ブログを3カ月以上休んでいたので、訪問者が激減、その後、ここで再開してもあまり増えないのですが、たぶん、ホッケーネタがないからですね。でも、セイバーズがあんなていたらく(10試合やっていまだ3勝)ではねえ。ケガ人続出ではあるらしいけど。
そんなわけで、映画と本のネタ。
試写で見逃したドイツ映画「アイガー北壁」をDVDで見る。ナチスドイツが宣伝のために若者をアイガー北壁初登頂に挑戦させ、それで若者が次々と命を落としたという実話の映画化らしい。主人公の2人の若者は、登頂はあまり気乗りがしなかったのだが、うち1人の恋人が報道カメラマンをめざす新聞社の女性で、彼女が編集長に命じられて、2人に挑戦するようすすめる。いったんは断った2人だが、その後、2人は自分の意志で登頂を決意。しかし、不測の事態が次々に、という映画。
うーん、正直、無謀な若者の登山にしか見えませんでした。新聞社の編集長と女性カメラマンが山のふもとでスタンバッていて、特ダネをつかむことしか考えていない編集長と、カメラマンとしてよりは恋人として、遭難した若者を助けようとする女性といった、ビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」を思わせる状況もあるのだが、こういうマスコミの悪辣さとか、ナチスドイツの背景とか、それほど大きくは描かれていない。特にナチスの件は途中で立ち消えになり、最後に字幕でちょっと出るだけに見える。
一番気になるのは、最初に若者たちをたきつけて登山させた女性カメラマンが、そのことについて全然悩まないこと。確かに若者たちはいったん断り、それから自分たちの意志で登る決意をしたので、女性には責任はないのだろうが、それでも、彼女が葛藤し、悩む姿がないのがどうにも納得できないのだ。悪いのは編集長だけで、彼女は清廉潔白なのだろうか。
試写で見た映画ではフィンランド映画「ヤコブへの手紙」が面白かった。終身刑だった女性レイラが恩赦で出所し、片田舎に住む盲目の牧師ヤコブの家で働く。ヤコブのもとには毎日、たくさんの手紙が届き、ヤコブは彼女にそれを読んでもらい、返事を代筆してもらう。そのために、ヤコブはレイラの恩赦を求めたようだ。世の中に背を向け、ふてくされたような態度のレイラは手紙の一部を捨ててしまったり、郵便配達員ともうまくいかない。そして、あるときから、手紙が1通も来なくなり、ヤコブは生きがいを失う。その姿を見たレイラは……
というような内容で、このあとはネタバレすると感動が半減すると思うので、書きません。もちろん、レイラが変化するのですが、単純な変化ではないし、それまでにいろいろあるし、最後は思いがけず、感動的な真実が暴露されるのです。
この映画は多くを説明しようとしない。レイラは郵便配達員がヤコブの金を盗んでいると疑うが、この郵便配達員がどういう人なのかもよくわからない。ヤコブのよき友だったのかどうかもわからない。たくさん来ていた手紙がいきなり、1通も来なくなる理由もわからない。このあたり、説明不足で不自然な感じもするが、映画全体がファンタジーのようなところがあるので、おとぎ話として見れば不自然ではないだろう。フィンランドの片田舎の風景がとても美しく、感動の結末とその美しさがみごとにリンクしている。
読書は今、北村薫のベッキーさん三部作を読んでいるところです。「街の灯」、「玻璃の天」、「鷺と雪」の3つの短編集からなる連作で、今は「玻璃の天」に入ったところです。
なんでこの連作を読もうと思ったかというと、ヒロインの令嬢・英子が新しく来た女性のお抱え運転手・別宮みつ子をベッキーさんと呼ぶのですが、それは、たまたまそのときに英子がサッカレーの「虚栄の市」を翻訳で読んでいて、ヒロインのベッキー・シャープに強い印象を受け、ベッキーのように自立した強い女性である別宮(べっく)をベッキーさんと呼ぶことにしたということ。
しかし、「虚栄の市」を読んだ人、あるいは、その映画化「悪女」(原題は「虚栄の市」)を見た人は、ベッキーさんはベッキー・シャープにはまったく似ていないことがわかるでしょう。ベッキーは男を惑わす妖艶な美貌の持ち主で、男を利用してステップアップしようとする野心的な女性、美貌と才覚を武器に社会に挑戦する魅力的な悪女です。
北村薫のベッキーさんはむしろ、「ベルサイユのばら」のオスカルに似ています。いや、厳密には、「ベルばら」のオスカルとアンドレを足したような存在です。彼女はマリー・アントワネットに仕えるオスカルのように令嬢・英子に仕えますが、その一方で、彼女は世の中のすべてのことを知っているスーパーレディで、オスカルがアンドレをはじめとする平民たちから世の中のことを学び、成長することを考えると、ベッキーさんから世の中のことを教わる英子にオスカルのこの部分が入っていて、英子に世の中のことを教え、英子を守るベッキーさんは、ここではむしろ、オスカルを守るアンドレなのです。
まだ途中までですが、この連作には必ずといっていいほど、映画や文学についての言及があり、それが物語の重要な要素になっています。それは、チャップリンの「街の灯」やシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のように明言されている場合もあれば、隠されている場合もあります。「ベルばら」のモチーフはまさにその隠されたモチーフの最大のものに思えますが、果たして?