2014年11月16日日曜日

デレク・プラント、クレインズ時代を語る

セイバーズは相変わらずのぶっちぎり、ではないものの、最下位まっしぐらでほとんど勝てないので、もう全然チェックしなくなったNHL。そしてアジアリーグもちらちら結果は見ているものの、今週末の横浜も行かず、最後に試合見たのいつだっけ状態。
が、今日はセイバーズ、リーフス相手に大勝してるじゃん、と思って、久々にセイバーズの公式サイトをのぞいてみたら、なんと、11月13日にデレクが取り上げられているじゃありませんか。
http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=738996&navid=DL|BUF|home
そのほか、ハシェックについての記事や、喉頭癌で休んでいた名物アナ、リック・ジャネレットの復帰のニュースがあります。今日のリーフス戦の1ピリだけ実況したらしい。このパソコン、フラッシュを新しくしてないので、ネットラジオも聞けない状態ですが、セイバーズがあの状態なので、ついつい後回しになっています(RJの声、聞きたい。ハイライト動画で聞けるかな?)。


さて、そのデレクの記事なのですが、簡単な紹介のあと、デレクに電話インタビューした内容が書かれています。
大学時代はゴール、アシスト、ポイントの3冠を達成、ホビー・ベイカー賞の候補にもなった、というのは知ってましたが、受賞者はポール・カリヤに、っていうのは初めて知りました。
そして、セイバーズ・ファンにとっては忘れられない1997年プレーオフのファーストラウンド第7戦のデレクのOTゴールの話題と、そして99年のファイナル(ダラス・スターズ対バッファロー・セイバーズ)で、ダラスにトレードされたデレクがトレード後初めてバッファローに戻り、ファイナルには出場しなかったものの、バッファローでダラスが優勝を決め、カップを持ち上げた話。「優勝はうれしかったけれど、相手がセイバーズだったので悲しかった」と語っています。
そしてそのあと、NHLを離れ、欧州に渡り、そしてアジアリーグの日本製紙クレインズでプレーした2年間について。デレクが日本時代について多くを語ることはあまりなかった上、大学のコーチになった今、振り返って、ということなので、興味深いです。
というわけで、一部抄訳。


プラントと家族はユニークな機会をほんとうに楽しむことができた。
「すばらしかった。僕と家族は日本の北部に住んだのだけれど、そこはミネソタ州北部やカナダにそっくりで、雪が多く、ホッケーがメインスポーツだった。
 サポートがたくさんあった。人々はサービス重視で、いつもわざわざ手を貸してくれたり親切にしてくれた。妻と、そして当時そこですごした2人の子供(日本を離れてから3人目が誕生)にとって、すばらしい体験だった」
チームは外国人枠が1人だったが、クレインズには10年くらい日本でプレーしているカナダ出身の日本国籍の選手が数人いた。彼らは彼が日本の文化になじんだり日本語を学ぶのを助けてくれた。
では、彼の日本語は?
「僕の日本語は悲惨だよ」と彼は笑って言った。「ドイツ語は少しはわかる。ドイツにしばらくの間いたから。でも、日本語はついていけなかった。僕にとって、日本語は学ぶのがとてもむずかしい言葉だよ」
こうした異なる文化と人々との出会いや経験のすべてが、彼の現在のコーチの仕事に役立っている。
「何かをする方法は1つじゃない、ということに目を開かせてくれた。方法はいくつもあって、みんなが受け入れるなら、どの方法も成功する可能性がある」


このあとは母校の大学のコーチとして2011年に優勝したこと、そして、今年、チェコで行われたU18の大会のアメリカ・ナショナルチームのヘッドコーチになったことが続きます。
そして、大学のヘッドコーチやさらに上のレベルのコーチになりたいという夢はあるけれど、今の仕事にも満足している、とのこと。また、スカウトとしてバッファローに何度か足を運んでいるようです。