2026年9月27日日曜日

腰痛と新米とロキソニン

 1週間ほど前に腰に痛みがあり、それはそんなにひどくなかったのだけど、変なストレッチをやったせいで、その後、ぎっくり腰のような激痛に見舞われるようになった。

先週金曜は有楽町へ「モネと時間旅行」を見に行き、土曜は柏へ「情事」を見に行ったが、その時は特に腰に違和感はなかったと思う。が、どうも土曜の夜あたりで腰に痛みを感じるようになったのかな?

日曜と月曜に変なストレッチをやったら、最初に痛みを感じた場所とは違うところ、というか、かなり広範囲で激痛を感じるようになった。特にひどくなったのが水曜日で、ぎっくり腰と同じような症状に。

ぎっくり腰といえば、15年前に引越したフローリングのマンションで床にマットレスと布団を敷いて寝ていたら初めて経験。そのとき、病院で処方してもらったロキソニンが効いたので、以後、ぎっくり腰ならロキソニン、となっている。当時はまだロキソニンは市販されてなかったが、その後、市販されている。

2度目にぎっくり腰になったのはそのマンションから引越しした直後で、このときも病院でロキソニンを処方してもらった。

どちらも寝ている状態から立ち上がるときがものすごくつらくて、立ち上がってしまえばそれほど痛くない。階段を降りるのがちょっとつらいが、上るのは無問題だった。

マンションを出てからはずっと畳生活で、ぎっくり腰になったことはなかった。4年前、腰の肉離れを起こして、このときは2020年のコロナ禍で高熱を出した時に備えて買っておいたロキソニンS(この頃には市販されていた)を飲んだら効いたので、これを何度か買ってしのいだ。

今回は、最初、腰の筋肉が傷んだときは、4年前の肉離れの軽いやつかなあ、という感じで、あまり気にしてなかったんだが、ストレッチやったあとにきたぎっくり腰みたいなのはどんでもなく痛い。ぎっくり腰というのは急性腰痛のことで、どこが傷むのかはいろいろあるようだ。今回は以前のぎっくり腰とは少し違う感じなのだけど、痛みの範囲が広い。ストレッチで相当あちこち痛めたのだろう。

とりあえず、ロキソニンは効く。飲んでれば痛みはほとんどない。が、薬が切れると大変。強い薬なのでできるだけ飲みたくないのだが、飲まずに我慢してると横になったら立ち上がるのに相当苦労する。やせ我慢せずに飲んだ方がいい。

で、昨日は米を買いに行かないといけなかったので、お昼頃、雨が小やみになったのを見て、OKストアへ買いに行った。

毎年、8月下旬になると、近所のスーパーにふさおとめの新米が並ぶ。去年も一昨年もこれを買っていたが、今年は8月上旬に米を5キロ買っていたので、8月下旬にはまだ米が十分にあった。ふさおとめ、好きなんだけどなあ、と思いつつ、買わずにいたのだ。

そして9月下旬、ついに米を買うときがきて、ふさおとめはまだ並んでいたけど、無洗米だと値段が税込み3000円超える。いつも食べてるOKの秋田県産あきたこまちは去年のだけど、今、2800円くらいになってる。無洗米じゃなければもっと安い。会員価格だとさらに安い。OKは千葉県産コシヒカリの新米の無洗米じゃないやつが会員価格だと2300円くらい。会員じゃなくても2400円くらいで買えそう。

とうわけで、スーパー見比べて迷っていたけど、いよいよ買わないと米がない状態になるので、昨日、まだロキソニンが効いていて痛みがなくて、なおかつ雨が小康状態のときにOKへ。行って見たらなんと、千葉県産コシヒカリ無洗米の新米が、税込み2500円台(会員価格だとこれより100円くらい安そう)。迷わず買いました。これです。画像はヨドバシだけど、税込み3800円だったよ。


売り場には6、7袋しか置いてなくて、昼頃行ったから買えたけど、夕方だったらもう売り切れていたかもしれない。

最近、年だなあ、と思うのは、この5キロの米を袋に入れて片手で持って徒歩10分くらいの自宅に帰るのがかなりつらいこと。エレベーターのない4階まで階段を上がるのは全然平気。でも、5キロを片手で持って歩くのがけっこうつらい。途中で1回、休んでしまった。腕の筋肉を鍛えないと。

でも、OKのレジ係の女性、私より少し若めの人だったが、かごからかごに5キロの米を移すのがすごく大変そうだった。両手でも持つのが大変なのか、とかなりびっくりした。両手なら私は楽勝だよ。両手で抱えて持って帰れば楽だったと思うけど、腰を痛めているときはちょっと無理。

2026年9月25日金曜日

読書:「ヴェリティ」&「白鳥とコウモリ」

 映画化で話題のコリーン・フーヴァー著「ヴェリティ」と東野圭吾著「白鳥とコウモリ」。

「ヴェリティ」は映画公開がまだ少し先のせいか、すぐに借りられた。「白鳥とコウモリ」は予約が33人くらいだったけれど、市内の図書館には蔵書が17冊もあったので、実質2番目くらいだな、と思って予約。1か月くらいで借りられた。

「ヴェリティ」はねえ、ちょっと、あんまりおもしろくなかったです。ロマンス小説なので、頻繁に女性目線の性描写があって、これが私は苦手。で、ストーリーの方もそんなにおもしろくなかった。アメリカはロマンス小説が非常に盛んで、ファンが多いようだけど、日本ではそれほどではない気がする。


「ヴェリティ」は映画が東京国際映画祭で上映されるというので、図書館での予約が増えているようだ。私が借りたときはそんなでもなかったのだが。ていうか、入っている図書館がすごく少ない。


「白鳥とコウモリ」は、ラノベと言われている東野圭吾作品だけど、確かに人物描写が薄く、会話とストーリーで話が進んでいく。映像化前提で、人物の掘り下げとか背景描写とかは映画やドラマにお任せ、なんだろうなって感じはした。

しかし、加害者の家族の問題は「手紙」に通じるし、(ネタバレ)子どもの邪悪な面とその背景は「白夜行」に通じるかもしれない。

とりあえず、じっくり読まなくても筋書きだけ追っていけばいい感じの小説なので、500ページ以上あったけどあっという間に読めた。確かに筋書きはうまい。

「白鳥とコウモリ」映画化のキネ旬の星取り表を見ると、3人の評者のうち、2人は原作を読まずに映画を見ていることが明らか。もう1人はしっかり原作を読んでいるのがわかる。原作を読んでいない人の評は、映画化についての評とは言えなかったり、ちょっと変だったり。やっぱり原作を読まずに映画を批評するのは危険だと認識した。

「ヴェリティ」は人間の邪悪さみたいなものがテーマになっているが、「白鳥とコウモリ」も最後にちょっと、そういうのが出てくる。「ヴェリティ」は本質的にはごく普通の人間が邪悪になっている感じで、「白鳥とコウモリ」も最後に出てくる邪悪さは、やはりそういう感じなのが印象に残った。ネタバレになるが、どちらも最後に出てくるのが子どもの邪悪さなのだ。

2026年9月20日日曜日

「情事」レア・マッサリの存在感

 ミケランジェロ・アントニオーニといえば、愛の不毛、モニカ・ヴィッティ、そのアンニュイな表情。

そのアントニオーニの日本初公開作2本を含む作品上映が行われていて、見逃していた「情事」を見る。

アントニオーニといえば、中学生のときにテレビで「太陽はひとりぼっち」を見たのが最初で、これはすごく魅了された。その後、「さすらいの二人」「ある女の存在証明」「愛のめぐりあい」はリアルタイムで見てるが、旧作はレンタルDVDで「欲望」を見たくらいだった。「太陽はひとりぼっち」と「欲望」は好きなんだが、積極的に未見の作品をレンタルなどして見ようとはしてなかったのだな。

やっぱり、私にとってはちょっと苦手なイメージのある監督で、それは「情事」も141分と長いせいもあって、どうも入り込めない感じがつきまとった。

しかし、最後まで見ると、これはすごい。

メインタイトルでモニカ・ヴィッティの次にレア・マッサリの名前が出てきて、ああ、レア・マッサリが出てるのか、と思ったら、行方不明になる令嬢アンナの役。アンナと恋人サンドロ、そして親友のクラウディア(モニカ・ヴィッティ)の3人が最初からちょっと奇妙な関係で、アンナは恋人のサンドロだけでは満足できず、親友のクラウディアもそばにいてほしいみたいな、そんな3人1組のような関係。この3人が仲間たちと海に繰り出し、小島でくつろいでいるときにアンナが行方不明になる。

アンナを探すうちにサンドロとクラウディアが恋に落ちてしまうが、2人の心の中には常にアンナがいて、2人だけの世界になれない。

アンナが行方不明になったあと、クラウディアはアンナからもらった服を着たり、アンナのような黒髪のかつらをかぶったりする。そして、サンドロは、アンナのような黒髪の若い女と浮気、というか、買春をしてしまう。クラウディアはアンナになろうとしているかのようであり、サンドロはクラウディアを愛してもどこかでアンナを求めているかのようだ。

アンナが行方不明になる前のシーンでは、レア・マッサリの存在感が際立っている。金髪でおとなしい雰囲気のモニカ・ヴィッティに対し、黒髪のレア・マッサリは気が強く、眼力があり、そのしかめっ面が周囲を圧倒する。レア・マッサリのアンナが退場したあとも、アンナの存在は残り続ける。

金髪のモニカ・ヴィッティと黒髪のレア・マッサリを見ていると、ヒッチコックの「鳥」のティッピ・ヘドレンとスザンヌ・プレシェットを思い出したり、クラウディアがアンナの服を着たり黒髪のかつらをかぶったりすると同じヒッチコックの「めまい」を思い出したりしたが(「情事」は「めまい」と「鳥」の間に作られた映画だが)、金髪の女性と黒髪の女性のモチーフは昔から文学にもあるもので、アントニオーニの描き方はそうしたクリシェイではまったくない。

サンドロとクラウディアの間には常に行方不明のアンナがいる、ということも、よくあるパターンでは描いていないので、最後の最後にそのことの大きさに気づかされるみたいな、そういうすごいラストだった。

見たのは柏市のキネマ旬報シアター。が、19日は柏駅周辺で柏まつりというのをやっていて、歩くのもままならないほどの大変な混雑だった。映画館はいつもどおりの静けさだったけれど。


ロビーに「情事」の公開時のパンフレット(復刻版?)が置いてあって、館内で読むことができる(持ち出しは禁止)。




ネットで調べたら、レア・マッサリは昨年、91歳で亡くなり、モニカ・ヴィッティは4年前に90歳で亡くなったことを知った。どちらも日本での公開作はあまり多くなかったようだけれど、私が10代の頃にはどちらも活躍中だったのを思い出す。

2026年9月19日土曜日

「モネと時間旅行」(ネタバレ大有り)

 とても楽しみにしていた「モネと時間旅行」。「新凱旋門物語」で音響と映像がよかったヒューマントラストシネマ有楽町までわざわざ出かけたのだけど、なんかすごくがっかり。



こういう過去の有名人や芸術家を都合よく利用したフィクションがそもそも嫌いなんだけど、モネのファンはこの映画を見てどう思うのだろう。満席に近い観客はほとんど女性だったが。

というわけで、これからはネタバレ大有りでどこが気に入らなかったかを書いていくので、差し支えない人のみ、どうぞ。この映画が好きな人は読まない方がいいかもです。

2026年9月13日日曜日

「オデュッセイア」と食欲の罪

 IMAXの入場者特典でもらったポスター。画像はヒューマックスシネマのサイトからスクショ。


この巨人に向かっている後ろ姿の人物(オデュッセウス)は、実はスタントウーマンであることがネットの記事に出ていた。巨人との身長差を強調するために身長150センチの彼女が選ばれたとのこと。そして、むきだしになった二の腕の美しさについて書かれていた。

というわけで、マット・デイモンのスタントが女性だった、という話なのだけど、この映画、戦争の悲惨さ残酷さを描いているのに女性に対する性加害はまったく描かれていないのね。唯一、キルケーのセリフの中にそれが出ている程度。

そのかわり描かれているのが食欲。この映画のモチーフは実は、

食欲は恐ろしい

ってことじゃないのかな、と思った。

オデュッセウスがなかなか戦争から帰って来ず、王が不在なので王妃に結婚を迫る求婚者が城に居座って宴会しているシーン。具体的に何を飲み食いしているのかはほとんど描かれてないという会食シーンなんだが、他のシーンでも兵士たちが食べるものはあまり詳しく描かれないか、キルケーのシーンのようになんだか気持ちの悪いものを食べている。

オデュッセウスたちが食糧を求めて羊のあとを追うと、洞窟の中にチーズがたくさん吊るしてある。持ち主が来たらこれを譲ってもらおうと待っていると、一つ目の巨人が来て兵士を捕まえて食べてしまう。チーズを盗んでさっさと逃げてればこんなことにはならなかったのだが、持ち主に譲ってもらうにしてもかわりに渡せるものはないわけで、結局、持ち主を脅して奪う強盗じゃねえの? だったら盗んで逃げた方が、と思ったのは私だけか?

国に帰ろうと航海を続ける彼らにはとにかく食糧がない。上がった岸に女性がいて逃げようとするが、兵士が捕まえて「乱暴はしない、何か食べさせてくれ」と頼む。女性は魔女キルケーで、兵士たちに食べ物を出すと、食べていた兵士が豚に変わってしまう。このときの兵士たちの食べ方が汚い上、食べているものがまた気持ち悪い。キルケーは彼らを豚にするとき、「本来の姿になれ」と言う。彼女にとって、兵士たちは豚なのだ。オデュッセウスは別行動していたので、豚にされずにすみ、キルケーを説得して彼らを人間に戻す。キルケーは過去に兵士たちによって姉とともにレイプされたようだ。

オデュッセウスと兵士たちが別の岸に上がると、そこには後ろ姿の人物が立っている。振り向くと身長は大人なのに顔は子ども。食糧が欲しいだけだ、という兵士たちから子どもは逃げ、その先から鎧に身を固めた巨人の軍勢がやってくる。オデュッセウスたちは命からがら逃げる。ここでも食糧を求めてやってくる兵士たちは、そこにいる人々にとっては敵なんだね。

オデュッセウスたちは神々の牛がいる陸地に着く。牛を食べると呪いがかかるので植物と果物しか食べないと兵士に約束させて上陸。が、オデュッセウス以外の兵士たちは結局、肉を食べたいという欲望に勝てず、牛を食べてしまう。

これでオデュッセウス以外の兵士はみんな滅びて、彼だけが生きてカリプソの島にたどり着く(時系列が入り乱れているので、故郷の城の宴会シーンとカリプソのシーンは早い段階から何度も出てくる)。カリプソは蓮の花を食べさせ、これで過去を忘れていい気分になったオデュッセウスは故郷に帰れなくなる。

戦争にはつきものの女性に対する性加害がこの映画ではキルケーのセリフの中に少しあるだけで描かれない、と書いたが、

食欲が性欲や征服欲のメタファーなのは言うまでもない。

宴会に集まった求婚者は王位をねらうために王妃ペネロペのからだを奪おうとしている。その欲望の報いがクライマックスだ。

そもそも、トロイ戦争の発端は、美女ヘレネーに横恋慕したパリスが彼女を奪ったからで、性欲が原因なんだわ。そういや、アーサー王も父親が人妻に横恋慕して奪って生まれた子どもだたったね。つながりはあるんだな。つか、昔話にはよくあるモチーフなんだろうけど。

キルケーも巨人の軍勢も、侵入者は略奪やレイプをする敵だと思っている。オデュッセウスの部下たちは食べ物だけを求めていて、決して女性に手出ししないが、普通はそんなことありえないわけでね。

カリプソの差しだす蓮の花をオデュッセウスが食べるのも、2人の性交のメタファー。こちらはカリプソの方が誘惑しているのだが。

というわけで、上に上げたエピソードは全部、

食欲が略奪や性加害のメタファーになってる。

この映画は戦闘シーンにも残虐描写はないし、女性への性加害はおろか、性的な描写もない。(当初、見間違いであちらではGだと書いたが、Rだった。Rにしてはかなりおとなしい印象なのだが、バイオレンスと言葉の一部が引っかかったらしい。)

ゼンデイヤ扮するアテナが航海中のオデュッセウスにつきまとう亡霊のようになって出てくるが、生きていたときの彼女がクライマックスの戦闘シーンで登場する。ここも性加害ではないのだけど、それを連想させるよね。

アテナの亡霊がオデュッセウスにつきまとっているのは、彼女が彼の守護神みたいになっていて、上に書いたエピソードでも兵士たちが誘惑に負けてもオデュッセウスだけは負けない。もうそれだけで、オデュッセウスは英雄なんだ、と映画は言っているようだ。それに、カリプソに誘惑されても結局、妻を思い出したしね。

でも、トロイ陥落のシーンを最初と最後で別の視点で見せることで、オデュッセウスたちは侵略者でしかないという現実を見せつける。そして、オデュッセウスはその現実を思い知る。

戦闘能力ゼロのロバート・パティンソンの悪役。権謀術数に長けていそうにも見えないので、こんなのが王になってもすぐに滅ぼされるだろ、と思ったが、ノーランはこの映画では個人に悪を象徴させていないのね。悪は個人じゃなく、戦争全体にある、という感じか。「インソムニア」の殺人犯や「ダークナイト」のジョーカーとか、個人に悪を象徴させる映画はあったけれど、全体として、そういうのはノーラン的でないのだな。「ベン・ハー」や「グラディエーター」のように主役に負けない魅力と強さを持つ悪役を登場させ、クライマックスで対決させる、という手法とは真逆の手法なのだ。

というわけで、さすがノーランらしい工夫が物語にもあることがわかったのだけど、映画全体としてはちょっと散漫な印象で、取り出せばこういう面白さがある、という程度かな。