亡くなった直後にデレク・プラントのツイッターで知ったのだけど、エドモントン・オイラーズ、バッファロー・セイバーズなどでコーチやGMをつとめたジョン・マックラーが1月4日に逝去。遅ればせながらご冥福をお祈りいたします。
ニュース等ではオイラーズの全盛時代のスタッフということが強調されていますが、セイバーズ・ファンにとっては、なんといっても、1990年代のドミニク・ハシェックとテッド・ノーランHCの対立でハシェックの側にいたGMだった、つまり、この対立の第三の人物だった、ということ、そして、2000年代に入って、マックラーがオタワ・セネターズのGMになり、ハシェックと契約したことからセイバーズとの間に因縁の対決があった、ということです。
優勝候補だったセネターズをセイバーズが圧勝、マックラーが悔しがる映像がセイバーズ・ファンの留飲を下げたということもありました。
これについてはいろいろと複雑な事情が背景にあるので、これ読んだだけでは何のことかわからないでしょうが、その後、ハシェックとノーランは和解したし、ハシェックもセイバーズの殿堂入りして、あの確執も過去のことになっています。
マックラーはずっとバッファローに住んでいたので、亡くなったのもバッファローでした。セイバーズがプレーオフでセネターズと戦っているとき、マックラーのバッファローの自宅の庭には「GO SABRES」と書かれていたとか。
デレク・プラントがセイバーズと契約したとき、マックラーはGMとHCを兼ねていました。普通、新人選手は二軍から始めるのですが、当時、セイバーズは故障者続出、デレクはシーズン前は一軍と二軍を行ったり来たりしていましたが、マックラーに認められて一軍スタートとなったのです。そしてセカンドラインのセンターとして活躍し、セイバーズの主力選手の1人となります。
そんなわけで、マックラーが恩人であるデレクですが、1997年のプレーオフではハシェックとノーランの対立が激化、その上、ハシェックがけがで出場できなくなったのがファンの間では仮病ではないかという疑いが起こり、チームもセネターズとの対戦で崖っぷちに追い込まれますが、最後の第7戦、OTを制したのがデレクだったのです。
2000年代に黄金時代を迎えたセイバーズも、2010年代は低迷。最近はファンの掲示板へも行かず、選手もほとんどわからなくなっていますが、久しぶりに四半世紀近く前の話を思い出しました。