2018年2月8日木曜日

「ウィンストン・チャーチル」の試写に行ってきたのだけど

ゲーリー・オールドマンがアカデミー賞主演男優賞をとりそうな「ウィンストン・チャーチル」の試写に行ってきた。
開映35分前でもう補助椅子。その補助椅子もあっという間に埋まる。こんなに混むとは思わなかった。アカデミー賞がらみだから? 作品賞など6部門にノミネートされているが、監督賞と脚本賞はノミネートされていないので、作品賞は無理だろう。実際、オールドマンの演技と特殊メイクがすごくて、もうそれがすべてみたいなところがある。
映画は1940年5月、チャーチルが首相になるところから始まり、ダンケルクの戦いまでの1か月弱を描く。最近、ダンケルクの映画が多いけど、なんでだろう。クリストファー・ノーランの「ダンケルク」が当たったから、ではなくて、同時に数本の映画が作られているみたいなのだが。
監督は「プライドと偏見」や「つぐない」、「アンナ・カレーニナ」など文芸路線のジョー・ライト。今回は実話路線なので、文芸路線とは雰囲気が違う。撮影賞もノミネートされているが、渋い映像だ。
映画はチャーチルという人物をユーモラスに描写する。彼を支える2人の女性、妻とタイピスト、紆余曲折の末チャーチルを支持するようになるジョージ6世(「英国王のスピーチ」の主人公だが、この映画では吃音でなく、また、コリン・ファースよりも本物に顔が似ている)、政敵チェンバレンとハリファックスが中心人物。ヨーロッパを侵略し続けるドイツを目の前にして、ドイツと和平を結ぼうとするチェンバレン、ハリファックスに対し、戦うことを主張するチャーチルが描かれる。
歴史的に見てチャーチルの主張が正しいのはあまりにも明らかなので、チャーチルと政敵とのドラマはあまり盛り上がらない。チャーチルも苦悩しているようには見えない。2人の女性も添え物的。オールドマンの演技を堪能する以外には、せいぜい歴史のお勉強とか、それもそんなに深いとは思えず、映画としてはまあまあな出来ではないか。チャーチルの決断は正しかったし、その決断を実行するだけの才能とカリスマを持っていたことはわかるが、今、そのチャーチルの戦う決断を描く映画を作るというのはどういう意味だろうかと考えてしまう。
欧米の人々にとってはこれは歴史ものの映画として楽しめばいいのかもしれない。だが、日本でこの映画が公開されたら、きっと、安倍首相が見て、自分がチャーチルだと言いだし、北朝鮮をドイツにたとえて徹底抗戦とか言いだすのじゃないかと心配になる。なんたって、「シン・ゴジラ」の首相も自分だと思っている人だから。

映画自体に罪はないのだが、社会の中に置いたとき、問題が起こる、という例はほかにもある。このブログでも記事にした「デトロイト」について、米国の大学院在学中の古谷有希子が批判している。私もこの映画について、人種差別と女性差別がリンクしているところはよいが、その一方で、ネオナチふうの白人警官の狂気のせいにしているのはどうか、と書いたが、古谷はデトロイト反乱(彼女は暴動ではなく反乱と呼ぶべきと主張)の原因その他を十分に描いていないので、黒人がかわいそうという白人向けホラー映画になっていると書いている。
古谷が解説しているデトロイト反乱の背景などは詳しくて勉強になるが、映画でも最初にアニメで背景が一応描かれている(古谷の解説に比べたら不十分ではあるが)。ただ、この映画はデトロイト反乱全体を描くのではなく、白人警官による3人の黒人青年虐殺に焦点を絞っているのであれがないこれがないと言うのは映画に対してちょっと要求が大きすぎるのではないかと思う。
古谷有希子は以前、映画について何かひどい記事を書いていたような気がしたので調べてみたら、「シン・ゴジラ」だった。あれはかなりひどかったが、今回はデトロイト反乱の背景をしっかり解説してくれているのでよいし、こういう批判はあってよいと思う。ただ、この批判を読んだ東大教授の本田由紀が「まだ見ていないけどどうしよう」などとツイートしているのが困る。自分の目で見て確かめないでどうする?

今年はイギリスで女性が選挙権を勝ち取ってから100周年だそうで、選挙権を勝ち取る運動をしたサフラジェットのことがネットにもいろいろ出ている。昨年公開された映画「未来を花束にして」(原題「サフラジェット」)のことも出てきているが、この映画、日本では邦題と宣伝の仕方に問題があったので、去年の今頃はサフラジェットに詳しい人たちから日本の配給会社への批判がかなりあった。映画自体は私はプロパガンダとお涙頂戴で、映画としては出来がよくないと思ったが、サフラジェットを知る人たちにはかなり評価が高かった。が、最近になって、「あの映画はサフラジェットをきちんと描いていないお涙頂戴映画」という批判を目にして、ああやっぱり、と思った。
その「サフラジェットをきちんと描いていない」という主張は、古谷有希子の「デトロイト反乱をきちんと描いていない」という主張と同じで、描いていないことがあまりに多いということである。映画だからあれもこれも入れるというわけにはいかないのだが、映画はやはり一面しか描けないということを知るという点ではどちらの指摘もよかったと思う。「ウィンストン・チャーチル」についても同じような批判がおそらく出るのではないか。映画は映画として楽しんでよいが、そうした指摘もきちんとされるべきだろう。