2015年10月17日土曜日

谷中 の ようなもの

森田芳光の商業映画デビュー作「の・ようなもの」の続編が、森田映画ゆかりのスタッフや俳優たちによって製作された。
題して「の・ようなもの の ようなもの」。
内容は前作の主人公、落語家の志ん魚の35年後を描くというもの。
志ん魚はすでに落語家をやめていて、谷中で便利屋をやっている。その彼を探しだし、亡き師匠や後援者のためにもう一度落語を、と口説くのが若手落語家の志ん田。この若い落語家と、もう60歳近いと思われる元落語家の、落語というよりは漫才のようなもの?で話は進む。
森田の「の・ようなもの」は昔見たきりで、どういう内容なのかすっかり忘れているけど、森田映画の中では特に好きな作品の1つとして記憶に残っている。
そういや、以前、森田作品の私のベスト5とか考えたことがあったっけ。
1位は「ときめきに死す」で、あとは順不同で「の・ようなもの」、「それから」、と、えーと、あとはなんだっけ。あとでゆっくり思い出します。
この「の・ようなもの」続編も、ほのぼのとした雰囲気で、笑わせる場面も多く、なかなかよい映画だったが、その一方で、気になることもあった。
志ん田が志ん魚を探して日光やら長野やらへ行くのだけど、最初日光へ行く時の列車がJR日光線なのだ。
志ん田が谷中のあたりに住んでいるとしたら、最寄駅は日暮里だから、常磐線で北千住に出て、そこから東武線で日光へ行くのが普通だと思うのだよね。つか、日光行くならJRより東武の方が便利で安い。私も北千住からよくスペーシアに乗って行ったわ、日光(ホッケー見に)。
たぶん、東武の許可もらうとか面倒だったんだろうね。あるいは、JRの方が景色がいいとか。
ちなみに、日暮里駅には宇都宮線のホームはなく、線路をただ通過していくだけです。日暮里駅の外にはいろいろな鉄道が見られる場所があって、あの辺は鉄オタのメッカなのよね。
森田監督も鉄オタだったってことで、この映画にもいろいろな鉄道が出てくるのだが、鉄オタでない私にはどれが何だか判別不能なのがちょっと悔しい。
それから谷中ですよ、谷中。
今の区に引っ越して以来30年、谷中は近いので、何度も行っているが、猫ウォッチングを始めてからはさらにいろいろな場所に出入りするようになり、台東区にも詳しくなった。
それで気になるのは、志ん魚が家の前のゴミを集積所に持っていくアルバイトをしていること。
実は台東区はゴミは軒先収集で、家の前に置いておくことになっている。だから、谷中ではこのバイトは成立しない。
ただ、谷中は文京区と接しているので、文京区側でならできますが。
よみせ通りという通りが台東区と文京区の境になっていて、通りの片側にはゴミの集積所があり、もう片側では軒先収集というビミョーな地区。
それ以外にもいろいろ知っていると気になるのだが、志ん田が金網のある陸橋を通るシーンが何度かあって、ああ、あれは谷中霊園から線路を超えて荒川区東日暮里に出る橋だな、この状況で志ん田がここを通るのは変だよな、とか。
谷中といっても、たとえば谷中商店街は片側が台東区、もう片側は荒川区で、有名な夕焼けだんだんは完全に荒川区。そして日暮里駅も荒川区。荒川区も含めて「谷中」と総称されているところがある。
もちろん、映画を作った人たちはこういう事情は知った上で、映画として、古きよき町・谷中というフィクションを作り出しているのだろう。まさに、の・ようなもの。の・ようなもの、とは、現実に似たフィクションという意味にもなる。劇映画はすべて、の・ようなもの、なのだ。森田映画の根底に常にこの考え方があると思うと、わかってくることがある。
谷中の有名なヒマラヤ杉とそのまわりの古い民家(元商店の名残りがある)が何度か出てくる。この地域は大資本に買われ、いずれビルにされてしまうと言われている。ヒマラヤ杉の右側の道は言問い通りに通じていて、その道沿いのアパートが空いていたときに引越を考えたことがあった。行ってみたら、言問い通りに近いので騒音がうるさく、あきらめたが、あのあたりにはまだ古い民家やアパートがある。観光客は普通、左側の道を行く。
そしてラスト近く、森田家の墓がある墓地の背後に、うっすらと浮かび上がる高層ビル。これは日暮里駅前の3つの高層マンションだ(所在地は荒川区東日暮里)。
ヒマラヤ杉と日暮里の高層マンション。失われゆく谷中と、その近くの新しい「町」。この辺の押さえ方はとても納得であった。

マレフィセント(ネタバレ大あり)

「アナと雪の女王」の次回作だったので、このアニメを見た人は必ず予告編を見るので、「アナ雪」に続いて大ヒットとなったというディズニーの実写ファンタジー「マレフィセント」。人気があるのか、去年の映画なのになかなかツタヤで旧作にならず、結局、準新作で見ました。
なんだ、これ、「アナ雪」と同じパターンじゃないか、というのが最初の感想。
要するに、女たちの連帯と真実の愛。女たちといっても姉妹とか疑似母娘とか家族系の女たちですが、彼女たちの戦いに男が協力するというのも似てるし、なにより真実の愛が、愛が。。。
って、こう書いた時点ですでにネタバレですが、以下、ネタバレ大ありで行きますので、注意してください。

「マレフィセント」は「眠れる森の美女」のスピンオフというか、王女に呪いをかけた魔女マレフィセントが主役で、実は彼女は悪い魔女じゃなかった、というお話。
なので、設定とか完全に変えてます。
まず、この世界は人間の世界と妖精の世界があって、妖精の世界は平和だけど人間の世界は争いばかり、という設定ですが、なんかすごい乱暴な設定で、出てくるのは主役クラスの妖精と人間だけなので、それ以外の妖精も人間もほとんど描かれないから、一部の主役クラスの妖精と人間だけで話が出来上がっているので、妖精の世界と人間の世界なんていうほどの広い世界じゃないわけです。なんつうか、小さいグループが2つある程度なんです。
で、マレフィセントが生まれてきた王女オーロラになんで呪いをかけたかというと、それは、オーロラの父親が自分を裏切り、傷つけたから。まあ、それはいいです。
このあとは「眠れる森の美女」とまあまあ同じで、父王は糸車をすべて隠し、オーロラは3人の妖精に森の中でひそかに育てられる。
が、マレフィセントが悪役でないとなると、この3人の妖精がその分悪くなるんですね。この3人、とにかくダメダメな妖精で、育児はまったくできない。なので、オーロラは飢え死にしそうになったり、崖から落ちそうになったりで、呪いが実現する前にオーロラ死んじゃうじゃないか、ってわけで、マレフィセントがオーロラを助けまくり。助けられたオーロラはマレフィセントをゴッドマザーとして慕う。マレフィセントもだんだんオーロラが好きになってしまい、母娘のような関係になる。
しかし、マレフィセントにも一度かけた呪いは解けない。やがて呪いが実現する日が近づき、というところでまたも別展開に(ネタバレ大ありですから注意)。
とにかくあの3人の妖精がガンなんですが、この3人がオーロラに呪いの話をしてしまうのですね。オーロラはゴッドマザーとして慕っていたマレフィセントが、とショックを受け、王の城へ出かけていく。母親の王妃は心労のためにもう亡くなっているのですが、この父王ってのがなんだろね、娘を愛してない。もともと、娘を愛していたから糸車を隠したり、3人の妖精に託したりしたのだろうに、娘と再会したとき、明らかに王は娘を愛してないのだ。なんか、この王の人物描写がすごく雑で、イライラする。これじゃご都合主義の悪役でしかない。
でもまあ、そういう親父と対面したせいか、オーロラはじっと手を見る。指を見る。そして糸車が隠してある部屋へ。
あれ、糸車全部燃やしたけど、1つだけ残ってたという童話の話は無視か。
オーロラが昏睡状態になったあとも、童話では長い年月がたつのでその間、人間たちは石になってたとか、そういう展開だったと思うのだけど、こっちはそんな悠長なことはやってられないのか、さっさと話は進む。
で、ネタバレ大ありだと何度も言うが、呪いは真実の愛によるキスでしか解けない。
「アナと雪の女王」の真実の愛は、姉妹の愛でした。
「マレフィセント」の真実の愛は、母の愛なのです。
目を覚ましたオーロラはたぶん、してやったり。
じっと手を見る、指を見るオーロラは、マレフィセントは悪い魔女なのか、それとも本当に自分を愛してくれる「母」なのか、それを確かめるために糸車に手を出したのでしょう。そして、マレフィセントの愛が真実の愛だという確信もあったに違いない。
母と娘の真実の愛、まあ、それはよいんですが。
しかし、ディズニーの実写ファンタジーって、なんで無駄に暗いのだろう。とりあえず暗くしとけって感じのあまり深みのない暗さ。
あの傑作アニメ「眠れる森の美女」の明るさ、楽しさはなく、3人の妖精もつまらなくされてしまい、童話にあった魅力的な部分は失われ、かわりに別の魅力があるかといえば、あまりないような気がする。ディズニーはかつて、MGMに「オズの魔法使」でディズニーアニメの実写版をやられてしまったのだが、ディズニーの実写ファンタジーは永遠にMGMの「オズ」に遠く及ばないのではないかと思う。CGでなんでもできるということ自体が、「オズの魔法使」のような映画はできないということなのだ。