(一部誤読があったので訂正しました。)
イアン・マキューアンの小説「初夜」を読んだので、映画「追想」との比較をネタバレ全開で書きます。
原題はどちらも「チェジル・ビーチにて」で、このチェジル・ビーチのホテルでのハネムーンの初夜が物語の中心ですが、小説の邦題「初夜」はそのものずばりで内容と合っていますが、映画の方の「追想」はインパクトが弱いし、過去に同じ邦題の映画がいくつかあり(しかも有名作)、また内容にも合ってないです。
物語はチェジル・ビーチのハネムーンから始まり、途中に2人が結婚に至るまでの過去がフラッシュバックで入るという形式ですが(映画も小説も)、このフラッシュバックはあくまで演出や語りの都合であって、誰かの回想ではないのです。なので、追想という邦題には非常に違和感を感じます。
映画の脚本は原作者のマキューアンが書いていますが、プレスシートによると、他の人にいじられたくなかったので映画化が具体化する前から書いていたのだと。
しかし、できあがった映画を見ると、映画は原作と同じエピソードを使っているけれど、結果的には似て非なるものになった、というのが私の印象です。
同じエピソード、同じ話なのに、ポイントの置き方ががらっと変わっているからです。
1962年、まだ性の解放などの波が押し寄せる前の英国で、性について完全にオクテで未熟な22歳のカップル、フローレンス(シアーシャ・ローナン)とエドワード(ビリー・ハウル)が結婚し、チェジル・ビーチのホテルにハネムーンでやってくる。2人は愛しあっているのだけれど、フローレンスは結婚前に初めて性に関する本を読んで、性行為について非常な恐怖感を感じている。とにかく彼女は挿入されるのがいやで、キスでも舌を入れられるのがいやなのだ。それでも彼を受け入れなければと、女性の服の脱がせ方も知らないこれまたオクテのエドワードと必死に結ばれようとし、本に書いてあったことをやってみて大失敗。パニックになったフローレンスはホテルを出て行ってしまう。
あとを追ってビーチにやってきたエドワードは彼女から「愛しているから一緒に暮らすけれど、私はセックスはだめ。がまんできなくなったらほかの女性とやっていいから」と言ってしまい、エドワードは激怒、2人は別れてしまう。
このあたりは原作と映画はまったく同じ展開なのですが、シリアスな小説に比べて映画はなんだかちょっと笑ってしまうような感じさえあるのです。
小説ではフローレンスが結婚前も性的な接触をいやがっていたことが書かれていますが、映画はそういう描写はなく、結婚前に性に関する本を読んで、というあたりがどうもコミカルなふうに見えてしまう。原作は徹頭徹尾シリアスなのですが。
なんでこうなったかというと、結局、最後の後日談を見るとわかるのですが、原作ではエドワードは自分の子供はいないが名付け親になった子供は5人いて、友人もいれば好きな女性もいると、かなり充実した人生を送っています。フローレンスを思い出すのは60代になってからで、そのときも若い頃の彼女のことだけを考えていて、現在の彼女のことは知りたくないと思っています。一方、フローレンスは自分が作った四重奏団がプロデビューし、活躍していることが伝えられますが、それ以外のことは何もわかりません。少なくともデビューしたときはフローレンスは旧姓のままです。
ところが映画では、エドワードはなんだか寂しそうな人生を送っていて、そして、偶然、フローレンスの四重奏団の引退公演のことを知り、コンサートに出かける。フローレンスは楽団のチェロ奏者と結婚して子供も孫もいるとわかる。そして思い出のコンサートホールで2人は目を合わせ、と、マキューアンの小説の映画化とは思えないメロドラマに。
つまり、映画では、フローレンスの性への恐怖感は一時的なものだった、というわけです。
でも、原作ではとてもそうは見えない。この人は本当に性行為がだめなんだ、と思うような描写です。原作では彼女は独身のままかもしれないのです。
ただ、原作ではエドワードは最後に、2人とも未熟だったんだから、自分が怒ったりせずに、時間をかけて夫婦の関係を築いていけばよかった、と考えるところで終わります。まあ、常識的な考えなわけですが、あくまでこれは年をとったエドワードが常識的に考えているだけなんで、フローレンスの方はどうだかわからないのです。
が、映画の方は完全に。エドワードが短気を起こしたからいけない、フローレンスは本当に性行為がだめなわけじゃなかった、時間をかければいい夫婦になれたのに、というのをはっきり見せてしまう。
まあ、原作のエドワードの考えを具体的な現実として描いてそれを肯定したわけで、こういう結論にした方が受けはいいと思いますが、原作読むとそんな単純じゃない感じもするのですね。原作ではとにかくフローレンスのその後はわからないわけで、あくまでエドワードの記憶の中の彼女でしかないのです。
結婚に至る過去のフラッシュバックについては、原作と映画は多少ニュアンスが違っていて、フローレンスの両親は映画の方がいやな人々です。逆にエドワードの両親と妹たちは原作よりも好感度が高く、特に脳に損傷を受けて普通の生活ができなくなったエドワードの母(アンヌ=マリー・ダフ)は、奇行はあるけれど本人は人生を楽しんでいるふうで、原作にはない魅力となっています。映画ではフローレンスがエドワードの家族と仲良くなる過程が細やかに描かれているので、エドワードと別れてしまう残念感が増します。原作の方はどちらの家族もあまり深くは描かれていません。
というわけで、フラッシュバックの部分は映画の方がいいかな、と思うところもあります。
フローレンスの性恐怖症を一時的なものと考えるか、より根源的なものと考えるかで、後日談と映画全体の評価が違ってくると思います。個人的には、ああいうのは一時的な場合が多いだろうとは思いますが、「めぐりあう時間たち」のジュリアン・ムーアのエピソードのように、性が苦痛でしかない人もいるわけで、ただ、原作者自身もそれをどの程度考えているかはわからないですね。
追記 原作を再読して、エドワードのその後について誤読していたことがわかりました。訳文で、40歳になり、一度離婚した、となっていたのを、フローレンスとは婚姻不成立で(映画の字幕ではそう表現)、その後、再婚して離婚したと思ってしまいました(40歳でバツイチだった、という意味だったのですね)。子供に関しては名付け親のところを勘違いしていました。また、エドワードが再婚しなかったのは、初夜の失敗による精神的なトラウマがあるのか? そして、50代まではリア充だったのに60代になって急にフローレンスを思い出すとは、それまで独身ライフを楽しんでいたのにシニアになったら独り身の寂しさを感じるのか。うーん、この辺はどうもわからんです。