2016年8月31日水曜日

読書

地元の図書館に登録し、ネットで本を予約して近くの分館で受け取る、ということを試してみた。
今はどの町の図書館もあちこちの分館にいろいろな本を分散させている。以前は図書館の場所がどこも便利な地域だったのでネットで予約せずにそれぞれの図書館に出かけて借りていたが、今の町はJRのターミナル駅の近くと住んでいるところの近く以外はとても行けない。
で、ネットで検索したら、読みたい本がすべて借りられる状態だったので、まとめて予約。昨日今日で一気に読んだ。
「ルドルフとイッパイアッテナ」の3巻目と4巻目、それに作者の斉藤洋の童話作家に関するエッセイも借りて読んだ。
「ルドルフ」は1巻目と2巻目(映画の原作)は文庫で買って読んだが、どちらも80年代の作品。が、3巻目の「ルドルフとゆくねこくるねこ」は2002年、4巻目の「ルドルフとスノーホワイト」は2012年に発行されている。物語の中の時間は最初からあまりたっていないのに、本の発行はかなり間があいている。
「ルドルフ」シリーズはやはり1巻目の「ルドルフとイッパイアッテナ」が一番出来がよくて、2巻目の「ルドルフともだちひとりだち」もいいけれど、こちらは映画の方がうまいなと思う。前にも書いたけど、作者の立場が不安定な時期に書かれた1巻目が一番切実な感じがして、作者が安定してしまった2巻目はやはりそのあたりの切実さが失われた感じがする。
そして10年以上のブランクをあけた3巻目「ルドルフとゆくねこくるねこ」は、江戸川の川向こうに凶暴な犬が現れ、犬や猫を襲うというので、川向こうの猫たちがルドルフとイッパイアッテナに応援を頼む。結局、イッパイアッテナだけが川向こうへ行くことになり、ルドルフはブッチーや、川向こうの猫テリーと一緒に待つことに。その間のこの3匹の物語が中心になる。
大筋は凶暴な犬とルドルフたちの戦いで、その伏線がきちんと張られているけど、その大筋の間にある無関係なエピソードが面白い。
特にルドルフたちが浅草の浅草寺に行き、そこで偶然、岐阜から来たリエちゃんと再会。しかし、リエちゃんはルドルフを覚えておらず、友達から「リエちゃんのルドに似てる」と言われると、「うちのルドの方がかわいい」と言って、ルドルフ大ショック、という話。
そのあとすぐにリエちゃんとはぐれてしまい、ルドルフ自身、すぐにはリエちゃんとわからなかったこと、リエちゃんも小学生から中学生になっていて、思い出の中のリエちゃんとは少し違っていたこと、など、なかなかにじーんと来るエピソードなのであります。
これに、ブッチーの飼い主の金物屋が店をたたんで茨城へ行くことになり、ブッチーは残ることを決意、そして、ブッチーに恋人がいることがわかる、といったブッチーのエピソードがもう1つの中心となる。
こんな具合で、イッパイアッテナは最初と最後しか出てこないが、この2つのエピソードと、留守番中の3匹の猫のやりとりが楽しい。
ただ、野良猫か飼い猫かみたいな議論はやっぱり作者が安定しているせいか、切実さを感じない。
最後に、イッパイアッテナが川向こうで恋人ができたみたいなのだけれど、これは次の4巻目には生かされていない。
それからさらに10年のブランクをあけて発表された「ルドルフとスノーホワイト」。
こちらは前半が別のテリトリーでけがをしたブッチーの敵討ちにルドルフが出かけ、そこで女ボスのスノーホワイトに出会う物語。後半が、恋人と結婚して3児の父となったブッチーの娘チェリーが行方不明になり、ルドルフとスノーホワイトが探しに行く物語。つながりはあるとはいえ、2本立てなので、求心力が劣る感じは否めない。ことわざがいろいろ出てきて、ユーモアで笑わせるところも多いけれど、全体に、ヤクザの縄張り争いみたいな話になっているのが残念というか、「ルドルフ」シリーズにはそぐわない感じがするのだが。イッパイアッテナもスノーホワイトも、そしてルドルフも言葉が悪くなっているし(イッパイアッテナはもともと悪いのだが、今回はさらに悪く感じる)。
そんなわけで、4巻目が少し後味が悪かったので、もう一度3巻目を読みなおしたのでした。

2016年8月26日金曜日

「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者

「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者・斉藤洋が亜細亜大学の教授(独文学者)であることを知り、驚くとともになるほどと思うところがあった。
なんでも斉藤氏は大学院を出て非常勤講師をしていたとき、お金がほしくて文学賞に応募することを考え、初めて書いた「ルドルフとイッパイアッテナ」でみごと受賞。が、翌年、専任講師の職に就き、童話作家と大学教師の二足のわらじをはくことになったのだとか。
つまり、大学院を出てすぐに専任講師になれていたら、童話作家にならなかったかもしれない?
しかし、この人、大学教員になったあともものすごくたくさんの童話を書いている。こんなに次々と書けるというのは並大抵のことではない。
最近ずっと奥田英朗の小説を読んでいて、今は「サウスバウンド」を読んでいるのだけど(ものすごく面白い)、奥田氏が岐阜の出身で、ほかにも岐阜出身の作家の本を読んだので、斉藤氏も岐阜の出身かと思ったら、イッパイアッテナの住む江戸川区北小岩の出身だった。でも、岐阜ともなんらかの接点はあるのだろう。
それにしても、斉藤氏が非常勤講師をしていて、将来が不安なときに「ルドルフとイッパイアッテナ」を書いたと知ると、いろいろわかることがある。
原作ではイッパイアッテナは飼い主がアメリカに行ってしまい、野良猫になると、それまで親しくしていた飼い猫たちから差別されるようになる。隣の家の飼い犬デビルとも仲良しだったのに、デビルもイッパイアッテナに意地悪をするようになる。ブッチーだけが野良猫を差別しない飼い猫として描かれる。
私も非常勤講師を長年やっていて、ついに専任になれなかったのでわかるのだが、大学院を出て研究職をめざした場合、まわりがどんどん専任になっていくのに自分だけいつまでも非常勤だとつらい。専任になった人たちは私に比べて優秀なわけではないと私は確信していたし、専任になれた人も優秀さでなれたわけではない思っていたが、それでも専任になった人は別世界に行ってしまい、非常勤の自分は同じ職場にいても差別されるというか、まともな人間として扱ってもらえない。
口では、専任になると大変よ、非常勤の方が自由でいいわよ、あなたは特に雑誌に映画評書いてるんだし、と言うが、実際は彼らは専任になれたというだけで優越感なのだ。そして、自分が専任になれたことを正当化するために、こちらを傷つけることを平気で言う。
その一方で、イッパイアッテナのような、飼い猫とは違う自由さを満喫しなかったと言えばうそになる。生活は苦しいが自由だった。組織や上の人に縛られることもなかった。
映画の後半の原作「ルドルフともだちひとりだち」では、イッパイアッテナの飼い主が帰国し、その家にルドルフも住めるようになる。しかし、自分の主人はやはりリエちゃんだと思うルドルフは岐阜に帰る決意をする(ここは映画とは違う)。このあたりは、童話作家と専任講師の両方になれてしまった作者の思いがあらわれているのだろうか。イッパイアッテナも、飼い主が戻ってきたが、俺は俺だと言う。そのあたりに2つのものを手に入れてしまった作者の立場が透けて見える。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は野良として生きる猫たちの決意がにじみ出ているが、続編の「ルドルフともだちひとりだち」では彼らは住む家を手に入れている。作者が専任講師になれなかったら、どういう話に変わっただろうか。
斉藤氏はプロットを立てずに物語を転がしていくタイプらしい。これは奥田英朗とまったく同じだ。そして、重要なことは細部に宿ると考えているようだが、これも奥田氏とまったく同じ。奥田氏はこの手法で小説を書くことのつらさを「野球の国」で書いているが、童話を量産している斉藤氏には奥田氏のような悩みはないのだろうかと思う。ただ、どちらも先が見えない展開で細部を重視ということは作品からはっきりと読み取れる。

試写のハシゴと3回目の「ルドルフ」

水曜日は久々、六本木で試写のハシゴ。
木曜日はシネコンで3回目の「ルドルフとイッパイアッテナ」。
さすがに3回も見る必要はないんじゃない?とは思ったのですが、前回見た後、やはり後ろ髪をひかれるというか、また見たいという気持ちが強くて、出かけました。
さすがに前半はもう、これで打ち止めにできるかな、と思ったのですが、後半になるとどんどん涙腺がゆるんできて、最後はまた見たいという気持ちに。
これって、たぶん、昔だったら入れ替え制ではないので、そのまま座ってもう1回見て、それで満足できたのだと思うのですが、入れ替え制で出なければいけない、というのが後ろ髪になってしまうような気がします。
見るごとに発見があり、新しい感想があるので、何度見ても損はないのですが。
今回気づいたのは、昼から夜とか夜から朝とかいった1日の光の変化。1年の季節の変化も美しいけれど、この1日の光の変化もかなりうまいです。
シーンと音楽もよく合っていて、特に好きなのが、ルドルフが岐阜へ行くためにトラックに乗り、仲間との別れをかみしめたあと、きっと目を見開くシーンで、ここで音楽ががらっと変わり、シーンの雰囲気も変わるというところ。イッパイアッテナと一緒に覚えた地名が目の前に次々と見えてくるというシークエンスもいい。
あと、ルドルフが口を開けたときに小さい白い歯が見えるのがかわいいんですよ。
ルドルフが岐阜から帰ってきて、イッパイアッテナと再会したとき、張りつめていた糸が切れるみたいに号泣して、それをイッパイアッテナが黙って見ているシーン。ここでイッパイアッテナはルドルフが何を経験したか、言わなくてもわかったんだな、と思いました(原作ではイッパイアッテナは最初からそれを予想していたと書いてある)。
イッパイアッテナがケガをしたとき、お互いにわかっているのに彼とルドルフが嘘を言ってごまかすシーンとか、ここは原作どおりなんだけど、言わなくてもわかる、みたいなあうんの呼吸があるんですね。これはけっこう日本的かもしれない。
というわけで、4回目も行きそうです。
映画館は相変わらずガラガラで、1回目は30人くらい、2回目は10人くらいで、今回は一桁だったみたい。これでよく続映してるな。来週もまだ1日5回くらいやるみたいだし。

さて、試写で見たのはジョン・ル・カレ原作の「われらが背きし者」と、アトム・エゴヤン監督の「手紙は憶えている」です。
ル・カレの翻訳は長年、早川書房から出ていたけれど、途中で集英社に移り、この「われらが背きし者」はなんと岩波書店。翻訳者もミステリーの人から大学教授に変更。やっぱり岩波は大学教授じゃないと翻訳出せないのか。岩波に移った時点で、ル・カレはミステリーではなく純文学にします、と宣言したようなものか。翻訳出版権料とか、翻訳業界とかの大人の事情をなんとなく想像してしまいます。
原作は読んでいませんが(例によって難解らしい)、映画は非常にわかりやすいです。わかりやすい分軽い感じになってますが、最後は一度は悪が勝ったように見えて、そのあと逆転が、という感じ。原作はもっと暗いかもしれません。役者はうまい人がそろっているので、そこそこ見応えはあります。
「手紙は憶えている」はアウシュヴィッツの収容所の責任者だったドイツ人が身分を偽ってアメリカに住んでいるので、収容所の囚人だった老人2人が復讐を試みる、という話。1人は車椅子で自由に外に出られないので、もう1人の老人が彼の指示に従ってそのドイツ人を探すが、彼の方は認知症を患っているので、物忘れがひどい、という設定。
最後の5分間でどんでん返しがある、とプレスやチラシに書いてあるのですが、そのどんでん返しは最初から予想がついてしまいます。むしろ、注目すべきは主人公が旅の過程で出会う人々。
復讐すべき相手は名前しかわからないので、その名前の老人を次々と訪ねるのですが、ある者は戦争中はアフリカ戦線にいたが、戦後になってホロコーストの事実を知り、ショックを受けた、と言う。別の者はアウシュヴィッツにいたドイツ人だが、同性愛者なので収容所に入れられたことがわかる。さらには別の者は戦争中は十代の少年で、そのとき以来ナチスの信奉者になり、その影響で息子もナチ信奉者になっている。そして収容所の責任者だったドイツ人は家族にその事実を知られることを恐れている。そしてそのあと、意外というか、予想していたとおりのどんでん返しがあるのですが、それはともかく、ホロコーストの時代のドイツ人たちにもさまざまな人がいたことを示す内容になっています。特にアウシュヴィッツの責任者だったドイツ人が決して冷血な人ではなく、むしろ過去を葬り去ろうとしている普通の人間として描かれている点が興味深い。過去を葬り去るということはその「意外な結末」とも大いに関係しているし、原題の「Remember」もまさにその過去を思い出せと言っているわけです。ラスト、マーティン・ランドー演じる車椅子の男の目に浮かぶ涙も、単に復習に成功したからというだけではないように思います。
北米の名優クリストファー・プラマーとランドー、ドイツの名優ブルーノ・ガンツとユルゲン・プロホノフの4人の演技が映画をしっかりと支えています。

2016年8月18日木曜日

モルモット吉田の「シン・ゴジラ」評

これはすばらしい。映画技法としての「シン・ゴジラ」評。
http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2491.html

実は私、庵野監督ってよく知らないんですよ。エヴァとか見てないし。
しかし、この映画評は庵野監督の映画製作の方法から「シン・ゴジラ」を分析していて、なかなかに面白かった。
アニメを作るようにして実写映画を作ったとか、アニメのキャラのような演技をする俳優を使ったとか、目から鱗ですね。
確かに、石原さとみは日系人に見えないけど、その理由は英語が下手だからじゃなくて、日本語がうますぎること、そして、日本人ののっぺりとした顔だからなんです。
そういえば、日本のアニメって、欧米人のキャラも日本人ふうののっぺりした顔ですね。
また、もう1人のヒロイン、女性科学者の尾頭ひろみもまさにアニメや漫画のキャラです。彼女が人気なのもわかる(私も好きです)。
前半のユーモラスなシーンや、セリフがやたら早口とか、途中でセリフが以下略みたいになる感じとか、私はそこが面白くて好きなんですが、これは実写映画のリアリズムではない。確かにアニメ、いや、むしろ漫画のリアリティに近い、とは言えます(そこがまた、私には面白かったんです)。
ゴジラの変身とかはじっくり過程を描いているのに、それに対する対策が過程省略になっている、というのも鋭い指摘です。日本人がんばるっていっても、それは荒唐無稽なファンタジーよね、と思ってしまうのはそういうところにあるのですね。
「新幹線大爆破」に言及しているのも我が意を得たりで、私も「新幹線大爆破」を連想しました。
モルモット吉田氏は最後に、映画の中心部に最初から空いていた穴を八方手を尽くして埋めた空虚感と書いていますが、この中心の穴こそ、観客が勝手に自分の思いをそこに入れてしまう空白になっているので、結果的に、この穴が映画のヒットにつながっているのです。
左派の人たちが勝手に自分の思いを入れ込んでしまうのもそこなんです。
だから、この空虚感は映画にとって欠点ではなく、むしろ利点になっていると思います。
私がこの映画にカタルシスを感じたり、多少の感動を覚えたりしても、それでリピーターにならないのもそのせいです。本物の感動は「ルドルフとイッパイアッテナ」の方にあるのです。
この映画評は納得できるものでした。そして、最後に否定的にとらえている部分も、実は長所なのだと、私は思います。私が「シン・ゴジラ」にこだわっていて、好きなのは、まさにここに書かれている要素なのです。

2016年8月17日水曜日

リピーターしてきた。

先週シネコンで見た映画のリピーターをしてきた。
映画館で見た映画をリピーターするのって、おそらく20代の頃以来。試写で見たのを映画館で見るのは時々あるけれど。
で、何をまた見に行ったかというと、

「ルドルフとイッパイアッテナ」

「シン・ゴジラ」ではありません。
「シン・ゴジラ」は何度も見るといろいろ発見がありそうだけど、何度も見たい映画ではないのだよね。
それに対し、「ルドルフとイッパイアッテナ」はとにかく好き。何度でも見たい。
絵の動きはディズニーなどと比べればそれはもう予算が違いすぎて、動きが悪いのはしかたないというか、二度目だと最初それが少し気になったけど、話が進むにつれて気にならなくなる。
しかし、この映画、なんでこんなに客少ないの?
場所によっては入っているらしいけど、近場のシネコンでは先週より狭いハコになっていて、その上お客さんは10人くらいだった。先週も30人くらいだった気がする。
舞台となる江戸川区の隣の区のシネコンですよ。ある意味、ご当地に近いのに。
シネコンが松竹系なのも関係しているのかな。
とにかく、この調子では週末から回数減らされる、と思ったので、火曜にまた見てきました。

以下、ネタバレ大有りなので、注意してください。

やっぱり二度目だと細かいところがよくわかって面白いです。
原作となった2冊「ルドルフとイッパイアッテナ」と「ルドルフともだちひとりだち」も読んだので、原作との違いもばっちり。
後半、イッパイアッテナの飼い主が戻ってくる時期が映画と原作で違います。
原作では飼い主が戻ってきてからルドルフが岐阜のリエちゃんのところへ帰りますが、映画では岐阜に帰る方が先で、この方がドラマとしてはよくできている。
ただ、原作の方がイッパイアッテナの飼い主のことがよくわかります。
あと、これは原作にないエピソードだけど、ルドルフが冷凍庫のトラックの文字を見て岐阜に行くと勘違いして乗りこんでしまうシーン。ドアが開いているとギフと書いているように見えるのですが、ドアを閉めると実は「ギブ&テイク」。で、今回よく見たら、ドアが開いていると「ギフイク」=「岐阜行く」に見えるんですね。だからルドルフが勘違いして飛び乗ってしまったのだ。
あと、ルドルフとイッパイアッテナの行く小学校の図書室に原作の単行本があったり、偉人伝の本に宮沢賢治と並んで手塚治虫があったり。
DVDになったら静止画像にして本のタイトルを見たいくらいでした。
そしてラスト近く、岐阜のリエちゃんの家に着いたルドルフが、リエちゃんの家に自分によく似た猫がいることを知るシーン。もう自分はここに戻ることはできないとルドルフが悟るシーンですが、ソファで寝ているリエちゃんがルドルフが帰って来たとは知らずにルドルフをもう1匹の猫(名前は同じルドルフ)と思って抱く。でも、ルドルフは自分からリエちゃんの手を離れるのですね。リエちゃんが手を放したのではなくて。
このシーンでリエちゃんの手しか見せないのもいいし、これ、脚本かなりうまいのではないでしょうか。棚の上にルドルフの写真と餌用の皿が置いてあって、まるで神棚みたいになっていて、それを見てルドルフが踏ん切りをつけるというのも映画のオリジナル。
劇中に流れる音楽がとてもよくて、この音楽に合わせて猫たちが行動するシーンや、岐阜に向かうルドルフが大きな目をきっと開いて道路標識を見るシーンとか、音楽とシーンがよく合っています。
1年たったときにルドルフの首が太くなっていて、体も大きくなっているとか、東京に降る雪をルドルフがじっと眺めているのは岐阜の雪を思い出しているんだろうな、とか、四季の風景も美しい。
クロネコヤマトの大和運輸が協力してますが、「魔女の宅急便」と同じタイプの黒猫の絵ですね。
1つ惜しいと思ったのは、電信柱の上にある機械、東京電力と中部電力では機械の形が違うのに、岐阜のシーンでも東電の機械の絵だったことです。原作だとリエちゃんとか、方言をしゃべってるけど、岐阜のリサーチが映画はイマイチだったのかもしれない。
でも、リピーターしてよかったというか、また見たい。今回はストーリー知っていたので、最初から泣けてしまいました。日本人好みの泣ける映画なんだけど、なんでお客さん少ないのか?

2016年8月16日火曜日

シン・ゴジラの行動範囲がローカルすぎる件

「シン・ゴジラ」でゴジラの歩くところが首都圏の人にしかピンと来ない、ローカルすぎる、という意見がネット上にありました。
いや、それは本当。
では、ゴジラはどこをどう歩いていったのか、「シン・ゴジラ」観光したい人のためにサイト。
http://li-vvon.com/arcticle/5649

まず、最初に現れるのは東京湾の海ホタルですね。ここは有名。
次が東京都大田区蒲田の呑川。
実は私の本籍地のすぐ近くです(ローカル)。
私は神奈川県川崎市生まれですが、本籍地は大田区蒲田。蒲田の駅の近くでなおかつ呑川の近くです。
蒲田なんて、戸籍抄本取るときしか行かないなあ。最後に行ったのはいつだろう。
なぜ本籍が蒲田かというと、父親の家族が戦前戦中にここに住んでいたからです。
東京大空襲で焼け出され、戦後は川崎市に移り住んだのです。
ゴジラが光線を出して暴れるシーンに東京大空襲を見る人もいるのですが、まさに我が家が空襲という名のゴジラに蒲田で襲われ、多摩川の向こうに避難したわけです(ローカルだな)。
さて、ゴジラはいったん海に帰り、そのあと鎌倉の由比ヶ浜に上陸。
実は鎌倉市はHPに津波のシミュレーション映像を載せて話題になった町です。観光地なのにあえてそういう情報を出すことにした市の英断が讃えられています。この映像では、高いところに避難ということで、どういう経路で逃げるかがわかるようになっています。
もしも映画の作り手たちがこの映像を知っていて由比ヶ浜を選んだとしたら、まさにゴジラは津波の象徴となるわけです。そして、鎌倉は全国的に有名な観光地。
このあとゴジラは横浜を通って川崎に達するのですが、なぜか映画は全国的に有名な横浜をスルーしています(ここいらがローカル)。
ゴジラは多摩川に達し、そこで自衛隊の攻撃が始まりますが、舞台となるのは武蔵小杉駅(神奈川県川崎市)と多摩川駅(東京都大田区)の間にある、多摩川にかかる丸子橋あたり。
ここって、週に1回、通勤で通るんですよ。
武蔵小杉は高層マンション林立で有名な場所ですが、やっぱりローカル。
丸子橋の隣を走る東急東横線で通勤しているのですが、このあたりは上流も下流も眺めがよくて、気に入っています。青い丸子橋も美しい。近くに神社があります。でもローカル。
ちなみに多摩川駅の隣は有名な田園調布で、同じ大田区でも蒲田と田園調布では葛飾区と文京区くらいのイメージの差がありますね(ローカル)。
ちなみに田園調布は東横線の特急は停まりません(ローカル)。
栃木県の宇都宮市でもロケされていたんですね。宇都宮も行ったことあるけど、今や餃子で有名な宇都宮。
クライマックスは東京都千代田区の科学技術館屋上と東京駅付近。東京駅付近は全国的に有名で、特にあの赤レンガの駅舎が有名ですが、科学技術館屋上は原爆をテーマにした「太陽を盗んだ男」のクライマックスでもあったので、映画ファンはすでに指摘していました。が、あの映画を知らなくても、背景に武道館の屋根が映るので、ここが北の丸公園であることがわかります(ローカル)。
武道館は有名だと思いますが、あの屋根でピンと来たという意見をまだ見てない。「太陽を盗んだ男」を知ってる人しか書いてなかった気がする。
ここは皇居と靖国神社がすぐそばなのです。
ゴジラは皇居は避けるのは初代からデフォですね。
そして、この映画ではゴジラから逃れる人々が神社に逃げるとか、多摩川のところでも神社に司令部を置くとか、どうやらゴジラは神社も避けるようです。
神社に逃げるというのは高いところに逃げることにもつながるので、ここでもゴジラは津波と考えられるのですが、同時に、神社は霊的な場所、つまり、結界なわけです。
皇居はもとは江戸城なんで、霊的な場所、結界と言えるのかどうかイマイチですが、でも、日本の古い城も現在では結界になってもおかしくはない。
だから、北の丸公園に司令部があるのは、そこが結界に守られた場所だからなんですね。
ここで左派の無教養な人たちがまたぞろこの映画は右翼だなんだとか言い始めそうなんですが、結界というのはファンタジーの世界なんで、そこんところはよろしく。
というわけで、クライマックスも皇居や靖国神社というメジャーな場所がすぐそばなのにそれを見せず、武道館の屋根だけにしておくところにこの映画のすばらしいセンスを感じます。
というわけで、ゴジラの行くところがローカルすぎるように見えて、実はそこには深い計算が、と、ますますこの映画の傑作ぶりに恐れ入ったのでした。

最後にひとつだけ不満を述べると、
神奈川県も相当に破壊されてるのに東京都の心配ばかりしてるのが許せん!
ということです。

古谷有希子に反論する。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyayukiko/20160814-00061097/
この記事の最後に、「穿った見方をしすぎでしょうか」と書いてあるので、反論してあげます。

「シン・ゴジラという作品は実は壮大な「ブラックジョーク」なのではないか、ということだ。」
ブラックジョークとまでは言えないにしても、リアリティのある映画ではない、荒唐無稽なファンタジーであり、そこで現代の日本の問題を適度に象徴的に出して、その上である種のカタルシスをも与える作品に仕上がっている。登場人物のせりふをいちいち映画の主張と思うのは間違い。矛盾したことも言っている。

「今回のゴジラが生まれてしまった背景にもやはり「災難を自分で作っている」要素がある。」
そりゃ、災難の原因は自分にある、というのは、デフォですよ。で、自分で作った災難から立ち上がっちゃいけないんですか? 戦争だって日本が悪かった、じゃあ、そこから立ち直っちゃいけないんですか? 人間、間違いをせずに最後までうまくいくなんてことはない。そこから立ち直るのがだいじだと言って、どこが悪いんですか?

「石原さとみ演じる日系アメリカ人の英語が下手」
それは私も思ったというか、日系人に見えないです、まったく。
でも、「英語ができない日本人が演じている「英語ができる人の役」「アメリカ人の役」は、英語ができる人間からすると、あまりにもこっぱずかしくて、直視できない。」と言いますが、
外国映画で日本語ができる人の役、日本人の役を演じる俳優の中には日本語が下手な人が大勢いて、日本語ができる人間からすると、あまりにこっぱずかしくて直視できないです。
アメリカに住んでいると、日本語のできる人から見た外国映画の日本人がどう見えるかがわからなくなるのですね。勉強になりました。
また、このヒロインは「祖母が原爆の被害者」と言っているので、おそらく母は日本人ではないかと思います。そういうセリフはきちんと聞いて考えないのかな。

「観終わった後には、「やっぱり日本で、日本のサラリーマンと結婚すればよかった!」と不覚にも思ってしまった。」
そんなこと思うのはあなただけ。

「なんだか「こんなものに感動しちゃってるの?」と言われているような気分になったので」
あなた、感動しすぎです。あと、映画の一部しか見てない。それで感動してるから安っぽい、ばかげた感動で、それでこういう中身のない文章を発信してるのだと思う。

しかし、こういう公のところで「シン・ゴジラ」語る文化人の記事ってろくでもないものばかりなのかね。あんまり相手にしない方がいいんだろうけど。

(この記事は「シン・ゴジラの行動範囲」の記事のあとに書きました。)

2016年8月14日日曜日

ミュージカル「フランケンシュタイン」

来年1月に日生劇場でミュージカル「フランケンシュタイン」をやるらしい。
ホリプロ、と書いてあったので、どひゃ、と思ったが、韓国製のミュージカルの日本版らしい。
公式サイトを見たら、ヴィクター・フランケンシュタイン以外は全員、原作とは違う人物。
怪物さえも原作とは違う。
ストーリーも全然違うみたい。科学者が怪物を造って復讐されるというのだけ同じようだ。
イゴールが出てくるけど、これはボリス・カーロフの映画の人物ね。
そういや、フランケンシュタインとイゴールの友情を描くという映画は、あちらでは酷評されてたようだけど、日本には来ないのかな(DVDのみかも)。

そういえば、宝塚のミュージカル「アーサー王伝説」が秋にやるらしいけど、場所がなつかしの文京シビックセンターなので、行こうかな、と思ったが、期間が短くてヅカファンでソールドアウトの可能性もありそう。こちらはフランス製のミュージカルで、内容見ると、やはり、なんだかなあ、な感じ。上の「フランケン」同様、怖いもの見たさな感じになってしまいそうだ。

「シン・ゴジラ」は左派の論客の心を映す鏡なのか。

(「シン・ゴジラ」について、慧眼である意見、奥深い意見をツイッターでいくつか見ることができました。そのような優れた意見を書いている人は、下で扱った記事はいっさい無視しています。私自身、この記事が筆者の自著の宣伝ではないか、ご本人はそのつもりはなくても明らかにそういう造りになっている、ということに気づきました。本来なら無視してよい記事であったと思いますが、消すのもなんなので残しておきます。)

現代ビジネスというサイトに「「シン・ゴジラ」は強いリーダーを願望する映画だ」みたいな記事が載った。執筆者は「大本営発表」という新書が話題の辻田真佐憲氏。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434
なるほど、こういう人たちがいるから、一部の左派が、少しでもプロパガンダじみたことを書く「シン・ゴジラ」論にかみつくわけだね。
でも、かみつくなら、辻田氏にかみつくべきで、大部分がオタク談義で一部にがんばろう日本のメッセージが入ってるだけみたいな人にかみつくべきではないよ。
で、この辻田氏の論がおかしいっていうか、「野暮は承知で言う」とか言ってるけど、それは「野暮」じゃなくて「映画の読みが間違っている」んだから。
なんというか、この「シン・ゴジラ」っていう映画は、見る人の心を映す鏡なんだね。その人の思いを勝手に映画に読み込んでしまう。映画の方は別にそんなこと何も考えてなかったりするんだけど。
この辻田氏の見方がもう完全に辻田氏の心の反映で、実際の映画とあまりに違っている。これ読んで映画を誤解する人がいるといけないんで、少しだけ反論しとくわ(映画見れば辻田氏のバイアスひどすぎるってわかるけどさ)。
要するに、辻田氏は、この映画は過去20年間の日本人の英雄待望論をそのまま表した映画だと言いたいのだね。そして、そんな英雄なんて出てこない、それより過去の戦争とか思い起こして間違った考えを持たないように、と言って、さりげなく自分の本の宣伝をする(は言いすぎか)。
まず第一に、この映画には強いリーダーとか英雄とかは出てこない。
最初に出てきた首相とか小池百合子似の防衛大臣とかは途中でゴジラにやられて死んでしまう。
残った人たちがいろいろがんばってなんとかゴジラ=原発の終息にとりあえず成功。でも、まだ問題は完全に解決したわけじゃない、というのが映画の結末。
はっきり言って、これはスポ根です。
一軍選手の乗った飛行機が事故って全員死亡、かわりに二軍選手がやるっきゃないって言ってがんばる。その中には優秀な選手もいて、という感じ。
主役の若い男女は日米の政府の側近的存在で、それに日本の女性科学者が加わって、首相の代わりを押し付けられた新首相もあっちこっちに頭下げて日本の作戦を通す。
いざとなれば強いリーダーが出てきて、みんなが結束すれば勝てる、なんていう話じゃない。
せいぜいスポ根の二軍選手のがんばり物語。
で、ゴジラを倒す作戦というのが、新幹線を突っ込ませ、山手線と京浜東北線を突っ込ませ、東京駅付近の高層ビルを次々倒してゴジラを埋めるという、荒唐無稽な作戦。
どう見たって非現実的な荒唐無稽なエンターテインメントで、そのレベルで楽しむときに、何が強いリーダーだ、結束だ、と思う。
せいぜい、エンターテインメントとして、みんなでがんばろう、というくらいなもの。
その程度の、がんばろうが、なんでいけないのよ、と思う。
いざとなったときに、こういうふうにうまくいくわけないって、新幹線が突っ込んだ時点でわからんかね。
あと、辻田氏は映画のポスターにある、現実・ニッポン対虚構・ゴジラの惹句にもケチつけてるけど、現実・ニッポンというのは、最初のだめだめな日本ですよ。
それを辻田氏は、後半のがんばる日本を現実・ニッポンと解釈する。
願望・ニッポンだそうだ。
それって、ネタバレっていうんですけど。
そうでしょ?
映画では後半のがんばる日本はネタバレに相当するんですよ。
ポスターで最初からネタバレするわけないの。
だから、ポスターの現実は今の日本の現実で、願望の日本じゃないの。
ていうか、あの映画の後半のがんばる日本はほとんど妄想。
もう、何度も言うけど、新幹線が突っ込んだ時点で、あれは夢なの、妄想なの、ついでにゴジラは虚構であるけれど、同時に現実の象徴なの。
ああ、もう、これだから頭でっかちの論客は、と思ってしまうんだよ。
最初に言ったように、辻田氏の「野暮」は映画の「読み違い」なの。それだけは言っておく。

追記 辻田氏の記事を読みなおすと、やはりこの記事は「シン・ゴジラ」をサカナにした自著の宣伝ととれる。この著書「大本営発表」についてきちんと紹介したインタビュー記事が別のサイトに出たが、この方がずっとまっとう。しかし、内容的に「シン・ゴジラ」批判記事と重なるところが多く、やはりこちらは自著の宣伝に映画を利用したとしか思えない。こういう記事を書いて「シン・ゴジラ」ファンを敵にまわしたら自著が誤解されたり敬遠されたりすることもあるだろうに。私自身、映画をこれほど誤読する人の著書ってどうよ、と思っているのだ。

2016年8月11日木曜日

新/真/神・ゴジラ

ゴジラが好きな人には語りつくそうとしても語りつくせない映画だろうな、と思う「シン・ゴジラ」。ゴジラなんてよく知らない(第1作も見たけどほとんど覚えてない)私でも第2弾を書いてしまう。
やっぱり驚いたのは、最初に登場するゴジラ。目がかわいくて、姿もユーモラス。全然怖くない。まさに新・ゴジラ。
このゴジラは無邪気な赤ん坊のようで、陸地があるから上がってきちゃった、体がでかいから動くとまわりが壊れる、という感じで、悪意も何もない。ほんとに無邪気な赤ん坊。
途中で確変するが、それでも無邪気路線は継続。自衛隊が出動、初の武力攻撃を仕掛けようとするが、老人が踏切を渡っているのを見て、人命尊重から攻撃をあきらめる。ゴジラはいったん海に帰る。
そして再び姿を現すと、今度はまったくかわいくない、無邪気でもない、大人になった怖いゴジラになっている。まさに真・ゴジラ。
そして荒ぶる神ということで、神・ゴジラになるというか、人間がそう感じるということなんだけど。
ゴジラは地震・津波のような災害+原発という存在になっているけれど、自然災害は荒ぶる神だけど、原発は人間が作ったものなので、荒ぶる神ではない。むしろ、フランケンシュタインの怪物。
初代ゴジラも核実験で生まれたので、フランケンシュタインの怪物であったのだが、シン・ゴジラも海底に投棄された核廃棄物を食べて生まれたとなっている。
核エネルギーが荒ぶる神ではあるが。
でも、最初は無邪気な赤ん坊で、確変したあとも自分から悪さするというよりは、巨大生物だから動くだけで被害が出るという感じで、それが自衛隊や、特に米軍の攻撃で怒りを覚え、身を守るために攻撃を開始する、というあたりは完全にフランケンシュタインの怪物なのだ。
それが荒ぶる神に見えるのは、ひたすら、図体がでかいから。
図体のばかでかいフランケンシュタインの怪物。
フランケンシュタインの怪物という、人間に非常に近いものと、原発のような生物ではまったくないものの中間にシン・ゴジラがいる。

この映画を熱く語る左派のツイッターのおかげで見に行ったので、感謝しているが、見てからツイッターを読み直すと、自分の思いを映画の中に見つけて、ひたすらその部分だけ強調して、他の解釈を許さないようにも感じた。
その思いの部分の解釈は正しいが、フィクションとは矛盾や不整合を内包するもので、その方が優れた作品なのだし、「シン・ゴジラ」はまさにそういう映画だと思う。
だから、「がんばろう日本」のようなメッセージを読み取ることは可能だし、それをちょっと書いただけのブログをプロパガンダと呼ぶのはどうかと思う(実際は庵野監督の作品のオタク談義なのに)。
左派の教条主義を見てしまったようで残念。解釈はいいのにね。

思い立ったら「シン・ゴジラ」(ネタバレあり)

左派の論客たちがツイッターで「シン・ゴジラ」について熱く語っているのを見て、急に見たくなり、前日行ったばかりのシネコンのスケジュールを見たら、今から行けばチケット買って夕食とって映画が見れる、と思い、出かけてしまいました。
2日連続シネコンで日本映画とは、私の映画ライフにはこれまでなかったパターン。
しかし、レディスデーなのを忘れていて、いつもどおりシニアで買ってしまった。料金同じだけど気分的に少し落ち込む。

が、「シン・ゴジラ」は傑作でした。
今どき2時間15分とか2時間半とか話題作はやたら長くするのに、これは2時間以内と、非常にコンパクト。贅肉のまったくない引き締まった作品です。
とにかく面白い。エンターテインメントとして最高。
その上、ゴジラが原発事故を象徴化した存在になっている。
ゴジラが破壊した町は津波に襲われた町のようで、しかもゴジラは核融合をエネルギーとしている。
ゴジラは最初は怖くないというか、むしろ目がかわいいんですが、だんだん変化して最後は怖くなります。
で、進化するゴジラが世界中を襲うかもしれないというんで、アメリカと国連は核爆弾を使うと言いだす。それに反発する被爆国・日本。ということで、広島・長崎が出てくるというタイムリーな発想。
日本側は核爆弾よりも核融合を押さえ込む作戦を考え、ということで、最後にこの計画が実行されるんですが、これがよく考えれば荒唐無稽なんだけど、アクションとしては非常に面白いし、核を断固拒否というのもいいです。
最後、ゴジラはなんとか石棺化するのですが、これですべて解決ではない、というあたりも原発事故と同じです。
本当に、あの東日本大震災と原発事故の体験があるからこそわかる映画であり、そのときの政府の役に立たなさとか、自衛隊のがんばりとか、そういうのも入っていて、あれを体験した日本人、および日本にいた人には大いに共感できるのでは、と思いました。
前半は適度にユーモアもあってね。
最後は、ダメな日本政府もいざとなればがんばる、みたいなふうになってますが、このあたりはエンターテインメントとしては普通の展開。最初だめだったけど最後はがんばる、みたいな。
原発事故の問題はまだ終わっていない、ということを示唆しているだけでもすごい映画です。

2016年8月9日火曜日

猫好きは見るべし「ルドルフとイッパイアッテナ」

近くのシネコンでやっていることがわかったので、早速見てきました、「ルドルフとイッパイアッテナ」。
凡作だったらどうしよう、と不安に思いながら行ったのですが、予想外によかった!
これはおすすめ。
特に猫好きは絶対見に行くべし。
最近のハリウッド映画に多い、リアルな質感のアニメで、猫の毛のモフモフ感が実によく表現されています。
それだけでなく、猫のしぐさや表情がなんともいえない。
人間に甘えるときの声としぐさ、表情。
コワモテのイッパイアッテナが人間に甘えるときに見せるかわいい顔と鳴き声。
そして、ストーリーがまたいい。これは原作がいいのだろうけど、かなり感動します。
その感動がまた、単に感動したとか、泣いた、というだけでなくて、非常に奥深い感動なんですね。
人間の都合で猫の運命が変わってしまうとか。
猫同士の相手を思いやるやりとりとか。
学ぶことの大切さ、絶望しないことの大切さを教えてくれるというのもすばらしい。
子供やファミリーから大人まで楽しめる、感動できる映画です。
大人の方がわかることも多いはず。
上映が終わって館内が明るくなっても、ほとんどのお客さんが立ちあがらず、じっとしていたのが印象的でした。子供もみんな静かだったし、みんな感動してるんだろうなあ、と思いました。
でも、お客さん、ちょっと少ない。もっと見に行ってほしい。
90分ほどという長さもちょうどいいというか、原作ファンには物足りないかもしれないけど、まったく無駄のない展開です。
岐阜市と東京・江戸川区の風景もきれいだし、図鑑の中の世界に猫たちが入っていくシーンもいい。
カップルの猫がステーキを両端から食べていき、キスするというのはディズニーの「わんわん物語」へのオマージュでしょう。
「ペット」の予告編をやっていたけど、全然見劣りしない感じ。
「ファインディング・ドリー」とかライバル多いけど、ヒットしてほしい映画です。

2016年8月6日土曜日

「最悪」最高

奥田英朗の長編「最悪」を読む。
これが最高。面白い。
虐げられた弱者の怒りが爆発する過程がしっかり書き込まれていて、最後に爆発するとすっきり。
奥田の描く人物って、どうしてこんなに人がいいんだろうと思うけど、それがあるから陰惨にならず救いがある。
今までは伊良部シリーズしか読んでなかったので、これからどんどん読もう。
ただ、解説に、3人の人物の話を交互に描いていく手法を映画的と書いていたけど、これは19世紀にサッカレーの「虚栄の市」やトルストイの「戦争と平和」があって、もともとは小説の技法。映画が小説を模倣したと見るべき。
また、解説者はこの手法を群像劇と呼んでいるが、群像劇ではない。
アルトマンの群像劇とこの手法を混同しているようだ。
最近の映画でいえば「スポットライト」が群像劇、と言えばわかると思う。

ブックオフで108円の本をまとめて買って読む、ということを先月からやっているけれど、奥田の「野球の国」、恩田陸の「図書室の海」はよかったけど、そのあとはずっとハズレだった。
角田光代の「三面記事小説」はやはり三面記事の事件をふくらますだけで意外性が少ない。ただ、この作家が家族の濃い関係を描くのがうまいことはわかった。
加納朋子の「モノレール猫」は小説としてのレベルの低さにがっかり。それでもこういう口当たりのいい、底の浅いものが受けるというのはわかるが、私にとっては時間の無駄。
最悪は中山七里の「さよならドビュッシー」。火事で全身やけどを負った16歳の少女がピアノコンクールで優勝するまでの話に殺人事件がからむというミステリーだが、やたら説教くさい。しかも、最後のどんでん返しで、ああいう説教してたお前はなんなんだよ、になるという最悪の展開。後味悪いったらない。なのに人気があるのか。このミス大賞は「四日間の奇蹟」も人の作品のパクリでひどかったけど、なぜかそういうレベルの低い受賞作が人気がある。
そのあとまたブックオフへ行ってまとめ買い。
乃南アサの短編集「悪魔の羽根」。これまたがっかり。
乃南アサは「凍れる牙」が面白かったのだが、主人公の女性刑事が自立した女性だったので、そういう女性を描く人かと思ったら、この短編集のヒロインが男に頼る女ばかりでうんざりした。
小説としてはうまい作品もあったけれど、半分くらいは面白くなかった。

というところで奥田の「最悪」を読んで、これこそ最高!と思ったのでした。

2016年8月3日水曜日

上映館が少ない

私の部屋には「ルドルフとイッパイアッテナ」のチラシが貼ってある。
開いた本を前に2匹の猫が向き合っているもの。
ずっと見たいと思っていたのに、なぜか上映館が少ない。
近場じゃ1館もやってない!
日本橋ですらやってない!
なんか、ウォーターフロントか池袋に行かないとだめみたい。
遠いんだよ!

試写で見逃した「ニュースの真相」に至っては東京と神奈川で1館ずつ。東京は日比谷。遠い。

要するに、どちらも期待されてないのか。
かわいそすぎる。
(追記 「ルドルフ」は一番近いシネコンでやっていました。よかった。)


昨日はまた星乃珈琲店へ行って原稿書き(途中まで)。
週刊新潮があったので、例の鳥越氏の記事を読んでみる。

文春とまるで違うやんけ!
新潮は十数年前に取材したときのメモを掲載。当時、被害者とされる女性が掲載をのぞまなかったので没になったというもの。なんで今更、再取材もしないで、女性の許可も取らないで出したかというと、やっぱり文春にやられて悔しかったんでしょうね。
しかも文春は宇都宮陣営とつながりのある大学教授がチクったのだけど、新潮としては、なんでうちに持ってこないんだよ、という気持ちがあったかも???

で、内容が全然違うんですけど!
新潮 女性が二十歳前にマンションでキスされた。
文春 そんなことは何も書いてない。
新潮 二十歳の時に女性を山荘に誘い、女性はいつのまにか全裸にされたと言い、しかしそれ以上のことは何もなかったと言う。
文春 別荘でキスされた、としか書いてない。
新潮 女性は鳥越氏が好きだった。鳥越氏は薬をたくさん飲んでいて、もう先が長くなさそうだった。
文春 そんなことは何も書いてない。

ちなみに新潮は女性の証言となっているが、文春は女性の夫の証言。

これをもとに女性の人権とか騒ぎたてた宇都宮氏なわけですが、宇都宮氏の周辺には教授から文春に記事が出ると事前に情報が伝わっていて、そこで勘違いした一部の支持者が文春出る前にレイプ疑惑の噂を流し、いざ文春見て見たらキスだけだったので拍子抜けしたらしい。
それでも女性の人権と騒ぎ立てる宇都宮氏。当の女性が何も言ってないし、掲載やめてくれと言ったのを出しているのに、どっちが女性の権利を侵害しているのか。
どう見ても女の敵の小池氏が都知事になって、初の女性、とか浮かれてる都民とか、小保方騒動といい、今の日本は実は女性の権利がかなり後退してるというか、世に出て権力握ってる女が男に媚びる女の敵ばかり、と思うのは私だけか(宇都宮氏も女の敵決定)。

宇都宮氏に関しては、野党共闘派の人たちが怒りまくってますが、私は宇都宮氏を支持したことは一度もないので別に怒ってないし、がっかりもしてません。
どっちかというと第一印象のとおりだったな。
最初に宇都宮氏を知ったのは前の都知事選だったけど、なぜか嫌いだった。
これはもう理屈じゃないのですが、あの笑顔がまず嫌いだった。
それからいろいろ情報を得て、こういう人は政治家に向かないとか、支持者がカルトっぽいとかいろいろ感じましたが、でも、幅広い人々が立派な人だと言うし、実績もあるので、第一印象で嫌っちゃいけないのかなという気持ちがあって、支持しないけど期待はするみたいなところはありました。
でも、今回、野党共闘や市民連合を腐敗堕落と言ってるのを見て、自分から離れる信者を腐敗堕落と呼ぶ新興宗教の教祖みたいと思ったり、やっぱりこの人は自分大好き人間だったんだと思ったり。
そして、なぜあの笑顔が嫌いだったかというと、上から見下ろす教祖様の顔だったんだ、と気づいたんですね。
そして、選挙が終わったら新都知事の小池氏にすり寄り始め、いろいろ言ってることが矛盾だらけ。小池氏の抑止力になってくれるならいいけど。
小池氏優勢と伝えられたとき、これは蓮舫氏を出すべきだったな、と思ったけど、蓮舫氏は国政優先だからしかたなかったか。
実は私、鳥越氏も、テレビに出ているときはあまり好きじゃなかったというか、ジャーナリストとしては立派だけど、第一印象として、好きなタイプじゃなかったんですね。
たぶん、その辺が、鳥越はイヤと言って小池氏に投票した人の心理につながるのかもしれません。
私は理屈が勝っている人間なので、第一印象や第六感があっても理屈を優先してしまうのですが、あとで思うと第一印象で決めるべきだったと思うことが多いです。もっと自分の感覚を信じたいと思います。

追記 2014年の都知事選で宇都宮氏を支持したのは間違いだったという左派のツイートが目につくようになった。やはり私の第一印象は正しかったようだ。

2016年8月1日月曜日

8月

都知事選は小池百合子氏が当選確実。しかもぶっちぎりらしい。
去年のうちに都民をやめておいてよかった。

鳥越氏の落選には宇都宮健児氏の件は大きな影響はなかったと思うけれど、宇都宮氏についての次の記事を読んだら、私のような政治素人が感じていたことそのままだったので驚いた。
http://tumblr.ken-nye.com/post/148241447088/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%81%A5%E5%85%90%E3%81%A8%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89
文春の記事は実は左翼の上智大教授(記事では私立大教授となっているが)の仕掛けたもので、宇都宮氏はこの人物と深い関係にあるらしい。
また、宇都宮氏は野党共闘に反対らしいというのもやはりそうだった。宇都宮氏を崇拝するカルトみたいになっている、というのも私が感じたとおりだった(実は前回の都知事選ですでにそう感じていた)。

それはともかく。
小池氏は23区では圧勝のようだ。
結局、都民というのは、お金持ちで、恵まれていて、テレビしか見ない人たち、っていったら、違う、という人もいるだろうけど、去年までの都民生活を思い出すと、やっぱりそうだよね、と思う。
現に、貧乏で、恵まれなくて、テレビを見ない私は都内に住み続けられなくて都外に出た。
テレビでは小池氏が極右で、非常に危険な思想やトンデモな政策しかない、ということは報道されず、ただイメージで、自民党をぶっ壊しそう、という期待感だけを煽るのだそうだ。
石原慎太郎もそういうふうに受けてたんだろう、と言われている(作家なので敬称略)。
正直、石原慎太郎がなんで何度も知事選に勝つのか理解できず、青島のあとは(青島も作家なので敬称略)都知事選はけっこう棄権してたな。
やっぱり、都民は困ってない人が多いんだろうと思う。
つか、23区は、かな?
今、23区内は貧乏な人は住めない。家や土地を持っていた人も、相続税が払えず、売ってよそへ移る。そこに新しく家が建ち、狭い木造3階建てで庭もないのが8000万円以上。金持ちしか買えない(大金持ちも買わないと思うが)。
文京区に30年くらい住んでいたのだけど、住み始めた頃は、「住み続けられる文京区に」というポスターが貼ってあった。が、いつしかそれがなくなり、住み続けるのは無理な文京区になっていたようだ。
そして9年前に一度、文京区から西東京市に移住し、また文京区に戻ってきたときのこと。
22年文京区に住んで、わずかな期間、そこを離れ、また戻ってきたのだが、区役所の対応がひどかった。
貧乏人は文京区に入ってくるな、という態度だったので驚いた。
窓口の若い女がさんざんこっちを侮辱した末に、転入届を受理したのだ。
年をとった人には入ってきてほしくない、というのは西東京市に転入したときにも感じたが、西東京市の職員はまだ気配りがあった。しかし、文京区の職員はあからさまだった。もっとも、文京区役所は先祖の代から文京区民の人に対してもひどい対応なのだそうで、昔から住んでいる人も怒っていたから、そういうところなのだろう。
今住んでいるところは高齢者の多い公団住宅なので、私なんか若い方だから、転入するときはまったく問題なかった。
やっぱり、東京都は、特に都心は、貧乏人や年寄りを入れたくないという姿勢がはっきりしているのだと、そのとき思った。
石原慎太郎も小池氏も、勝ち組の選ぶ都知事という印象が否めない。
都民は常に勝ち組の代表者を選ぶのだろう。舛添氏もある意味、勝ち組の代表だった(舛添の方が相当よかったのにね)。