アカデミー賞大本命と言われるデイミアン・チャゼルの「ラ・ラ・ランド」を見てきた。
終わったあと、最近にしてはめずらしく余韻にひたりたくなり、汐留から新橋駅を超えて内幸町の方までしばし歩いた。
よかった、面白かった、考えさせられた、という映画はたくさんあったが、余韻にひたりたくなってしばらく歩いたのは久しぶり。
チャゼルは前作「セッション」が、私にはコンセプトに疑問を感じるところがあって、世間ほどは高く評価しなかったのだが、この映画も途中まではそんなにすごいのかなあという感じがあった。でも、最後の部分で、この映画のコンセプトがしっくりと来て、これは支持したいと思った。
「雨に唄えば」などの50年代のMGMミュージカルや、60年代のジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」や「ロシュフォールの恋人たち」を意識したミュージカルで、カラフルな色彩といい、ミシェル・ルグランふうの歌曲といい、どっちかというとジャック・ドゥミの方かな、と思っていたら、最後は「シェルブールの雨傘」だった、と書いてしまったら、これでもうネタバレですね。
ただ、「シェルブールの雨傘」の結末が戦争の影響によるものだったのに対し、この映画は成功の代償、夢の代償のような感じになっている。
最後のミュージカルシーンは「雨に唄えば」や「巴里のアメリカ人」のダンスシーンのようで、それまでのシーンでこうなっていたら、みたいなパラレルワールドが展開。
その前のシーンでは、夢や成功を選ばなければこうなっていたかもしれない普通の幸せが表現される。
でも、ヒロインのエマ・ストーンがオーディションで歌う歌のように、夢を追いかけ、成功させることが大事、という映画の流れからすれば、こうなったのは少しほろ苦いけれど、彼女も彼も納得できることなのだ。
その一方で、夢や成功を得られなくても普通の幸せもいいよね、と思わせてくれる。ニクイ。
冒頭の渋滞する車の列でのダンスシーンはとてもカラフルだけれど、ここは「シェルブールの雨傘」の冒頭のカラフルな傘ではなく、むしろグザヴィエ・ドランが描いたカラフルな服が舞うシーンを連想した。ロサンゼルスだからシェルブールと違って乾いている。
ジャズ関係者から評価されなかった「セッション」だが、この映画もライアン・ゴズリング演じる主人公のジャズへのこだわりが強く描かれていて、ジャズ関係者はこちらをどう見るだろうかと思った。
「理由なき反抗」が出てくるから、ワーナーブラザースのカフェ?
でも、エンドマークはパラマウントのものだ。
シネマスコープも色彩も、50年代のハリウッド映画を意識している。
でもやっぱり60年代フランスの「シェルブールの雨傘」に一番近い気がするのだよね。
エマ・ストーンは最後の部分で表情や雰囲気ががらりと変わり、演技力を感じさせる(5年間の変化を演じているのだ)。ライアン・ゴズリングにはそういう変化はないが、彼は好感度抜群。そういえば、「シェルブールの雨傘」でも変化を見せたのはカトリーヌ・ドヌーヴの方だった。
LAの聖地巡礼がしたくなるような名所の数々。映画によく登場する浜辺の桟橋のシーン、天文台、ケーブルカー、壁画などなど、「君の名は。」のような聖地になりそうな雰囲気の場所だ。