2016年6月7日火曜日

節目の年

人生には何度か節目の年があるものだけれど、私の場合、それは1976年、1984年、1997年の3回だと思う。
最後の節目の年、1997年から来年で20年になるので、この辺でもう1回節目の年が欲しいよう、ということで、3回の節目の年を振り返ってみる。

1976年
1 映画「バリー・リンドン」を見て、アメリカ文学からイギリス文学(ヴィクトリア朝小説)に鞍替えする。翌年、原作者サッカレーについて卒論を書いた。
2 当時、日本で唯一の通学制の翻訳学校だった四谷の翻訳学校で有名な翻訳家・中村能三氏の授業を受ける。結局、翻訳学校は3か月でやめてしまったが、中村氏の教えの数々は今でも私にとって座右の銘となっている。実際に小説の翻訳をしていたとき、中村氏の教えが何度も脳裏によみがえった。
3 大学院進学を決意する。
「バリー・リンドン」でサッカレーに興味を持ち、原書で作品を次々と読み、英語の研究書まで手に入れて読むようになったが、私の大学には大学院がなかったので、英文学の研究者になるという考えは最初はなかった。そこで文芸翻訳家をめざそうと思ったのだが(当時はなりたい人があまりいなかったので、あのまま翻訳学校に行っていればなれたと思う)、どうも私のやりたいことは翻訳ではないと気づいた。それならと、他大学の大学院をめざすことにした。幸い、私の大学からは理系や教育学系の学生の一部が東大の大学院に進学していて、東大クラスの院をめざすのはめずらしくないことがわかった。院のない大学だからこそ、最高峰をめざすという考えがあった。

1984年
1 「フランケンシュタイン」解説で評論家になる。
2 キネマ旬報に執筆するようになる(映画評論家を名乗る)。
大学院に進学したものの、就職は女性差別がきびしかった。それでも前年、岡山大学から講師就任の依頼があったが、そのときすでに「フランケンシュタイン」解説を書き始め、評論家デビューの野望を抱くようになった私は、研究職に就く唯一のチャンスを断ってしまった。今なら地方の大学に就職しても映画評論家はできるが、当時は非常にむずかしかった。実際、キネマ旬報などの雑誌に書くには首都圏に住むことが大前提だった。

1997年
1 7年ぶりにキネマ旬報に本格復帰。
2 小説の翻訳を本格的に始める。
3 初めてのパソコンを買う。Windows95搭載のSHARPのMebius。30万円もしたが、クレジットの一括払いで買っているので、お金があったんだねえ。黒のラップトップに赤い小さな文字でMebiusと書かれているこのパソコンは今でも大事にとってある。SHARPがパソコンをやめ、そしてあんなことになるとは想像もしなかった。
80年代には大学院で研究したE・M・フォースターの映画化が相次いだことから、キネ旬ではけっこういい思いをさせてもらった。が、90年代に入ると編集部の体制が変わり、縁がなくなってしまった。その間は看護系の専門誌や「エスクアイア」などで執筆しつつ、非常勤講師や予備校の仕事をやっていたが、90年代半ばにこれらの仕事が激減。ヤバイと思って小説の翻訳に本格的に進出(下訳や短編の訳などは80年代からやっていた)。同時にキネ旬に連絡をとり、復帰を果たす。ただ、出版翻訳はこの頃氷河期に入っており、仕事が続かなかった。キネ旬ではこのあと10年間くらいが一番活動させてもらえた時期になる。

中村能三氏以外の名前はあげませんでしたが、ほかにもいろいろな方々との出会いやご厚意でこれまでやれてきたことは言うまでもありません。深謝。