4月27日からの10連休、みんながみんな休みなわけではなく、特に大学は授業のある日も多いようです。
さて、10連休の前夜、26日金曜日は昼間に試写で「誰もがそれを知っている」を見て、そのあと、東京駅から高崎線でさいたま新都心へ。
午後6時台の帰宅ラッシュ時間なので混むのは当然。東京駅から上野駅まで高崎線または宇都宮線でこの時間帯に行ったことは何度かあるので、混み具合もわかっていました。
その時点でかなり混んでいたのですが、殺人ラッシュになったのは赤羽駅から。ここでものすごい数の人が乗り込んできて、すし詰め状態。他の乗客と体がくっついた状態というか、くっつく以上に相当な圧力で押されます。こんなの、電車が遅れたとか何かあった場合しか乗ったことないけど、この電車は別に何かあったわけじゃない、これが平常運転らしい。
赤羽の次の浦和ですし詰めはとりあえず解消しますが、それでも人と人との間に空間がほとんどないような状態。浦和の次がさいたま新都心で、この時間帯にさいたま新都心に帰宅する人などいるはずもなく、降りるのは映画やコンサートに行く人だけでしょう。案の定、降りる人は少なく、前の人たちにいったん降りてもらってやっと降りられる状態。
埼玉県の人は大変だ、埼玉県の団地にしなくてよかった、とつくづく思ったのでした。
かれこれ4年近く前に都心から家賃の安い郊外の古いUR賃貸に引っ越すことを考え、いくつか候補を見つけたのですが、その1つが、「埼玉県のうた」を歌うはなわ氏が生まれた春日部市の武里団地。東武伊勢崎線の駅前。が、この東武伊勢崎線(スカイツリーライン)と乗り入れている地下鉄日比谷線の大混雑を何度も経験しているので、それがいやで却下したのだけど、埼玉方面の電車ってどれも混んでます。
帰りは京浜東北線で南浦和に行き、そこで武蔵野線に乗り換えたのだけど、上りの京浜東北線がすごいラッシュ。下りの方がよっぽどすいている。なんで? 途中の北浦和で乗ってきた若者たち、明らかに埼玉大学生だわ。ほかにも社会人のグループとかいて、あっちこっちからおしゃべりが聞こえる。もうとにかく上りなのにこんなに混むのかよってくらい混んでました。南浦和で武蔵野線に乗り換えるのに都合のいい車両だったからかもしれないけど。
そして、武蔵野線もいつもより混んでいた。10連休前の夜というのが関係してたのだろうか。
武蔵野線は南浦和から千葉県方面行きに乗ると、南越谷、越谷レイクタウン、吉川の3駅で埼玉県民がどっと降りて、あとはだいたい千葉県民。というか、いつもは吉川からガラガラなんだけど、この日はそうでもなかった。
この武蔵野線も、埼玉県の方はものすごく混んでいます。南越谷で東武伊勢崎線に乗り換える人が多いみたい。まあとにかく人が多いんだわ、埼玉。
で、なんでさいたま新都心へ行ったかというと、MOVIXさいたまの最大箱シアター12で「翔んで埼玉」を上映するからです。
この映画もそろそろ終わるところが多くなってきていますが、MOVIXさいたまは当分やると思うけど、大きいスクリーンではなかなかやらなくなっていました。
最大箱シアター12での上映は、26日の夜が最終かもしれない、と思うと見に行かないわけにはいかない。
先日の浦和の応援上映は楽しかったけれど、音響、映像はMOVIXさいたまに比べると劣っていたので、もう一度、さいたまの最大箱で見られるのはありがたかったです。
聖地さいたまもさすがにお客さんは少なく、500人のシアターに数十人でした。笑い声も特に聞こえず、終わったあとにはお客さんの楽しげな声があちこちから聞こえたけど、六本木の方が声が大きかったなあ。さいたまの方はリピーターも多かったのだろうけど。
話題のドルビーシネマがオープンし、さいたまの話題はそちらに行っているようです。
昼間見た「誰もがそれを知っている」は「別離」、「セールスマン」で2度のアカデミー賞外国語映画賞に輝いたイランのアスガー・ファルハディ監督の新作で、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム主演の完全なスペイン映画になっています。
アルゼンチン人と結婚し、故郷を離れていた女性(クルス)が妹の結婚式のために2人の子供と里帰り。故郷には父や姉夫婦、元恋人(バルデム)とその妻などがいる。クルスとバルデムが元恋人なのは田舎町では誰でも知っている。
そして、結婚披露宴のさなかにクルスの娘が誘拐され、身代金を要求される。本国で求職活動中だったクルスの夫もやってきて、警察に知らせずにどうやって解決しようかということになるのだけれど、途中で、ある重要な秘密がわかり、それが事件の背景になっていることが判明する、という内容。
その秘密がネタバレになるのでこれ以上詳しく書けないけれど、秘密が出てくるまでが少し冗長で眠くなりました。「別離」や「セールスマン」に比べると脚本がイマイチかもしれない。
クルスとバルデムが主演なので、時々、ペドロ・アルモドバルの映画じゃないかという錯覚に襲われますが、映像がくっきりとした色合いの美しいもので、この辺もアルモドバルっぽい? ただ、アルモドバルの映画では母親が重要だけど、この映画では父親が重要。ここはすごくよかったけれど、ネタバレできないので書けない、残念。
ファルハディの作る話は、ある出来事や事件がきっかけで、家族や夫婦の関係に大きな変化が起こるというもので、それは「別離」や「セールスマン」と共通している。ただ、イランが舞台の2作と、スペインが舞台のこの映画では変化の現れ方はいくぶん異なっている気がします。クルスの夫を演じるアルゼンチン俳優、リカルド・ダリンもいい味を出していて、主役の3人の演技がみごと。
もう1本、別の日に見た「さらば愛しきアウトロー」。ロバート・レッドフォードが引退宣言した最後の出演作とのこと。
原題が、「The Old Man & the Gun」で、これは明らかにヘミングウェイの「老人と海」(The Old Man and the Sea)のもじりなわけです。
老いた漁師が漁に出て大きな魚と格闘し、ついに仕留めるが、帰る途中で鮫に食べられてしまうという、老人のハードボイルドな生き方を描いたヘミングウェイの小説に対し、この映画は強盗と脱獄が生きがいみたいな伝説の銀行強盗フォレスト・タッカーの懲りない人生を描きます。
タッカーは決して人を傷つけず、紳士的に銀行強盗をし続けた実在の人物とのことで、レッドフォードより少し年上のクリント・イーストウッドが監督・主演した「運び屋」と比べて見てしまう面もありますが、「運び屋」に比べるとこちらはずっと明るくて、タッカーから見たら、「運び屋」の老人は人生を楽しんでないということになりそう。「運び屋」のイーストウッドが刑務所で静かに花を育てているとき、レッドフォードのタッカーは脱獄こそが人生の楽しみみたいに思って実行している。
レッドフォードはやはり、ポール・ニューマンの系列の反逆児的側面もあったのだな、と思う。一方、イーストウッドの方は、反逆とは無縁なアウトローだったか(俺が法律だ、みたいな感じ?)。
レッドフォードもイーストウッドも監督としても成功したが、この2人の比較というのはどうなのだろう。イーストウッドは監督としては巨匠クラスになっているが、レッドフォードはサンダンス映画祭の活動が高く評価されている。俳優としては演技が際立つタイプでなく、どちらも主演男優賞には届かない。でも、2人とも一世を風靡したスターであることは確か。
「運び屋」が高齢のイーストウッドが監督しているのに対し、「さらば愛しきアウトロー」は若い監督なのも対照的です。