先週は日劇ラストショウに行ったり、仕事や雑用も多かったりで、かなり忙しかった。
週のなかば、木曜日に「スリー・ビルボード」を見たのだけれど、日劇の話などで書かないでいるうちに、見た当初はすごい傑作と思ったのがだんだんまあまあな傑作に思えてきてしまった。
まあ、よい映画であることは確かなのですが。
ミズーリ州の田舎エビングという町で、何者かにレイプされ殺された娘の母親が警察の怠慢に怒り、田舎道の3つの大きな看板(スリー・ビルボード)に警察署長の責任を問う広告を出す。
警察は黒人をいじめてばかりでまともに捜査をしない、というのが母親の主張だ。
実際、この町の警官たちは人種差別主義者だったりゲイフォビアだったりと、無能で問題のある人物ばかり。しかし、当の署長はこの町の中では唯一人格者と呼べる人で、町中の尊敬を集めている。捜査が進まないのも手掛かりが皆無だからで、決して怠慢だからではない。
おまけにこの署長、末期がんで余命わずか。そんな署長を非難する広告を出した母親ミルドレッドは町中から憎まれることになる。
前半はとにかく、署長以外の町の人々が問題ある人物ばかり。ミルドレッド自身も元夫の恋人についてひどいこと言う性格の悪さがあるし、彼女の息子は女性差別の言葉を使いまくる(字幕はおとなしい訳にされてるが、そんなレベルの言葉じゃない)。
それでもミルドレッドを応援してくれる人もわずかながらいるが、警官たちや彼女をよく思わない町の人々はミルドレッドや彼女の味方になる人にいやがらせをしたり、暴力をふるったりする。
まあとにかくいやなやつばかりで、唯一の救いは人格者の署長。が、この署長、途中で自殺してしまうのだ。
署長が自殺したのは闘病生活の苦しさからだが、町の人はミルドレッドが署長を死に追いやったとしてまたしても彼女を憎む。が、署長の残した手紙が彼を崇拝する警官(こいつが一番ひどいやつだったのだが)を変え、ミルドレッドも変える。
映画の後半では、それまでいやなやつだった町の人々のよい面が見え始め、敵だった人々が手を組むといった展開になる。
ラスト、ミルドレッドと改心した警官(実際はその前にクビになっているので元警官)が悪人と思われるある人物に会いに行くが、その男を殺すかどうか、2人は決めていない、というところで映画は終わる。
その人物はミルドレッドの娘を殺した犯人と疑われたが、事件が起きたときは国外にいて、どこか危険な場所で軍の機密任務についていたらしい。
その男はかなりクレイジーな言動をしているが、その軍務で心を病み、自分を悪人のように見せているだけかもしれない。
映画の前半、人間の悪い面、いやな面ばかりが見えていたが、後半、同じ人間のよい面が見えてくる、ということを思うと、この悪人と思われる人物も実は悪人ではない可能性がある。ミルドレッドも元警官も、そのことに気づいているので、殺すかどうか決めていないと言うのだろう。
ここに至るまでの展開が非常に面白く、人間の中の善と悪についての寓話になっているので、これはすごい傑作、と思ったのだが、時間がたってみると、わりとわかりやすい話で、それほど深みはないのかも、という感じもしてくる。この辺、評価が分かれるかもしれない。
映画のなかほど、署長が死んだあと、ミルドレッドは看板のそばで小鹿に出会う。小鹿を娘の化身だと彼女は感じる。このシーンから映画のトーンが変化していくのだが、この場面を見て「クイーン」を思い出した。
ダイアナ元妃を国葬にするかどうかで悩むエリザベス女王は、散歩していたときに鹿に出会い、それがきっかけでダイアナに対するわだかまりが消える。鹿はローマ神話のダイアナに関係しているので、鹿はダイアナの化身であり、鹿との出会いでダイアナを受け入れたと考えられるが、「スリー・ビルボード」の場合も娘の化身のような小鹿との出会いでミルドレッドが変化したと考えられる。ミルドレッド自身、娘とうまくいっておらず、娘が事件に遭う前にひどいことを言ってしまったのだ。別れた夫も、一緒に暮らしたいという娘を拒んだことで後悔している。こうしたさまざまな人間模様が見応えのある映画でもある。監督のマーティン・マクドナーは劇作家とのことで、この辺のドラマツルギーがいかにも演劇っぽいと思うが、劇でやった方が効果的なのでは、という感じもする。その一方で、音楽の使い方は映画ならではの魅力で(冒頭の「庭の千草」がぞくっとするほどいい)、演劇的な面白さと映画的な魅力の両方があるのは確かだ。