2018年7月27日金曜日

ユニクロのベルばらTシャツ

もう2か月くらい前になると思うが、ユニクロの店頭でベルばらTシャツが定価1500円のところ、990円になっていたので、絶対外には着ていけないけれど部屋着として1枚あってもいいかと思い、1枚だけ買った。
このデザインのもの。

で、この画像をもらうためにユニクロのサイトに行ってびっくり!
なんと、390円に値下げしてました!
https://www.uniqlo.com/jp/store/feature/uq/ut/versailles/
実は最初に行ったときはどうせ外で着れないし、と思って買わず、翌日行ったときに部屋でだけ着ればいいかと思って買ったのだが、その後、また1500円に戻ったり、790円に値下げしたり、その後また定価に戻ったり、となっていて、売れてないのだろうと思った。
上のサイトの画像を見ると、外で着ても大丈夫な無難なデザインもあるけれど、無難なデザインじゃわざわざこれを買う気はしない。
ただ、このデザインは一度も見たことない(あるいは、上半分しか見なかったのか?)。アンドレとオスカルだから人気だったのかな。あったら絶対買ったのに。これなら外に着ていっても大丈夫かな。

あとはピンク色メインの柄とか、タイトル入りとか、とても外に着ていけない。いけるのは黒地に胸にワインポイントのだけ。これはSしかないので、売れたのだろう(でも上のデザインのはSからLまである)。
売れてないのでは、と思ったのは、売り場で見ている人が少なかったから。すぐそばのミッキーマウスのTシャツの方が大人も着られるデザインで、そっちの方を見ている人はいたが、ベルばらはあまり見る人がいない感じだった。
実際、ベルばらって、今50代から60代の人がリアルタイムで知っていた漫画で、宝塚の公演が続いているとはいえ、40代以下の女性は知らない人、あまり思い入れがない人が多いのではないかと思うし、50代以上だとユニクロでこういう服は買わないだろう。
店頭でも安売りになっているのかな?

2018年7月24日火曜日

超絶猛暑日

昨日、7月23日は東京でも39度を超える超絶猛暑日。
青梅の方では40度を超えたようだが、埼玉県熊谷市では41.1度で、高知県に奪われていた1位を奪還したという、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないニュースも。
冷房がないところが多いという公立の小中高校はもう夏休みだと思うが、大学はこれから期末試験。超絶猛暑日の昨日は都心の某大学で期末試験。
ここ、駅から大学まで徒歩15分くらいなんだけど、歩いているうちにフラフラしてきてしまうほどの気温。授業は2時半から5時半くらいまで。
着いてみると、冷房が効かない。
その前に職員室で、他の先生が冷房が効かないという苦情を入れていたけれど、職員は適当にごまかしている。
教室に行ってみると、本当に効いていない。設定温度が27度だったので、23度に下げたが、しばらくすると26度に勝手に変わり、止まる。23度に下げるが動かない。しばらくして動き出したので、じっと画面を見ていたら、急に26度に変わったので、さっと23度に下げる。これを何度か繰り返して冷房が止まるのを防いだが、試験を受ける学生の監視じゃなくて冷房の監視ってどうよ(学生は監視する必要のないまじめな人たちばかりなのでよいが)。
学生たちもさっさと書いてさっさと提出していき、あと少しとなったところで設定温度が急に26度に下がり、その瞬間に冷房が止まった(下げに行く余裕がまったくなかった)。
まだ冷気が残っているうちに全員が答案を出して事なきをえた。
次の授業は別の教室だったが、そちらは設定温度が15度になっていて、冷房はよく効いていて、設定温度も上がらず、大丈夫だった。2つの教室はそれぞれ別の建物なのだが、あとの教室の方が冷房装置がむき出しなのに対し、最初の教室は冷房装置が見えないようになっていた。見かけがおしゃれな方がいざとなると役に立たないということなのだろう。
もっとも、おしゃれじゃない方はふだんも設定温度を19度にしないと冷房効かない部屋で、この大学、冷房設備失敗してるんじゃ?(新しく建て直した校舎ばかりの大学)

夜は上野のあたりで涼みながら採点をして、帰宅したあと各地の気温を調べたら、東京は午後11時でまだ30度以上あるのに対し、茨城県のすぐ南にある我孫子市は最高気温が37度で、午後11時には25.5度に下がっていた。今朝の最低気温は24.5度。うーん、我孫子に住みたい。
八王子も最高気温は39度オーバーだったけれど、午後11時には28度台に下がっていた。この辺が郊外は違うのだな。

今の団地に引っ越して9月で3年になるのだけれど、さすがに都心に比べたら涼しくて、これまで冷房の必要をまったく感じなかったし、まわりを見回してもベランダに室外機のない部屋がけっこうあるので、ここは冷房いらないのだな、と思っていた。今年は6月下旬に梅雨明けしてからの猛暑で、さすがにこれは冷房ないとやっていけないかと思い、7月に入ってから秋葉原にエアコンを見に行ったりもしたのだけど、このでかいのが部屋につくのか、と思うとうんざりしてそのまま帰ってしまったが、9月の中旬までこの調子だとどうなることやら。でも、今エアコン買ってもすぐ来るわけじゃないしなあ、とも思ってしまう。

2018年7月21日土曜日

酷暑お見舞い申し上げます。

火曜日に試写に行くために上野東京ラインに乗り、上野駅を出たところで車窓に丸井の電光掲示板が見えてきたが、気温がなんと37度。時刻は午後3時少し前。
気象庁発表の東京の最高気温はこのところ35度前後だが、実際はこのとおりなのだ。
今年の猛暑は湿度が高いことも原因だと思うのだが、あまりそのことはニュースに出てこない気がする。
気温と湿度は反比例するので、気温が高いと湿度は下がる。気温が35度以上あったら湿度は普通は50%以下になると思うのだが、今年は最高気温が出る昼間でも65%を超えている。気温が下がる深夜になると90%近くにまでなる。90%というのは普通は雨で気温の低い日。
そんなわけで、水をガブガブ飲んでいたら、水太り傾向です。

さて、昨日発売のキネ旬、1970年代映画ベストテン第2弾、日本映画編に参加しております。

画像はアマゾンから。1位は「太陽を盗んだ男」。
もともと日本映画は見る数が少ないのですが、結果を見たら、私が投票した映画のうち、4本がベストテンに入っていました。外国映画は「スター・ウォーズ」しか入ってなかったのにね。
逆に、私しか入れない作品が外国映画は3本あったのに対し、日本映画はたったの1本(「わが道」は新藤兼人監督作品です)。山田洋次の「故郷」も私だけだと思っていましたが、ご同輩がもう1人いました。
で、結局、外国映画の方がたくさん見ているので、私のユニークさというか、変わり者度が際立つけれど、日本映画では私のミーハー度が際立つ?
また、当時のベストテン1位に選ばれた映画があまり上位に入らない、という傾向が外国映画にも日本映画にも見られます。

2018年7月18日水曜日

「チャーチル ノルマンディーの決断」

ウィンストン・チャーチルがノルマンディー作戦に反対だったという新事実(?)を映画化した「チャーチル ノルマンディーの決断」の試写を見に行った。
ロッテントマトでは評価がだいぶ低かったが、「レイルウェイ 運命の旅路」のジョナサン・テプリツキー監督だったので、一応見ておこうと思った。「レイルウェイ」は好きな作品。
だが、やはりトマトの評価は正しかったようで、いろいろ不満の多い出来栄えだった。
特に妻と秘書の描写がゲイリー・オールドマン主演の「ウィンストン・チャーチル」と瓜二つで、まあこれがチャーチル伝の定番なのかもしれないが、妻はまだしも秘書はダンケルクのときとは別人のようなのに同じエピソードを使っている。ミスを怒鳴るチャーチル、というやつで、そのミスも単語のつづりを間違えたことと、ダブルスペースにしなかったことで、まったく同じ。おそらくダンケルクのときの秘書の手記をもとにノルマンディーのときの秘書を創作したのだと思うが、秘書の人物造型も似ていて、チャーチルが妻と秘書を通じて変化していくのも同じような展開。最後に演説、というのも同じ展開。
ここまで似てくると、やはり「ウィンストン・チャーチル」の方が面白かったので、こちらは非常に分が悪い。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったダンケルクの頃に比べ、ノルマンディーの頃は落ち目になっていたようで、またうつ病のような状態でもあったらしいが、そんな彼がいかに時代から遅れているかを次々と見せられるのもつらい。チャーチルの考える戦争は第一次世界大戦、いや、前世紀の戦争、とまで言われ、実際、彼もドイツ軍が毒ガスを使うとか、第一次大戦の話をしている。
チャーチルは第一次大戦のときに軍事作戦で大失敗し、多くの兵士を死なせたことがトラウマになっている、というように描かれているが、このあたりの、チャーチルはノルマンディー作戦に反対だったというのがどの程度真実なのかわからないのも眉に唾をつけてしまう。
同じ監督の「レイルウェイ」は「戦場にかける橋」の元になった日本軍の鉄道建設に従事させられたイギリス兵の捕虜が無実のスパイ容疑で憲兵隊の拷問を受け、戦後はそれがトラウマになっていた、という実話の映画化で、憲兵隊の通訳だった日本人が戦争の悲劇を忘れないための記念館をやっていると知り、会いに行く。そこで元通訳に怒りと憎しみを抱く主人公だが、それを真摯に受け止める元通訳の姿にやがて憎しみが消え、2人の間に友情が生まれる、という、これまた実話の展開を映画化している。このコリン・ファースの演じた元捕虜の戦後のトラウマと、彼を支える妻(ニコール・キッドマン)の姿が今回のチャーチル夫妻の描写に引き継がれている感じがした。真田広之の演じた元通訳のような人物がいないのが物語の底を浅くしているのかもしれない。
要約すると、どちらも過去の戦争のトラウマに悩まされる主人公がそれを克服するという点が共通しているのだが、「チャーチル」の方は「レイルウェイ」のような奥深いドラマがないこと(「レイルウェイ」に比べてトラウマの克服のドラマが弱い)、オールドマンの「ウィンストン・チャーチル」と比べて見劣りすることが大きな欠点になっているような気がする。

2018年7月9日月曜日

映画「追想」と小説「初夜」(ネタバレ全開、追記&訂正あり)

(一部誤読があったので訂正しました。)
イアン・マキューアンの小説「初夜」を読んだので、映画「追想」との比較をネタバレ全開で書きます。
原題はどちらも「チェジル・ビーチにて」で、このチェジル・ビーチのホテルでのハネムーンの初夜が物語の中心ですが、小説の邦題「初夜」はそのものずばりで内容と合っていますが、映画の方の「追想」はインパクトが弱いし、過去に同じ邦題の映画がいくつかあり(しかも有名作)、また内容にも合ってないです。
物語はチェジル・ビーチのハネムーンから始まり、途中に2人が結婚に至るまでの過去がフラッシュバックで入るという形式ですが(映画も小説も)、このフラッシュバックはあくまで演出や語りの都合であって、誰かの回想ではないのです。なので、追想という邦題には非常に違和感を感じます。
映画の脚本は原作者のマキューアンが書いていますが、プレスシートによると、他の人にいじられたくなかったので映画化が具体化する前から書いていたのだと。
しかし、できあがった映画を見ると、映画は原作と同じエピソードを使っているけれど、結果的には似て非なるものになった、というのが私の印象です。
同じエピソード、同じ話なのに、ポイントの置き方ががらっと変わっているからです。

1962年、まだ性の解放などの波が押し寄せる前の英国で、性について完全にオクテで未熟な22歳のカップル、フローレンス(シアーシャ・ローナン)とエドワード(ビリー・ハウル)が結婚し、チェジル・ビーチのホテルにハネムーンでやってくる。2人は愛しあっているのだけれど、フローレンスは結婚前に初めて性に関する本を読んで、性行為について非常な恐怖感を感じている。とにかく彼女は挿入されるのがいやで、キスでも舌を入れられるのがいやなのだ。それでも彼を受け入れなければと、女性の服の脱がせ方も知らないこれまたオクテのエドワードと必死に結ばれようとし、本に書いてあったことをやってみて大失敗。パニックになったフローレンスはホテルを出て行ってしまう。
あとを追ってビーチにやってきたエドワードは彼女から「愛しているから一緒に暮らすけれど、私はセックスはだめ。がまんできなくなったらほかの女性とやっていいから」と言ってしまい、エドワードは激怒、2人は別れてしまう。

このあたりは原作と映画はまったく同じ展開なのですが、シリアスな小説に比べて映画はなんだかちょっと笑ってしまうような感じさえあるのです。
小説ではフローレンスが結婚前も性的な接触をいやがっていたことが書かれていますが、映画はそういう描写はなく、結婚前に性に関する本を読んで、というあたりがどうもコミカルなふうに見えてしまう。原作は徹頭徹尾シリアスなのですが。
なんでこうなったかというと、結局、最後の後日談を見るとわかるのですが、原作ではエドワードは自分の子供はいないが名付け親になった子供は5人いて、友人もいれば好きな女性もいると、かなり充実した人生を送っています。フローレンスを思い出すのは60代になってからで、そのときも若い頃の彼女のことだけを考えていて、現在の彼女のことは知りたくないと思っています。一方、フローレンスは自分が作った四重奏団がプロデビューし、活躍していることが伝えられますが、それ以外のことは何もわかりません。少なくともデビューしたときはフローレンスは旧姓のままです。
ところが映画では、エドワードはなんだか寂しそうな人生を送っていて、そして、偶然、フローレンスの四重奏団の引退公演のことを知り、コンサートに出かける。フローレンスは楽団のチェロ奏者と結婚して子供も孫もいるとわかる。そして思い出のコンサートホールで2人は目を合わせ、と、マキューアンの小説の映画化とは思えないメロドラマに。
つまり、映画では、フローレンスの性への恐怖感は一時的なものだった、というわけです。
でも、原作ではとてもそうは見えない。この人は本当に性行為がだめなんだ、と思うような描写です。原作では彼女は独身のままかもしれないのです。
ただ、原作ではエドワードは最後に、2人とも未熟だったんだから、自分が怒ったりせずに、時間をかけて夫婦の関係を築いていけばよかった、と考えるところで終わります。まあ、常識的な考えなわけですが、あくまでこれは年をとったエドワードが常識的に考えているだけなんで、フローレンスの方はどうだかわからないのです。
が、映画の方は完全に。エドワードが短気を起こしたからいけない、フローレンスは本当に性行為がだめなわけじゃなかった、時間をかければいい夫婦になれたのに、というのをはっきり見せてしまう。
まあ、原作のエドワードの考えを具体的な現実として描いてそれを肯定したわけで、こういう結論にした方が受けはいいと思いますが、原作読むとそんな単純じゃない感じもするのですね。原作ではとにかくフローレンスのその後はわからないわけで、あくまでエドワードの記憶の中の彼女でしかないのです。

結婚に至る過去のフラッシュバックについては、原作と映画は多少ニュアンスが違っていて、フローレンスの両親は映画の方がいやな人々です。逆にエドワードの両親と妹たちは原作よりも好感度が高く、特に脳に損傷を受けて普通の生活ができなくなったエドワードの母(アンヌ=マリー・ダフ)は、奇行はあるけれど本人は人生を楽しんでいるふうで、原作にはない魅力となっています。映画ではフローレンスがエドワードの家族と仲良くなる過程が細やかに描かれているので、エドワードと別れてしまう残念感が増します。原作の方はどちらの家族もあまり深くは描かれていません。

というわけで、フラッシュバックの部分は映画の方がいいかな、と思うところもあります。
フローレンスの性恐怖症を一時的なものと考えるか、より根源的なものと考えるかで、後日談と映画全体の評価が違ってくると思います。個人的には、ああいうのは一時的な場合が多いだろうとは思いますが、「めぐりあう時間たち」のジュリアン・ムーアのエピソードのように、性が苦痛でしかない人もいるわけで、ただ、原作者自身もそれをどの程度考えているかはわからないですね。

追記 原作を再読して、エドワードのその後について誤読していたことがわかりました。訳文で、40歳になり、一度離婚した、となっていたのを、フローレンスとは婚姻不成立で(映画の字幕ではそう表現)、その後、再婚して離婚したと思ってしまいました(40歳でバツイチだった、という意味だったのですね)。子供に関しては名付け親のところを勘違いしていました。また、エドワードが再婚しなかったのは、初夜の失敗による精神的なトラウマがあるのか? そして、50代まではリア充だったのに60代になって急にフローレンスを思い出すとは、それまで独身ライフを楽しんでいたのにシニアになったら独り身の寂しさを感じるのか。うーん、この辺はどうもわからんです。

2018年7月6日金曜日

キネマ旬報創刊100年記念企画

来年に100周年を迎えるキネマ旬報が、年代ベストテンをやるというので、1970年代に参加させていただきました。

表紙は1位の「タクシードライバー」。総勢100人以上が参加、条件は「私の好きな」なので、「優れた作品」ではなく「選者の好きな作品」です、念のため。
私は10代から20代なので当然、リアルタイムで、しかも何度もリピートして見た好きな映画の中から選んでいますが、当時はまだ幼かった選者もいて、やっぱり同世代の人の選出の方が気持ちが想像できて共感できます。
また、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」とか「ビリー・ホリデイ物語」とか、1人しか選んでない作品が肝というか、私も「シャーロック・ホームズの冒険」、「探偵スルース」、「ラムの大通り」は私しか選んでなくて、そういう1人しか選ばない作品がたくさんあることで、ああ、そういえばこういう映画があったんだよなあ、というなつかしさを味わえるのです。(それでも誰も選ばなかった、たとえば「イナゴの日」とかあるんだよね。)
しかし、キネ旬はこの手のベストテンが好きで、また、好きで投票する人が多数いるので、こういう企画ができるのですが、集計する人は大変なんじゃないか、と思うことも多いです。毎年のベストテンもだけど、今はパソコンを使って昔よりは楽に集計できているのだろうか。集計に関する苦労話とかいい話とか、載せてみてもいいと思うのだけど企業秘密?
今回もそうですが、1票しか入らない作品まで全部リストアップされている、ここがすごいわけですよ。上位だけしか発表しない方が全然楽に違いないと思うのですが、私のように1票しか入らない作品に価値を見出す人間からすると、大変だろうけど続けていただきたい。
あと、テンにこだわる、というところですね。今回、10本なんて少なすぎる、と誰もが思ったと思いますが、10本という数がまた肝なわけで、20本とか30本とか増やしたら収拾がつかなくなり、テンの価値も薄れてしまい、一方、集計を楽にするために1人5本とかにするとまた意義が薄れる感じがします。1票しか入らない作品をずらりと見せる、そして、投票は1人10本で、あくまでテンにこだわる、というところがよいのです。
次号の日本映画にも投票していますが、10年で10本だと日本映画も選べてしまう。

ところで、1962年を舞台にした「アメリカン・グラフィティ」が上位に入っていますが、今日は同じ1962年を舞台にしたイギリスのイアン・マキューアン原作「追想」の試写を見に行って、うわ、イギリスってこんなに遅れてたのか、とあぜんぼうぜんとしてまいりました。
処女と童貞で結婚して初夜がうまくいかないって、そんなの昔はどの国でも普通にあったんだと思いますが(実際、私くらいの年だと親世代からそういう話を聞いた)、なに、この遅れ具合(特に22歳の女性が結婚決まってから初めて性について知るとか信じがたい)、とびっくりしたんですが、映画評はマキューアンの原作(邦題「初夜」、こっちの方が内容に合っている)を読んでからにします。