2017年9月6日水曜日

「ノクターナル・アニマルズ」映画と原作(ネタバレあり)

トム・フォード監督の映画「ノクターナル・アニマルズ」の原作はオースティン・ライトの小説「トニーとスーザン」(原題)。1993年の作品で、日本ではすぐに「ミステリ原稿」の邦題で翻訳が出た(早川ポケットミステリ)。しかし、本は売れなかったのか、現在は絶版。幸い近所の図書館にあったので、映画化の話を聞いたときにまず読み、そして映画を見たあとに再読した。ハヤカワ文庫から映画と同じ題で再刊予定とのこと。

映画を見てまず驚いたのは、原作とはかなり違う内容になっていたことだ。それも、ストーリーが違うというのではなく(ストーリーはむしろ忠実)、人物の設定、そしてテーマの置き方の違いだ。
そして、残念ながら、私は原作の方が優れていると思った。映画もオスカー候補になったマイケル・シャノンはじめ男優陣の演技がすばらしく、映画自体も原作と比べなければ優れた作品だ。ヴェネチア映画祭で審査員グランプリなのもわかる。
だが、やはり原作と比べると、奥深さで劣るのは否めない。これは文学と映画の違いでもあるし、原作は文学だからできることをやっているのは確かだ。
だが、フォートの前作、クリストファー・イシャウッド原作の「シングルマン」が原作に劣らない出来であったことを思うと、少し残念だ。また、フォードらしいスタイリッシュな映像も前半に集中していて、後半になると映像的なすごさがなくなるのも残念な気がした。

というところで、以下、原作と映画の違いを見ていく。

一番大きな違いは主人公たちの職業である。
20年も前に別れた元夫エドワードから届いたミステリ原稿を読むスーザンは原作ではカレッジの英語非常勤講師。法律家志望のエドワードが作家になるため法科大学院をやめたので、スーザンは英文学者になる夢をあきらめ、カレッジの英語教師となって生活費を稼いだのだ。
エドワードが書く小説を、スーザンは英文学者の目で批判する。それはおそらく正しい批判なのだが、エドワードは耐えられない。それが原因で離婚に至るのだが、映画ではスーザンは美術専攻で、現在はギャラリーのオーナーとして活躍している。原作のスーザンの夫は外科医だったが、映画ではビジネスマン。どちらも夫は不倫中。
自分が書いた小説を英文学者に批判されるのと、美術の専門家に批判されるのとでは、どっちがこたえるかは言うまでもあるまい。英文学者の批判の方が何十倍も的確だし、批判する側も自信がある。美術家だったら単に好みの問題ではないか。
だから、小説をけなされたエドワードの苦悩は原作の方がはるかに説得力がある。
しかもスーザンは夫のために英文学者をあきらめたのだから(あきらめなければ今頃は教授に、学部長にもなっていたかも、と彼女が述懐するシーンがあるが、同じ立場の私にはよくわかる)、辛辣さも入ってしまうだろう。
一方、エドワードが書いた小説「ノクターナル・アニマルズ」(本来は夜行性動物という意味だが、「夜の獣たち」という訳になっている)の主人公トニーは、原作では数学の大学教授だが、映画では普通の人のようだ。映画ではエドワードとトニーをジェイク・ギレンホールが二役で演じていて、トニー=エドワードになっているが、原作ではトニーはエドワードとスーザンの両方と重なる。特に、原稿を読むスーザンが自分と重ね合わせていく過程が描かれているので、トニーとスーザンという原題がトニー=スーザンに見える。また、映画では送られてくるのは原稿でなく、校正刷りになっていて、出版される予定なのだが、原作では出版予定のない原稿で、おそらくスーザンが最初の読者だろう(校正刷りの場合は編集者がすでに読んでいるはず)。
原作ではトニーとスーザンが重なることが重要で、なぜなら、原作のテーマは暴力を前にしてのインテリの無力を描くことで、暴力と文明という奥深いテーマに迫っているからだ。
スーザンは元英文学者志望でカレッジの教師。トニーは数学の大学教授。
突然襲ってきたチンピラたちを前にしてインテリのトニーは無力である。それゆえに妻子は殺され、トニーの中にも暴力性が芽生えてくるが、やはり暴力に訴えることは躊躇してしまう。
マイケル・シャノン演じる末期癌の刑事が復讐のチャンスをトニーに与えるが、トニーはできない。
クライマックスでトニーが視力を失う意味も、原作の方がよくわかる。
原作が優れているのは暴力に関する考察で、スーザンの考え方、外科医の夫の言動なども描写しながら、一筋縄ではいかないこのテーマを非常によく表現している。暴力はいけませんとか、インテリは、みたいな単純なものではない(一言では言えない複雑さがある)。確かにこの部分は文学だからできることで、映画では無理なのかもしれない。

そのかわり、トム・フォードは原作に別のテーマを見出した。
それは、弱い男性を抑圧する社会である。
確かに原作にもそうした部分はある。エドワードはやさしい男性、弱い男性なのだ。そうした繊細な男性やゲイへの差別への言及はあるが、それはあまり大きな要素ではない。
しかし、映画は暴力とインテリの無力に関するテーマは省き、もっぱら繊細な男性への抑圧のテーマを浮き上がらせる。
たとえば、映画ではスーザンの両親は保守的な人種差別主義者で、ゲイの息子を許さない差別主義者となっているが、原作のスーザンの両親にはそういう面はまったくないし、ゲイの息子もいない。原作では父を失い身寄りがなくなった10代のエドワードをスーザンの両親が一時引き取り、その後、2人が結婚するときも親は賛成している。が、映画ではスーザンの母親はエドワードの父が死んだときには彼に親切にしたが、結婚に反対だった。
映画では特に、このスーザンの母親が繊細な男性を抑圧する悪の権化として表現されている。スーザンは最初、両親に反発し、両親とは違うリベラルな人間になろうとしているが、しだいに母親のような抑圧的な人物になっていき、その結果、エドワードと離婚することになる。
エドワードの小説の中ではトニーの妻子を殺すチンピラたちが繊細な男性や女性に暴力をふるう悪の男性主義の権化になっているが、このタイプは「ボーイズ・ドント・クライ」に出てきた男たちと同じで、貧しく無学な男たちの暴力性のステレオタイプなのだが、小説の外の世界ではスーザンと母という、裕福な女性たちが繊細な男を抑圧する人物として描かれるのだ。
しかも、映画ではスーザンはエドワードの子供を中絶してしまうという、原作にない設定があり、トニーの妻子を殺したのがスーザンであるかのような印象になっている。
「シングルマン」でも女性の登場人物はあまり魅力がなかったが、この映画のスーザンと母を演じるエイミー・アダムスとローラ・リニーも魅力を感じない。繊細な男性を抑圧する支配的な女性のステレオタイプにすぎないように見える。
そんなわけで、テーマを繊細な男性を抑圧する社会に変え、そうした支配的男性主義を体現する人物を女性にした、というのがこの映画の特徴で、このあたりがちょっと安易な感じなのだ。

携帯電話が普及していなかった時代の小説を現代に移すにあたり、フォードは舞台を原作の北東部から自身の故郷であるテキサスの荒野に移した。テキサスに移すことで、繊細な男性を抑圧するマッチョ主義が明確になり、映像的にもよい効果があったと思う。
一方、スーザンとエドワードが会う約束をするが会えない、というところは、携帯電話がない時代の方が理に適っている。原作ではスーザンはエドワードの電話を自宅で待っているが、結局電話はなく、エドワードはスーザンに会わずに町を出たことがわかるのだが、携帯電話のない時代だと連絡したくても思うようにできないことは多かった。なので、スーザンはエドワードは忙しかったのだろうと思う。そして、彼に感想の長い手紙を書くが、しかし、となるのが原作の結末。
映画ではスーザンはレストランで待ちぼうけで終わるが、携帯電話がある時代にただ待っているというのはどうなのだろう、と思う。あるいは、このシーンはスーザンに復讐したいエドワードの(そしてフォードの)願望による幻想なのだろうか?
結末もやはり原作の方が意味深で面白いのである。