2026年5月2日土曜日

「許されざる者」(1960年)許されないのは誰か

 午前十時の映画祭、GWはオードリー・ヘプバーン主演の西部劇「許されざる者」。

午前十時の映画祭ではオードリー主演の映画は人気なのだが、ロマンチックコメディではないシリアスな映画はイマイチなようで、「いつも二人で」は入りが悪かったらしく、この「許されざる者」もあまり予約されていない。今回はイーストウッド監督主演の「許されざる者」もラインナップに入っていて、どちらも映画祭初上映。

この映画、中学時代に日曜洋画劇場で放送されたのを見たのが最初。その後、字幕で見たような記憶があるので、1980年代に銀座文化で旧作がよく上映されていたので、それで見たのかと映画記録を検索してみたが、出てこない。レンタルビデオかDVDで見たのか、それも定かではない。

そんなわけで、これはどうしても見に行きたい映画だった。近隣のMOVIX柏の葉はだいたい11時半くらいからの上映なので、朝早く起きなくてすむ。日比谷シャンテシネでは朝と夕方の2回上映で、これも助かるが、映画館の設備はやはりシネコンの方が上なので、柏の葉へ行くことにした。初日の5月1日は大雨予報だったが、雨雲レーダーを見たら30分早く出れば小康状態のようだったので、10時に出発。が、つくばエクスプレスが線路に人立ち入りの疑いで徐行運転、駅ではしばらく停車、で、結局30分余計に時間がかかって到着。

で、映画が終わったあと、映画の余韻にひたりながらフードコートで食事しようとしたら、午後2時近くだというのに大混雑で席がなかなか見つからず、フードも高いのにおいしくなくてがっかりだったが、映画は予想以上によかった。

シアターの入口のポスター。暗いのでボケボケ。


こちらは海外版DVD。画像はAmazonから。


「許されざる者」は主演のバート・ランカスターの映画製作会社ヘクト・ヒル・ランカスター・プロの作品で、監督はジョン・ヒューストン。原作はジョン・フォード監督の「捜索者」の原作者でもあるアラン・ル・メイ。「捜索者」が先住民にさらわれた白人少女を探す話なのに対し、こちらは白人にさらわれた先住民の娘の物語。映画公開当時には翻訳も出ていたようだ。

バート・ランカスターは人種差別反対の人で、複数の映画で先住民の主人公を演じているが、この映画が作られた1960年頃には先住民を単なる悪役として描くことはすでにできなくなっていて、特に60年代以降は先住民を被害者として描く映画が作られるようになっている。そんなわけで、この映画も先住民を悪役にはしていない。

しかし、遥か昔、日曜洋画劇場で見た中学生の私は、この映画も結局は先住民をやっつけてめでたしめでたしの映画だと思った。クライマックスは主役の一家の先住民との戦い、そして、家族を見捨てた次男が助けに駆けつけるというのも昔の西部劇の常套手段に見えて、最後は義理の兄妹のランカスターとオードリーが結ばれてハッピーエンドなのか、と。

いや、映画全体としては、わりと好きだったけれど、まあ、そんなに傑作ではないだろうと思った。

この映画についての海外の批評をちらっと見たが、やはり同じような感想が多いようだ。人種差別をテーマにした4分の3くらいまではよいが、そのあとはただの娯楽活劇になってしまった、監督のヒューストンも製作側の意向でそうなってしまったのでこの映画は気に入っていないのだと。

しかし、今回、この映画を見て、それは違う、と思った。

以下、結末のネタバレ大有りになります。


この映画は人種差別がテーマなのだろうか?

そして、許されざる者とはいったい誰なのか?

先住民を虐殺した白人の男が生き残った赤ん坊を見つけ、罪滅ぼしの意味でか、彼女を家に連れ帰り、生まれたばかりの娘を亡くした妻が我が子として育てる。3人の兄は血がつながっていないことは知っているが、白人の娘だと思っている。しかし、先住民に息子を殺された男が亡霊のように現れ、彼女は先住民だと告げる。

冒頭から、オードリー演じるレイチェルとランカスター演じる長男ベンが、義理の兄妹であるにもかかわらず恋愛感情を抱いていることがはっきりとわかる。ベンは先住民を差別せず、優秀な先住民を雇っているが、次男(B級西部劇のスター、オーディ・マーフィ)は父を先住民に殺されたことから先住民を憎んでいて、差別意識も強い。三男はまだ純朴な若者。サイレント時代の大スター、リリアン・ギッシュが母親役。

彼らの前に、レイチェルの実の兄だと名乗る先住民が現れ、彼女を取り戻そうとするが、ベンは妹は白人だと言って断る。レイチェルに求婚してキスした男が先住民に殺され、白人たちはレイチェルが先住民であると思うようになる。ベンたちも、母親の告白から、彼女が先住民であることを知る。

求婚者が先住民に殺されるのは、その前に、ベンが雇った先住民がレイチェルの髪についたゴミをとってやったときにベンが怒り狂い、暴力をふるうのと対になっている。どちらも異民族に妹が侮辱されたと感じたので、ふだんは先住民を差別しないベンが怒り狂うのは、彼がレイチェルに恋しているからだが、この種の、妹のような身内の女性が侮辱されたとして男が暴力をふるうのは現在では男性が身内の女性を自分の所有物だと思うところから来ている男性中心主義だとして批判されているが、当時は、そして今でもこの手の文化のあるところでは普通にあることのようだ。

先住民であるレイチェルは、白人にとっては許されざる者であり、タイトルの意味はそこにあると、中学時代の私は思い、その後もずっとそう思っていた。しかし、今回映画を見て、それはそんな単純な話ではないと思った。

たとえ先住民であってもレイチェルは家族であり、絶対に守ろうと思うベンたちだが、次男は先住民だとわかったレイチェルを忌み嫌い、家を出る。白人たちからは拒絶され、孤立無援の一家は先住民と戦うことになる、のだが、これもよく見ると、先住民が始めた戦いではないのだ。

先住民はあくまで平和的に交渉しようとしているが、ベンは三男に先住民の1人を撃ち殺せと言う。三男は、相手は戦う意志がないのに、と反論するが、さらに言われて先住民を撃ち殺す。伝統的な西部劇では、正義の味方は最初に拳銃を抜いてはいけない。しかし、ベンは平和的な交渉を望む先住民に最初に発砲したのだ。

レイチェルが先住民であることがわかる過程では、白人が先住民を大虐殺した話が語られる。白人と先住民が互いに殺し合っていて、復讐の連鎖になっている、という設定だが、白人の先住民虐殺、そして、最初に発砲したのが白人側だということ、このあたりの、先住民の方が被害者であるという新しい時代の西部劇の意識が確かに垣間見える。

もちろん、当時はそうしたテーマはあまり表に出せなかっただろうし、最終的には映画は家族の結束に行きつく。ベンも他の家族も、すでに家族の一員であるレイチェルを絶対に先住民に渡したくなく、それで戦うことになるのだ。そしてレイチェルも、彼女の前に現れた実の兄の先住民を撃ち殺す。このとき、彼女は真の意味で、許されざる者になったのではないだろうか。(実の兄が死ねば、他の先住民は目的を失うので、義理の兄たちのためにレイチェルは実の兄を殺したと言える。)

先住民であることで白人たちから許されざる者と見なされたのは、彼女の責任ではない。しかし、実の兄の先住民を撃ち殺したとき、彼女はほんとうに許されざる者になった。その直後、彼女は泣いてしまうが、その涙の意味を、白人の兄たちは理解したようだ。

不幸な運命の中で、許されざる者になってしまったレイチェルだが、彼女を取り巻く白人こそが許されざる者たちである。

原題はThe Unforgiven。定冠詞+形容詞は、「~な人々」という意味。許されざる者は、単数ではなく複数だろう。ちなみに、イーストウッドの「許されざる者」は定冠詞がない。

最後、ベンとレイチェルが結ばれてハッピーエンドと、かつての私は思ったが、これはハッピーエンドとは言えない。実の兄を殺してしまったレイチェルは一生、心の傷を背負うだろう。ラスト、渡り鳥を見上げる4人の顔に笑みはない。白人からも先住民からも憎まれる存在になった彼らは、渡り鳥のようにこの地を去るしかない。

先住民の笛の音に対抗してリリアン・ギッシュがピアノを弾くシーンは印象に残っていたシーンの1つだが、そのあと、先住民がピアノを破壊するのは、ピアノが侵略の象徴だからに違いない。先住民の笛の音をかき消そうとするピアノの音。

こうして細かく見ていくと、表向きは先住民と戦うのがクライマックスの西部劇だが、先住民を悪役にしている西部劇とは違うことがわかる。ただ、家族の結束にまとめてしまったあたりが、この映画の弱点だろう。