2015年4月23日木曜日

All Summer Long

先日、ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンの伝記映画「ラブ&マーシー」を見たのだが、ついさっき、深夜のFMで「アメリカン・グラフィティ」のサントラをかけていた。
「アメリカン・グラフィティ」のサントラは当時、カセットテープを買ってよく聞いていた。その中で一番好きだった曲がビーチ・ボーイズの「オール・サマー・ロング」。
そのタイトルのアルバムがここで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=fmuj6LEZaIo

そのFM放送では、ビーチ・ボーイズの曲は流してくれなかったのだけど、私にとって、やはり「アメリカン・グラフィティ」はビーチ・ボーイズだったような気がする。

ビーチ・ボーイズのリーダーでソングライターでもあったブライアン・ウィルソンについては何も知らなかったので、映画を見て驚いた。
1960年代、一世を風靡したビーチ・ボーイズだが、ブライアンは父親の虐待やプレッシャーに苦しみ、この「オール・サマー・ロング」の頃にマネージャーだった父親を解雇。しかし、音楽製作のプレッシャーから麻薬中毒になったブライアンは心を病んでしまい、その結果、1980年代にはある精神科医に利用され、食い物にされていた。
映画は60年代のブライアン(ポール・ダノ)と80年代のブライアン(ジョン・キューザック)を交互に描いている。ブライアンを統合失調症と決めつけ、大量の薬を与えて、彼の財産を食い物にする精神科医ユージンは、ある意味、ブライアンを支配し続けた実の父親のかわりである。そうした父親的人物による支配から彼を解放しようとするのが、ブライアンを愛する女性。彼女は精神科医のやり方に疑問を持つ家政婦を味方につけ、ブライアンを救う。

この映画は最近流行の20世紀後半の音楽家の伝記の1つだが、2つの時代のブライアンを2人の俳優に演じさせたり、その表現が前衛的だったりするところに魅力がある。
でも、この映画は、私の好きな「オール・サマー・ロング」を流してくれなかった。
「オール・サマー・ロング」は「アメリカン・グラフィティ」のサントラの最後の曲で、これが本当に好きだった。でも、ブライアンの伝記では、あまり重要でない曲なのだろうか。
ルーカスもコッポラもハリソン・フォードもロン・ハワードも、まだ大スターじゃなかった時代の「アメリカン・グラフィティ」、久々に見たくなったし、サントラを聞きたくなった。

2015年4月22日水曜日

これはひどい

スターリン時代のソ連を舞台にした犯罪ミステリーの映画化「チャイルド44」を見たのですが、

これはひどい。

原作好きな人は怒り心頭か茫然自失じゃないでしょうか?

もっともアマゾンのレビューを見ると、批判的な意見も少なくないですが、もともと原作を気に入らない人は映画も見ないので実害なし、と。

原作は読んでませんが(これよりモデルの事件のノンフィクション「子供たちは森に消えた」の方が読みたい)、アマゾンのレビューにはネタバレもあって、へえ、そうだったのか、でも映画にはそれはなかったけど、それがないとなんだか変だよねえ、もしかして、時間の関係でカットしちゃったのかしらん、て感じ。
監督はスウェーデン出身のダニエル・エスピノーサという人ですが、「裏切りのサーカス」の爪の垢を煎じて飲んだ方がいいレベル。
ひとことでいうと、スターリン時代のソ連がひたすら暗く汚く鈍重に描かれるあの映像がひどい。
映画というものはたとえ汚いスラム街を描くときでもそこに映像美や映像の凄みを出すべき、という、誰が言ったか忘れたが、それが映画というもの、映像というもの。スターリン時代が暗くて悲惨だったからといって、それをただ暗く汚く鈍重に描けばいいってものじゃない。そういうのはリアリズムとは言わない。
あとさあ、これだけじゃないんだけど、ハリウッド映画の描くロシア人(役者はロシア人ではない)のロシア語訛りの英語って、なんとかならんか。「硫黄島からの手紙」が全編、日本語訛りの英語だったらどうよ?
あと、主演のトム・ハーディって、小説家のトマス・ハーディからとったのか? それとも偶然?
このトム・ハーディが全然よくない。妻役のノオミ・ラパスもリスベット的女性じゃないというだけが取り柄。ゲイリー・オールドマンは可もなく不可もなし。ヴァンサン・カッセルは無駄遣い。
というわけで、公開はまだまだ先ですが、たまには辛口で行ってみました。

2015年4月21日火曜日

遥か群衆を離れて

トマス・ハーディの小説「Far from the Madding Crowd」が再映画化されたようだ。アメリカでは5月1日公開とのこと。RottenTomatoesのサイト。
http://www.rottentomatoes.com/m/far_from_the_madding_crowd_2014/

この小説は1960年代にジュリー・クリスティー主演で映画化されていて、そのときの邦題が「遥か群衆を離れて」。公開に合わせて、確か角川文庫から翻訳が出たはず。英語のタイトルは「群衆の狂気をよそに」という意味で、英文学の世界ではこの邦題で書いてあるものが多い。
ハーディはフォースターの次に研究していた作家なので、もちろん、英語で読んでます(翻訳は未読)。
ハーディの中では「帰郷」(The Retrurn of the Native、「村人帰る」という意味)と並んで最も好きな作品だが、読んでからだいぶたつので、細かいところは忘れてしまった。ヒロインのバスシバが魅力的で、彼女が夢中になるトロイという軍人が剣を振り回すところがかっこよかったな、という程度(ほとんど覚えてないじゃん)。映画でもこのシーンが魅力だったようです。
で、こちらがInternet Movie Databaseの67年版。
http://www.imdb.com/title/tt0061648/?ref_=nv_sr_5
バスシバ(クリスティー)は3人の男性に愛されるのですが、そのかっこいいトロイがテレンス・スタンプ(当時、女性に大人気だった)、他の2人がピーター・フィンチとアラン・ベイツ。す、すごい豪華キャスト。実はこの映画、見たい見たいと思っていてまだ見てないのです。ハーディのことなんか何も知らん中学生の頃から見たかったけど、ビデオとかDVDになってるのかな? 監督もジョン・シュレジンジャーと有名どころ。
ちょっと見たところ、日本ではDVDは発売されてないのかな?
で、今回の新作はバスシバがキャリー・マリガンで、うーん、違うような気が???
監督は「偽りなき者」のデンマークの鬼才トマス・ヴィンターベア。しかし、この人がなぜトマス・ハーディを?
Rottentomatoesの批評家の評価は、まだ数が少ないとはいえ、好意的なものが多いですが、ハーディの映画化としてはちょっと、という意見も。
ハーディの映画化ではやはりポランスキーの「テス」が最も有名で、あとはイギリスのマイケル・ウィンターボトムが「日蔭者ジュード」(邦題「日蔭のふたり」)と「カスターブリッジの町長」(邦題「めぐり逢う大地」)を映画化しています。ウィンターボトムは英文科出身なのだね。ただ、この2本は地味だし、ウィンターボトムの映画としてもそれほど有名でないので、「テス」の次に有名なハーディの映画化はやはり67年の「遥か群衆を離れて」でしょう。
ウィンターボトムのフィルモグラフィーを見ていたら、「マイティ・ハート」がありました。これ、UIP最後の配給作品で、銀座にあったUIPの試写室で見たのを覚えています。最後の配給作品とのことで、最初にそのあいさつがありました。
というわけで、今度の「遥か群衆を離れて」、アメリカでの配給はFOXですが、日本で公開されるのか、邦題はどうなるのかはわかりませんが、やっぱ、監督と出演者(マリガン以外も)がビミョーな感じはします。

2015年4月18日土曜日

最後にまともな映画評を書いたのは

いつのことだろう。
商業誌で言えば、去年の「蜩ノ記」の特集号(キネマ旬報社)の映画評が最後なのは確か。
その前は、というと、かなり前になってしまう。
森田芳光の特集号(またもキネマ旬報社)の監督論か。
キネマ旬報本誌で書いた最後のまともな映画評は、思い出せない。かなり昔なのは確か。

そんなことをなぜ考えたかというと、このブログに書いた、今年のアカデミー賞にノミネートされた音楽映画についての映画評が、アクセス数はあまり多くないのに、なぜかグーグルでおすすめするが4ポイントもついていたからだ。
このグーグルでおすすめするがついたのは、このブログではアクセス数ナンバーワン、2万以上のアクセスがある、あのマクドナルド事件をもとにした映画の記事以来のことなのだ。
そりゃあ、2万以上のアクセスがあれば、おすすめするがついてもおかしくないが、くだんの音楽映画はまだアクセスが200くらいなのだ。マクドナルド事件の映画評の100分の1。
で、その映画評をあらためて読んでみたら、うーん、最近の私の書いた文章の中ではピカ一の出来。うーん、読者はわかってらっしゃる。
そんなわけで、アクセス数が200くらいでもおすすめされちゃって、とてもうれしいのですが、商業誌に書いたまともな映画評って、いつだっけ、と思うくらい、商業誌に書いていた時代が遠ざかっています。
結局、読者が有名人の映画評を求めるからだよね、と思いながらも、こんなブログの映画評でも、アクセス数が少なくても、おすすめしてくれる人がいるんだ、ということに、とてもとても感激しています。感謝。

2015年4月17日金曜日

アマゾンのランキングの真実

以前、アマゾンのランキングの順位は4ケタ以下のものは信用できない、と書いたことがあるが、興味深い記事を見つけた。
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/hattori/amaznj5.htm
統計学者たちがアマゾン日本のランキングを研究した結果が一般人にもわかりやすく質疑応答の形で書かれている。
これによると、アマゾンのランキングの順位は、その本が売れてからの時間を表すのだと。
なるほど、納得。
それは順位が10000位以下の本におおむね当てはまるそうだ。そして、アマゾンの本の99%はこの10000位以下の本とのこと。
私が4ケタ以下の順位は信用できない、と思ったのは、自分の翻訳書とか、解説書いた本とかの順位を時々見て、どうしようもなく売れてない私の本でも3ケタになった本があったからである。
具体的に言うと、映画が公開された直後のノベライズ。というか、「インソムニア」のノベライズだけだと思う。しかもほんの一瞬。
あとはまあ、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」(解説執筆)が一度、1000位くらいになって、このときは創元のランキング1位になった。もう何年も前の話。
NHK教育で2月に「フランケン」やっていたときは、創元の「フランケン」も4ケタになることが何度もあって、創元のランキングでも3位くらいまで上がったかな?
もちろん、たまたまチェックしたときのことなので、チェックしてないときにもっと上がってることもあったかもしれない。でも、その後、数万位に落ち着くのは、これが定位置ってことでしょう。
NHKで「フランケン」やった頃から、なんとなく気になって、4つの文庫の「フランケン」の順位を時々のぞいてみるのだけど、光文社がやたら順位が高い。ただ、光文社古典新訳文庫は10000位でもこのジャンルで1位になったりするので、やっぱり古典新訳文庫は全体にあまり売れてないんだな、と思う。創元の「フランケン」は10000位だと創元で20位以内は無理。
じゃあ、光文社の古典新訳文庫は「フランケン」ばかり売れているのだろうか?
新潮文庫は書店で他の文庫より優遇されているので、書店で売れる方が多いのではないかと思う。アマゾンのランキングもわりと順当な感じ。
そして、後発の角川文庫は出遅れもあって、かなり低いランキングが続いている。

というわけで、アマゾンのランキングは最近売れたときからの時間の短い順、ということで納得したのだけれど、もう1つ気になることがある。
1つは、創元の「フランケン」はもう8万部以上出てると思われるので、当然、古本がたくさんある。その古本が売れてもランキングが上がるようなのだ。
で、古本が売れると値段が高くなり、在庫が増えると値段が下がる。さっき見たら、創元の「フランケン」の古本は30円くらいでした(送料がつくので合計すると300円弱)。
まあ、私の絶版になった翻訳書なんて、古本は1円からですので。
「フランケン」について言えば、古本が売れてもありがたくないわけです。
で、アマゾンでは新品について、在庫ありとか、10点在庫ありとか書いてある。古本も数が書いてある。そして、その数が減ると確かに順位が上がるのですが、なぜか、そのあと、在庫数がまた増えるのですね。
10点在庫あり、が、9点在庫あり、になり、それからまた10点在庫あり、に戻る、とか。
これは新たに入荷して増えたとは思えない。
で、そこでランキング操作ですよ。
「アマゾン ランキング操作」で検索するといろいろ出てくるけれど、注文しておいてお金を払わず受け取らない(キャンセル)という方法でランキングを上げることも可能なようです。
「フランケン」ではランキング操作するほどの順位ではないと思うが、このランキング操作というのは確かにあるようです。特にキンドルはかなりやってるというブログ記事もありました。また、ランキング操作の実験をしてみた、というブログ記事もあります。
というところで、やっぱりアマゾンの順位はあてにならない、じゃなくて、売れてからの時間、ということですね。売れた総数はわからないわけです。

2015年4月12日日曜日

地上より永遠に

「日本のいちばん長い日」の次は「地上より永遠に」(ここよりとわに)です。
「日本のいちばん長い日」が、終戦直前の日本で日本兵同士が殺し合う映画だとしたら、「地上より永遠に」は真珠湾攻撃前後にハワイで米兵同士が殺し合う映画です。
「地上より永遠に」は1953年のアカデミー賞作品賞受賞作ですが、やはり傑作です。
しかし、私は若い頃、この映画を見て、どこが傑作なのかわからなかった(未熟者)。
当時、映画雑誌に誰だか忘れたが、評論家が「この映画は作品賞に値しない」みたいなことを書いていて、やっぱりそうなのかなあ、と思った。
けれども、数年前、この映画についてのコラムを依頼され、DVDで再見して驚いた。
すごい傑作だ。
作品賞は当然というか、こんな米軍の暗部を描いた映画、戦争を皮肉に描いた映画を、アメリカが戦争に勝利した8年後に作っていて、しかも作品賞あげるのだからすごい。
原作もすごいのだろうけど(「シン・レッド・ライン」の原作者ジェームズ・ジョーンズ)。
最近、ミュージカルにもなっているようで、5月にスターチャンネルで舞台の録画を放送するらしい。見たいなあ。電波を受信できるテレビはないけど。
それにしても、「作品賞に値しない」と書いた評論家はどこが気に入らなかったのでしょう。
あれはたぶん1970年代前半だったと思うけど、日本の評論家の多くはこの映画をどう見ていたのかな?
監督のフレッド・ジンネマンの評価は高かったはず。ただ、若い頃の私はジンネマンの映画は全体的に苦手だった。なので、「地上より永遠に」のよさがわからなかったのかもしれない。
この映画は「ローマの休日」を抑えて作品賞とのことで、「ローマの休日」大好きな日本では受けなかった?
あるいは、男女2組のカップルの話が昔の保守的な男女観の日本では理解されなかったかもだなあ。今見ると、軍隊に身も心も捧げた男たちと、彼らについていけない女たちの対比が面白いし、そうした男たちを皮肉に見る女たちの目みたいなものも感じるのですが。
米軍内のいじめや虐待は、旧日本軍のいじめや虐待に比べたらたいしたことないと、昔の日本人は思っただろう。
というわけで、私が年をとって大傑作とわかった「地上より永遠に」なのですが、やっぱり、なんといっても、ラストが皮肉。以下ネタバレのため、文字色を変えます。
軍隊から逃げて隠れていた兵士(モンゴメリー・クリフト)が、真珠湾攻撃を知って、軍隊に戻ろうとするが、途中で味方から誤解されて射殺されてしまう。ラスト、彼の恋人(ドナ・リード)はアメリカ本土に帰る船で、クリフトの上官(バート・ランカスター)と恋仲だった女性(デボラ・カー)と出会う。カーはランカスターからクリフトの死の真相を聞いている。そうとは知らず、リードはクリフトが名誉の戦死をしたと言う。この2人のヒロインのなにげない会話で映画は終わる。
なにげないけれど、これはすごいシーンだと思います。ただ、知識がないと、あるいはこのシーンの意味をきちんと把握できないと、「地上より永遠に」が大傑作だということがわからないのではないか、と。うーん、上級者向けの映画かもしれない。
(以下おまけ)
「日本のいちばん長い日」をDVDで見たとき、一緒に高倉健出演の「燃える戦場」も借りて見たのですが、これもなんかすごい戦争映画で、主役のイギリス軍がもうめちゃくちゃ。なんてひどい軍隊なんだ、という感じで、それに比べると高倉健の日本人将校は理性的で立派な人物に描かれています。この映画ではクリフ・ロバートソンの米兵がイギリスの部隊に派遣され、そこでイギリス軍部隊のめちゃくちゃぶりを目撃するのですが、そのイギリス軍に所属する兵士マイケル・ケインは労働者階級出身なので、生き残るのが第一。めちゃくちゃなイギリス軍なんかにつきあっちゃいられねえ、という感じ。が、ロバートソンはイギリス軍はめちゃくちゃでも使命は果たさねば、という感じで、生き残るのが第一のケインと対立、というところが「戦場にかける橋」のアレック・ギネスとウィリアム・ホールデンのイギリス人とアメリカ人をちょうど逆にした感じで面白かったです。ギネスは中産階級出身だから名誉が大事だけど、労働者階級出身のケインは名誉なんかくそったれ。
この頃のケインはイギリスの富裕な階級に反抗する労働者階級の若者を演じていて、私は大ファンでした(今もファンですが)。
話がずれましたが、この「燃える戦場」もラストがすごいです。戦争の愚かさを表した映画です。でも、この映画、公開当時は日本では評判悪かったような? まあ、確かに、われらが健さんがあんなにあっさりと殺されちゃうのは、日本人としては受け入れがたいですけどね。

2015年4月10日金曜日

日本のいちばん長い日

木曜から新年度の授業が始まった。
木曜は映画の授業をしている大学で、今年は終戦70周年なので、太平洋戦争を描く英米映画というテーマの授業を前期に計画。その第1回に、太平洋戦争をコンパクトに見せるのに適した日本映画「日本のいちばん長い日」をほんのさわりだけ取り上げた。
1967年のモノクロ映画、監督は岡本喜八。三船敏郎はじめオールスターキャストで、ポツダム宣言受諾を決めた8月14日午後から翌15日正午の玉音放送までの長い長い1日を描く。その間に敗戦を受け入れられない青年将校たちが師団長を殺害し、偽の命令書を作って反乱を起こし、皇居やNHKを占拠して玉音放送阻止をはかる。
まあ、とにかくすごい映画で、全編大迫力。戦争を終わりにするってこんなに大変だったんだ、戦争中は人間は頭がおかしくなってしまうんだ、ということが激わかりの大傑作。
授業では、ポツダム宣言受諾の背景と太平洋戦争が簡単にわかる冒頭部分と、青年将校が反乱を起こすなかほどの映像を少し、それにラストの戦争がどれだけの犠牲者を出したかを数字で見せるところだけを見せた。
長い長い映画のほんのわずかな部分だが、それでも学生たちにはかなりの衝撃だったようだ。
この映画には血がどばっと出たり、日本刀で斬ったりという残虐なシーンもあるので、女子の多いこの大学では一応、そのあたりを注意した上で、興味のある人はぜひDVDで全部見てほしい、と言っておいた。

実はこの映画、今年の夏に再映画化が公開予定なのですね。
http://nihon-ichi.jp/index.html
ここにスタッフ、キャストが出ていますが、
三船敏郎が演じた阿南陸軍大臣が役所広司?
笠智衆が演じた鈴木総理が山崎努?
昭和天皇が本木雅弘?
黒沢年男が演じた狂気の青年将校が松坂桃李?

だ、だいじょうぶか?

監督は「クライマーズ・ハイ」の原田真人だから、そんなにひどいことにはならないとは思うが。
なんか不安。

製作は、旧作は東宝だったけど、今度は松竹か。
ついでに旧作もリバイバルしてほしい。

大丈夫か、といえば、この授業、定員40名のはずがなぜか60名もいたのでびっくり。
昨年度までは45名で、今年度から40名と聞いていて、それでプリントを45枚刷って持っていったら、全然足りず、20枚余計に刷って、結局、5枚余ったのできっかり60人だ。
私の授業は希望者が定員より多いことが多く、抽選になるのだけど、一度、定員が45名なのにミスで抽選で35人しか選ばれず、2回目から急に10人増えたということがあったが、今回も40名のところミスで60名になった可能性がある。多くの学生が「日本のいちばん長い日」のさわりを見て、授業にかなり期待感を持ったようなのに、あとからミスで20人はお帰り、とかなったら気の毒だけど、どうなることか。

2015年4月6日月曜日

北極点到達

今日は何の日?
1909年4月6日、アメリカのロバート・ピアリーが北極点初到達。

と、立ち寄ったファッションビルのエレベーターのモニター画面(?)に出ていたのですが、ウィキペディアによれば、実際は北極点のわずか手前までしか行っておらず、しかも、1990年代頃から捏造疑惑が???
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E7%82%B9
このピアリーは犬ぞりだったのですが、その後、1926年にはアメリカのリチャード・バードが飛行機で往復とのこと。
まあ、いずれにしろ、「フランケンシュタイン」のロバート・ウォルトンが18世紀末に北極点到達はとうてい無理、引き返してよかったね、という感じですね。
ウィキペディアでも初期の北極点挑戦は19世紀に入ってからのものが紹介されています。
当時は船は帆船ですからね。
帆船といえば、創元推理文庫の怪奇幻想ファンタジーは昔は帆船のマークがついていたものでした。「フランケンシュタイン」もそうだったかな? いつ頃から帆船マークがなくなったのか、記憶にありません。昔は創元の怪奇幻想ファンタジーは帆船マークと呼ばれていて、反戦マークとかジョークにもなっていました。そういう古い時代の怪奇幻想冒険小説の翻訳が入っていたわけです。「フランケンシュタイン」の翻訳もその流れで入ったのでしたが、私の解説はSFをガンガン強調していて、本が出たあともSFファンに受けてましたね。
当時は「ブレードランナー」が公開されてまだ2年しかたっておらず、この映画はヒットしなかったので、熱烈に好きなマニアが一部にいるだけという状況でした。で、私もその熱烈マニアだったので、「フランケンシュタイン」解説のトリにこの映画を使ったのですが、私と同じくこの映画が好きな人にとても喜んでもらえました。
今では「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」を結びつけるのはごく普通のことで、光文社文庫の「フランケン」の解説でも最後にこの映画を出してるけど、これは私の解説のパクリじゃないの?
また、検索してみたら、大学の一般教養の文学の授業で創元の「フランケン」をテキストにして講義をしている先生がいて、最後にやっぱり「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」というテーマを出してるのがありました。そういう形で使っていただいてもいるのですね。

というわけで、今日は北極点初到達の日、と思ったら、捏造らしいとかでがっかりですが、「フランケンシュタイン」が書かれた当時は北極点到達は人造人間製造と同じくらい夢のような話だったのでしょう。

2015年4月5日日曜日

人様の翻訳を批判するということ。

私自身、翻訳書を出している身であるので、人様の翻訳に対して批判を述べるというのは天に唾するようなところがあり、できればやりたくないことの1つである。
と同時に、やっぱり人様の翻訳の中にはどうにも許せない、これはないだろう、と思うものもある。
でも、なるべくやらないようにと思っているのだが、前の記事で書いたオー・ヘンリー「賢者の贈りもの」の新訳(新潮文庫)についてはやはり書かないといけないのではないか?と悩んでいる。
悩んでいる最大の理由は、該当書を買って、原文と照らし合わせて、いろいろ文句をつけることになるからで、それに使うお金とエネルギーを考えると、無駄だなあ、と思うのである。

人様の翻訳の批判というのは、やはり、純粋な読者がする方がいい。
たとえば、新潮文庫の新訳「嵐が丘」は、アマゾンのレビューを見るとものすごい悪評だが、純粋な読者が書いているので、かえって納得できる。それに対し、翻訳でお金をもらった人間がするとどうしても純粋でなくなる気がするのだ。
映画の字幕でいえば、「オペラ座の怪人」は舞台のファンが字幕に抗議し、「ロード・オブ・ザ・リング」は原作の愛読者が抗議した。無名の純粋なファンや愛読者の抗議だからよかったのだ。

新訳「賢者の贈りもの」の場合、それでも逡巡してしまうのは、この短編の新訳がかなりの欠陥商品だと思うからだ。この本に含まれている他の作品はわからないが、この表題作「賢者の贈りもの」を立ち読みした限りでは、これはかなり問題がある。
それは誤訳というレベルの問題ではない。
1つには、作品理解の問題。
もう1つには作家の文体の問題。
翻訳者は東工大教授のアメリカ文学者で、翻訳書も多数ある人なのだが、この2点がクリアされていないのには愕然とする。
たとえば、「賢者の贈りもの」の最後の文章、賢者についての説明の文章は詩的なリズムのある美しい文章なのだが、翻訳はぶっきらぼうで汚い日本語になっている。
オー・ヘンリーは小説の中で読者に語りかけるが、この語りかけの言葉づかいがえらそうな日本語になっている。原文を読む限り、作者(というより語り手)は読者に親しげに語っていて、えらそうではない。この新訳だとオー・ヘンリーってえらそうなやつと思ってしまう。
作品の解釈についても、「オー・ヘンリーの小説を心温まる作品ととらえない」方針で訳したようだが、「心温まる作品」とは、決してすべてがハッピーな作品ではない。オー・ヘンリーの作品が読者の琴線に触れるのは、ユーモアとペーソスであり、ある種のもの悲しさもまた「心温まる」要素の1つなのだが、翻訳者は原作者をもっと意地悪な作家にしたいようなのだ。そこから作品の雰囲気を作っていくから、作品理解に問題が出る。

以上、今感じていることをおおざっぱに書いたけれど、詳しく実例を挙げて書くにはやはり本を買って原文と逐一比べる必要がある。でも、そこまでする必要ある? いや、もしもこの訳者のオー・ヘンリーが大久保康雄訳に置き換わり、売れる新潮文庫なのでこれがスタンダードになってしまうとしたら? でも、決めるのは読者。読者がこんなオー・ヘンリーはいやだと思えば買わないし、こういうのもいいと思えば買う。それでいいのでは?
この新訳については、アマゾンでは批判のレビューが出ているが、具体的ではないのでわかりづらい。また、ネットで検索しても特に批判は出ていないようだ。「嵐が丘」のような非難ごうごうではない。中にはほめているブログもあるので困る。うーん、むずかしい。