またまたシネコンでハシゴ。今回は「高慢と偏見とゾンビ」と「淵に立つ」。
「淵に立つ」は試写状もらったのですが、行けなかったのですね。カンヌで賞を取ってます。
「高慢と偏見とゾンビ」はRottentomatoesでの評価が批評家・観客ともに芳しくないので期待はしてませんでしたが、原作読んでいるので一応、話のタネに見ておくかと。
もっとも、今回一番のお目当ては映画よりもTOHOシネマズのプレミア・スクリーンでした。
このプレミア・スクリーン、本来は普通のスクリーンでやっている映画をここでもやって、ここは特別料金にするはずなのですが、実際は入場者数が少ない映画を通常料金でやっています。
座席がゴージャスでリクライニングシート、席と席の間に小さなテーブルがあり、最後尾には2人用ソファのカップルシートが。
私は前の方に座ったので、リクライニングにすると見づらいからしませんでしたが(後ろの方でも見づらいような気がする)、なんかとってもゆったりと見られます。
客席に入る前のところにもソファがいくつか置いてあるロビーがあって、誰も利用していないのが惜しいくらい(ちょっとだけ座ってみました)。
「高慢と偏見とゾンビ」が午後の回、「淵に立つ」が夜の回で、プレミア・スクリーンのハシゴでもありました(ゴージャス)。
さて、映画の方はワタクシ的にはイマイチ。
「高慢と偏見とゾンビ」は原作はジェイン・オースティンの「高慢と偏見」をところどころ改変したり付け加えたりして、ベネット家の姉妹がゾンビと戦う話にしているのですが、原作の場合はオースティンの文章がいつのまにか改変文章に変わっていたり、いつのまにかまたオースティンに戻っていたり、という語りの妙が面白いのですが、映画ではそれは無理。いきなりゾンビから始まって、次に「高慢と偏見」、次がまたゾンビみたいに、なんだかゾンビと「高慢と偏見」が交互に出てくる感じ。しかも「高慢と偏見」の方がはしょりぎみ。そして、私が原作で一番気に入ったコリンズとシャーロットのエピソード、シャーロットがゾンビになってしまうのですが、ここはそのままスピンオフにして1つの作品にできそうなところなのだけど、映画ではばっさりカット。あれま。
そして字幕がなあ、「ミス・ベネット」と英語で言ってるのに字幕は「リズ」とか「エリザベス」とか、アッパーミドルクラスの会話じゃないわな。
そしてクライマックスは完全に「高慢と偏見」から解放され、オースティンの人物が出てくるだけの別の話に。まあ、それはいいんですが。
最後、エンドクレジットの途中に続編作る気満々の映像が流れますが、続編はないでしょう。
「淵に立つ」は気鋭の日本人監督の作品。浅野忠信演じる謎めいた男が社長が1人でやっている町工場にやってきて、住み込みで働くようになる。この男が実は殺人で服役していた、というのは見る前から知っていたので、男に対して社長が深々と頭を下げるシーンで、ああ、この社長は~だな、とわかりました(実際、そのとおりでした)。
社長の妻はクリスチャンで、男の罪の告白を聞くと、こういう人こそ神に愛されるべき、と思い、しだいに男に惹かれていく。幼い娘も男を慕うようになる。
浅野の演じる男はしわもなく汚れもない新品のような白い服やワイシャツをいつも着ています。が、あるとき、その白い服に汚れがついていて、下に白いTシャツではなく真っ赤なTシャツを着て現れたとき、ある事件が起こる。それは事件なのか事故なのかはわからないけれど、男は姿を消し社長一家には不幸が訪れる。そして、8年後、という具合に物語が進んでいきます(ネタバレはしません)。
見ていて、ああ、これはキリスト教の原罪の話なのだな、と思いました。
浅野が前半で身につけていた服の光り輝くような白も印象的ですが、映画は次第に赤を帯びてきます。赤い花、少女の着る赤いドレス、赤い屋根、紅葉、そして最後に登場する浅野は真っ赤なワイシャツ。
ホーソーンの「緋文字」が不倫の罪を表していたように、赤は罪を表しているのでしょう。
そういうキリスト教的な背景を持った映画なのは確かなのですが、前半、クリスチャンらしいことをいろいろしていた妻が後半、まったくキリスト教とは無縁になってしまうのが気になります。クリスチャンならば、もっと違う心理や行動があったのでは?
右の頬を打つシーンや打つ話が何度かあって、左の頬を差し出すかどうかが問われているのかなと思いますが、どうもすべてが思わせぶりで、奥深さを感じません。
一番の罪びとが社長であることは最後のシーンで感じ取れますが、では、ほかの人はどうなのよ、と思うと、なんだか人間の扱いが乱暴なように思えてしまうのです。