2019年2月17日日曜日

「女王陛下のお気に入り」2回目:想像以上に「バリー・リンドン」だった

一昨日に続いて、別のシネコンで「女王陛下のお気に入り」2回目を鑑賞。
驚いた。スタンリー・キューブリックの「バリー・リンドン」と共通するところがいろいろとある。
1回目は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の余韻で頭がいっぱいな状態で見たのと、席が前すぎて下から見上げる形で非常に見づらく、そのせいもあって、内容があまり理解できなかった。なので、映像がとにかく奇妙だけど気になる、衣装や美術や音楽が「バリー・リンドン」級、そして3人の女優の名演技、くらいしか理解していなかった。
ただ、とにかく映像が奇抜で、魚眼レンズみたいに歪んでるとか、なぜか下からのアングルばかりとか、カメラがパンするときも魚眼レンズみたいとか、その辺がものすごく気になり、下から見上げる状態ではなく、きちんと正面から見たいと思って、2回目の鑑賞となった。

いや、ほんと、見に行ってよかったです。
1回目のときはランティモス監督の前作「聖なる鹿殺し」が好みでなかったせいもあって、自分の好きな映画とは思えなかったのだけど、2回目を見たら、これは私好みの映画、しかも私の守備範囲ドンピシャリ!とわかったのでした。

以下、ネタバレ大有りなので、注意してください。

時代は「バリー・リンドン」よりも少し前で、イギリスがフランスと戦争をしていた18世紀。アン女王(オリヴィア・コールマン)を操る親友のモールバラ公爵夫人サラ(レイチェル・ワイズ)は夫が司令官であることもあり、増税してでも戦争を続けるよう女王を説得しようとする。一方、政治家のハーレー(ニコラス・ホルト)はそれには反対で、イギリスが勝利したのだから和平を結ぶべきであり、増税したり戦争を続けたりすれば国民の怒りを買う、と主張。そんなときにアン女王の前に現れたのが貴族から身を落としたアビゲイル(エマ・ストーン)。親戚であるサラを頼って宮廷に下女として入り、やがて女王に気に入られて侍女となる。アビゲイルはさまざまな手を使って女王の寵愛を受け、サラを窮地に陥れて追い出す。

アビゲイルは「バリー・リンドン」の原作者サッカレーが好んで描いたピカロ(男性)またはピカラ(女性)に相当するタイプの人物で、「バリー・リンドン」の主人公や「虚栄の市」のベッキー・シャープに当たる。彼らは没落した中産階級で、才覚でのしあがっていく魅力的なワルである。アビゲイルはまさにピカラなのだ。
しかし、「女王陛下のお気に入り」はもうひとひねりした「バリー・リンドン」とでも言えるところがある。それは映画の最後の部分、アビゲイルの策謀で追い出されたサラを女王が心の底では思っていて、サラの手紙を心待ちにしているあたりだ。「バリー・リンドン」ではレディ・リンドンを思いのまま操っていたバリーがやがて落ちぶれ、レディ・リンドンの連れ子のブリンドン子爵に追い出され、その後、ブリンドンが母を支配するが、母レディ・リンドンは心のどこかで夫のバリーのことを思っているように描かれる。このラストの部分が、「女王陛下~」ではアン女王がレディ・リンドン、女王を操るアビゲイルがブリンドン、追い出されたサラがバリーに見える。流れるクラシックの曲も「バリー・リンドン」のラストに流れるシューベルトのピアノ三重奏を想起させるような音楽。
だが、「女王陛下~」はここでまたひとひねりする。
サラの手紙を女王に渡さずに燃やしたアビゲイルはうさぎを足で押さえつけるが、その後、女王から脚をもむように言われ、もんでいるとき、女王はアビゲイルの頭を押さえつける。結局、アビゲイルは女王に押さえつけられる存在だということを暗示して映画は終わる。

もうだいぶ昔のことになるが、「バリー・リンドン」についての英語の評論を読んだとき、主人公が左から右に移動するときは上昇だが、右から左に移動するときは没落になっている、と書いてあって、たいそう感心したことがある。
「女王陛下~」では落ちることが没落のシンボルになっている。
アビゲイルは宮廷に馬車で着いたとき、押されて馬車から落ちて泥だらけになる。その後も前半は落とされたり倒されたりするシーンがある。
ところが後半になると、アビゲイルに毒を盛られたサラが気絶して落馬し、そのまま馬にひきずられて泥だらけになる。
前半の落ちたり倒れたりするアビゲイルは、貴族から身を落とした状態を表しているが、後半では今度はサラがアビゲイルの策略で没落するのを落馬で表している。
そして、ラスト、今度は女王がベッドから落ちる音がして、アビゲイルが女王のもとへ行き、そこから脚をもむシーンになるのだが、ここでは女王が落ちるということで、一見、女王が没落したかに見えるが、そのあと、アビゲイルが女王に頭を押さえつけられるという逆転になる。
落ちることが要所要所でポイントになり、女性たちの上昇や没落を表現している。

「女王陛下~」はクラシックを使った音楽も「バリー・リンドン」を連想させるもので、想像以上に「バリー・リンドン」だったが、映画全体のモチーフはかなり違っている。
この映画は最初の映画会社のロゴが出てくるときに鳥の声のような自然の音が響いているのだが、1回目に見たときは鳥の声だと思った。が、2回目に見たら、確かに鳥の声もあるけれど、中心になっている音はうさぎの声じゃないかという気がした。映画が始まると、女王の部屋の17羽のうさぎが登場し、確かにあれはうさぎの声だったとわかった。
そしてラストは、女王の脚をもむアビゲイルと、それを見下ろす女王の顔がだぶり、そこに無数のうさぎの映像がだぶって、しだいにうさぎの映像が2人の顔を消していく。
脚をもむというのは、アビゲイルが結婚したあと、初夜に夫に手淫するシーンと対応していて、脚は男根の象徴でもあるのだが、夫に手淫するシーンはアビゲイルが夫を支配しているのに対し、女王の脚をもむシーンではアビゲイルは頭を押さえつけられていて、完全に女王に支配されている。その前に、アビゲイルがうさぎの頭を足で押さえつけるシーンがあり、うさぎを支配しているつもりの彼女もまたうさぎと同じという意味だとわかる。
そして、うさぎが画面を覆い尽くすラストのあと、暗転してエンドロールが始まるのだが、バックに流れるのがエルトン・ジョンの「スカイライン・ピジョン」。
その歌が終わると、今度は鳥の鳴き声や羽ばたきが響いてくる。
うさぎの声で始まり、鳥の声と羽ばたきで終わる映画なのだ。
鳥の声と羽ばたきは、「空へ羽ばたかせてほしい」と歌う「スカイライン・ピジョン」とみごとに呼応する。
羽ばたかせてほしいのはアビゲイルだが、脚が悪い女王も、夫ともども追放される運命のサラも、自由に羽ばたかせてほしいのかもしれない。
うさぎであるということは不自由なのだ。
そして、人間は結局、みな、うさぎなのか?
(うさぎは裕福な上流階級に支配される庶民という見方もできる。)
下からのアングルは、やはり、地面をぴょんぴょん跳ねるうさぎの視点なのだと思う。
魚眼レンズのゆがんだ画面も、うさぎの目で見た世界ではないだろうか。

増税してまで戦争を続けるかどうか、という政治的な部分は映画の中ではあまり重要ではなさそうだ。国民の怒りを買うとして反対したハーレーも、別に立派な人物には描かれていない。そこにあるのはただ、ちまちまとした権力争いだけなのだ。

錦糸町のシネコンではエンドロールが始まるとお客さんがどんどん帰ってしまったが、今回のシネコンも多少帰る人はいたけれど、錦糸町ほどではなかった。最後の鳥の声と羽ばたきまでしっかりと聞いてから席を立ってほしい。

それにしても、1回見ただけではわかりにくい映画だけど、2回見るととても面白い。映像も細部まで凝っていて、一度では全部見切れないから、2回見た方がじっくりあちこち注意して見られる。
もしも最初から今回のシネコンで見ていたら、こんなものかくらいの感想を抱いて、2回は見なかっただろう。錦糸町で見づらい思いをして、たまたま次が無料のポイント鑑賞だし、好きなスクリーンでやってるから、ということで2回目を見に行ったのだが、行って本当によかった。特に今回は音響がかなりよくて、非常に満足。