘めて」だったかな)はアメリカでは大ヒットしたのに、日本ではあまりヒットしなかったのです。そして、そのあと、リタ・クーリッジがメリサとはまったく違う歌い方でカバーし、日本では「あなたしか見えない」という、英語の歌詞とは全然違う邦題がつけられて大ヒット。そして伊東ゆかりが日本語の歌詞で歌い、さらにヒット。そのせいでメリサの歌まで「あなたしか見えない」という邦題にされたとか(怒)。
すばらしい歌唱力で歌い上げるメリサの「Don't Cry Out Loud」に対し、クーリッジの静かな歌い方は私にはインパクトが全然なかったし、その上、日本語バージョンの方はカマトトぶった女の恋心になっちまっていて、ほんと、怒り心頭でありました(クーリッジや伊東ゆかりの方が好きな方、ごめんなさい)。
メリサの歌う「Don't Cry Out Loud」は、夢を追い求めて失敗するという経験を持った女性が、年下の、おそらくは思春期の少女がかつての自分と同じような経験をしているのを見て、彼女に語りかけ、励ます、という内容に思えました。そして、歌い手の私も、きっとまだ夢を追い続けていて、たとえ落ちてもまた挑戦するという強い信念を持っている、比較的若い大人に思えました。メリサの歌唱にはそういう力強さがあるのです。
しかし、クーリッジの静かな歌い方だと、歌い手は娘を諭す母親のような感じです。実際、ベイビーを幼い娘ととっている人が少なくない感じ。
そういうわけで、夢を追いかけて、あと少しで夢に手が届くところだったのに、失敗して落ちてしまい、でも、それにもめげずに生きるという、敗者を励ます歌みたいなところが日本じゃ全然受けなかった理由かな、と思いましたが、好きな人は好きなようで、ブログに自分なりの訳を載せている人もいました。が、これが誤訳が、誤訳が、誤訳が。。。
つか、このキャロル・ベイヤー・セイガーの歌詞がむずかしいんですね。英語の詩としては難度が非常に高いです。サーカスが出てくるけれど、このサーカス自体が比喩である可能性が高い。サーカスで何か別のものを表している可能性が高いのです。それは華やかな愛や夢のある世界だけれど、ショーが終わるとみじめな現実に戻ってしまうような世界。夢を追い求めた人が現実に突き落とされる、そんな状況をサーカスで表現しているようにも感じます。
そんなわけで、いろいろに解釈できる歌詞ですが、一応、私なりの訳と解説をつけてみました。
英語の歌詞はこのサイトからです。
http://www.stlyrics.com/lyrics/intolerablecruelty/dontcryoutloud.htm


2014年9月13日土曜日

意外によかった映画2本(ネタバレあり)

あまり期待していなかったが、意外によかった2本の映画をご紹介。結末に触れないとなぜよかったかを書けないので、ネタバレありです。


試写状を見たときはピンと来なかったが、RottenTomatoesの評価が高いので見に行ったマイケル・ファスベンダー主演「FRANK フランク」。ファスベンダーが大きな被り物のお面をずっとかぶっている映画らしい、としかわからなかったけれど、開けてみたら、これがなかなかに優れた映画だった。
主人公はイングランドのしがない会社員ジョン(ドーナル・グリーソン)。彼は音楽界で成功することを夢見てキーボードで作曲をする日々。ある日、海岸でバンドのキーボード奏者が自殺未遂をはかった現場を目撃し、居合わせたバンド・リーダーからその日の夜の演奏でキーボードを担当してくれるよう頼まれる。
そのバンドは無名なのだけれど、メンバーは奇妙な人ばかり。大きな被り物のお面をかぶったボーカルのフランク(ファスベンダー)、彼を守る女性クララ(マギー・ギレンホール)、やたら突っかかってくるフランス人、そしてリーダーもかなり変。
フランクはお風呂に入るときも食事のときもお面を脱がず、素顔はわからないが、人間としてはなかなか面白く、しかも優れた作曲家であることがわかる。
メンバーはアイルランドの田舎の家でレコーディングをするが、ジョンはフランクのすばらしい曲やバンドの仲間たちを世界に紹介しようとネットで映像を流す。やがてテキサスの音楽祭から声がかかり、ジョンはフランクを売り出す絶好のチャンスだと思うが、仲間たちは有名になることには乗り気ではない。有名になりたいという野心を持つジョンは仲間を説き伏せ、テキサスへ行くが、という物語。
とにかくぶっ飛んでいるエピソードの連続で、時々くすっと笑ってしまうようなシーンもあり、おかしなバンド・メンバーたちの奇妙奇天烈な行動や、顔を見せないフランクの人間味ある行動も面白いのだが、途中、自殺してしまうメンバーもいたり、けんかもあったりと、けっこうダークな部分がある。そして後半、テキサスへ行くと、そのダークな部分が前面に出てくる。ジョンはフランクの才能に感動し、彼を有名にしたいと野心でいっぱいだが、このバンドのメンバーたちはみな、心を病んでいたり傷ついていたりする人たちで、そういう野心とは無縁でいないといけない。野心で人前に出たりすると彼らは壊れてしまうのだ。それがわからないジョンは、結局、メンバーを、そしてフランクを傷つけてしまう。
youtubeの再生回数が数十万回あったからといって、彼らは人気者だったわけではなかったとわかるシーンの残酷さ。お面を失い、どこかに去ってしまったフランクをジョンが探しあてたときに知る、フランクの本当の姿。心を病んだフランクの苦悩がすばらしい曲を生んだと勝手に思うジョンの勘違い。
奇妙奇天烈で、楽しくもおかしいシーンの連続なのに、そこには哀しく残酷な真理が隠れている。丸顔の被り物のお面と、その中にあるファスベンダーの苦悩の表情の対比がまさにそれだ。ジョンのような野心のある平凡な人間には、それはなかなか見えないもので、ジョンのように善意から人を傷つけてしまうことがあるということを痛切に感じた。


「フランク」はアイルランドの監督レニー・アブラハムソンの作品だが、もう1本はノルウェーの監督エーリク・ポッペの映画「おやすみなさいを言いたくて」。
原題はA Thousand Times Good Nightで、邦題と似た意味だけれど、このヤワな邦題がまったく似合わないシリアスな内容だった。
主人公は報道写真家の女性レベッカ(ジュリエット・ビノシュ)。アイルランドの海辺の家には海洋生物学者の夫と2人の娘がいるが、レベッカはコンゴやアフガニスタンなどの紛争地に取材に出かけ、たまにしか帰ってこない。家族はレベッカの身が心配で不安な毎日だが、彼女は紛争の現場を見ると血が騒ぐという、典型的なこの手の報道カメラマン(「サルバドル」のように)。
監督自身が紛争地の報道写真家だったそうで、主人公を女性にすることで仕事と家族の問題を鮮明にしようとしたようだ。
アフガニスタンで自爆テロに向かうタリバンの女性を取材した彼女は、取材に深入りしすぎて爆発に巻き込まれ、負傷。娘ともども不安な日々を送っていた夫はついにキレる。レベッカは夫と娘たちの苦しみを知って、紛争地の取材はやめることを決意。家族はアイルランドで平和な日々をすごす。
レベッカの長女ステフはアフリカの問題を研究する会に入っていた。そんなとき、レベッカのところにケニアの難民キャンプでの取材の依頼が来る。そこは紛争地ではなく、まったく安全だと聞いた長女は自分も取材に行きたいと言いだすが、レベッカは断る。それでも行きたがる長女に、夫も行っていいと言いだし、レベッカとステフはケニアへ行く。ところがキャンプで襲撃事件が勃発。娘を安全な場所に避難させたレベッカは、カメラを持って現場へ行ってしまう。母は自分よりも仕事を取ったと、ステフはショックを受ける。
このあと、レベッカは夫と娘たちから総スカンとなり、家を追い出されてしまうのだが、それまでの経過を見ると彼女だけが悪いとも思えず、ちょっと展開が甘いかな、と思うが、そのあとのクライマックスがすばらしい。
レベッカが取材した自爆テロの女性の写真はアメリカ政府の圧力で没にされていたが、その後、出版が決まり、追加の取材の依頼が来る。一方、ステフも母の仕事の大切さがわかってくる。アフリカ研究会の発表会で、ステフがケニアで撮った写真を紹介しながら、現実を世の中に知らせるには写真を撮り続ける人が必要で、それが母なのだ、難民キャンプの子供たちは母を必要としている、と言う。
映画の中盤、娘に、なぜ写真を撮り続けるのかと聞かれ、レベッカが、怒りからだ、と答えるシーンがある。レベッカは写真を撮ることで少しでも世の中に現実を知らせようと努力してきた。だから写真を没にされると怒るし、世間の人が紛争地での悲惨な現実に目を向けないと怒る。
もしも写真という手段がなかったら、彼女は過激派になったかもしれない。タリバンの自爆テロの女性のように。
冒頭のシーンの自爆テロの女性は子供のいる母だった。テロによって世の中が変わると彼女は信じていて、子供よりも死を選ぶのだ。
レベッカの写真が没になったのは、自爆テロを美化していると思われると困る、というエージェントの判断だった。
レベッカ自身は自爆テロをする女性の気持ちも理解し、しかし、テロで人が傷つくことは承認できず、現場では「爆弾よ」と叫ぶ。
家族か仕事かだけでなく、仕事の中でも彼女は相反する2つのものにはさまれている。
(以下、ネタバレにつき、隠します。)

2014年9月7日日曜日

デング熱その後

金曜日の日付が変わった直後くらいにデング熱で代々木公園閉鎖というニュースを書きましたが、その日の夜には発病者が70人以上になってました。
しかも、代々木公園周辺以外で蚊に刺された人が2人。1人は新宿中央公園、もう1人は神宮外苑か外堀公園で蚊に刺されたとのこと。
うーむ、代々木公園と新宿中央公園なら私の行く場所じゃない、と思っていたら、だんだん、というか、神宮外苑はすでに8月に3回くらい行っています。また、前にちょっと書いたけど、半蔵門で試写を見たあと、北の丸公園を通って神保町まで歩いたのですが、間一髪で外堀公園の近くを通らずにすんだことが判明。もしも半蔵門から九段下を通って神保町へ行ったら、外堀公園の近くをかすっていた。(訂正 外堀公園は九段下の方ではなく、四谷の方にあるようです。勘違いでした。)
神宮外苑は蚊に刺されるようなところは通りませんでしたが、北の丸公園を通ったときは蚊に刺されそうな場所だった。ランナーがたくさん走っていたけど、マラソンやジョギングをする人は蚊が怖いのでは?
そして、「都内に行くから蚊よけスプレーを」なんていうツイートまで見てしまった。
蚊よけスプレーって、汗で落ちてしまうから、一度つけたら安心てことはないよ。
実は私は2、3年くらい前の夏に、いきなり高熱が出て、からだ全体の筋肉が痛くなり、こりゃ夏風邪だと思ってすぐに寝たのですが、なぜか鼻や喉の風邪の症状がまったくない。そして、6時間後くらいになったら、すべての症状が完全になくなって、すっかり元気になってしまったのです。
なんだこりゃ、と思いつつ、忘れていましたが、あれがデング熱の超軽い症状だったのかも。
蚊なら猫スポットでさんざん刺されてるし、コーヒーショップやバーガーショップや電車の中でも刺されるので、そういうことがあってもおかしくはないです。
蚊がいないのは、分煙している店の喫煙室ですね。蚊は煙草の煙に弱いみたいです。
都内は自然を残すということに熱心で、農薬や殺虫剤もあまり使わないようだし、禁煙が徹底しているので(外でも煙草禁止とか)、蚊はけっこういます、都心。
ああ、そういえば、高圧線の鉄塔のすぐそばに引っ越してしまったとき、その周辺に蚊が全然いなかった。蚊も出ないところは人間の住む場所としてはあまりよくないのではないかと思うのですが。
あと、今の人は知らないかもしれないが、私らの子供の頃は日本脳炎というのがあって、これが蚊が媒介するのですが、デング熱なんかよりずっと怖い病気でした。治っても後遺症が恐ろしいのです。それに比べたらデング熱はまあ、風邪の重いやつくらいな感じでしょうかね。

2014年9月6日土曜日

めぐり逢わせのお弁当(ネタバレあり)

インド映画「めぐり逢わせのお弁当」。いい映画、好もしい映画であることは確かなのだが、傑作といえるようなものなのか、という疑問がずっと頭を離れないでいたところ、キネマ旬報最新号で、宇田川幸洋氏の連載「映画とコトバの間にはふかくて暗い河がある?」がこの映画を取り上げていた。
この連載はある映画についての雑誌や新聞の映画評をいくつも紹介していくのが基本だが、インド映画としては「この映画ほど多くの紙誌にとりあげられているものはめずらしい」そうだ。
多くは、歌って踊る従来のインド映画とは違う、静かな映画であるところに感動しているらしい。こんなインド映画もあったのか、と驚いている人が多いのだが、宇田川氏も書いているように、かつての日本はサタジット・レイのような静かで芸術的なインド映画ばかりが公開されていたのは私もよく覚えている。もちろん、「ムトゥ 踊るマハラジャ」のような歌って踊るインド映画の方が本来の主流なのだが、日本でそれが認識されたのは「ムトゥ」以後。しかし、今ではレイは忘れられ、「ムトゥ」がインド映画の基本になっているので、「めぐり逢わせのお弁当」が静かなインド映画として受けたようだ(宣伝もその方向でやっていた)。
宇田川氏のこの映画への評価はかなりきびしい。
「「静か」なだけがとりえではね」
宇田川氏はムンバイの弁当配送システムについて、リアリズムでかためるか、映画的なウソをあざやかにつきとおすかしないといけないが、この映画はどちらもやっていない、と言う。また、欧米で映画を学んだ監督が故郷で映画を作るとき、視点が外国人のものになってしまうという危惧を述べ、この映画の監督リテーシュ・バトラもそうなってしまう可能性があると指摘する。実際、この映画を喜ぶ評者は、宇田川氏によれば「ムンバイでもりそばが食えた、と感激しているような感じ」で、インド映画らしくない、ヨーロッパ・テイストを喜んでいるようだ。
「ここにインド映画の可能性を見るのはいささか、さびしすぎるのではないか」と、宇田川氏は結んでいる。
この記事を読んで、私はこの映画に対する迷いが吹っ切れた。
たしかに「いい映画」であり、好きか嫌いかと聞かれれば好きな映画だ。でも、積極的にほめるような映画ではない。
見ている間は楽しかった。ただそれだけ、の映画だと、実際、試写を見ながら思い続けていたのだ(そういう映画も好きだけど、積極的にほめるような映画ではないということ)。
迷いが生じたのは、クライマックス、お弁当箱の中に入れた手紙のやりとりが縁で、見知らぬ他人であった男女がカフェで会おうということになったとき。
女の方は専業主婦で、夫のために毎日弁当を作っているのだが、夫は不倫しているらしい。昼も愛人と食べるのか、弁当にも関心がなさげだったのが、誤って役所に勤める男性のもとに届き、男性が喜んで食べたのがきっかけで、手紙のやりとりが始まる。会おうと言いだしたのは女の方で、夫と別れる決心がついている。
しかし、男はカフェに来なかった。
いや、行ったのだが、女の姿を見ただけで帰ってしまった。
あとで、彼は女に手紙を書く。洗面所でなつかしいにおいがしたが、それは祖父のにおいだとわかった。自分はもう祖父の年に近づいているのだ。きみは若い。私と一緒になるべきではない。
これよりも前の方で、男が電車の中で席を譲られ、とまどうシーンがある。これが伏線だったのだ。
どうやら、この、老いへのきづきのようなものに、私は惹かれたようだ。それは自分自身がそういう年齢になっているからだろう。
しかし、こうした展開自体がすでに使い古されたものであり、そこに新しい味付けがないのは事実だ。
ちなみに、宇田川氏があげている雑誌や新聞の映画評の著者の名前を見ると、ほとんどが男性で、女性と思われるのは1人だけだ。媒体からしても、映画の主人公の男性と同じく老いを感じる年齢の男性が多いのではないかと思われる。そのあたりに受けると考えるとよくわかるのだが。


この映画で一番面白いのは、主婦の部屋の上に住む声だけのおばちゃんで、このおばちゃんの助言で主婦は料理したり手紙を書いたりする。とても庶民的な雰囲気だ。しかし、この主婦と夫は身なりがよくて、そこそこ裕福な感じもする。
次に面白いのは、役所で働く男がもうすぐ退職するというので、若い人が雇われるが、この若い男がやたらしつこくてうるさいやつだな、と思っていたら、主人公に変化を起こすけっこういいやつだったこと。
おばちゃんの方はイタリア映画には出てきそうだが、若い男の方のパターンはあまり見た記憶がない。一番ユニークなのは彼か?
インドはカースト制度があり、身分の差、貧富の差が激しいのだが、大金持ちの上流階級では女性は家事も育児も使用人任せ。インドでは女性が活躍しているのは女性が結婚しても家事や育児を人任せにできるからだそうで、その家事や育児をする使用人が貧しい女性だ。
日本でも、女性が結婚・出産しても高い能力を生かして仕事ができるように、東南アジアなどの女性を雇って家事育児を任せればいい、というような提案があった。女性を活躍する女性と家事や育児をする女性に分けてしまうわけだが、人を雇うとなるとお金がかかるので、やはり託児所や夫の家事分担の方が現実的であるだろうけど。
日本でも欧米でも、大金持ちで身分の高い女性は家事育児は使用人任せのはず、特に昔はそうだったはずで、「ベルサイユのばら」でもオスカルは乳母に育てられている。ヨーロッパのこういう古い時代の話だと、母親が家事育児をしないというシーンはあると思うが、こういうシーンって、そういえば、あまり見なくなったな、と思う。日本の時代劇でも、武士の妻が家事育児をしているように見える映画が多いが、実際はどうだったのだろうか。
「めぐり逢わせのお弁当」の主婦も、そこそこ裕福だけど家事育児は自分でする専業主婦というところが重要で、インドではそういう層ははたしてどのくらいいるのだろうか、ということも気になった。

2014年9月5日金曜日

代々木公園閉鎖

代々木公園付近で蚊に刺され、デング熱と診断された人がついに59人にもなったそうです。捕獲した蚊からデング熱のウィルスも発見され、ついに代々木公園閉鎖とか。近くには明治神宮やNHK放送センターもあり、明治神宮で蚊に刺された人やNHK職員にも発病した人が。
デング熱は感染しても発病するのは2割とかいう説もあるので、約60人が発病したとなると、感染者は300人以上かもしれません。しかも発病した人はみんな代々木公園かその周辺で蚊に刺されたとなると、いったい何匹の蚊がウィルスを持っていることか。専門家が100匹くらいはいると書いている記事がありましたが、ウィルスを持っている蚊が100匹って、1人の感染者を刺してこの数とはとても思えない。
日本では69年ぶりの流行と言われていますが、海外でデング熱に感染した日本人や外国人が日本に来て発病、というのは毎年200人くらいいるそうで、その余波で日本で感染した人は過去にもいただろうと思います(昨年夏に日本を旅行したドイツ人が帰国してデング熱になったそうだ)。
ただ、その場合、今回のように多数の人が感染ということはなく、1人か2人が熱を出して、夏風邪だろうですんでいたのではないか。今回のように、同じ地域で蚊に刺されてデング熱になった人が60人近く、というのは異常ではないか、という気がします。
で、以下は妄想ですが、デング熱は生物兵器として開発されようとしたことがあるそうです。ただ、実はこの病気、感染しにくい、感染が拡大しにくいので、兵器としては使えないということになったとか。でも、サリンをまいた某団体がいたように、デング熱のウィルスを持った蚊を100匹くらい代々木公園に放った人がいてもおかしくない、と私は思ってしまうのですが。
たぶん、2ちゃんねるレベルではそういう話が出ているのだろうな。見てないけど。
(追記 ぐぐってみたら、デング熱は代々木公園で行う予定の反原発デモつぶしのデマだとかいう話が出てました。うーむ、私はむしろ。頭のおかしな生物学者がテロとか、そういう妄想を考えていたのだけどね。あくまで妄想ですよ。まあ、デマぐらいの陰謀論なら無害かもしれないけど。)


蚊といえば、今年は猫を見に行く某所が蚊が少ないのです。例年、私はこの場所で蚊に刺されまくりで、もちろん、長袖を着て、携帯蚊取りも持って、万全の装備で行くのですが、それでも刺されまくりです。携帯蚊取りなんて効きません。首から下が万全だと、顔を刺されます。
で、今年は蚊が少なかったのですが、9月に入ってから増えてきた感じで、先日は某所の入口で長袖を着る前にすでに2か所くらい刺されました。
この某所はもうあきらめているのですが、今年はこの某所が少ないかわりに、自宅など、以前はあまり刺されなかったところでよく刺されます。
自宅についていえば、例年、夏はマンションのコンクリートが蓄熱して、昼間は37度、深夜でも34度という温度なので、蚊が来ないのですね。蓄熱したコンクリートが結界だったのだ。
が、今年は一時暑かったですが、その後、涼しくなったら蚊が入ってくるようです。自宅の蚊はアカイエカだからデング熱は媒介しないはずですが。


デング熱自体はそれほど怖い病気ではないみたいなので、騒ぎすぎかもしれませんが、一か所であれだけ多くの人が、というのが気になります。


話変わって、9年前に買ったデジカメがついに故障。修理代高いだろうから新しいの買うか、と思っていましたが、修理代が1万円以内だったら修理しようかな、と思い、ヨドバシカメラへ。すると、修理代は8千円代であることがわかりました。ただ、部品がないなどで修理できない場合もあるとのこと。とりあえず、カメラを預けてきました。