2019年1月31日木曜日

いろいろ思うこと

「古典新訳ラッシュに思うこと」というこのブログの記事が最近アクセスが多い。
書いた本人(自分)は何を書いたのかすら忘れていたので、読み返してみた。
新潮文庫の「風と共に去りぬ」新訳のことが中心だったので、ああ、テレビの「100分de名著」でやっているからか、と思ったが、古典新訳で検索してもその記事は全然出てこない。まあ、そんなにすごいアクセス数ではないんだけど、どこから来るのだろう、みなさま。
後半では「フランケンシュタイン」新訳ラッシュについても書いていたけれど、その「フランケンシュタイン」を日本で一躍メジャーにした中公新書を書いた京都大学教授の翻訳書が光文社文庫から出ていた。
ジョージ・エリオットの「ミドルマーチ」。なつかしい。
大学時代に文学全集で読んで、非常に魅了された作品。全集で2巻だったけれど、光文社文庫が2冊並んで立っていたので、てっきり上下巻かと思って手に取ったら、どちらも第1巻だった。
中を見ると、解説がかなりの量を占めている。これだと全4巻くらいになるだろうと思う。毎月1巻ずつ出すのだろうか。
そんなこんなでいろいろとなつかしさを感じ、アマゾンで検索などしていたら、「フランケンシュタイン」を日本でメジャーにした中公新書が出てからすでに14年もたっていることがわかった。
この新書が売れなければ、「フランケンシュタイン」の翻訳が次々と出ることはなく、この小説はSF好きや怪奇と幻想好きが読むマニアの小説にとどまっていたかもしれない。読みやすいが誤訳や訳抜けが目につくらしい光文社文庫や、女っぽい文体でやたらと尾ひれをつけて長くしている新潮文庫の訳は、中公新書のヒットで生まれたライト層に適した翻訳だったのだ。
その中公新書の京大教授もテレビに出るなどして有名になったが、古典作品の本格的な翻訳は「ミドルマーチ」が初めてではないかと思う。もっとも、翻訳者の名前で売れるほどではなさそうだが。
「ミドルマーチ」は私の大好きな小説で、ヘンリー・ジェームズの「ある婦人の肖像」と共通点もある。私が読んだのはこれ。


12年前の引越で蔵書を大量に処分し、この2冊も売ったというか、値段がつかないと言われたけど持って帰るのも面倒で、古本屋に引き取ってもらった。この全集の「鳩の翼」も同じ運命をたどり、やっぱり持って帰ればよかったとプチ後悔。
でも、文学全集は意外と公立図書館に残っているもので、「鳩の翼」は別の全集に入ったものが近所の県立図書館にある。
そして、昨日は「ムーンライト」のバリー・ジェンキンズ監督の新作「ビール・ストリートの恋人たち」の試写を見たのだけれど、ジェイムズ・ボールドウィンの原作、早川文庫で新訳が出たというけどまだ見ていない、でも旧訳があるはず、と思い、検索してみたら、市立図書館にあった。すぐに予約を入れて、近くの分館に来るのを待っているところ。ソール・ベロウやバーナード・マラマッドも入っていて、「天才作家の妻」のユダヤ系作家の件があったので、お得感いっぱいに。
というわけで、「ビール・ストリートの恋人たち」は原作を読んでから書いた方がいいと思っている。実際、映画だと主人公の若い黒人カップルと女性の方の家族以外の人物が点景という感じであまり深く描かれていないのが気になっているので、その辺を原作で確かめてみたい。

2019年1月28日月曜日

「天才作家の妻 40年目の真実」(ネタバレ大有り)

日曜日は夜、わざわざ柏の葉まで出かけて「天才作家の妻 40年目の真実」を見る。
この映画、MOVIX亀有でさんざん予告編を見たので、てっきり亀有でやると思っていたら、やらない。公式サイトをチェックしてMOVIX柏の葉でやると知り、しかも土日は2番目に大きなスクリーンで上映するので、急遽、日曜の夜に出陣。
が、350席くらいあるのにお客さんたったの7人。
うーむ、おそらく、最初の土日は大きいハコで上映するという条件を出したので、土日は混む亀有は手を引いたのではないか? 柏の葉は日曜でも閑散としていたし。

さて、グレン・クローズがゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞し、ついにオスカーもとるかとの期待のかかる「天才作家の妻」。ネタバレ大有りで行きますので、注意してください。

監督はスウェーデンのビョルン・ルンゲで、映画もスウェーデン、イギリス、アメリカ合作となっている。確かに地味なヨーロッパ映画の雰囲気で、特に最初のあたりはちょっとだれる感じで、このまま最後まで行ったらどうしようと思っていたら、途中から俄然面白くなる。
ノーベル文学賞受賞の知らせに喜ぶ作家ジョゼフとその妻ジョーンだが、その喜びの中にも複雑な表情を見せるジョーン。ジョーンを演じるクローズの表情演技がいろいろと意味深で、このあたりの演技が評価されたのだろう。思い出したのは「ネットワーク」でわずか5分の出演でアカデミー賞助演女優賞を受賞したベアトリス・ストレイト。ウィリアム・ホールデン演じる夫から愛人がいることを告げられ、最初は悲しみと怒りを見せるが、最後には夫を許し、別居に応じる。大学の授業でこの映画を取り上げたとき、ストレイトがわずか5分の出演でオスカーをとったことを知らせてこのシーンを見せたら、学生たちが最後の小レポートでみごとな演技分析をしてくれたのには驚いた。
大学で創作を教えていた教師のジョゼフは学生のジョーンと不倫、妻と別れて彼女と結婚するが、大学はクビ。ジョゼフは小説のアイデアやストーリーを考える力はあるが、それを小説として完成させるのが下手。一方、ジョーンは小説を作り上げる能力は高いが、書くべき物語を持っていない。そこで、ジョゼフのアイデアとストーリーをもとにジョーンが小説として仕上げ、ジョゼフの名で出版してきたのだった。
スウェーデンといえば、あの小説「ミレニアム」の舞台だが、「ミレニアム」は作者とパートナーの女性の合作というか、パートナーもかなり大きな役割を担っていたらしいという説を思い出した。しかし、パートナーには作品に対する権利が認められず、もめたとかいろいろ。
ストックホルムの授賞式に赴く夫妻と息子、ジョゼフの小説は妻が書いているのではないかと疑う記者が彼らにつきまとう。一方、浮気性の夫に長年悩まされた上、受賞に関しても夫からないがしろにされている妻はしだいに怒りを募らせていく。
前半では回想シーンをまじえながら、才能のあるジョーンがなぜ作家になろうとしなかったかが描かれる。書くべき物語を持っていないこと、表に出たがらない性格、そして、文学の世界では女性は不利であり、また、出版社はこういう作家を売りたいと決めているということが出てくる。
ジョゼフとジョーンはアメリカ人だが、アメリカ文学というのは確かにそういうところがあると感じる。
もうやめてしまったけれど、某私大で数年間、英米文学入門をやっていて、イギリスとアメリカの代表的な作家と作品を紹介していたのだけれど、20世紀前半くらいまでだとイギリスに比べてアメリカはメジャーな女性作家が少ない。イギリスなら18世紀末にゴシック小説のアン・ラドクリフ、リアリズム小説のジェーン・オースティンが登場し、19世に入るとメアリ・シェリー、ブロンテ姉妹、エリザベス・ギャスケル、ジョージ・エリオットと、小説でお金を稼ぐことのできた女性作家が次々と登場。イギリスも女性は男性名を使ったり、匿名で出したりと、女性は不利だったのだが、それでも同時期のアメリカに比べたら女性は活躍していたと思える。
ところがアメリカだと19世紀はケイト・ショパンという人がいて、そのあと、エンタメ小説で活躍した「若草物語」のルイザ・メイ・オルコットがいて、ええと、ええと、って感じ。エミリー・ディキンソンは詩人です。
やっぱりアメリカ文学って、イギリス文学に比べると男性中心主義なんだなと思う。20世紀に入ってからもビッグネームは男ばっかりだし。
ジョゼフとジョーンが結婚した1960年頃はユダヤ系作家がブームで、出版社はユダヤ系の新人を求めていると知ったジョーンは、ユダヤ系のジョゼフに小説を書くよう勧めるが、ジョゼフは描写が下手、そこでジョーンがジョゼフのアイデアで小説を書くようになる。このあたりに、女性が不利、だけでなく、出版社が求めるタイプの作家が出やすいみたいなところが描かれている。実際、文学の世界ではユダヤ系はユダヤ系の話しか書けないので、もっと自由に書きたいユダヤ系作家がSFの世界に行ったということがあり、アシモフとかハインラインとか、当時のSF作家にはユダヤ系が多かった。まあ、いろいろと不自由なんだな、アメリカ文学(だけじゃないか?)。
そんなこんなで、最初は控えめな笑顔を装いながらも時折本音を垣間見せる表情をしていたジョーンが、ついに夫に怒りを爆発させる。
妻「1日8時間書いていたのは私なのよ」
夫「家事や育児は僕がやっていた。妻が天才で自分は主夫、だから浮気したんだ」
妻「あなたが浮気するたびに怒りをエネルギーにして作品を書いたのよ。これを書いたときは誰と浮気したんでしたっけ?」
夫「元ネタは僕だ。それは僕と僕の家族の話じゃないか」
てな感じで、妻のクローズと夫のジョナサン・プライスの丁々発止の演技がなかなかの見もの。2人の演技の相乗効果がすばらしい。
このあと夫は心臓発作を起こし、急死してしまうのだが、離婚まで言いだした妻がそこで突然、夫との愛を取り戻すあたりのクローズの演技が実に自然ですばらしい。
そしてラスト、アメリカへ帰るジョーンと息子。ジョーンはノートの白いページを開き、ひとりにんまりとほほ笑む。
そう、ジョーンには書くべき物語ができたのだ。
ジョゼフのかわりに書いていたとき、彼女には自分の物語がなかった。ジョゼフからは、君は東部の良家の娘で、苦労してない、みたいなことも言われる。それに対し、ジョゼフはユダヤ系で苦労してきたので、物語持っていたのだ。
しかし、今、彼女は書くべき物語を、自分自身の物語を手に入れた。夫の話をかわりに書いていた彼女は、これからは自分の話を、自分と夫の話を書くことができるのだ。

MOVIX柏の葉の2番目に大きいスクリーン、音響がとてもよかった。サラウンド感がかなりあって、波の音とか人のざわめきとかがまわりじゅうから響いてくるようだった。ヴァイオリンなどの弦楽器の音楽も美しい。このシアターで見れてよかったと思う。

2019年1月26日土曜日

疲れた1日&怪我の功名

土曜日は電気ストーブを探して近隣を歩き回り、結局、気に入ったのが見つからず、疲れた1日だった。
つい1週間前、ヨーカドーで暖房機2割引きをやっていたのだけれど、そのときは自宅のストーブは壊れていなかったので、買っておきたいなと思いつつ、買わなかった。
それから数日後、ストーブが壊れる。
壊れたといっても上下2本の放熱管のうち、よく使う上の方がつかなくなったので、下の方はまだ使える。上の方だけか、上下両方なので、どうしても上の方が酷使されてきたのだ。
そして、下の方だけでもけっこう暖かい。どうも上の方が熱が弱くなっていたようで、下の方だけでも今までより暖かい。
しかし、本当に寒いときは上下両方つけないときついので、新しいのを買おうと、近所の西友へ行く。
西友は今、家電売り場の改装を控えて(つか、家電売り場縮小なんだろうな)1割引きを実施中。
が、なんと、暖房機は割引なし。
とりあえず、2割引きのヨーカドーへ行こうと思い、その前にホームセンターに立ち寄って、そこで気に入ったものがあれば買おうと思い、出かけた。
しかし、ホームセンターでは電気ストーブはほとんど在庫なし。
そこでさらに遠征して隣の駅近くのヨーカドーへ。
が、しかし、すでに遅く、ここも電気ストーブは高いものしか在庫がなかった。
別に高いものでもいいんだけど(3割引きになっていたし)、好みのタイプではないのですね。
近くにヤマダ電機があるので、そこも寄ってみたが、やはり電気ストーブは在庫が少なく、1470円というバカ安のが売っていたが、タイプは好みだけどどうも信頼感に欠ける気がして却下。

そんなこんなで結局地元の駅のそばに戻り(この時点で8千歩くらい歩いていた)、疲れたのでドトールで休憩。「バーニング 劇場版」の原作「納屋を焼く」を収録した講談社の「村上春樹全集」の1冊を読む。本は地元の図書館から借りたもの。
村上春樹初の短編集「中国行きのスローボート」と、新潮文庫から出ている短編集「蛍・納屋を焼く」などが収められている。このうち「中国行きのスローボート」は新刊のときに買って読んだが、あまり面白くなく感じ、以後は村上春樹を読むのをやめてしまったという短編集。それまでの3つの長編は読んでいて、好きだったのに。
で、「蛍・納屋を焼く」などはすでに自宅で読んでいたけど、「中国行きのスローボート」も再読してみようと思い、この日、どこかの喫茶店で読めればと思ってバッグに入れていたのだ。
読み始めてすぐに、ああ、やっぱりこの短編集はだめだ、と思った。「蛍・納屋を焼く」などの方は面白かったのに、こちらは昔の記憶そのままのついていけなさだった。
文体が、やっぱりちょっと、違うのだ。
でも、途中から読める話が出てきて、ひととおり最後まで読んだあと、もう一度、最初の方のだめだと思った作品いくつかを読んでみたら、今度はとりあえず読めた。
「中国行きのスローボート」の短編は確かにどれも短編の実験みたいなところがあり、そこが評論家には好評だったのだろうと思う。
しかし、なんだね、「カンガルー通信」とか、ストーカーというかセクハラだろ、これ。
最後に「納屋を焼く」をもう一度読んで、帰りに図書館の返却ボックスに返したが、「納屋を焼く」はやはり面白い。ただ、作者の解説によると、これはかなり手を入れたとのことで、雰囲気が変わっているかもしれないと書いている。この小説を書いたとき、村上はフォークナーの「納屋を焼く」を知らなかったので、初出の「フォークナーを読んでいた」というところを「週刊誌を読んでいた」と書き直している。映画の方はフォークナーの「納屋を焼く」も取り入れられているが、フォークナーのような具体的な作家名と、ただの週刊誌では印象が違うというか、せめて別の作家か何か具体的な名前にしてほしかったと思う。

帰りに西友によって電気ストーブを見たが、好みのタイプはメーカーがまったく聞いたことのないところなので買わずに帰った。やはりヨドバシカメラに行った方がいいのだろうか。なんにしても早く買わないとどこも在庫なくなってしまいそう。
実は団地に引っ越してから西友の家電売り場でいろいろ買い物をしているのだけれど、1割引きになったときにスティッククリーナーを買った。これ。
3年前に掃除機が壊れ、以後、ウェットシートで拭き掃除になっていたのだけれど、埃を吸い込むにはやはり掃除機、ということで、安いのを買いたいと思っていた。充電式は好きではないし、紙パックつきの方が楽なんだけど、掃除機に合う紙パックを同じ売り場で売ってなかったりで、結局これに。安いから壊れるのも早いかもだけど(前のはドンキホーテで2千円くらいだった)。

翌日の追記
こういうのを怪我の功名と言うのであろうか。
土曜日は好みの電気ストーブを求めて徒歩15分くらい離れたホームセンターとヨーカドーとヤマダ電機をめぐり、店頭にろくに商品がないことを知って愕然として帰ってきたが、実は怪我の功名とも言えることがあった。
帰り道、ひどい風で土ぼこりが舞っていたので、そこを避けてふだんとは違う道に入り、そのままドトールの方に向かったのだが、少し手前にコインランドリーがあった。
ここは団地に引っ越す前の下見のときと、引っ越した直後には通ったところだが、そのときはコインランドリーには気づかなかった。
その後、徒歩15分ほどの、ヨーカドーの近くにコインランドリーを見つけ、3年半近くそこに通っていた。
洗濯日は日曜日と決めているので、ためしに行ってみると、なかなかきれい。洗濯機も乾燥機も新しいものが多い。
でも壁紙は汚れているし、手洗い用の水道やシンクは古い。ただ、天井だけはものすごくきれい。
もしかして、引越の頃は休業中で、その後再開したのだろうか。
ここだと徒歩8分くらいなので、時間短縮。店も広いし、洗濯機や乾燥機も数が多いしきれい。自販機のドリンクも安い。
というわけで、コインランドリー通いがものすごく楽になった。
遠い方のコインランドリーは夏の日差し、冬の北風の中を15分も歩いていくのはかなりつらかったが、そのかわり、景色がよかったり、途中で猫に会えたり、洗濯中にヨーカドーで買い物したりコーヒーを飲んだりできたから3年半通ったのも悪くはなかったと思う。

2019年1月23日水曜日

「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」ほか

先々週、村上春樹の短編「納屋を焼く」を映画化した韓国映画「バーニング 劇場版」の試写を見せてもらい、その後、村上の原作と、ウィリアム・フォークナーの短編「納屋を焼く」も読み、ここで感想を書こうと思っていたのだけれど、ネットでこの文章を読んで、あまりに見事な分析なので、これ以上付け焼刃的なことを書いてもしかたないのではないかと思ってしまった。
https://france-chebunbun.com/2018/12/30/post-18156/
1ページ目が昨年12月にNHKで放送された「バーニング 短縮版」について。
2ページ目がネタバレありで「劇場版」について論じている。(ネタバレ注意)
短縮版は見ていないけれど、この文章によると、短縮版は村上春樹の原作の結末に相当するところで終わっていて、劇場版(というか、これが本来の作品)ではそこから先が1時間くらいある。つまり、短縮版というよりは長い予告編?
とにかく、この文章の2ページ目に書かれている「劇場版」の解釈が見事というか、試写でもらった資料に書かれていた評論家や大学教授の文章がどうにもピンと来なかったのだが、この文章が私が考えたことにかなり近く、しかもそれをさらに詳しく分析していて、参りました、という感じ。
ただ、ここに書いてあること以外に感じたことがいろいろあるので、そのうち書いてみたいとは思っている。

さて、今日は「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」の試写に出かけた。
スコットランドの女王メアリーは何度も映画化されていて、ヴァネッサ・レッドグレイヴがメアリー、グレンダ・ジャクソンがエリザベスの映画も70年代に作られていた(私は見ていない)。
今回はシアーシャ・ローナンのメアリーとマーゴット・ロビーのエリザベスで、アカデミー賞ノミネート女優2人の対決が見ものだが、2人は最後に初めて顔を合わせるだけで(ただし、ここは史実にはない創作)、それまでは両者が交互に描かれる。監督のジョージー・ルークはマイケル・マンの「ヒート」を念頭に置いていたようで、なるほどと思った。
イングランドの女王エリザベスと、スコットランドの女王でイングランドの王位継承権を持つメアリーの権力争い、という従来の見方を変え、2人のかわした手紙から読み取れる女王同士の連帯感、絆みたいなものを中心に描いている。黒人やゲイが登場するのは史実的にどうなのかと思うが、これも現代的な解釈なのだろう。
一番の見どころは大人の女性を演じるシアーシャ・ローナンで、「つぐない」、「ブルックリン」、「レディ・バード」、「追想」と、少女や未熟な若い女性のイメージが強く、大人の女性を演じるのは当分先かと思っていたら、いきなり来ました、大人の女の役。
15歳でフランス王太子に嫁ぐも死別、スコットランドに戻って再婚、というメアリーが生理になったり、性の喜びを体験したり、出産したりと、女性の肉体的な経験と変化をローナンが演じる。彼女のメアリーは最初から大人の女性として登場していて、以前のような若い女性のイメージとはかなり違っている。
一方のロビーは天然痘の後遺症で美しさを失っていくエリザベスを演じていて、メアリーが妊娠し、出産するときに、エリザベスはむなしく紙で赤い花をいくつも作っていく、という対照的な描写。
美人であり、女性としての経験を存分にして生きたメアリーと、王位を守るために女を捨てたエリザベスの対比が、最後の対決シーンで浮き彫りになる。ここはなかなかの見どころ。
この時代、まわりの男がみんなワル、というのは至極当然として、しかし、女性のメアリーやエリザベスを男社会の被害者的側面だけで描くのは少々物足りないという感じはあるし、メアリーとエリザベスの対比もそれほど新しくは感じないが、最後の対決シーンで「私はスチュアート家だからあなたより上」とメアリーがエリザベスに言うあたりに由緒正しい家柄の女王メアリーと、父親ヘンリー八世に母親アン・ブーリンを殺され、その後も苦労したエリザベスの下から這い上がる者の生きざまが垣間見える。貧しい中から上り詰めようとしたトーニャ・ハーディングを演じたロビーがエリザベス女王であることに大いに納得した。

同じ試写室で昨年暮れに「ヴィクトリア女王 最期の秘密」を見たが、ジュディ・デンチが20年ぶりにヴィクトリア女王を演じる上、監督がスティーヴン・フリアーズなので大いに期待したけれど、かなりな期待はずれ。デンチが20年前に「QUEEN VICTORIA 至上の恋」で演じた女王は最愛の夫を失い、従僕と精神的な愛で結ばれる話だったが、今回はその従僕も亡くなり、老いた女王がインドから来た青年を寵愛する。このインド人青年と女王の話は女王の死後、徹底的に証拠を消されていたが、今世紀に入って資料が見つかり、この映画ができたようだけれど、世界各地を植民地にしていた大英帝国の女王と植民地インドから来た青年の交流の描き方がどうにも偽善的で好感を持てなかった。20年前のデンチの映画ではそういう感じはなかったのだけれど(イギリスだけの話だったからだが)、今回は女王とインドの関係がきれいごとすぎる感じで、周囲に差別的な人がたくさんいました的なお茶の濁し方なのも納得がいかない。若き日の女王を描いた「ヴィクトリア女王 世紀の愛」もそうだったけれど、今世紀に入ってヴィクトリア女王を美化する傾向があるのだろうか。

2019年1月20日日曜日

まだ届いていないのですが

1月19日発売で、書店でちら見してきました。

後の方の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」ディレクターズ・カットの記事を書いています。
2月1日から4週間、午前十時の映画祭で上映。私が行ける映画館は後半の2週間だなあ。
午前十時だと8時半くらいに出ないといけないので、朝が弱い私にはきびしいですが(すでにブルーレイで見ているし)、この映画が映画館にかかるのは本当に久しぶり。初公開から35年、名画座でもやっていましたが、最後の上映から30年くらいはたつ? しかも日本で公開されたのは25分くらいカットされたバージョンだったので、今回初めてスクリーンに映るシーンがカットされた25分+ディレクターズ・カットで加わった20分の計45分。
私は初公開時のキネ旬の特集の分析採録をやったおかげでカットされる前の完全版を試写室で見ることができたのですが、その後、この完全版はビデオやDVDでしか見てないです。
まあ、その辺の話は記事に書きましたが、それ以外に映画の内容を完全ネタバレで書いているので、未見の方は見る前には読まない方がいいかも。ディレクターズ・カットで加わったシーンについても詳しく書いているので、そこを知らない状態で見たい人も同じく。

キネ旬は以前はゲラが来なかったので、出した原稿が実際にどういうふうに誌面になってるのかは本を受け取るまでわかりませんでした。特にキネ旬に書き始めたばかりの頃は、原稿出したけど本当に載るのかなあと、本が出るまでドキドキしてたのを思い出します。
最近はゲラが来るようになって、もう誌面はわかってるので、そういうドキドキはなくなりました。
「ワンス・アポン~」については、分析採録では評論めいたことはほとんど書けないので、いつかこの映画について評論を書きたいと思っていましたが、その後35年間、何もしてこなかったのが実情。今回、思いがけず執筆の機会を与えてもらえ、分析採録のときにキネ旬に評論も書きたかったと思っていたので、35年ぶりの悲願(なんておおげさなものではないが)が叶ったことになります。
が、しかし、今回はディレクターズ・カットの紹介ということで、35年前に書きたいと思っていた評論とはやはり別物というか、ちょっと違うなと感じるのですが、それでも35年間の悲願であったことには変わりないので、満足感はあります。機会を与えてくれた現在の編集部、そして35年前にお世話になった編集部と東宝東和宣伝部に感謝します。


追記
行ける範囲の映画館でやってない、とか、朝は無理、という方のために
アマゾンで買える輸入盤ブルーレイ。日本語字幕、日本語吹替えつき。完全版も入っていて値段も安い。
 こちらは2014年に日本で発売された限定品のブルーレイ。豪華ブックレットつき。私は持っていません。
現在は1万円以上の高値で売られています。

2019年1月18日金曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」19回目@亀有シアター10

火曜に続いてまた行ってしまった「ボヘミアン・ラプソディ」。今回はMOVIX亀有のシアター10。通常上映では非常に条件のよいシアターです。
今日から「マスカレード・ホテル」が始まるので、シアター10での「ボヘミアン」は昨日の木曜日がラスト。亀有最大スクリーンで音響もよいこのシアターでの上映もこの日が最後かと思うと、行かないわけにはいきません。
TOHO日比谷のプレミアムシアターも「ボヘミアン」は今日までで、明日からは「マスカレード・ホテル」ですが、最初に行ったときはよかったけど二度目がイマイチだったので、こちらはパス。
火曜日に行ったTOHOららぽーと船橋もドルビーアトモスの「ボヘミアン」は今日からはレイトになってしまいますが、明日の土曜日だけは夕方の上映。ここはレイトだと帰りの電車がないので、レイトだけになってしまうと無理。
実はららぽーと船橋の上映、音響はすばらしかったけれど、画面が少し暗くて不満でした。
それまで4回続けてIMAXだったので、それで見劣りするのだろうと思っていましたが、亀有のシアター10は画面が明るくて非常によかった。音響も重低音やサラウンド感がそれなりにあってよかった。亀有出かけて大満足。もう1回見たいくらいでした。

この映画は名セリフやしゃれたセリフが多くて、英語シナリオ出てないのかなあと思ったけれど、出てないみたいですね。本になる脚本は実際の映画と違っている場合が多いので(完成した映画からの台本でないから)、ブルーレイ出たらそこでチェックした方がよさそう。
今回気づいたのは、クイーンの面々がジョン・リードと初めて会うシーンで、リードからクイーンを定義してほしいと言われ、フレディが「居場所のない人間たち」みたいなことを言うのに対し、ブライアンが「バンドは家族だ」と言うところ。ここにフレディと他のメンバーの考え方感じ方の違いが出ていて、この相違がしだいに亀裂になっていき、最後にフレディがメンバーや家族を自分の大切な人たちと思うようになる、という構成になっているのです。これは実はブライアンや他のメンバーの願望だったようで、「自分たちはバンドは家族だと思っていたが、フレディがそう思っていたかどうかはわからない。でも、フレディにもそう思ってほしいという願いを映画にこめた」みたいなことをブライアンがインタビューで言っています。
それ以外にも前から印象に残っていたセリフとして、ポールの「I know who you are, Freddie Mercury」というのがあって、これは農場でフレディが「ラヴ・オヴ・マイ・ライフ」を作曲しているとき、フレディが「これはメアリーのための曲、彼女が自分の一番の理解者」と言うのに対し、ポールが上のセリフを言う。つまり、フレディがゲイであることを自分は知っている、自分の方がメアリーより理解している、という意味で言っている。ところが後半、雨のシーンでポールがフレディに去られるシーンでも彼はまたこのセリフを言うのだけれど、今度は「おまえのやってきたことを知っている」という脅し文句になっているのです。
この映画にはこうした、セリフや似たシーンの繰り返しがいくつもあって、常套手段といえばそうなのだけど、なかなかうまいと感じます。
ブルーレイが出たら、またセリフについて書きたい。

亀有は今日からは「ボヘミアン」は2番目に大きいシアター9ですが、10に比べて9はスペックが劣る。
亀有は「ボヘミアン」は本当に優遇していて、最初はシアター10、2週間後に「ファンタビ」が始まって9になったけれど、1週間後にはまた10に戻る、それから「シュガーラッシュ」が来るまではずっと10で、「シュガーラッシュ」が来たあとも時々レイトで10にしていたりしましたが、先週金曜からは平日はすべて10。3連休だけは中くらいのハコになってしまって、このときは満席続出だったようです。
ただ、火曜日の船橋、木曜の亀有を見ると、お客さんはかなり減ってきたな、という実感があるので、これからは縮小していくのでしょう。IMAXがいつまでやっているかだな、今後は。

おまけ 我が家の今年のカレンダー。
「ボヘミアン」CD、シャンシャン誕生日記念カード、まるちゃん卓上カレンダー(表がカレンダー、裏が全面写真)。

まるちゃん壁掛けカレンダー。

書店で買ったシャンシャン・カレンダー。上野動物園で買ったシャンシャン・カレンダーはしまってあります。

ダイソーで108円のディズニー・カレンダー。1月2月は美女と野獣。ほかは白雪姫、シンデレラ、リトル・マーメイド、ラプンツエル、眠れる森の美女。108円とは思えないクオリティ。

2019年1月16日水曜日

夕暮れの谷津干潟&「ボヘミアン・ラプソディ」18回目

「ボヘミアン・ラプソディ」が日本で公開されてからまだ2か月と1週間というのに、すでに18回見てしまった。18回目は連休明けの火曜日にTOHOららぽーと船橋のドルビーアトモス。ここは前に1度アトモスで見て気に入っていたので、IMAXじゃなければここだな、と思ってまた見に行った。
「君の名は。」や「妖猫傳(空海)」は見るたびに発見があるので、見るたびに長いものを書いていたけれど、「ボヘミアン」はあまりそういうのがなくて、もっぱら音響の違いみたいなのでお茶を濁していたが、火曜日に見に行ったのはフレディがビバへ行くシーンにロジャーの後ろ姿が映っていると聞いて、それを確認という目的があった。
実は、あのビバのシーン、ぼんやりと映る後ろ姿がなんとなく気になっていたのだが、それがロジャーだというのだ。フレディがロジャーと一緒にビバへ行くという設定で、撮影もされたが、ロジャーがはっきり出ているシーンはカットされたとのこと。
この映画、画面にぼんやりと映っている人物やガラスに映っている人物に実は深い意味がある、というシーンが多くて、リピートしながらそこに注目していたのだけれど、このロジャーのぼんやりと2回映る後ろ姿も意味があったのだな。
ららぽーと船橋はお客さん、かなり若くなっていてびっくり。
ここは「ボヘミアン」は当初、すごく冷遇していて、アトモスもレイトしかないとか、すぐにそれもなくなって通常の小箱にされてしまうとかしていたのだが、その後、人気が出てアトモスも通常も回数が増えていた。これからは「ボヘミアン」はここのアトモスか109木場のIMAXかなあ、と思っていたら、今週末からまたアトモスはレイトだけになってしまうようだ。
ららぽーと船橋と木場は都心よりはやや近いし、運賃も少し安いのだが、木場は帰りの東西線のラッシュが殺人的でかなわないし、ららぽーと船橋は平日は夜8時に閉まってしまうので映画が終わってから変なところを通って帰らなければならず、おまけに帰りの電車が30分おきとか、どちらも帰りが困るのだけど、でも、船橋のアトモスはやはりいいので、またレイト以外でもやってほしいものです。

さて、南船橋といえば谷津干潟。火曜日は干潮が午後5時台で、映画の前に谷津干潟へ行って鳥の写真を撮ろうと家を出たら雨が降ってきた。これは今日は写真を撮るのはだめかな、と思っていたら、南船橋に着いたらすっきり晴れ渡っていた。

小さい鳥はいろいろいたが、大きい鳥はこのダイサギと、ほかにアオサギが1羽ずつだけだった。

3時半から5時近くまでいたけれど、干潮といってもこの程度。

アオサギ。ここはわりと干上がっている。

魚をつかまえたダイサギ。

歩くアオサギ。

夕暮れ。



アオサギが飛んで着地したところを動画から。

2019年1月14日月曜日

元祖「スタア誕生」(1937年)

だいぶ前に買ったのに見ていなかった1937年の元祖「スタア誕生」のDVDをようやく見た。
4本の「スタア(スター)誕生」の中では唯一、歌のないストレートなドラマで、これが実に見応えのあるドラマ。やはりこの作品が一番優れているのではないかと思った(バーブラ・ストライサンド版だけ見ていないけど)。
最初と最後に脚本が映るという、ほんの少しメタ映画ふうでもあるのだが、ノーマン・メインを演じるフレドリック・マーチがすばらしい。おそらく最高のノーマン・メイン。
1954年版のジェームズ・メイソンもすばらしかったのだが、あの映画ではメイソンとジュディ・ガーランドが年が離れすぎていて、親子のようだった。しかし、37年版のマーチとジャネット・ゲイナーはそれほど年は離れていない。「アリー/スター誕生」のブラッドリー・クーパーとレディー・ガガくらいか。
だから、54年版ではメイソンが落ち目のスターなのはもう世代交代でしかたないだろという感じもするし、54年版ではメイソンがガーランドを発見して育てるみたいだったけれど、37年版はマーチとゲイナーが偶然出会い、偶然の連続でゲイナーが映画会社と契約、その後も偶然にマーチ主演の映画のヒロインに抜擢、という感じで、マーチがゲイナーを育てるみたいなところはまったくなし。
「アリー」の場合はガガがすでに出来上がった歌手で、ただチャンスを与えられていなかったのがクーパーからチャンスを与えられるのだが、37年版だとほんとに偶然で、男が女を見出して世に出してやるみたいな感じがまったくない。マーチとゲイナーの出会いは伝統的なボーイ・ミーツ・ガールで、あとは本当に偶然にことが運んでいく。
ゲイナー扮するエスターは雪深いノースダコタの田舎からハリウッドに出てくるが、エキストラの登録さえ希望者多数で受け付けていないというきびしい現実にさらされ、たまたまアルバイトでパーティのウェイトレスをしたときにノーマン(マーチ)と知り合い、彼が女優の卵にスクリーンテストを受けさせるようプロデューサーに頼む癖があるのでテストを受けることができ、そして映画会社と契約。その後は会社の中で女優としての訓練を受ける。つまり、俳優が映画会社に所属していた時代のスターシステムなのだ。その間、ノーマンは彼女のことは忘れている。が、その後偶然再会し、自分の相手役にエスターがいいと思いつく。
一方、ノーマンはこのときすでに落ち目のスターで、酒におぼれて警察沙汰になったりと周囲に迷惑をかけてばかりいる。ノーマンとエスターの映画が公開されるとエスターは有名になり、ノーマンはもう必要とされなくなってしまう。
この映画では落ち目の人間に対する世間の冷たさのようなものがとことん描かれている。スターになるエスターはもてはやされ、落ち目のノーマンはとことん冷たい仕打ちを受ける。酒のせいで周囲に迷惑をかけていたからというのもあるが、落ち目の人間を切り捨てる世間の冷酷さを見ていると、これはアメリカン・ドリームのダークサイドではないかとさえ思う。
「アリー」ではクーパー演じるジャクソンの悲劇は彼自身の責任だということが強調されている。37年版のノーマンが受けるひどい仕打ちをジャクソンはほとんど受けていない。酒やドラッグに溺れる人を擁護しない姿勢があるのだが、37年版の落ち目の人間に対する社会の冷たさのようなテーマが完全な自己責任になってしまっているのを少し残念に思う。
37年版はハリウッドのきびしい現実やマスコミの意地悪さなどを描いていて、スターをめざすことには代償が伴うことが強調されている。が、代償が伴っても挑戦する価値がある、という結論になっていて、最終的にはアメリカン・ドリームの追求は肯定される。
37年版も54年版も最後は「私はノーマン・メイン夫人です」でスパッと終わるが、「アリー」はそのあとに歌があるのだけれど、序盤で歌われる「シャロウ」やクーパーの歌ほど印象に残らないのが弱点だった。やっぱりあいさつでスパッと終わった方がよかったのではないだろうかという気がする。

2019年1月11日金曜日

「ボヘミアン・ラプソディ」17回目@木場IMAX

月曜にゴールデングローブ賞の発表があり、お祝いがてらにまた見たくなって109木場へ。1週間ぶりのIMAXの「ボヘミアン・ラプソディ」。
しかし、映画館ガラガラ。ゴールデングローブ賞効果出てない? あるいは、これが109木場の平常運転なのか?
昨年暮れにポストカード目当てで初めて行ったときは満席。今年元日に行ったときもかなりよく入っていたのに。こんなガラガラの「ボヘミアン」初めてだわ~と驚くも、ガラガラの場内に響き渡るたった1人の客の食べる物音。ライヴエイドの直前まで続いていた。
実は、「ボヘミアン」を見に行くと大きな音を立てて食べている客がいる確率が他の映画より遥かに高いのだ。3回に1回はある。他の映画では食べている人はいるが、大きな物音でえんえんと、というのはほとんど記憶にない。ヒットしてるとそういう人が来るんだろうなあ。
3度目の109のIMAXだったけれど、この前のエクゼクティブシートのときはもう少し前の方がいいかなと思ったので、少し前にしたらちょうどよく、しかも重低音の響き具合がとてもいい。「ロック・ユー!」のとき、足踏みしている映像とそれ以外のときで重低音が違い、足踏み映像のときの重低音が本当に周囲が足踏みしているみたいに響いた。どうも音は場所によって違うようだ。

さて、辺野古問題でブライアン・メイから援護射撃を受けた沖縄県の玉城デニー知事の机の上。ご本人のツイッターから。

そして、火曜日の木場、深川ギャザリア。チューリップが植わっていた。





2019年1月7日月曜日

祝ゴールデングローブ賞2冠「ボヘミアン・ラプソディ」

"We are the Champions!"
ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞した「ボヘミアン・ラプソディ」のラミ・マレックと、クイーンのブライアン・メイとロジャー・テイラー。BBCのサイトから。


ノミネートされたときからなんとなく、ドラマ部門作品賞は「ボヘミアン・ラプソディ」が取るんじゃないかと思っていたんですよ、ゴールデングローブ賞。
アメリカでは評論家の評価が低いと言われていますが、日本じゃ評論家も文化人もすごく好意的で、叩いて話題になりアクセス数を稼ごうという魂胆がミエミエのサイトが無名のライターやブロガーにアホなこと書かせてお茶を濁すことがたまにある程度。
「ボヘミアン・ラプソディ」はアメリカでもヒットしているけれど、アメリカ以外がその何倍も稼いでいるという、世界型のヒット。だから外国人記者が選ぶゴールデングローブ賞は脈があると思っていました。
「ボヘミアン・ラプソディ」がなんでミュージカルコメディ部門じゃなくてドラマ部門なんだ、という疑問はありますが、「アリー/スター誕生」もドラマ部門。要するにドラマ部門に入るよい作品があまりなかった?
で、「アリー」はアメリカの評論家には大変受けがよく、アメリカではヒット。が、アメリカ以外はコケてます。日本でも「アリー」はコケてますが、アメリカ以外はみんなそうなんで、まあしかたないかと。実際、内容的にもアメリカ国内に受けるタイプなわけで。
アカデミー賞はゴールデングローブ賞とは異なる結果になることも多いので、わかりませんが、とにかくゴールデングローブ賞は予想が当たって超うれしい。アメリカの評論家の意見やロッテントマトの数字見て、作品としてはだめだとか言っていたやつら、ざまあみろ、です。

そして、これは予想する人もいた、フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックのドラマ部門主演男優賞。これもうれしい。

もう1つうれしかったのは、ドラマ部門主演女優賞のグレン・クローズ。何度もアカデミー賞候補になりながらいまだ無冠の彼女、これでアカデミー賞もありかな、どうかな。「天才作家の妻」は近場のシネコンでやる予定なので楽しみです。(実はグレン・クローズは記者会見で見たことがあるスターなのです。そのときの彼女の言葉が今回の受賞の言葉に少し重なって感無量。)

他の結果はこちら。
http://ゴールデングローブ賞歴代.com/2019/

また、今日は上の写真のブライアン・メイが、沖縄の辺野古への米軍基地移設のための埋立工事の中止を求める署名を促すツイートをしたことでも話題になりました。
この工事によりサンゴ礁がだめになるということで、海外でも反対の声があがっています。
関連記事
https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/brian?bffbjapan&utm_term=4ldqpgp#4ldqpgp
署名へのリンクが貼ってありますが、リンク先は英語。右側にファーストネーム、ファミリーネーム、メールアドレスを書き込む欄があり、書き込んで送信するとメールが来て、そこのリンクをクリックすると署名が確定します。どこかに日本語で説明してあるサイトがあると思うのだけど。私はもう署名しました。

2019年1月3日木曜日

久しぶりの公園

1か月半ぶりに近所の公園へ。
11月なかばに行ったきりなので毎年見ていた紅葉も見られず、ラーメンサミットにも行けず。
毎年恒例のお正月仕様の入口。


みごとな花壇の模様。風が強く寒いのでベンチに誰も座っていない。

柿がまだ残っている。



鳥を撮るのも久しぶり。



コサギが飛んできた。


いつものアオサギも健在。

2019年1月2日水曜日

大晦日と元日の風景

大晦日に「君の名は。」を見に川崎チネチッタへ行き、元日は「ボヘミアン・ラプソディ」を見に109シネマズ木場へ。
携帯で撮った風景写真です。

まずはチネチッタのあるチッタデッラ。1階のタワーレコードでは「ボヘミアン・ラプソディ」のデモ映像が流れていて、思わず見入ってしまいました。

年が明けて元日。昨年木場へ行ったときは大手町経由だったのですが、今回は西船橋経由にしてみました。こちらの方が少し時間が短くなり、運賃も安くなります。
西船橋は通り過ぎたり乗り換えたりは数えきれないほど経験している駅ですが、降りたのは初めて。なんで降りたかというと、木場の周辺で夕食がとれる場所があまりなさそうだったからです。西船橋は駅前に松屋があるので、ここで夕食。
駅から外に出るとクリスマスツリーが。右の方に松屋があります。

しかし、さびれた感じの駅前。人もあまりいない。元日だからか。

携帯なのでどの写真もぼけている。奥が駅の入口。

東西線で木場へ。例の事件のあった富岡八幡宮が近くなのですね。木場の周辺も人があまりいない。上に上がるのにエスカレーターをいくつも乗るのが面倒だけど、外に出ると徒歩2分で深川ギャザリア。

とてもきれいです。前回よりもぼけずに撮れた。






よく行くシネコンは大きなショッピングセンターの中にあって、いろいろ便利ですが、109木場はヨーカドーの中なのであまり広くないし、食事処も限られる。シネコンもスクリーン数が少ないのでどこでもやっている映画しかかかっていない。「ボヘミアン」のIMAX以外、あまり使い道がなさそう。

行きは武蔵野線の窓から富士山が見えて、元日から幸先よい感じです。