なんだか急に思いついて、サリンジャーを読んでいた。
サリンジャーは若い頃に「ライ麦畑でつかまえて」を読んで、いたく感動したものの、なぜか、他のサリンジャーを全然読んでいなかった私。
なんで?
自分でも不明。
自分好みのサリンジャーはライ麦畑だけで、ほかは違うと本能的に察していた?
まさか。
たぶん、そう、たぶん、ライ麦畑でおなかいっぱいだったのじゃないかと思う。
レストランで、ライ麦畑でおなかいっぱいのときに、ウェイターに「サリンジャー・シェフの料理にはこんなものも、こんなものもございます」とメニューを見せられたけど、もうおなかいっぱいで、そのまま店を出た。で、その後、そのレストランの近くには行くチャンスがなかった。たぶん、そんなところ。
でも、数年前から「バナナフィッシュ」は妙に気になっていたので、「ナイン・ストーリーズ」は読んでみようかな、とは思っていた。で、6月から1年間休館になる図書館にあるノンフィクションを借りたくて、そこへ行ったとき、「ナイン・ストーリーズ」の新訳があった(野崎孝じゃないやつ)。で、そのそばに野崎孝訳の「フラニーとゾーイー」があった。「フラニーとゾーイー」は今は村上春樹の訳に置き換えられて、野崎訳は絶版状態みたいなので、これも借りなきゃ、と思って、借りた。
で、「ナイン・ストーリーズ」から読み始めたのだが、別に新訳が悪いとは思わないのだが、なにか、野崎孝訳の方が性に合ってるのかなあと思いだしたのが、半分近く読んだとき。ネットで調べたら、そのあとにある「エズメに」が野崎訳が最高とか書いてあった。「エズメに」の前で読むのをやめたのは、おそらく天啓かもしれん、とかなんとか理屈をつけて、野崎訳の「フラニーとゾーイー」に移った。
「フラニーとゾーイー」の結末近くに、「太っちょのオバサマ」というのが出てくる。聖と俗に悩むフラニーに、兄のゾーイーが「太っちょのオバサマ」の例を出して、それでフラニーが救われるという結末だ。村上春樹は「太ったおばさん」と訳してるらしいが、どうせなら「太ったレディ」と訳せばよかったのに。
この「太っちょのオバサマ」はガンを患っていてラジオを聞くしか楽しみがない女性ということらしいけど、ガンを患っていたらやせてるだろ普通、というツッコミはなしで。
で、この「太っちょのオバサマ」は英語ではfat ladyのようだ。
fat ladyといえば、記事のタイトルにしたIt ain't over till the fat lady singsという言葉が有名。もともとは「太ったレディが歌うまではオペラは終わらない」という文章で、これはワーグナーの「神々の黄昏」の最後でヒロインのブリュンヒルデが20分にも及ぶアリアをえんえんと歌って終わるのを意味してるのだそうで、ここから、太ったレディが歌うまでは(試合は)終わらない、という具合に、スポーツの世界で使われる言葉になったとのこと。
私がこの言葉を知ったのは、アイスホッケーの最高峰、NHLをフォローしていたときで、NHLの掲示板でそう書かれているのを見たのが初めてだった。NHLの試合では最初に国歌斉唱(アメリカまたはカナダ、または両方)があるのだけど、その名物歌手に太った女性がいて、彼女についてもこの言葉が言われていた。
んなわけで、「フラニーとゾーイー」に「太っちょのオバサマ」が出てきたとき、すぐにピンと来たね。これはあのファット・レディだって。
が、日本人の書いた評論にはなぜか、この決まり文句への言及がない、と文句を言っている人がいた。でも、英語で検索しても、確かにサリンジャーはこの決まり文句をヒントに「太っちょのオバサマ」を考えたんだろうとは書いてあるが、それ以上のことは何も書いてない。要するに、ヒントにしただけで、決まり文句とは関係ないのだろう。ガンを患っていてラジオを聞いている太っちょのオバサマとオペラのソプラノ歌手では全然違うし。
でも、ファット・レディが歌うまでは終わらない、まだまだ大丈夫だ、という言葉は、フラニーの人生にも当てはまる気がするのだけどね。
あと、面白かったのは、「フラニーとゾーイー」の原文を野崎訳と村上訳を比べたブログで、そこでは村上訳の方が原文に忠実である例をいくつか紹介していた。そこだけ見ると、確かに野崎訳の方がまわりくどく、説明的に長くなっていた。私だったら、村上訳のやり方にするだろうと、少なくともそこにあげている例では思った(一部だけで判断することはできないが)。ただ、その人も、「太ったおばさん」よりは「太っちょのオバサマ」の方がずっといいと言っている。