2015年6月26日金曜日

災難続き

不動産屋が夜逃げ、大家が理不尽な要求で引っ越しするはめになったのですが、その後も災難は続いています。
一応、近所で安いアパートを探しているのですが、同時に、将来を考えて、郊外の古い団地に申し込んでみようと思い、50年以上前に建てられた某県の某団地の部屋を申し込んでみました。
ここはかなり古いので設備も悪く、家賃も激安。空き部屋も多いのでより取り見取り。その中でもちょっとよさげな部屋があったので、インターネットでポチッとやってみたのです。
そして、内覧の予約をし、実際に出向いてみて、わりといいんじゃない?と思ったので、契約のための申し込みをしに都心のY営業所へ。
本来なら某県のその団地の近くの営業所へ行くべきだったのですが、Yは近いのでそっちにしてしまったのが運のつき。
最初から全部インターネットで手続きしていたので、ネットのサイトに書いてあった提出書類をそろえて持っていきました。
提出書類は住民票と、それに源泉徴収票か住民税通知書かそれに類するものが1つあればいい、ということだったので、住民票と住民税通知書を持参。源泉徴収票は確定申告で税務署に出してしまったし、源泉徴収票よりも住民税通知書の方がよいらしいので、それで大丈夫だろう、と思ったのが大間違い。
窓口に出てきたのは研修中の名札をつけたS女史。研修中なので、別室の誰かのところへいちいち行って戻ってくるので時間がかかってしょうがない。素人だな、こいつ、と思ったが、とりあえず待つ。
そして、S女史は住民税通知書の所得金額を指さし、この金額では家賃の4倍に足りないので契約はできないと言ったのです。
かつての公団住宅、今はURというようですが、ここでは収入が家賃の4倍以上ないといけないのですが、それは収入であって所得ではない。所得というのは経費が引かれたあとの金額なので、当然、収入より低い。私の場合は現在、給与収入がメインなので、計算法が決まっていて、所得は収入の3分の2くらいになります。
URの規定では確かに収入が家賃の4倍であるとネットに書かれています。
が、S女史は、所得が家賃の4倍でないとだめだと言い張ります。私が何度も収入のはずだと言っても聞きません。なぜなら、S女史は奥の部屋にいるY女史の言うことをそのまま繰り返さないといけない。なぜなら、研修中だから。自分で判断なんかできないのです。
そしてついにY女史が登場、彼女も収入でなく所得だと言い張ります。
Y女史がどの程度のキャリアなのかはわかりませんでしたが、私の印象では、研修中のS女史とあまり変わらない知識の持ち主のようでした。
2人とも税金に関してはまったくの無知で、住民税がどうやって決まるのかも知りませんでした。
Y営業所の窓口には、「警察を呼ぶ」みたいな怖いことが書いてあって、なんだか物騒な営業所だなと思いました。
Yのようなところだと、扱う物件は湾岸の高層タワーとかで、家賃も月数十万くらいしそうな物件が多いから、きっと、お客さんは一流企業の源泉徴収票を持ってくる人ばかりなのだろうと思います。そういうのしか見てない、あるいは、そういうの以外の人は全部断る営業所なのかもしれないと思いました。
S女史とY女史が収入と所得の違いを知らなかったのは事実のようで、知っていて、契約せずに追い返すためにわざとやったとは思えませんでした。ただ、断る練習をさせていたのかな?という感じはちょっとしています。
そのあともいろいろあって、こういう人たちのところで契約するのはまずいと感じたので、結局、この物件はキャンセルしました。
私も相当頭に来たので、とりあえず、少し頭を冷やして、次は地元の営業所へ行くようにします。
民間の不動産屋もねえ、貧乏そうな高齢者はきびしいんだなあと実感。年をとったときに金持ちでいられる人は限られているから、酷い目にあっている人はけっこういるのだろうと思いました。高齢者の派遣労働者を若い社員が奴隷のように使っている派遣の実態を書いた本が出たようですが、ジジババよ、怒れ!
ちなみにS女史とY女史は若めのオバサンという感じで、美人でもなんでもないので、花として置かれてるわけでもなさそうだったなあ。あれはいったいなんだったのだろう。

2015年6月19日金曜日

近況

なんかちょっと、今、プライベートなところが面倒なことになっているので、しばらく記事をあまり書けないと思います。
手短に言うと、今住んでいるマンションを仲介した不動産屋が突然廃業。更新日までに大家から何の連絡もなし。一応家賃を払って住み続けていたら、突然、大家が更新料と大家手製の契約書への署名捺印を要求。
その内容が承諾できないものだったので、引っ越すと言ったら、それでも更新料を払え、契約書に署名捺印しろという要求。
大家はそれまで不動産屋任せだったので、ほとんど顔を知らず、名前もよく知らない相手。おまけにかなりの高齢で、話が通じない。
大家以外の人では家族だという若い女性が来たが、大家の言うことをテープレコーダーのように繰り返すだけで、やはり話が通じない。
7月末までに引っ越すから、と何度も繰り返したら、ようやく納得したらしい。
というわけで、突然、引っ越すはめになったのです。
もともと、長く住む気はなかったので、それはよいのですが。
しかし、不動産屋が突然、夜逃げって、初めてでした。大家も被害者といえば被害者ですけど。
私が住む地域の不動産屋は今のところ、すべて失敗なので、今度は違う地域で探そうと思っていて、実は去年あたりから別の地域の不動産屋をよくのぞいていました。
で、どこがいいのかなあ、と思っていたのですが、検索していたら、その地域の不動産屋について書いてあるブログがありました。
評判がいいのはY商事、A不動産。
評判が悪いのはW不動産。
なんと、それは私の印象どおりです。
W不動産が高飛車、っていうのは、建物見ただけで感じていました(中に入ったことはない)。
一方、Y商事とA不動産はなんとなく親しみが持てて、一番よく見ている不動産屋でした(まだ中に入ったことはない)。
問題は、Y商事、A不動産は今住んでいる区とは別の区なのです。
別の区や市町村への転居って、けっこう面倒なんですよ。同じ区内だと転居届だけで簡単なのに。
でも、W不動産が住んでいる区の不動産屋だと思うと、この区の不動産屋はだめなのかなと思ってしまいます。
ただ、その隣の区は自治体としては評判がいいですね。多少の面倒は我慢して、住んでみるのもいいかもしれません。

リメイク版「日本のいちばん長い日」の試写を見せてもらいましたが、正直、「出来の悪い映画」という感想しか持ちませんでした。
出来が悪いけれどよいところもある、とか、ここがけしからん、とか、そういう感想すらない映画でした。
今この時期にこの映画を公開することの意義もないけれど、かといって、悪い影響もないという、だから別に積極的に批判する気にもなれません。

それにしても、旧作はすごかった、というか、あの旧作に対してこういうリメイクを作ってしまって恥ずかしいと思わないのか、というくらいですが、リメイクにはけっこうそういうものが多いです。
そう思うとまたまた批判する気にならなくなります(「チャイルド44」は批判したけど、あっちはまだ骨があったのかな)。

その旧作の一部を初回授業で見せた、某大学の映画の講義ですが、以前書いたように、初回出席した60人のうち40人が抽選で落ち、かわりに初回欠席の20人が当選したため、2回目以降はボルテージが下がりまくり。一部には真剣な学生がいますが、あまり真剣でない学生、真剣かもしれないけど理解度が低い学生が多い。その中で、たとえば、「ファシズムは必ずしも悪とは限らない」などといった感想が小テストに出てきたりするので、頭を抱えています。
授業の小テストでこういう感想を書いてしまうというのは、無邪気にそう考えているということでしょう。決してネトウヨとかそういうのではないのです。
でも、頭を抱えていても始まらない。若い人からそういう感想が出てくる原因は大人にあるわけだから。でも、そこをどうやって直していけばいいのかと思うと、また頭を抱えてしまうのです。映画でそれをすることが可能なのだろうか、という究極の問いが目の前にあります。

2015年6月8日月曜日

人生スイッチ

アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたアルゼンチン映画「人生スイッチ」を見た。
6つの短編からなるオムニバス映画で、いわゆるスイッチが入ってキレてしまった人々のお話。
「めぐりあう時間たち」や「バベル」のように複数のストーリーが同時進行する映画とか、「ニンフォマニアック」のように主人公の経験する物語が短編集のようになっている映画とかとは違って、共通のモチーフはあるが、1つ1つは独立している短編が集まった映画がオムニバス映画。この種の映画でも、ある話の人物が別の話の背景にちらっと出ているとか、そういうつながりを入れたものもあるが、この「人生スイッチ」はそうしたつながりはいっさいない、いさぎよいくらい独立した6つの短編の集まりになっている。
第1話は、とある飛行機に乗り合わせた乗客がすべて、ある男に冷たい仕打ちをした経験があるとわかり、なぜ自分たちがここに、と思ったとき、飛行機が、という話。このアイデアだけで長編映画が1本できるくらいなのだが、監督はいさぎよく短くまとめ、タイトル前のイントロにしてしまっている。なんというぜいたく。
第2話は、客のいないレストランに入ってきた男が、実はウェイトレスの親の仇で、彼女はコックに相談。コックは太ったオバサンで、話を聞いて怒り、料理に猫いらずを入れて殺しちゃえ、と言って実行する。が、なぜか男は料理を食べても変化なし。で、このコックのオバサンが前科のある人で、このあと、トンデモな展開になっていく。6つの短編のうち、4つが文字通りのバッドエンドなのだが、第1話と第3話はあまり暗くないのに対し、第2話と第5話は結末が暗い。ただ、この第2話も第1話と同様、短い話で、最初のこの2つが前座のような扱いだろうか。
第3話は、ノロノロ運転のオンボロ車を追い越した男が運転手に恨まれ、という、スピルバーグの「激突!」と同じような設定で始まる。が、スピルバーグの映画と違い、この話では追い越した方も追い越された方もどちらもクレイジーで、壮絶なけんかが始まってしまう。そして結末はブラックユーモア。これはすごい。この第3話からあとはどれも長めのストーリーで、じっくり見せる。
第4話は一番爽快な話だと思う。結末もバッドエンドではない。主人公はビル解体のプロだが、駐車禁止でない場所に車を停めてレッカー移動させられるということが何度も起こる。そのたびに苦情を言うのだが、取り合ってくれない。どうやら役所とレッカー会社の間に癒着や利権があるらしい。主人公はまじめに抗議するのだが、相手にされず、それどころか会社をクビになるわ、奥さんから離婚を告げられるわ、そこでついに、というところで、何をするかは予想はつくのだけど、そのあとが予想外の展開。ネタバレはしないが、おそらくアルゼンチンではこの種の癒着や不正が多くて、国民は怒っているのだろう。
第5話もそうした社会悪が背景にあることを感じさせる内容。ひき逃げ事故を起こし、妊婦と胎児を殺してしまった金持ちの息子を、父親が守ろうと、弁護士や警察に金を握らせて、息子が逮捕されないようにしようとする。ここでかわされる会話が金の話ばかりで、人の命などどうでもいいといった感じなのだが、途中、息子と父親が強欲な連中に嫌気がさして真実を明かそうと思うところがある。だが、一瞬、良心を取り戻した親子も結局は金で解決の方に行ってしまい、そして皮肉な結末が来る。第5話も金のからむ癒着や不正を背景にしているという点で、この2つが後半の核になっているのはなかなかに秀逸。
そしてトリを飾る第6話は、結婚披露宴に新郎の愛人がいるのを知った新婦がキレて、パーティは大混乱というお話。これもまた現実にありそうな話だけれど、それが現実にはありえないようなすごい展開になっていく。そして、そのすごい展開が、最後に予想外の結末に。バッドエンドにしかなりえない話がなぜかバッドエンドにならないという、これはまさに南米的なカオスの世界。
というわけで、ひたすらネタバレなしで書いてきたけれど、6つのストーリーがバラエティに富んでいる上、その構成もすばらしい。アルゼンチンでは「アナ雪」の2倍ヒットというのもわかる。アルゼンチン人でなくても十分面白いのだけど、アルゼンチン人ならさらに面白いのだろうなあ、と思わせる、奥の深い映画です。

2015年6月5日金曜日

It ain't over till the fat lady sings

なんだか急に思いついて、サリンジャーを読んでいた。
サリンジャーは若い頃に「ライ麦畑でつかまえて」を読んで、いたく感動したものの、なぜか、他のサリンジャーを全然読んでいなかった私。
なんで?
自分でも不明。
自分好みのサリンジャーはライ麦畑だけで、ほかは違うと本能的に察していた?
まさか。
たぶん、そう、たぶん、ライ麦畑でおなかいっぱいだったのじゃないかと思う。
レストランで、ライ麦畑でおなかいっぱいのときに、ウェイターに「サリンジャー・シェフの料理にはこんなものも、こんなものもございます」とメニューを見せられたけど、もうおなかいっぱいで、そのまま店を出た。で、その後、そのレストランの近くには行くチャンスがなかった。たぶん、そんなところ。
でも、数年前から「バナナフィッシュ」は妙に気になっていたので、「ナイン・ストーリーズ」は読んでみようかな、とは思っていた。で、6月から1年間休館になる図書館にあるノンフィクションを借りたくて、そこへ行ったとき、「ナイン・ストーリーズ」の新訳があった(野崎孝じゃないやつ)。で、そのそばに野崎孝訳の「フラニーとゾーイー」があった。「フラニーとゾーイー」は今は村上春樹の訳に置き換えられて、野崎訳は絶版状態みたいなので、これも借りなきゃ、と思って、借りた。
で、「ナイン・ストーリーズ」から読み始めたのだが、別に新訳が悪いとは思わないのだが、なにか、野崎孝訳の方が性に合ってるのかなあと思いだしたのが、半分近く読んだとき。ネットで調べたら、そのあとにある「エズメに」が野崎訳が最高とか書いてあった。「エズメに」の前で読むのをやめたのは、おそらく天啓かもしれん、とかなんとか理屈をつけて、野崎訳の「フラニーとゾーイー」に移った。
「フラニーとゾーイー」の結末近くに、「太っちょのオバサマ」というのが出てくる。聖と俗に悩むフラニーに、兄のゾーイーが「太っちょのオバサマ」の例を出して、それでフラニーが救われるという結末だ。村上春樹は「太ったおばさん」と訳してるらしいが、どうせなら「太ったレディ」と訳せばよかったのに。
この「太っちょのオバサマ」はガンを患っていてラジオを聞くしか楽しみがない女性ということらしいけど、ガンを患っていたらやせてるだろ普通、というツッコミはなしで。
で、この「太っちょのオバサマ」は英語ではfat ladyのようだ。
fat ladyといえば、記事のタイトルにしたIt ain't over till the fat lady singsという言葉が有名。もともとは「太ったレディが歌うまではオペラは終わらない」という文章で、これはワーグナーの「神々の黄昏」の最後でヒロインのブリュンヒルデが20分にも及ぶアリアをえんえんと歌って終わるのを意味してるのだそうで、ここから、太ったレディが歌うまでは(試合は)終わらない、という具合に、スポーツの世界で使われる言葉になったとのこと。
私がこの言葉を知ったのは、アイスホッケーの最高峰、NHLをフォローしていたときで、NHLの掲示板でそう書かれているのを見たのが初めてだった。NHLの試合では最初に国歌斉唱(アメリカまたはカナダ、または両方)があるのだけど、その名物歌手に太った女性がいて、彼女についてもこの言葉が言われていた。
んなわけで、「フラニーとゾーイー」に「太っちょのオバサマ」が出てきたとき、すぐにピンと来たね。これはあのファット・レディだって。
が、日本人の書いた評論にはなぜか、この決まり文句への言及がない、と文句を言っている人がいた。でも、英語で検索しても、確かにサリンジャーはこの決まり文句をヒントに「太っちょのオバサマ」を考えたんだろうとは書いてあるが、それ以上のことは何も書いてない。要するに、ヒントにしただけで、決まり文句とは関係ないのだろう。ガンを患っていてラジオを聞いている太っちょのオバサマとオペラのソプラノ歌手では全然違うし。
でも、ファット・レディが歌うまでは終わらない、まだまだ大丈夫だ、という言葉は、フラニーの人生にも当てはまる気がするのだけどね。
あと、面白かったのは、「フラニーとゾーイー」の原文を野崎訳と村上訳を比べたブログで、そこでは村上訳の方が原文に忠実である例をいくつか紹介していた。そこだけ見ると、確かに野崎訳の方がまわりくどく、説明的に長くなっていた。私だったら、村上訳のやり方にするだろうと、少なくともそこにあげている例では思った(一部だけで判断することはできないが)。ただ、その人も、「太ったおばさん」よりは「太っちょのオバサマ」の方がずっといいと言っている。