2016年6月22日水曜日

「ティエリー・トグルドーの憂鬱」(ネタバレ大あり)

久々に試写に行ってきた。
そして、久々に力説したくなった。
映画がよかったのもあるが、それ以上に、プレスに掲載されている湯浅誠の映画評がかなり間違っていたからだ。
湯浅誠といえば反貧困ネットワークという社会活動で有名な人だが、映画に関してはちょっと読みが浅い。これほどきちんと理詰めで作られた映画は珍しいほどなのに、その理詰めできちんと理解するということができていないとしか思えない。
というわけで、ネタバレ大ありで反論します。

ティエリー・トグルドーは51歳のフランス人。長年工場で技師として働いてきたが、会社は人件費の安い海外での生産を決め、工場を閉鎖、従業員を解雇する。
それから1年半、ティエリーは職安に通い、クレーン技師の資格を取り、就活に励むが、現場経験がないと雇ってもらえない。無駄な研修をなぜ受けさせた、と職安に文句を言うも、職安はのらりくらり。
ティエリーは妻と障害のある息子と3人暮らし。失業中とはいえ、ダンスを習う余裕もあるし、マンションやトレーラーハウスも持っている。マンションを売って賃貸に住んだ方が貯金ができて安心と薦められるが、この年で借家暮らしはいやだと言う。かわりにトレーラーハウスを売ろうとするが、相手はティエリーの足元を見て値下げを要求するので、断ってしまう。
やがて彼は模擬面接のビデオを見て面接の練習をする就活セミナーに入る。そこであいそが悪いとかいろいろ言われる。日本の大学生の就活みたいだ。
そして一転、画面は大きなスーパーで警備員として働くティエリーのシーンに変わる。
そのスーパーは人員過剰なのか、経営者は不正をした従業員をすぐに解雇してしまう。客のクーポンを捨てずにネコババしたとか、ポイントカードを持っていない客のポイントを自分のものにしたとか、不正ではあるが、普通だったら即クビではなく警告や懲戒だろうと思うところが、即クビ。経営者は不正をなくすためではなく、従業員を減らすためにやっているのだ。
やがて、長年、スーパーのために働き、客にも同僚にも人気があった女性がクビになり、店で自殺するという事件が起こる。そしてまた、些細な不正でクビになる従業員を見たティエリーはある決断をする。

湯浅誠は、善でも悪でもない「ふつうの人」は、システムのバグになるか、そのバグを発見し駆除する側になるか、どちらかしかないと言う。別の言い方をすると、体制側について生き残るか、そこからはみ出して生きていけなくなるか、ということだ。この見方は正しい。
ティエリーはスーパーの警備員になることで体制側の人間、バグを発見し駆除する側の人間になる。しかし、お金に困って万引きする老人、長年スーパーのために尽くしたのに小さな不正で突然クビになる従業員などを見ているうちに、彼はこれ以上バグを駆除する側にいることに耐えられなくなり、警備員をやめてしまう。そのあと、彼がどうするかについて、湯浅誠はこう書いている。

「そしてラスト、ついにシステムに耐えられなくなったティエリーは、自らバグとなる。そこに、絶望の淵に踏みとどまる人間の尊厳を見ることは可能だろう。しかし、「その後」はどうなるのだろう。
 私が想像するのは、その後、再び映画の冒頭に戻って、ハローワーク職員と対話するティエリーの姿だ。ティエリーは再び、システムの一部になろうと努力するだろう。またループが始まるのだ。なぜなら、それ以外に生きていく方法、家族を養っていく方法はないのだから。システムに忠実であることによって初めて、彼は家族とのつましい幸せのひと時を手に入れることができる。そこに曖昧さや妥協はなく、したがって救いはない(後略)。
 「では、ふつうの人を幸福にしないそのシステムを変えればいい」と言う人がいる。しかし、ブリゼ監督は、ティエリーがそのような「闘争」から脱落するシーンを織り込むことで、その出口も周到にふさぐ。ティエリーは、システムを変える闘争に立ち上がるようなヒーローではない(後略)。」
(引用終わり)

湯浅氏はティエリーを演じたヴァンサン・ランドンを知らないのだろう。彼はヒーローなのだ。
「すべて彼女のために」では無実の妻を刑務所から脱獄させる男。
「君を想って海をゆく」では難民を救おうとする男。
参考「ヴァンサン・ランドンは超法規的な男が似合う」
http://sabreclub4.blogspot.jp/2010/11/blog-post_09.html

この映画のランドンは確かにダメな中年男を演じている。プライドばかり高くて現実的でない。マンションやトレーラーハウスを売りたがらないところにはこれまでの生活をそのまま維持したいという保守性が見える。彼は未来を切り開くということをしない。
前半で、ティエリーとともに工場をクビになった元従業員たちが、会社を訴える話し合いをしているが、ティエリーはもう疲れたと言って、彼らとは縁を切ってしまう。湯浅氏はこのシーンを見て、ティエリーは完全に闘うのをやめたと思っているが、警備員として社会を見た彼が変化し、昔の仲間たちと一緒に闘おう、困っている人たちのためにも、と思うことがありうるとは想像もしなかったようだ。
しかし、決然と席を立ち、スーパーを出ていくティエリーには決意のようなものがうかがえた。
湯浅氏とは違って、私は、その後、ティエリーはまた職安に行って同じことを繰り返すとは思わない。彼はまず、昔の仲間のところへ行くだろう。
この映画はループしない。必ず、次は未来へ進んでいく。
そうでなければ、この映画はただ、現実を示して絶望するだけの映画になってしまう。
この映画の結末を見て、最初に連想したのは、タルデンヌ兄弟監督の「サンドラの週末」だ。あの映画のラスト、サンドラは、あなたをクビにしないかわりに別の人をクビにすると言われ、決然と会社を出ていく。サンドラも最初はダメダメだったけど、最後には変化した。ディエリーもスーパーでの経験で必ず変化している。工場しか知らなかった彼が別の世界で経験したことは、彼を進歩させているはずだ。

この映画が理詰めでできていると感じたのは、ティエリーがスーパーの警備員になる前に就活セミナーを受けていて、そのあと、突然警備員のティエリーが現れたからだ。技術者として再就職することをあきらめ、別の職種に就くために、彼は就活セミナーを受けたのである。実に理路整然とした展開だ。
また、クビになった元従業員が店で自殺すると(明らかに抗議の自殺)、本社から来た男が従業員に、きみたちのせいではないと言う(店長は罪悪感を感じているようだった)。これはつまり、システムの中の人間と外の人間を切り離そうとする洗脳だ。人間を私たちと彼らに分け、私たちは違う、私たちは大丈夫と思わせるのだ。しかし、またしても小さい不正を犯した従業員が見つかったとき、ティエリーは、私たちと彼らという分け方の欺瞞に気づいたに違いない。
前半、ティエリーは昔の仲間の闘いから離脱するが、このような経験を経たのち、彼は昔の仲間の言うことが正しいと思うようになったのではないか。
ステファヌ・ブリゼ監督はこの映画について、次のように言っている。
「なぜなら私はみんなをどこへ連れて行こうとしているか判っていたからだ。(中略)行き先も回り道も全て書かれた地図を私は持っていた。」
まさに回り道である。後半はティエリーの回り道、実に有意義な回り道だったのだ。自分さえよければ、家族さえよければいいと思う「ふつうの人」から、「ヒーロー」に変化するための回り道である。
そして、今、日本でも多くの「ふつうの人」が声を上げ始めている。立ち上がるには力がなさすぎる人もいるが、この映画のティエリーはマンションもトレーラーハウスも持つ、ある程度余裕のある人だ。こういう、ある程度の力と余裕のある「ふつうの人」は立ち上がることができるのだ。

プレスシートの表紙は右側に横向きのティエリーの姿、左側に「まだ、勝負は終わっていない」という惹句がある。この惹句を考えた人は、たぶん、私と同意見だろう。

以下余談。
この映画は、万引きした人がお金を払えば許されるとか、スーパーの従業員がボーナスももらえる正社員らしいとか、日本とはだいぶ状況が違うところもある。正直、見ていて、日本の労働環境の方がこの映画よりずっとひどいと思わざるを得なかった。フランスでは100万人が見たという大ヒットだそうで、試写室も大盛況だったが、日本との違いが共感や理解の妨げにならなければいいと思う。

苦い追記

2016年6月18日土曜日

33年ぶりの村上春樹

33年ぶりに村上春樹の小説を読んだ。
最後に読んだのは1983年の「中国行きのスロー・ボート」(短編集)。
その前に「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」を読んで好きになり、続いて「羊をめぐる冒険」を読んだら、あれ、と思った。
もともと村上春樹のデビュー当時の文体が好きだったのだ。内容は別にどうでもいいというか、内容ではなく文体に惹かれた。
当時、私は日本人作家の小説がだめで、継続的に読むほど好きだったのは川端康成くらいだったが、村上春樹は初めて好きだと思えた同時代の作家だった。
昔のことなのでよく覚えていないが、やはり文体だったと思う。内容はもうさっぱり忘れている。
なんというか、それまで日本人作家の小説を読むと、文章がどんよりしていて好きになれなかったのだが、村上春樹の初期の2作の文体はきらきらとして透明感があった。日本的なウェットな内容も、そのキラキラ透明な文体だと心地よかった。
ところが、「羊をめぐる冒険」では、文体が他の日本人作家と同じになっていたのだ。内容は確かに面白いし、羊の象徴するものも興味が尽きない。ミステリーのようにぐいぐい読ませるが、肝心な文体はもう、私の好きな村上春樹ではなくなっていた。
そして、新刊の「中国行きのスロー・ボート」を読んだあと、村上春樹を読むのをやめた。
それから33年、私が読んでいた頃よりはるかに有名で売れる作家になり、ノーベル賞候補と毎年のように言われたが、私は彼の本を手にとることさえなかった。
それが、一番新しい「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みたいと思ったのは、タイトルに惹かれたからだろう。「ノルウェーの森」とか「海辺のカフカ」では読む気になれなかったのだが、この長いタイトルは中世ヨーロッパの宗教的な散文物語のタイトルのようで、気を惹かれた。リストの「巡礼の年」がモチーフになっているらしいのも興味を持った理由の1つ。内容はこれまでさんざん聞いていた村上春樹のワンパターンみたいだったので、内容に惹かれたわけではなかった。
読み始めてみると、傑作ではなさそうだが、面白いと思えた。前半は先の見えない展開で、物語がどう転ぶかわからない。こういう小説はとりあえず面白い。
ところが、真ん中くらいになって、主人公が高校時代の4人の親友に拒絶された理由が明らかになるあたりから、先がミエミエの展開になってしまった。
前半の先の見えない展開、ちょっと魅力的なエピソード(それは主人公・つくるの大学後輩、灰田にまつわるエピソードなのだが)が突然なくなり、主人公は付き合い始めたばかりの恋人の助言で、かつて自分を拒否し、自分を絶望させ、死の淵まで追いつめた4人の旧友に会いに行くことになる。ただ、4人のうち1人はすでに死んでいて、その死も謎。でも、なぜ拒絶されたのか、その過去と向き合わないと、あなたとはつきあえない、と今の彼女に言われて、つくるは故郷の名古屋へ、そして国際結婚した1人のいるフィンランドへ行く。
とにかくこの、恋人に言われて名古屋に行くあたりからもうまったくだめ。
見え透いた展開、人間としての肉付けがこれっぽっちもない登場人物。特に、すでに死んでいる1人(精神を病んでいたらしい女性)がだめ。つくるはこの女性が好きだったのだが、読んでいて、いったい、この女性は本当に存在したのだろうかと思ってしまった。フィンランドで再会したもう1人の旧友の女性がいろいろ説明しているけど、この女性の言うこと、全部信じていいの?と思ってしまう(嘘だったらどうするよ。だって、彼女しか知らないことをいろいろしゃべってるんだよ)。
名古屋で再会する男の旧友2人も、体育会系のセールスマンとスピリチュアル系のグルという型にはまった人物。主人公のつくるもそうだけど、人間が全然魅力がない。
多崎つくるは4人の旧友ではなく、大学の後輩で突然姿を消した灰田を探しに行くべきだったのではないだろうか。灰田のエピソード、そして灰田が語る彼の父親と緑川というジャズ・ピアニストの話は面白い。つくるは夢の中で2人の女性の旧友に誘惑され、死んだ方の女性と関係するのだが、彼の夢の中には灰田も出てきて、灰田がつくるにフェラするのだ。2人の女性は姓にそれぞれ白と黒という色が入っているけれど、白と黒をまぜると灰色になる。つくるが求めているのは本当は男の灰田なのでは? 実際、つくるは同性愛者と思われたくないので女性と付き合い始めたと言っている。
村上春樹はつくるが灰田を探しに行くという冒険をする気になれなかったのだろう。無難な女性との関係の方へ行ったのだろう。後半は本当につまらない。逆に言うと、前半の面白いところが生かされないのが惜しい。
登場人物は4人の旧友(男性2人はそれぞれ赤と青を姓に持つ)、灰田、緑川と、つくる以外は色彩を姓に持っている。つくるだけが色彩を持たないのだが、では色彩がないから透明なのかというと、全然不透明だ。私が好きだった村上春樹の透明な文体はもちろん、この作品にもない。やはり最初の2作で消えてしまったのだなと思った。その上、地に足のつかない日本語になっているような感じさえする。それは前半からすでにそうで、日本語をいちいち気にしながら読む状態だった。
リストの「巡礼の年」に関していえば、この小説は、ラザール・ベルマンの「巡礼の年」を聞いていた主人公がブレンデルの「巡礼の年」を聞いてある悟りを得る、と要約できる。でも、その悟りというのが、

中二病か?

というようなシロモノ。全体に中二病という言葉がぴったりの小説であった。

2016年6月15日水曜日

川柳

見苦しい
リオに執念
号泣知事



テレビなくてよかったかな。
都知事選では別の候補に投票したよ。
東京オリンピックは返上すべき!

以上。

2016年6月14日火曜日

拒絶の手紙

拒絶の手紙ということで思い出すのは、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツがディズニー・スタジオからもらったという断りの手紙。
ただ、これもフィクションかな、と思うのは、伝記的なサイトには書いてないし、証拠もなさそうだからだ。
シュルツは何をやってもだめで、でも、絵だけは得意だった。なので、ディズニー・スタジオで雇ってもらおうと絵を送ったら、「あなたの絵は当スタジオの水準に達していません」として断られてしまった、というエピソード。
何をやってもだめな少年だったシュルツが自分をモデルに漫画を描いて成功した、というテンプレな伝記が作られていたのである(前の記事のバレエダンサーと似てるね)。
でも実際はシュルツは勉強はできて、飛び級で上の学年に上がっていたので、そこで年上のクラスメイトたちに囲まれて苦労したということのようだった。
また、漫画家としてもなかなか成功せず、苦労したのは事実。
でも、有名になってからはウォルト・ディスニーに対等の立場で会っている。

有名人には事実とは異なるテンプレな伝記があるというのはよくあることで、それが売る戦略になっていることも多い。チャーリー・ブラウンが飛び級するほどの優等生だったら受けない。

話変わって。
私が断りの手紙やメールを一番多く受け取っているのは、大学の教員公募と産業翻訳の会社からだ。
大学の教員公募は昔は必ず不採用の手紙が来たが(内容はもちろん、テンプレ。いわゆるお祈り)、最近は就活で言うところのサイレントお祈り(不採用の通知をまったく出さない)が増えている。来てもテンプレだからどうでもいいんだけど、それでもサイレントお祈りの大学は問題がありそうだと思って覚えておいている。
産業翻訳の会社の方は、圧倒的にサイレントお祈りが多い。来る場合はやはりテンプレが多いのだが(お祈りつき)、1社だけ、トライアルについてていねいに意見を書いてくれたところがあった。そこには感謝している。
産業翻訳会社でトライアルを受けさせてもらったのは2008年くらいからだが、最初は一応、トライアルを送ってきた。そこで訳して出してもほとんどサイレントお祈り。3社ほど採用されたが、仕事はほとんどなかった。やがてトライアルを送ってほしいとメールしても返事が来なくなった。この間2年くらいだと思うが、産業翻訳も翻訳家の供給過剰になっていたようだ。私の場合、専門分野を持たないこと、非常勤講師をしているので授業中は携帯にも出られないことなど、この業界では不利なことがいくつもあった。実際、理系のポスドクをしている人のブログに、翻訳会社と契約しているが、実験中に電話があるので仕事が受けられないと書いてあった。
翻訳会社に応募しなくなって5年くらいはたつので、今の状況はわからない。翻訳の世界というのは産業であれ出版であれ、変動が激しいというのが私の印象で、5年前と今では大きく違っていてもおかしくない。5年前に仕事をゲットして翻訳家になれた人の話はあくまで5年前の話なので、すでに翻訳家としての地位を確立している人の話はこれからの人には参考にならない場合が多いと、自分の経験で思う。年配者が今の大学生のきびしい現状(高い学費、利子つきの奨学金、ブラックバイト)をまったく知らずに、自分たちはこうして大学を出たのだからと言ったりしているが、過去と今はまったく違うこということが意外に人間にはわからないものなのだ。

お祈り(不採用通知)から話が脱線してしまったけれど、私にとって忘れられないのは映画評論家として有名なH氏からの断りのハガキである(誰だかすぐにわかっちゃうけど一応、匿名で)。
H氏はもともと仏文学者として高名な方であるが、80年代半ば頃には映画評論家として名を上げていた。そのH氏が新しい映画雑誌を創刊するという広告を見て、まだ創刊前であったが、「私にも執筆させてほしい」という手紙を書き、キネマ旬報に掲載された映画評のコピーを同封した。しかし、返事は、「キネマ旬報に書いたような文章は私たちの雑誌には向きません」という内容だった。
「私たちの雑誌」という表現にカチンと来て、すぐにハガキは捨ててしまった。この人には「私たち」と「彼ら」という2種類の人間がいるのだと思ったのだ。そして、私は「彼ら」の方だと。
私自身、H氏の名前は知っていたが、H氏のことをよく知らなかったので、確かに「彼ら」の方なのである。それはすぐにわかった。また、H氏がキネマ旬報を批判していることもわかった。それで納得したので、その雑誌が創刊されてからは遠くから見ている程度だったが、創刊第2号である女性の投稿による映画論が掲載された。そのとき、H氏が、「**さんのような繊細な女性の登場を期待する」みたいなことをあとがきで書いたので、またまたカチンと来た。なぜなら、その女性は私とは正反対のタイプの女性であり、なおかつ、そういう繊細な女性の登場を、という言い方が、英文学などのアカデミズムで男性たちが受け入れたい女性のテンプレだったからだ。
やがて90年代になると、H氏の影響を受けた若手の映画評論家が主流になった。90年代にかろうじて映画評論家を続けられたのは、H氏の影響を受けた書き手ばかりの現状に不満な編集者たちが私を採用してくれたからである。
時代は変わり、キネマ旬報にもH氏の影響を受けた評論家たちの名前が目次に並び、H氏自身も対談という形で登場した。H氏がキネ旬の批判をしていた時代は遠い過去になっていて、もう誰も覚えていないのかもしれない。そして、私が受け取ったハガキも、捨ててしまったので、この話自体がフィクションだろう、と言われても反論できないのだ。

なんだかなあ

アフリカ系アメリカ人のバレエダンサーを起用したCMで、バレエアカデミーが応募者を不採用にする手紙みたいなのを流してるんだけど、これを実際にこのダンサーが受け取った手紙だと言っているサイトがいくつかあった。
でも、普通に考えて、おかしいと思ったので、いろいろググってみた。
すると、このダンサーは13歳のときにバレエ教師に才能を見出され、この教師の推薦でバレエ学校に通って頭角を現したらしい。
彼女の経歴などを英語のサイトで見ても、彼女がバレエアカデミーに拒否されたという記述はなかった。
この手紙も、最初に「応募者様へ」と書いているが、普通、不採用通知に「応募者様へ」とは書かない。相手の名前を書く。
手紙の内容も、ダンサーの容姿がバレエに向いていないということ、13歳では遅すぎるということで、こういう理由でアカデミーが断るとは思えない。
アカデミーが断る理由はダンサーとしての資質や技量にもとづくはずなのだ。
ただ、13歳では遅いとか、容姿がどうとかは、一般的なクリシェイとしては存在する。
バレエは10歳くらいから始めるのが一番いいのだそうだが、有名なダンサーが3歳で始めたという話が伝わったりすると、13歳では相当遅いと感じてしまう。しかし、実際は10歳が適齢期だとすれば、13歳は少し遅いにすぎない。実際、13歳から始めて有名なローザンヌ賞を受賞したダンサーは日本にもいる。
確かに世の中にはこういう人はこういう仕事には向いていないというクリシェイがあって、それであきらめる必要はないのだと言ってもらえるとうれしい人は多いだろう。だからそのダンサーも人気があって、彼女が出演する演目はソールドアウトなのだそうだ。
なんだかなあ。
その昔、キャスリーン・バトルというアフリカ系アメリカ人のソプラノ歌手が日本のCMで大人気になって、メトロポリタン・オペラが来日したとき、彼女の出る「フィガロの結婚」は即ソールドアウトだったのだそうだ。バトルは実力のある歌手だけど、そのメトの公演で私がすべての公演を見た「ホフマン物語」にもアフリカ系アメリカ人のソプラノが主役で出ていた。でも、彼女の方は注目なし。なんだかなあ。
くだんのバレエダンサーは貧しい家に生まれ、母親は次々と男を替える生活、そんな中でバレエの才能で成功したアメリカン・ドリームということで人気が出るのはわかる。あの架空と思われるアカデミーの手紙にあるような偏見をものともせずに成功したのも事実だろう。
でも、あの手紙は、フィクションだと思うのだ。そういう風潮をもとにしたフィクションで、バレエの世界を知る人にはちょっとね、な内容じゃないだろうか。
一般人に受けるけど、その世界を知る人にはちょっとね、というのを見ると、なんだかなあと思うのである。
そのダンサーは自伝を出して映画化もされるということで、一部では、バレエより自己宣伝に力が入っているとか、バレエの技術はまだまだなところがあるとか批判されている部分もあるようだ。実力があるのは確かなのだから、あまり色物にならないでほしいと思う。

2016年6月11日土曜日

やっつけ仕事

ある映画本が誤字誤植変換ミスの山だというので、刷り直しが決定、購入者には希望により交換するという出来事があった。
どうも、以前あった、アインシュタインの伝記の機械翻訳みたいなことがまた起こったのだな、と私には思えた。
その本は最初に編集者の前口上があるらしいので、その編集者の企画なのかもしれない。
その出版社は最近、雑誌の過去記事を集めてムック本などを作っているところで、過去記事には原稿料を支払わないから、安くあげている本なのだろうなと、内心思っていた。
もしもその編集者の企画だとしたら、過去記事からテーマに沿って原稿を選び、新たなインタビューも加えて本を作るということを1人でやった可能性がある。
過去記事には古いものもある。それを自分でタイピングしたから誤字誤植変換ミスの山になったと想像されている。
でも、ちょっと待ってよ。スキャナーでスキャンしてテキストデータに変えるというソフトが素人向けのスキャナーにもついているんじゃないの? 少なくともそれをやってれば指摘されているような変換ミスは起こらないはず。
また、校正をしていないのだろうという指摘もある。あれだけのミスがあれば当然、校正はしていない。読み返すことさえしていないだろう。
タイピングや校正は人に任せて、と書いている人もいるが、過去記事で安く上げる本だからそんな人件費は出ないだろう。
編集者もこれにじっくり取り組むほどの報酬は得られないのかもしれない。
だが、結果的に、こういうミスの山の本を作り、発売から数日後にアマゾンのレビューで書かれてしまった以上、ほっかむりはできないので、刷り直しとなったのだが、大損である。
安く作るはずが逆に大損になったに違いない。
今のところ、アインシュタインの機械翻訳ほどには話題になっていないし、かばう人が多いというか、これだけのミスがあるのに絶賛のツイッターが出まくっていたというのもなんだけど。
なんというか、今、プロの出版がだめになっているのかなと思う。同人誌だってこんなことはない、というか、同人誌はみんな自分の原稿がきちんと活字になることにすごく神経質だから。
原稿に対するリスペクトが足りない。きびしいけど、そう言わせてもらう。つか、この出版社だけでなく、だいぶ前からそういうリスペクトがない出版社が増えていて、それで私は翻訳の仕事が続かなかったというのがある。翻訳は元の文章を書いた人を尊重しなければならないのだが、それを出版社に言ったりすると、うるさいやつと思われて仕事なくなるみたいな状態になったのだった。

2016年6月7日火曜日

節目の年

人生には何度か節目の年があるものだけれど、私の場合、それは1976年、1984年、1997年の3回だと思う。
最後の節目の年、1997年から来年で20年になるので、この辺でもう1回節目の年が欲しいよう、ということで、3回の節目の年を振り返ってみる。

1976年
1 映画「バリー・リンドン」を見て、アメリカ文学からイギリス文学(ヴィクトリア朝小説)に鞍替えする。翌年、原作者サッカレーについて卒論を書いた。
2 当時、日本で唯一の通学制の翻訳学校だった四谷の翻訳学校で有名な翻訳家・中村能三氏の授業を受ける。結局、翻訳学校は3か月でやめてしまったが、中村氏の教えの数々は今でも私にとって座右の銘となっている。実際に小説の翻訳をしていたとき、中村氏の教えが何度も脳裏によみがえった。
3 大学院進学を決意する。
「バリー・リンドン」でサッカレーに興味を持ち、原書で作品を次々と読み、英語の研究書まで手に入れて読むようになったが、私の大学には大学院がなかったので、英文学の研究者になるという考えは最初はなかった。そこで文芸翻訳家をめざそうと思ったのだが(当時はなりたい人があまりいなかったので、あのまま翻訳学校に行っていればなれたと思う)、どうも私のやりたいことは翻訳ではないと気づいた。それならと、他大学の大学院をめざすことにした。幸い、私の大学からは理系や教育学系の学生の一部が東大の大学院に進学していて、東大クラスの院をめざすのはめずらしくないことがわかった。院のない大学だからこそ、最高峰をめざすという考えがあった。

1984年
1 「フランケンシュタイン」解説で評論家になる。
2 キネマ旬報に執筆するようになる(映画評論家を名乗る)。
大学院に進学したものの、就職は女性差別がきびしかった。それでも前年、岡山大学から講師就任の依頼があったが、そのときすでに「フランケンシュタイン」解説を書き始め、評論家デビューの野望を抱くようになった私は、研究職に就く唯一のチャンスを断ってしまった。今なら地方の大学に就職しても映画評論家はできるが、当時は非常にむずかしかった。実際、キネマ旬報などの雑誌に書くには首都圏に住むことが大前提だった。

1997年
1 7年ぶりにキネマ旬報に本格復帰。
2 小説の翻訳を本格的に始める。
3 初めてのパソコンを買う。Windows95搭載のSHARPのMebius。30万円もしたが、クレジットの一括払いで買っているので、お金があったんだねえ。黒のラップトップに赤い小さな文字でMebiusと書かれているこのパソコンは今でも大事にとってある。SHARPがパソコンをやめ、そしてあんなことになるとは想像もしなかった。
80年代には大学院で研究したE・M・フォースターの映画化が相次いだことから、キネ旬ではけっこういい思いをさせてもらった。が、90年代に入ると編集部の体制が変わり、縁がなくなってしまった。その間は看護系の専門誌や「エスクアイア」などで執筆しつつ、非常勤講師や予備校の仕事をやっていたが、90年代半ばにこれらの仕事が激減。ヤバイと思って小説の翻訳に本格的に進出(下訳や短編の訳などは80年代からやっていた)。同時にキネ旬に連絡をとり、復帰を果たす。ただ、出版翻訳はこの頃氷河期に入っており、仕事が続かなかった。キネ旬ではこのあと10年間くらいが一番活動させてもらえた時期になる。

中村能三氏以外の名前はあげませんでしたが、ほかにもいろいろな方々との出会いやご厚意でこれまでやれてきたことは言うまでもありません。深謝。