2017年3月31日金曜日

「ムーンライト」+1(ネタバレあり)

アカデミー賞作品賞受賞の「ムーンライト」を初日に見てきた。
さすが作品賞受賞効果で、平日の昼間なのにけっこう入りがよかった。
映画はとてもよかった。「ラ・ラ・ランド」の面々が、「ムーンライト」好きだからあちらが作品賞でよかった、と言うのも納得。
物語は3部に分かれていて、主人公シャロンの幼い頃、高校時代、そして大人になってからが描かれる。
シャロンは黒人ばかりが住む南部の町に住んでいて、いじめにあっているのだが、その原因が彼がゲイであるからだということがだんだんわかってくる。麻薬密売地域にいた彼を保護したヤクの売人とその彼女がシャロンの保護者のようになる。シャロンの母は男関係が乱れていて、息子にとってはよい母ではない。一方、ヤクの売人の男は人間的には人格者で、ゲイを差別せず、シャロンの父親のような存在になる。
タイトルの「ムーンライト」はキューバ出身のこの男が幼い頃に老婆から聞いた、「月の光に照らされると黒人がブルーに見える」という言葉から来ている。この映画では黒人たちがお互いをニガーとかブラックと呼び、シャロンも途中からブラックと呼ばれるようになるが、月明かりの中でブルーに見えるというのがなんとも不思議な感触。
高校生になったシャロンは今度は不良からいじめにあう。同時に、ゲイとして愛を感じる相手にも出会うが、その結果は悲しい別れになる。
不良からボコボコにされたシャロンを、不良にいじめられた被害者としか見ない大人。シャロンの気持ちはもっと複雑で、そこにゲイの愛がからんでいることが周囲にはわからないし、シャロンも説明しない。しかし、このことがきっかけで、やせっぽちのおとなしいシャロンは別の人間へと変化する。
最後の大人になったシャロンは筋肉をきたえたマッチョマンになっている。幼い頃に出会ったヤクの売人(その後死んだことを暗示するせりふを母が言う)にどことなく似ている(彼も売人になっている)。高校時代に愛を感じた相手からの突然の電話、老いた母との再会、そして、その相手との再会で映画は幕を閉じる。
悪い母親だけどおまえを愛している、と言う母。結婚と離婚をし、子供もいる高校時代の相手は今は食堂を経営。その彼がある歌を聞いて突然、シャロンに会いたくなったという。
高校時代、不良に復讐し、警察に連行されるシャロンと、それを見つめる彼のシーンから何年もたっているが、2人の間には純な思いがあったとわかるラスト。
登場人物は黒人だけで、黒人社会の中のゲイ差別が描かれているが、それがテーマというわけではなく、むしろ、黒人社会の中のゲイの純粋な愛が描かれるラブストーリーだ。しかも、かなりプラトニック。
思えば「ブロークバック・マウンテン」が作品賞を受賞しなかったとき、ハリウッド人は保守的でゲイが嫌いと言われたが、ゲイの映画が受賞するにはまだ時代が追いついていなかったのだろう(個人的には受賞した「クラッシュ」の方が私は好きだったし、「クラッシュ」もいい映画だと思う)。それよりさらに前、黒人社会の中の女性差別を描いた「カラー・パープル」が作品賞を受賞しなかったとき(「愛と哀しみの果て」より明らかに優れていた)、いかにも賞ねらいのスピルバーグが嫌われたからと言われたが、実際は、黒人ばかりが登場する黒人社会内部の問題を描く映画が受賞するにはまだ時代が追いついていなかったのではないか。
「カラー・パープル」と、そして「ブロークバック・マウンテン」のリベンジが、ようやく「ムーンライト」によってなされた、時代がついに追いついたのだと思う。

で、せっかく出かけたついでにと、同じシネコンで「君の名は。」をまた見てきた。これで3度目。今回が一番泣けた。
毎回泣けるのは、三葉の組紐が瀧の手に渡るシーンなのだが、今回はこのあと、かたわれどきのシーンで、別れた2人がどんどん相手の記憶を失っていくシーン。瀧が「忘れちゃいけない人」と言ったときにどっと涙が。
この映画、シニアが泣いている、という話をよく聞くのだけど、年をとるほど忘れちゃいけない人、忘れてはいけないことが増えるんですよ。それを思い起こされるから泣くのだろう。
あのクライマックス、2人がどんどん相手の記憶を失っていく緊迫感が、彗星災害から町の人々を救おうとする2人の緊迫感と重なっている。転んで倒れた三葉が、瀧が手のひらに名前を書いたはずだと思って手を見ると、そこには「すきだ」と書かれている。名前を書いてくれないなんて、と思った三葉だが、その言葉に彼女と町の人を救いたいという瀧の思いを見て、彼女は勇気を奮い起こす。
忘れてはいけない。このテーマで見ると、クライマックスは納得のいくものになる。
今回気づいたのだが、彗星災害は2013年。高校生の瀧の世界は2016年。瀧が社会人になったときが彗星災害から8年なので2021年。そして2人が再会する桜の季節は翌年の2022年。
つまり、2人が町を救ったあとの時代は未来なのだ。
だから、私たちは今、まだ町を救おうとしているところだということで、救えるかどうかは今にかかっているということになる。
2人が町を救ったあとの未来はとても平和な世界だけれど、今このときにできることをしなければ、その後の世界があの結末のような平和な世界になるという保証はないということ。
やっぱり、深いですよ、「君の名は。」
あと、神木隆之介と上白石萌音は男女2人の主役両方を演じているわけだけど、三葉が瀧に入ったときの神木の演技がすばらしい。これまでは上白石の演じる三葉の心情表現に耳を奪われていたけど、神木の三葉演技はほんとうにすばらしい。心が女になった男をみごとに表現しています。

今年の桜

今年は桜が遅い。
近所でも咲いている木はあるのですが、


土日に桜祭りが行われる桜並木はこのありさま。3㎞くらいある並木道ではほとんど咲いていない。しかも土曜は雨?

背景の黄色は菜の花。

今年はタンポポも少ない。

2017年3月29日水曜日

映画2本とSF小説

先週の火曜にアンジェイ・ワイダの遺作「残像」の試写を見たあと、風邪をひいて寝込んでしまい、1週間遠出もせずにすごしていた。
その間、テッド・チャンの中短編集「あなたの人生の物語」がようやく予約の順番が来て借りられたので、読んでいた。
この「あなたの人生の物語」の表題作はアカデミー賞でも話題の映画「メッセージ」の原作なので、予約も順番待ちになっていたのだけど、はたしてこれがどういう映画になるのか? 「インターステラー」みたいになるのかな、という気がしないでもないけれど。
テッド・チャンは中短編をまだ20編くらいしか出していない寡作なSF作家だが、科学や数学を題材にした実にSFらしい作品ばかりだった。個人的には最後から2番目にある天使の話と、最後の美醜についての話が一番面白かった。

ワイダの遺作「残像」は、ポーランドで第二次大戦終戦直後くらいまでは国を代表する画家で、大学教授としても活躍し、美術館を設立したりと活躍していたのに、1949年に突然、国が社会主義リアリズムの芸術しか認めなくなり、迫害されて、1952年に亡くなったヴワディスワフ・ストゥシェミンシュキの実話。
戦争で片腕と片脚を亡くすが、芸術家・大学教授として活動し、学生からも慕われていたのに、ある日突然、国の方針が変わり、それに従わなかったために仕事を奪われ、食べるものにも困るようになる。この、従わない者への徹底的な弾圧がものすごい。
ワイダも社会主義時代のポーランドで映画が撮れなくなったことがあり、こうした国家による個人への抑圧をこれまでも描いてきたが、「残像」に描かれたことは現在も、それも社会主義ではない国で起こっている、起こりつつある。日本も道徳の教科書の件とか、かなり抑圧的になっている。
また、ストゥシェミンスキが弾圧された時代がアメリカのマッカーシズムの時代と重なるのも興味深い。

1週間おとなしくして本を読んでいたが、今日はアニメ「夜は短し歩けよ乙女」の試写に行ってきた。
非常に盛り沢山な内容で、これをよく93分にまとめたと思う。
最初は絵が手抜きっぽく感じたのだが、後半に行くにしたがって、これがこの作者のユニークな表現なのだなとわかってきた。クライマックスのミュージカル仕立てもいい。
同じ湯浅政明監督の「夜明け告げるルーのうた」の試写日程が資料に入っていた。もう試写は半分くらいは終わっているようだが、できれば見に行きたい。

2017年3月17日金曜日

「君の名は。」展

今度の3連休で終わってしまうので、なんとしても平日に行かねば、と思っていた「君の名は。」展(銀座松屋で開催中)。金曜の夕方なのでけっこう混んでましたが、それでもじっくり見ることができました。
絵コンテや実際の映画の画像、キャラクターデザイン、主人公たちの家や糸守の場所の位置関係など、興味深い展示がいっぱい。
ただ、展示の仕方がちょっと問題があって、人が前に立つと影で展示が一部見えにくくなるのです。もう少し工夫してほしかった。
あと、新宿駅の電車が描かれている絵の前で、高校生くらいの男の子2人が、湘南新宿ラインを埼京線と言ってるのはまだいいとして、中央線快速を高崎線とか言ってるのであっけにとられました。高校生くらいだと行動範囲が狭いのでわからないのかもしれませんが。
展示の最後に映画に出てきた黒板を再現したものがあって、写真撮影できるというので、しっかりデジカメを持参。
ここは入り口。絵の前で人が立って記念撮影しているので、全景は撮れず。


そして、展示の一番最後にある黒板。ここも全景を撮るのは非常にむずかしい。やはり黒板の前に立って記念撮影している人がいます。

なんとか黒板の全景を。

黒板の右側にある映画のシーン。
グッズもいろいろ売っていましたが、買いませんでした。

チケットとふちねこ。

なんでふちねこかと言いますと、展覧会の前にふちねこ3匹目ゲットしてきたのです。
もう在庫はかなりなくなっていて、おそらくこの3連休で首都圏はすべてなくなるくらいの感じだったので、在庫のある店(ベローチェではないシャノアール系列の店)でゲットしてきました。
今回ゲットしたのは左下の「のび」です。
前回と今回、箱の中をさわった感じではもうこの3種類しかない感じでした。

2017年3月15日水曜日

ついにリピーターに(「君の名は。」)

ついに私も「君の名は。」リピーターに。
公開直後に行ったときは中高生ばかりだったが、今は若者からシニアまで幅広い年齢層。レディスデーとはいえ、平日の昼間なのにけっこう客が入っているので驚いた。
映画が始まってすぐに、これは気に入った人はリピーターになるな、と思った。
ある意味、居心地のいい世界なのだ。
美しい風景、面白いストーリー、笑いと感動、そしてハッピーエンド。
去年の夏に初めて見たあと、1度でほとんど内容は理解できたので2度見るほどではないと思っていたが、また見たいと強く思ったのは昨年暮れに「この世界の片隅に」を見に行ったとき。
映画が終わって通路を歩いていると、「君の名は。」がちょうどクライマックスのようで、入口からあの歌が聞こえてきた。
そのとき、心からもう一度見たいと思った。
「片隅」もすばらしかったのだけど、こちらは内容が暗いので、「君の名は。」のカタルシスが欲しかったのかもしれない。
それでももう一度見るほどかなあという気がしていたのだが、金曜日から新作ラッシュでレイトしかなくなるので、昼間見られるうちに見ようと思った。
最初に見たシネコンでは来週も昼間やるようだ。今回は「聲の形」や「片隅」を見た一番近いシネコン。先日はここで「モアナ」を見た。なんとなく3回目もありそう?

さて、二度目に見た感想ですが、
やっぱり脚本がうまい。これ、相当うまい脚本ですよ。
また、新海監督が編集も担当していて、この編集がうまい。脚本と編集がセットでよくできている。
それと、三葉が父親を説得するシーンがないのが欠点、と思っていたけれど、今回見て、あれはあのままで十分なのだとわかった。ここが欠点というのは誤解でした。
三葉の家は代々、女性が入れ替わりを経験していることが途中で語られる。入れ替わっていたときは夢を見ているようで、目が覚めると記憶がどんどん消えていく、とも。祖母も昔入れ替わったことがあったが、もう覚えていない。
そしてクライマックス、三葉の体に入った瀧は三葉の父=町長を説得に行く。彗星の話を信じない町長に、三葉(瀧)は詰め寄る。その様子に驚いた町長は、「おまえは誰だ」と言う。
外に出た三葉(瀧)は、「三葉じゃないとだめなのか」と言う。
本物の三葉なら町長を説得できた、ということなのだ。
このせりふを、私は憶えていなかった。
やがて入れ替わった2人が出会い、2人はもとに戻り、三葉は父を説得に行く。妹と祖母も来ている。三葉は父に向かって怒りの顔を近づける。そのアップ。
そのあとに一瞬でいいから町長が理解したシーンを入れてほしいと思ったのだが、それは必要ないとわかった。
三葉の父は家の女性に代々伝わる入れ替わりの話を妻から聞いて知っていたに違いない。いや、むしろ、三葉の父と母は出会う前に入れ替わりの経験があり、それを忘れたあとに出会った可能性さえある。入れ替わりの相手が運命の人なら、父母が昔入れ替わっていたとしか思えないし、祖母の入れ替わりの相手もおそらく祖父なのでは? ただ、入れ替わりの記憶はなくなってしまうのだ。
だから、父は、瀧の入った三葉は別人だとわかったし、今いる三葉は本物だとわかっただろう。
髪を切った三葉はかつて瀧に渡した組紐を再び髪に巻いている。髪が短いので、頭全体に巻いていて、正面から見える。組紐が目の前の父になんらかの魔法をかけたと考えられるシーンだ。

逆に前回も欠点と感じて、今回もやっぱり欠点だなと思ったこともある。
三葉たちが町の人々を避難させようと必死で声をかけるのに、人々はまったく応じないシーン。
ここがどうも緊迫感がなくて、ちょっと間が抜けた感じがするのだ。このあとに父の説得シーンが来るので、説得シーンが物足りなくなった、というのもある。
このシーンがイマイチな理由として、この映画の人物の描き方があると思う。この映画では背景的な人物、遠景の人物は顔がデフォルメされていて表情が見えないのだ。これは1つのスタイルなのかもしれないが、精緻に描きこまれた風景に比べて違和感がある。風景は飛騨の山の中も、きらびやかな東京も、行き来する電車も本当に美しく描かれている。人物もアップのときはよく描かれているのに、なぜか遠方になるとフラットな感じになってしまうのだ。
避難を呼びかけるシーンはこうした遠方の人物の描写が多く、これがこのシーンを気の抜けた感じにしてしまっている気がする。
「君の名は。」はどのシーンもすばらしく描きこまれているのではなく、すばらしく美しいシーンの間にちょっと手薄なシーンがあって、この点がすべてが高いレベルの絵になっている「この世界の片隅に」に負けているところだ。しかし、脚本や編集のうまさ、オリジナリティ、そして記憶と忘却のテーマは、原作に負うものが多い「片隅」に勝っていると思う。また、上白石萌音の声の演技も非常にいい。

一昨年のふちねこ


12月だったのでクリスマスツリーが。
一昨年のは透明の袋に入っていて、中が見えたので、人気のねこからなくなっていきました。
一番人気は右上のぶらさがり、二番人気はその隣のねこのようでした。
一番人気が低く、最後はどこへ行ってもこれしかなかったのは右下のねこ。
左上のねこと左下奥のねこがメスで、他はオスです。
今回は最初にもらったのぞきこみはオス、次にもらったジャンプはメスでした。
そんなところまでちゃんと作りこんでいるんですね。
残り3つの性別が確かめられなくて残念(もうベローチェはほとんどの店舗が在庫ないようだ)。

2017年3月14日火曜日

ふちねこ2匹目

ベローチェのふちねこキャンペーンに気づいたのが始まってから3週間以上たった2月下旬。
前のキャンペーンでは集めに集め、12個もゲットしたのだけれど、今回は完全に出遅れ。おまけに写真で見るふちねこが前ほどかわいくない、ということで、あまり熱心にレシートを集めず、最初の1匹をもらったのが3月はじめ。
このとき手に入れたふちねこの写真を前にアップしましたが、これが一番欲しかったので、どうせ今からじゃ全5種類ゲットは無理だろうと思って、やはりベローチェに通わず。
というか、今年に入ってからベローチェの近くにあまり行くことがないのですね。
でもなんとなく気にはなって、ベローチェのサイトのふちねこ在庫状況をチェックしていたのですが、3月に入ってからどんどん在庫なしの店舗が増えています。
もう半分くらい在庫なし。
値段の高いシャノアールはまだ在庫ありますが、近くにないのだ、シャノアール。
で、ふちねこは下の5種類(ベローチェのサイトから)

右下が最初にゲットしたふちねこ。ブログには顔が見える写真を載せています。
これが一番欲しかったのだが、次に欲しかったのは左上のジャンプ。
どうしてもこれは欲しいな、と思い、すでにレシートは1枚あったので、まず近所の在庫のない店でサンドイッチをドリンクを買って2枚目のレシートゲット。それから夜の試写を見に日本橋の近くまで行きました。
この試写室には東京駅から行くのだけれど、八重洲地下街にアルプスというカレー屋さんがあって、ここのカレーが大好きなのです。
ココイチのカレーも大好きだけど、ココイチは値段が高い。が、アルプスは500円前後でけっこうしっかり食べられます。
しかも、午後3時から7時までは290円のカレーが。なので、この時間帯にここを通ると必ず食べてしまう。今回も夕食としてこのカレーを食べ、いざ試写へ。
試写の話はあとで書きますが、試写が終わったあと、日本橋のベローチェでふちねこゲットする予定でした。
が、昼間に在庫状況を確かめた2つの店舗が在庫なし。
片方は50個、もう片方は100個と今もサイトに出ているのに。
在庫がある店は入口にふちねこのバナーがあるのですが、ない店にはバナーはありません。それで中に入らなくてもわかる。
50個なら昼間のうちになくなった可能性もあるけど、100個でないなんて。
たぶん、在庫の報告をさぼってる店があるのだと思う。なぜなら、前日までたくさんあったのに突然在庫なしになる店があるから。
んなわけで日本橋はだめだったので、少し遠回りして某店へ。ここは初めて来た場所でしたが、ふちねこはありました。
触ってみると意外にどの種類かわかります。で、いくつか触ってようやくジャンプと思われるのがあったので、これをゲット。確かにジャンプでした。
この店は店員も客もふちねこにあまり興味なさそうで、そういう店だと残っているのかな。でも、店もその周辺もいい感じで、また来たいです。
これで欲しいの2つゲットできたから、あとはまあ、成り行きで。
それにしても、前回は開始から2か月くらいは余裕で在庫があったのに、なんで今回はなくなるのが早いのだろうと思ったら、今回はベローチェ30周年で3万個なのだけど、前回はシャノアール50周年だったから5万個だったのかもしれない。2万個の差だと考えれば納得。

というわけで、試写は「20センチュリー・ウーマン」を見ました。
アカデミー賞脚本賞ノミネート作で、1979年を舞台に55歳の母と15歳の息子、母子の家に間借りする女性と男性、そして息子の幼馴染でよく泊まりにくる少女の5人の人間模様。1979年を中心とした時代が非常によく描かれていて、リアルに知っていた者としてはいろいろ思うところがありました。
ただ、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」もそうなのだけど、最近、この種の人間関係をリアルに描いたものって、いい映画なのだけど、見ていてとても疲れます。
どちらも人間関係のきびしさやむずかしさを描いていて、ほのぼのとかそういうのとは無縁。
それに対し、日本映画は家族などの人間関係を笑いやほのぼのでくるんでいて、日本映画の方が見やすいです(昔は日本映画の人間関係はウェットで苦手だったのに)。
でも、現実はこうしたアメリカ映画が描く人間関係の方が本物で、だから、いい映画だけど疲れると感じてしまうのだろうな。

2017年3月12日日曜日

「君の名は。」の「教訓」(&「マンチェスター・バイ・ザ・シー」)

東日本大震災から6年がたった3月11日、TBSで「3・11 7年目の真実」という番組が放送された。
うちはテレビないし、放送も昼間だったのでどれだけの人が見たかわからないが、この中で新海誠監督が「君の名は。」の原点が東日本大震災だったことを語っており、ファンが新海監督の部分をYouTubeにアップしてくれたので見ることができた(削除される可能性があるのでリンクは貼りませんが、テレビ局がサイトにアップするか、文字起こしを載せてほしい)。
新海監督は東日本大震災から4カ月後に宮城県名取市で舞台あいさつをし、そのとき、被災地を訪ねた。津波によりすべてが破壊された海辺で、鳥居が立つ小山を見て、その絵を描いた。美しく澄んだ青い空、小山の上に立ち上る大きな雲、そしてその下に広がる被災の現場。まさに「君の名は。」の飛騨の町の原風景だった。
新海監督は「君の名は。」には東日本大震災への思いがあることは多少は語っていたし、指摘する人々も多かったが、「シン・ゴジラ」と違って、それが大きく取り上げられることはなかったし、私もあの震災に結び付けすぎるのはよくないような気がしていた。実際、「君の名は。」はもっと普遍的な内容であると思っていた。
しかし、実際は、東日本大震災の被災地を見て、自分がもしも宮城県に住んでいたら津波にあったかもしれないと思い、そこから入れ替わりの物語を描こうと思ったのだという。
また、新海監督は、物語には必ず教訓がある、ということを強調していた。
「君の名は。」の教訓。
そういうものがあるとは思っていなかったので、驚いた。
そしてすぐに思い当たったことがあった。
東京の高校生、瀧は3年前に飛騨で起こった彗星の落下による惨事を覚えていなかった。三葉のことを調べに飛騨へ行き、そこで初めて知るというか、思い出すのだ。
憶えていないのは瀧だけではない。一緒に飛騨へ行く友人たちも忘れている。
「君の名は。」を見たとき、たった3年前のことを瀧たちが忘れているのを不思議に思ったが、そのあとすぐに、飛騨の田舎で起こった惨事のことを遠い東京の人たちはすぐに忘れてしまうのだ、ということに気づいた。
彗星による惨事を思い出した瀧は3年前に戻って三葉とともに住民を避難させようとし、成功する。
そして現在に戻ると、東京のビルの電光掲示板に彗星落下から何年というようなニュースが出る。
「君の名は。」の教訓。それは忘れないこと。思い出すこと。
でも、人は忘れてしまう。
「忘却とは忘れ去ることなり」って、昔の「君の名は」のキャッチフレーズ。
いやもう、ほんとに腑に落ちました。新海監督、すばらしいです。
日本アカデミー賞脚本賞は当然です(「シン・ゴジラ」もすばらしかったけど)。

「君の名は。」はまだ1度しか見ていないのに、このブログで書くのは4回目。一番最初は三葉が父を説得するシーンがない、いい映画で感動したけど大人の鑑賞には堪えない、などと書いたけれど、そのあとどんどん自分の中で評価が高まって、欠点がさほど重大な欠点ではないこと、欠点に見えたが実は理由があったことに気づいた。
私は「この世界の片隅に」よりも「君の名は。」の方を高く評価しているのだが、「君の名は。」の欠点がそれほど重大でないと思えるのに対し、「片隅」の欠点は私にはかなり重大な欠点に思えるのだ。また、日本の映画業界がまるで横並びのように「片隅」ばかりに賞を与えているのもなんだか解せない。「君の名は。」の大ヒットへの反動から「片隅」を持ち上げているようにさえ思う。「片隅」ももちろんいい映画であることは確かだし、技術的な安定感はこちらの方が上だと思うが、戦争の悲惨さにオブラートをかけているようなところが気になるのだ。
まあ、「片隅」もこんなに横並びで賞を取っていなければ、こういう不満にこだわることもなかっただろうと思うのだけど。

新海監督の言葉、もしも自分が宮城県に住んでいたら、もしも自分があなた(被災者)だったら、という言葉で、最近見た「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のことを書きたくなった。
ネタバレ禁止なのでむずかしいのだが、主人公は故郷を離れてボストンで便利屋をやっている男で、兄が死んだあと、遺言で甥の後見人に指名される。
主人公は甥とは父と息子のように仲がよいのだが、後見人になって故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに住むのはどうしてもいやなのである。なぜなら、彼が故郷を捨てたのは、自分の過失である悲劇を起こしてしまったからだ。
その悲劇から立ち直れない彼は、つまらないことで人を殴ってしまうといった精神的に不安定な状態。
一方、甥は故郷を離れたくない。再婚している母は精神的に不安定で、息子を受け入れる状態にない。
主人公が犯した過失は、実は誰でも犯す可能性のあることで、だから彼は罪に問われていない。ほんの些細な過失から大きな不幸が起こる、ということは誰にでも起こりうることだ。
それが自分に起こっていないとしたら、それは自分が運がいいだけのことなのである。
まさに新海監督の言う、「もしも自分があなただったら」なのだ。
だから、監督・脚本のケネス・ロナーガンは安易な結末をつけない。乗り越えられないものは乗り越えられないのだ。ただ、乗り越えることができなくても、それでも人生は続く。
ロナーガンはアカデミー賞脚本賞受賞。
新海監督もロナーガン監督も、オリジナルのストーリーが評価されたのだけど、この二人、意外と近いところにいるな、と思った(映画は全然違うタイプだけどね)。

2017年3月11日土曜日

大根

うちの近所はまだ農家がぽつぽつとあるせいか、駐車場の入口などで野菜の産地直売をやっている。たまたま近くを通りかかったら、面白い形の大根があったので眺めていたら、「それ、50円ですよ」と言われた。
ヒビが入っていたりしたけれど、普通に食べられるというので、買った。
産地直売だけあって、土がついていたので、とりあえず洗って写真を撮りました。
こちら側はきれいですが、

反対側はこのとおり、ヒビが入っている。

とりあえず大根おろしにでもしてみようかな、と思ったが、おろし器をまだ持っているのか、捨ててしまったのかわからなかったので、100均で買ってきた。
でも、もう夜遅いから大根おろしは明日にしよう。

さて、今週は試写で「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と「パトリオット・デイ」、シネコンで「ラビング 愛という名前のふたり」と「モアナと伝説の海」を見た。
いずれもよい映画だったけれど、「マンチェスター~」はネタバレ禁止。「パトリオット・デイ」と「ラビング」は実話の映画化。そして「モアナ」はわりと単純な、よくある話なのだけど、ディテールがいろいろ凝っている。「マンチェスター~」はスローペースで、もう少し縮めてもいい気がする。ただ、過去の悲劇を乗り越える、というタイプの映画が多い中にあって、乗り越えられないものは乗り越えられないというあたりがリアルでよかった。逆に実話の2作は悲劇や逆境を乗り越えるタイプ。「ラビング」は主役の2人の演技がいい。

2017年3月5日日曜日

ふちねこ第2弾は完全に出遅れ

一昨年のシャノアールのふちねこキャンペーンのときは開始から必死でレシートを集めて10個以上ゲット。当然、全種類そろいました。
が、今回は第2弾のキャンペーンが2月1日から始まっていたのに、気づいたのが2月下旬。
気がつくともう在庫なしの店もあり、今回は全種類ゲットは無理。完全に出遅れました。
しかも、前回は透明の袋の入っていて、箱をのぞいて好きなのをゲットできたのだが、今回は黒いビニール袋に入っていて中が見えない。
で、遅ればせながらレシート3枚(ドリンク3杯分)をゲットしたので、前回多くのふちねこをいただいた某店で最初の1匹をもらうことにしました。
このとき初めて黒い袋に入っているので中身が見えないことがわかったのですが、それでは触ってみて、と思って最初につかんだのが、どうも私が一番ほしいもののように思ったので、それをもらいました。
開けてみたら、やはり一番ほしい猫だった。
「のぞきこみ」というやつです。

PCの前に置いてみました。
なんか「ルドルフとイッパイアッテナ」のルドルフに似てるな。
あまりきれいに撮れてないのですが、舌を出しています。
舌出しのふちねこはこれが初めて。
公式サイトやチラシでは「のぞきこみ」は前かがみになっているので、顔が見えません。
この顔を見たかった、というのもこれが一番ほしかった理由です。
で、開けてみたら、かわいくピンクの舌を出す猫。かわいい。
最初に触ったのがこれって、運がよかったのか、運命だったのか。
今回のふちねこは前回に比べ、写真を見るとかわいくない、と思っていたけど、お店に飾ってあるのを見たらやっぱりかわいい。でも、今回は黒い袋入りで中見えないし、すでに在庫がだいぶ減っているようだし、5匹そろえるのはあきらめて、あと2匹くらい、ほしいのが手に入ったらいいな、と思っています。4匹そろったところでエンド、ではかえって悲しいので。
今回は前回より数が少ないのか、あるいは集める人が多いのか、在庫の減り方が前回より早い気がします。前回はふちねこほしくない人はレシートを捨てていたけれど、今回はレシート3枚で対象商品が50円引きのクーポンを選ぶことができます。また、ふちねこ提示でも対象商品が30円引き(しかも前回のふちねこも使える)なのだけど、この対象商品が少なすぎなので、あまり利用価値ないなあ、と。

2017年3月3日金曜日

「お嬢さん」(ネタバレあり)

サラ・ウォーターズの小説「荊の城」を映画化した韓国映画「お嬢さん」を見にTOHOシネマズ市川コルトンプラザへ。
ここは初めて行くシネコンですが、最寄駅は総武線本八幡。
実は高校大学時代、駅前の八幡スカラ座によく行っていたのです。
大学4年のときに転居し、以後は行っていないので、ほぼ40年ぶりの本八幡。とはいっても、当時は京成八幡から歩いていたので、本八幡駅に40年ぶりに降り立ったわけではないのですが。
八幡スカラ座はもう閉館していて、建物はまだ残っていましたが、パチンコ屋とレストランが入っているくらいな感じ。あそこの映画館は1階と2階があって、天井が高かったので、あそこを再利用はむずかしいだろうな。中どうなってるのか入ってみたかった。
市川コルトンプラザの方は駅から徒歩10分。無料シャトルバスもありますが、総武線の高架線の下を歩いて行きました。正直、地元の人じゃないとわかりづらい感じだし、細い道だから暗くなったら怖いなと思って、映画が終わってまだ明るいうちに駅まで戻りました。シネコンの入っているビル自体も狭くてあまり見るところなさそうだったので(ニトリがあったけど)。

さて、「お嬢さん」ですが、一応原作はだいぶ前に読んでいたので、展開に驚くとかそういうことはなかったですが、一番大きなどんでん返しがなくなっていたのと、日本統治下の朝鮮半島を舞台にして、日本の春画や春本を使った女性へのセクハラというか性的虐待が重要な要素になっているのが興味深かったです。北斎の有名な春画がある事件の種明かしになっていたり。
日本統治下の朝鮮半島が舞台ということで、日本人が悪役なのかな、日本の支配が描かれているのかな、と思ったら、これはちょっと違いました。
悪役はむしろ、日本人女性と結婚して地位と財産を得たい朝鮮人男性2人。
このうちの1人の性的虐待を受けるのが日本人女性2人。
そこに貧しい朝鮮人女性がからんでくる。
もちろん、日本人になりたがる朝鮮人男性たちの背後に日本の支配があることは確かなのですが、そこまでは言及していない映画のように思えます。
政治色とかそういうのは抜きにして、耽美的で面白い映画に仕上げた、という感じ。

原作を読んだ人は、あるいは原作者サラ・ウォーターズを知っている人はご存じのとおり、これは百合ものです。
日本人と結婚して日本人になった朝鮮人の叔父のもとで暮らす日本人のお嬢さんと、そこに雇われた貧しい朝鮮人の侍女が同性愛の関係になる。
第一部、第二部、第三部と、映画は三部構成で、第一部はなつかしのコリアン・エロスのような雰囲気。といってもコリアン・エロスって何?な人もいると思いますが、1990年代頃、韓国は性描写を厳しく規制していて、セックスシーンは肝心なところは見せない、隠すのが当然でした。が、その隠した婉曲な表現がかえってエロティックで魅力的だと、主にレンタルビデオ店でコリアン・エロスとして人気を得たのです。韓流ブームよりも前の話です。
それが第二部になると、「アデル ブルーは熱い色」を彷彿とさせる大胆な性描写に。
エグイというかグロイシーンもあるので、「アデル」のようには受け入れられないかもしれないけど、なかなか見応えのあるエロスですよ。
お嬢さんの叔父は日本の春画や春本を集めていて、それを最初は妻に朗読させ、妻が死ぬと姪に朗読させます。それを男たちが聞いてエロスにひたるという会合を開いていて、明らかに女性に対する性的虐待なわけです。それを知った朝鮮人侍女の怒りがすさまじい。
原作と違って、パク・チャヌク監督は女性2人の男たちへの復讐を最後に持ってきています。映画の方がフェミニズム的。
性的虐待の被害者が2人の日本人女性で、加害者が日本人になろうとする朝鮮人男性、という構図なのですが、日本人であるお嬢さんは日本語の春本を朗読させられたために日本語が嫌いになっているという設定もあり、また、朗読会に集まる男性たちがおそらく日本人であることなど、いろいろと深読みできそうな設定なのですが、その辺、ほかの人はどう考えるのか知りたいところ。今日が初日なので、これからさまざまな意見が出てくるのかもしれません(期待)。
なお、キネ旬の監督インタビューを読むと、監督は日本映画や日本文化に造詣が深く、かなり好きなようです。

2017年3月1日水曜日

「ひるね姫」(ネタバレあり)

「映画 聲の形」、「この世界の片隅に」、「虐殺器官」とアニメの試写状をいただいたのにスケジュールの関係で見に行けず、「聲の形」と「この世界の片隅に」は映画館で見たが、「虐殺器官」は原作の一番重要なところをカットしてしまったと聞いて見る気がなくなってしまった。あの部分があるから原作は名作なのに。
で、今度は「ひるね姫」の試写状が来たので、これは見てきた。
期待されているのか、大盛況。確かに面白い。
主人公は瀬戸大橋がそばに建つ岡山県倉敷市に住む高校三年生のココネという少女。生まれてすぐに母を亡くし、自動車修理工の父親と2人暮らし。いつでもどこでも寝てしまうココネは最近、奇妙な夢を見るようになる。それは父がかつて創作して話してくれたファンタジーの物語だった。
一方、父親は何かのトラブルを解決するために東京へ行く予定だったが、突然逮捕されてしまう。そしてココネのもとにも怪しい男たちがやってくる。
ココネの見る夢は実は現実とパラレルになっていて、現実の人物が夢にも出てくる。その夢の世界はSFファンタジーの世界で、魔法を使えるお姫様が襲ってくる巨大な鬼との戦いに挑む。一方、現実の世界では、ココネは怪しい男たちから逃げながら、幼馴染の大学生と一緒に父親逮捕の真相に迫る。
この映画は「君の名は。」と似ていると思われているようだが、確かに似ている部分がある。
夢と現実がパラレルになっていて、夢の世界と現実の世界が交互に現れる、というのは過去のファンタジー作品にもよくあったが、ここは「君の名は。」とは似ていない。
むしろ、夢の世界は巨大ロボットの戦闘ものになっていて、この手の戦闘ものに食傷ぎみの私はうーんという感じだったし、また、願えば叶うみたいな精神論が多いのもちょっとね、だった。ただ、この夢の世界の話はココネの過去と未来と事件の真相にかかわっていて、その謎解きとして見るととても面白い。
「君の名は。」と似ているのは主人公の設定だ。どちらも女性主人公は田舎の女子高生で、東京へのあこがれがある。母がいないのも同じ。そして、ここからはネタバレになるのだが、母がクライマックスで大きな役割を果たす。
「君の名は。」は主人公・三葉がどうやって父親を説得したのかがまったく描かれていないのが難点なのだが、それはおそらく死んだ母が関係していたのだろうと私は思ったし、新海監督ではない別人が書いたサイドストーリーではまさに母が町を救うためにすべて仕組んだということになっていた(新海監督自身の考えかどうかは不明)。
「ひるね姫」の方は父と母の関係が重要な要素になっていて、クライマックスでは死んだ母が大きな役割を果たす。
実は「ひるね姫」の作画スタッフには「君の名は。」のスタッフが2名入っていて、何らかの影響関係があったのかと思ってしまう。どっちかが真似をした、のではなくて、むしろ、偶然同じような構想を考えていたが、「君の名は。」は高校生男女のラブストーリーが中心なので、母の部分は意図的にカットしたのかもしれない。「ひるね姫」ではココネは恋愛をしていない。むしろ、こちらは家族愛、親子愛、夫婦愛といった愛の方が物語の中心になっている。ここは大きな違いだ。
「ひるね姫」は2020年の東京オリンピックの直前に設定され、スマホやタブレット、そして自動車の自動運転技術が登場する。でも、この映画の雰囲気はなぜか、1964年の東京五輪の時代をそこはかとなく感じさせるのだ。
裕福とはいえない町工場の修理工が天才的な技術者で、そこから自動運転の優れた技術が出てくるとか、ココネの家とその周辺の昭和な雰囲気とか、高度成長時代に向かっていたかつての日本を彷彿とさせる。場面が東京になったとき、登場するのは東京タワーで、スカイツリーではない。
そして、ラストに流れる60年代のヒット曲、「デイドリーム・ビリーバー」。私の世代にはなつかしいモンキーズの歌。
2020年の東京五輪に向かう今の時代は、60年代のような未来への希望がないと感じる。貧しい人は大学進学もむずかしく、貧しい人の中から才能のある人がどんどん出てきて日本を発展させるという空気がない。
父親の経営する大企業の古臭い体質に反感を覚え、町工場で新しい技術を追究する若い夫婦の姿が描かれるが、そういう未来への希望や可能性が今、あまり感じられない(大企業の取締役が黒いスーツの男性ばかり、というのは今もそうかもしれないが)。
新海監督は「君の名は。」で田舎が牧歌的な楽園ではなく、町長と土建屋の癒着などの問題があることを見せていた。東京は、逆にピカピカのあこがれの世界として描いていた。「ひるね姫」の神山監督の描く田舎は牧歌的な楽園に見える。このなつかしさが、2020年の東京五輪と一緒に出てくることへの違和感、夢の世界での願えば叶うの精神論が正直、喉につかえた魚の小骨のように気になるのだが、それでもよくできた面白い話であり、物語の中心にある家族愛には素直に感動できる。