2018年8月31日金曜日

「ライ麦畑で出会ったら」&「運命は踊る」(ネタバレあり)

久々、試写に出かけ、「ライ麦畑で出会ったら」と「運命は踊る」を見る。どちらも重要なところまでネタバレするので、注意してください。

「ライ麦畑で出会ったら」の原題は「Coming Through the Rye」。言わずと知れたロバート・バーンズの有名な詩で、これに曲がついたのが日本では「故郷の空」という、全然違う内容の歌詞の歌になっているが、それよりも有名なのは、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のタイトル「The Catcher in the Rye」が、主人公のホールデン・コールフィールドが「Coming Through the Rye」をこう勘違いして覚えていたという設定になっていること。妹のフィービーに「お兄ちゃん、それはライ麦畑でめぐりあいっていうのよ」とかなんとか言われていた(はるか昔の記憶)。
というわけで、ホールデンが間違えた詩のタイトルをそのまま題にしたこの映画は、1969年、アメリカの高校生ジェイミーが「ライ麦畑でつかまえて」を舞台劇にしたいと思い、サリンジャーの許可を得るために彼を探す旅に出る話。
試写状もらったときは、今度はこれで来たか、と思いましたよ。
サリンジャーは映画が嫌いで、自作の映画化を絶対拒否していたので、「ライ麦畑」も映画化されてないし、できない。だからってわけじゃないけど、これをモチーフに取り入れた映画が時々出てきていた。で、今度は映画化じゃないけどサリンジャーを登場させるのか、演じるのはクリス・クーパーだ。まあ、サリンジャーという人自身には著作権ないしなあ、と、あまり期待しないで見に行った。
ところが、プレスを見てびっくり。監督のジェームズ・サドウィズは1969年、高校生のときに、本当に「ライ麦畑」の舞台劇化を考え、サリンジャーを探しあてて、会うことができたというのだ。
だから、映画はほとんど自分の体験をもとにしている。
主人公の名前ジェイミーもジェームズの愛称。ただし、ジェイミーというのは子供っぽいというか、女性の名前と見られるので、高校生にもなってジェイミーを名乗っている彼は女っぽいやつと見られ、いじめの対象にもなり、そんな鬱屈とした思いからホールデンに自分を投影することとなり、自分こそホールデンだ、と思って、サリンジャーを探しに行く。(ちなみに、スピルバーグの「太陽の帝国」では主人公の少年ジェイミーは途中でジムと呼び名が変わる。)
ジェイミーに同行するのは、高校の演劇で知り合った少女ディーディー。ホールデンの幼い妹フィービーが高校生になったような感じで、未来のミライならぬ未来のフィービーか。
2人がサリンジャーが住んでいるはずの地域へ行くと、そこの住民はみなサリンジャーなんて知らないと言う。だが、どうも、彼らは嘘をついてサリンジャーを守っているようなのだ。サリンジャーに会いに来る人たちを快く思っていないのである。このあたり、サリンジャーの人望なのか、地域の連帯なのかはわからないが、クリス・クーパーのサリンジャーは感じがよかった。
しかし、運よくサリンジャーに会えたジェイミーは舞台化の話をするが、サリンジャーは、才能があるなら自分の話を書け、と言い、許可はしてくれない。自分こそホールデンだと言うジェイミーに対し、きみは違う、と言う。
サリンジャーの言葉は、実際に監督が本人から聞いた言葉にもとづいているのだと思うが、いちいち納得できることばかりである。映画化や舞台化をしたら、ホールデンもフィービーも別人になってしまう、と彼は言う。作品も別物になる、と。それはまったくそのとおりで、舞台化や映画化をする人のバイアスがかかり、演じる俳優のイメージがついてしまう。私自身は映画と原作のケミストリーみたいなものが大好きなので、映画化大賛成なのだが、それでも、映画化によって原作と違うイメージが独り歩きするのをいくつも見ていると、考えてしまうところは多い。その最たるものがボリス・カーロフの「フランケンシュタイン」であり、オードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」だ。カーロフの「フランケンシュタイン」は映画としてはすぐれており、原作のエッセンスを失っていないが、「ティファニーで朝食」は原作者カポーティに徹底的に批判され、実際、原作とはテーマから何から別物になってしまっているのだが、映画自体は原作から離れて愛されてしまっている(実は私も映画は映画で、好きだったりするのだ)。
E・M・フォースターも映画が嫌いで、映画化を拒否し続けていたが、「インドへの道」を映画化したいデイヴィッド・リーンのアプローチがあり、死の直前には軟化していたとのことで、死後にリーンが映画化、その後、アイヴォリーなどによって次々と映画化がされた。ただ、フォースターはサリンジャーとは違って、舞台化は許可していたので、拒否の理由はサリンジャーとは異なっていただろうと思う(ハリウッドを信用してなかったらしい)。
というわけで、自分の作ったものに他の人のバイアスがかかるのを拒否したサリンジャー、というのがよく伝わってくる映画であり、自分自身の物語を語るべきという創作者のあるべき姿に主人公が気づく物語になっている。その過程で、ベトナム戦争へ行った兄のこと、大学へ行けるかどうかが戦争に行くかどうかの分かれ道だった当時のアメリカ、そのことがトラウマになっているジェイミーといった、時代を浮き彫りにするドラマが登場する。ホールデンが自分を語ったように、あなたも自分を、兄のことを語りなさい、とディーディーが諭すシーンがよい。
結末近くで誰でも知っている邦題「故郷の空」のメロディーが流れる。「故郷の空」は秋の空だと思うが、映画は紅葉の季節を背景にしている。ライ麦は春に収穫するからライ麦畑は出てこない。実際に監督がサリンジャーに会ったのは10月だそうだ。10月では紅葉が美しすぎるので時期をずらした、とプレスに書いてあったが、色の薄くなった紅葉の風景が映画の雰囲気によく合っている。サリンジャーに会った高校生、という特権的な経験がなければできない作品だけれど、この日までよく待ったなあとも思う。

「運命は踊る」はイスラエル映画で、ヴェネチア映画祭銀獅子賞受賞。
イスラエルの裕福な夫婦のもとに、兵役中の息子が戦死したという知らせが来る。失神する妻と、何も言えない夫。だが、戦死が誤報とわかり、妻は喜ぶが、夫は怒り狂い、すぐに息子を呼び戻せと強く訴える。このシークエンスでは音が強調されていて、音が不安をかきたてるようになっているが、その後のシークエンスではそういう音響効果はなくなる。
息子はラクダが通るのんびりとした検問所にいる。通る車の乗客を調べるが、まったく問題なし。それでもテロリストが通るかもしれないという緊張感はある。その緊張感は兵士よりはむしろ調べられる人々の表情に現れている。
兵士たちがすごすコンテナは沼に沈みかかって傾いている。沼を写す美しい映像とマーラーの音楽。
そして、誤解から、息子は車の中の無実の男女を殺害してしまう。
上官は事件をなかったことにするため、車ごと土の中に埋めてしまう。息子はそのあと、両親のもとに急遽、帰ることになる。ノートに父親と祖母の話を絵に描く息子。父は祖母のだいじな聖書を売ってしまった過去があり、それが最初の部分での父と祖母のやりとりを思い起こさせる。
原題のフォックストロットというのは踊りの一種で、ステップを踏みながら同じところをぐるぐる回るものだそうだ。この映画も元に戻るような仕組みがあちこちに仕掛けられている。
場面かわって、最初の夫婦に戻る。が、夫婦は別居していて、妻は夫を許せないでいる。理由は、夫が息子を兵役から呼び戻したために息子が死んでしまったからだが、死の原因はラストまで伏せられている。
妻と、訪ねてきた夫との間の会話の中で、従軍時代の夫がまったくの偶然から他の人を地雷で死なせてしまったことが語られる。夫にはまったく責任はないのだが、夫は罪の意識を感じている。
部屋には息子が絵を描いていたノートがあり、最後に描かれた絵が飾ってある。大きなレッカー車が乗用車を持ち上げている絵で、妻は車が自分で夫がレッカー車だと言い、夫は逆に自分の方が車だと言う。しかし、観客はわかっている、この絵が、息子が実際に見た光景だということを。息子の罪の証拠隠滅であることを。しかし、父と母は知らない。
ラストは最初のシーンの繰り返しである。そのあと、息子の死の原因がわかる。
非常に巧妙で、一筋縄ではいかない、簡単には説明できない映画だが、戦争をしていて、兵役がある国の異常な状態を表しているのは確かだ。沼に沈む斜めになったコンテナもそれを表しているようだ。イスラエルの右派の政治家たちがこの映画を国にとって有害だとし、国の助成金を出すべきではなかったとか言っているらしい。「万引き家族」の是枝監督も同じことを言われていた。日本は北朝鮮に似てきたと言われているが、イスラエルにも似てきたのだろうか。

2018年8月27日月曜日

世論調査のことなど(追記あり)

今年に入ってから時々、午後5時から6時の間に自宅の電話に着信がある。
どうやら世論調査のようだ。
世論調査はランダムに番号を並べて電話して調査するんだそうで、電話する時間はだいたい午後5時から6時だとか聞いた。
最初はただ、着信記録があるだけだったが、やがて、留守電に世論調査らしい自動のメッセージが入るようになった。
留守電であることを告げるメッセージの最中から向こうの自動のメッセージが始まるので、向こうのメッセージは途中からになる。まあ、すぐ消去しますけど。
世論調査は午後5時から6時だから、この時間帯に自宅にいる人しか答えられないので、信用できない、という意見があって、そのとおりだと思う。
自動のメッセージだと、何番を押してください、となるので、面倒だから電話を切る、というような会話をスーパーで聞いた。
人が対応する場合も家族構成を聞き、この条件にあう人を出せと言うらしい。それが面倒で切る人もいるようだ。
一度ランダムにこっちの番号を決めてしまわれると何度もかかってくるわけで、番号を新たに決めるまで今後も何度もかかってくるのだろう。これって、迷惑電話にならないの?
とにかく世論調査の電話は面倒で、それが来たときに電話に出られて、しかも面倒なことにつきあえる人だけが答える結果が世論調査なんだと思うと、やっぱり信用できないなと思う。
携帯に来るようになったら本当に面倒だけど、着信拒否とかできるのだろうか?
(追記 その後調べた結果、うちに来ているのは詐欺電話で、世論調査ではなさそうだ。というのも、世論調査の電話は1日に何度も来たり、数日続けてきたりするらしいが、うちは一度来るとしばらく来ない。この種の世論調査やアンケートを装った詐欺電話が増えているらしいこと、自動音声はほぼ詐欺電話らしいこともわかった。)

昨日はどこも猛暑で、東京(大手町)は最高気温が36度だったが、気象庁のサイトを見ると、大手町周辺の他の地域は軒並み37度前後であることがわかった。
以前から東京(大手町)の気温は低く出る傾向にあると思ったが、やはりである。
夜中に1時間ほど寝たのだけど、暑さで目が覚めてしまい、こんな時間に一杯やりながらブログを書いている。

2018年8月26日日曜日

この本、面白いのですか?

エアコンのない部屋に住んでいるので、真夏は図書館で本を借りて(たまには買って)涼しいカフェなどで夜遅くまで読書、というのがだいぶ前からの習慣で、真夏は読書がはかどる季節。
文京区に住んでいたときは図書館の数が少ないかわりに1館あたりの蔵書が多かったので、気になるジャンルの棚を見て適当に選んで借りていたが、郊外のとある町に引っ越したら、蔵書の少ない分館が合計20カ所以上あるという状態で、現場で選ぶには選択肢が少なすぎる。そこで最近はネットで気になる本が出てくるとすぐに市立図書館と県立図書館のHPで検索。あれば予約して近くの分館で受け取る(県立図書館は県全体に3館あり、うち1館が徒歩圏という便利さ)。
以前と明らかに変わったのは、読む本のジャンルが広がったこと。以前は興味のあるジャンルの棚ばかり見ていたけれど、今はジャンルに関係なく気になる本は検索予約。人気のある本以外はすぐに読める(山の遭難についての本を1か月前に予約したのだけど、まだ1人しか順番が進んでいない。これは半年くらいかかるかも)。

というわけで、昨日借りてきて読み始めた本。
「理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ」
https://www.amazon.co.jp/%E7%90%86%E4%B8%8D%E5%B0%BD%E3%81%AA%E9%80%B2%E5%8C%96-%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%81%A8%E9%81%8B%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A0-%E5%90%89%E5%B7%9D-%E6%B5%A9%E6%BA%80/dp/4255008035/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1535249562&sr=1-3&keywords=%E7%90%86%E4%B8%8D%E5%B0%BD%E3%81%AA%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90
同じ著者の新刊が出たせいか、アマゾンでは人気がある模様。

昨日、サイゼリヤでご飯食べながら半分ほど読んだのですが、

これって、面白いのですか?

アマゾンを見ると、大変評判のよい本のようですが、レビューは賛否両論。☆1つか2つを見て、やっぱりそうだよね、と思いましたが、特徴的なのは☆3つでも辛口レビューなこと。普通、☆3つだと賛辞に変わるものなのですが、3つでも1つや2つとあまり変わらない印象。
進化論に詳しい人ほどきびしい、というのはわかります。確かに進化論について知りたいなら、専門家の書いたものを読んだ方がいいでしょう。

では、なぜ、自分はこれを読もうと思ったのか。
進化論について知りたかったのではなく、進化論がなぜ受けてるかを知りたかったから、なのです。
適者生存というのは、適者(強者や優れた者)が生存するのではなく、生存したものを適者と考えるという結果論だということ。これはまあ、ほんとにそうだよね、と思います。
なのに人間は適者だから生存できたと考えたがり、だから、環境の変化に応じて変化する能力が求められる、とか、だめなのは自己責任、とか言いたがる、と。
ここに興味があったし、実際、そういう論だということをネットで読んで、読む気になったのです。
今、日本にはびこる自己責任論、弱者は自己責任だから助ける必要なしという風潮が間違っている、という話かと思いました。
が、実際はそうではなく、著者が長年読み漁ってきた進化論のお話をだらだらと、同じことを何度も書きながら続けている感じ。しかも書き方が、「~であろうか(いや、ない)」みたいな低レベルの日本語満載で、日本語力のない読者を想定しているのかと思えば、もっとすっきり書けよと思うような部分もあり、自分の好きなことをだらだら書いたら本にしてくれて、出したら大評判、というケースかな、と思ってしまう。
もちろん、上に書いた適者生存の論理のように、役に立つ部分もあるんだが、要約したら数行ですんでしまいそう。
進化論を自己責任に転嫁する社会については、これは社会学の本ではないので、軽く触れる程度で終わり。
恐竜が滅びたのは天体衝突後に地球環境が大きく変わり、それまで適者だった恐竜が適者でなくなったから、かわりに適者でなかったものが適者になり、生き残った、というのも、それはそうだよね、という思う程度。
唯一、なるほど、と感心したのは、人間は進化を進歩と考えたがっているため、進化は常によい方に行くと信じている、みたいなところか。実際はランダムで偶然に支配されているのだが、よい方に向かうというストーリーを信じたいわけで、文学なんかまさにそこから生まれている。そこに進化論の用語が利用されちゃって、人生訓にまでなっているということ。
確かに今の自分のアンテナにひっかかってくるのはここだと思う。
実は私も進化は進歩だと信じてきた。世の中はこれからもっとよくなると思って生きてきた。しかし、どうだ、今の日本。進歩どころか戦前戦中みたいになっている。日本は歴史的に退化しているわけだ。
進歩を信じるということは、能力や努力を信じるということでもあり、運でさえも努力で変えられると思うことだ。運やコネは努力で手に入れられる、みたいな言説が確かにある。
しかし、年をとるにつれて、だんだんそういうことが信じられなくなった。
特に、若い頃は将来の職業としてリアルだったものが、その後、職業として成立しづらくなる、という現象をいくつも目にすると、天体の衝突で地球の環境が大幅に変化、に通ずるものを感じてしまう。
先だって書いた「通訳翻訳ジャーナル」についてのこともそうだけど、翻訳というのは昔はやりたがる人は少なく、仕事はそこそこあった。その後、翻訳家養成ビジネスが成功し、翻訳をしたい人が増え、逆に不況で仕事は減った。翻訳家養成ビジネスが成立するために翻訳が必要、みたいな状況が20年くらい前からすでに起きている。翻訳家を多数必要としているから翻訳家養成ビジネスがあるのではなく、養成ビジネスのために翻訳があるみたいな状況。
翻訳業界がこんなふうに変化するなんて、30代までの私には想像できなかった。
大学教員の世界も私が研究者をめざしていた頃には考えられないような変化が起きたが、話すと長くなるので割愛。
そうした変化に適応して生き残っている人が適者(強者、優れた者)となるのだろう。
優秀だけど認められない症候群みたいな考え方がある一方で、単純に生き残った人が優秀なんだという考え方も強い。つか、後者ははっきりとは言わないが、脱落した人は才能がなかったのであり、生き残った人が優秀、という暗黙の了解はあちこちにある。
しかし、実際は、「理不尽な進化」が語るように、運や偶然、環境の変化によるものが大きいと思う。ただ、これを言ってしまうと努力しなくなり、努力で得られるものもある以上、人間の生き方にとっては悪影響があるのだと思う。

と、このあたりの興味で借りた本なわけだが、実際にはこの本は進化論を長年勉強してきた人の雑談みたいなものだから、それを上のような社会学に発展させることはまったくない。
前半と後半はまったく違う、というレビューもあるから、後半に期待しよう(いや、あまり期待しない方がよさそう)。

追記
最後まで読みました。科学書もどきかと思ったら、科学をネタにした哲学書もどきだった。一番嫌いなタイプ。でも、人気があるジャンルのようだ。今までこういうジャンルの棚の前に行かなかったから無事だったのだな。

2018年8月25日土曜日

「カメラを止めるな!」そのカメラを持つのは誰?(ネタバレ大あり)

制作費300万円で興収10億円に迫ろうかという話題作「カメラを止めるな!」が金曜日からようやく行きつけのシネコンで始まったので、遅ればせながら見てきた。
極力内容を知らないようにしていたのだけれど、ここに来て盗作というかパクリ疑惑が浮上し、それで、ネタバレに相当する最初の30分余りとその後の二重構造があることはわかってしまった。
でも、それがわかっても十分面白い。
それよりなにより残念なのはパクリ疑惑で、監督は当初から「Ghost in the Box」という舞台劇からヒントを得たこと、一時、その劇の映画化の話を進めていたが、とん挫し、細かい部分を変えて「カメラ」を作ったことは明かしていた。そして、劇の作者も自分の劇がこんな面白い映画になったと喜び、互いにエールを送り合っていたようだ。
ところが、劇の作者がクレジットに劇のことを原作として入れてほしいと言いだしてからおかしくなったようで、一応、クレジットには原案として「Ghost」の名や劇団名などが出ているが、どうも監督よりも上の人たちが映画をオリジナルで売りたいのか、原作と認めないとか、金は払うから劇の上演は永遠にするなとか言いだした、というような話をネットで読んだ。劇の作者は怒って、訴訟も辞さないと言いだしているらしい。
しかし、この劇は実はDVD化されているほど評判がよく、見た人もかなりいるらしい。DVDがあるから映画との比較も可能なわけで、今後どうなるかわからないが、肝心の二重構造の部分が劇からとられているので、その金づるの部分を自分たちだけのものにしたいみたいな、若者たちが安いギャラで一生懸命作った映画なのに大人が欲をかいているような気がしてならないのだが、はたして?

さて、映画だけれど、最初の30分余りは安っぽいゾンビドラマ。手ブレするカメラ、画質の悪い映像と、いかにも超低予算映画。ゾンビ映画を作っていると、本物のゾンビが現れ、スタッフやキャストが次々と襲われてゾンビ化していくのだが、そこで浮かんだ疑問。
1 カメラは誰が持っているの?
2 監督はなぜ襲われないの?

監督はカメラを持っているけれど、実際に映しているのは別のカメラなのは明らかで、途中でカメラに血糊がつくと、それを拭うのが見える。その後、突然カメラは地面に置かれ、しばらく動かないが、また誰かがカメラを持って逃げる人物のあとを追い始める。ゾンビに追われる人物を後ろから撮りながら、時々、振り向いて追いかけるゾンビを撮る。カメラを持つ人が自己顕示しているような映像。これはカメラが地面に置かれる前とは違う。
そして、外に出たがる男は、たぶんトイレに行きたいのだろうと思ったら、本当にそうだった。
私は二重構造があるというおおまかなことしか知らなかったのだが、それでもこれは変だよね、というところがその時点でけっこうわかったのである。後半、これがどう説明されるのか、と思ったが、後半に入ると突然、映像の質が上がる。300万円の超低予算映画っぽくなくなる。カメラも落ち着いている。
この映画は三部構成で、最初が安っぽいゾンビドラマ、次がそのゾンビドラマを生中継ワンカットで作ろうという企画が持ち上がり、スタッフキャストが集められて、という内容、そして最後が実際の撮影風景で、次から次へと予想外のことが起き、この部分がもう大爆笑。近頃こんなに笑った映画はなかった。
確かに二重構造はこの映画の肝ではあるけれど、そして、それが原案の劇から頂いたものだとしても、この映画の面白さは二重構造をもとに作り上げられた部分にある。
たとえば、上にあげた、カメラは誰が持っているのか、みたいな部分は演劇では絶対にできないし、そうした映画らしさがふんだんにある映画で、監督のセンスや才能を感じさせる。
また、この映画は近頃あまり見なくなったスラップスティック・コメディなのだが、スラップスティックの笑いが炸裂している。このスラップスティックの演出もみごとで、もとの舞台もそういう面があったのかもしれないが、映画ならではのスラップスティックになっていると思う。
そして、後半は、実は、映画に魅せられた父と母と娘の家族の物語になっている。「万引き家族」がヒットしたように、この映画にも「家族」という受ける要素が上手に取り入れられている。ラスト、父と娘の絆を見せる写真の使い方も、演劇では絶対にできない。
そんなわけで、二重構造が演劇からの借り物だとしても、映画として十分に優れているのだから、元の舞台の作者にはきちんと仁義をつくした上で、映画の独自性を誇ればよいのではないかと思う。
また、安いギャラで参加しただろうスタッフ、キャストにも儲けを分けてあげてほしいと思うが、この映画はキャストが無名の俳優ばかりなのがとても新鮮だ。顔を知られたスターたちではこうはいかない。主役クラスの俳優たちはみな演技もうまく、無名でも実力のある役者はたくさんいるのだということを思い知る。特に監督と女優の夫婦を演じた2人は風貌といい演技といい、実にいい味を出している。この映画がきっかけでブレイクするのが監督だけであってほしくないし、舞台の「Ghost」の方も見たくなる。

2018年8月23日木曜日

「お花畑」の翻訳雑誌

非現実的な夢ばかり見ているような状態をネットでは「お花畑」とか「お花畑脳」とか言って揶揄するのだが、正直、「通訳翻訳ジャーナル」がここまで「お花畑」の雑誌とは思わなかった。(「お花畑」という言葉について、一番下に追記しました。)
もともとこの雑誌は、存在は知っていたけど私には関係ない雑誌、と思って、書店で見ることもなかったのだが、最新号の表紙に「会社を辞めて翻訳者になろうー産業翻訳編」とかいう特集タイトルがあると知り、なんじゃこのタイトル、と思ったので、特集の中身を見に行った。
立ち読みしたら、何のことはない、会社に勤めながら翻訳家をめざし、脱サラしてフリーランスになろう、という特集で、その内容はこれまでさまざまな翻訳雑誌やムックなどで書かれていたことの焼き直し。手垢がついた、という形容詞がぴったりな内容。しかも、十年一日という言葉がぴったりの、翻訳業界の変化をまったく無視した古い一般論。写真つきで体験談を語る産業翻訳家の多くが1970年代生まれで、おそらく2000年代前半くらいまでに翻訳家になった人たち。
確かに2000年代前半くらいまでは、産業翻訳なら仕事がある、翻訳家になれる、みたいな空気はまだ十分にあった。
出版翻訳、特に文芸翻訳が1990年代後半に氷河期に入り、翻訳家は増えるが不況で仕事は激減という時代で、当時、翻訳雑誌も出版から産業にシフトし、現実的な内容になっていたように記憶する。
それが今、こんな「お花畑」の雑誌が平然と、高い値段で売られているのを見ると、この業界、完全に「お花畑」化したのか?と思ってしまう。
「通訳翻訳ジャーナル」は前の号でも脱サラを売りにしていたようだし、次号では「会社を辞めて翻訳者になろうー出版映像編」という特集をするそうだ。特集以外でも、今号ではSF翻訳家になるための手引きみたいなのがあって、SF翻訳って、90年代からどんどん売れないジャンルになっているのに、なにこれ?と思うしかなかった。
このコーナーはミステリーや児童文学をすでにやっているようで、文芸翻訳のお花畑の夢をまた売るようになったのだな、と思う。
もともと80年代に翻訳学校ビジネスが盛んになったとき、この種の夢を売って生徒を集めていて、90年代末には翻訳そのものよりも翻訳学校ビジネスの方が儲かっていると、ある編集者が言っていた。それがさすがに現実に合わなくなって産業にシフトしたのかと思ったら、また「お花畑」路線に戻っているとは。
まあ、わかってる人はわかってるはずなので、見果てぬ夢を売る雑誌に徹しているのかもしれないし、雑誌の出版費用の多くは翻訳学校の広告費でまかなっているのだろうということは誌面を見ればわかる。
今、翻訳家で表に出てきているような人はなんらかの形で翻訳学校にかかわっている人が多いと思うので、「お花畑」だなあ、こういうの信じちゃう人が出ると困るなあ、と思ってもなかなか言えないだろう。
実際、信じちゃう人はそれほどいないだろうけれど、「会社を辞めて翻訳者になろう」という特集タイトルがそういう人を釣ろうとしているんだろうなあと思う。そして、特集の中身が十年一日で現実に合っていない、なんてことには気づかず、夢を追って、この種の雑誌も含む翻訳家養成ビジネスにお金を落としてくれればよいわけだろう。
私自身は2000年代後半に産業翻訳をやろうとしたときに、産業翻訳も安泰なわけではないと気づいた。産業翻訳は単価が高いことが魅力だったのに、その後、どんどん単価が下がっていった。クライアントが翻訳にあまりお金を出したがらないのでそうなるのだが、結果、高い単価で請けていた実力のある翻訳家よりも、安い速いまずい翻訳家に仕事がまわるようになったとも聞く。それでは通らない業界だけがまともな翻訳にまともなお金を出しているが、実際は下手でも安ければいいクライアントが多いようだ。
だから、あなたのもとに誰かほかの人がやったひどい翻訳が参考としてまわってきても、それは単価が安いので値段に応じた訳文を作ったのかもしれないのだ(安いまずいの翻訳家に頼んだ可能性もある)。
「どんなに安くても引き受けた以上、クオリティの高い翻訳をします」という考えは、翻訳の単価をどんどん下げ、結果、翻訳全体の質を悪化させる。
オリンピックでは通訳はボランティアだって? 論外!
まあ、現実にはひどい翻訳でも困らない人も多いわけなんだけど。
オリンピックのボラが素人のタダ働きの奴隷ばっかりで、あちこちで問題が起きて、ボラは熱中症で次々倒れても、それでかまわない人が多いのだろうと予想(つか、大手マスコミは五輪の利権につかってるから報道もしないだろう)。

追記
この記事では「お花畑」という言葉は非現実的な夢を売ろうとする翻訳雑誌を揶揄する意味で使っていますが、実際にはネットでは、上のような記事に対し、「翻訳家養成ビジネスだって稼がないといけないんだよ。ワナビに夢を売ってどこが悪い。批判するお前の方が「お花畑」」というような使われ方をするようです。つまり、理想を言ったり正論を吐いたりするのが「お花畑」らしいので、追記しておきます。

2018年8月22日水曜日

イケアが嫌いになった日

実はイケアは好きでした。
ショールームをまわるのも好きだし、レストランも好きだし、大きな物は持ち帰れないのであきらめても小物は時々買っていました。
が、先日、ある出来事で、イケアは信用できない、人をだます企業だ、と思うようになりました。
もうイケアはたぶん、行かない、たまにのぞいても何も買わないと思います。
で、イケアに関する苦情をネットで検索したら、あるわ、あるわ。
うーん、私なんかとは比べ物にならない被害。しかも、苦情言ってもあきれる反応ばかり返ってくるらしい。
これ読んだだけで、イケアで買い物はやめるべき、と思いました。
私の場合は小物ばかりなので、今のところ失敗はないですが、今回、イケアは人をだます企業だとまで思ったのは、レストランでの出来事です。
イケアはレストランのメニューや一部商品をメンバー価格と一般価格の二重価格に設定していることは知ってました。
ドリンクバーがメンバーは平日60円、一般は120円とか。
メンバーにはその場でなれるのですが、私はドリンクバーが120円でもOKだったので、メンバーにはなっていません。
以前はレストランの他のメニューでメンバー価格と一般価格に設定されているものは少なく、また、二重価格がわかるようにされていたので、トラブルもありませんでした。
が、先日、イケアでビールでも飲もうと思い、ビールと一緒にチキンを買ったところ、売り場の表示は389円だったのに、レジでは469円になっていました。
値段が違う、と言うと、389円はメンバー価格で、その値段の下に小さな字で一般の価格が書いてある、こっちへ来てよく見ろ、というので、行ってみると、近視の私が目を凝らしてかろうじて見られる小さな文字で469円と書いてあったのです。
「目が悪くて見えない」と言うと、スタッフは「すみません。どうしますか?」というので、返品返金してもらいました。
オレンジ色で書かれているのがメンバー価格だというので、売り場を見ると、メニューの多くがメンバー価格で、その下にやっと読めるくらいの小さな字で一般価格が書いてある。以前は一般価格とメンバー価格がほとんど同じ大きさで書いてあったドリンクバーも、60円とでかでかと書かれ、その下に小さく120円と書いてある。
ああ、これは確信犯だな、と思いました。
二重価格であることを知らせない、一般価格を非常に小さい文字で表示、レジではメンバーカードの有無を聞かないから、たとえメンバーでも気づかずに一般価格を払っている可能性もある。
商品が欠陥品だとか、それに対する対応が悪い、とかいうレベルではないです、これは。
客をだまそうとしているわけで、消費者センターから指導してほしいレベル。
少なくとも以前はこうではなかったわけですから、こういうやり方で稼ごうとイケアが考えたとしか思えないわけです。
ミスは誰でもあるし、まずい対応もある、でも、客をだますようなことを平気でする企業は信用できません。
チキンは返金してもらえましたが、ビールは問題ないので返金してもらうわけにもいかず、腹を立てながら飲むビールがうまいわけもなく、心底、イケアが嫌いになったのでした。

追記
イケアについてのトラブルの数々をネットで知りましたが、その中で、イケアのレストランのチキンはまずい、というのがありました。実際、出てきたのを見たとき、まずそうだな、でも400円弱だからしかたないのだろうな、と思いましたが、ああいうやり方で500円近くとっていたのか、と思うと絶句してしまいます。夜の上野動物園の骨付きタンドリーチキンは600円でしたが、600円出す価値のあるおいしいものでした。もともとイケアのレストランは、まずい、高い、と思っていて、ただ、広い店内でゆっくりできるし、一部には好きなものもあったので、利用していましたが、最近は冷たい水も飲めないのにびっくり。1階のビストロは安くておいしいので、今後はここだけ利用することになるでしょう。イケアのせこくて複雑すぎる節税対策についての記事もあり、へえほおと思ってしまいました。

2018年8月18日土曜日

真夏の夜の上野動物園3:アイアイの森と小獣館

真夏の夜の上野動物園、結局、4回行ってしまったのですが、3回目は入場締め切りの7時ぎりぎりに到着。表門。木々の間に細い三日月。

西園のアイアイの森へ。ここにはマダガスカルの動物が集められています。

真ん中の白と黒の丸いものがオナガザルの一種。昼間はよく動いている。

人気のアイアイは夜行性なので、夜の時間に室内を明るくする今の時期でないとなかなかよく見られない。ガラスの前はすごい人だかりで、写真を撮る人数人が目の前を占拠していて、よく見えない。これは何か食べているところ。

やっと顔が見えた。

弁天門近くの飛べないオオワシ。前回よりよく撮れた。

4回目は16日の最終日。リーリーのお誕生日なのでどうしてもリーリーに会いたくて、母子が終了した6時頃に行ったのだけど、この時点でこの行列。この日はリーリーの待ち時間はずっと1時間くらいで、並ぶ締切も早まったため、結局リーリーには会えず(どうせまた寝てるでしょうけど)。

トラはよく動くのでぼけてしまう。

じっとこちらを見るライオン。

西園へ移動し、ビヤガーデンでビールとタイ風唐揚げで夕涼みしたあと、この前も行った夜行性動物のいる小獣館へ。

よく動く方のマヌルネコ。


動かない方のマヌルネコ。

コウモリも寝ている。

メガネザルの一種。このあと、上の方の寝床へ姿を消した。

小獣館の外では、歩き回っていたタテガミオオカミが明るい室内へ。
閉園時間8時となり、今年の真夏の夜の動物園はおしまい。

行ってわかったこと。
初日に行くべき。
初日は金曜で、まだコンサートなどのイベントがなかったので、ビヤガーデンもすいていた。
しかし、翌土曜日からはお盆休みで混みだし、ビヤガーデンも席がとれない状態。ようやくとれるようになる頃には売店が閉まっていて、ビールが買えない(外から持参がベストかも)。
真夏の夜の動物園限定の骨付きタンドリーチキンも初日は余裕だったけれど、その後はどんどん売り切れてしまった模様。初日以外は売店が閉まるのが早く、7時すぎには閉めてしまう。ビヤガーデン、混んでるけど、売店が閉まると人もいなくなるので、ビヤガーデンも片付けが始まり、8時までのんびりできたのは初日だけだった。
もっとも、夜行性動物のいる室内は7時から明るくして、昼間の彼らを見られるので、7時台はこれらの動物を見るのに集中した方がよいかも。
パンダは来年はもうシャンシャンがいないので、今年とは違う公開になると思う。

2018年8月16日木曜日

松戸市立博物館

松戸市立博物館へ行ってきました。
入場料300円。
写真撮影OK、フラッシュも一部を除きOKでしたが、フラッシュは使わず撮影。なので、ややボケた写真になっています。
入るとすぐに旧石器時代の出土品や歴史資料、ミニチュアによる再現などで松戸市の歴史が紹介されています。



と、ここまではよくある博物館なのですが、ここの目玉は昭和35年に入居が始まった常盤平団地の実物大模型、だと最近知って、見に来たのでした。
19世紀以降の歴史紹介コーナーの最後に常盤平団地が登場。当時の建設の様子のビデオが映し出されています。

実物大っていったって、部屋を再現しているだけだろう、と思っていたら、なんと、2階まで再現している。見学できるのは1階のみ。

階段の両側に部屋があるタイプ。4年後に入居が始まった豊四季団地(のちに豊四季台団地に改名)に住んでいたので、この形式はなじみのあるものです。5段上がって1階、7段上がって踊り場、7段上がって2階、となります。

入口のドア。表札の隣の小窓は豊四季団地にはなかった。

ドアののぞき穴。なつかしい。

玄関の靴入れ。こことかキッチンの戸棚とか、閉まっているのを開けて中を見ることができますが、監視カメラがあるので動かしたり盗んだりしないように(私はいっさい触ってません)。
下駄があるけど、うちは下駄は置いてなかったなあ。

木製の風呂桶。これもなつかしい。トイレは洋式の水洗です。

2DKの南側の6畳間をリビングにしている。なつかしの黒電話。奥にステレオ。
しかし、ここをリビングにしてしまうと狭すぎると思うのだが。

白黒テレビ。明星ラーメン30円のCM。書棚にはハヤカワポケットミステリが。
ポケットミステリは現在までずっと健在なので、なくなってしまったSFのポケット版を置いてほしかった(もっとも、古本は相当高い値段になってしまいそう)。

テレビでは当時のニュースやCMを流しています。バヤリースのなつかしいCM。

ステレオの下にあるのは録音テープか? その隣は録音機? この部屋の住人はかなり裕福という設定のようで、1960年代初めで家電製品をかなりたくさん持っている。うちは1964年に団地に入居したときは家電はテレビとラジオしかなく、その後、しだいに冷蔵庫、洗濯機、電話、ステレオなどが増えていった感じ。当時は団地(公団住宅)でも電話がある家は少なかった。ましてや録音機なんて、ラジカセが出るまで私は知らなかったぞ。
公団住宅は収入が一定以上ないと入れないので、中流の人たちばかりだったが、公団についての本に書かれているようなお金持ちの住むところという感じでもなかったように思うのだが。

北側の4畳半。ベビーベッドがあるので赤ちゃんのいる若い夫婦が住んでいるという設定か。しかし、この部屋に3人寝るのって無理っぽくないか?
ちなみにうちは3Kで、ダイニングがなかったので、6畳間にちゃぶ台置いて食事してました。
電気掃除機と扇風機があるけど、6畳間にはスイカがあったので、夏という設定なのでしょう。ということは、季節により展示を変えるのか?

ミシンはリッカー。

ベランダから見たダイニングキッチン。左に冷蔵庫、右奥に電気釜とジューサー。家電がひととおりそろってますが、トースターが見当たらなかった気が?
DKに洗面台があるのがこの時期の団地の仕様のようです。うちの団地では浴室の前に洗濯機置き場があり、そこに洗面台があって、そこから洗濯機の水を入れてました。

上の棚も下の棚も開けると物が入っている。カレンダーは1962年のもの。

下の戸棚の中。

ガス台の下の戸棚。デパートの包み紙を敷いているのがリアルすぎ。
団地よりも置いてある小道具に感激してしまう。

ベランダの洗濯機。脱水機がなくて手でまわして絞るやつですね。
うちが買った洗濯機はすでに脱水機つきの二槽式でした。洗濯機置き場も室内だったし、数年での進化を感じます。

この展示模型ではベランダからこちらに降りてこられるようになってます。南側は3階の下の部分まで造られている。
2階のベランダにビールケースがあったりと、芸が細かい。

もう一度、北側へ。

バイクはスズキ。

こんなものまでリアルに作り込まれている。

博物館の外に竪穴式住居の復刻版が。時間によっては中にも入れるそう。

2018年8月13日月曜日

「寝ても覚めても」映画と原作(ネタバレあり)

以前試写で見せてもらった映画「寝ても覚めても」(濱口竜介・監督)の原作(柴崎友香・著)を読んだ。
映画は原作とは全然ちがうやん、と思ったので、メモ的に書く。

原作は主人公・朝子の一人称だが、映画は三人称的にしか描けないので、そこで当然、差が出るのだが、それにしても、映画は原作をわかりやすくしすぎてないか?

つか、原作はジコチュー女の一人語りなんだが、映画では彼女の行動がしごく常識的な描写に変えられている。映画は原作を平凡な話に作り変えているのだ。

たとえば、朝子の恋人・麦はパンを買いに行くと言って出かけ、なかなか戻ってこないが、原作だと戻ってくるのは3時間後。映画だと前の晩に出かけて朝になっても戻ってこない(その後、戻ってくる)。
3時間くらいだったら、まあ、あるといえばあるよね。
子供じゃないし、このくらいだったら心配はしない。が、恋人を思う朝子からしたら、というのはある。が、映画だと翌朝になっても帰ってこないのだから、これは普通じゃない。
その後、映画では麦は、靴を買いに行くと言って出かけ、その後まったく帰ってこなくなるのだが、原作では海外へ行くと言って出かけ、その後、音信不通になる。これも原作の方はそんなに変じゃないが、映画だとやはり麦が変ということになる。

つまり、原作では変なのは朝子の方なのだが、映画では麦の方になっている。
その後、東京へ移住した朝子は麦にそっくりな男・亮平に出会い、恋人同士になる。ここは映画も原作も同じ。
しかし、映画では亮平は麦にそっくりであることは周囲も認めているが、原作ではそっくりだと思っているのは朝子だけで、周囲は、同じ系統というか、同じタイプぐらいにしか思っていない。
映画では朝子は亮平と同居し、事実婚状態になり、亮平の大阪転勤を機に婚約、新居も決めるが、そのとき、突然、麦が現れる。駆け落ちしようと迫る麦に、最初は抵抗した朝子だが、ついに麦と駆け落ちしてしまう。
しかし、原作では、朝子は突然、麦が現れた瞬間に駆け落ちしてしまう。
映画では亮平の絶望がリアルに描かれるが、原作では朝子の一人称なのでそういうところはあまり描かれない。
この駆け落ちのあたりの描写も、原作ではおかしいのは朝子、映画ではおかしいのは麦の方で、映画の麦はホラー映画みたいな雰囲気で、朝子は最初はおびえるが、原作ではいきなり麦が現れて即、駆け落ち。おかしいのはどう見たって朝子。ただ、その前から朝子のおかしな感じはあるので、唐突ではまったくない。

もっとも、映画でも、麦は実は存在しない、朝子の妄想では、と感じさせるところもある。
幻想から目覚めた朝子が亮平のもとに戻ろうとする最後のシークエンスも、リアルを生きようとする2人の姿が、泥水の川を亮平は汚いと言い、朝子はきれいだと言うあたりに、夢と現実をともに生きる2人の気持ちを感じさせる。このラストはとても好きだ。

しかし、原作はあくまで朝子の一人称なので、朝子のゆがんだ視点で語られているから、映画のような清々しい結末ではない。
原作では麦と亮平は似ているがそっくりではないという設定で、朝子だけがそっくりだと思っている、2人で1人だと思っている。が、駆け落ちした朝子は友人から携帯に送られた昔の麦の写真を見て、麦が亮平に似ていないことに気づく。2人は別人だ、とわかった朝子は、亮平のもとに戻る決心をする。
原作では麦と駆け落ちしたときに2人の男女が一緒にいるのだが、その2人が最後の部分でなぜ別れているのかもよくわからない。最後まで朝子の妄想なのだろうか?
朝子の一人称は論理的なところはまったくなく、その場その場の感覚で書いているから、わかりにくいところも多い。あとで、もう一度読み直そうと思う。
つまり、原作は文学ならではの、信用できない語り手の語る話なのであり、そこに最大の魅力がある。
だが、映画はそれをわかりやすく、朝子の心理も理解しやすくしてしまっている。
この映画がカンヌ映画祭で「めまい」と比べられたり、トリュフォーの映画と比べられたりしているのもうなずける。わかりやすくするとそうなるのだろう。その分、凡庸になったと私は思うのだが。

映画も原作も私の好みではない手触り感が濃厚で、正直、どちらも好きにはなれないが、客観的に見て、やはり映画は原作を凡庸にしたと感じてしまう。もっともこれはストーリーや人物、テーマの話で、映像表現はまた別ではあるが。

2018年8月12日日曜日

パンダうちわ

お盆休みの日曜日、上野動物園のパンダ行列は午前は2時間待ちとか出てました。最近にしては長い待ち時間。幸い、曇り空です。
昨日、リーリー観覧に並んだら、パンダうちわを置いてあったので、もらってきました。(画像は動物園のツイッターから)

雨の日は配らないそうです。

あと、前の記事、池之端門を弥生門と書いていたので訂正(弥生門は東大だ)。

真夏の夜の上野動物園2:ノクターナル・アニマルズ

金曜に続いて土曜日も真夏の夜の上野動物園へ。今日はパンダを見るぞ、と意気込んでいたのですが、その前に大きな書店でないと置いていない本を探しに神保町へ行き、書店をうろうろしているうちにパンダ母子観覧の並ぶ時間がすぎてしまいました。
しゃあない、というわけで、都心に住んでいた頃は毎晩のように涼みに行っていたベローチェで買った本を読み、6時半頃、千代田線で根津駅へ。不忍通りの池之端門から入ります。
入ってすぐに地図が。

入ってすぐ右が不忍池。午後に雨が降り、雨滴の残る睡蓮の葉。モネの絵のような光景。

ペンギンは眠そう。

ビアガーデンではジャズの演奏が。土曜からは毎日コンサートや上映会があるので、ビアガーデンは混みそう。金曜に行っておいてよかった。

土曜日の目的は7時から明るくなる夜行性動物のいる夜の森と小獣館を見ること。ふだんは暗くてよく見えない動物がよく見えるはず。
池之端門のある西園から東園へ行くいそっぷ橋の途中から。かつて上野動物園には映画館があったそうで、それにちなんだ野外上映会をしている。

東園の夜の森に到着。

動物、全然いない。

人もいない。

すみっこの方に蝙蝠の群れがいたが、これだけ。人が来ないわけだ。

夜の森は7時半まで、小獣館は7時50分までなので、東園の夜の森を優先したが、小獣館のある西園に引き返す(いそっぷ橋を上ったり下りたり大変です)。夜の森があんな状態では無駄足だったなあ。
前日にも写真をアップしたカンガルー。

人気のハシビロコウは8時まで公開。

小獣館に到着。

こっちはすごい人だった。人気のマヌルネコ。

昨日アップした「みんなの上野動物園」の写真家の写真に写っていたツチブタ。いつもは暗くて撮影は無理だった。夜行性動物は明るい時間は寝ている。が、上のマヌルネコはよく動き回っていて、子供たちから「かわいい」の歓声が。

いつもはこんなにきれいに撮れません。


地下へ。地下の展示場はいつもは本当に暗くて、写真を撮るのを断念していたけれど、明るくなっていて撮れた。2匹目のマヌルネコ。こっちは動かない。

これもかわいい。

パンダのオス、リーリーの並ぶ締切時間は7時45分。小獣館をあとにして、ふたたび東園へと急ぐ(また、いそっぷ橋を上らないといけないんだよ)。
ぎりぎりでなんとか間に合い、並んだけれど、リーリーは寝ていた。
リーリー「カアちゃんと娘はもう店じまいなのに、オレだけ明るい部屋で残業かよ」(て感じか?)

これまでもリーリーが部屋で寝ているときは顔が見えなかったけれど、最後の最後にちらっと見えた顔。いつもならもう暗い中で寝れるのだろう。

表門の入口と出口の間にある大きな看板。

噴水前広場ではイベントが行われていた。

というわけで、2日連続行ってしまいましたが、動物たちはいつもと違って人がいっぱいいる中で残業させられているのだなあと思うと、なかなか複雑な気分です。でも、また行きたい。