はあ、クレインズも3連敗……それもホームで韓国勢に。うーん、試合間隔あきすぎなんだよね、きっと。あと、ハイワンがここに来て調子よくなってるみたいな気が。逆にハルラは下降線か、バックスが上昇傾向か。わかりません。
あとはまあ、読書。ベッキーさんシリーズは3冊目が手元にないので、先日、ブックオフで買った精神科医伊良部シリーズの3冊目、「町長選挙」を読みました。やっぱり面白いね、このシリーズ。1冊目「イン・ザ・プール」はけっこう毒があって、伊良部もトゲがあったのだけど、2冊目「空中ブランコ」では毒やトゲが抜けてその分、癒し系の雰囲気が急増していましたが、3冊目も癒されます。ナベツネみたいなプロ野球オーナーや、ホリエモンみたいなIT長者が、伊良部と出会って人間的に丸くなる話に加え、表題作の「町長選挙」は、小さな島の選挙を通して、都会とは違う世界のあり方を浮き彫りにする目からウロコのお話です。
というところで、今日は、ブログ休止中の7月から10月中旬までに撮った猫写真を。
まず、夏ですね、ってことで、ひまわり。そして、猛暑でも元気だった猫たち。
2010年10月31日日曜日
2010年10月30日土曜日
たまにはホッケーネタ行ってみようかね
負け続けのセイバーズの試合の話はしたくないけど、セイバーズの殿堂入りの話題ならよいでしょう。
2011年の殿堂入りは、アレクサンダー・モギルニーとジム・ケリーだそうです。来年1月1日のブルーインズ戦の前にセレモニーをするらしい。
ご存知、モギルニーは、まだ東西冷戦、鉄のカーテンがあった時代に、セイバーズによってドラフト指名を受けたソ連(当時)の選手。生まれはシベリアとかで、わりと日本に近い方だったみたいですね。指名した当時(1988年)はペレストロイカの時代だったとはいえ、ソ連や東欧の共産圏の選手が北米へ行けるかどうかは賭けだったのですが、それでもセイバーズは指名。そして、NHLでプレーしたかったモギルニーは、1989年、世界選手権のときに亡命、KGBを避けるためにセイバーズのGMと毎晩ホテルを替えての逃避行の末にアメリカに渡ったのでした(スパイ小説さながらだね)。
モギルニーは家族やチームメイトが逮捕されたりしないか、心配だったそうですが、時代はやはり変わっていて、半年後にはソ連に里帰りできたそうです。以後、ソ連東欧の選手が続々と北米へ渡ることになります。
貧乏チームのセイバーズは数年後には年俸の高くなったモギルニーを手放すことになるのですが、それまでの期間、ラフォンテーヌと組んで大活躍。パワープレーではこの2人にアンドレイチャクが加わって、最強のPPラインだったらしい。
もう1人のジム・ケリーですが、この人は「バッファロー・ニュース」の記者だった人ですが、なんといっても、1997年のプレーオフ、そうです、あの、オタワとのファーストラウンド、デレク・プラントのOTゴールで勝ちぬけたファンの記憶に残るシリーズの真っ最中に、ハシェックと対立、ハシェックにシャツを破られる暴行を受けたという人。ケリーは当時、セイバーズの番記者で、非常に優秀な記者だったようですが、あの時代はハシェックとテッド・ノーランHCが対立していて、ぐっちょんぐっちょんの時代だったんですが、ケリーはハシェックを執拗に批判していた記者だったのです。特にあのオタワとのシリーズでは、ハシェックが試合の途中でいきなり自ら降板。ハシェックはケガが多い人なんで、このときもケガだったらしいんですが、それをケリーが本当にケガなのかとか聞いて、怒ったハシェックが、という顛末なのだけど、でも、ケリーはこのときは単にケガかと聞いただけで、怒るような状況じゃなかった、原因はその直前にあったのではないか、とも言われています。この時代のぐっちょんぐっちょんについては当事者しかわからないような謎の部分が多く、ファンもいまだに首を傾げることがあるようです。たぶん、デレクは知ってただろうね。とにかく、これでハシェックはサスペンド(実際はケガで出場は無理だったが)、危機に陥ったセイバーズを第7戦で救ったのがデレク、というドラマチックな結果になったのでした。
この話は前のさーべる倶楽部(1から3のどれか)には何度も書いたし、モギルニーのことも書いたと思うけど、どこにあるかは私も探さないとわかりません。検索すれば出てくるかも。
モギルニーはすでにNHLを引退、ケリーもバッファローを離れて久しいのですが、モギルニーとケリーなら一緒にセレモニーやっても問題ないでしょう。
2011年の殿堂入りは、アレクサンダー・モギルニーとジム・ケリーだそうです。来年1月1日のブルーインズ戦の前にセレモニーをするらしい。
ご存知、モギルニーは、まだ東西冷戦、鉄のカーテンがあった時代に、セイバーズによってドラフト指名を受けたソ連(当時)の選手。生まれはシベリアとかで、わりと日本に近い方だったみたいですね。指名した当時(1988年)はペレストロイカの時代だったとはいえ、ソ連や東欧の共産圏の選手が北米へ行けるかどうかは賭けだったのですが、それでもセイバーズは指名。そして、NHLでプレーしたかったモギルニーは、1989年、世界選手権のときに亡命、KGBを避けるためにセイバーズのGMと毎晩ホテルを替えての逃避行の末にアメリカに渡ったのでした(スパイ小説さながらだね)。
モギルニーは家族やチームメイトが逮捕されたりしないか、心配だったそうですが、時代はやはり変わっていて、半年後にはソ連に里帰りできたそうです。以後、ソ連東欧の選手が続々と北米へ渡ることになります。
貧乏チームのセイバーズは数年後には年俸の高くなったモギルニーを手放すことになるのですが、それまでの期間、ラフォンテーヌと組んで大活躍。パワープレーではこの2人にアンドレイチャクが加わって、最強のPPラインだったらしい。
もう1人のジム・ケリーですが、この人は「バッファロー・ニュース」の記者だった人ですが、なんといっても、1997年のプレーオフ、そうです、あの、オタワとのファーストラウンド、デレク・プラントのOTゴールで勝ちぬけたファンの記憶に残るシリーズの真っ最中に、ハシェックと対立、ハシェックにシャツを破られる暴行を受けたという人。ケリーは当時、セイバーズの番記者で、非常に優秀な記者だったようですが、あの時代はハシェックとテッド・ノーランHCが対立していて、ぐっちょんぐっちょんの時代だったんですが、ケリーはハシェックを執拗に批判していた記者だったのです。特にあのオタワとのシリーズでは、ハシェックが試合の途中でいきなり自ら降板。ハシェックはケガが多い人なんで、このときもケガだったらしいんですが、それをケリーが本当にケガなのかとか聞いて、怒ったハシェックが、という顛末なのだけど、でも、ケリーはこのときは単にケガかと聞いただけで、怒るような状況じゃなかった、原因はその直前にあったのではないか、とも言われています。この時代のぐっちょんぐっちょんについては当事者しかわからないような謎の部分が多く、ファンもいまだに首を傾げることがあるようです。たぶん、デレクは知ってただろうね。とにかく、これでハシェックはサスペンド(実際はケガで出場は無理だったが)、危機に陥ったセイバーズを第7戦で救ったのがデレク、というドラマチックな結果になったのでした。
この話は前のさーべる倶楽部(1から3のどれか)には何度も書いたし、モギルニーのことも書いたと思うけど、どこにあるかは私も探さないとわかりません。検索すれば出てくるかも。
モギルニーはすでにNHLを引退、ケリーもバッファローを離れて久しいのですが、モギルニーとケリーなら一緒にセレモニーやっても問題ないでしょう。
2010年10月29日金曜日
本日発売らしい
昨日、ポストを見たら、キネ旬の封筒が入っていたので、あれ、まだ10月なのに、と思ったら、
キネ旬ムック「オールタイムベスト映画遺産アニメーション篇」(キネマ旬報社)
という本でした。今年の初めに投票依頼が来て、送ったのをすっかり忘れていた。
アニメに詳しい人から見たら、石投げられそうな偏った投票ですが、私が入れなかったら誰も入れないかもしれない、という思いから投票しました。外国映画は10本、日本映画は9本選んでますが、あとになって、日本映画で「カムイの剣」を入れればよかったと思った。
キネ旬ムック「オールタイムベスト映画遺産アニメーション篇」(キネマ旬報社)
という本でした。今年の初めに投票依頼が来て、送ったのをすっかり忘れていた。
アニメに詳しい人から見たら、石投げられそうな偏った投票ですが、私が入れなかったら誰も入れないかもしれない、という思いから投票しました。外国映画は10本、日本映画は9本選んでますが、あとになって、日本映画で「カムイの剣」を入れればよかったと思った。
2010年10月28日木曜日
紆余曲折の末
来ました。
「Starvation Lake」の続編です。
ベッキーさんシリーズを読んでからだから、週末のお楽しみかな。
このホッケー・ミステリー・シリーズ、ペーパーバックが出てからハードカバーが出るという、変則的な出版なのですね。なので、第1作はミステリーの賞のペーパーバック・オリジナル部門の賞を取っているようだ。
ペーパーバックだと安いので助かります。ハードカバーが先だと、早く読みたければ高いお金を払わねばならない。洋書で読む以上、新刊は翻訳が出る前に読むのが理想です。
「Starvation Lake」の続編です。
ベッキーさんシリーズを読んでからだから、週末のお楽しみかな。
このホッケー・ミステリー・シリーズ、ペーパーバックが出てからハードカバーが出るという、変則的な出版なのですね。なので、第1作はミステリーの賞のペーパーバック・オリジナル部門の賞を取っているようだ。
ペーパーバックだと安いので助かります。ハードカバーが先だと、早く読みたければ高いお金を払わねばならない。洋書で読む以上、新刊は翻訳が出る前に読むのが理想です。
近況
ブログを3カ月以上休んでいたので、訪問者が激減、その後、ここで再開してもあまり増えないのですが、たぶん、ホッケーネタがないからですね。でも、セイバーズがあんなていたらく(10試合やっていまだ3勝)ではねえ。ケガ人続出ではあるらしいけど。
そんなわけで、映画と本のネタ。
試写で見逃したドイツ映画「アイガー北壁」をDVDで見る。ナチスドイツが宣伝のために若者をアイガー北壁初登頂に挑戦させ、それで若者が次々と命を落としたという実話の映画化らしい。主人公の2人の若者は、登頂はあまり気乗りがしなかったのだが、うち1人の恋人が報道カメラマンをめざす新聞社の女性で、彼女が編集長に命じられて、2人に挑戦するようすすめる。いったんは断った2人だが、その後、2人は自分の意志で登頂を決意。しかし、不測の事態が次々に、という映画。
うーん、正直、無謀な若者の登山にしか見えませんでした。新聞社の編集長と女性カメラマンが山のふもとでスタンバッていて、特ダネをつかむことしか考えていない編集長と、カメラマンとしてよりは恋人として、遭難した若者を助けようとする女性といった、ビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」を思わせる状況もあるのだが、こういうマスコミの悪辣さとか、ナチスドイツの背景とか、それほど大きくは描かれていない。特にナチスの件は途中で立ち消えになり、最後に字幕でちょっと出るだけに見える。
一番気になるのは、最初に若者たちをたきつけて登山させた女性カメラマンが、そのことについて全然悩まないこと。確かに若者たちはいったん断り、それから自分たちの意志で登る決意をしたので、女性には責任はないのだろうが、それでも、彼女が葛藤し、悩む姿がないのがどうにも納得できないのだ。悪いのは編集長だけで、彼女は清廉潔白なのだろうか。
試写で見た映画ではフィンランド映画「ヤコブへの手紙」が面白かった。終身刑だった女性レイラが恩赦で出所し、片田舎に住む盲目の牧師ヤコブの家で働く。ヤコブのもとには毎日、たくさんの手紙が届き、ヤコブは彼女にそれを読んでもらい、返事を代筆してもらう。そのために、ヤコブはレイラの恩赦を求めたようだ。世の中に背を向け、ふてくされたような態度のレイラは手紙の一部を捨ててしまったり、郵便配達員ともうまくいかない。そして、あるときから、手紙が1通も来なくなり、ヤコブは生きがいを失う。その姿を見たレイラは……
というような内容で、このあとはネタバレすると感動が半減すると思うので、書きません。もちろん、レイラが変化するのですが、単純な変化ではないし、それまでにいろいろあるし、最後は思いがけず、感動的な真実が暴露されるのです。
この映画は多くを説明しようとしない。レイラは郵便配達員がヤコブの金を盗んでいると疑うが、この郵便配達員がどういう人なのかもよくわからない。ヤコブのよき友だったのかどうかもわからない。たくさん来ていた手紙がいきなり、1通も来なくなる理由もわからない。このあたり、説明不足で不自然な感じもするが、映画全体がファンタジーのようなところがあるので、おとぎ話として見れば不自然ではないだろう。フィンランドの片田舎の風景がとても美しく、感動の結末とその美しさがみごとにリンクしている。
読書は今、北村薫のベッキーさん三部作を読んでいるところです。「街の灯」、「玻璃の天」、「鷺と雪」の3つの短編集からなる連作で、今は「玻璃の天」に入ったところです。
なんでこの連作を読もうと思ったかというと、ヒロインの令嬢・英子が新しく来た女性のお抱え運転手・別宮みつ子をベッキーさんと呼ぶのですが、それは、たまたまそのときに英子がサッカレーの「虚栄の市」を翻訳で読んでいて、ヒロインのベッキー・シャープに強い印象を受け、ベッキーのように自立した強い女性である別宮(べっく)をベッキーさんと呼ぶことにしたということ。
しかし、「虚栄の市」を読んだ人、あるいは、その映画化「悪女」(原題は「虚栄の市」)を見た人は、ベッキーさんはベッキー・シャープにはまったく似ていないことがわかるでしょう。ベッキーは男を惑わす妖艶な美貌の持ち主で、男を利用してステップアップしようとする野心的な女性、美貌と才覚を武器に社会に挑戦する魅力的な悪女です。
北村薫のベッキーさんはむしろ、「ベルサイユのばら」のオスカルに似ています。いや、厳密には、「ベルばら」のオスカルとアンドレを足したような存在です。彼女はマリー・アントワネットに仕えるオスカルのように令嬢・英子に仕えますが、その一方で、彼女は世の中のすべてのことを知っているスーパーレディで、オスカルがアンドレをはじめとする平民たちから世の中のことを学び、成長することを考えると、ベッキーさんから世の中のことを教わる英子にオスカルのこの部分が入っていて、英子に世の中のことを教え、英子を守るベッキーさんは、ここではむしろ、オスカルを守るアンドレなのです。
まだ途中までですが、この連作には必ずといっていいほど、映画や文学についての言及があり、それが物語の重要な要素になっています。それは、チャップリンの「街の灯」やシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のように明言されている場合もあれば、隠されている場合もあります。「ベルばら」のモチーフはまさにその隠されたモチーフの最大のものに思えますが、果たして?
そんなわけで、映画と本のネタ。
試写で見逃したドイツ映画「アイガー北壁」をDVDで見る。ナチスドイツが宣伝のために若者をアイガー北壁初登頂に挑戦させ、それで若者が次々と命を落としたという実話の映画化らしい。主人公の2人の若者は、登頂はあまり気乗りがしなかったのだが、うち1人の恋人が報道カメラマンをめざす新聞社の女性で、彼女が編集長に命じられて、2人に挑戦するようすすめる。いったんは断った2人だが、その後、2人は自分の意志で登頂を決意。しかし、不測の事態が次々に、という映画。
うーん、正直、無謀な若者の登山にしか見えませんでした。新聞社の編集長と女性カメラマンが山のふもとでスタンバッていて、特ダネをつかむことしか考えていない編集長と、カメラマンとしてよりは恋人として、遭難した若者を助けようとする女性といった、ビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」を思わせる状況もあるのだが、こういうマスコミの悪辣さとか、ナチスドイツの背景とか、それほど大きくは描かれていない。特にナチスの件は途中で立ち消えになり、最後に字幕でちょっと出るだけに見える。
一番気になるのは、最初に若者たちをたきつけて登山させた女性カメラマンが、そのことについて全然悩まないこと。確かに若者たちはいったん断り、それから自分たちの意志で登る決意をしたので、女性には責任はないのだろうが、それでも、彼女が葛藤し、悩む姿がないのがどうにも納得できないのだ。悪いのは編集長だけで、彼女は清廉潔白なのだろうか。
試写で見た映画ではフィンランド映画「ヤコブへの手紙」が面白かった。終身刑だった女性レイラが恩赦で出所し、片田舎に住む盲目の牧師ヤコブの家で働く。ヤコブのもとには毎日、たくさんの手紙が届き、ヤコブは彼女にそれを読んでもらい、返事を代筆してもらう。そのために、ヤコブはレイラの恩赦を求めたようだ。世の中に背を向け、ふてくされたような態度のレイラは手紙の一部を捨ててしまったり、郵便配達員ともうまくいかない。そして、あるときから、手紙が1通も来なくなり、ヤコブは生きがいを失う。その姿を見たレイラは……
というような内容で、このあとはネタバレすると感動が半減すると思うので、書きません。もちろん、レイラが変化するのですが、単純な変化ではないし、それまでにいろいろあるし、最後は思いがけず、感動的な真実が暴露されるのです。
この映画は多くを説明しようとしない。レイラは郵便配達員がヤコブの金を盗んでいると疑うが、この郵便配達員がどういう人なのかもよくわからない。ヤコブのよき友だったのかどうかもわからない。たくさん来ていた手紙がいきなり、1通も来なくなる理由もわからない。このあたり、説明不足で不自然な感じもするが、映画全体がファンタジーのようなところがあるので、おとぎ話として見れば不自然ではないだろう。フィンランドの片田舎の風景がとても美しく、感動の結末とその美しさがみごとにリンクしている。
読書は今、北村薫のベッキーさん三部作を読んでいるところです。「街の灯」、「玻璃の天」、「鷺と雪」の3つの短編集からなる連作で、今は「玻璃の天」に入ったところです。
なんでこの連作を読もうと思ったかというと、ヒロインの令嬢・英子が新しく来た女性のお抱え運転手・別宮みつ子をベッキーさんと呼ぶのですが、それは、たまたまそのときに英子がサッカレーの「虚栄の市」を翻訳で読んでいて、ヒロインのベッキー・シャープに強い印象を受け、ベッキーのように自立した強い女性である別宮(べっく)をベッキーさんと呼ぶことにしたということ。
しかし、「虚栄の市」を読んだ人、あるいは、その映画化「悪女」(原題は「虚栄の市」)を見た人は、ベッキーさんはベッキー・シャープにはまったく似ていないことがわかるでしょう。ベッキーは男を惑わす妖艶な美貌の持ち主で、男を利用してステップアップしようとする野心的な女性、美貌と才覚を武器に社会に挑戦する魅力的な悪女です。
北村薫のベッキーさんはむしろ、「ベルサイユのばら」のオスカルに似ています。いや、厳密には、「ベルばら」のオスカルとアンドレを足したような存在です。彼女はマリー・アントワネットに仕えるオスカルのように令嬢・英子に仕えますが、その一方で、彼女は世の中のすべてのことを知っているスーパーレディで、オスカルがアンドレをはじめとする平民たちから世の中のことを学び、成長することを考えると、ベッキーさんから世の中のことを教わる英子にオスカルのこの部分が入っていて、英子に世の中のことを教え、英子を守るベッキーさんは、ここではむしろ、オスカルを守るアンドレなのです。
まだ途中までですが、この連作には必ずといっていいほど、映画や文学についての言及があり、それが物語の重要な要素になっています。それは、チャップリンの「街の灯」やシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のように明言されている場合もあれば、隠されている場合もあります。「ベルばら」のモチーフはまさにその隠されたモチーフの最大のものに思えますが、果たして?
2010年10月24日日曜日
今日のスカイツリー
この夏は暑くてあまり写真を撮りに行かず、その間にスカイツリーはどんどん高くなっていきました。夜には展望台のあたりに明かりがついているのが見えるように。
そして、今日、久々にスカイツリーを撮りに豊洲へ。先月、たまたま月島から豊洲まで歩いたとき、運河のかなたにスカイツリーが見えたので、あれを撮りたいと。これは豊洲から月島へ向かう途中の橋の上で。
豊洲の芝浦工大の前の通りには、赤い実のなった木が数本立っていました。
こちらは9月上旬、月島へ行ったときに撮ったスカイツリー。猛暑の頃ですが、ちょうど日暮れ時で、屋形船が運河を通っています。
そして、こちらはさらにその前、8月下旬、猫スポット近く(豊洲や月島よりもツリーに近い場所)の通りで、お祭りの神輿の向こうにスカイツリーが。
以下はおまけ。今月上旬の写真。猫スポットの彼岸花と猫たち。
そして、今日、久々にスカイツリーを撮りに豊洲へ。先月、たまたま月島から豊洲まで歩いたとき、運河のかなたにスカイツリーが見えたので、あれを撮りたいと。これは豊洲から月島へ向かう途中の橋の上で。
豊洲の芝浦工大の前の通りには、赤い実のなった木が数本立っていました。
こちらは9月上旬、月島へ行ったときに撮ったスカイツリー。猛暑の頃ですが、ちょうど日暮れ時で、屋形船が運河を通っています。
そして、こちらはさらにその前、8月下旬、猫スポット近く(豊洲や月島よりもツリーに近い場所)の通りで、お祭りの神輿の向こうにスカイツリーが。
以下はおまけ。今月上旬の写真。猫スポットの彼岸花と猫たち。
2010年10月23日土曜日
どうしても読めない本
先日、図書館から「グーテンベルクからグーグルへ」という本を借りてきた。アメリカの編集文献学者ピーター・シリングスバーグという研究者の書いた本で、翻訳は昨年秋に出版され、グーグル・ショックに関連づけられて話題になったが、実際は、グーグル・ショックとは無関係な本だったという本。
実は、私は、某大学で英語圏文学入門という講義を行なっているのだが、その最初の回でアーサー王伝説を取り上げ、トマス・マロリーの「アーサー王の死」をキャクストンという人物が、ドイツからグーテンベルクの活版印刷を持ち込んで印刷した、という話をしている。今の学生には活字を拾う活版印刷は理解できないかもしれないが、グーテンベルクが15世紀に活版印刷を発明してから、20世紀後半までの500年間、本を読む人はすべて、活版印刷のお世話になっていたのである。それはものすごいことだと思う。
が、しかし、20世紀後半にワープロが発明され、私の記憶では1970年代あたりから活版印刷はしだいに過去のものとなり、ワープロで打ち込まれたテキストがコンピューターで版下に組まれ、それが印刷されるというふうになっていったのだと思う。
私の初めての翻訳書(下訳)は、1981年に出た集英社世界文学全集のジョージ・エリオット作「ロモラ」で、もちろん、全体の6分の1の下訳にすぎず、名前は出ていないが、このときすでに本はコンピューターで作られていた。
だから、20世紀後半に起こった、活版印刷からコンピューターによる版下作りは画期的なことであり、その後、私自身も80年代後半以降は出版社にテキストファイルで原稿を提出するようになった。そして、今、今度は書物が印刷された本ではなく、電子書籍となる可能性が出てきている。
「グーテンベルクからグーグルへ」は、そうした電子書籍の時代を肯定的にとらえ、古典の文学作品の成立過程などを電子書籍ならつぶさに収録できるという利点に注目した本らしい。しかも、著者は私がかつて研究していたウィリアム・メイクピース・サッカレーの研究者だという。ならば期待するしかない、ってことで本を借りたのだが……読めません!
なんで読めないんだかよくわからない。部分的には読んだのだけど、全然頭に入らない。読んだ箇所をあとで読み返しても記憶にない。翻訳が悪いのか? 確かにうまい翻訳とは言えない。サッカレーに詳しい人は翻訳者の中にいないらしく、サッカレーの著作の題名の訳がおかしい。が、それを差し引いても、読めない本だ。
なんでだろう。3人の翻訳者の内、中心的な明星聖子の解説はとても面白いのだが、結局、この解説を読むと、シリングスバーグのやっていること自体が否定されている感じ。わからん。明星聖子はカフカの研究者で、カフカは編集文献学が必要な作家なので、この分野に興味を持ったようだが、はたしてこの分野を紹介するのにこの本は適切なのか。
だが、とにかく、読めないのだ。わからん。若い頃はけっこうむずかしい本を読んでいたのに、年をとったせいなのだろうか。この本について他の人はどう書いているのかと思い、検索してみたが、面白かったのは1つだけで、あとはどうにもよくわからない。サッカレーについても、元研究家として興味を持てるところがないのだ。
実は、私は、某大学で英語圏文学入門という講義を行なっているのだが、その最初の回でアーサー王伝説を取り上げ、トマス・マロリーの「アーサー王の死」をキャクストンという人物が、ドイツからグーテンベルクの活版印刷を持ち込んで印刷した、という話をしている。今の学生には活字を拾う活版印刷は理解できないかもしれないが、グーテンベルクが15世紀に活版印刷を発明してから、20世紀後半までの500年間、本を読む人はすべて、活版印刷のお世話になっていたのである。それはものすごいことだと思う。
が、しかし、20世紀後半にワープロが発明され、私の記憶では1970年代あたりから活版印刷はしだいに過去のものとなり、ワープロで打ち込まれたテキストがコンピューターで版下に組まれ、それが印刷されるというふうになっていったのだと思う。
私の初めての翻訳書(下訳)は、1981年に出た集英社世界文学全集のジョージ・エリオット作「ロモラ」で、もちろん、全体の6分の1の下訳にすぎず、名前は出ていないが、このときすでに本はコンピューターで作られていた。
だから、20世紀後半に起こった、活版印刷からコンピューターによる版下作りは画期的なことであり、その後、私自身も80年代後半以降は出版社にテキストファイルで原稿を提出するようになった。そして、今、今度は書物が印刷された本ではなく、電子書籍となる可能性が出てきている。
「グーテンベルクからグーグルへ」は、そうした電子書籍の時代を肯定的にとらえ、古典の文学作品の成立過程などを電子書籍ならつぶさに収録できるという利点に注目した本らしい。しかも、著者は私がかつて研究していたウィリアム・メイクピース・サッカレーの研究者だという。ならば期待するしかない、ってことで本を借りたのだが……読めません!
なんで読めないんだかよくわからない。部分的には読んだのだけど、全然頭に入らない。読んだ箇所をあとで読み返しても記憶にない。翻訳が悪いのか? 確かにうまい翻訳とは言えない。サッカレーに詳しい人は翻訳者の中にいないらしく、サッカレーの著作の題名の訳がおかしい。が、それを差し引いても、読めない本だ。
なんでだろう。3人の翻訳者の内、中心的な明星聖子の解説はとても面白いのだが、結局、この解説を読むと、シリングスバーグのやっていること自体が否定されている感じ。わからん。明星聖子はカフカの研究者で、カフカは編集文献学が必要な作家なので、この分野に興味を持ったようだが、はたしてこの分野を紹介するのにこの本は適切なのか。
だが、とにかく、読めないのだ。わからん。若い頃はけっこうむずかしい本を読んでいたのに、年をとったせいなのだろうか。この本について他の人はどう書いているのかと思い、検索してみたが、面白かったのは1つだけで、あとはどうにもよくわからない。サッカレーについても、元研究家として興味を持てるところがないのだ。
2010年10月21日木曜日
映画的近況
【最近見た映画から】
「白いリボン」
カンヌ映画祭パルムドール受賞のミヒャエル・ハネケ監督最新作。20世紀初頭のドイツの小さな村で次々と起こる事故や事件。果たしてそれは誰かによって仕組まれたものなのか、というミステリー仕立ての寓話的なドラマ。実は、この映画についてはかなり長い草稿をすでに書いているのだが、ネタバレ大ありの内容なので、発表するにしても、それは映画が公開されてからになります。公開は12月とのことですが、ミステリー・ファンも、そうでない人も、見逃したら損をする、そのくらいすごい映画です。
「クリスマス・ストーリー」
こちらも12月公開予定の映画。アルノー・デプレシャン監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画。幼い長男の骨髄移植の期待から夫婦は次男をもうけるが、骨髄が合わず、長男は死亡。役立たずの汚名を着せられ、ひねてしまい、まわりに迷惑をかけて姉から勘当された次男が、老いた母親の骨髄移植のためにクリスマスに家族と再会するという物語。欧米では大変評判のいい映画だが、親子きょうだいの確執がシリアスに描かれていて、かなり重い映画。それでも、母と息子、姉と弟の葛藤と和解は胸にせまるものがあるし、ときおり流れるメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の音楽と、ラストのパックの台詞はきいている。
「義兄弟」
「映画は映画だ」が面白かったチャン・フン監督の韓国映画。韓国の元情報部員と北朝鮮の工作員がお互いに身分を偽り、相手を探る目的で同居。その間、2人の間に兄弟のような絆が生まれる、という、「シュリ」や「JSA」のような感動の物語、なのだけれど、この映画がちょいと違うのは、南北対立のサスペンス映画の部分以外のところが非常に面白いこと。元情報部員は作戦の失敗からクビになり、今はしがない探偵をしていて、農村に嫁いで逃げ出したベトナム人花嫁探しなどをやっているのだけれど、その探偵稼業を北朝鮮の工作員とやることになり、そこに2人の考え方の違いが現れたり、ベトナム人労働者たちとの対立があったりと、サスペンスものとは違うコミカルな面白さが出ている。そしてもちろん、クライマックスとラストは感動。いろいろに楽しめて、奥も深い映画だ。主演のカン・ドンウォンはこれから兵役につくらしいけど、29歳で、タイムリミットなのだね。
「ウッドストックがやってくる!」
アン・リー監督の最新作は、1969年のウッドストック・フェスティバルを実現させた男の物語。出だしがあまりにもユルくて、どうなるかと思ったが、ニューヨーク州北部の田舎町にウッドストックを呼ぶことに決めたあたりから面白くなる。日本だったら、たぶん、町興しの感動の実話にしてしまうところだが、この映画は素朴な町の人々がお金に開眼して、金儲けに走ったり、便乗商売をしたり、ショバ代を取りにヤクザが来たりと、とにかく金中心の話になっている。やがて田舎町はヒッピーであふれ、立役者の主人公はコンサート会場にも近づけず、あとはコンサートが終わったあとのゴミの山だけが残るといった皮肉な展開。全体に演出がユルいのがイマイチだし、画面分割もうるさいだけだが、町興しイベントを皮肉にとらえる意図は買える。
【最近書いた映画評】
「国家代表!?」キネマ旬報11月上旬号(発売中)
「クレイマー、クレイマー」、「レインマン」同10月下旬号
「シングルマン」同10月上旬号
10月上旬号には、訳書「クリント・イーストウッド:レトロスペクティヴ」へのあたたかい書評をいただきました。
「ベン・ハー」同9月下旬号
「白いリボン」
カンヌ映画祭パルムドール受賞のミヒャエル・ハネケ監督最新作。20世紀初頭のドイツの小さな村で次々と起こる事故や事件。果たしてそれは誰かによって仕組まれたものなのか、というミステリー仕立ての寓話的なドラマ。実は、この映画についてはかなり長い草稿をすでに書いているのだが、ネタバレ大ありの内容なので、発表するにしても、それは映画が公開されてからになります。公開は12月とのことですが、ミステリー・ファンも、そうでない人も、見逃したら損をする、そのくらいすごい映画です。
「クリスマス・ストーリー」
こちらも12月公開予定の映画。アルノー・デプレシャン監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画。幼い長男の骨髄移植の期待から夫婦は次男をもうけるが、骨髄が合わず、長男は死亡。役立たずの汚名を着せられ、ひねてしまい、まわりに迷惑をかけて姉から勘当された次男が、老いた母親の骨髄移植のためにクリスマスに家族と再会するという物語。欧米では大変評判のいい映画だが、親子きょうだいの確執がシリアスに描かれていて、かなり重い映画。それでも、母と息子、姉と弟の葛藤と和解は胸にせまるものがあるし、ときおり流れるメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の音楽と、ラストのパックの台詞はきいている。
「義兄弟」
「映画は映画だ」が面白かったチャン・フン監督の韓国映画。韓国の元情報部員と北朝鮮の工作員がお互いに身分を偽り、相手を探る目的で同居。その間、2人の間に兄弟のような絆が生まれる、という、「シュリ」や「JSA」のような感動の物語、なのだけれど、この映画がちょいと違うのは、南北対立のサスペンス映画の部分以外のところが非常に面白いこと。元情報部員は作戦の失敗からクビになり、今はしがない探偵をしていて、農村に嫁いで逃げ出したベトナム人花嫁探しなどをやっているのだけれど、その探偵稼業を北朝鮮の工作員とやることになり、そこに2人の考え方の違いが現れたり、ベトナム人労働者たちとの対立があったりと、サスペンスものとは違うコミカルな面白さが出ている。そしてもちろん、クライマックスとラストは感動。いろいろに楽しめて、奥も深い映画だ。主演のカン・ドンウォンはこれから兵役につくらしいけど、29歳で、タイムリミットなのだね。
「ウッドストックがやってくる!」
アン・リー監督の最新作は、1969年のウッドストック・フェスティバルを実現させた男の物語。出だしがあまりにもユルくて、どうなるかと思ったが、ニューヨーク州北部の田舎町にウッドストックを呼ぶことに決めたあたりから面白くなる。日本だったら、たぶん、町興しの感動の実話にしてしまうところだが、この映画は素朴な町の人々がお金に開眼して、金儲けに走ったり、便乗商売をしたり、ショバ代を取りにヤクザが来たりと、とにかく金中心の話になっている。やがて田舎町はヒッピーであふれ、立役者の主人公はコンサート会場にも近づけず、あとはコンサートが終わったあとのゴミの山だけが残るといった皮肉な展開。全体に演出がユルいのがイマイチだし、画面分割もうるさいだけだが、町興しイベントを皮肉にとらえる意図は買える。
【最近書いた映画評】
「国家代表!?」キネマ旬報11月上旬号(発売中)
「クレイマー、クレイマー」、「レインマン」同10月下旬号
「シングルマン」同10月上旬号
10月上旬号には、訳書「クリント・イーストウッド:レトロスペクティヴ」へのあたたかい書評をいただきました。
「ベン・ハー」同9月下旬号
2010年10月16日土曜日
「Starvation Lake」読了(少しネタバレ)
ブライアン・グルーリーのホッケー・ミステリー、「Starvation Lake」読み終わりました。先日、原書370ページ中140ページくらいまでのところで、ホッケーの話でなくなったら面白くなくなった、と書きましたが、150ページくらいからだんだん面白くなりましたね。でも、300ページをすぎるまでは、なんとなく水増し、中だるみ、おまけにこの作家、ジャーナリスト出身で小説は初めてということで、英語の文章が小説としてはあまりうまくない。その上、ホッケーの試合のシーンとか、突っ込みどころ満載だわ、という感じでしたが、最後の60ページくらいは非常によかった。ここで一気に挽回したね。それまでランダムに散っていた伏線がここで効いてくるだけでなく、ホッケーの用具や有名選手の名前や、その他、ホッケーに関することがミステリーとしてのクライマックスにうまく絡んできて、これは正真正銘のホッケー・ミステリー、ただのホッケーが出てくるミステリーじゃない、と思いました。特に、逃げようとする主人公の車が雪にはまって動かなくなったとき、長年愛用していたゴーリーのグローブを使って危機を脱するんだけど、そのときの台詞がいいんだ。
"Sorry, old pal," I said, "One more save, OK?"
ホッケー・シーンはやっぱり突っ込みどころ満載でねえ、スーピーはどう見てもフォワードだろう、前の方でディフェンダーと書いてあったのは、私の見間違いだったかな、と思うくらい、彼はフォワードっぽい。というか、この小説、ほんと、ディフェンスがいないんじゃないかと思うくらい、ゴーリーとフォワードの動きしか書いてないみたいに見えます。そのフォワードの動きも、やたらブレイカウェイばかりで、ラインの組み合わせとか、センターとウィンガーのパスとシュートとか、そういうのなし。おまけにゴーリーの主人公は、次回作ではゴーリーやめてフォワードになるんだと。
主人公のトラウマになっている少年時代の重要な試合の失敗も、相手フォワードをノーマークにさせるのが悪いんだろ、とか、なんでいつもこっちのミスで相手のブレイカウェイになって、ゴーリー防ぎきれずにゴールされちゃうんだろ、そういう下手チームがなんで勝ちあがれるの、とか、3ピリ終了間際に同点にされたら、そこでコーチが流れを変えなきゃ、そのままOTで負けるわ、とか、試合見ているみたいに突っ込みいれてましたが、まあ、それも楽しみかな。
肝心のミステリーの部分は、2004年にNHLで起こったダントン事件を知っていれば、殺されたコーチの過去に何があったかは予想がついてしまいます。つか、この作者、たぶん、ダントン事件をヒントにしてこの話を作っている。以下、ちょっとネタバレになるのですが、ダントン事件というのは、セントルイス・ブルースに所属していたダントンという選手が、カナダのジュニア時代のコーチで、その後もマネージャーなどで腐れ縁が続いていた男を、人を雇って殺そうとした殺人未遂事件で、その背後には、その元コーチがジュニア時代に選手である少年たちを……まあ、あとは言わなくてもわかるでしょう。ダントンはそのコーチに心酔し、両親とも縁を切り、ファミリーネームを捨ててダントンと改名したという、そういう過去を持つ男だったのです。
この小説はこのダントン事件のモチーフをさらに進めてより大きな悪にしていますが、描写が一方的な悪のパターンではないところは買えます。ただ、上に書いたように、小説としての英文のうまさがないので、描写に奥深さがない。だから、それほど胸に突き刺さる感じがないです。
また、この小説は、この1冊だけで完結していない、つまり、二部作か三部作のようにして書かれたのではないかと思います。というのは、最初のプロローグのシーンは結局なんだったのかわからずに終わること。スーピーの人物描写が中途半端なまま終わっていること、スーピーのマリーナをめぐるいさかいに決着がついていないことなど、次回へ続く、みたいな感じで終わっているからです。また、主人公が以前つとめていたデトロイトの新聞社でのトラブルの解決も、数行でかたづけられていて、なんだかなあ。
というわけで、第2作「The Hanging Tree」の代金をコンビニでアマゾンに払ったから、もうすぐ着くと思うので、続きはお楽しみというところです。
追記
第2作「The Hanging Tree」の代金を支払ったのですが、2日たっても配送されず、問い合わせのメールにも返事がない。そこでアマゾンのトラブルについてネットで調べたところ、トラブル山積であることがわかり、最悪の場合、何度もメールしたり電話したりしたあげく、ギフト券で返品の可能性もあることがわかりました。もしもそうなったら、他のネット書店で買おうと思っていますが、がっかりもいいところです。
がっかりといえば、オーストラリア・バレエ団「くるみ割り人形」も、バレエというよりはパントマイムの部分が多くて、演出もあまり面白くなく、がっかり。おまけにセイバーズは開幕1勝したあと、5連敗。やれやれ。
"Sorry, old pal," I said, "One more save, OK?"
ホッケー・シーンはやっぱり突っ込みどころ満載でねえ、スーピーはどう見てもフォワードだろう、前の方でディフェンダーと書いてあったのは、私の見間違いだったかな、と思うくらい、彼はフォワードっぽい。というか、この小説、ほんと、ディフェンスがいないんじゃないかと思うくらい、ゴーリーとフォワードの動きしか書いてないみたいに見えます。そのフォワードの動きも、やたらブレイカウェイばかりで、ラインの組み合わせとか、センターとウィンガーのパスとシュートとか、そういうのなし。おまけにゴーリーの主人公は、次回作ではゴーリーやめてフォワードになるんだと。
主人公のトラウマになっている少年時代の重要な試合の失敗も、相手フォワードをノーマークにさせるのが悪いんだろ、とか、なんでいつもこっちのミスで相手のブレイカウェイになって、ゴーリー防ぎきれずにゴールされちゃうんだろ、そういう下手チームがなんで勝ちあがれるの、とか、3ピリ終了間際に同点にされたら、そこでコーチが流れを変えなきゃ、そのままOTで負けるわ、とか、試合見ているみたいに突っ込みいれてましたが、まあ、それも楽しみかな。
肝心のミステリーの部分は、2004年にNHLで起こったダントン事件を知っていれば、殺されたコーチの過去に何があったかは予想がついてしまいます。つか、この作者、たぶん、ダントン事件をヒントにしてこの話を作っている。以下、ちょっとネタバレになるのですが、ダントン事件というのは、セントルイス・ブルースに所属していたダントンという選手が、カナダのジュニア時代のコーチで、その後もマネージャーなどで腐れ縁が続いていた男を、人を雇って殺そうとした殺人未遂事件で、その背後には、その元コーチがジュニア時代に選手である少年たちを……まあ、あとは言わなくてもわかるでしょう。ダントンはそのコーチに心酔し、両親とも縁を切り、ファミリーネームを捨ててダントンと改名したという、そういう過去を持つ男だったのです。
この小説はこのダントン事件のモチーフをさらに進めてより大きな悪にしていますが、描写が一方的な悪のパターンではないところは買えます。ただ、上に書いたように、小説としての英文のうまさがないので、描写に奥深さがない。だから、それほど胸に突き刺さる感じがないです。
また、この小説は、この1冊だけで完結していない、つまり、二部作か三部作のようにして書かれたのではないかと思います。というのは、最初のプロローグのシーンは結局なんだったのかわからずに終わること。スーピーの人物描写が中途半端なまま終わっていること、スーピーのマリーナをめぐるいさかいに決着がついていないことなど、次回へ続く、みたいな感じで終わっているからです。また、主人公が以前つとめていたデトロイトの新聞社でのトラブルの解決も、数行でかたづけられていて、なんだかなあ。
というわけで、第2作「The Hanging Tree」の代金をコンビニでアマゾンに払ったから、もうすぐ着くと思うので、続きはお楽しみというところです。
追記
第2作「The Hanging Tree」の代金を支払ったのですが、2日たっても配送されず、問い合わせのメールにも返事がない。そこでアマゾンのトラブルについてネットで調べたところ、トラブル山積であることがわかり、最悪の場合、何度もメールしたり電話したりしたあげく、ギフト券で返品の可能性もあることがわかりました。もしもそうなったら、他のネット書店で買おうと思っていますが、がっかりもいいところです。
がっかりといえば、オーストラリア・バレエ団「くるみ割り人形」も、バレエというよりはパントマイムの部分が多くて、演出もあまり面白くなく、がっかり。おまけにセイバーズは開幕1勝したあと、5連敗。やれやれ。
たぶん見てる人少ないから
公開しちゃおう。
ラドンくんことラドゥンスキ選手は大好きだけど、ハルラはファンてわけではないのです。でも、ある非売品のグッズがほしくて、ハルラグッズをいろいろ買いました。
そしてこれはラドンくんことブロック・ラドゥンスキ。ラドンくんと呼んでるのは私だけなので、ご注意。
ラドンくんことラドゥンスキ選手は大好きだけど、ハルラはファンてわけではないのです。でも、ある非売品のグッズがほしくて、ハルラグッズをいろいろ買いました。
そしてこれはラドンくんことブロック・ラドゥンスキ。ラドンくんと呼んでるのは私だけなので、ご注意。
2010年10月15日金曜日
10月2日3日東伏見日韓集結の写真
日韓集結の7枚のフラッグ |
10月2日の王子対ハイワンで、青基調の王子のサードジャージ |
ハルラベンチにはスーツ姿のマルティネツ |
両日ともハルラの応援団がすごかった。3日はチェコ人グループも来てました。 |
10月3日王子対ハルラ。昨日勝った春名はバックアップ。 |
この日は荻野がスターター。 |
ハイワンからハルラに移籍したオム。試合中のきびしい表情。 |
勝って笑顔のオム。 |
ラドンくんも勝って笑顔がかわいい。 |
第2試合クレインズ対ハイワン。昨日勝った石川はバックアップ。 |
ハイワンの守護神井上。 |
勝った清川。スコアボードを見上げています。 |
2010年10月13日水曜日
スーピー・キャンベル
削除してしまった前のさーべる倶楽部のメモ帳に書いていた、ブライアン・グルーリーのホッケー・ミステリー、「Starvation Lake」を引き続き読んでいるのだが、100ページを超えたあたりからあまり興味が持てなくなってしまっている。なぜかというと、ホッケーの話じゃなくなったから……って、おいっ!
ところで、この小説には主人公の親友でスーピー・キャンベルという人物が登場する。例のメモ帳にも書いたけど、スーピーというのは元バッファロー・セイバーズで、現シカゴ・ブラックホークスのブライアン・キャンベルのあだ名だ。キャンベルといえばスープ、なのでスーピーというあだ名がつき、セイバーズの掲示板で普通に使われるようになり、セイバーズの実況でもアナがキャンベルをスーピーと呼ぶようになり、UFAで他チームに移ったあともこのあだ名で呼ばれている。
彼はいわゆるオフェンシヴ・ディフェンスマン、ディフェンスだけどオフェンスに強く、ゴールが多い選手だ。そして、キャンベルといえば、ファンの記憶に残るのは、「spin o'rama」――ゴール前でくるっと一回転してゴーリーにフェイントをかけ、ゴールしてしまう技。
「Starvation Lake」の最初の100ページには主人公とスーピーが少年ホッケーチームの選手だった頃の思い出が書かれていて、それを読むと、明らかに、著者はブライアン・キャンベルを念頭に置いて書いている。それも、たぶん、セイバーズ時代のキャンベルだ。キャンベル同様、小説のスーピーもオフェンシヴ・ディフェンスマンで、みごとなspin o'ramaでゴールを決める。また、彼はコーチからヤワなやつと言われるが、それもキャンベルと同じ。おまけに、主人公とスーピーの少年ホッケーチームのチームカラーが、セイバーズと同じブルー・アンド・ゴールドだ。
ブルー・アンド・ゴールドというのは、青と黄色で、1970年に創設されたセイバーズがジャージにこの色を採用したのは、もともとバッファロー市の色がこの2色だったからだけれど、それと同時に、近場のトロントのメイプルリーフスが青と白で、ブルー・アンド・シルヴァーと言われていたので、シルヴァーより上のゴールドを採用することで、リーフスを超えるぞ、という意気込みを見せたのだった。青と黄色といえばアジアリーグのアニャンハルラもそうだけど、NHLでブルー・アンド・ゴールドといえば、それはセイバーズであり、ブルー・アンド・ゴールドの血を流すといえば、それはセイバーズの選手が必死で戦うという意味なのだ。
肝心の小説の方だけど、370ページの原書のうち、まだ140ページくらいで何か言うのはよくないのだけど、なんというか、これ、結局、ホッケー・ファンのための小説ではないんじゃないかと思い始めたのだ。著者のグルーリーはホッケー経験者で、今もホッケーをするようだけど、以前読んだホッケー小説やホッケー・ノンフィクションに比べて、ホッケーの描写があんまり面白くない。スーピーがディフェンスだとわかるのは、一箇所、ディフェンダーと書いてあるところだけで、そこがなければスーピーはフォワードだと思うだろう(つか、私はフォワードだと思って読んでいた)。つまり、ディフェンスの描写がないわけ。試合の描写も、こう言っちゃなんだけど、「プライド」っぽい。要するに、ホッケーを知らない人にもわかるようなところしか書いてないのかな、と思った。
で、先日、ついに翻訳(「湖は餓えて煙る」)を見つけ、少し立ち読みした。ホッケー用語の多くは英語をそのままカタカナにしているので、思ったほど違和感はない。ただ、ホッケーをすべてアイスホッケーと書いていたり、ゴーリーがキーパーとか、ウィンガーがウィングとか、スケートの刃とか、別に間違いじゃないんだけど、個人的に違和感があるところはある。そして、やっぱり、セイバーズ・ファンはこの小説は原書で読まなきゃいかん、と思ったのは、上にあげたスーピーに関する言葉だ。spin o'ramaをフルスピンて訳しているんだけど、ホッケーでフルスピンて、聞いたことないです。原文では360度のスピン・オ・ラマと書いてあるのだが、訳は三百六十度のフルスピン。うーん、カーレースで車が一回転するやつか。確かにspin o'ramaは日本語になっていない言葉で、でも、ホッケー・ファンの間では英語のまま普通に使われている。ブログのタイトルやハンドルネームにしているホッケー・ファンもいるくらい有名な言葉。でも、翻訳だとフルスピンなのか。もっとも、著者も、spin o'ramaだけで通用するのに、360度の、とつけているところが、ホッケー・ファン以外に配慮しているので、どっちもどっちかもしれない。
また、翻訳ではブルー・アンド・ゴールドが青と金色となっているが、前に書いたように、これは青と黄色が正しい。私ならブルー・アンド・ゴールドとそのまま使うけどね。とりあえず、こういうところを気にしない人なら翻訳で読んでもいいかもしれない。(実はもう1つ、原文と比べて違和感バリバリな部分があるのだけれど、それはホッケーとは無関係だし、編集の方針かもしれないので、ここでは書きません。)
そんなわけで、ホッケー小説としてはイマイチかな、と思い始めているけれど、ミステリーとしてはこれから面白くなるかもしれないので期待している。てか、期待するしかないのだよ。だって、「Starvation Lake」と一緒に注文した続編「Hanging Tree」が昨日、日本のアマゾンに届いたという連絡が入ったんだから。
ところで、この小説には主人公の親友でスーピー・キャンベルという人物が登場する。例のメモ帳にも書いたけど、スーピーというのは元バッファロー・セイバーズで、現シカゴ・ブラックホークスのブライアン・キャンベルのあだ名だ。キャンベルといえばスープ、なのでスーピーというあだ名がつき、セイバーズの掲示板で普通に使われるようになり、セイバーズの実況でもアナがキャンベルをスーピーと呼ぶようになり、UFAで他チームに移ったあともこのあだ名で呼ばれている。
彼はいわゆるオフェンシヴ・ディフェンスマン、ディフェンスだけどオフェンスに強く、ゴールが多い選手だ。そして、キャンベルといえば、ファンの記憶に残るのは、「spin o'rama」――ゴール前でくるっと一回転してゴーリーにフェイントをかけ、ゴールしてしまう技。
「Starvation Lake」の最初の100ページには主人公とスーピーが少年ホッケーチームの選手だった頃の思い出が書かれていて、それを読むと、明らかに、著者はブライアン・キャンベルを念頭に置いて書いている。それも、たぶん、セイバーズ時代のキャンベルだ。キャンベル同様、小説のスーピーもオフェンシヴ・ディフェンスマンで、みごとなspin o'ramaでゴールを決める。また、彼はコーチからヤワなやつと言われるが、それもキャンベルと同じ。おまけに、主人公とスーピーの少年ホッケーチームのチームカラーが、セイバーズと同じブルー・アンド・ゴールドだ。
ブルー・アンド・ゴールドというのは、青と黄色で、1970年に創設されたセイバーズがジャージにこの色を採用したのは、もともとバッファロー市の色がこの2色だったからだけれど、それと同時に、近場のトロントのメイプルリーフスが青と白で、ブルー・アンド・シルヴァーと言われていたので、シルヴァーより上のゴールドを採用することで、リーフスを超えるぞ、という意気込みを見せたのだった。青と黄色といえばアジアリーグのアニャンハルラもそうだけど、NHLでブルー・アンド・ゴールドといえば、それはセイバーズであり、ブルー・アンド・ゴールドの血を流すといえば、それはセイバーズの選手が必死で戦うという意味なのだ。
肝心の小説の方だけど、370ページの原書のうち、まだ140ページくらいで何か言うのはよくないのだけど、なんというか、これ、結局、ホッケー・ファンのための小説ではないんじゃないかと思い始めたのだ。著者のグルーリーはホッケー経験者で、今もホッケーをするようだけど、以前読んだホッケー小説やホッケー・ノンフィクションに比べて、ホッケーの描写があんまり面白くない。スーピーがディフェンスだとわかるのは、一箇所、ディフェンダーと書いてあるところだけで、そこがなければスーピーはフォワードだと思うだろう(つか、私はフォワードだと思って読んでいた)。つまり、ディフェンスの描写がないわけ。試合の描写も、こう言っちゃなんだけど、「プライド」っぽい。要するに、ホッケーを知らない人にもわかるようなところしか書いてないのかな、と思った。
で、先日、ついに翻訳(「湖は餓えて煙る」)を見つけ、少し立ち読みした。ホッケー用語の多くは英語をそのままカタカナにしているので、思ったほど違和感はない。ただ、ホッケーをすべてアイスホッケーと書いていたり、ゴーリーがキーパーとか、ウィンガーがウィングとか、スケートの刃とか、別に間違いじゃないんだけど、個人的に違和感があるところはある。そして、やっぱり、セイバーズ・ファンはこの小説は原書で読まなきゃいかん、と思ったのは、上にあげたスーピーに関する言葉だ。spin o'ramaをフルスピンて訳しているんだけど、ホッケーでフルスピンて、聞いたことないです。原文では360度のスピン・オ・ラマと書いてあるのだが、訳は三百六十度のフルスピン。うーん、カーレースで車が一回転するやつか。確かにspin o'ramaは日本語になっていない言葉で、でも、ホッケー・ファンの間では英語のまま普通に使われている。ブログのタイトルやハンドルネームにしているホッケー・ファンもいるくらい有名な言葉。でも、翻訳だとフルスピンなのか。もっとも、著者も、spin o'ramaだけで通用するのに、360度の、とつけているところが、ホッケー・ファン以外に配慮しているので、どっちもどっちかもしれない。
また、翻訳ではブルー・アンド・ゴールドが青と金色となっているが、前に書いたように、これは青と黄色が正しい。私ならブルー・アンド・ゴールドとそのまま使うけどね。とりあえず、こういうところを気にしない人なら翻訳で読んでもいいかもしれない。(実はもう1つ、原文と比べて違和感バリバリな部分があるのだけれど、それはホッケーとは無関係だし、編集の方針かもしれないので、ここでは書きません。)
そんなわけで、ホッケー小説としてはイマイチかな、と思い始めているけれど、ミステリーとしてはこれから面白くなるかもしれないので期待している。てか、期待するしかないのだよ。だって、「Starvation Lake」と一緒に注文した続編「Hanging Tree」が昨日、日本のアマゾンに届いたという連絡が入ったんだから。
セイバーズ時代のキャンベル(練習着) |
チーム創設40周年を記念する今季のサード・ジャージ。胸にバッファローと書いてある。 |
原書 |
9月25日の日光の写真
すでにアジアリーグもNHLも、そして、デレク・プラントがアシスタント・コーチに就任したミネソタ大学ダルース校の大学リーグも開幕したのですが、今季はたぶん、観戦記はあまり書かないんじゃないかな、と思います。もともとセイバーズをフォローすることから始まったさーべる倶楽部なんで、読者の多くはホッケー・ファンと思いますが、記事はともかく、写真はアップしていきたいです。
というわけで、9月25日の日光霧降アイスアリーナでの開幕戦、日光アイスバックス対王子イーグルスですが、試合は……福藤はベンチ入りもしてないし、かわりにやる気満々の菊地が好セーヴ連発でしたが、バックスは1点も取れず、1対0で借敗でした。1月にここでハルラ戦見て以来、中央大学に負けた全日本選手権準々決勝、そしてこの試合と、バックスの負けばかり見てますが、お客さんも、去年の開幕戦に比べて少なかったです(それでも、他のアリーナよりは多い)。
というわけで、アリーナのガラスの壁に貼られていた福藤のアップを中心にしたバックスのポスター。試合後、東照宮の方をまわって駅に帰りましたが、日光中にこのポスターが貼ってありました。
これは霧降アリーナ。バックスののぼりが立っています。
東照宮近くの川。日光は自然が美しい。
東照宮方面から駅へ向かう途中の川にかかる橋。この橋は有料で、通り抜けはできません。
10月2日3日の東伏見日韓集結は、写真の数が多いので選ぶのが大変。そのうちアップします。
セイバーズは開幕戦は勝利したものの、その後2連敗。こりゃだめかも。
というわけで、9月25日の日光霧降アイスアリーナでの開幕戦、日光アイスバックス対王子イーグルスですが、試合は……福藤はベンチ入りもしてないし、かわりにやる気満々の菊地が好セーヴ連発でしたが、バックスは1点も取れず、1対0で借敗でした。1月にここでハルラ戦見て以来、中央大学に負けた全日本選手権準々決勝、そしてこの試合と、バックスの負けばかり見てますが、お客さんも、去年の開幕戦に比べて少なかったです(それでも、他のアリーナよりは多い)。
というわけで、アリーナのガラスの壁に貼られていた福藤のアップを中心にしたバックスのポスター。試合後、東照宮の方をまわって駅に帰りましたが、日光中にこのポスターが貼ってありました。
これは霧降アリーナ。バックスののぼりが立っています。
東照宮近くの川。日光は自然が美しい。
東照宮方面から駅へ向かう途中の川にかかる橋。この橋は有料で、通り抜けはできません。
セイバーズは開幕戦は勝利したものの、その後2連敗。こりゃだめかも。
2010年10月12日火曜日
オーストラリア・バレエ団「白鳥の湖」
結婚間近の王子が愛人と密会し、ベッドを共にするという、衝撃のシーンから始まるオーストラリア・バレエ団「白鳥の湖」を見てきました。
場所は上野の東京文化会館大ホール。小ホールは最近行ったけど、大ホールは久しぶり、もしかして20年以上? 今回は安いD席だったので、4階のサイド。舞台の一部が隠れて見えない。が、舞台はすばらしかったです。
「白鳥の湖」というと、中世の王国を舞台に、王子が白鳥に姿を変えたオデット姫と出会い、というファンタジーで、チャイコフスキーの名曲に乗って、白い衣装をつけたバレリーナが群舞をするというイメージ。だが、このオーストラリア・バレエ団のグレアム・マーフィの演出は英国王室のチャールズ皇太子とダイアナ元妃にヒントを得て、時代もたぶん、19世紀末くらい。王子と結婚したオデットが、やがて王子に愛人がいることに気づき、精神を病んで精神病院に閉じ込められ、そこで白鳥の湖の幻想の世界に生きる、という物語に生まれ変わりました。
ということで、以下、ネタバレありで話を続けていきます。さしつかえない人のみ、お読みください。
王子と愛人の男爵夫人が一夜をすごすプロローグのあと、舞台は第一幕へ。白を基調とした舞台の奥には湖があり、その手前では王子とオデットの結婚式を祝うダンスが繰り広げられています。女王とおぼしき威厳のある女性とその夫も登場。が、やがて、白いドレスの人々にまじって、黒い衣装のダンサーが次々と登場し、そして、愛人の男爵夫人が王子に近づき、オデットから王子を奪っていきます。王子を奪われたオデットはショックを受け、周囲の人々、特に女王に訴えかけますが、冷たくあしらわれてしまいます。そして、狂気に陥ったオデットは大きな白い帽子をかぶった看護婦たちに連れていかれてしまいます。
オデットと男爵夫人がどちらも白っぽい衣装を着ているので、遠くの席からだとちょっと見分けがつきにくかったのですが、背の高い方が男爵夫人とわかり、そのあとは大丈夫でした。オリジナルの「白鳥の湖」ではオデットは白い衣装、魔女とその娘は黒い衣装、というふうに、白と黒(白鳥と黒鳥)とはっきりしていたのですが、この演出ではそういう分け方はしていません。登場人物に白黒をつけない、という意図とも思われますが、このモチーフは最後まで続きます。特にプロローグの男爵夫人は真っ白な衣装で登場しています。
第ニ幕は精神病院。すぐ前に壁があり、真ん中に出窓のような部屋があって、そこにオデットがいる、というセット。非常に狭くて窮屈なセットですが、その壁と出窓が取り払われると、そこは青を基調とする白鳥の湖。第一幕と同じセットですが、照明や美術で印象が変わっています。そこで繰り広げられる白鳥たちの踊りは、従来の「白鳥の湖」に限りなく近く、衣装も、第一幕はモダンな衣装で、女性たちはくるぶしまで隠れる長いスカートをはいていましたが、ここでは従来の「白鳥の湖」に近い白鳥の衣装になっています。やがてそこに王子がやってくるが、男爵夫人が現れ、王子を連れ去ってしまう、というのはオデットの見た夢なのか、やがて、舞台上にはまた精神病院の壁と出窓のような部屋が現れます。
そして黒を基調とする第三幕。男爵夫人が自宅で主催する夜会。ダンサーたちはここではみな、黒い衣装を着ています。が、そこへ、まぶしい白い光とともに現れる白い衣装のオデット。正気を取り戻した彼女が王子を取り戻しにやってきたのです。しかも、王子は、戻ってきたオデットを見て、彼女が好きになってしまい、袖にされた男爵夫人はオデットを精神病院に戻してしまうが、王子はそのあとを追い、捨てられた男爵夫人は泣き伏す、というところで、場面は変わって白鳥の湖へ。
第一幕では白基調、第ニ幕では青基調だった白鳥の湖は、ここでは黒基調に変わっています。白鳥はみな黒鳥になり、オデットも黒い衣装で登場。美術も照明も黒っぽいので、ちと、舞台が見づらかったですが、善人を白、悪人を黒としない演出、白黒をつけるのではなく、白から黒へと物語自体が色彩を変えていく演出なのだと思いました。
いまや黒鳥の湖となったその舞台へ、王子がやってきます。あとを追って男爵夫人も登場しますが、王子の心がオデットにあるとわかって、ついに男爵夫人もあきらめ、帰っていきます。湖畔で結ばれるオデットと王子。しかし、オデットは、黒い湖の中に吸い込まれていき、あとには白い光だけが残り、そして、王子は悲しみのあまり、その場に崩れ落ちる、という結末。
最後まで書いてしまいましたけど、今日、10月11日が最後の公演だったので。今日の公演でオデットと王子を踊ったマドレーヌ・イーストーとロバート・カランが出演しているDVDを会場で売っていましたが、5040円もするので買いませんでした(衝動買いは禁物)。そして、帰宅してからアマゾンで調べてみたら、アマゾンだと10パーセント以上安く買えます。しかも、買って見た人のコメントによると、映像がひどいらしい。うーん、それは困る。買わなくてよかったかも。男爵夫人は、今日の舞台ではルシンダ・ダンでしたが、DVDは別の人らしいです。オケの指揮者は女性でしたが、このDVDでも同じ人です。
ところで、上のストーリーは、私が見て、たぶんこうだと思ったストーリーなので、実際は違う、あるいは見る人によって解釈が違うところがあるかもしれません。第三幕の後半、黒基調の湖のシーンは、手元のチラシによると、精神病院に戻されそうになったオデットが逃げてきたところとなっているのですが、第2幕と同じく、ここは精神病院に入れられたオデットの夢とも取れると思います。王子はオデットの夢の中まで追いかけてきて、男爵夫人もそのあとを追ってくるのですが、男爵夫人は結局、現実に戻り、オデットは死の世界へ旅立ち、そして、二股かけて悲劇を生んだ王子は夢と現実の間で泣き崩れる、そういう話じゃないかと、私は思いました。
だって、黒基調のこのシーン、「シャッター・アイランド」と「インセプション」を思い出してしまったのだもの。
妻を追って夢の中に行く夫、妻に対する夫の罪の意識、そして悲劇と、あの2つの映画にあまりにもモチーフが近いような。影響関係とかはなくて、むしろ、普遍的な物語だということなのだと思うけど(バレエの初演は2002年)。
王子をめぐる2人の女性、オデットと男爵夫人の思いがみごとに表現されていて、第一幕でのオデットの孤立と狂気、第2幕での捨てられた男爵夫人の悲痛さが、まるで演劇のように胸に迫ります。特に第一幕は、舞台上でいろいろな人がいろいろな動きをしていて、そこで男爵夫人に夫と子供がいることがわかったりします。王室の人たちが、王子の愛人を認めないオデットに冷たいのもよくわかります。
そんなわけで、大満足の「白鳥の湖」でしたが、そういえば、たぶん、20年くらい前に、この同じ文化会館大ホールで、英国ロイヤルバレエ団の「白鳥の湖」を見たのを思い出しました。あのときはもちろん、オーソドックスな演出で、とにかく、バレリーナの群舞で、みんなが足をあげると、それが全員、ぴったり合ってるのに驚きましたが、今回のはそういう精密なテクニックで見せるバレエではなかったですが、登場人物の感情を表現する踊りという点では、こちらの方が見応えがありました。
今週末はもう1つの演目、「くるみ割り人形」を見る予定です。こちらも20世紀のバレエの歴史になっているとかで、楽しみ。このオーストラリア・バレエ団の公演を知ったのは、7月に井上バレエ団の「コッペリア」を見に行ったとき、チラシをもらったからです。井上バレエ団の「コッペリア」も、主役のバレリーナがすばらしくて、拍手喝采でした。
場所は上野の東京文化会館大ホール。小ホールは最近行ったけど、大ホールは久しぶり、もしかして20年以上? 今回は安いD席だったので、4階のサイド。舞台の一部が隠れて見えない。が、舞台はすばらしかったです。
「白鳥の湖」というと、中世の王国を舞台に、王子が白鳥に姿を変えたオデット姫と出会い、というファンタジーで、チャイコフスキーの名曲に乗って、白い衣装をつけたバレリーナが群舞をするというイメージ。だが、このオーストラリア・バレエ団のグレアム・マーフィの演出は英国王室のチャールズ皇太子とダイアナ元妃にヒントを得て、時代もたぶん、19世紀末くらい。王子と結婚したオデットが、やがて王子に愛人がいることに気づき、精神を病んで精神病院に閉じ込められ、そこで白鳥の湖の幻想の世界に生きる、という物語に生まれ変わりました。
ということで、以下、ネタバレありで話を続けていきます。さしつかえない人のみ、お読みください。
王子と愛人の男爵夫人が一夜をすごすプロローグのあと、舞台は第一幕へ。白を基調とした舞台の奥には湖があり、その手前では王子とオデットの結婚式を祝うダンスが繰り広げられています。女王とおぼしき威厳のある女性とその夫も登場。が、やがて、白いドレスの人々にまじって、黒い衣装のダンサーが次々と登場し、そして、愛人の男爵夫人が王子に近づき、オデットから王子を奪っていきます。王子を奪われたオデットはショックを受け、周囲の人々、特に女王に訴えかけますが、冷たくあしらわれてしまいます。そして、狂気に陥ったオデットは大きな白い帽子をかぶった看護婦たちに連れていかれてしまいます。
オデットと男爵夫人がどちらも白っぽい衣装を着ているので、遠くの席からだとちょっと見分けがつきにくかったのですが、背の高い方が男爵夫人とわかり、そのあとは大丈夫でした。オリジナルの「白鳥の湖」ではオデットは白い衣装、魔女とその娘は黒い衣装、というふうに、白と黒(白鳥と黒鳥)とはっきりしていたのですが、この演出ではそういう分け方はしていません。登場人物に白黒をつけない、という意図とも思われますが、このモチーフは最後まで続きます。特にプロローグの男爵夫人は真っ白な衣装で登場しています。
第ニ幕は精神病院。すぐ前に壁があり、真ん中に出窓のような部屋があって、そこにオデットがいる、というセット。非常に狭くて窮屈なセットですが、その壁と出窓が取り払われると、そこは青を基調とする白鳥の湖。第一幕と同じセットですが、照明や美術で印象が変わっています。そこで繰り広げられる白鳥たちの踊りは、従来の「白鳥の湖」に限りなく近く、衣装も、第一幕はモダンな衣装で、女性たちはくるぶしまで隠れる長いスカートをはいていましたが、ここでは従来の「白鳥の湖」に近い白鳥の衣装になっています。やがてそこに王子がやってくるが、男爵夫人が現れ、王子を連れ去ってしまう、というのはオデットの見た夢なのか、やがて、舞台上にはまた精神病院の壁と出窓のような部屋が現れます。
そして黒を基調とする第三幕。男爵夫人が自宅で主催する夜会。ダンサーたちはここではみな、黒い衣装を着ています。が、そこへ、まぶしい白い光とともに現れる白い衣装のオデット。正気を取り戻した彼女が王子を取り戻しにやってきたのです。しかも、王子は、戻ってきたオデットを見て、彼女が好きになってしまい、袖にされた男爵夫人はオデットを精神病院に戻してしまうが、王子はそのあとを追い、捨てられた男爵夫人は泣き伏す、というところで、場面は変わって白鳥の湖へ。
第一幕では白基調、第ニ幕では青基調だった白鳥の湖は、ここでは黒基調に変わっています。白鳥はみな黒鳥になり、オデットも黒い衣装で登場。美術も照明も黒っぽいので、ちと、舞台が見づらかったですが、善人を白、悪人を黒としない演出、白黒をつけるのではなく、白から黒へと物語自体が色彩を変えていく演出なのだと思いました。
いまや黒鳥の湖となったその舞台へ、王子がやってきます。あとを追って男爵夫人も登場しますが、王子の心がオデットにあるとわかって、ついに男爵夫人もあきらめ、帰っていきます。湖畔で結ばれるオデットと王子。しかし、オデットは、黒い湖の中に吸い込まれていき、あとには白い光だけが残り、そして、王子は悲しみのあまり、その場に崩れ落ちる、という結末。
最後まで書いてしまいましたけど、今日、10月11日が最後の公演だったので。今日の公演でオデットと王子を踊ったマドレーヌ・イーストーとロバート・カランが出演しているDVDを会場で売っていましたが、5040円もするので買いませんでした(衝動買いは禁物)。そして、帰宅してからアマゾンで調べてみたら、アマゾンだと10パーセント以上安く買えます。しかも、買って見た人のコメントによると、映像がひどいらしい。うーん、それは困る。買わなくてよかったかも。男爵夫人は、今日の舞台ではルシンダ・ダンでしたが、DVDは別の人らしいです。オケの指揮者は女性でしたが、このDVDでも同じ人です。
ところで、上のストーリーは、私が見て、たぶんこうだと思ったストーリーなので、実際は違う、あるいは見る人によって解釈が違うところがあるかもしれません。第三幕の後半、黒基調の湖のシーンは、手元のチラシによると、精神病院に戻されそうになったオデットが逃げてきたところとなっているのですが、第2幕と同じく、ここは精神病院に入れられたオデットの夢とも取れると思います。王子はオデットの夢の中まで追いかけてきて、男爵夫人もそのあとを追ってくるのですが、男爵夫人は結局、現実に戻り、オデットは死の世界へ旅立ち、そして、二股かけて悲劇を生んだ王子は夢と現実の間で泣き崩れる、そういう話じゃないかと、私は思いました。
だって、黒基調のこのシーン、「シャッター・アイランド」と「インセプション」を思い出してしまったのだもの。
妻を追って夢の中に行く夫、妻に対する夫の罪の意識、そして悲劇と、あの2つの映画にあまりにもモチーフが近いような。影響関係とかはなくて、むしろ、普遍的な物語だということなのだと思うけど(バレエの初演は2002年)。
王子をめぐる2人の女性、オデットと男爵夫人の思いがみごとに表現されていて、第一幕でのオデットの孤立と狂気、第2幕での捨てられた男爵夫人の悲痛さが、まるで演劇のように胸に迫ります。特に第一幕は、舞台上でいろいろな人がいろいろな動きをしていて、そこで男爵夫人に夫と子供がいることがわかったりします。王室の人たちが、王子の愛人を認めないオデットに冷たいのもよくわかります。
そんなわけで、大満足の「白鳥の湖」でしたが、そういえば、たぶん、20年くらい前に、この同じ文化会館大ホールで、英国ロイヤルバレエ団の「白鳥の湖」を見たのを思い出しました。あのときはもちろん、オーソドックスな演出で、とにかく、バレリーナの群舞で、みんなが足をあげると、それが全員、ぴったり合ってるのに驚きましたが、今回のはそういう精密なテクニックで見せるバレエではなかったですが、登場人物の感情を表現する踊りという点では、こちらの方が見応えがありました。
今週末はもう1つの演目、「くるみ割り人形」を見る予定です。こちらも20世紀のバレエの歴史になっているとかで、楽しみ。このオーストラリア・バレエ団の公演を知ったのは、7月に井上バレエ団の「コッペリア」を見に行ったとき、チラシをもらったからです。井上バレエ団の「コッペリア」も、主役のバレリーナがすばらしくて、拍手喝采でした。
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