最近は映画鑑賞から遠ざかっているが、見た映画でちょっと気になっている2本。
「不屈の男 アンブロークン」は旧日本軍の捕虜収容所での米兵への虐待を描いているので一部で反日映画のレッテルを貼られ、日本公開は不可能かと思われたが、公開が決まり、ただ今試写中の作品。監督は女優のアンジェリーナ・ジョリー。
公開未定の頃から、すでに見た人からは、反日映画ではない、悪いのは収容所の1人の軍人だけで、その人物は周囲からも頭がおかしいと思われていた、などといった意見が出ていたが、確かにこの程度の日本軍人が悪役の映画はけっこうある。
それより奇妙だと思ったのは、脚本家にコーエン兄弟やリチャード・ラグラヴェネーズやウィリアム・ニコルソンといった、名だたる面々が顔をそろえているのだが、そのわりには下手な脚本なのである。船頭多くして船山を登る、の典型なのか、それとも、誰がやってもだめだったのか(たぶん後者)。
映画は実在の五輪選手ルイ・ザンペリーニが第二次大戦中、爆撃機の墜落で47日間漂流することになる前半と、日本軍の捕虜収容所で虐待を受ける後半に分かれている。ジョリー監督は戦後のザンペリーニの苦悩とそこからの救済も描きたかったようだが、いろいろな制約でそれは無理だったらしい。結局、肝心なその部分(復讐よりも許すことがだいじと悟って自分が救われる)なしで映画化しようとするから、誰がやってもだめなんだろうと思う。
戦争が終わってザンペリーニが故郷に帰るまでの話だったら、虐待する日本軍人・渡辺をもっと深く描かなければだめだ。MIYAVIというロックスターが演じる渡辺は「戦場のメリー・クリスマス」の坂本龍一のへたくそなパロディでしかない。「戦場のメリー・クリスマス」や「戦場にかける橋」が優れていたのは、坂本やビートたけし、そして早川雪洲の演じた日本軍人の描写が優れていたからだ。
ジョリー監督が日本を貶めようとしているのではないことは十分にわかるが(米軍の空襲で日本の民間人が殺されたシーンを入れている)、時代考証その他が全然いいかげんなのは困る。日本国内の捕虜収容所で玉音放送を聞いてないわけないだろう。大森の収容所のまわりが田んぼってのもねえ。「硫黄島からの手紙」のようにきっちり作っている映画と比べると、やっぱりこれはアメリカ国内向けのキワモノか、と思う。
ジョリーはこの映画を日本人に見てもらいたいとコメントしていたようだが、本当に心から日本人に見てほしい映画と思って作ったとは思えない。その辺が「戦場にかける橋」などとは根本的に違うのだ(「戦場にかける橋」についても反日映画のレッテルを貼る人はいるので、反日は無関係だが)。
つまり、要するに、私にはこれは、アメリカ人がひどいが虐待を耐え抜いて精神的に勝利するという、アメリカ映画に時々あるパターンの映画の1本にしか見えないのである。
たとえば、オリヴァー・ストーンがアカデミー賞の脚本賞を受賞した「ミッドナイト・エクスプレス」。監督はアラン・パーカーなので、さすがに悪夢的な雰囲気が優れていたが、内容的には、トルコの刑務所で虐待されるアメリカ人がついに脱獄に成功するという、不屈のアメリカ人を描く映画なのだ。
そういう不屈のアメリカ人を描く背景として、トルコがあったり、旧日本軍があったりする、そういう映画の1つなのだ、と私には思える。
ジャズの世界での教師の学生へのいじめを描いた「セッション」もこのタイプの映画だ。虐待やいじめに耐えぬいて、最後は勝利する不屈のアメリカ人。要するにプロレスの世界。
軍隊内のいじめを描いても、「地上より永遠に」はそういう映画ではなかった。イギリス軍人が日本軍人の虐待に耐えて勝利する「戦場にかける橋」も、そのイギリス軍人の錯誤を描く後半によって、この映画は名作になった。スピルバーグの「太陽の帝国」にも虐待する日本軍人は出てくるが、日本軍人をリスペクトし、「ぼくたちは友達ではないですか」というイギリス人少年に彼は心を動かされる。
前半は漂流の話、後半は収容所での虐待の話と分かれているが、この2つに共通することといったら、せいぜい、ザンペリーニが苦難を生き抜いた不屈の男であるということを示すだけで、ただの災難2本立てみたいになっているのもなんだかなあである。渡辺という軍人ににらまれていじめの対象にされたのも、あの描写ではサメに襲われたようなものだしなあ。
というわけで、次はハーマン・メルヴィルの名作小説「白鯨」のヒントになったという実話をもとにした「白鯨との闘い」。こっちも漂流もので、監督はロン・ハワード。ハワードとしては別に名作の部類ではないが、相変わらず手堅い。名作ではなくてもこのくらい手堅く作れるかどうかでその監督の技量がわかる気がする。
大作家ナサニエル・ホーソーンに比べて、まだ駆け出しの作家だったメルヴィルが、これは自分が小説にすべき題材だと思い、生存者に話を聞くという設定で、最後に「白鯨」をホーソーンが絶賛したという字幕で幕を閉じるのもいい。
もちろん映画なので、メルヴィルの話も含め、フィクションが相当入っていると思うが、捕鯨船の船長にふさわしい実力の持ち主ながら、捕鯨で有名な島の生まれではないために船長になれず、かわりに島の有力者の息子が船長になり、この2人の対比で物語が進んでいく。人物は特に深みはないが、役者の存在感はいい。巨大な白鯨によって船は破壊され、生き残った乗組員たちは食料もないまま漂流を続け、ついに、生きるために人肉を食べることを余儀なくさせられる。
ここでは白鯨は単なるクジラではなく、悪意を持った怪物のようで、執拗に乗組員を襲う。また、過酷な自然の中で生き残るためにきびしい選択をしなければならない。
漂流の末、ようやく救い出された彼らを待っていたのは、事実を闇に葬ろうとする捕鯨業界。それに対し、主人公たちはどう行動したか。そして、人肉を食べたことで罪の意識を持ち続けている乗組員はどのようにして心の救いを得るのか。こういうところをきっちりと作っている映画だから、見終わって、ある種のカタルシスを得られるのである。