2026年4月19日日曜日

サランラップミニ

 近所のスーパーなど数か所で、先月かそれ以前から、サランラップのミニサイズ、22センチ×50メートルが279円(税抜き)で売られていて、先月、1つ買っておいたのだけど、今月に入ってナフサ不足などのニュースでこの値段のサランラップはどんどん売れてしまい、先日、近所のスーパー2軒へ行ったらもうなかった。


別のスーパーでは299円で売っていたが、そんなにたくさん使わないから買い置きが1つあればいいか、と思って買わなかった。

そして昨日、隣の駅のそばのスーパーへ行ったら、なんと、158円で売っていた!

思わず、うそ!と叫びたくなったが、とりあえず1つ買う。

実はこのサランラップ、色がもっと赤くなった新しいものがすでに発売されていて、その前のやつを特売にしている感じなのだ。

ネットでも最安300円ちょっと(税込み)なので、税抜き158円は安い。これで1年以上、サランラップは買わなくていいだろう。

備蓄はねえ、自治体指定のゴミ袋、1週間に1枚使うので、50枚買ってしまったけど、考えてみたら、石油がなければゴミ回収車も来ないし、ゴミを燃やすこともできないので、備蓄しても無駄では?と思うようになった。災害と違って水だけは大丈夫かと思ったが、重油がないと下水道処理ができないとのことで、そうなると水もだめだから、いくら米を備蓄していてもだめだよね。米って、ゆでないと食べられないものだから、米を確保したから安心とはまったく思えない。つか、食糧の備蓄なんて、置き場所がなければ絶対無理だということがわかった。

2026年4月16日木曜日

谷中から上野動物園へ

谷中と上野の桜の満開の時期は逃してしまったが、そのあとに咲く緑の桜を見に。

霊園の入口の木は知っていたが、そのそばのお寺にも同じ木があった。ここはよく行くのに、気がつかなかった。



霊園の方の木。どちらも緑がピンクになってきているので、終わりが近い。



八重桜も満開。谷中霊園の中の徳川家のお墓。中は入れません。


谷中から上野公園へ行く途中にある子ども図書館の緑の桜。ハナミズキも満開。




上野公園。噴水広場と、交番の前にある2本の木の花。下は人がいて撮れない。




上野動物園。正門から入り、西園へ行く。西園休憩所の藤棚。


西園の動物たち。レッサーパンダ、コビトカバの親子、キリンの親子、ハシビロコウ、不忍池のカワウ。マヌルネコは見られなかった。






のぞき穴から見たパンダのいないパンダのもり。



東園へ。ホッキョクグマ、アザラシの親子、トラ(子どもを見たかったのだけど、いなかった)、ゴリラの子ども。









お父さんと一緒。



象のアルンは大きくなった。



別の場所にいる大人の象。



このあと西洋美術館で常設展を見て、また谷中に戻る。途中の寛永寺の八重桜。




谷中から上野公園へ行くときも撮ったのだけど、夕方の方がきれいに撮れて、しかも、誰もいなかった。谷中や寛永寺は白人の外国人観光客ばかり。谷中霊園で20人くらいの団体がいたのでびっくり。

2026年4月10日金曜日

「ハムネット」アグネスはアニエスだった

 原作は私はそれほどいいとは思えず、映画もあちらでの批評家の評価はイマイチだという「ハムネット」。それでも、原作があの程度なら映画でよくなる面もあるのではないかと期待して見に行ったが、ああ、だめでした。

なんでこれがゴールデングローブ賞で、あの傑作「罪人たち」をおさえてドラマ部門作品賞なのかわからん。トロント映画祭観客賞らしいけど、確かに観客を泣かせるような演出はあるわな。でも、たいした映画じゃなかった。クロエ・ジャオとしても「ノマンドランド」の方が全然よいよ。

実はこの映画は試写状をもらっていたのだけど、最近の試写室での試写はネットで日時を申し込み、でも、先着順ではなく、お断りもある、というのでどういう基準で見る人を選んでいるのかわからない。それに、都心まで行けば交通費かかるから、設備のよいシネコンで見ようってことになってしまっている。


原作は過去と現在が交錯する展開になっているが、映画は時系列にそっていてわかりやすい。その分、平板になり、深みも減った感じがする。監督と原作者が脚本を書いているので、原作者も納得してるのだろうとは思うが、映像の魔力とかまるで感じないので、主人公が魔女と呼ばれ、自然の中で生きている感じが映像の魅力になっていない。

その主人公、シェイクスピアの妻だが、一般にはアン・ハサウェイという名で知られている。が、アグネスとも呼ばれていた、というので、原作ではアグネスになっているが、映画ではなんと、フランス語読みのアニエスだった。

アニエスって、あのアニエス・ヴァルダのアニエスです。どちらもつづりは同じAgnes。

原作者は最初からアニエスのつもりだったのかはわからないが、翻訳は英語読みのアグネスになっているので、映画の字幕もアグネスになっている。しかし、映画の中ではさかんにアニエス、アニエスと言ってるので、違和感半端ない。

シェイクスピアが最初に名前を聞き、アニエス、と答えるのだけど、アニエスならアン・ハサウェイのアンと違和感ないので、やっぱりアニエスが正しいのか。

一方、シェイクスピアの名前は最後、アニエスがグローブ座へ行ったときに初めて出てくる。その前までは名前が呼ばれない。

この最後の「ハムレット」上演のシーンは、原作だとアニエスが劇を見て感じたことを説明的に書いているだけで、ここがクライマックスなのに原作は小説として弱いと思ったが、映画では「ハムレット」上演シーンが長く、その間のアニエスの変化を描いている。が、この描写がどうも私にはあまりうまくないような気がするのだ。だいたい、舞台の上の役者が下手すぎるっつうか、シェイクスピア劇っつうよりは田舎芝居みたいに見える。しかも、ハムレットの衣装がジーンズみたいなんだけど、なんだこりゃ。

シェイクスピア劇って、こんな田舎芝居みたいなものだったのか、と思ってしまったよ。なんかこれ、意図あるの?

その田舎芝居にアニエスがしだいに感動して、息子の死を受け入れていくのだけど、この描写もただのお涙頂戴で、ちょっと下手すぎない? ジェシー・バックリーの演技でなんとか持ってるようなもの。

全体にエリザベス朝の風景なんかも平板な描写だし、バックリーやメスカルなど主演級の役者はよいので、見てられるけど、「ハムレット」の舞台ではメスカルに比べて他の役者が下手すぎなのよ。まあ、わざとだと思うけど。その辺、深堀りする人もいるのかもしれないね。

というわけで、原作知らずに見ればそこそこいい映画と思えるかもしれないけど、原作読んだ人から見たら、あまりにもわかりやすく平板な映画にしてしまったという感は否めないのである。

2026年4月5日日曜日

カルバドス・チョコレート

 大人気のラミーが220円くらいで特売されてたので買って食べてみたけど、これ、おいしいの? という記事を前に書いた。

そのラミーやバッカスの姉妹品で、チョコレートにリンゴ酒(カルバドス)を入れたカルバドスという名前のチョコレートが、なんとこの値段で!


賞味期限が5月初めまでだからでしょう。もう2個しかなかったけど、そのうち1個をゲット。

で、昨日の夜中に1粒か2粒食べてみよう、と思って手をつけたら、半分食べてしまった。

なんかラミーよりおいしく感じるのは、値段が激安だからか? ラミーもこの値段だったらおいしいと思ったのだろうか?

ネットで検索したら、6年ぶり復活の商品だったようです。冬季限定なので、もうめぐりあうことはないかも。

さてさて、これから日本は石油が入って来る量が激減するので、物価高だけでなく、医療現場で必要なものが作れない、商品を包装するプラスチック類が作れないから商品自体はあっても店頭に並ばない、ガソリン不足で流通が滞る、重油がなければ工場も稼働できないからそのうち商品なくなる、肥料も中東からだから農作物もできなくなる、電気ガスも天然ガスが輸入だから、というわけで、これは大震災のときやコロナ禍のときからは想像もできない状況になると思われます。

で、備蓄ですが、そもそも大地震などの災害に備えた備蓄は1~2週間で、そのくらい待てば救援が来るからだけど、今回は1年以上その状態かもしれないから、ちょっとやそっとの備蓄ではどうにもならない。そして、食糧不足という、コロナ禍でもなかったことが起こるかも。

物がないからお金があっても買えない、となると、富裕層は外国へ逃げるだろう。いや、その前に飛行機飛べないか? 飛行機飛べなくなる前に一斉に逃げ出すかな?

と、最悪の事態を予想してしまうのだけど、ここまで最悪だと庶民が対策したって無駄って感じ。これまでの災害に備えるとはまったく違う事態だから。

最悪ではなくても、東日本大震災と原発事故のときのような計画停電などが行われ、映画館なんかやってられなくなるかもしれない。となると、TOHOシネマズの会費払ってスタンダード会員更新することができなくなってよかった、ってことになります(なんかケチなところに結論が落ち着いた)。

「ザ・ブライド!」

 ボリス・カーロフ主演「フランケンシュタインの花嫁」にヒントを得た映画「ザ・ブライド!」。


怪物の伴侶を作るという話は原作にもあるが、こちらはフランケンシュタインが途中で断念し、それが怪物の復讐につながる、という設定になっていて、女の怪物は登場しない。が、カーロフ版「フランケンシュタイン」の続編「フランケンシュタインの花嫁」ではフランケンシュタインが女の怪物を作ることに成功する。このモチーフはのちにジェニファー・ビールスが女の怪物を演じる「ブライド」、ヘレナ・ボナム・カーターが女の怪物にされるケネス・ブラナー版「フランケンシュタイン」へとつながる。

「ザ・ブライド!」は死んだ原作者メアリ・シェリーが1930年代のアメリカ女性アイダに乗り移り、アイダは階段から転落死、その死体を再生技術を持つ科学者が怪物に頼まれて女の怪物にして生き返らせる。

メアリ・シェリーとアイダの両方を「ハムネット」で主演女優賞総なめにしたジェシー・バックリーが演じていて、「ハムネット」とはまったく違うイメージの演技。

カーロフの「フランケンシュタインの花嫁」では、冒頭でエルザ・ランチェスター演じるメアリが夫で詩人のシェリーとその友人で詩人のバイロンに「フランケンシュタイン」の続きを語るという設定で、ランチェスターは女の怪物も演じているから、バックリーがメアリとアイダを演じるのはまさにここから来ている。

それ以外にも、カーロフ版のディテールがせりふなどにちょこちょこ出てくる。

予告編を見たときは「ジョーカー」+「俺たちに明日はない」だなと思ったが、どちらも「ザ・ブライド」と同じワーナー映画。でも、前半は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を思わせるシーンがあったりして、アステア&ロジャース映画もカーロフ版もRKO映画だから、その辺へのオマージュもあるようだ。

で、映画そのものなんですが、ロッテントマトの批評家の評価がかなり悪い。この低評価だったら見るのやめるところだが、「フランケンシュタイン」関連だと一応見ておかないと、ってわけで、全然期待しないで行ったら、やっぱりひどかった。

前半はRKO映画へのオマージュなんだけど、途中からメアリが乗り移ったアイダがフェミニズム的怒りをぶちまけ、それをまねした女性たちが同じような行動をするところはもろ「ジョーカー」だし、そのあとはもう、ボニーとクライド、「俺たちに明日はない」で、(以下ネタバレ)クライマックスももろあのシーンのオマージュ。

そもそも、メアリが乗り移って転落死したアイダの死体を科学者と怪物が掘り出して女の怪物を作る、というのも、この2つのできごとの間にまったく関連性がなくてただの偶然というか、ご都合主義の展開なのもなんだかなあ、なのだが、そこは目をつむるとしても、その後の展開がカーロフ版やアステア&ロジャースの映画、「ジョーカー」、「俺たちに明日はない」といった過去の有名映画のオマージュと、バックリーの狂気に振り切ったタガのはずれたツッパリ演技を見るだけなので、作品としては全然面白くない。怪物役のクリスチャン・ベールもバックリーの引き立て役にすぎず、もったいない。

ペネロペ・クルス演じる女性刑事が最後、「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター入ってるよね、な感じもそれまでの一連の過去作オマージュの続きにすぎず、なんか過去作オマージュばっかりで、この映画のアイデンティティは何よ、と言いたくなる。

あと、この女性刑事の名前、マーナと発音してるのに字幕はずっとミルナなの、なんで? マーナ・ロイのマーナだよね?

というわけで、フランケン愛好家、過去作オマージュ探すの大好き、出演スターのファン、以外にはおすすめできない映画でした。

しかし、ワーナーも「嵐が丘」やこの映画みたいなのばかりって、身売り話でもめるくらい落ち目なのか。

そういや、「嵐が丘」はエメラルド・フェネル監督なのでフェミニズムあるかと思ったら全然なくて、「ザ・ブライド!」はマギー・ギレンホール監督だからやはりフェミニズムあるかと思ったら、一応それっぽいのはあるけど、真剣に取り入れているわけではない。同性愛ネタもいろいろあるが、遊びで入れてるようにしか見えない。

「嵐が丘」も「フランケンシュタイン」も原作者は女性で、どちらも悪魔的だが魅力的でもある男性登場人物(ヒースクリフと怪物)がいて、ゴシックとロマン主義の要素がある、と言う点で共通しているが、「フランケンシュタイン」は19世紀初頭に書かれて読者には受けたのに、「嵐が丘」は19世紀半ばに書かれて読者からは嫌われ、のちに名作として認められたという違いがある。また、「フランケンシュタイン」はホラーになり、「嵐が丘」はラブストーリーになったという違いも。しかし、「嵐が丘」の映画化は成功しないと先月書いたけど、「フランケンシュタイン」もカーロフ版みたいに原作をとことん変えてしまったものの方が成功している。

ベールの怪物は、顔に傷があるだけで全然怖くも醜くもないのは他の怪物俳優と同じだが、カーロフと、そして(フランケンの怪物ではないが)「エレファント・マン」のジョン・ハートだけは、最初は観客に怖くて醜いと思わせ、話が進むにつれて観客が同情し、怖くも醜くもなくなる、という演出と俳優の演技がみごとだった、ということをあらためて思い出した。

追記 映画の冒頭、メアリ・シェリーが、夫のシェリーが詩人のキーツと同性愛だったみたいなことを言っているが、これは、シェリーがキーツの詩をクソミソにけなしてしまったあと、キーツが早死にしたのでけなしたことを深く後悔したシェリーが、キーツを讃える詩を書いた、というのをもとにしている(もちろん、同性愛ではない)。また、メルヴィル、ホーソーンといった19世紀のアメリカ文学作家の名前も出てくるので、英米文学好きだとわかるところもいろいろあるが、でも、これも、だからといってどうよ、の域を出ない。

さらに追記 女性科学者が「バートルビー」をホーソーンだと言って、アイダに「メルヴィルだ」と訂正されるシーンがあるが、これ、もしかして、「ローマの休日」で、引用された詩を王女が「キーツ」と言ったのを新聞記者が「シェリーだ」と訂正したが、実はキーツで、王女が正しかった、というところから来てるのかな。このシーンでは記者は王女だと気づいていなくて、自分の方が教養があると思っていたのだ。