2021年5月9日日曜日

もやもや

 東京五輪の記録映画の監督をまかされている河瀬直美の最近の発言が変だというので話題になっているが、もともと私はこの人の映画は嫌いだったし、さもありなんな感はある(去年の「朝が来る」は比較的好意的に見たのだが)。

もともと嫌いだった、好きじゃなかった、のなら、ふーん、と終わるのだが、そうじゃない場合はまた違う。

昨日、駅で電車を待つ間、時間があったのでエキナカの書店をのぞいていたら、この本がどーんとあった。

1970年代前半、竹宮恵子と萩尾望都が同居していた大泉の家に若い少女漫画家たちが集まり、大泉サロンと呼ばれていた、ということに最近注目が集まり、萩尾望都のところにも取材が来て迷惑なので、それをやめてもらうためにこの本を書いたらしい。

同居していた竹宮と萩尾が決裂するに至った背景は、竹宮がこの本で書いている。

この本のせいで萩尾の方に取材が来るようになったり、竹宮との和解を求められたりしたという経緯があったようだ。

竹宮の本は数年前に読んでいて、それによると、のちに評論家・小説家となる増山法恵が萩尾のファンで、文通がきっかけで友人となり、その後、竹宮と知り合った増田が萩尾を紹介、意気投合した3人は、竹宮と萩尾が増山の自宅近くに家を借りて同居、そこに少女漫画家たちが集まり、という具合になった。

当時、萩尾は講談社で描いていたが、講談社の担当編集者は萩尾の漫画が好きでなかったようで、何を持って行っても描きなおしを命じられる。萩尾から見たら、どこが悪いのかわからない、ということで、竹宮と増山に漫画を見せたところ、2人もどこが悪いのかわからない。講談社の担当に見る目がない、と思った竹宮は、小学館の自分の担当編集者に萩尾を紹介する。

すると、小学館の編集者は萩尾の漫画を気に入り、彼女の作品ならなんでもそのまま掲載するようになった。

一方、竹宮は当時は絵はうまいが漫画の構成力に難があり、また、萩尾と違って自分の世界を持たず、いろいろなタイプのものを描き散らしていたようで、担当編集者からは常に厳しい批判を受けていたらしい。

担当編集者が萩尾を全面支持し、自分には厳しく当たる、ということで、竹宮の中に萩尾に対する嫉妬が沸き起こり、そのせいで心を病むようになり、これ以上同居は無理ということで、同居を解消した、とされている。

私は竹宮と萩尾の漫画はリアルタイムで読んだことはなく、1990年頃に彼女たちの代表作を読んだ程度なのだが、周囲に漫画ファンがいたせいで、竹宮と萩尾の決裂については萩尾ファンサイドの意見を聞いて知っていた。それは竹宮が書いているよりもずっと複雑だった。

萩尾ファンに言わせると、「風と木の詩」も「トーマの心臓」も増山が出したアイデアで、それを2人がそれぞれ別の漫画にしたのに、竹宮は萩尾が盗作したと言って、萩尾を家から追い出した、ということになっていた。当時感じたのは、萩尾ファンは竹宮が大嫌いらしいということかな。みんながみんなそうではないのだろうけど、この2人はタイプが全く違うので、ファンもまったく別のタイプでもおかしくない。

そんなわけで、竹宮と萩尾の決裂について萩尾が本を書いたのか、これは読まねば、と思いつつ、電車の発車時刻が近づいたので買わずに帰り、ネットでいろいろ検索して、うーん、これは読まない方がいいのだろうか、という気になっている。

アマゾンを見ると、「読まなきゃよかった」という感想もある。

また、これを読んだ萩尾ファンの一部が竹宮に怒りを燃やし、竹宮の本にひどいレビューを書いていたり、ネットで竹宮を中傷しているのもなんだかなあ。もちろん、両者に配慮している意見の方が多いのですが。

萩尾は竹宮の嫉妬のことを、「排他的独占欲」みたいな言い方をしているらしく、それを、萩尾は嫉妬を理解できない、と評する人もいるようだが、私は「排他的独占欲」で合っていると思う。少なくとも、あの件に関しては。

それはつまり、竹宮が「風と木の詩」の企画を担当編集者に持ち込んだが、編集者は美少年同性愛ものなんかダメ、とまったく取り合ってくれなかったところがそもそもの始まりだと私は思うのだ。竹宮は「風木」のストーリーを思いつき、増山とその話をたくさんしていた。同居していた萩尾の耳にもそれは入るだろう。それが萩尾の中で彼女独自の別の作品になり、そして、萩尾の作品ならなんでも掲載する同じ編集者が、「風木」を否定し、絶対に出してくれない同じ編集者が、本にする。

この悔しさがわからない人は、残念ながら、多い。

時間はかかったが、「風と木の詩」を完成させ、大ヒットさせ、その後も活躍を続け、21世紀には大学教授となり、学長も経験した竹宮にとって、その悔しさはもう過去のものであり、あれは嫉妬だった、と述懐できる。

当時の竹宮が、すぐに許可をもらえて「風木」を描いたら、あれほどの傑作になったかどうかは疑わしい。増山は、時間がかかったが、その分画力が上がってよかった、と言っているし、竹宮自身、「風木」を描かせてもらう条件として、読者投票1位になる作品を描け、と、新しい担当編集者に言われて描いた「ファラオの墓」で、プロットやキャラクターを作ることを学んだ、と書いている。

一方、萩尾の方は、親友だと思っていた竹宮と増山から盗作だと言われ、3人の輪から排除されたことでひどく傷つき、それでこの話は封印してきたようだ。

萩尾と増山が友人だったのに、そこに入ってきた竹宮と増山の方が一心同体みたいになってしまったことも、疎外感を強めたんだろうなと思う。

「風と木の詩」は増山がブレーンだったことで知られていて、増山にとってもだいじな作品だったわけだから、2人で萩尾を責めることになってしまう。まさに「排他的独占欲」だ。

萩尾が竹宮と増山の話を聞いて触発され、自分なりの作品を描いて、それを先に発表したというのは第三者から見れば悪いことではないのだけど。

ひっかかるのは、萩尾は大泉サロンについて世間の関心が高まって自分にもアプローチがあることをやめてほしいので本を書いた、そして、これが最初で最後だ、と言っていること。

つまり、反論できないのだ。

そして、竹宮の本に比べて萩尾の本の方がはるかに世間の関心が高い、というのは、書店での置かれ方やアマゾンのレビュー数からわかる(竹宮の本は萩尾の本が出る前はレビュー数が少なかった)。

竹宮の本は若い漫画家が苦労の末に成功をつかむサクセスストーリーだが、萩尾の本には「竹宮が書かなかったことを暴露する」面があって、そういう要素で売れちゃうのかなというか、自分はそれで買おうとしていたわけだが。(そうじゃないこともたくさん書かれているそうです。)

最後に、アマゾンの竹宮の本についたレビューから。


論文でもそうですが、自分があたためてきた主題や問題設定を「一番最初に世に出せるか」否かというのは、時としてその後の全てに関わる位絶対的な意味があり、それを完璧な形で先取された時、人はどういう状態に置かれるでしょうか。
(実際、萩尾氏も御自分の著書の中で、『トーマの心臓』や『あぶない壇ノ浦』が、それぞれ『風と木の詩』、『吾妻鏡』に先行して発表された作品であることを、印象付けています)

また、両書を拝読する限り、当時の竹宮・増山両氏にとって「少年」「愛」が、漫画家としての存在そのものをかけて問うべき<主題>だったのに対し、萩尾氏にとって「少年」は、人間、そして自由という根本問題・真の花を描くための<モティーフ>に過ぎなかったのではないかという意識の差を感じました。

(それ故、と言えるのかは分からないものの、竹宮作品は恐らく当時の時代性と切り離しては捉え難い側面がある一方で、萩尾作品には時代を超越した普遍性が備わっているように思われます。)


そして、その差はとても大きなものであるように思え、第一に先取、第二に自分たちの主題に対する或種の軽視という、当時の竹宮・増山両氏にとっては二重の禁忌が犯されたように感じられたのではないか、と読めました。
無論それらによって、当時の両氏による、萩尾氏の純然たる創作への非難を正当化することは決して出来ないものの、沈黙までもが批判されることとは思えません。