2025年7月2日水曜日

「国宝」ネタバレあり

 ものすごく評判がいいので見に行った「国宝」。



確かに3時間近くあるのにまったく飽きることなく、時間の長さを感じることなく見られた。歌舞伎のシーンの映像美と音響のすばらしさは映画館ならではのもので、圧倒される。俳優たちもみな、渾身の演技で、見ごたえがある。

特に、「曽根崎心中」をはじめとするいくつかの演目が前半と後半の両方に出てきて、その対比が意味を持つようになっているのがすごい。とにかく歌舞伎シーンは絶品。

その一方で、長い小説をはしょって作った、みたいな印象がずっとつきまとう。長大な小説の映画化だからしかたない、と言えばそれまでだが、そういう映画化でもはしょっているという感じがほとんどない映画もあるわけで、この映画はどうも、はしょってる感じが強い。

その、はしょっているという感じの理由でもあるのだが、肝心なところを言葉で説明してしまう。

映画の結末(これはネタバレ全開です)、主人公の喜久雄が人間国宝になり、取材を受けるシーンで、カメラマンの女性が語りかける言葉。「あなたはいろいろな人を犠牲にしてここまで上り詰めた。でも、あなたの芸を見ると、幸福感に満たされる」正確な引用ではないが、こんな意味のことを言う。

彼女は実は、喜久雄がかつて愛人との間にもうけた娘で、愛人も娘もないがしろにしてきたという過去がある。幼い娘に向かい、自分は芸がすべてで、芸のために悪魔に魂を売ったのだ、みたいなことを言うシーンがある。娘など二の次三の次なわけで、歌舞伎で成功したあと、父親に駆け寄る娘を無視する。

芸のためにいろいろな人を犠牲にしてきたが、それでもその芸は見る人を幸せにする。

ということを、最後の最後に言っているわけだが、言葉だけなんですよ。

ほかにも言葉だけだな、と感じることはあって、この娘との再会のあと、国宝になったあとの歌舞伎のシーンで、上を見上げ、「きれいだ」と喜久雄は言う。喜久雄には何かある場面が見えていて、それが「きれい」なのだという。上からは紙吹雪が舞っていて、それが雪のようで、冒頭の喜久雄の父が殺される雪のシーンと重なる。美しいものも醜いものも取り込んだ上での「きれい」ということなのだろう。

「きれい」という言葉は映画の前半にも登場する。歌舞伎の家に弟子入りした少年時代の喜久雄が人間国宝の歌舞伎役者・万菊に会うと、「きれいが邪魔だ」と言われる。原作ではすごい美少年ということになっているらしいので、美貌のことなのだろうが、「きれい」だけではだめ、ということで、後半、喜久雄のライバルであり、歌舞伎の家の御曹司・俊介が長い旅の末に歌舞伎界に戻ってきて、この万菊の指導を受ける。万菊は俊介が歌舞伎を憎んでいるといい、しかし、その憎い気持ちがだいじ、みたいなことを言うのだ。御曹司の俊介は血筋という点では「きれい」だったが、ライバル喜久雄に敗れたと感じ、長い旅に出て帰ってきたことで、「きれい」と「醜さ」の両方を体験し、それを越える境地に向かうのだろう。

一方、喜久雄は長崎の任侠の家に生まれ、俊介の父で歌舞伎役者・半二郎が喜久雄の父の組長と宴会を開いているときに女形の歌舞伎を披露する。半二郎はその才能に一目惚れするが、その直後、喜久雄の父は襲撃者たちに殺される。父のもとに駆けつけようとする喜久雄を、半二郎が必死に抑える。任侠の世界にいた喜久雄が、歌舞伎の世界にからめとられるのを表したシーンで、このあと、喜久雄は父の仇をとろうとして失敗したあと、半二郎に弟子入りする。

つまり、喜久雄にはもともと任侠と歌舞伎という、醜さと美の両方があったわけだ。

こう書くと、「きれい」と「醜さ」はしっかりと映像として描かれているように見えるが、実際は、これもまた、言葉だけなのだ。

任侠の世界は、喜久雄が弟子入りしてからはまったく登場しない。半二郎がヤクザの親分と酒を飲み交わしているのは、あの時代(1964年)は芸能界と極道の世界はかなり密接に結びついていた。その後、芸能界も反社との結びつきはまずいということになって、縁を切るようになったが、縁を切れずに芸能界を去った有名人もいたのは知ってのとおり。

喜久雄の幼馴染、春江も任侠の世界の女性で、背中に入れ墨があるが、俊介と結婚して梨園の妻になる。背中に入れ墨がある女性が梨園の妻になった例といえば、緋牡丹お竜の藤純子が梨園の妻になった。入れ墨は本物ではないが、彼女の父は東映のプロデューサーで、極道とのつながりもいろいろとあった人らしい。藤純子の娘・寺島しのぶが半二郎の妻を演じているのも興味深い。

そんなわけで、歌舞伎の世界も任侠の世界とつながりがあったはずだが、その辺は最初だけであとはまったく出てこない。醜い部分がカットされてる感はある。

映画の前半は俊介が旅に出て苦労し、後半は今度は喜久雄が旅に出て苦労する。どっちも旅に出て苦労して一皮むけるわけだが、喜久雄の旅は詳細に描かれるのに、俊介の方はまったく描かれない。喜久雄は出世のためにつきあった歌舞伎役者の娘と旅に出るが、破局。一方、喜久雄の恋人だった春江は俊介とともに旅に出るが、帰ってきたときは結婚して息子もいて、春江の支えのおかげであまり苦労しなかったのか?と思ってしまう。そのあと、万菊から「歌舞伎を憎んでいる」と言われるが、俊介の苦労が描かれてないので、これも言葉だけなのだ。

こんな感じで、芸に関するテーマが言葉だけなのである。

春江がなぜ喜久雄から俊介に乗り換えたかについては、もともと春江は喜久雄が女性とともに人生を歩むタイプではないのに気づいていたからだろう。そんなとき、心理的に追い込まれた俊介の方が自分を必要としていると感じ、彼の方を愛するようになったと思われるが、喜久雄についてもパトロン的な気持ちは持っていて、この辺、2人の男を愛した女性の描写がいまひとつなのだ。春江を演じる高畑充希の演技はよいので、これは脚本や演出の問題だろう。

喜久雄と俊介はライバルであると同時に義兄弟みたいな関係で、同性愛とは違う男同士の深い結びつきを感じる。ある種の一心同体みたいな関係で、だから、後半、俊介と喜久雄の演じる「曽根崎心中」でその愛の凄みが発揮される。歌舞伎を演じる2人の愛みたいなものがこの映画の最も魅力的な部分で、言葉だけで語られる芸についてのテーマなんぞ無視してこれだけ見ていれば十分なのだが、どうも、あの言葉だけのテーマが邪魔に感じられる。

少年時代の喜久雄と俊介は半二郎から暴力をふるわれながら稽古を受けているが、それでも稽古が好きで、半二郎から教わると確実に上達するのがうれしかったが、跡継ぎになることを期待されている俊介の息子は稽古より部活の方が好きで、喜久雄と俊介も暴力的な教え方はいっさいせず、また、息子がものになるかどうかもわからないと言っているあたり、時代の変化を表していて面白い。

そんなわけで、喜久雄と俊介の義兄弟的な一心同体の愛を歌舞伎の華麗な舞台で堪能する、という点ではすばらしい映画だが、言葉だけで語られる芸についてのテーマや、そしてなにより、喜久雄と俊介を対等の主役とはせずに、喜久雄を中心にしたこと、俊介も興味深い人物なのに旅の部分は描かないなど描写不足なことが、はしょった感や物足りなさにつながっている。傑作とか名作とか呼ぶには、不足しているものが多いと感じるのだ。