2015年3月28日土曜日

古典新訳ラッシュに思うこと

長らく大久保康雄訳がスタンダードだった「風と共に去りぬ」の新訳が新潮文庫から出た。
大久保訳は最初は新潮ではなかったと思うが(私が途中まで読んでやめてしまったのは河出書房の文学全集だった)、1970年代に新潮文庫に入ってからはこれがスタンダードになっていた。
今度の新訳は書評家としても有名で人気のある人で、新訳が出れば当然、旧訳は絶版になるだろう。もっとも、書店では大久保訳の文庫も棚に置いてあるので、気になる人は今のうちに買っておけばいい(私はねえ、この小説、あまり読む気にならないのだよね)。
そして、驚いたことに、なんと、岩波文庫からも新訳が4月から出るのだという。新潮も岩波も全6巻のようで、一度に全部ではなく、1~2巻ずつ出していくようだ(訂正 新潮は全5巻で、4か月で完結。岩波は全6巻で、完結までには半年以上かかるらしい)。岩波の翻訳者はアメリカ文学、特に黒人文学の研究者で、年齢は私より1世代上くらいだからかなりのご年配の方。ただ、文学史的な解説はこちらの方が期待できる。特にこの小説は作者が黒人に対する差別意識を持っていて、それが小説にあらわれているということがアメリカ文学者の間では普通に言われているからだ。ただ、映画はさすがに黒人俳優が多数出演することもあって、差別的な部分は変えてある。なので、映画だけ見ている分には「風と共に去りぬ」に人種差別的な面があることはあまりわからない。むしろ、映画は黒人女優ハティ・マクダニエルが黒人初のアカデミー賞を受賞するという、ハリウッドの黒人の歴史に名を残すものとなった。
ただ、訳文自体は新潮文庫の方が一般人向けだろうし、訳者の知名度も、岩波文庫のアメリカ文学者もその世界では有名な人だが、やはり新潮文庫の翻訳家の方が断然上。岩波の方はアメリカ文学の背景解説を充実させ、地味に売っていくことになるのだと思う。
というわけで、「風と共に去りぬ」新訳が2つの文庫から同時出版だけれど、ねらうターゲットがまったく違うと思うので、両方出るのはよいことかもしれない。ただ、大久保訳は確実に絶版になるので、気になる人は買っておけ、と再度言う(もっとも、古本で手に入る、キンドルになる、といった可能性もある)。

というわけで、新訳が出ること自体は悪いことではないのだが、そのために過去の名訳が絶版になってしまうこと、そして、問題のある新訳がスタンダードになってしまう可能性がどうしても気になる。
村上春樹が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を訳したとき、白水社は野崎孝訳も残すと決めた。同じ出版社だけれど、両方残すことにしたのだ。また、村上が「グレート・ギャツビー」を白水社で訳したが、野崎孝の旧訳は新潮文庫で生き続けている。しかし、早川書房で村上がチャンドラーを訳し始めると、早川の旧訳はやはり消える運命にあるだろう(訂正 今のところ、旧訳も残されているようです)。幸い、私の好きな「大いなる眠り」の旧訳は創元推理文庫だから無事だろう(だよね?)。
この新訳を出すことで同じ出版社の旧訳が消えるというのは、私が若い頃にもすでにあって、アイザック・アシモフの「裸の太陽」が文庫に入るときに新訳になってしまったのはショックだった。私はポケット版の旧訳を愛読していたからだ。他のアシモフは新訳にならないのに、なぜこれだけが、という疑問もあった(翻訳者の知名度だろうか?)。
最近の新訳では、新潮文庫が出した「賢者の贈りもの」がショックだった。オー・ヘンリーの短編集は新潮文庫から大久保康雄訳で出ていて、これが長らくスタンダードだったのだが、新訳が出れば当然、大久保訳は消える運命にある(同じ出版社だから)。それでも新訳がそれなりによいものであればいいのだが、この「賢者の贈りもの」という短編の訳文、最後がひどいのだ。私は原文も知っているが、これはないだろう、と思うような訳なのだ。なんだか、それまでの話をすべてぶち壊すような訳文なんである。これじゃ余韻も何もない、あんまりだ。オー・ヘンリーは翻訳がたくさん出ているが、やっぱり新潮文庫が一番強い、一番スタンダードになりやすいのだから困る。まあ、大久保訳は図書館にあるし、原文読めるんだから別にいいんだけど。

新訳が次々と3つも出た「フランケンシュタイン」について言えば、31年前の創元推理文庫は確かにマニア向けで、普通の読者にはとっつきにくいかもしれないと思う。特にNHK教育で放送され、ごくごく普通の人にまで興味を持たれたとき、ごくごく普通の人にはやはり新潮文庫が一番とっつきやすい。光文社古典新訳文庫はこの文庫のブランドがあって、そのファンが選ぶと思う。一方、NHKの放送が終わる頃に出た角川文庫は不利なように見える。もともと角川文庫は古典のブランドがないし、翻訳者の知名度もイマイチ。てゆーか、角川文庫の翻訳ものって、書店にあまり置いてないのよ。去年、解説書いた「猿の惑星新世紀」でよくわかったのだけど。
書店に置いてないといえば、創元推理文庫と岩波文庫も置いてない文庫の双璧で、岩波文庫なんて大書店にしかないし、創元は「フランケンシュタイン」の入った背中が灰色の怪奇と幻想ジャンルは特に置いてない。
そんなわけで、「フランケンシュタイン」はこれからは新潮文庫がメイン、光文社文庫がサブ、そして私が解説を書いた創元推理文庫は消える運命なのかな、というさびしい思いがわいてくる。31年前の出版とはいえ、訳文も解説も古くないんだけどね。つか、古いのではなくてマニア向けなのだ。

追記 「風と共に去りぬ」新潮と岩波を書店で見比べてみたが、岩波文庫の方は買おうかなと思い始めた。というのも冒頭の訳文が岩波の方が普通の訳でとっつきやすい感じだったのと、解説などが非常に充実しているようだったから。1巻の3分の1くらい解説や資料のような感じ。一方、新潮は冒頭のページですでに「容」と書いて「かんばせ」と読ませるといった、鴻巣氏の世界炸裂で、その上、「うざい」とか「ビュア」とかいった現代語も出てくるらしいから、鴻巣氏の世界が好きな人向けという気がした。なので、とりあえず物語を知りたい、という人にとっても新潮はイマイチじゃないかという気がしている。物語+資料解説なら岩波文庫だろう。
 ちなみに新潮の「フランケン」の訳は、短い原文にやたらと装飾的尾ひれをつけている印象がある(立ち読みだが)。なので、他の文庫よりページ数がやたら多い。立ち読みして、なんだか原文と違う、と思い、創元訳を読むと納得という感じなのだ。創元訳は原文と一番近い長さと雰囲気になっている。

参考(5月30日記)
「フランケンシュタイン」新訳の問題、特に新潮文庫が長すぎることについて、次のような指摘があった。
http://honto.jp/netstore/pd-book_26466539.html
2015/03/15 09:10
読み易くて楽しんだが原文と比較してかなりの付け足しがされている翻訳である。字が大きめとはいえ他社の物に比べて数十ページも増えないだろうと思っていたが数ページ程原文と比較して納得した。ただしそれが悪いとは言わない。芹澤氏のフランケンシュタインはこうであるという翻訳だろう。フランケンシュタインという小説を楽しむ上での不都合は感じなかった。同様の訳ばかり出ても仕方がないのでこれはこれでよい。ただし付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない。
(追記)
全文を比較したがちょっと足しすぎである。文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた。何らかの意図が有って故のことであろうが残念ながらそれは見えず、ただ付け足しの多い訳であるようにしか感じ無かった。同時に他の訳も比較したが光文社新訳文庫版は非常にライトで新潮社版とは逆に少々細部が削除されていた。創元推理文庫版と角川文庫版の新訳は程よい訳であると感じた。これから読む人にはこの両者どちらかをお薦めする。

2015年3月27日金曜日

誘拐映画2本

木曜日は誘拐映画2本立て。
最初はローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズの1作の映画化で、リーアム・ニーソンがスカダーを演じる「誘拐の掟」。
私はリーアム・ニーソンをかなり早い時期に発見したと自負しているファンで、「ダークマン」の頃にコミケでファンブックを作って売っていたという実績もあるくらいだけれど、2000年代以降のアクション・スターになってからはあまりフォローしていない。私が好きだった彼とは違う彼になってしまったんだもん、という感じかな。
で、この映画もアクション・スターとしての彼の映画なので、まあ、そこそこかな、というか、猟奇殺人が目的のサイコキラーがついでに身代金を要求という設定にかなり無理を感じたのは私だけか?
このサイコキラーたちの描写がどうにも説得力がないので、とりあえず、脚本に破綻がないので見られるけれど、なんだか消化不良な出来栄え。
続いて見たのが、1983年にオランダで起きたハイネケン経営者誘拐事件の映画化「ハイネケン誘拐の代償」。こちらは「裏切りのサーカス」のトーマス・アルフレドソンの兄のダニエル・アルフレッドソン監督。スウェーデン版「ミレニアム」の2と3の監督でもあり、芸術的香りのあった1に対し、ダニエルの監督した2と3は完全な娯楽映画だったことからもわかるように、この映画も完全な娯楽映画で深みはない。
映画はイギリス出身の俳優が多く出演し、セリフも英語。誘拐されるハイネケンはアンソニー・ホプキンスで、彼が老獪な人物で、若い犯罪素人の誘拐犯を手玉に取るというので期待していたが、実際はホプキンスの演じるハイネケンは精神的に強いが、特別ユニークな人物ではなかった。
このハイネケンが言うせりふ、裕福とは大金を持つことと友人を多く持つことで、この2つは両立しない、という言葉は、実際に彼が言ったのかどうかはわからないけれど、なかなかに的を射ている。映画の初めの方で、誘拐犯の1人の親がかつてハイネケンの友人だったが、解雇されたにもかかわらずハイネケンを友人と思っているというシーンがあって、これがこのテーマの伏線にもなっている。
映画は90分余りと短いので、非常にテンポがよく、飽きない。深みはないが、よくできた映画だ。誘拐犯たちは世の中に不満を持っている普通の若者たちで、周到に準備して誘拐をするが、徐々に破綻が起こる。ただ、彼らが人を殺したり傷つけたりしないという方針を最後まで貫くので、ハイネケンにも誘拐犯にも寄り添える仕組みだ。
犯人側からだけ描いているので、不満は残るが、金に換えられないものがこの世にはある、というテーマは生きている。
なお、この題材はオランダでも映画になり、そこではルトガー・ハウアーがハイネケンを演じているのだそうだ。こんなに名優が演じるハイネケンて、どんな人だったんだろか。

実は私は若い頃はビールはハイネケンが好きだった。なので、ハイネケンがタイトルにあるこの映画にはかなり期待していたし、映画を見たらハイネケンが飲みたくなった。
そこで帰りにコンビニでハイネケンを買って飲んでみたのだが、あれ、こんな味だっけ?
うーん、発泡酒が出てからというもの、本物のビールを飲まなくなって、ビールの味を忘れてしまったのかな。でも、このハイネケンの味だったら、キリン一番搾りの方がいいかも。
日本のハイネケンはキリンが出しているので、本場のハイネケンは違うのだろうか。
などと、ほろ酔い気分でこの記事を書いています。

2015年3月20日金曜日

「バリー・リンドン」とシューベルト

久しぶりに「バリー・リンドン」のサントラCDを聴いた。
映画公開時にLPレコードを買っていて、今も持っているが、アナログレコードプレーヤーはとっくの昔に処分して、たくさんあったLP(おもに映画のサントラ)も大部分はプレーヤーを持っている人に譲ったりして、でも、このサントラだけは保存してある。
でも、聴けないので、CDを買ったのはだいぶ前のこと。その前にレーザーディスクやDVDも買っていたが、このサントラはとても聴き応えがあるので、輸入CDがあると知って、たぶんアマゾンで買ったのだと思う。(訂正 HMVの店舗で買っていた。)
このサントラCD、今はもう廃盤らしく、アマゾンを見たら、6750円とかいうすごい値段がついていた。私が買ったときは1500円以下だったと思うのだが。(訂正 1590円だったが、2枚買うとさらに割引と書いてあったので(ビニールの袋に)、さらに安かったかもしれない。)
さて、この「バリー・リンドン」の音楽はクラシックやアイルランドの古謡が使われているのだけれど、私が特に気に入っているのはシューベルトの曲。シューベルトはご存じ、19世紀の作曲家で、映画の時代(18世紀)にはまだいなかった人だけれど、この映画はほかにも映画の時代よりあとの時代の曲を使っている。また、テーマ曲のヘンデルの「サラバンド」は原曲を大幅に変えたアレンジで、原曲を聴いたときは同じ曲とは思えなかった。
そんなわけで、18世紀から19世紀のクラシックが映像にみごとにマッチしていて、もう本当にすばらしいのだが、中でもシューベルトの「ドイツ舞曲」と「ピアノ三重奏第2番」が気に入った。特に後者は映画の後半のテーマ曲になっていて、主人公に降りかかる災難や悲劇の数々にこのもの悲しい曲が重なっていく。一方、「ドイツ舞曲」は主人公に息子が生まれ、まだ幸せがあったシーンで流れる軽やかな曲。この映画は前半がコミカル、後半がしだいに悲劇になっていく。
そして、この映画には、もう1つ、シューベルトの曲が使われている。「即興曲第1番」というピアノ曲だ。ただし、使われているのは冒頭のほんの短い部分だけ。なので、サントラには入っていない。どこで使われたかというと、第一部から第二部に移るあたり。ピアノの音がバン!と鳴って、そのあと、短いフレーズが続く。原曲はそのあとさらに長く続くのだが、映画は最初の部分だけを使っている。
「ピアノ三重奏第2番」と「即興曲集」のクラシックCDはたくさん出ているので、クラシックのCDもすぐに手に入ったが、「ドイツ舞曲」がなかなか見つからなかった。あるとき、ギドン・クレーメルという有名なバイオリニストの「シューベルト・ソワレ」というCDを見つけて買ったら、そこに入っていた。このCDはシューベルトの明るい曲ばかりが入っていて、とても楽しい。
そんなわけで、「バリー・リンドン」では、第一部と第二部の間に暗い運命を予感させる「即興曲第1番」の冒頭のメロディ、後半のまだ幸せがあった時代に明るいドイツ舞曲、そして、最後にもの悲しく暗い「ピアノ三重奏第2番」が入っているという格好。なかなかにみごとな選曲だと思う。
なんて書いていたら、「シューベルト・ソワレ」と「即興曲集」のCDを出して聴きたくなってきてしまった(段ボール箱の中なので、ひっくり返さないと出てこない)。
「ピアノ三重奏第2番」も一応、持ってますが、これはどうも気に入った演奏がないのです。「バリー・リンドン」のサントラがやはり一番気に入っています(映画では第二楽章だけですが)。
(4月12日追記 曲について記憶違いがあったので、一部訂正しました。)

というわけで、「バリー・リンドン」について語り出したらおそらく語りつくすことはないと思うくらい語りたいことはたくさんあるのですが、あまりにたくさんあるので、かえって何もしていない。別にブログ作ろうかな。
「アイズ・ワイド・シャット」の映画評を再録していただいた「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」では、「バリー・リンドン」は初公開時の特集記事の対談と、映画評論家の短評が2つ載っていますが、対談もさることながら、山田和夫氏の映画評が的を射たものになっています。貴族社会の崩壊が迫っている時代の物語であり、バリーのような下からの突き上げみたいなものがやがて革命の時代になっていくというとらえ方は、原作についても、映画についても正しい見方です。映画のラスト、リンドン女伯爵がサインする書類の日付が、フランス革命の年であること、ここは原作にはないということを考えると、キューブリックが貴族社会の崩壊の予兆を描いたというのは間違いないことです。

2015年3月16日月曜日

私の乗ったブルートレイン

このところ過去ばかり振り返っていますが、北斗星運行終了でついにブルートレインと呼ばれる寝台列車がすべてなくなったというので、私の乗ったブルートレインの思い出を。

初めて乗ったブルートレイン。
あさかぜ3号(1971年だと思う)
 当時、あさかぜは1号、2号、3号とあり、東京・博多間の運行(一部は東京・下関間)。
 乗車区間は広島→東京。修学旅行で瀬戸内をまわったあと、最後の訪問地、広島からあさかぜ3号に乗って東京へ帰った。当時は新幹線が岡山までしか開通していなかったので、行きは新幹線、帰りは寝台特急だった。3号はたしか夜10時すぎの発車だったので、発車までの間、広島で自由時間があった。

最後に乗ったブルートレイン。
まりも(1990年代初頭)
 まりもは北海道の札幌と釧路を結ぶ夜行列車。寝台車と座席車がある。私が乗ったときは急行だったが、その後、特急になったらしい。
 乗車区間は釧路→札幌。釧路の友人宅を訪れたあと、札幌の同人誌即売会に参加するため、まりもで札幌に向かったのだ。その後、2000年代になって、クレインズ応援のために釧路によく行くようになり、駅に停車中のまりもを何度も見たが、乗ったのは1990年代初頭の一度だけだった。

その間に乗ったブルートレイン。
さくら(1970年代なかば)
 さくらは東京・長崎間を走る寝台特急。みどりの窓口で切符を買った初めてのブルートレイン(あさかぜは修学旅行なので、自分で切符を買っていない)。
 乗車区間は東京→長崎、長崎→東京。あこがれの長崎への初めての旅行。雲仙普賢岳もまだ危険でなく、かなり近くまで行けた。

はやぶさ(1970年代なかば)
 はやぶさは東京・西鹿児島間を走る寝台特急。この頃は中国地方や九州によく旅行に行っていた。乗車区間は東京→西鹿児島。22時間かかった。帰りはまた長崎に寄って、さくらで東京に帰った。

銀河(70年代から80年代に数回乗車)
 東京・大阪間を結ぶ寝台急行。急行だから料金が特急より安く、また、夏休みなどでも切符が取りやすかったので、何度か利用した。当時は新幹線に乗るより寝台車に乗った方が安かったので、夏休みなどは寝台特急はすぐに売り切れていた。

さくら、はやぶさ(1980年代初頭)いずれも前出。
 福岡の学会へ行ったとき、行きはさくらで福岡まで、帰りは熊本に寄ってはやぶさで帰京したと思う(記憶があやふや)。この頃はブルートレインはまったく人気がなくなり、半分も人が乗っていない状態だった。70年代にはシーズンでなくてもほぼ満席だったのに、4人分の寝台のあるボックスに1人を入れるような格好になっていた。

尻、大雪(1980年代末)
 利尻は札幌・稚内間、大雪は札幌・網走間を走る急行(寝台車と座席車)。まりもと同じく、のちに特急になったが、このときはまだ急行で、料金が安かった。
 乗車区間は、利尻が札幌→稚内、大雪が札幌→網走。初めての北海道周遊一人旅。夏のシーズン中だったので、なるべくホテルに泊まらずに列車で夜に移動と思い、最初は利尻は安い座席で行こうと思ったのだけど、それまでの観光で疲れ果て、急遽、寝台に変更してもらった。目が覚めると、窓の外には青い空をバックに美しい利尻富士が見えたのが忘れられない。稚内の周辺を観光し(とても美しかった)、ホテルに一泊したあと、列車で札幌に帰り(半日くらいかかったような記憶)、今度は大雪で網走へ。これは最初から寝台を買ってあった。北海道内のブルートレインはどれも夜11時くらいに出発し、目が覚めるともう終点、という感じ。そのあと、バスで知床へ行った。

こんな程度なので、あまりたくさん乗っていないのだけど、ブルートレインの旅というのは特別な思い出がある。70年代に九州へ行ったときは、同じボックスのお客さんと長い時間をすごすので、そこでいろいろと話がはずむのが楽しかった。長崎からさくらで帰るとき、雪のせいで何時間も遅れ、途中で新幹線に乗り換えた人が多かったのだけど、最後まで乗っていたお客さんたちと雑談などしたこと、2時間以上遅れると特急料金の払い戻しがあるので、東京駅で払い戻してもらったことなど、なつかしい思い出。北斗星は乗りたかったが、北海道は飛行機の方が早いし、料金的にも差がなかったので(私は釧路に行くことが多かったので、北斗星だとむしろ高くなる)、ついに乗ることはなかったのが残念。

2015年3月15日日曜日

昔書いた文章

自分の古い文章を見ると、え、これ、自分が書いたの?とショックだったり、気恥ずかしかったりするのですが、先月28刷が出た創元推理文庫「フランケンシュタイン」の解説を見て、やっぱり隔世の感がありました。書いたのが1983年秋なので、すでに31年半前。当時は英文学の研究論文ばかり書いていたので、解説の文章が明らかに論文調だ。映画評論家になってからはこんな文章は書いていません。
そして、スタンリー・キューブリックの作品4本が公開されるのを機に出た「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」に再録された「アイズ・ワイド・シャット」の作品評を見て、またまた何とも言えない気分に。こちらは1999年夏に書いたので、16年前ということになりますが、このときはキューブリックが亡くなってまだ時間がたってなかったので、ある種の追悼的な感傷がある文章になってます。
このムック本はおもに映画館でパンフレットとして売るようで、大きな書店でも置いていないようです。アマゾンでも在庫は少ないよう(でも売れてない)。
執筆者についての紹介が何もないのですが、映画評論家の大先輩が何人もいます。私なんざほんとまさに末席を汚すというか、「アイズ・ワイド・シャット」作品評も急遽ピンチヒッターみたいな感じで私のところに話が来た感じでした(そこにしっかり「バリー・リンドン」を滑り込ませたのは、この映画について書きたいという長年の願望の表れですが、古典文学の映画化だし、それほど場違いではないと思います)。
創元の「フランケンシュタイン」の28刷は、とりあえず買っておいてよかったというか、もう「フランケン」は3つも新訳が出たから創元はいいやってか、書店の店頭に置いてもらえないみたい。アマゾンで注文しても28刷が来るとは限らないしねえ。
で、その31年半前に書いた「フランケンシュタイン」の解説ですが、当時と今ではこの作品の置かれていた状況が非常に変わってきていて、たとえば、この作品がまともに評価されていない、とか、名のみ有名で読まれていない、というのは今では正しいとは言えなくなっています。むしろ、今ではシェリーといえば詩人のパーシー・ビッシュより小説家のメアリの方が有名らしいし、「フランケンシュタイン」自体も大学の授業でとりあげられ、文学史に残る傑作として認知されています(100分で名著、と言われるのだから、名著認定されてるわけでしょう)。
ただ、フランケンが怪物の名前だと思っていた、という人はいまだに多いので、名のみ有名で読まれていないのは今でも本当かもしれません。が、新訳が文庫で3つも出たのだから、それも今後は変わっていくでしょう(創元は31年で28刷とはいっても、売上総数はたぶん、8万部以下)。
でも、私が解説書いた頃は、「フランケンシュタイン」は「オトラント城」などのゴシック小説として、一山いくらで売られてた二流作品扱いだったのです。それにSFの始祖としての高い地位を与えたのがブライアン・オールディスで、「フランケンシュタイン」を最初に名著認定したのはSF界だったと思います(アシモフも「ロボットの時代」序文で言及しています)。
そんなわけで、「フランケンシュタイン」の文学の世界での評価は、解説に書いた頃とは一変している、ということは書いておかねばなりません。
それと、「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」を結びつける、というのも今では普通のことですが、私が解説を書いた当時は非常に画期的だったようで、あちこちから「ブレードランナー」を出したのがいい、と言われました。私自身、最後に「ブレードランナー」について書こうと決めて解説を書いたというか、極端なことを言えば、「ブレードランナー」について書きたくてあの解説を書いたみたいなところがありました。ただ、リドリー・スコットがその後作り変えたディレクターズカットなどを見ると、スコットは「フランケンシュタイン」の要素を減じたいと思っているように感じます。おそらく、「フランケンシュタイン」を意識していたのは脚本家で、スコットはこの脚本家の意向を消す方向でディレクターズカットを作っているように思います(この辺、きちんと検証しておかねばと思っているのですが)。
「屍者の帝国」では、メアリ・シェリーの書いた「フランケンシュタイン」は事実とは異なる、ということになっていて、怪物は醜くなかったとなっています。となると、「本当の怪物」は醜さゆえに迫害されることもなく、それゆえに殺人を犯すこともなく、ただ、伴侶を作ってもらえなかったのでフランケンシュタインの花嫁を殺した、ということになりそうです。「フランケンシュタイン」の原作が今、受けている1つの理由は、怪物が醜い姿で生まれ、創造主に見捨てられ、他の人間たちから迫害されて、ついに殺人鬼になってしまった、というところが読者の同情を誘うからですが、その部分をあえて、メアリ・シェリーの創作だ、と言い切ってしまう「屍者の帝国」は、SFが発見した名著を文学が奪っていき、怪物への同情が読書の主流になっている現在の状況への風刺かもしれません。実際、最近の新訳では怪物への同情を誘うような内容が売りになっているように思います。創元はやはり怪奇小説として売ったので、科学者が思いがけず恐ろしい怪物を生み出してしまった、というのが紹介文になっています(ここも31年前と今の違いと言えます)。
ちなみに、「屍者の帝国」で怪物がNoble Savage 001となっているのは、怪物は文学における高貴な野蛮人の系譜にある、というところから来ています(解説に書いたっけ?)。フライデーが007なのはジェームズ・ボンドが入ってるからで、じゃあ、002から006は?といったら、女性のハダリーが003でしょうね(「サイボーグ009」を見よ)。

2015年3月12日木曜日

「屍者の帝国」とりあえずの感想

故・伊藤計劃が残したプロローグをもとに、円城塔が長編小説として完成させた「屍者の帝国」ですが、読み終えたので、とりあえずの感想のようなものを書いておきます。
この小説、大変な人気で、大好きな人も多いようなので、私の感想なんてどうでもいいだろうと思うのですが、一応、気がついたところくらいは書いておこうかな、というくらいの感想です。
まず、私は伊藤計劃の本は1冊も読んでいません。円城塔は芥川賞受賞の「道化師の蝶」ほか1篇が収録された本を読んでいます。
円城塔の小説は、ひとことでいうと、山の頂上に立つまでは何も見えないけれど、頂上に立つととたんにすべてが見えてくる、という感じです。
登山にもいろいろあって、山に登りながらまわりの風景を楽しみ、そして頂上からの景色を堪能する、というタイプと、登るときはまわりが見えない、登るのはある種の苦行みたいなところがあるのですが、ひとたび頂上に上がると、突然まわりが開け、これまでたどってきた道がすべて見えて、ああそうだったのか、と納得、というタイプ。円城塔の小説は明らかに後者で、途中はよくわからないけれど、最後まで読むと突然すべてが見えてくる、というタイプです。
最後に突然視界が開け、すべてが腑に落ちるから、途中は我慢してでも読む価値がある、という感じ。
「屍者の帝国」はしかし、長編であるせいか、最後にすべてが見えて腑に落ちる、とは行きませんでした。純文学の中編のような美しい秩序は感じられませんでした。でも、内容的にはゾンビものだし、「リーグ・オブ・レジェンド」のような19世紀パスティーシュなのだから、美しい秩序は最初からねらっていない、むしろ混沌をねらっていると言えるかもしれません。
それでも、最後の章には、突然視界が開け、心に響く何かがありました。
この最後の章は伊藤計劃の残した文章をもとに作られたのだということが文庫のあとがきを読むとわかります。が、それを知らなくても、円城塔の言いたいことは十分伝わります。
最後の章の語りは、あたかも「ユリシーズ」の最初の3章、若き芸術家スティーヴン・ディーダラスの難解な意識の流れの章から、ごく普通の中年男であるレオポルド・ブルームのわかりやすい意識の流れの章に変わったときのような、突然空が晴れたような雰囲気があります。
山の頂上に着いたら突然空が晴れた、そんな感じです。
いわゆるアウェイクニングとか、覚醒とか、エピファニーとかいったものを感じさせてくれる章です。
最後にカタルシスを味あわせてくれる円城塔の面目躍如というところでしょうか。
基本的にはゾンビもので、19世紀の文学作品のキャラや歴史上の人物が次々と出てくる話なので、「高慢と偏見とゾンビ」なんて小説もあったから(未読)、「カラマーゾフの兄弟とゾンビ」とか、「風と共に去りぬとゾンビ」とか、「シャーロック・ホームズとゾンビ」とかであってもおかしくないわけで、さすがに「吸血鬼ドラキュラとゾンビ」や「フランケンシュタインとゾンビ」は手垢がついてる感はありますが、そういう文学作品とゾンビの路線もあるな、と思います。カラマーゾフはもっと出してくれてもよかったと思うし、レット・バトラーはやはり映画のクラーク・ゲーブルのイメージが強すぎるので浮いてしまう。ほかにいいキャラはなかったのかな。
バトラーが、「結婚生活がうまく行かなかった、子供が死んだので妻と別れ、エジソンの研究所でハダリーと知り合った」というようなことを言うシーンがありますが、バトラーを出せば当然スカーレット・オハラが追いかけてくるであろうと思ってしまうわけです。
「屍者の帝国」はある種、ホモソーシャルな世界で、スカーレットのような生身の女性は主要人物にはいません。ただ1人の女性キャラ、ハダリーは(以下ネタバレ)「未来のイヴ」に登場する女性の人造人間で、生身の女性ではない。彼女は最後にアイリーン・アドラーと名前を変えるのだけど、彼女が「ボヘミアの醜聞」でホームズをやりこめるアドラーだということはすぐにわかってしまうのですね。そして、このアイリーン・アドラーもまた、ホームズとワトソンのホモソーシャルな世界が許容するタイプの女性です。
そんなわけで、若き日のワトソンがカラマーゾフに会ったり、レット・バトラーに会ったり、アフガニスタンや日本やアメリカへ行って、ついにラヴクラフトでおなじみのプロヴィデンスでフランケンシュタインの怪物に会うという、文学歴史てんこもりの小説なのですが、この小説の世界はフランケンシュタインの技術を応用して死者をよみがえらせ、労働力として使っている世界なのだけど、どうもこのゾンビ=屍者が労働力になっているというのがあまりピンと来ない。むしろ、過去の文学や歴史の人物が大勢出てくる、そのこと自体が実は屍者=過去の人物だからすでに死んでいるけれど、この物語のためによみがえらせた人々であると、だからこの小説自体が屍者の帝国であると、そういう見方の方がすっきりします。
また、人間は死ぬと体重が21グラム減る、それが魂ではないか、とか、バベルの塔のせいで言葉が多様化したとか、アダムとイヴに始まる聖書の話が出てきて、それが人間の造ったアダムであるフラケンシュタインの怪物と重なっていくとか、あるいは、人間の意識や魂とはいったい何かといったテーマが出てきます。
「21グラム」と「バベル」は、先だって「バードマン」でアカデミー賞を取ったイリャニトゥ監督の映画のタイトルで、この監督の映画には「ビューティフル」というのもあるのですが、ビューティフルも小説に中に出てきて、あれ、と思ったような気がしたのですが(ちょっと記憶不確か)、イニャリトゥの映画を意識してますかね?
人間の意識とか魂とかは、やはり、聖書にある「はじめに言葉ありき」、まさに言霊としての言葉が意識や魂の根源であると思われますが、言葉だけだと純文学のメタフィクションになってしまうので、この小説ではSFらしく、菌株というのを持ち出してきています。
でも、やっぱり、本当は言葉、言霊なのですね。なぜなら、ワトソンの語りを自動筆記するフライデー(「ロビンソン・クルーソー」か)が、(以下ネタバレ)最後に言葉を獲得することで意識を持つからです。そこが最初に紹介した最後の章。突然、空が晴れる章です。同時に、ワトソン博士はいない、という言葉に伊藤計劃はいないという思いが重なって、うるっと来てしまうのですが、このラスト、私は「アイ、ロボット」のラストシーンを思い出しました。あの映画はアシモフの「アイ、ロボット」と「鋼鉄都市」、そしてロボット三原則を取り入れた映画でした。外へと足を踏み出すフライデーと、映画のラストが重なって、意識を持った人造人間が新しい世界を作り出すというモチーフを感じました。

2015年3月9日月曜日

雨の日と月曜日は

カーペンターズの歌で好きなのは「雨の日と月曜日は」という曲ですが、これは雨の日と月曜日は気分が落ち込むという歌。で、今日は雨の月曜日と、一番憂鬱な組み合わせ。おまけにこのところ、某大学のバカキョームのせいでキレそうになってたので、やだなあ、と思いつつ、東京駅周辺にお出かけ。
別に用はなかったんですが、創元の「フランケンシュタイン」が2月に28刷になったのに、なぜか書店で28刷を見かけない。丸善の丸の内本店では平積みになっていますが、他ではなぜか25刷とか26刷とか27刷とかにしかお目にかからないのです(ほとんどもれなく「屍者の帝国」のタイアップ帯つき)。
いったいどこにあるのか、28刷。
いやそれ以前にだよ、創元の「フランケン」すっかり売れなくなってるんですけど!
書店でもアマゾンでも、売れてるのは新潮文庫と光文社文庫、それに続いて角川文庫の新訳3文庫。
ありゃー、まずい、もしかしたら28刷が最後になるかも。だったら買っておかなきゃ、と思って出かけたのです(丸善・丸の内本店へ)。
ついでに「屍者の帝国」の文庫版あとがきも読んできました。本編は単行本で読んだので。
「屍者の帝国」についてはそのうち感想を書きますが、創元の「フランケン」の帯は正式な「屍者の帝国」とのタイアップのようですね。黒い帯のデザインが単行本の表紙のデザインっぽい。「屍者の帝国」は河出書房なのだけど(「屍者の帝国」の最後に参考文献として創元の「フランケン」が入っている)。
というわけで、丸の内本店で平積みの1冊を買ってきましたが、この平積みが最初に見たときから全然減ってないんですよ。もともと創元の売り場はあまり人来ないしなあ。
私は解説だけだから、増刷になっても本はもらえないので、たまーに買うのですが、この帯つきは記念に。

そして、帰宅すると、この本が届いていました。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4873764327/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1425903958&sr=1-1&keywords=%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」1200円。
キネ旬のバックナンバーからキューブリックに関する記事を選んで載せたという、大変安上がりな本(おい!)。
今月から特集上映される「時計じかけのオレンジ」、「バリー・リンドン」、「フルメタル・ジャケット」、「アイズ・ワイド・シャット」のキネ旬の特集からの再録で、私の「アイズ・ワイド・シャット」作品評(1999年のバックナンバーから)が掲載されています。映画館で売るパンフレットを兼ねているのでしょうね。
ただ、写真がかなーり残念な出来。文章も縦書きだったものを横書きにしているのですが、うーむ。
でも、劇場用パンフレットとして考えれば値段のわりに読むところが多いし、初公開時にどう受け取られていたかがわかるという点では価値ありのような気がします。

2015年3月8日日曜日

セッション(ネタバレあり)

20代の監督の初長編映画がアカデミー賞作品賞などにノミネート、助演男優賞など3つのオスカーを勝ち取った「セッション」を見てきた。
ひとことでいうと、パワハラ、セクハラ、アカハラ盛りだくさんの音楽映画、である。
主人公は名門音大の1年生ニーマン。鬼教師として有名なフレッチャー教授の率いる優秀なジャズバンドにドラマーとして参加することが許される。
フレッチャーのやり方は、とにかく学生を罵倒し、限界まで追いつめて高い能力を引き出すこと。
怒鳴るわ、物を投げるわ、ビンタするわ、差別用語で相手をののしるわ、プライベートなことまで言って相手を罵倒するわ、とにかくパワハラ、セクハラ、アカハラのオンパレード。この種のハラスメントを知るには絶好の映画。
音大では教授が絶対的なパワー(権力)を持っていて、学生は従うしかないから、まずこれはパワハラ。そしてアカデミズムの世界だからアカハラ。そして、バンドのメンバーは男ばかりなのだが、セクハラに相当する差別用語もたくさん言っている。メンバーに女性がいたら即セクハラ。
この音大は女子学生もいるのだが、なぜかこのバンドは男ばかりで、フレッチャーのシゴキに耐えて演奏を競い合う男性メンバーたちを見ていると、これは体育会系の世界だな、とすぐに思った。高校野球とか、ああいった学生のスポーツの世界は男だけのホモソーシャルな世界で、なおかつ、フレッチャーのようなシゴキをする指導者がいて、シゴキの仕方もそっくりというか、特定の学生をいじめることで全体に緊張感を与えるとか、そういうやり方で強くなる、うまくなる、みたいな世界だ。
いや、これは体育会系だけではない、男だけの世界だけでもない、と思う。
たとえば、去年話題になったスタップ細胞の世界、分子生物学とか、いわゆる実験系の世界もまた、指導者の教授が描いたストーリーに合った実験結果を持ってこないと学生を怒鳴るとかいろいろあるらしい。だから教授のストーリーに合わせた捏造をしてしまうケースも少なくない。小保方晴子もそういう世界で捏造したのだろう、と言われている。
この実験系の世界では若い研究者たちはピペドと呼ばれ、奴隷のように実験を繰り返し、教授の望む結果が出ないと罵倒されるという、パワハラ、アカハラの世界らしいのだ。
もしかして、こういうのは日本だけ?と思うところだが、「セッション」みたいな映画ができるところを見ると、どうやら日本だけではないようだ。「セッション」は監督が高校時代に優秀なジャズバンドでドラマーをしていた経験をもとにしているようで、その高校のバンドはきびしい指導者のもと、全米一と言われるほどのバンドになっていたらしい。しかし、監督にとっては、指導者のシゴキはいまだにトラウマになっているようだ。
そんなわけで、「愛と青春の旅立ち」とか「フルメタル・ジャケット」とかの軍隊ものに似ているのだけど、「愛と青春の旅立ち」ほど感動路線ではなく、かといって「フルメタル・ジャケット」ほど狂気でもない。その中間あたりにあるのが面白い。
「愛と青春の旅立ち」では、鬼軍曹のシゴキに耐えて士官学校を卒業する若者たちにはある種の達成感があるが、「セッション」にはそれはない。フレッチャーは人間的な面も持つが、こと演奏に関しては完全にイッテしまっている。しかし、ニーマンも、他の学生も、こういうシゴキに耐えて一流になりたい、と思う。だから、フレッチャーとニーマンや学生たちの間にはある種の共犯関係が生まれる。
体育会系の世界でも、実験系の世界でも、シゴキや罵倒に耐えた末に何か大きなものをつかむと、シゴキや罵倒もいい思い出になってしまうのだろう。
しかし、実験系で捏造が多発するように、シゴキや罵倒に耐えて大きなものをつかめるのはごく一部。大半は精神を病んだりしてしまうに違いない。指導者にいじめられていた高校野球のキャプテンが自殺したとき、なぜ早くやめなかったのか、と思ったが、こういう世界にいると共犯関係になってしまって、脱出するのがむずかしいのだろう。
ニーマンはフレッチャーのシゴキに耐えてなんとか一流になろうとするが、ある失敗からフレッチャーに見放され、音大をやめることになる。以下ネタバレにつき、色を変えます。
音大をやめたニーマンには平穏な日々が訪れるが、その後、フレッチャーと再会する。フレッチャーは教え子の自殺が原因で大学をクビになり、今はフリーの指揮者になっている。現在指揮をしているバンドがドラマーを必要としているので、参加しないか、と言われ、ニーマンは参加することになる。
そのバンドはメンバーはみな大人で、女性もいるから、フレッチャーはこのバンドでは大学のときのようなパワハラはしていないのかもしれないが、元教え子のニーマンに対しては大学時代と同じイジメをする。というか、フレッチャーは大学をクビになったのはニーマンのせいだと思っていて、彼に恥をかかせようとするのだ。だまされた、とわかったニーマンは反撃に出る。そのあとのクライマックスがすごいのだが、ここでも憎みあうニーマンとフレッチャーの間には奇妙な共犯関係があることがわかる。バンドの主導権を握ることでフレッチャーに対して勝利するニーマンの姿は、いかにもアメリカ映画、ハリウッド映画が好む結末だ。自我の強さと戦う意志の強さが勝利するという結末に爽快感を感じつつも、自我の強さも戦う意志の強さも持ち合わせない人々はどうすればいいのかと思う(私自身は戦う意志が強い人間だが)。結局、強さがすべて、ということなのか、と思うと、考えさせられる。

2015年3月7日土曜日

「バリー・リンドン」の思い出

本日7日からスタンリー・キューブリック監督の4作品が上映されるとのこと。
作品は「時計じかけのオレンジ」、「バリー・リンドン」、「フルメタル・ジャケット」、「アイズ・ワイド・シャット」の4作品。
このうち、「アイズ・ワイド・シャット」はキネ旬の特集で書かせてもらった作品。しかも、これは試写当日に突然、電話が入り、これから試写に行けるかと聞かれ、もちろん、「行けます!」と答えて、試写を見て書いた作品だった。
この「アイズ・ワイド・シャット」も好きな作品だけど、キューブリックの映画で私が一番好きなのは「バリー・リンドン」。
なんといっても、私が英文学者をめざすきっかけになった映画。これがなければ「バリー・リンドン」の原作者サッカレーについて研究して大学院へ進むこともなく、「フランケンシュタイン」の解説を書くこともなく、E・M・フォースターを研究してその映画化で次々と仕事をすることもなかったはず。
そう、キューブリックの「バリー・リンドン」が私の原点なのだ。
それは1976年、「バリー・リンドン」が劇場公開され、それを見た私は原作者サッカレーに興味を持った。最初に読んだのは角川文庫から出た原作の翻訳。これは原作の単行本の翻訳だったのだが、その後、洋書店で、単行本になる前の雑誌連載の原稿をまとめた本に出会った。
この単行本と雑誌連載の違いが面白く、しかも、キューブリックの映画は雑誌連載の方をもとにしているのが明らかだった。
このあたりのことは当時、映画仲間とやっていた同人誌に書いたが、これがきっかけで私は卒論のテーマにサッカレーを選び、代表作「虚栄の市」などを読んだ。
正直、「バリー・リンドン」の第一人者は、少なくとも日本では私だ、という自負はある。が、悲しいかな、英文学の世界で地位を得られなかった私はいまだに「バリー・リンドン」で仕事をしていない。今回のリバイバルでもできれば「バリー・リンドン」についてどこかで書きたかったが、無名の私にはなすすべもない。
もちろん、ネットでならいくらでも書けるし、それを読んでくれる人もいるだろう。
「バリー・リンドン」について、何も残さずに終わりたくない。今はただそう思っている。

2015年3月6日金曜日

20万pv超え

日付が変わる頃にこのブログのページビューが20万pvを超えました。
もう少し時間がかかるかと思ったのですが、「小さいおうち」への急激なアクセスの増加で、一気に大台へ。
いろいろと使いづらいところもあるブロガーですが、とりあえず、ここで続けていきます。
みなさま、ありがとうございます。

2015年3月3日火曜日

英語の専門家を気取る馬鹿を晒す。

塾長で英語の専門家を自称するこんな人物がバカを晒しているので、注意喚起します。
https://twitter.com/ashikabiyobikou/status/570842108212310017
しかも、誰も決定的な間違いを指摘してあげてない(あ、1人いましたね。ただ、別のツイートにリンク貼る形なので、直接教えてあげる気はないのがわかる)。
おそらく、神戸大学の入試問題なので、神戸在住の内田樹が書いた英文と勝手に脳内妄想しているのでしょう。

この英文が誰のものかを知るのはまったく容易です。
because democracy is built upon respect and concern でぐぐればいいだけの話。
see other people as human beings でもOKのようです。
すると、マーサ・ヌスバウムというアメリカの哲学者の文章が出てきます。

哀しいかな、ネットはデマや間違いの方が流布しやすく、真実はデマに隠れてしまいがちです。
しかもデマの発信者は予備校の経営者?
恐ろしや。

2015年3月2日月曜日

昨日という日

昨日は1日で傘を2本壊してしまった。
最初は少し壊れかかっていた折り畳み傘をさして美容院へ行き、そこで預けたときに壊れてしまった。そこで美容院はビニール傘をくれたので、それをさして帰るとき、猛烈な風が吹いてきて、ビニール傘はあっという間に骨が折れ、ビニールがはがれてしまった(こんなに弱い傘なのか)。
結局、コートのフードをかぶって帰りました。幸い、雨脚も衰えてきていた。
美容院のあと、コーヒーショップで「屍者の帝国」を読みだしたので、その呪いだろうか?
「屍者の帝国」は、舞台となる19世紀後半の実在の人物や、小説のキャラの名前が次々と出てくるんだけど、出す必然性のない名前も多い。レット・バトラーみたいに世界の違う人を出してほしくないと思う。ハダリーはすぐにわかっちゃうしねえ。ピンカートンはこの時代の話によく出てきますが。
こういう本て、若い頃に読むと、出てくる名前が次々とわかるのが自分の知識自慢になってけっこううれしかったりするんだけど、年をとると経験でいろいろ知識があるのが当たり前だから、むしろ、またかよ、うざい、と思ってしまう。年をとるってこういうことか。もちろん、必然性があって出てくる人は違うけど。
話の方は読み終わってからでないと判断できないので、今は書きませんが、アシモフのロボット三原則のパクリが出てきて、しかもフローレンス・ナイチンゲールが考えたフランケンシュタイン三原則となってるので、ここは笑えました。

さて、帰宅してこのサイトの統計を見てびっくり。最近にないページビューの多さ、それも「「小さいおうち」読了後の覚書」の記事がものすごく読まれている。映画と原作の比較論です。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/11/blog-post_24.html
昨日は1日のページビューが2000近くと、もしかしてこのブログ最高? そのうち「小さいおうち」の記事のアクセスが1700近く。昨夜、テレビでこの映画が放送されたからですね。いや、驚いた。今日もアクセス数が増えています。
テレビってすごいねえ。NHK教育で「フランケン」やっただけで、原作本は新訳中心にかなり売れているみたいです(創元も少しは売れてるみたい)。「屍者の帝国」は「フランケンシュタイン」が元ネタで、参考文献に創元の翻訳が入ってますが、劇場アニメ化といっても「フランケン」は原作じゃないし。