ボリス・カーロフ主演「フランケンシュタインの花嫁」にヒントを得た映画「ザ・ブライド!」。
怪物の伴侶を作るという話は原作にもあるが、こちらはフランケンシュタインが途中で断念し、それが怪物の復讐につながる、という設定になっていて、女の怪物は登場しない。が、カーロフ版「フランケンシュタイン」の続編「フランケンシュタインの花嫁」ではフランケンシュタインが女の怪物を作ることに成功する。このモチーフはのちにジェニファー・ビールスが女の怪物を演じる「ブライド」、ヘレナ・ボナム・カーターが女の怪物にされるケネス・ブラナー版「フランケンシュタイン」へとつながる。
「ザ・ブライド!」は死んだ原作者メアリ・シェリーが1930年代のアメリカ女性アイダに乗り移り、アイダは階段から転落死、その死体を再生技術を持つ科学者が怪物に頼まれて女の怪物にして生き返らせる。
メアリ・シェリーとアイダの両方を「ハムネット」で主演女優賞総なめにしたジェシー・バックリーが演じていて、「ハムネット」とはまったく違うイメージの演技。
カーロフの「フランケンシュタインの花嫁」では、冒頭でエルザ・ランチェスター演じるメアリが夫で詩人のシェリーとその友人で詩人のバイロンに「フランケンシュタイン」の続きを語るという設定で、ランチェスターは女の怪物も演じているから、バックリーがメアリとアイダを演じるのはまさにここから来ている。
それ以外にも、カーロフ版のディテールがせりふなどにちょこちょこ出てくる。
予告編を見たときは「ジョーカー」+「俺たちに明日はない」だなと思ったが、どちらも「ザ・ブライド」と同じワーナー映画。でも、前半は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を思わせるシーンがあったりして、アステア&ロジャース映画もカーロフ版もRKO映画だから、その辺へのオマージュもあるようだ。
で、映画そのものなんですが、ロッテントマトの批評家の評価がかなり悪い。この低評価だったら見るのやめるところだが、「フランケンシュタイン」関連だと一応見ておかないと、ってわけで、全然期待しないで行ったら、やっぱりひどかった。
前半はRKO映画へのオマージュなんだけど、途中からメアリが乗り移ったアイダがフェミニズム的怒りをぶちまけ、それをまねした女性たちが同じような行動をするところはもろ「ジョーカー」だし、そのあとはもう、ボニーとクライド、「俺たちに明日はない」で、(以下ネタバレ)クライマックスももろあのシーンのオマージュ。
そもそも、メアリが乗り移って転落死したアイダの死体を科学者と怪物が掘り出して女の怪物を作る、というのも、この2つのできごとの間にまったく関連性がなくてただの偶然というか、ご都合主義の展開なのもなんだかなあ、なのだが、そこは目をつむるとしても、その後の展開がカーロフ版やアステア&ロジャースの映画、「ジョーカー」、「俺たちに明日はない」といった過去の有名映画のオマージュと、バックリーの狂気に振り切ったタガのはずれたツッパリ演技を見るだけなので、作品としては全然面白くない。怪物役のクリスチャン・ベールもバックリーの引き立て役にすぎず、もったいない。
ペネロペ・クルス演じる女性刑事が最後、「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター入ってるよね、な感じもそれまでの一連の過去作オマージュの続きにすぎず、なんか過去作オマージュばっかりで、この映画のアイデンティティは何よ、と言いたくなる。
あと、この女性刑事の名前、マーナと発音してるのに字幕はずっとミルナなの、なんで? マーナ・ロイのマーナだよね?
というわけで、フランケン愛好家、過去作オマージュ探すの大好き、出演スターのファン、以外にはおすすめできない映画でした。
しかし、ワーナーも「嵐が丘」やこの映画みたいなのばかりって、身売り話でもめるくらい落ち目なのか。
そういや、「嵐が丘」はエメラルド・フェネル監督なのでフェミニズムあるかと思ったら全然なくて、「ザ・ブライド!」はマギー・ギレンホール監督だからやはりフェミニズムあるかと思ったら、一応それっぽいのはあるけど、真剣に取り入れているわけではない。同性愛ネタもいろいろあるが、遊びで入れてるようにしか見えない。
「嵐が丘」も「フランケンシュタイン」も原作者は女性で、どちらも悪魔的だが魅力的でもある男性登場人物(ヒースクリフと怪物)がいて、ゴシックとロマン主義の要素がある、と言う点で共通しているが、「フランケンシュタイン」は19世紀初頭に書かれて読者には受けたのに、「嵐が丘」は19世紀半ばに書かれて読者からは嫌われ、のちに名作として認められたという違いがある。また、「フランケンシュタイン」はホラーになり、「嵐が丘」はラブストーリーになったという違いも。しかし、「嵐が丘」の映画化は成功しないと先月書いたけど、「フランケンシュタイン」もカーロフ版みたいに原作をとことん変えてしまったものの方が成功している。
ベールの怪物は、顔に傷があるだけで全然怖くも醜くもないのは他の怪物俳優と同じだが、カーロフと、そして(フランケンの怪物ではないが)「エレファント・マン」のジョン・ハートだけは、最初は観客に怖くて醜いと思わせ、話が進むにつれて観客が同情し、怖くも醜くもなくなる、という演出と俳優の演技がみごとだった、ということをあらためて思い出した。
追記 映画の冒頭、メアリ・シェリーが、夫のシェリーが詩人のキーツと同性愛だったみたいなことを言っているが、これは、シェリーがキーツの詩をクソミソにけなしてしまったあと、キーツが早死にしたのでけなしたことを深く後悔したシェリーが、キーツを讃える詩を書いた、というのをもとにしている(もちろん、同性愛ではない)。また、メルヴィル、ホーソーンといった19世紀のアメリカ文学作家の名前も出てくるので、英米文学好きだとわかるところもいろいろあるが、でも、これも、だからといってどうよ、の域を出ない。
さらに追記 女性科学者が「バートルビー」をホーソーンだと言って、アイダに「メルヴィルだ」と訂正されるシーンがあるが、これ、もしかして、「ローマの休日」で、引用された詩を王女が「キーツ」と言ったのを新聞記者が「シェリーだ」と訂正したが、実はキーツで、王女が正しかった、というところから来てるのかな。このシーンでは記者は王女だと気づいていなくて、自分の方が教養があると思っていたのだ。