2017年2月25日土曜日

日暮里ねこ祭り

にゃっぽりジャックをやるというので水曜日に日暮里駅へ行ったら、にゃっぽりとは無関係の猫グッズの店が出ているだけだった、という話を書きましたが、今日、土曜日に行ったら、「日暮里ねこ祭り」と改名されていました(誰か苦情言ったのだろうか)。でも、にゃっぽりジャックのポスターも貼ってある。
グッズの店は水曜日よりもずっと多くなっていて、これはなかなか見応えあるグッズが多かったです。にゃっぽりグッズでは布製品の店とキオスクで売っていますが、キオスクのにゃっぽりキーホルダーが水曜はたくさんあったのに土曜は3つしかなかった。にゃっぽりどら焼きはたくさんありました。1個150円、箱入りもあり。布製品の方は特に新作はなさそう。

さて、先日紹介したにゃっぽり川柳、1枚だけ写真撮り忘れていたのがあったので、撮ってきました。土曜は通行人が多いので、わずかな隙を見てパッと撮影。

2月28日まで開催中。

2017年2月24日金曜日

「ブライトン・ロック」(ネタバレあり)

「マリアンヌ」でブラッド・ピットが読んでいた小説、グレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」を読んだ。(ネタバレありなので注意)
「マリアンヌ」を見る前に近くの図書館でグレアム・グリーン全集があるのを見つけ、数十年ぶりにグリーンを数冊借りて読んだのだけど、そのきっかけはスコセッシの「沈黙」を見たから。
遠藤周作のようにカトリックの神の存在にこだわる外国の作家といえばグレアム・グリーン、というのが頭にあったからだ(代表作「権力と栄光」はまさにそれ)。
で、「マリアンヌ」を見てから今度は「ブライトン・ロック」を読んだのだけど、これはなかなかすごい小説だった。
主人公は邪悪の化身のような17歳の少年ピンキー。カミソリと硫酸の小瓶を持ち、人を傷つけるのも殺すのも平気。罪悪感もない。大人のギャングとも張り合う。その彼が昔の仲間をブライトン・ロックという飴を使って殺す。
ブライトン・ロックというのはブライトンという海辺の町で売っている飴で、金太郎飴のようにどこを切ってもブライトンと書いてある棒状の飴。
検視では自然死とされたが、ピンキーを慕う16歳の少女ローズはある場面を目撃していて、殺人を疑われた場合、ピンキーにとって不利な証人となる。そこでピンキーはローズと結婚することを考える。妻は裁判で証人になれないからだ。
ローズはピンキーを愛しているが、ピンキーはまったく愛していない。彼は女が嫌いな男のようで、そうでなくても人を愛することなどない邪悪な少年。2人は結婚するが、ピンキーはローズが邪魔で、心中を持ちかけて彼女を殺そうとする。
ストーリーだけ書くとただの犯罪ものみたいだが、ローズはキリスト教の善と悪について考えていて、これがクライマックスから結末にかけての重要なテーマになる。
人間の本質は変わらない、ブライトン・ロックのどこをかじってもブライトンという文字が出てくる、という意味深なせりふもある。小説の語り口も文学的なレベルが高い。
ピンキーの殺人に気づいた女性がローズに接近し、ピンキーはあなたを愛していない、と忠告する。ローズはピンキーが自分を愛していなくても自分が惚れているのだからいい、と思ったり、いや、彼は私を愛していると思ったり。
しかし、読者はピンキーがローズをまったく愛していないこと、むしろ、嫌いなくらいだとわかっている。しかも、ピンキーはレコードにその気持ちを録音してしまっているが、ローズは蓄音機を持っていないので聞けない。
ラスト、神父への告悔を終えたローズが(彼女は妊娠している)希望を抱いてある場所に向かうとき、読者はそこに悲劇があるのを知っているが、彼女は知らない。衝撃的な結末だ。

「マリアンヌ」ではピット演じる主人公が、妻がドイツのスパイだと告げられる。妻がスパイなのかどうか、もしもスパイなら自分を愛しているのかどうか。カサブランカでの愛が、スパイの任務のための芝居だったのか、という疑問が当然あるだろう(その辺、描き方全然だめなんだけど)。
そして、夫婦が幼い娘に託した思いは、「ブライトン・ロック」のローズが期待した思いだ。ローズの期待は裏切られることが読者にはわかっている。
こんなふうに比べると、「マリアンヌ」がますますだめな映画になってしまうので、比べない方がよいだろう。
とにかくグレアム・グリーンはすごい。

2017年2月22日水曜日

にゃっぽり川柳

前の記事に書いたとおり、2月22日猫の日から1週間、JR日暮里駅でにゃっぽりの日暮里ジャックをやるというので、出かけて見ました。
が、全然日暮里ジャックじゃないやん。
コンコースの真ん中で、にゃっぽりとはまったく関係のない猫グッズを売っているだけ。
通常のにゃっぽりグッズはいつもの店で売ってるだけで新作もなし。
その他、ポスターなどの展示もなし。
サギじゃん!

と、がっかりして改札を出ると、

日暮里駅員の作ったにゃっぽり川柳が書かれたにゃっぽりポスターが。

クリックすると大きくなるので、川柳が読めると思います。
ここ、人が行き来する場所なんで、写真撮るのけっこう大変かも。たまたま昼間のすいているときだったので、人が少なかったが。





谷中方面への通路にあるのですが、反対側は見なかったのでわかりません。
土日はもう少し派手にやるのかなあ。

ところで、上にアップした写真の川柳、勝手にベスト3を選んでみました。
まず3位
「にゃーとなく エサをあげたら そっぽ向く」(1枚目の写真)
続いて2位(実は2位と3位は甲乙つけがたく、どっちが2位でもよかった)
「谷中ネコ 気まぐれ具合 超一流」(2枚目の写真)

そして栄えある1位は
「インスタに 無断であげるな にゃこの顔」(4枚目の写真)

いやあ、これは谷中の標語にしてほしいです。
谷中の猫の写真をネットにあげるのは禁止、という立札が立っていますが、捨て猫などの犯罪防止のためです(捨て猫捨て犬は罰金百万円)。書店で売られている地域猫の写真集は、現地のボランティアの許可を得ているものだそうです。

2017年2月17日金曜日

2月22日は猫の日

2月22日は猫の日、だそうで、「ルドルフとイッパイアッテナ」のDVDもこの日に発売されるようですが、

なんと、JR日暮里駅で、22日から1週間、にゃっぽりの日暮里ジャックをやるそうな。

このイベント、一昨年春にやって大盛況。グッズは発売15分で売り切れたとか。

今回は1週間やるので、グッズも十分に用意されていると思います。

私としては、一昨年は近くに住んでいたのにイベントを知らず、いや、知っていても仕事で行けなかったので、今回はぜひ行ってみたい。
グッズ販売だけでなく、前回はにゃっぽり年表やポスターが多数貼りだされたらしいので、それを見たいのです。

まだネットには情報が出ていないみたいなのですが、私は昨日、日暮里駅のポスターで知りました。

さて、前回書いた「マリアンヌ」ですが、ネタバレになるのでストーリーの腑に落ちないところについては書かなかったのだけど、文字の色変えて書くことにします。
「マリアンヌ」は主人公のカナダ人将校の妻マリアンヌが実はドイツのスパイではないかという疑いをかけられ、それが事実だとわかったら主人公が妻を殺せという命令を受けるのですが、マリアンヌがスパイだったら逮捕して裁判にかけ、死刑にするのが普通なのに、なんで夫に殺させるのかが最大の疑問です。
夫に殺させるって、かなり残酷。それなら別の人が暗殺するとかの方がはるかに理にかなっている。
また、マリアンヌと主人公が行った大使暗殺が、実は大使は反体制派で、ヒトラーが暗殺を命じていた、というのも、なんでそんなこともっと前からわかってなかったんだよ、という気がします。
ドイツのスパイの任務にカナダ人将校が載せられたって、ちょっと無理がありませんかね。
この辺の、マリアンヌの関する部分がどうも納得いかない話になっていて、物語の根本がおかしいと思わざるを得ないのです。
マリアンヌについても、本物のマリアンヌが死んだあと、ヒロインがその名をかたってスパイになるのも、どういう事情があってそうなったのかがわからない。本当の名前さえわからないのです。
だから、結局、夫婦の愛と子供への愛しかわからないという、あまりに人物造型を無視した物語になっているのです。

2017年2月16日木曜日

「マリアンヌ」&「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」

水曜日はシネコンでハシゴ。
ティム・バートンの「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」とロバート・ゼメキスの「マリアンヌ」。
どちらも本国で評判芳しくなく、この2名の監督も昔の名前になってしまった感があるので、わざわざ見に行くほどかなあ、スルーしようかなあ、と思ったけれど、題材的に興味があったので見に行った。偶然だが、どちらも第二次大戦中の話で、「ペレグリン」が1943年、「マリアンヌ」が1942年。どちらも空襲が出てくる。
「ペレグリン」の方を先に見たのだけど、言いたいことの多い「マリアンヌ」から。

「白い帽子の女」に続くブラッド・ピット主演のメロドラマかと思いきや、昔なつかしいスパイ・サスペンスであった。どうりでレディスデーなのにガラガラで、女性を中心に10人くらいしか客がいなかったわけだ。女性向けのラブストーリーみたいに売っていたけれど、これは女性向けとは言えない。
もちろん、ラブストーリーでもあるのだが、たとえば、「カサブランカ」が女性向けのラブストーリーかと言ったら、それは違う。
物語は第二次大戦中のモロッコ、カサブランカから始まるが、「カサブランカ」には特に似てるところはない。それより驚いたのは、舞台がイギリスに移ってから、ピットがベッドに横たわりながらグレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」を読んでいるシーンがあったことだ。
つい最近、図書館からグリーンの本を3冊借りてきて、高校大学以来久々にグリーンを読んでいる、とここにも書いたけれど、その借りてきた3冊は「密使」(1939年)、「恐怖省」(1943年)、そして「第三の男」などが収録された本。「密使」は1930年代のファシズムの台頭、特にスペイン内戦を想起させるスパイもので、ラストはちょっと「カサブランカ」に似ていたが、映画よりこの小説の方が早い。「恐怖省」はまさに第二次大戦中のイギリスの話。そして映画のために書かれた「第三の男」は終戦直後。ピットが読んでいた「ブライトン・ロック」は未読だけど(今度借りてこよう)、この系列の作品ではないと思うが、それでもグリーンの小説を映画の中に登場させたのは、この映画が「密使」や「恐怖省」のようなグレアム・グリーン的サスペンスをめざしたということではないかと思う。
実際、上にあげたグリーンの3作は、どれも男女の愛が重要なモチーフになっている。特に「密使」と「恐怖省」の主人公と妻の関係は(これ以上書くとネタバレになるので自粛)。
というわけで、グリーンを借りたのは運命だったのか、と驚いたのだが、しかし、映画は、困った。
「ペレグリン」もそうなのだけど、最近は上映時間が2時間10分以上の映画が多い。そして、「マリアンヌ」も「ペレグリン」もその分、無駄が多く、冗漫になっている。
「マリアンヌ」の場合、それは冒頭のモロッコのエピソードだ。
ここで大使暗殺の任務についた男女が恋に落ち、任務のあと結婚となるのだが、結婚したあとに妻にスパイ容疑がかかる、という内容が宣伝で拡散されているから、この任務で2人が死なないとわかっているのだが、にもかかわらず、無駄にハラハラドキドキのサスペンスを何度も入れているのだ。最初にドカンと派手なシーンを入れたいのはわかるが、もっと簡潔にやるべきだった。
暗殺のシーンで赤い服の女性がマリアンヌを驚いたように見るシーンは伏線になっていて効果的だし、マリアンヌがカナダ人のマックス(ピット)をケベコワ(ケベック人)と呼ぶのはラストに生きるのだけど、とにかくこのエピソードが無駄な部分が多い。
ケベコワというのはカナダのフランス語圏であるケベック州の住民のことだが、マックスはマリアンヌに自分はオンタリオの出身だと言う。オンタリオ州はトロントやオタワのある州で、もちろん英語圏だが、実はオタワにはフランス系住民の住む地域があるそうで、そこの住民はフランス語と英語のバイリンガルになるようだ。おそらくマックスはオンタリオ州のフランス系で、それで英語とフランス語が話せるのだろう。でも、こういうのがわかっても別に映画が面白くならないのがなんとも。
で、本題はイギリスに移ってからなのだけど、そこからもあまり盛り上がらない。というか、感動させようとしてるのに全然感動できない。
なぜかというと、マリアンヌがどういう女性なのか、最後までわからないからだ。
マックスを愛していることはわかる。マックスとの間に生まれた娘を愛していることもわかる。が、それ以外は何もわからないというか、肝心な人物造型をきちんとやっていないのだ。
マックスの方も、カナダのオンタリオ州出身で英語とフランス語のバイリンガルだということはわかるが、それ以外のことは何もわからない。マリアンヌと娘を愛していることしかわからない。
マックスは行動し、苦悩しているからまだいいのだが、マリアンヌの方はもう、マリオン・コティヤールの表情演技だけでようやくキャラになっているというか、コティヤール様様なのだ。
というわけで、脚本から練り直して来い、と言いたい映画なのである。
追記 次の記事「2月22日は猫の日」で物語の欠陥について書きました。

「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」も無駄に長いところが多い。
まず、ペレグリンの屋敷に行くまでが長い。
最後の戦いが長い。いろいろ工夫して戦っているが、1つ1つの戦いはさほど面白くなく、だらだらと長い。
ティム・バートンの映画はだいぶ前から見限っているので、それほどがっかりはしないのだけど、この映画では「シザーハンズ」のモチーフが出てくるのが気になった。
たとえば、黒髪で黒い衣装のミス・ペレグリンは明らかにエドワード・シザーハンズの末裔である。
彼女の屋敷はエドワードの住んでいたお城にそっくりだし、そこで人造人間の製造をしているのも「シザーハンズ」をグロテスクにしたよう。
1943年の9月3日を毎日繰り返すループの中のこどもたちは年をとらないが、ループの外に出た人は年をとり、結婚し、子供や孫ができる、というのは「シザーハンズ」の年をとらないエドワードと、外の世界で年をとり、孫に物語を聞かせるキムと同じだ。
ペレグリンは人を殺すこともあると言われるが、エドワードも最後に、正当防衛的ではあるが、殺人を犯す。
違うのは、ペレグリンは自信に満ちた保護者であり、エドワードのような悲しい目をしていないことだ。また、異能者であるこどもたちもエドワードのような悲しい目をしていない。ハサミの手ゆえに人気者になり、誤解されて迫害されるエドワードとは違い、自分の能力を使いこなしていて悩まない。
ティム・バートンがエドワードの悲しい目を年とともに失ったのはわかっていた。ただ、ジョニー・デップが出ていると、エドワードの記憶がよみがえって、まだ残っているような錯覚に陥っていたような気がする。クライマックスでペレグリンが表舞台から姿を消し、闘いがこどもたちに託されたとき、エドワードの悲しい目はとっくにバートンには無縁になっているんだと思い知る。バートン自身が異能の人ではなくなっていたのだ。
この映画はタイムスリップもので、「君の名は。」と同じく、主人公は好きな女の子のために戦い、過去を変えさえもする。同じようなパターンで、この映画の方が複雑な設定だけど、「君の名は。」の方が素直に感動できるよなあ。

2017年2月11日土曜日

いろいろ

今、シネコンでやっている映画で見たいものが2本あり、それをいかに組み合わせてハシゴするかを考えているのですが、そのうちの1本の原作が、なぜか単行本と文庫本で別の出版社から出ていて、翻訳者もちがう。
版権のない古い作品なら複数の出版社で出ることはよくありますが、これはわりと最近の作品。
で、考えられることは、おそらく、単行本を出版したTS社が文庫の出版権を買っていなかった。
アメリカではベストセラーですが、このTS社は日本ではマイナーなので、大手ではなくここで翻訳が出たということは、要するに売れないと判断されたのでしょう。
実際、この作品はすでにシリーズ化されているけれど、続編などは出ていません。
つまり、売れないと見込んで文庫の権利を買わなかった。が、その後、映画化の話が出て、そうなるとあちらのエージェントは高く権利を売りたいわけで、複数の出版社に文庫化の権利の話を持ちかけ、TS社とは別のU社が文庫化権を買った、ということではないかと(あくまで予想です)。
あるいは、シリーズ化された他の作品の版権も一緒に買ってくれとか、そういう要求があったかもしれません。
映画はとりあえず、そこそこヒットしているようです。TS社は文庫の定価がものすごく高いので、それに比べれば廉価のU社の文庫は買う人には好都合でしょう。
しかし、U社はどっちかというとかなりマイナーな出版社なので、映画の表紙の文庫が出ていることも知りませんでした。
私としては、とりあえず映画は見たい。で、原作は図書館で借りたい、ということで、予約待ちの状態です。U社の文庫は上下なので、1冊ですむTS社の単行本を予約しました。

近くの県立図書館が10日ほど閉館するので、貸出期間が長くなる、というので、グレアム・グリーン全集を3冊借りてきました。
グリーンは高校大学の頃に数冊読んでいましたが、久々にグリーンを読んでやっぱりいいと思いました。
フリッツ・ラングが映画化した「恐怖省」がとてもいい。ラングの映画化も見ているのだが、あまり記憶に残っていない。でも、グリーンの小説はその構成のうまさに感嘆します。

金曜日はタルデンヌ兄弟監督の「午後8時の訪問者」の試写を見て、考えるところが非常に多かったのですが、9月からのダイエットがついに体重5キロ減になり、体脂肪率も6ポイント減、かなり限界にきていたので、映画を見終わったらおなかがすいて、八重洲地下街のカレー屋さんでサービスタイムの安いカレーをむさぼるように食べ、それから帰宅したけれど、それでもおなかがすいているのでスーパーで半額のお寿司や惣菜を買ってしまい、ようやくおなかが落ち着いたけれど、これでまた体重が戻ってしまうな、と。
目標は4キロ減だったので、もうダイエットはしなくていいのだけれど、リバウンドが怖くてダイエットしてしまうとか、やせたいという願望は底なしなのだと実感。
ただ、体重計ではやせているけれど、服は特にゆるくなってないというか、やせた実感がないのも事実です。ダイエットしても胸からやせて、おなかは最後、というのは本当です。

2017年2月9日木曜日

「はじまりへの旅」(ネタバレあり)

ヴィゴ・モーテンセンがアカデミー賞やゴールデングローブ賞などにノミネートされた「はじまりへの旅」。
ノーム・チョムスキーを崇拝し、文明生活を捨てて人里離れた山奥で6人の子供と暮らす男が主人公。子供にはサバイバル訓練をさせ、夜は大人の読むような古典や研究書を読ませる。幼い子供がジョージ・エリオット(19世紀イギリスの女性作家)の「ミドルマーチ」を読んで「面白い」と言っているのだが、あれは結婚に失敗した女性の哲学的思索や心理がえんえんと続く小説なんだが。
主人公には妻がいるが、双極性障害で3か月ほど前から入院中。その妻が自殺したと知った主人公と子供たちが、妻/母の遺言をかなえるため、彼女の両親が葬儀を行うニューメキシコへ出かける。彼女は仏教徒で、火葬を望んでいるのに、両親はキリスト教式の葬儀と埋葬をする予定だからだ。主人公は妻の父とは犬猿の仲である。
主人公は左翼思想にかぶれ、資本主義とキリスト教を唾棄すべきものと思っていて、子供たちも父の影響でそういう考えに染まっている。次男だけがそんな父に懐疑的。なんだか奥田英朗の「サウスバウンド」を思い出す。森田芳光が映画化した小説だ。元過激派の夫婦が左翼思想に凝り固まって、まわりからは変人と思われているが、息子がやっぱり親に懐疑的。
こちらの主人公たちは途中、主人公の妹夫妻を訪ねる。そこで、子供たちが現実社会とはまったくなじめないこと、本で学んだことしか知らないことが露呈する。その一方で、妹夫妻の子供に比べてはるかに高い知識を持っていることもわかる。
最後は主人公と子供たちが葬式に乗り込んでひと騒動、祖父母の側についてしまう次男、母の教育のおかげで一流大学に合格し、進学したい長男、そして、次男を取り戻そうとして起こった不慮の事故をきっかけに、主人公が変わらざるを得なくなる。
ヴィゴ・モーテンセンの演じる主人公は「サウスバウンド」の主人公を彷彿とさせる。ただ、「サウスバウンド」の主人公がどちらかというとコミカルであり、沖縄へ行ってからは英雄になってしまうのに対して、この映画の主人公はいかにもアメリカの男という感じだ。もちろん、コミカルな面もあるけれど、アメリカの開拓者の男の伝統を引いている。そして、現実と折り合いをつけていく結末も「サウスバウンド」とは大いに異なる。
「サウスバウンド」の夫婦が一枚岩なのに対し、この映画では実は夫と妻の間に意見の食い違いがあったことがしだいにわかってくる。また、山奥に住むことにしたのは妻の病を治すのが目的だったこともわかる。そして、主人公の妻は最終的には夫との人生を肯定していたこともわかる。
主人公を否定されるべき父として描き、最後に主人公が敗北する映画にすることもできただろうが、この映画はそうなっていない。彼がそうならなかったのは、要所要所に女性の理解があったからだろう。主人公の妻、妹、そして妻の母親。妹の夫がいくぶん主人公たちに理解がなさそうなのに比べ、妹は苦言を述べつつも理解者である。妻の両親は、父親の方は主人公を完全に拒否するが、母親は夫と娘婿の間でおろおろしつつ、主人公や子供たちにやさしく接する。主人公の妻が夫との人生を後悔していなかったことを告げるのは彼女だ(ちなみに、父親はフランク・ランジェラ、母親は「コンプライアンス」のアン・ダウド)。
アメリカ映画を見ていると、この手の理解ある女性がけっこう多くて、女性の画一的な描き方、と文句を言いたい気持ちもあるのだが、女性たちの導きで男性が変化していく映画でもある。
子供たちを演じる俳優もとてもいい。次男役は子役時代のリヴァー・フェニックスに似て、プレスにある「モスキート・コースト」の連想もわかる。長男役もよい味出しているし、幼い少女もかわいい。
思えばフェニックスの一家もこんな一家だったんだよなあ、確か、と思いつつ、長男の最後の決断、文明社会に復帰した一家の暮らしがハッピーエンドなのかどうか、ちと考えてしまうが、そういう面も含めてよくできた作品である。

2017年2月8日水曜日

カワイイ鳥




カメラ目線。


風が強かった火曜日、近くの自然公園は人もほとんどいないくらいで静かでした。
鳥も風を避けるような場所にいて、いつものようにはあちこちに出没してくれなかった。

春を告げる花、梅と菜の花も満開。



写真はクリックして大きくした方がよく見えます。

2017年2月6日月曜日

ため息いろいろ(追記あり)

ツイッターを見ていると、役に立つこともあるけれど、頭を抱えてしまうことも多い。
ご本人は大変リベラルでまじめな方なんだけど、そのツイート、間違ってるよ、という場合のこと。
たとえば、ある博士課程在学中という文系の方は、集英社文庫の「日はまた昇る」を買って読み始めたが、新訳なのに訳が悪い、とツイートしている。
しかし、しかし、集英社文庫の「日はまた昇る」は古い翻訳の改訂新版、平たく言えば文字を大きくするとかそういうことをしただけのやつ。
新しい翻訳なら早川文庫や新潮文庫がある。1970年代の古い翻訳を「改訂新版」の文字で新訳と勘違いしたままのようである(教えてやる人はいないようだ)。
この人は「ディア・ハンター」をアメリカン・ニューシネマとか書いていて、映画や文学に関しては目をおおうものが多いのだが、それ以外だと役に立つツイートはある。一応、博士課程なんだから、勉強してほしい。

もう1つは、映画「未来を花束にして」にイチャモンつけているフェミニストの女性たちである。
もともとは、「サフラジェット」という原題を「未来を花束にして」というヤワな邦題にしたことと、ポスターがほんわかなものにされているという点で、去年からさかんに配給会社を批判していた。
確かに一理あるのだが、最近になって、日本のポスターはオリジナルのポスターをフォトショで変えて、「女性に投票権を」と書いたバッジを消してしまった、というツイッターがあった。
実は、この映画にはオリジナルのポスターが2種類あって、片方はハードなタイプ、もう片方はソフトなタイプ。日本が採用したのはソフトな方だった。
そのソフトな方には「女性に投票権を」というバッジはついていない。かわりに、ヒロインが仲間からもらう小さな勲章がついている。

2種類のポスターはこれ。


日本では下の方の女性たちの胸から上を採用している。キャリー・マリガンの勲章は消されているが、実はフランス版のポスターも同じように胸から上を採用し、勲章は消している。ただ、フランス版は一番下にフランス革命ふうの戦いの絵を入れていて、「レ・ミゼラブル」ふう。

女性たちの言い分にも一理あるし、配給会社がソフトムードを強調しすぎるきらいはあるのだが、それでもチラシを見れば女性参政権のための戦いの映画だということはわかる。
イチャモンばかりつけていると結局、映画のネガティヴ・キャンペーンになってしまうのだが、映画館に来てた人はごく普通の人たちで、男性もいたから、ツイッターごときはさほどの影響はないのかもしれない。

あ、あと、映画の最後に世界主要国の女性参政権獲得の年がずらっと出てくるのだが、なんと、日本は出てこない。
このことをなぜ誰も言わないのだろう?

2月8日追記
政治学者で著書もある木下ちがや氏が、上の日本版ポスターがバッジを消した、というツイートをリツイートしていた。
上に書いたように、日本版ポスターはバッジのあるポスターとは別の、バッジのないポスターを採用したのであり、間違った元ツイートに対してそれを指摘するツイートも出ている。
しかし、間違ったツイートはこのようにして名のある学者によってリツイートされ、それを誰かが拡散して、こうしてデマが拡散していくのだ。
木下氏はじめリベラルな人はデマの拡散に対して批判をしているが、自分自身が無知と善意からデマを拡散しても注意する人がいないとそのままになる。
私はツイッターをやっていないのでデマだと言えないのが残念だが、ツイッターをやるつもりもない。このデマが悪い影響を与えないことを祈るしかない。