2016年9月29日木曜日

映画館貸切状態

初体験! 映画館貸切状態!
若い頃、私を含めてお客さん2人という経験はありましたが(錦糸町だったかな)、昨日初めて客は私1人の貸切状態を経験しました。
場所はここ。

イオンシネマ市川妙典の入ったイオン。これまで行ったイオンモールとは違い、ここは大型スーパーという感じです。上の写真がメインの建物で、食料品や衣料品、寝具、書籍などがあります。連絡通路の左側にイオンシネマがあります。
この日は水曜日でしたが、イオンはレディスデーがないので、がらがら。私がチケットを買っているとき、予約のチケットを発券している若い女性2人がいただけで、あとはまったくお客さんの姿を見ませんでした(無人のスクリーンがけっこうあったのでは?)。

見たのはまたしても「ルドルフとイッパイアッテナ」で、もう終了してしまった映画館も多く、そろそろ最後にもう一度と思い、午後にやっているところを探したらここがあったので、行ってみました。
ここ市川妙典は「ルドルフ」の舞台・江戸川区のすぐ南です。完全な住宅地なので平日の昼間だと人がまばら。
「ルドルフ」は、実は8回目でしたが、ラスト近く、リエちゃんの家にルドルフを抱いたリエちゃんの写真が飾ってあるシーン、これまで見たときは写真に光が当たっていてリエちゃんの顔があまりよく見えなかったのですが、今回はかなり顔がよく見えました。映写によるのか、私の目がおかしいのか? リエちゃんはここしか顔が映らないのです。

あー、実は、7回目に行った話は書いてませんでした。行ったのはここ。

ショッピングセンターで、左の3階にシネコンがあります。ここはかなり繁盛してた。

さて、先週末、亀有駅へ行ったら、駅の中がこんなことに。






人があまりいなかったから撮れたけど、改札入ってからホームに上がるまで全部こち亀。
亀有はこち亀の銅像がいくつもあるので有名ですが、連載終了ということで、「秋本先生、お疲れ様」のダンマクも駅の外にかかっていました。

2016年9月25日日曜日

「ハドソン川の奇跡」&「映画 聲の形」(ネタバレあり)

土曜日にシネコンでハシゴ。「ハドソン川の奇跡」の初日と公開1週間後の「映画 聲の形」を見てきた。
「ハドソン川の奇跡」は良作であるけれど、これ、96分もやる必要のある内容だろうか。70分くらいがちょうどいいような気がする。
脚本はよくできていて、最後は盛り上がるし、9・11のニューヨークの悲劇のあと、このハドソン川の奇跡でようやくニューヨークにポジティブな光が灯る、それもニューヨークの多くの人たちの協力で、という設定もいいんだが、機長の若い頃のエピソードとか必要だったのか? もしも機長の人生を描くというのであれば、もっといろいろなエピソードが必要。でも、そこまで描こうとはしていない。
あと、最初からずっと疑問だったのは、機長の見る悪夢がニューヨークの摩天楼に突っ込む飛行機だということ。
機長はエンジン2機が停止し、近くの空港へ行く余裕はないと判断してハドソン川に不時着水するのだが、普通に考えると、機長の見る悪夢は着水が失敗する夢のはずなのだ。
それが摩天楼に突っ込む悪夢だというのは機長がもしも川に着水しなかったらという恐怖を抱いているということになり、着水を選んだことには何の疑問も持っていない、むしろ自信満々ということになる。実際、映画では機長はこのことについては確信を持っているのだが、着水が正しい判断だとしても失敗する可能性は相当あったはずだ。
確かに機長の技術がすばらしかったのだろうが、それでも失敗する可能性はあった。実際、機長は飛行機の中に乗客が残っていないか最後まで確認する。死者ゼロとわかってようやく安心する。
つまり、摩天楼に突っ込むシーンは機長の悪夢というよりは、9・11の連想とそこからの奇跡というモチーフのために存在するので、この辺、あざとい感じは否めない。機長の心理はもっと複雑だっただろうに。
機長と副機長が調査の対象になるのはこれはやむを得ないというか、今回は全員無事だったけれど死者が出た可能性はあるわけだし、着水が正しい判断だったのか調べるのは当然。そこで機械的なシミュレーションしかしない調査する側と、人間的なファクターを考慮すべきと主張する機長の対立になり、結果、機長が正しいとわかる。このあたりは非常に盛り上がる。そして、自分一人ではなくみんなが奇跡を起こした、という機長のせりふ。ここは感動したけれど、やっぱり9・11からの奇跡みたいな道筋が見えすぎてしまうのがなんともなあ、という感想でした。

「君の名は。」の3分の1の公開館ながら金曜まで2位につけていた「映画 聲の形」。実は試写状もらっていたのだけど、回数が少なく、見に行けなかった。予告編もいまいちピンと来なかったので見なくていいかな、と思っていたら、その後、いろいろとよい評判を聞き、見に行った。
「君の名は。」と同じく10代の若い人がいっぱいだが、こちらの方が重いテーマのせいか年齢が少し高く、中高年もちらほらいる。どこかの学校から20人くらいまとまって来ていたみたいで、始まる前はまるで学校の中みたいにうるさかったが、始まると静かになった。
聴覚障碍者の少女へのいじめと、いじめた側の少年の苦悩、当時の同級生たちのその後が描かれるが、思っていたほど重くなく、2時間以上の上映時間も長いと感じなかった。
原作は少年漫画だけど原作者も、映画の監督と脚本家も女性、ということで、女性キャラの1人1人がリアルでいい。今もまだいじめっ子の少女、ヒロインをかばっていたがよそへ行ってしまった少女、見て見ぬふりをしていた少女。ヒロインの聴覚障碍者が天使のような少女に描かれているのが批判の的になりそうな感じはするが、単に天使のような障碍者とその周囲の健常者という図式ではない。
主人公の少年と少女は初めて会ったときからお互いに惹かれあっていたのではないのか。だが、少年はそんな気持ちを正直に認めることができず、少女に執拗にいじめを繰り返す。やがて今度は少年がいじめの対象になり、そして彼はほかの人とコミュニケーションできない人間になってしまう。首から上が画面からはみだしているシーン、まわりの人間の顔にバツ印がついているシーン。そのバツが取れたりまたついたりして、主人公の周囲とのつながりと断絶が示される。
いじめっ子をやめられない少女はたぶん、主人公の少年が好きで、ヒロインに嫉妬しているのだろう。ヒロインをかばっていた子が途中でどこかに行ってしまうのはヒロインをかばいきれなくなったからだろう(彼女は自分は弱いと言う)。
天使のようなヒロインにしても、彼女がすぐにごめんなさいと言うのは、障碍者は人の手を借りなければならないことが多く、そのため常にごめんなさいと言う必要に迫られていること、そして健常者も無意識のうちにそれを要求しているのではないかと思わせる。いろいろと深いのである。
自殺未遂で始まり、自殺未遂で終わる。水に落ちるシーンが何度かある。仮の死を通して人は少しずつ変化成長していくということだろうか。
ヒロインのボーイッシュな妹、主人公の高校での親友など、魅力的なキャラクターが多い。原作はもっと複雑だという。ぜひ読んでみたい。

この映画を見たあと、非常勤講師をしている大学の授業に難聴の学生がいたことを思い出した。
それは英語のリーディングの授業だったが、リーディングは教師が口で文法や訳を説明するのが中心なので、難聴の学生にはむずかしいのではないかと思った。そこで教務課に何らかの配慮はできないのかとたずねたが、教務課の返事は、この学生は軽度の難聴なので日常会話には不自由しない、ゆっくり大きい声で授業をすれば十分との答えだった。
しかし、この学生は私が目の前で大きく口をあけてゆっくり話しても何を言っているか理解できなかった。また、その学生の発する言葉を私はどうしても聞き取ることができなかった。
隣にいた友人の学生が、自分がついているから大丈夫だというので、とりあえず授業をすることにしたが、次の週になると友人の学生はまったく来なくなった。
難聴の学生は優秀だったので、こんな状態でも試験ではみごとに合格点を取った。
大学側の対応に納得がいかなかった私は、ネットで、他大学がどのような対応をしているのか調べてみた。ある国立大は聴覚障害の学生に対する配慮が行き届いていて、1人の学生に3人の協力者をつけていた。3人の協力者が先生の講義をメモし、学生に渡すのだ。3人がメモすれば聞き逃しはほとんどないからだ。
当時、私は逃げてしまった友人の学生に対して無責任だと思ったが、3人の協力者がいて初めてできることをあの友人が1人でやろうとして、そしておそらく数日でギブアップしてしまったのだろうと、今にして思う。「聲の形」のヒロインをかばった少女が去ったのも、彼女1人では無理だったのだ。彼女はそれを「弱い」と言ったけれど、1人では無理なのだ。
授業料はしっかりとって、日常会話は可能などといいかげんなことを言い、あとは非常勤講師に丸投げとか、あのときの怒りを思い出してしまった。

最後に余談。
「聲の形」は岐阜県大垣市が舞台で、映画の最初に大垣市長のメッセージが流れる。が、映画の中の高校のモデルになったのは東京都文京区の駒込学園。実はこの学校のすぐそばに30年くらい住んでいたので、なつかしかった。あの建物の前に、春にはモクレンが咲き誇るんだよなあ、とか、校舎の壁にスポーツで優勝したり東大進学した人の名を入れた幕を下げてるところがそっくり、とか。

2016年9月21日水曜日

好きなことやってない自分に腹が立つ

夏休みも今日が最後で、木曜からはまた授業。映画の授業なんで、本当は楽しい、好き、なはずなのに、マンネリしてるのか、以下略。

話変わって、「通訳翻訳ジャーナル」なる雑誌に、「通訳者翻訳者になれる人なれない人」とかいう特集があったようで、数人のプロのブログにこのことについて書いてあった。なんでもなれるかなれないかを判断する30項目があって、私がたまたま見た数人のうち、翻訳者の2人が30項目中22項目に該当すると書いていた。
へえ、ほう。と思って、雑誌を見てみたいと思ったけれど、こんなマイナーな雑誌、近所の書店になんかないよね、と思っていたら、あった。
で、のぞいてみたら、なれる人なれない人の特集はページ数も少なく内容も浅く、羊頭狗肉っちゃ失礼だが、そんな感じがした。
で、例の30項目ですが、私はなんと、28項目に合っていた!
そのとき感じた正直な気持ちは、

わあ、やだ。

30項目中28項目も合致する私が、翻訳の仕事全然手に入れられていないという現実。
でも、考えてみたら、そりゃそうだよね、28項目も合致したら、かえってそれは向かない人、なれない人ってことなんじゃない?と思った。
うーん、きっと、プロの方たちの22項目合致が適切なので、私のように多すぎてはだめなんだと思う。
30項目中、該当しなかった2つは、「新聞雑誌をよく読む」と「人の身になって考える」とかいうような項目でしたが、この2つ以外にすべて該当した人っていうのは、要するに、勉強熱心でまじめで締切も守るし、きちんとした仕事をするけど、人の文章や言葉にいちいちケチをつけ、重箱の隅つつきをし、天上天地唯我独尊で、自分の主張はとことん通す。
雇う側からしたら、なんか面倒でトラブりそうな人です。
しかも、仕事をちゃんとするか、能力は高いかどうかは、仕事してみるまではわからないわけで、だから私は敬遠されるんだろうな、と。
でも、ここで我が身を反省し、もっと丸くなろうなんてことはいっさい考えないのが私という人間です。
じゃあ、どうするか。
そりゃあもう、こんな面倒なやつでもこの仕事はこの人に頼んだ方が確実、と思ってもらえる仕事を見つけるしかないのです。
そういう仕事を私が見つけて持ち込んで、商売になったという実績を積み重ねるしかないのです。
売れるって大変なことなんだ、ってことは、四半世紀前にコミケなどで経験していて、そう簡単には行かないこともわかってますが、とにかく普通とは違う自分の生きる道を探すしかないのです。

あ、あと、私は古い人間なので、翻訳者とか通訳者とかいう言葉には古い概念を持っています。

私にとって翻訳家と翻訳者というのは、
Aさんは翻訳家です。
この本の翻訳者はAさんです。

通訳については、
Bさんは通訳です。
この記者会見の通訳はBさんです。(通訳者なんて言葉あったのか、おい。)

といった基準で使い分けています。なので、今のように翻訳家と言うべきところを翻訳者というのはどうしても抵抗があります。なんというか、翻訳学校がメジャーになってから、翻訳学校の基準が翻訳の基準になってしまって、それ以前の時代の人間はどうしてもそれになじめない、拒否してしまう、というのがあって、それも私が翻訳の世界で仕事を得られない理由なんだろうな、と思うんですが、やっぱり譲れない一線というものがあるのですよ(だから仕事がないんだってば)。

まあ、本当にやりたいことは翻訳じゃなくて自分で書くことなんですけどね。

2016年9月20日火曜日

「映画もまた編集である」

やだなあ、年をとると、と思うのはやはり物忘れ。
見たことのある映画を見ていないと思ってDVD借りてしまうとか(まだ2回しか経験してませんが)。
そしてついにやってしまった、読んだことのある本をまだ読んでないと思って図書館で借りてしまう。これは初めて。
「映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話」は、「イングリッシュ・ペイシェント」の原作者マイケル・オンダーチェがこの映画の編集をしたウォルター・マーチと語り合った本。
最近、急に、この本をまだ読んでいない、読まなければ、という思いに駆り立てられ、ネットで調べたら、同じ県内の遠くの図書館にあることが判明。近くの県立図書館で予約するとそこまで本を届けてくれるのでネットで予約。
が、予約したあとになって、あれ、この本、前に住んでいた某区の図書館で借りて読んだ覚えがある。それも近所の図書館。
そう思ってかつての近所の図書館を検索したら、やはりあった、この本。
うわあ、どうしよう、と思ったら、すぐに本が到着したという知らせ(メールで知らせてくれる)。せっかく届けてくれたのだから読みなおそうと思い、借りた。
読んでから何年もたっているので、さすがに覚えているところは少なく、新しい発見もあり、借りてよかったと思った。
数年前には読み流していただろうと思うところで、今は非常に印象に残る箇所がいくつもあった。
オンダーチェは小説を書いているときは自分をコントロールしない方がいいと言う。小説家にはプロットをきっちり決めてから書くタイプと、先が見えない状態で書くタイプがいる。最近続けて何冊も読んでいた奥田英朗や斉藤洋はオンダーチェと同じタイプのように見える。特に奥田は本当に先が見えない状態で書くらしい。「ルドルフとイッパイアッテナ」の斉藤はだいたいの輪郭は決めて、あとは成り行きみたいだ。
実は私はすべてきっちり決めて、ほとんど設計図を作り上げてから書くタイプで、評論も、それから趣味で書いていたファンタジー小説もそうだった。でも、そういうやり方だと自分の文章に限界がある、もうそのやり方ではだめだ、という気がしていた。そう思い始めたのは最近なので、オンダーチェのこの言葉は今だから印象に残る。
偶発性がだいじで、まとめるのは編集。だから小説も映画も編集が重要、というのがオンダーチェの主張だ。
もともと私はウォルター・マーチの監督した映画「オズ」が大好きで、だから前に読んだときはマーチの言葉ばかり読んでいた気がする。が、今回はむしろオンダーチェの言葉、オンダーチェのやり方に目が行った。
最後の方で、オンダーチェは、最初からコントロールしすぎてしまうとだめ、だから私はアニメーションが好きになれない、百パーセント事前の計画どおりに作り上げるから、と言っている。
私自身はアニメも好きだし、アニメには実写映画のような偶発性がないのかどうかはわからないが、完全に編集できない演劇と、偶発性と編集のある映画と、偶発性がないと彼が主張するアニメの対比は面白いと思った。もっとも、マーチの監督した「オズ」にはクレイ・アニメーションが含まれているのだが。
もうひとつ、今回だからこそ印象的だったのは、「ゴッドファーザー」のある場面のフレーミングについてマーチが語るところ。
マイケルが父親を病院に訪ねようとするとき、恋人のケイが一緒に行きたがる。が、マイケルはケイを置いて一人で出かける。このシーンをマイケルのせりふや行動ではなくフレーミングで彼がケイを拒否して出ていくシーンとして描いているとマーチは言う(マーチは「ゴッドファーザー」三部作すべてにかかわっている)。左端にマイケルがいて、その右側の大きな空間を彼は横切って歩き去る。その空虚な空間が目に見えないファミリーへの入口となって、ファミリーの大きな存在感を暗示している、とマーチは言う。
ここを読んで真っ先に思い浮かべたのは、「シン・ゴジラ」の私にとって最も印象的だったシーン。国連がゴジラに対して熱核攻撃を決めたあと、主役の男女2人が核攻撃をなんとか避けようと話し合うシーンだ。ここは石原さとみの独壇場なのだが、祖母が広島で被爆したという彼女は、日本に3つ目の核爆弾を落とさせてはならないと力説する。そのとき、カメラは2人の人物から遠ざかり、どんどん左に移動していく。2人は画面の右に追いやられ、ついには石原さとみの姿が一部しか見えなくなる。その左の大きな空間には、廃墟を思わせる建造物がある(1度しか見ていないので、うろ覚え。もしかしたら違うかも)。
このシーンで「三度許すまじ原爆を」の歌が脳裏をよぎって泣いた、という人もいる。石原さとみの役はアメリカ人で大統領特使だから、それまではアメリカ第一主義だったのだが、このシーンで彼女は自分の将来を棒に振っても核爆弾を使わない方法を推進する決意をし、周囲の人々も日本側の考えた作戦を遂行しようと懸命にがんばる。
「ゴッドファーザー」とは意味が違うけれど、やはりフレーミングによって石原さとみの人物の変化を表現しているのだ。実際、石原が英語が下手だろうがなんだろうが、このシーンは日本人の日本語じゃないとだめなのだよ。祖母が被爆、三度許すまじ原爆を、なんだから。

というわけで、読んだことを忘れてわざわざ遠くの図書館から届けてもらった価値があったのでした。ありがたや。
ところで、意外な大ヒット「シン・ゴジラ」のさらに上を行く意外な大ヒット「君の名は。」。私が見に行ったのは公開から1週間後の土曜日だったけれど、そのときにすでに大ヒットだったのに、その後さらに入場者数が増えて、この3連休はこれまでで最高の入りだったらしい。「アンナとアントワーヌ」のついでに見に行ってよかったというか、普通はヒット作はすぐに行かない主義なのに、このときはどうせついでだから行っちゃえと、出かける直前にネットで席予約して行ったのだった。この日の上映は完売じゃなかったけど、今は完売に次ぐ完売らしい。運命というものは、必要なときに必要なものを与えてくれるものなのかもしれないな。

2016年9月19日月曜日

1年ののち

 先日、ぶらぶらと散歩に出かけたら、途中でこんな保育園が。
保育園児にもゴジラが人気?



話変わって。
今日は郊外の団地生活を始めて1周年の記念日です。
昨年の今日、管理事務所で鍵を受け取り、契約した部屋へ。大きなバッグ1つで来たので、まだ部屋には何も置いてありません。これは南の六畳間から北の四畳半を撮ったもの。窓の前に障子があります。

古い団地なので、あちこち補修の箇所が。インターフォンの隣には、今は「ルドルフとイッパイアッテナ」の最初のチラシ(本を2匹の猫が見ているもの)が貼ってあります。

このあと、宅急便で送った段ボール箱2個が届いて、四畳半にエアベッドを置いて寝室に。
その後2か月は都心との二重生活だったので、その2か月間は物がほとんどなくて広かった。

その翌日、近くに大きな公園を発見。そこで撮った彼岸花の写真。今年も咲いているはずですが、天気が悪いので出かけていません。




そして未来の話。

このところ、大学は人件費節約のため、新規採用をしないとか、非正規職員や教員を大量解雇しようとするとか、いろいろと不穏な雰囲気です。
私もいつ仕事がなくなるかわからないので、ライターや翻訳の仕事を探さねば、と思っているのですが、これまでのような仕事はもうむずかしいので新しいタイプの仕事を、と思いつつ、ではどういうのがあるか等々、悩みは尽きません。
私自身、新作の映画評はもう限界だと思うし、試写もあまりチャンスがなくなっているので、映画関係なら試写を見なくても書けること、そして映画以外にも手を広げたいと思っています。
また、翻訳は、文芸はもうほんと無理(仕事がないし、コネもない)、産業はどうも私には向かない、となると、ノンフィクションの持ち込みしかないと思うのですが、結局、自分の企画力のなさを思い知るばかりです。
ツイッターを見ていたら、「これまで何をしてきたかではなく、これから何ができるかだ」と書いてあるのを見つけ、まさにそのとおりだと思いました。
今月のはじめ、かなり落ち込むことがあって、この年になって大学教授になれた人となれない人の差にがくぜんとしたというか、映画評でも大学教授の肩書がある人が有利なのかとつくづく思い、ほんとがっくりだったのですが、その後、何回目かの「ルドルフとイッパイアッテナ」を見たらすっかり元気になり、落ち込む原因もどうでもよくなり、今できること、これからできることを考えるようになりました。

2016年9月13日火曜日

遠出


以前から気になっていたある場所。


巨大なショッピングモール。


イオン・レイクタウン。(写真はクリックすると大きくなります)。


JR武蔵野線の越谷レイクタウン駅。


この池は川の氾濫を防ぐための調節池(人工池)。


遠くに建つ塔はゴミ焼却工場。


駅前にはマンションが。

イオンモールの近くに住んだことはありません。北海道へ行ったとき、釧路と苫小牧のイオンモールへ、仕事帰りに「テルマエ・ロマエ」を見に浦和のイオンモールへ行ったことがあります。
この3つのイオンは中がそっくりで、中に入ると北海道にいるのか浦和にいるのかわからないという感じ。釧路のイオンには映画館はありませんでしたが、苫小牧では「戦火の馬」を見ました。
で、4つめのイオンモール、越谷レイクタウン。
いや、ここはすごい。中がこれまでのイオンとは全然違う。3つの建物からなっていて、広さがハンパじゃない上、中がすごくキラキラした感じ。東京からのアクセスもよいようで、普段着の地元民ばかり、という感じではありませんでした。
最初の2枚の写真はイオンの中から池を撮ったものです。池のまわりには公園が広がっていて、風が気持ちよい。
あとでこのイオンは火葬場の跡地に作られたと知りましたが、はるか昔には川の氾濫で消失してしまった古墳もあったのだとか。
このあたりは荒川水系、と書いてしまったのですが訂正、利根川水系です。上の写真の地図にある中川が利根川水系なのそうです。でも、元荒川っていう川もあるけど。
荒川はその名のとおり、荒れる川で、川の氾濫が大問題だったのです(いや、今も、荒川決壊で都心沈没と言われているし、台風などで大きな被害が出る場所もあります)。中川は下流では荒川と並んで流れているので、荒川水系と思われやすいけれど、1964年に利根川水系とされたそうです。
さらに調べたら、元荒川は昔、荒川と利根川が合流していたときの本流なんだとか。なので、昔はここはやっぱり荒川水系?
まあ、それはともかく。
イオンモールの方は、一度行けば十分かな、という感じ。イケアの方が面白いです。
実は、またまた「ルドルフとイッパイアッテナ」を見てしまったのです。
もうほかでは朝1回しかやってなくて、ここは夜の回があるので。
本当はもっと間隔を置いて見たかったのだけど、今、シネコンは「君の名は。」と「シン・ゴジラ」の大ヒットでハコが足りないらしい。なのに次々と新作公開で、もうほかの映画を切るしかない。来週はもう「ルドルフ」はどこでもやってないかもしれない。
もっとも、今回はこのレイクタウンに行ってみたい、という方が主要な目的で、「ルドルフ」はついでというか、何かもう1つ目的がないとなかなか遠出はできないものです。だからしっかりデジカメ持って、イオンと池をまわる時間もとって行ったのでした。天気がよかったらなあ。
「君の名は。」のせいもあるだろうけど、イオンシネマは中学生ばっかりです。東宝系や松竹系のシネコンとは雰囲気が違う。あと、客が少ないからって、冷房をけちらないでほしい。汗が出るくらい暑かった。
そうそう、池の説明の写真の地図に中川という川がありますが、この中川が下流で新中川に分かれた先に「ルドルフ」の江戸川区があります。

2016年9月10日土曜日

サントラ盤

買いました。

映画を2回目に見たあたりから音楽が気になって、買いたかったのだけど、映画を見たシネコンのあるショッピングセンターのタワーレコードには置いてないし、アマゾンで調べたら39分しかないので、こんな短くて2700円?と思い、先日、別のシネコンに行ったとき、CDを売っていたけど、ヨドバシアキバで買えば1割分ポイントになるなあと、買わなかったのでした。
で、今週水曜に4度目を見に行って、ますます音楽が気になっていました。
さて、この映画、土曜日からはこれまで見に行っていたシネコンでは朝の回だけになってしまい、遠出すれば夜の回があるシネコンがあるので、来週あたり遠出して5回目を見ようと思っていたのですが、来週遠出できるかどうかわからないし、そのあとはもう上映終了になる可能性がある。
えい、もう、行っちゃえ、って感じで、金曜にいつものシネコンに行ってしまいました。
シネコンが入っているショッピングセンターで、水曜に気になっていた食器があったので、それをもう一度見て、欲しかったら買おう、という目的もあったのですが、映画を見たあと、その食器を見たら、うーん、イマイチ。そして、タワーレコードに入ったら、このCDが入荷していたのです。
最近は秋葉原も行ってないので、思い切って買いました。
39分で全29曲。ほとんどの曲は1分程度の短いものです。でも、映画の順番どおりに出てくるので、映画見たばかりだとシーンがどんどんよみがえってきます。同じ曲が楽器を替えて演奏されていたりして、なかなか聴き応えあり。39分と短いですが、1つ1つ聴きこんでいると、短くても十分満足です。
クラシック用に買った5万円のヘッドホンで聴きました。買ったあと引越などでいろいろごたごたして、クラシックを聴かなくなってしまい、5千円くらいで買ったコードレスのヘッドホンでポピュラーばかり聴いていましたが、久々にこの高いヘッドホンで聞いたら、オケの楽器がよく聴き取れる。
岐阜に向かって出発したルドルフが、イッパイアッテナたちとの別れの余韻にひたるように目をつぶっていて、そのあと、目をパッと開くと音楽が突然変わるシーンが大好きなのですが、CDで聴くとここが音楽のクライマックスなのがよくわかります。それまで管楽器メインだった旋律がここでは弦楽器メインに変わり、もう一つの主要な旋律と最後に融合していくのです。うーん、私が好きになる理由があったんだ。
エンドクレジットの歌は収録されていません。が、私はこの映画は劇音楽がいいと思うので、最後の歌はちょっと余計だな、と思っていたので、むしろ劇音楽で終わる方がいいです。でも、最後の歌も、何度も見るうちに好きになっていたけど。
クライマックスから歌がえんえんと続く「君の名は。」と比べると、やっぱり地味な映画だなあ。「君の名は。」の歌は歌が入るのが当然という感じで入っているので、こっちは全然違和感ないんですけどね。しかし、「君の名は。」は映画が終わるとどっと人が出てきます。
「ルドルフとイッパイアッテナ」はまたまたお客さん少なかったけど、上映が終わっても誰も立たないんですね。それで、掃除の人が入ってきて、私が立ち上がると、ほかのお客さんも立ち上がり始めるという感じで、最初に見たときもこういう感じだったけど、やっぱりすぐに立てない映画です。エンドクレジットも遊び心がいっぱい。

2016年9月8日木曜日

ルドルフと岐阜市(+江戸川区北小岩)

岐阜市が「ルドルフとイッパイアッテナ」のルドルフに住民票を出したので、原作者が市長を表敬訪問というニュースがありました。
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20160906/CK2016090602000010.html
タマちゃんに住民票とか、そういうのよくありますが、ルドルフは岐阜は本籍地で、住民票は江戸川区じゃないのでしょうか?
公式サイトの方では、このあと原作者が岐阜の図書館を訪れ、そこにルドルフ・コーナーが2つもある、という話題も載せています。
江戸川区は何もしないのか? もうやってる?
上の記事によると、やはり岐阜には縁があって、それで方言も書き込めたのですね。

さて、「ルドルフとイッパイアッテナ」も今週は1日2回の上映になっているところが多く、来週は1回、それも朝だけになるところが多そう。
とりあえず、レディスデーに4回目の鑑賞に行ってきました。
まさかここまではまるとは。
この映画、DVDでは見たくない、映画館で見たい、という気持ちが強いのです。というのは、うちのDVDプレーヤーは20年選手で、画面がついたポータブル。なので、画質がかなり難があります。新しいの買いたいなあ。
しかし、レディスデーということもあって、「君の名は。」のお客さんが多く、その直前に始まる「ルドルフ」に入ろうとしたら、係員は「君の名は。」の入場を待つお客さんの整理で忙しく、チケットをもぎる人がいない。それでチケットもぎられずに中に入ってしまったけど、これでいいのか?

「ルドルフとイッパイアッテナ」は4回目ともなると、「教養、教養」とイッパイアッテナが言うのが少しうるさく感じますが、学んだことが役に立つという、実に教育的な話なんだなあ、と。
原作者は教訓を垂れようとか、教育的な内容にしようとか思ってなかったのだろうけれど、自然にそういう面が出てきたのだろうな。
原作者のエッセイ本読むと、賞金30万円がほしくて応募することにしたとか、受賞すればすぐに作家としてやっていけると思っていたとか、文学賞めざして苦労してる人から見たらなんじゃこりゃなんだろうけど、案外、こういう、それまで小説なんか書いたことない人が受賞して成功してしまうということがあるのですね。
しかも、原作者はどうやって話を作ったかというと、専門のドイツ文学の王道である主人公の成長物語、専門のA・T・E・ホフマンの書いた猫の自伝、それに日本人の好きな忠臣蔵のような仇討の要素をいれよう、ってことで話を作ったという、もう最初から当てるつもりで書いたのがわかる話なんですね。とにかく賞金が欲しかったわけだから。もちろん、それで面白い小説ができたのはもう才能としか言う以外ないのだけど。
「君の名は。」も監督自身が受けるように作ったと言っているように、周到に受けるような作り方をしています。
ただ、「ルドルフ」が映画がそれほどヒットしないのは、まず、児童文学でのヒットというのは映画やアニメや漫画に比べたらたかが知れていること。原作はシリーズ4冊の累計で100万部ですが、映画の入場者数はすでに100万人を超えています。直接の原作2冊を読んだ人より映画を見た人の方がおそらく多くなっていると思います。
それと、原作が書かれた80年代と現代では猫事情が相当に変わっていること。人間の食べ物を与えたり、飼い猫を自由に外に出したりとか、今はご法度になっている。そのあたり、今は違うからといって変えると話が成立しなくなる。
内容的にも、舞台となる江戸川区北小岩のすぐそばの葛飾区柴又の寅さんの世界に実はかなり近い。80年代は寅さんが人気だった時代で、原作者も影響を受けたのかもしれません。(そうそう、メインタイトルのバックの富士山がまるで松竹映画。)
だからといって、映画も舞台を80年代の下町にして三丁目の夕日みたいにやると、子供向けにならなくなってしまう。
この辺、老若男女どんな人にも向いている映画だけれど、逆にそれがターゲットを絞れない感じになっていると思います。ターゲットが絞られている「君の名は。」との大きな違いです。
でもまあ、とりあえず興収13億円超えたみたいだから、いいんじゃないでしょうか。受けるような作りになっていたら、たぶん、私はここまではまらない。
さて、できればあと1回見たいけど、近場のシネコンは土曜日からは1日1回、それも朝になっているので、他のシネコンを調べたら、少し遠出すると夜にやるところがありました。大きなショッピングセンターがあるから、行ってみるかな。

検索してみたら、「ルドルフとイッパイアッテナ」のモデルの場所と思われるところをチェックしたブログがありました。
http://bookvilogger.com/rudorufu-rokechi
アニメなのでロケ地とは普通言わないですが、原作者がモデルにしたであろう場所、映画を作るときにモデルにしたかもしれない場所が出てきます。小学校はエンドクレジットに八王子の小学校が出てきますけど。
神社は原作者の書いた「童話作家になる方法」を読むと、原作者自身が昔神社に住んでいて、そこに黒猫がいたという話が出てきます。原作のモデルの神社と映画のモデルの神社が同じものかどうかは不明。
岐阜商業高校はあの時代は高校野球の名門でしたが、映画では岐阜第一商業高校と名前を少し変えています。日本映画は実名は出したがらない傾向が強いですね。
商店街は谷中銀座も参考にしたようですが、上のブログの千代田通商店街、確かに似てる。
谷中銀座は車が通りぬけるような道ではないというか、昼間は車は入れません。夜になるとゴミ収集車とか来ますが、車が通る道ではないです。商店街の入口に弁当屋があるのが谷中銀座に少し似てますが、あそこをしょっちゅう歩いた人間から見るとだいぶ違和感が。ただ、猫の町ということで出してみたのかな、と思います。

2016年9月4日日曜日

新刊

1980年代のヨーロッパ映画について執筆しています。

土曜日に行ったシネコンの入っているショッピングセンターには広い書店があるのですが、この本は入荷していませんでした。

「君の名は。」追記(ネタバレ大有り)

「アンナとアントワーヌ」と「君の名は。」、結末がけっこう同じタイプなのに気づいた。
どちらも2人の男女が再会し、新しい愛の物語が始まるかもしれないという予感で終わる。
「アンナとアントワーヌ」は「男と女」をリアルタイムで見たような高齢者が多く、私なんか若い方かも、と思ったくらいだった。一方、「君の名は。」は中高生でいっぱい。世代が違うので表現もまったく異なるけど、こういう結末はやはり王道なのだなあと思う。
ところで、一晩たってみると(この文章は4日午後1時に書いています)、「君の名は。」も「シン・ゴジラ」同様、いろいろ考えるところのある映画、語りたくなる映画なのだなあ、だから大ヒットなのだ、と思った。
「君の名は。」はやっぱりヒロインの三葉が父親の町長を説得するシーンがないのが「画竜点睛を欠く」で、ここがないのが最大の欠点なのだが、クライマックスは三葉の思い通りみんなが避難してくれて、町長の邪魔もなく、事後処理とマスコミ対応は町長がうまくやってくれた、というふうにしてもよかったはずだ。でも、町長の妨害を入れた方がある意味リアルだし、劇的に盛り上がるのは確かだけど、入れた以上、きちんと処理してくれないと困る。
町長と土建屋が癒着している、というセリフが前半に出てくるけれど、これもその後何も出てこないので入れなくてもよかったと思うのだが、前半は田舎に住む三葉の閉塞感と東京へのあこがれが描かれているので、その補強としていかにも田舎の悪いところを入れたのだろうと思う。
そうしてみると、この映画はジュヴナイル・ファンタジーであるけれど、大人社会のリアリティも入れようとしているのがわかる。
実は私は最初、この映画をあまり見たいとは思わなかった。予告編を何度も見たが(「ルドルフとイッパイアッテナ」を何度も見に行ったので)、予告だけだと「転校生」の二番煎じにしか見えなかった。だが、その後、後半のネタバレを知って興味を持ち、見ることにしたのだ。
それでも、たった3年前に町が彗星の隕石で消滅したのを主人公の瀧がまったく知らない、思い出さないのは変ではないかと思った。実際に見てみると、瀧たちがその大惨事を思い出すのは現地を訪れたときが初めてなのだ。
あれほどの大惨事なのに、3年たつと誰も覚えていない。
しかし、よく考えてみると、これは案外リアルなのだ。
熊本の地震、もう忘れてませんか?あれは今年のことなのに。
飛騨の山奥の町が1つ消滅しても、その近くの人以外は3年後には忘れている、というのはリアルなのだ。
そうしたリアルへのこだわりが、もっとうまくできたのに、ジュヴナイルの枠を超えたのに、と思わせてしまうのだ。
三葉の家は神社を守る女系家族で、三葉の父は婿養子として家に入ったが、最愛の妻に先立たれたのがきっかけで家を出てしまい、町長になる。祖母は一葉、母は二葉、そして妹は四葉という名前で、母だけがほとんど出てこない。町長が三葉に説得されるにはこの母の思い出を出すべきだったのではないか。
そんなわけで、もったいないな、物足りないな、画竜点睛を欠くな、と思ってしまうのである。
私は手塚治虫世代なのだけど、あの頃から少年漫画、少年アニメは少女も見るものだった。「君の名は。」は中高生女子が対象かと思ったら、意外に少年が多いので驚いたけれど、これは確かに少女も見る少年アニメなのだと気づいた。

昨日はTOHOシネマズだったのだけど、グッズ売り場が広かった。「ルドルフとイッパイアッテナ」を見たシネコンは松竹系で、グッズ売り場が狭い。特に「ルドルフ」はグッズほとんど売り切れ。
で、さっき、グッズのサイト見たら、こんなにあるのですね。
http://www.ntv.co.jp/shopping/rudolf-ippaiattena/
ほとんど見たことないや。
昨日のシネコンにも「ルドルフ」のグッズはほとんどなかったけれど、ポストカードブックがあったので、買いました。14枚入り650円(税込)。

「アンナとアントワーヌ」&「君の名は。」(ネタバレあり)

クロード・ルルーシュとフランシス・レイのコンビの新作「アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲」が見たかったので、隣町のシネコンへ行ってきた。
隣町といっても3社の鉄道を乗り継ぐので運賃はけっこうかかる。とりあえず、ネットで席を予約。そのとき、大ヒット中のアニメ「君の名は。」が、「アンナとアントワーヌ」終了時間から30分後に始まることを知り、運賃高いんだからハシゴしちゃえ、ということで予約。
このシネコンは以前、「マクベス」を見に行ったときは平日だったせいかショッピングセンターも閑散としていた。が、今回は土曜日ということもあり、ショッピングセンターも映画館もかなり人がいた。シネコン内での映画のハシゴは発券が一度にできるし、移動しないでいいのでとても便利。
さて、まずは「アンナとアントワーヌ」。大人の愛の映画ということで、高齢者ばかり。歩くのもやっとという高齢者がいて、付添いの人が席につかすまでが一苦労という場面もあった。
原題は「Un+Une」。+でつながれた2つの単語はそれぞれ男性名詞と女性名詞につく「1つの」あるいは「1人の」という冠詞。つまり、これは「男と女」ということ。「男と女」といえばルルーシュの傑作。あれから半世紀。これは21世紀の「男と女」ということでしょう。
主人公は映画音楽作曲家のアントワーヌ。ピアニストの恋人がいるが、女たらし。インドの映画監督の作品に音楽をつけるためにインドへ行き、そこでフランス大使夫人のアンナと出会う。妊娠祈願でインドの聖女を訪ねるアンナに、アントワーヌは頭痛を治すという理由で同行し、しだいに愛が芽生え、ついに2人は結ばれてしまう。一方、アントワーヌの恋人がインドへやってきて、フランス大使の世話になる。アンナとアントワーヌは夫と恋人のもとに戻るつもりでいるが、しかし、というストーリー。
アンナとアントワーヌの、最初はただの友達だったのが、しだいにお互いに惹かれあっていく過程、その過程で描かれるアンナとアントワーヌの過去、そして一夜だけの不倫をしてしまったあとの展開が「男と女」の語り口を彷彿とさせる。数年後、空港で偶然出会うアンナとアントワーヌのシーンはジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」のようだ。そういえば、アンナはゴダール、アントワーヌはトリュフォーを連想させる名前。ルルーシュ自身と、そして同世代の監督たちへのオマージュだろうか。結末近くでは、ルネ・クレマン監督の「パリは霧にぬれて」の音楽が一瞬、耳に聞こえてくる。
「男と女」の主人公たちがレーサーだったり映画のスクリプターだったりしたことがある種のおしゃれな記号であったように、アントワーヌが映画音楽作曲家だったり、その恋人がピアニストだったりすることもおしゃれな記号にすぎないように思える。インド人の映画監督も背景的人物で、映画作りについての映画ともいえない。アンナとアントワーヌの機知に富んだ会話はロメールか? 電信柱ができる前は鳥はどこにとまっていたのか、とか。アントワーヌが父親を探し出すシーンで話題になるエットーレ・スコラの「あんなに愛し合ったのに」。両親は船に住んでいる、と言ったアンナの言葉が実体化するラスト。お互い、新しい恋人がいるみたいなのに、この2人、また何か始まりそうな予感。愛こそが人生、ああ、これぞフランス映画の真骨頂なのでした。

そして、30分後にはスクリーンを移して「君の名は。」。お客さんは中高生ばっかりです。大学生から20代くらいがちょぼちょぼ。30代以上の大人はほとんどいない。私がたぶん最高齢。前の方に中年女性がいたが、小学生の付添いだった。中高生のグループが多いので、たぶん、中学や高校ではこの映画を見ていないと話題に遅れるのだろう。数人のグループで来ているのは男子ばかりという感じ。女子は2人くらいで来ている。けっこう男子率高い。
で、内容は、ジュヴナイル・ファンタジーの王道ですね。どこかで見たことのある話の寄せ集めで、既視感バリバリ、年季の入った高齢者の私には正直、新しさはまったく感じませんでした。しかし、たとえ使い古されたネタだとしても、それを組み合わせるうまさはあり、また、内容的にも10代の人たちに見せたいジュヴナイルであることは大人の目から見てもそう思います。10代の頃にこういうジュヴナイルを見るのはいい、純な心の少年少女が惹かれあい、そして人命を救うために頑張る。いい話です。まわりの友達もいい人ばかりで、不良とかいない。名前の重要性をテーマにしているあたりはほんとにファンタジーの王道で、名前を忘れてしまうことが記憶の喪失につながり、でも、心のどこかにその滓が残っている、という設定もいい。
過去を変えたら未来も変わる。そういう辛い部分も確かに入っています。
そんなわけで、この映画が10代を中心に大ヒットするのは大いに喜ばしいことなのですが、大人の鑑賞に堪えるかというと、かなり疑問です。
優れた児童文学やジュヴナイルは大人の鑑賞にも堪える、むしろ大人こそ見るべきであるケースが多く、宮崎アニメなどはまさにそうした名作でした。しかし、この映画は、海千山千の大人から見ると、いろいろ物足りないところが多いのです。
たとえば、ヒロインが村の人々を救うために、どうやって町長である父親を説得したのかがまったく描かれていません。あの状況では、彼女は父を説得できないのではないか?
また、東京の人たちは彗星を美しいと言ってのんきに眺めているが、ヒロインの住む山奥の村はその美しい彗星のせいで危機に瀕している。これは東京のような都会にとって山奥の小さな村はどうでもいいという現実への批判にもつながるものですが、この映画はそうした都会対田舎のような対立を描こうとしません。東京は田舎の高校生のあこがれの場所、田舎はファンタジーの世界のように描かれます。町長と土建屋のつながりが前半で暗示されるのに、後半でそれが生かされることもありません。
おそらく時間の関係などで十分に描くことができなかったということもあるとは思いますが、大人の視点で見たとき、あまりにも物足りないと感じる部分が多いのも事実です。
風景の美しさが評価されていますが、日本のアニメは予算が低いので人物をあまり動かすことができず、その分、背景に凝るという感じで、私にはこの絵の部分も物足りなかったです。
と、きびしいことを書いてしまいましたが、大人の鑑賞に堪える本当の傑作になる可能性を秘めているだけに残念だと思います。

その後、2回追記しました。
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/09/blog-post_78.html
http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/10/blog-post_13.html

2016年9月2日金曜日

トマス・ウルフと編集者パーキンズ

「天使よ故郷を見よ」のトマス・ウルフと、その小説を世に送り出した編集者パーキンズを描く映画「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」。
映画はRottentomatoesではかなり評価が低かったが、英米文学やってる人間としては見ないわけにはいかない。もっとも、トマス・ウルフも「天使よ故郷を見よ」も名前は知っていたが、読んだことはない。
ウルフの時代はヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナー、スタインベックがアメリカ小説四天王で、日本でもこの4人が人気が高い。私もこの4人はよく知ってるんだけど、ウルフは名前だけ、なのだ。
ウルフという人はかなりの変人で、こういう人がそばにいたら迷惑だろうな、と思ってしまう。小説もとにかく書きまくるので異常に長く、これではだめだ、ということで、編集者パーキンズが指導して大幅に削除させ、出版。そして「天使よ故郷を見よ」はベストセラーになる。
その後もパーキンズとの二人三脚が続くが、ウルフには18歳年上の恋人がいて、彼にとっては母親のような存在なのだろうが、父親のような存在のパーキンズと知り合ってしまうと、彼の人生はパーキンズがすべてになってしまい、恋人は激しく嫉妬する。
実際、この映画のウルフは30代にもなって子供みたいだ。
一方、パーキンズもワーカホリックで、家庭を顧みない。自宅にいてもソフト帽を脱がないとか、こちらも変人っぽい。
パーキンズはフィッツジェラルドやヘミングウェイも世に送り出した編集者で、この2人も登場する。面白いのは、ウルフを演じるのはジュード・ロウ、パーキンズはコリン・ファース、フィッツジェラルドはガイ・ピアース、ヘミングウェイはドミニク・ウェストと、全員イギリス人。まあ、イメージは合ってると思いますが、古い時代だとイギリス人俳優の方が似合うのか? 映画は一応、イギリス映画ということになっていて、監督もイギリス人だけど、やっぱり違和感はある。女優はニコール・キッドマン、ローラ・リニーと、アメリカ生まれ。
ウルフの時代、フィッツジェラルドは「グレート・ギャツビー」も売れず、新作も書けず、ハリウッドへ行っても売文家に徹することができず、という状態だが、20年代には人気を得たフィッツジェラルドだけれど、大不況時代の30年代には彼自身の作風が合わなくなってきているように見えた。それに対し、戦争に取材して書くヘミングウェイはまさに時代の申し子だろう。
とまあ、いろいろ興味深い映画ではあるけれど、あまり深みはないし、劇的な展開もないので、映画としての評価が低くなるのはやむを得ないかと思う。父を乗り越えるというのはアメリカによくあるテーマだが、ウルフはパーキンズという父を乗り越えるところまで行っていない。最後まで子供のままだ。脚本は「グラディエーター」などのジョン・ローガンで、2人の男の対立みたいなテーマはローガンの得意とするところだと思うし、実際、ローガンが長年温めてきた企画でプロデューサーも兼ねているのに、監督の選択を誤ったか、あるいは、脚本がそもそもよくなかったのか。
それはともかく、作家と編集者が作品を作っていくというのは20世紀後半以降の出版ではよくあることだと思うが、パーキンズのように産婆の役に徹する編集者ならいいけれど、編集者が書きたいことを作家に書かせようとする本末転倒な編集者も多いようで、「ルドルフとイッパイアッテナ」の斉藤洋もそういう編集者は自分で作品を書けとエッセイで言っている。ウルフとパーキンズの場合も、映画では、もしかして自分の好きなように変えてしまったのではないかとパーキンズが思ったり、パーキンズのおかげでいい本ができたと世間から言われてウルフが悩むとか、そういう部分も出てくるのだけれど、出てきただけで終わってしまっている。
パーキンズはトルストイの「戦争と平和」を愛読書にしているが、「戦争と平和」は章ごとに物語と作者の薀蓄というかお説教が交互に出てくる。このお説教の部分を飛ばして読んでも物語はわかるのだが、飛ばせば当然、作品は軽薄になってしまう。もしも編集者が、お説教の部分を削除した方が売れると思ったら、そうなってしまう可能性があるのだ(オードリー・ヘップバーン主演の映画「戦争と平和」はこのお説教を削除したものと言っていい)。
本当はこのあたりを追求すべきだったのじゃないか。あるいは、恋人が母、編集者が父である子供のような人間ウルフの物語に徹するべきだったか。どちらも中途半端なのだ。