ルキノ・ヴィスコンティの「家族の肖像」が来年2月に岩波ホールでリバイバルされるとのことで、試写会に行ってきた。
1978年の初公開時にもちろん岩波ホールで見ていて、と思ったら、岩波ホールでは見ていなくて、翌79年、新宿武蔵野館で見たのが最初。その後すぐに大宮でも見て、今回が3度目だった。
当時は「ベニスに死す」がコケたあと、「ルートヴィヒ」が公開見送りになり、その後、岩波ホールでこの映画が公開されて大ヒット、他の映画館でも上映されたのだ。新宿武蔵野館は今の小さい映画館ではなく、大きな映画館だったと思う。
ヴィスコンティの映画の中では一番好きな映画だった。
しかし、40年近くたった今、あのとき何に感動し、一番好きな映画になったのか、再見しても思い出せない。いい映画であることは確かで、今回も面白く見たが、初めてのときの自分の情熱をどうしても思い出せないのだ。
あの頃、私は大学院にいて、E・M・フォースターで修士論文を書く準備をしていた。以前から「インドへの道」はデイヴィッド・リーンに映画化してほしいと思っていて、それは数年後に現実になったのだが、「家族の肖像」を見て、「ハワーズ・エンド」はヴィスコンティに映画化してほしかったと思った。ほしかった、というのは、その前、76年にヴィスコンティは亡くなっていたからだ。
今回再見してみても、「ハワーズ・エンド」との共通点をいくつか感じる。「家族の肖像」はイタリアの貴族や上流階級の斜陽のような雰囲気があって、主人公の教授は裕福な上流階級で、絵画に造詣が深く、家族を描いた肖像画を集め、それを自分の家族のようにして暮らしている。そこへ伯爵夫人とその娘とその恋人と夫人の若い愛人が強引に転居してきて、隠遁生活をしていた教授は彼らに悩まされることになる。
昔見たときは、ドミニク・サンダが演じる教授の母が登場するシーンが印象的で、このシーンを見て、「ハワーズ・エンド」の霊的な女性(ジェームズ・アイヴォリーの映画ではヴァネッサ・レッドグレーヴが演じた)が頭に浮かんだ。あの役には当時のサンダは若すぎるのだが、教授の城のような屋敷を守る霊的な存在感があった。
そして、バート・ランカスター演じる教授とヘルムート・バーガー演じる伯爵夫人の愛人コンラッドが初めて顔を合わせたとき、教授が彼に惹かれたような表情をする。コンラッドは上流階級ではなく、大学で美術史を学んでいたが、学生運動から左翼の過激派になった男で、美術に詳しいことから、教授は彼に自分の教養を受け継がせたいと思う。ラスト近くではコンラッドが教授への手紙に、「息子より」と書いている。
ぎりぎりのところでホモセクシュアルを回避して、父と息子のような関係にしているが、その背後にはホモセクシュアルな要素があると思わせるが、これもフォースターが公にはゲイであることを隠し、発表する小説では男女の恋愛を描き、そしてホモセクシュアルの深読みができる兄弟愛や「インドへの道」の男同士の友情を描いたのを連想させる。
そして、上流階級の中にただ一人、労働者階級出身の若者をまぎれさせ、彼が混乱を起こしていくのも「ハワーズ・エンド」に似ている。
シルヴァーナ・マンガーノ演じる伯爵夫人とその娘という2人の自我の強い女性たちはフォースターの世界とは無縁に思えるが。
フォースターはイギリスの非常に裕福で家柄も高い上流中産階級の出身で、人生の後半はケンブリッジ大学の役職を得て、教育の仕事はせずに研究やノンフィクションの執筆をしていたが、それも教授の隠遁生活にどこか似ている気がする。
というわけで、ヨーロッパの裕福な貴族的インテリの世界という共通点が、フォースターの研究にどっぶりだった私を「家族の肖像」に惹きつけたのかもしれない。そして今、その情熱は過去のものになったのだと気づいた。
(一部、記憶違いを訂正しました。)