2018年4月29日日曜日

また東大出の芸人「学者」が、と思ったのだが:この記事の問題点

5月4日追記
阿部幸大については反論のブログがいくつか書かれているのだが、最近読んだブログに興味深いものがあった。
ブログ主は北海道出身のようで、阿部氏の出身高校がエリート校であるということを具体的に書いているのだが、追記として非常に興味深いことを書いている。
勉強ができる男の子はいじめられるので、不良のようなワルとつきあうことで自分を守る、ということが田舎にも都会にもある。
不良たちには何か本当に問題のあることをするときはこの成績のよい子は巻き込まないようにするという仁義がある。
阿部氏が、不良仲間が事件を起こして矯正施設送りになり、自分はその場にいなかったので運がよかったと書いているが、それは仲間が彼を巻き込まないようにしたので、阿部氏はそれに気づいていないか、無視しているのだ、とブログ主は言う。
そう考えると、阿部氏が釧路の文化施設と縁がなかった理由がわかる(上が本当だとしてだが)。周囲には大型書店やシネコンや博物館に行く生徒がいても、そういう生徒を友人にできなかったのだ。そして、親もそういうところに連れていっていなければ、施設があるのはわかっていても自分はそこへは行けないというか、不良仲間をさしおいてそういうところに行くわけにもいかず、また、当時は本人も興味がなかったのかもしれない。

(以下、本記事)

最近一部で話題になっているこの記事。
「「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353

著者は阿部幸大という1987年生まれの東大大学院博士課程在籍で、現在フルブライト奨学生としてニューヨーク州立大学大学院に留学中という人物。専攻は上の記事では文学研究者となっているが、論文を見るとアメリカ文学専攻のようだ。
ほかに英語教育関係の共著があり、「ユリイカ」にも執筆している。上の記事は講談社のメディアだ。
ツイッターを見ると、いかにも最近の「研究者」のような雰囲気、大学に就職してマスコミでご活躍になりそうな、古市某のようなイヤな雰囲気を感じ、上の記事も違和感バリバリだったので、またも東大院から芸人「学者」デビューか、と思ってしまった。

上の記事については次のような反論があり、トゥゲッターでまとめられている。
https://togetter.com/li/1222112

2018年4月27日金曜日

「君の名前で僕を呼んで」:30年後の「モーリス」(ネタバレ大有り)

「君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶから」

ジェームズ・アイヴォリーがアカデミー賞脚色賞を受賞した映画。
イタリアで古代の美術品の研究をする教授が毎年夏休みにアメリカの大学院生を招き、勉強を兼ねて助手のようなことをさせている。院生は毎年違う人が来るのだが、1983年にやってきたオリヴァーはハンサムで外交的で、すぐに女性たちの人気者になる。ひそかに彼を思う教授の息子エリオ。ガールフレンドのいるエリオだが、同性への初めての恋心にとまどう。

日本ではPG12のレイティングで、小学生には指導が必要となっているが、何が原因かと思ったら、17歳のエリオがタバコをスパスパ吸っていて、まわりの大人がそれを見ても何も言わないのだ。

オリヴァーの方も実は最初からエリオに気があって、やがて2人は愛し合うように。
冒頭に掲げた言葉はオリヴァーのせりふ。比翼の鳥と同じく、一心同体ということだろう。

エリオとオリヴァーを演じるティモシー・シャラメとアーミー・ハマーの肉体が美しく官能的に撮られている。なんでアイヴォリーが監督しないのかな、と思っていたが、こういう官能は彼にはむずかしいだろう。

エリオの両親は同性愛に理解があり、オリヴァーが帰国する前に2人で旅行することを許す。2人だけの楽しい日々だが、ある夜、オリヴァーが道で出会った女性と楽しげにダンスする様子を見たエリオは顔をしかめる。
ついにオリヴァーが帰国する日が来た。駅の別れ。「終着駅」、「旅情」、「ひまわり」といったイタリアを舞台にした映画の駅の別れが頭をよぎる。
愛するオリヴァーを失い、悲しみにくれるエリオに、父が語りかける。ここからネタバレ全開なので注意してください。

実は父もかつて、同性に恋をしたことがあった。その経験から、父はエリオに、悲しみを無理に押し殺すなと助言する。押し殺してしまうと、次に愛を与えるべき人に与えるものがなくなってしまうから、と。
半年後の冬、オリヴァーから電話がある。婚約した、と彼はエリオの父に報告する。エリオも聞いている。相手は以前からつきあっていた女性らしい。
エリオもオリヴァーと知り合った頃は女の子とつきあっていた。オリヴァーに恋して、彼女とつきあうのをやめている。
かつて同性に恋したという父は、妻とは仲睦まじく、よい家庭を築いているように見える。父の言った、次に愛を与えるべき人とは、妻のことだったのだろうか。
そして、オリヴァーも、エリオとのつかのまの恋を経て、女性と結婚する。
エリオがどうなるのかはわからないが、彼もガールフレンドがいたのだ。
つまり、この映画の3人、エリオとオリヴァーと父はバイセクシュアルなのか?
あるいは、父とオリヴァーは一時的に同性を愛したが、本質的には異性愛者なのか?
そしてエリオは?
同性愛、異性愛、バイセクシュアルははっきり区別できるものではないと言われる。異性愛者だけど思春期に同性で好きな人がいた、という程度なら決してめずらしくないし、異性愛から同性愛に移ったり、その逆もあったりするようだ。
あるいは、この時代、1983年はまだ今ほど同性愛者が自由に生きられなかったので、異性と結婚する道を選んだのか? エリオの父の時代なら同性愛はタブーであっただろうし、オリヴァーも自分の父は同性愛を理解しないと言っている。
だから、この可能性も捨てきれないのだが、この映画を見る限り、どちらかというと彼らはバイセクシュアルであるか、あるいは同性愛は一時的なものだったというように見える(エリオだけはこれからどうなるのかわからないが)。
そこで思い出すのがアイヴォリーが30年前に監督した「モーリス」。
E・M・フォースターの小説の映画化で、フォースター自身がゲイであったのだが、彼の時代には同性愛は表に出すことができず、小説も死後に出版された。
映画化に際し、アイヴォリーは自分で脚本を書いている。「眺めのいい部屋」をはじめ、多くの彼の監督作で脚本を担当したルース・プラヴァー・ジャブヴァーラではなく、自身で脚本を書いた。その理由として、ジャブヴァーラが原作を気に入らなかったから、と当時言われていたが、「君の名前で僕を呼んで」を見ると、女性に脚本を任せたくなかったのではないかと思えてくる(いや、それはないかな)。
作家でもあるジャブヴァーラの他の作品の脚本に比べ、「モーリス」のアイヴォリーの脚本は冗漫で、映画の出来も「眺めのいい部屋」や「ハワーズ・エンド」(どちらもアカデミー賞作品賞ノミネート)ほどよくなかった。しかし、30年後の「君の名前で僕を呼んで」を見ると、「モーリス」との共通点が鮮やかに浮かび上がってくる。
「モーリス」は20世紀初頭のイギリスの裕福な中産階級の若者であるモーリスとクライヴが恋に落ちるが、やがてクライヴは同性愛を卒業し、モーリスから去ってしまう。モーリスはその後、森番の青年と恋に落ち、2人で森に逃げるというD・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」のような結末になる(「モーリス」の方が「チャタレイ夫人」より10年以上早く書かれている)。フォースターの原作では、裕福な中産階級のしがらみに取り込まれたクライヴは批判的に描かれるが、アイヴォリーの映画ではヒュー・グラントの演じるクライヴの方がむしろ主役のようであり、最後は森番と森に逃げ込むモーリスを窓から眺めるクライヴで幕を閉じる(この結末はフォースターの代表作をデイヴィッド・リーンが映画化した「インドへの道」の結末によく似ている)。
フォースターの小説では窓から外を眺めるだけの人間は否定的に描かれるのだが(「眺めのいい部屋」のヒロインは外へ出ていく)、アイヴォリーの「モーリス」では、クライヴは決して肯定的に描かれてはいないが、それでも、窓から外を眺めるクライヴの方に力点が置かれているように感じた。
フォースターから見れば、クライヴはモーリスを裏切り、偽善的なイギリス中産階級に与してしまった人間だが、アイヴォリーの映画ではクライヴのような生き方も決して否定されていないように思えた。
そして30年後の「君の名前で僕を呼んで」。エリオの父とオリヴァーは同性との恋を経て異性と結婚する。彼らとクライヴは同類なのではないか? エリオの父とオリヴァーが自然にそうなったように、クライヴも自然にああなったのかもしれない。エリオも父とオリヴァーを責めることはない。エリオ自身も父やオリヴァーと同じ道を行くかもしれない。

原作は読んでいないのだが、「君の名前で僕を呼んで」のアイヴォリーの脚本は「モーリス」とは比べものにならないほどすばらしい。はっきりとした言葉を使わずにさりげなく意味を伝えるせりふの数々(原作どおりかもしれないが)。監督(ルカ・グアダニーノ)の力だろうが、映画のテンポもいい。ティモシー・シャラメの名演技は最後のアップによく現れている。

追記
この映画、なぜか吹替え版があるのだが、英語とイタリア語が同じくらい出てきて、フランス語とドイツ語も少し出てくるのに全部日本語かよ、と思ってしまった。
私の行ったシネコンでは字幕は昼間とレイトで、吹替えが朝と夕方だが、吹替えは予約がほとんどない。他のシネコンを見ても多くの人が見たがるだろう夕方の時間を吹替えにあてているのだが、吹替えを優遇するほど需要はないと思う。字幕だけの日比谷シャンテが混むわけだ。

2018年4月25日水曜日

内からも外からもシャンシャン

雨の日は用事がなければ上野動物園、となっているわけですが、今日は午前中は土砂降りの雨。
絶対整理券なくならないと確信できる日です。
パンダ母子。きれいに撮れました(トリミングしてます)。

園内に入ると、父リーリーのいる運動場の向こうに娘シャンシャンが見えている。
母子のいる運動場の木に登っているようで、外からシャンシャンが見える!



父リーリー。

整理券もらって中へ。今日はお客さんがかなり少なく、一度に入れる人数も少ないので、ゆったり見られました。シャンシャンが宙に浮いているように見えますが、木がガラスに写り込んでいるため。


運動場の前を4区分に分けて少しずつ移動。ここだと木がガラスに写らない。

外に出ると、まだ見えます、シャンシャン。



この木の上にいることが多いようなので、整理券がもらえなくてもここで張り込んでいれば見られるかも。ただ、距離があるので、望遠のカメラか双眼鏡があるといいでしょう。

今日はあまり時間がなかったので、少ししかいられませんでした。
今まで室内だったゾウがやっと外で見られた。ガラスがないのですっきり。
ここからはトリミングしてません。

蚤取り侍?

アビシニアコロバスの赤ちゃん。春分の日に見て以来。

時間がないと言いつつ、タケノコとアサリのスパゲッティは食べました。
海苔が上にのって出てきます。

海苔をとると、今回の方が盛り付けがうまい。緑のものは菜の花ではなくなっていた。菜の花の方がおいしかったので残念。
前回、味が淡泊だったので、ミートソース用のチーズとタバスコをもらいましたが、タバスコかけすぎて辛かった。

3月20日の開園記念日(無料)とGWの連休は混雑が予想されるので、往復はがきによる抽選でしたが、どちらも落選。代表者1人と同伴者4人までで申し込めるので、5人がそれぞれ代表者になって申し込んだ方が確率高いから、1人や2人の人は無理だろうとは思っていたけれど、GWは4日間なので少し期待しましたが、やはりだめでした。
先週の水曜が母子とも壁を向いて横になって寝ていてまったく動かず、今までで一番がっかりだったのですが、今日はばっちり見られたし、外からも見られたので、これで満足です。

2018年4月22日日曜日

「空海」(妖猫傳)に関する17の疑問と答え

やっと夢枕獏の原作を読んだ。
最初は楊貴妃が出てくる予定じゃなかったとか、プロット立てずに書き始めたのがよくわかる。
あまり伏線とかないタイプ。どう転がるのかわからないよさ。
逆に映画は非常に綿密に作られた脚本で、伏線がいくつもあり、それが全部回収される。理詰めの映画で、一度見てわからないところも何度か見ると全部わかるくらい作者(監督や脚本家)の意図が強い。
映画は原作を換骨奪胎していて、特にキャラクターの設定などが大幅に変わっているが、あのシーンは原作のここを使ったのか、というのがわかるところも多く、違う話になっていてもやはりこれが原作だとわかる。
楊貴妃を最初から出す予定だったら白楽天をもっと前面に出したのではないか、という気がする。

というところで、図書館から白楽天に関する本を2冊借りてきた。
川合康三「白楽天ーー官と陰のはざまで」岩波新書
下定雅弘「白楽天」角川ソフィア文庫
岩波新書の方はツイッターで紹介されていて、なんか、白楽天て、友達大好き、ご飯おいしい、寝るのが大好き、な人で、「空海」見た人は読んだ方がいい、というので。
えええ、あのテンション高い白楽天は映画が勝手に作ったイメージではないの?
角川ソフィア文庫の方は白楽天の短い詩を紹介しながら解説している本で(初心者向けの入門書)、目次を見ると、「タケノコがうまい!」とか、「閑なポストでつまらない」とか(白楽天は科挙に合格したエリート官僚)、うーん、やっぱり映画のイメージに近い人だったのかも?
「タケノコがうまい!」のところだけちょっと読んだら、10日もタケノコばかり食べてるとか、タケノコご飯を自分で作ってるとか、読んでいたら上野動物園のタケノコスパゲッティがまた食べたくなった。
上の2冊はこれから読みます。

あと、これも借りた。
陳凱歌「私の紅衛兵時代」講談社現代新書
翻訳の刈間文俊は「空海」のセリフの翻訳を担当していた人。「さらば、わが愛」でも字幕監修だったらしい。
ちなみに、「空海」は吹替えより字幕の方がわかりやすいし情報量も多い。
吹替えと字幕は大半は同じ訳になっていたが、一部吹替えを手直ししてよくなっているところがあるのと、漢字にふりがなが最強の日本語で、これだと意味と読み方の両方がわかる。これまで中国映画で名前がわかりにくいと思ったのはふりがながなかったからのようだ。「空海」はむずかしい漢字は最初に必ずふりがながつくので非常にわかりやすい。人名地名はもちろん、呪術の用語も漢字とふりがなでよくわかる。正直、吹替えだとわかりにくい日本語がけっこうあった。
欧米映画などに比べて字幕の方が情報量が多いと感じるのは、漢字が多いためだろう。欧米映画などだとカタカナで字数をとられてしまう。

さて、タイトルの「空海」に関する疑問と答えだが、ネットで見たいくつかの疑問や自分が感じて答えを見つけられた疑問を少し紹介。ネタバレ全開なので注意。(前の記事に書いたものもあります。)

1 無名の留学僧にすぎない空海がなぜ病気の皇帝のもとに呼ばれるのか?

青龍寺の恵果和尚(=スイカの妖術師&丹龍)が推薦したと思われる。空海は青龍寺に行っても山門すら開けてもらえないと言っているが、恵果は空海の優れた能力を知っていたと思われる。そして、丹龍としての彼は、空海が白龍の魂を救える唯一の人物だと思ったのではないか。だからスイカの妖術師となって現れ、空海を白龍へと導く。
胡玉楼での化け猫騒動のあと、白楽天が役人に向かい、「この空海は倭国では有名な祈祷師で、化け猫退治にはぴったり」と言い、そばで空海が「え?」という顔をするシーンがあり、有名な祈祷師でもなんでもないことがわかる。白楽天は知り合ったばかりの空海とおつきあいしたいので、空海が長安に残れるようにこう言ったのだろう。

2 皇帝が死んだあと、外に出た空海と白楽天が光る猫の足跡を見るが、なぜ光るのか?

皇帝の寝床のまわりに光る粉がまかれている。空海の履物にそれがつき、役人から拭くように言われる。猫も皇帝に近づいたので足にこの粉がついたのだ。

3 白楽天の長髪がウエーブがかかっているときとストレートのときがある。

白楽天は最初、役人として登場し、髪はアップにしている。が、公文書に嘘は書けない、として役人をやめ、髪をおろす。この、役人をやめた直後の髪にウエーブがかかっているが、このあと、だんだんストレートになっていく。つまり、髪を毎日アップにしていたのでウエーブがかかっていたが、役人をやめてアップにしなくなったのでストレートになっていったわけ(細かいなあと感心)。
最後の方で白楽天がまた髪をアップにするが、これは彼が役人に復職したということなのだろうか?
追記 別記事で解説しました。
https://sabreclub4.blogspot.jp/2018/05/blog-post_2.html

4 胡玉楼のシーンで、麗香が階段の手すりにかんざしを刺すが、そのあと上の部屋にかんざしがあるのはなぜか?

かんざしを刺したところの下に何か黒いものがいるのだが、何度見てもそれが何かわからなかった。角川シネマ新宿の大きいスクリーン1で見て、ようやく黒い置物みたいなのがあるとわかった。猫そのものではないが、猫が化けたものなのだろう。

5 猫は左の後ろ足をけがしている、と足跡から空海は判断するが、なぜそこをけがしているのか?

白龍が楊貴妃を生き埋めにするのを止めようとしたとき、黄鶴に左足のひざの裏を棒で殴られる。その後、白龍と丹龍が楊貴妃の墓に来たとき、白龍は木の枝を杖にしている。ただ、白龍の乗り移った猫は特に足をけがしているようには見えない。

6 白楽天が書庫で言う「比翼の鳥」とは?

翼が片方しかない鳥で、男と女が一体とならないと飛べない。一心同体である男女。西洋ではプラトンが主張し、その後ロマン主義でさかんに描かれるようになった愛がこれとよく似ている。
長恨歌の最後の部分にこの言葉が登場する。
「天に在りては願わくは比翼の鳥と為り」
映画では丹龍と白龍が比翼の鳥のようでもある。楊貴妃は2人に、1人欠けても白鶴でなくなる、と言う。

7 空海がスイカの妖術師(丹龍)に猫の謎について聞くシーンで、妖術師は「妖術にも仕掛けがある」と言うが、中国語のわかる人によると、ここは「仕掛け」ではなく「真相」と言っているらしい。が、そのあと空海が「それでは猫に真相があるということですね」みたいなセリフを言う。おそらく「真相」には「仕掛け」という意味もあって、それをわかりやすくするために「妖術には仕掛け」「猫には真相」というふうに訳しわけたのではないか? 翻訳ではよくやる手である。

8 楊貴妃は生き埋めにされたという猫の言葉を信じた空海に怒った白楽天が廊下の向こうへすたすたと歩いていくが、向こうまで行ってまた戻ってくるのはなぜか?

出口を間違えた説(笑)。

9 空海と白楽天が楊貴妃の最期を知る老婦人から話を聞いたあと、外へ出ていくが、カメラは室内の天井の方をしばらく向いているのはなぜか?

ここは絶対猫が映っている、と思い、何度もここで目を凝らしたが、角川シネマ新宿のスクリーン1でのみ、猫の尻尾が動くのが見えた。(目が悪いのかな、自分?)

10 阿倍仲麻呂はなぜ、自分は無情な人間だと言うのか?

仲麻呂は日記で「自分はなんと無情な人間なのか」と書き、そのあと、「皇帝の妃を愛してしまった」と続くが、皇帝の妃を愛したことが無情なわけないので、これは、楊貴妃をだまして殺す計画が進んでいるときに彼女を救うことを何もせず、黙って見ていただけだったことを言っていると思われる。白龍だけが彼女を救おうとしたのだ。

11 仲麻呂が楊貴妃に日本へ連れて行きたいと言ったとき、楊貴妃は断るが、そのあと、極楽の宴で自分に言おうとしたことを言ってほしいと言う。そのあと、極楽の宴の酒の池のところで、黒猫を抱いた楊貴妃を安禄山、玄宗、仲麻呂が取り囲んでいるシーンがある。この3人は楊貴妃を愛した男たちだが、仲麻呂の背後に高力士がいる。高力士も楊貴妃を愛した男の1人なのか?

夢枕獏の原作では、高力士も楊貴妃を愛していた。ただ、宦官なので、玄宗を通して彼女を愛していたと語る。原作では高力士は腹黒いところのある男だが、映画ではほんとうに人のよい善人にしか見えない。仲睦まじい玄宗と楊貴妃を背後からにこにこと見ているところとか。その彼が楊貴妃殺害の罪を1人で引き受けさせられるところは、政治家のスキャンダルで、その秘書が自殺して1人で罪をかぶるのを連想させられる。原作では男たちの腹黒い策謀が楊貴妃を悲劇に追いやったように描かれているが、映画ではむしろ、玄宗のためにまわりが忖度していってああなったように見える。

12 楊貴妃の棺のところへ来たとき、白龍は丹龍がすべて知っていたと知る。「なんでここに来た? 何を見たかったんだ?」と白龍は言うが、丹龍はわかっていながらなぜ来たのか?

白龍が心配だったから。丹龍は、おまえには俺しかいない、と言うが、白龍は、貴妃様がいる、と返す。

13 楊貴妃を蠱毒から救おうとした白龍が、最初は猫を殺そうと思うが、やめて自分の体を犠牲にしたのはなぜか?

白龍が楊貴妃の体に触ったとき、手に蠱毒の蟲がつき、それが白龍の服の中に入ってしまう。それで猫ではなく自分の体を犠牲にしようと思ったのだと思ったが、それ以前に猫を殺すのをやめたようにも見えるので、猫を殺したくなかったのかもしれない。

14 桜の木の下に楊貴妃の幻を見た白龍(猫)が戻ると、台の上にかんざしがあるのはなぜか?

極楽の宴でかんざしを拾ったのは丹龍。かんざしは丹龍が持っていた、と考えると、丹龍が置いていったと思われる。そのあとのシーンでは、空海の部屋に丹龍の置いていったスイカと極楽の宴の招待状がある。
白楽天の長恨歌の最後に、あの世に行った楊貴妃が玄宗の使いで来た道士に、かんざしを半分に割って渡すシーンがある。極楽の宴で楊貴妃のかんざしを拾った丹龍は、それを白龍に渡さない。30年の時を経て、丹龍がかんざしを白龍に渡したとすれば、それは丹龍からの白龍への和解の申し出となるが、白龍はかんざしを見て丹龍を思うよりは楊貴妃を思ったかもしれない。しかし、丹龍が来るという予感を感じた可能性もある。

15 猫が死に、白龍の魂が鶴となって天に召されたとき、白楽天は涙し、丹龍は手を合わせて祈り、空海は微笑んでいる。

中盤で長恨歌を否定された白楽天が涙ながらに「長恨歌を偽りとは言わせない」と言うが、その彼が白龍の楊貴妃への愛と死に涙したことで、最後の「あれは白龍が書いた詩だ」という認識に達する。空海は白龍の魂が救われたというポジティヴな気持ちでいる。1で書いたように、空海を皇帝のところに行かせたのが丹龍(恵果和尚)だとしたら、丹龍は白龍を救えるのは空海だけだと思い、その後も空海が真相にたどり着くようヒントを与え、そして空海が白龍の魂を救うことができた、と見ることができる。
空海は狂言まわしではないと思うのは、白龍の魂を救うためには空海が必要だったのであり、楊貴妃の棺を前にした一連のシーンで白龍を理解し、目を覚まさそうとしているのは空海だからだ。猫が白龍であると空海はすぐにわかるし、最も重要なセリフを言うのも空海だ。この場面に空海がいなかったら、白龍の魂は救われなかっただろう。だから、主人公は空海、でもちっとも間違っていない。

16 空海と別れたあと、白楽天が橋の上から投げるものは?

筆。極楽の宴で楊貴妃を讃える詩を書いた李白が「一字も書き直さない」と言って筆を池に投げ入れたように、白楽天も「長恨歌を書き直さない」という意味で筆を川に投げ入れる。

17 ラスト、昼寝する白楽天のそばに落ちた楊貴妃と黒猫の絵の意味は?

白楽天の見た夢、だろう。白楽天は楊貴妃の絵を何枚も描いて壁に貼っている(オタク同人作家と一部で言われる所以)。その1枚がひらひらと落ちてきて、楊貴妃のそばに猫が現れ、楊貴妃の腕に抱かれて終わる。10で書いた、楊貴妃が猫を抱いているシーンと対応する。楊貴妃を愛した男たちは彼女を救おうとしなかったが、白龍(猫)だけが彼女を救おうとした。多くの男たちに愛された楊貴妃だが、楊貴妃の愛を受けるに値する男は白龍だけである。

2018年4月18日水曜日

猫&熊猫めぐり

今日は朝7時半に起きて8時半に家を出て、9時半の「空海」インターナショナル版を見に行った。
「空海」は字幕吹替えともに19日で終了のところが多く、字幕のインターナショナル版は船橋が19日まで。角川シネマ新宿は続映だけど56席のスクリーンでは試写室並み。関東で唯一TOHOでインターナショナル版を続映する川崎は深夜0時すぎに終わる超レイト(ここは26日まで)。
とりあえず、船橋もう1回行くか、というわけで、意を決して早起きすることに。
ただ、寝坊したらアウトなので、今回は予約せず。
都心に向かう電車でないので乗ったときは立っている人は少なかったが、途中から就活中みたいな人がいっぱい乗ってきて混んでしまった。幕張メッセで就活のイベントがあるのだろうか?
9時半ではまだららぽーとは開いておらず、雨の中、外を歩いていく。が、チケット売り場は意外と混んでいた。名探偵コナンだろうけど。
「空海」も朝なのに10人近くはいた。レディースデーのせいか全員女性のような感じ。レディースデーに限らず、「空海」は字幕版になったら女性率急上昇している。これはどう見ても女性向け、特に腐女子向けなんだが。
「空海」についてはもっと書きたいことあるけど、原作まだ読み終わってないし、図書館に白楽天の本を予約したので、少し勉強してからまた書く予定。
しかし、白楽天、猫が死ぬときに泣いていたなあ。白楽天と丹龍が悲しそうな顔で、空海は微笑んでいて、白龍の魂が救われたことを空海は考えているのだ。白楽天は中盤では「長恨歌」を否定されて泣いていたが、最後は白龍のために泣いて、それで「長恨歌」は白龍が書いた詩だという認識に達するわけだ。

さて、今日は雨ということは昨日からわかっていたので、「空海」はともかく上野動物園には行くことにしていた。
雨だとパンダ母子整理券が午後でも手に入るのだ。
で、予定通り、「空海」のあと、南船橋から上野へ向かう。
が、市川をすぎたあたりから日がさしてきた。
こりゃ整理券ないかも。
着いたのは午後1時。
整理券ありました。13時40分の回。やっぱりはけてないのだ。

4回目のシャンシャンだが、今回が最悪。母シンシンも娘シャンシャンも後ろ向きで寝ていてまったく動かず。

シャンシャンは手で頭を抱えて寝ているよう。明るすぎるのかな。
前回は春分の日で、あれから1か月近くたったが、かなり大きくなっている。

育児でお疲れのシンシン、食べて寝るだけらしいシャンシャンに対し、グレイテスト・ショーマン、リーリーは木に登ったりとパフォーマンスをサービス。シャンシャンの方はお客さん静まり返っているのに、リーリーのところはお客さんの喜ぶ声が。

ほかのお客さんの話を立ち聞きしていても、シャンシャンは寝てるだけで顔も見られないとかで、もうシャンシャンは並んで見るほどじゃないのかもしれない。
前回は雨が強く、リーリーは非公開だったが、やっぱりリーリーが見られると楽しい。

上野動物園にはほかにも赤ちゃんがいる。


4回目にしてようやく見られたニシゴリラ。真ん中に赤ちゃん。


水の中のホッキョクグマ。餌を待っている。

タテガミオオカミ。これまでは陰の方で寝てるだけだったが、今日は餌の時間なのでいろいろ撮れた。金網にピントが合ってしまうので、撮るのがむずかしい。

午後3時。朝8時に朝食食べただけなので、そろそろ昼食。レストランと藤棚。

季節限定のタケノコとアサリのスパゲッティ。緑色は菜の花。パンダ海苔つき。800円。
味が淡泊すぎてタバスコがほしかった。

マヌルネコの毛づくろい。


飼育員の投げる魚を奪い合うペリカンとカワウ。遠くからズームで撮っている。

コウノトリ。

2018年4月14日土曜日

角川シネマ新宿&TOHO日本橋

「空海」インターナショナル版を大きなスクリーンで見られるおそらく最後のチャンス(?)の金曜日。
翌日からは大映男優祭が始まるので、「空海」は小さい箱に移ってしまう。
が、古い映画館で見づらそうだし、音響も映像も期待できないから、行ってもむだだろうと思っていたのだが、角川シネマ新宿ってどこ?と思い、地図で調べたら、なんと、新宿文化シネマがあった場所だった。
なつかしい。80年代90年代によく行ったところ。ここが閉館してシネマート新宿と角川シネマ新宿になったらしい。私がよく行っていた新宿文化シネマ2はシネマート新宿のスクリーン1の方だ。記録によると、シネマ1だった角川シネマ新宿のスクリーン1の方はトリュフォーの「終電車」などを見たようだが、2、3回しか行っていない。シネマ2の方は「ソフィーの選択」、「フランス軍中尉の女」、「1900年」など、記憶に残る映画を何本も見ていて、座席も記憶に残っているが、角川シネマになったシネマ1の座席はほとんど記憶にない。
それはともかく、新宿文化シネマの場所なら行きたい、と思い、「空海」通算13回目の鑑賞へ。
昔取った杵柄というか、新宿三丁目の改札を出てから映画館まで何も考えずにすっと行くことができた。何度も歩いた場所だ。ただ、歩道がこんなに狭かったっけ? 伊勢丹、相変わらずだねえ。松戸の伊勢丹は閉店しました(広い書籍売り場があったのに残念)。

さて、角川シネマ新宿の「空海」インターナショナル版だが、やはり音はかなり悪い。が、スクリーンが大きいので解像度が高いというか、細かいところがよく見える。小さいスクリーンだと細かいところがはっきり見えなくてストレスだったが、それが全部見える。長安の町に灯りがともっていくところなど、大画面だとやっぱり違う。大きなスクリーンは吹替え版以来だったが、やっぱりこの映画はこういうふうに見えなければ、ということを実感した。中国ではIMAX上映もあったそうで、大画面で見るべき映画なのだ。ほんと、行ってよかった。新宿文化シネマを思い出したおかげだ。

最初は映画を見たら、「東京やあ~」(「君の名は。」)のバスタ新宿へ行ってみようと思っていたのだが、まだ見ていない「ペンタゴン・ペーパーズ」とハシゴした方がいいかと思い、劇場を探す。最初に見た新宿と上野のTOHOは80席とか90席とかの狭いところ。こんなところでスピルバーグの新作を見られるか! と思い、日本橋を見たら、220席以上の広いところでやっている。日本橋は一番狭いところでも110席あって、大箱と中箱が多い。都心にいた頃から時々行っていたけれど、ここで見た映画は全部大きいスクリーンで見ている。上野と日比谷ができたら日本橋に客が来なくなるのでは、という予想があるのだけど、上野は狭いし日比谷もネット上の評判を見るとあまり行きたくない感じなので、日本橋にはぜひがんばってほしいものだ。

「空海」が終わってから「ペンタゴン・ペーパーズ」が始まるまで1時間ほどなので、地下鉄入口のファーストキッチンで腹ごしらえして、都営新宿線で岩本町に向かう。文京区に住んでいた頃は新宿は都営新宿線で行くことが多かったので、これも慣れた路線。岩本町からTOHO日本橋のある三越前までは徒歩15分くらいだけれど、ここから日本橋までの道もかつてはよく歩いた場所。以前よく入ったベローチェやかつやを横目で見ながらシネコンにたどりつく。なんかもう、この日は歩きなれたなつかしい場所めぐりみたいで楽しかった。文京区のマンションの屋上から見えていた三井の高層ビルの前に新しいビルが建設中で、もう文京区から三井のビルが見えないのだなあと思う(マンションの屋上だけでなく、高台になっている場所からも見えた)。

「ペンタゴン・ペーパーズ」は作劇としてはイマイチだし、人物描写も役者の演技に頼るだけで深みがないが、内容がいちいち今の日本にあてはまる。メリル・ストリープの新聞社社主やトム・ハンクスの編集主幹が大統領や政府要人と親しくて、「寿司友」みたいになっていたのだが、ハンクスが「新聞人が政治家と会食するべきではない」と言いだして、ああ、アメリカもこの頃まではマスコミが政治家と「寿司友」になってたのか、と思った。アメリカの記者はコーヒーが出ても飲まない、と言われていたが、最初からそうだったわけではないのだな。
政府が新聞に圧力をかけて記事を掲載させないようにする、という、民主主義国家では許されるべきではないことが行われていて、それと戦うために別の新聞が記事を載せようとする。予告編だとこのあたりで社主のストリープが苦悩するみたいな感じだったが、実際は男衆があたふたしているときに社主が鶴の一声で「やりましょう」と言い、その後も彼女がまったくブレない。この辺の人物描写が薄いといえば薄いのだが、彼女の行動を女性たちが讃えるシーンがいくつか登場し、ストリープが裁判所から出てきたあと、さまざまな人種の女性たちの中を通っていくシーンで、女性が行動する時代の始まりを表現している。

おまけ
これまで「空海」にはもれなく「蚤取り侍」の予告編がついてきて、阿部寛のイメージのギャップが激しいからやめて、と思っていたのだが、角川シネマ新宿では「蚤取り侍」の予告がなかった(上映予定がない)。が、「ペンタゴン・ペーパーズ」の前に出てきやがった「蚤取り侍」。しかし、今回の予告、猫が2匹増えたような気がするぞ。白い猫と黒い猫だ。

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三井の高層ビル、日本橋三井タワーというらしい。
以前住んでいたマンションの屋上から撮った写真(トリミング)。
真ん中が東大のビル、その向こうの高いビルが建設中だった淡路町の高層ビル、左が日本橋三井タワー。

2018年4月11日水曜日

「妖猫傳」(空海)とアーサー王伝説

前から気づいていたのだが、「空海」こと「妖猫傳」の阿倍仲麻呂の語りの部分がアーサー王伝説によく似ているように思えてしかたないのだ。
極楽の宴はキャメロット、玄宗はアーサー王、楊貴妃はグエネヴィア、仲麻呂はランスロット。ただし、ランスロットと違い、仲麻呂は片思い。
そして、玄宗に対して反乱を起こす安禄山はアーサーの息子モードレッド。
安禄山は映画では楊貴妃に横恋慕して反乱を起こすという、アーサーの父ウーサーのような役回りだが、夢枕獏の原作によると安禄山は楊貴妃の養子なのだという。もっとも、楊貴妃はまだ若いので、実質的には玄宗の養子のようなものではないかと思う。だからモードレッド。
アーサー王はモードレッドと相打ちになり、死ぬが、西の方角にある理想郷アヴァロンに行き、いつかまたよみがえる、と、伝説ではなっている(アーサーとキリストが重ねあわされている)。
一方、「妖猫傳」では楊貴妃がいつかよみがえると白龍が信じている。
というわけで、ぴったり一致ではないが、どうもアーサー王伝説が入ってるんじゃないかと思ってしまうのだ。
原作の「沙門空海~」はまだ2巻目に入ったところで、やっと空海と白楽天が出会ったところ(原作では空海の相棒は日本人)。が、1巻目にジョン・ブアマンの「エクスカリバー」に似たシーンがある。春琴が老婆になってしまうというシーンで、モードレッドの母モーガナ(若き日のヘレン・ミレン)が老婆になってしまうシーンを思い出した。

というわけで、火曜日はこれが最後かも、という気持ちで12回目の「空海」(インターナショナル版としては8回目)。TOHO船橋も金曜からはついに朝になってしまう。
さすがに12回目ともなるともう新しい発見はなく、好きなシーンを確認しながら、これが見納めかも、という気持ちで鑑賞。2か月近く楽しませてもらいました。12回の内3回はただで見てしまったのだが。
今後もいろいろな映画館で上映してくれれば、また見るチャンスもあるだろう。

「空海」はやっぱり、テンション高い白楽天のキャラと、白鶴兄弟が魅力的で、空海と白楽天、丹龍と白龍のコンビの外伝が見たいくらい。書庫のシーンで楊貴妃について熱く語る白楽天のわきで空海がやれやれという顔をしているところとか、キャラの魅力で見てしまう。そしてやっぱり猫。
阿倍仲麻呂の語り、「極楽の宴は楊貴妃の理想をあらわすものだ」とか、「大唐の象徴である楊貴妃は見捨てられようとしていた」とか、楊貴妃を毛沢東に置き換えるとよくわかる部分もあるけれど、そこまで行ってしまうと映画がつまらなくなる。もっと普遍的なことの象徴として見た方がいい。

さて、TOHO船橋のある南船橋はイケアやららぽーとや谷津干潟があって、映画の前や後に寄れる場所がいろいろあるのだけど、電車が少ないのが難(特に夜)。
で、火曜日は映画の前にまたまた谷津干潟へ。
まずは近所のハナミズキ。

ラムサール条約に登録されている谷津干潟だが、周囲はこのようにマンションなどが立ち並ぶ。


前回よりも鳥が多かった。

この前は干潟が全面的に水でおおわれていたが、今回は地面が出ているところもある。

この前はいなかったアオサギ。

カモメ。足に何かついている。

2018年4月8日日曜日

「空海」原作で肩を痛める。

映画「空海」原作、夢枕獏・著「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」徳間書店、2004年刊。

県立図書館で借りてきました。
市立図書館は予約多数で、しかも4巻なので、下手に全部予約すると3巻目と4巻目が先に来て、1巻目と2巻目はなかなか来ない、という羽目になるので、貸出中だけど予約が0だった県立図書館で予約。するとすぐに本が準備できましたというメールがあり、今日、取りに行ったのですが。。。

た、単行本だった。
厚くて重い本が4冊。
実は今日もまた「空海」インターナショナル版を見に行こうと思い、途中で図書館に立ち寄ったのです。
バッグに入れたらすごい重さ。図書館は自宅から徒歩15分くらいなので、引き返すわけにもいかず、しかたない、駅でコインロッカーに預けよう、と決意。
が、乗る駅までがまた徒歩15分。重いバッグを右手で持ってえっちらおっちら歩き、ようやく駅に到着。もう、ここでへとへと。しかもコインロッカーがどこにあるかわからない。
しかし、わりとすぐに見つかり、パスモが使えたので小銭もいらず(料金は300円)。
これで安心して、身軽になって電車に乗り、TOHO船橋へ。ここがまた駅から徒歩13分なので、預けないという選択肢はなかった。300円で本が4冊借りられたと思えばいい。

シネコンは前の記事と同じ場所で、ニオイが心配でしたが、今回はかすかににおう程度でした。かなり人が入っていて、しだいにポップコーンのニオイにまぎれてしまう。
「空海」インターナショナル版、ファーストデイの翌日だけはすいてましたが、あとはけっこう入ってます。他の映画館だと朝でも満席とか、ツイッターに出ている。
TOHO船橋は予約しない人が大多数のようで、予約する人も当日にならないとしないみたいなのですが、京葉線が強風で止まってしまうので、予約はけっこうリスクが高いのですね。金曜は帰りが強風でひどい目にあいましたが、土曜は昼間から運休だの遅れだのだったみたいです。

そんなわけで、今回はニオイも気にならず、中国語音声で映像もクリアできれいで、大満足でした。
吹替えのときは大きいスクリーンで映像きれいだけど吹替えが不満で、インターナショナル版だと音声は満足だけど映像がイマイチでしたが、このスクリーン(MX4D用)は大きくはないけど映像的にはかなりよいので、欲求不満が解消しました。
週末からはまた時間もスクリーンもかわる可能性があるので、どうなるかわからないけど、ここであと1回は見れるかな。

というわけで、ニオイもほとんど気にならず、音声も映像もベストな感じでしたが、見ているうちに背中が痛くなってきた。
あの重い本4冊を右手で持って徒歩15分がきいたのか、右の肩の下あたりを痛めてしまったようです。
原作は早速帰りにコーヒーショップで読み始めましたが、会話が多くて下の方が白いのでわりと速く読めそうです。

2018年4月6日金曜日

10回目の「空海」はニオイさえなければ最高だった。

木曜は「空海」インターナショナル版5回目、吹替えと通算9回目。
金曜はインターナショナル版6回目、吹替えと通算10回目。

金曜はTOHO新宿でインターナショナル版最終日。朝の回だけど横の長さが17メートル以上ある大スクリーンでの上映で、行きたかった。でも、早朝に起きて朝のラッシュにもまれて、というのが最大のネックで、行きませんでした。
そもそも吹替えを4回も見たのは、あの映像をとにかく大スクリーンで見たいと、横が12から13メートルくらいのスクリーンでやっているシネコンを探して見に行ったのです。
しかし、インターナショナル版が始まる頃には「空海」は回数も減り、スクリーンも小さいものばかりになり、インターナショナル版は定員100人前後のスクリーンばかり。中国語版はうれしいけど、映像はやはり吹替えを見た大スクリーンには劣る、という状態でした。
金曜のTOHO新宿はおそらくインターナショナル版が大スクリーンで見られる唯一の機会、これが最初で最後の機会であったと思われます(前の晩に新宿のホテルにでも泊まればよかったのか)。
角川シネマ新宿では明日の土曜日から1週間、定員300人のスクリーンで上映しますが、どうも古いタイプの映画館のようで、どの程度映像が期待できるのかわからず、思案中。
そんなわけで、このところ午後5時台にやっているTOHO船橋へ行っているわけですが、木曜と金曜でスクリーンが違いました。
木曜の方は横9メートルくらいのスクリーンで、これまでに見たインターナショナル版はだいたいこのサイズばかり。映像がどうしてもイマイチなんです。
そしてスクリーンがかわった金曜日。それはあの「ジュマンジ」などを上映するMX4Dのスクリーン。座席が揺れたり水が出てきたりニオイがしたりというやつ。
もちろん、「空海」では水が出てきたり座席が動いたりはしません。料金も通常料金。
まあ、空海や白龍が水に落ちると水がかかったり、白楽天が手すりをドンとやると座席がドンしたりというのも面白いかもしれませんが。
そして、スクリーンは少し大きめの横10メートル以上。
MX4Dの映画を見ることは絶対ないだろうけど(ああいうのは苦手)、館内を見るいい機会、と思って出かけました。
入ってまず、強いニオイに驚きます。これは前の映画で出たニオイなのか、それとも映画館の設備そのもののニオイなのかはわかりませんが、とにかくすごいニオイ。最後まで慣れることはありませんでした。
しかし、スクリーンはこれまでに見たインターナショナル版の中では最高によい。吹替えを見たスクリーンよりは小さいですが、画面が明るくて映像がくっきりとして、とてもきれい。吹替えで見た美しい映像が戻ってきた、そして音声は中国語! ニオイさえなければ最高の「空海」鑑賞。ニオイさえなければ毎日でも通いたい。ニオイさえなければ。。。
しかし、ニオイはものすごく強烈です(私はニオイに敏感な方なので)。
これに比べたら、他の客が食べているポップコーンのニオイなんか全然たいしたことではない。
というわけで、あの映像ならまた見たい、と思いますが、ニオイを思い出すと躊躇してしまう。
あと、映画が終わった直後に椅子がドンとなるんですね。「空海」のような映画で最後に椅子ドンはやめてほしい。
というわけで、MX4Dの片鱗をちょっとだけ味わった感じです。

8回目にして初めて、最後に白楽天が捨てたのは筆だと気づいた私ですが、9回目にして初めて猫が左の後ろ足をけがしている理由がわかりました(遅すぎる)。
どうも後半になると、猫が足を1本けがしてるということを忘れてしまうようです。それだけほかのことを夢中で見てるということなんですが。
後半、白龍が楊貴妃に針を刺すのをやめさせようとしたとき、師匠の黄鶴が白龍の左足のひざのところを棒で殴るのですね。ナンシー・ケリガンがトーニャ・ハーディングの用心棒の雇った男にやられたような感じ?
で、10回目は猫が足をけがしているような歩き方をしているかどうか見てましたが、してません。
どう見てもけがなんかしてない。猫無双。
「アバター」みたいに、別の生き物の中に入ったら足が治るんじゃないかい?
それはともかく、この映画、どのシーンも意味があってむだがない。
内容的にはやはり「さらば、わが愛」の四半世紀後の答えみたいなところがあって、悲劇だけど、悲劇を乗り越えて先へ進む空海と白楽天の希望が描かれている。
エンドロールのRADWIMPSの「マウンテン・トップ」がまた、映画の内容によく合っていて、確かにこれは猫のことを言っている、というのもうなずける。
歌の最後に「自分の信じた道を行け。子孫たちに言えるのは今はこれだけ。あとは自分自身で決めればいい」というの、チェン・カイコーの思いそのものではないかと思った。
信じたことが間違っていることもある。あとになって思い返せばいろいろ間違いもあった。でも、そのときは信じたことだったのだ。だから、若い人たちは信じる道を行け、と監督は言っているように思えました。つか、それを歌にした野田洋次郎さすが。要求の多い新海誠にさんざん駄目出しされて苦労したのも役に立ったのでしょう。

個人的にはクライマックスで丹龍が猫と空海と白楽天に極楽の宴の幻を見せるところ、そしてそこからラストまでが最高に好きなのだけど、あの輝ける日々はもう戻ってこないけれど、前を向いて希望を持って生きよう、というメッセージが伝わってくる。
それを踏まえて、阿倍仲麻呂の語る極楽の宴のシーンを見ると、ここでは誰も彼もが幸せそうな表情をしている。それが仲麻呂が楊貴妃に会いに行くあたりから暗い影が差してくる。幸福な宴の陰に暗い運命が待ち受けている。
楊貴妃の墓と桜の木が咲いている山の洞窟の位置関係がよくわからないのだが、それはよい。
あと、長安の町に灯りがついていくシーンはやはり大画面がよかったな。

おまけ。
金曜はものすごい強風で、南船橋の駅に着いたら京葉線が不通に近い状態で、なかなか電車動かず、やっと動いたら徐行運転。行先変更もあって、ずいぶんと時間がかかった。京葉線が風に弱いのは知っていたが、なかなか大変だった。

2018年4月3日火曜日

イケアのまな板&白楽天の筆(角川シネマの上映情報を追加)

またまたららぽーと船橋のトーホーへ「空海」インターナショナル版を見に行ったのですが、その前に、この前はほとんど見れなかった駅前のイケアへ。
これを買ったんですが、ワタクシ的には失敗。

料理をのせるプレートにもなる小型のまな板ってことで、いいかも、と思ったのですが、帰宅して包装のポリ袋をとったら、表面がざらざらしていて、説明書によると、磨いたりオイルを塗ったりしてから使うようです。おまけに臭いがきつい。
オイルを塗れば臭わなくなるのかもしれないですし、イケアのサイト(上の写真はそこから)での評価は☆5つの満点がついています(評価者は1人だけですが)。確かに形はかわいいし、大きさも手ごろなんですがね。
イケアは未使用なら返品返金してくれるようだけど、ポリ袋破いてしまったし、899円だし、と思い、燃えるゴミ行きになりそう。臭いが気になるので、ベランダに出しています。
木の製品はむきだしのものを買わないとだめだ、という教訓を得ました。

南船橋のイケアは新三郷よりにぎわっていて、安売り品もたくさんあって、こっちの方が面白いな、と感じました。新三郷より駅から近いのもいい。

新三郷はららぽーとが駅前ですが、南船橋はららぽーとが遠い。というか、ららぽーとの入口は近いけど、トーホーシネマズが一番奥で、すごく遠く感じます。
それと、これはどちらもだけど、ららぽーとは食事処が高くておいしくない。亀有のアリオの安くておいしいフードコートとか、流山おおたかの森の駅に隣接したフードコートも安くておいしいので、ららぽーとの割高感はものすごいです。

さて、「空海」ですが、インターナショナル版はこれで4回目。吹替え4回に並びました。
インターナショナル版はこれまでの3回はどれもお客さんけっこう入っていましたが、今回はファーストデーの翌日の月曜とあってか、お客さんは2ケタに満たない感じ。ただ、終わった後、ほかのお客さんが微動だにせずに座り続けているのでびっくり。感動したのか? 車なので急いでいないのか?(南船橋は夜は車がないとちょっときつい場所です。)
インターナショナル版は今週は都内では新宿も六本木も朝の回だけですが、7日から角川シネマ新宿で上映とのこと。都内じゃないと無理、という方は週末からの角川シネマ新宿へ。
追記 角川シネマ新宿 4月7日からインターナショナル版10:20 15:00 20:20
ただし、8日は10:20 15:00 19:30 12日は10:20 14:55 20:20
青字は300席の大箱、赤字は56席の小箱とのこと。14日以降は未定。大箱の方は前方座席は傾斜がないので見づらいとか(前方好きな私には不向きか? 今のところ、週末、全然予約が入ってない)。
角川シネマ有楽町 4月7日からインターナショナル版10:30
一方、今週は南船橋、さいたま、川崎は夕方の回ですが、さいたまは7日から朝の回になってしまうので、南船橋と川崎もどういう時間になるのかというところ。(追記 南船橋は6日から12日までは17:30 ありがたい。川崎は朝の回になってしまうことが判明。)
追記 TOHO新宿は6日の最終日は午前中の回ながら、大箱で上映。

「空海」は「君の名は。」ほどは入れ込んでないので、さすがに8回目ともなると少しだれた気分で見てしまいましたが、それでも阿倍仲麻呂の語りで始まる極楽の宴のあたりからは目の保養、そして涙、と何度見てもよい。阿部寛はほとんど立ってるだけなのだが、それでも存在感が際立つのは、ローマ人のようなアジア人離れした風貌と、そして背の高さですね。インターナショナル版は中国語が吹替えだから表情だけの演技なんだけど、それだけでもいい。日本映画の明るい喜劇の役やマジメな暗い役のどちらとも違う存在感で、チェン・カイコーの演出を感じる部分です。
この仲麻呂と楊貴妃が向かい会うシーンを「シェイプ・オブ・ミラクル」が入らない、インストルメンタルだけの音楽で見たい、それだけのためにもインターナショナル版に通ってしまうのです。
さて、この記事のタイトルの白楽天の筆。ラスト近く、空海に、「長恨歌」は書き直さない、と言った白楽天が、空海に別れのポーズをしたあと、橋の上から川に何かを投げるのですが、今回、8回目にして、やっと、それが筆だとわかりました。
うーん、わかる人は1回目でわかるんだろうな。私は目が悪いのでわからなかったけど、何か細いものであることはわかったのだが、筆とは思いつかなかった。
今回、筆だ、とわかったのは、李白が楊貴妃の詩を詠んだあと、一語も書き直さない、と宣言して筆を酒の池に投げる、そこと対応していると気づいたからです(うーん、もっと早く気づくべきだった)。
李白が「書き直さない」と宣言したように、白楽天も「書き直さない」と宣言するわけです。
だから、ラストは心から安心して眠る白楽天なのだな。
一方、空海と丹龍の再会も、空海の決め台詞もあってすばらしい。
とりあえず、インターナショナル版が見られるチャンスがあれば、また何度も行ってしまいそうです。

2018年4月1日日曜日

ブルームーン

日付がかわってエイプリル・フールの日になってしまいましたが、3月31日は今年2回目のブルームーン(ひと月に2回満月があること)。この前は1月31日の皆既月食。次は東京五輪のあとらしい。
夕方6時半頃、上野から銀座線の稲荷町駅の方に向かって歩いていたとき、スカイツリーのすぐ横に満月があるのに気づきました。が、歩道からは撮れない。そこで青信号で横断歩道を渡りながら、一瞬立ち止まって撮り、すぐに向こう側へ行くというアクロバティックな撮影に。大きい通りではなく、車も少なかったからよかった。スカイツリーのすぐ横が満月で、他の丸い光は街灯などです。

こちらは8時半頃の満月。明るくて白い。

昼間は谷中で花の写真など撮っていました。




さて、なぜ銀座線の稲荷町駅の方へ行ったかというと、稲荷町駅のところにカフェ・ベローチェがあるからです。
2月から始まったふちねこキャンペーン、2月から3月までのドリンク3杯分のレシートでふちねこ1匹と交換というキャンペーン。3月31日までのレシートが対象なので、いよいよ最後のふちねこをもらいに行ったのです。
ベローチェの多くの店ではすでにふちねこは在庫がなくなり終了。在庫のある店の中で一番近いのがこの稲荷町店でした。しかも、手に入れるのは無理だろうと思っていた種類をゲットできました。これで今年のふちねこ集めは思い残すことなく終了。
しかし、今年のふちねこ、去年や2015年と違うな、と思ってよく見たら、以前の方が細かい毛並みがしっかり作られていたり、耳の毛もあったりして、細かいところがよくできていたのですが、今年のふちねこは毛並みがおおざっぱで耳の毛はなし。よく見るとメイド・イン・チャイナとなっていて、去年までとは作っているところが違うようです。会社名は同じだけど、中国で作るようになったのか? ただ、細かい細工がなくなったとはいえ、ふちねこ自体は以前と変わらずよくできています。