2021年5月30日日曜日

「栄光の都」「地獄の英雄」「破局」

 このところコスミック出版の10枚組DVDセットでなつかしい映画を見ているのだけど、「栄光の都」が入ったボクシング映画コレクションと、「地獄の英雄」と「破局」が入ったサスペンス映画コレクションを買った。



「栄光の都」はジェームズ・キャグニーの映画では「彼奴は顔役だ」と並んで一番好きな映画。中学時代にテレビで見たきりだけど、キャグニーとアン・シェリダンがコンビを組んだ3本目の映画で、共演が若き日のアーサー・ケネディ、アンソニー・クイン、エリア・カザンという豪華版。ケネディもクインもスターになってからとはかなり顔が違う。カザンは監督になる前で、ギャング役だから悪役かと思ったら、違った。

キャグニー演じるトラック運転手はボクシングがうまいので、試合に出るよう誘われるが、彼は戦いが嫌いで、また、ボクサーとして成功するのは一握りであることもわかっているので、断る。が、恋人のシェリダンがダンサーとして有名になっていくのを見て、彼女に釣り合いたくてボクサーになるが、というストーリー。野心を持たず、平凡な幸福を望む主人公と、成功を求める野心的な女性、というのが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のカップルの原型のよう。

脚本がしっかりできていて、登場人物それぞれがきちんと描かれ、演技もしっかりしているので、だれるシーンがまったくなく楽しめ、感動できる。やっぱり好きな映画だな、と感慨無量。

ただ、この時代の映画はせりふと音楽が別録音ではないので、吹き替えにすると音楽は別に入れなければならず、原音がないからそこらの音楽を入れてしまうので、昔テレビで見たときはミュージカル「キスメット」の曲「ソー・イン・ラヴ」をテーマ曲にしていた。しかもこの音源が、日曜洋画劇場の最後の部分で使われた曲とまったく同じだったので、そういう背景を何も知らない中学生だった私は日曜洋画劇場が「栄光の都」のテーマ曲を使っているのだとばかり思っていたのだった。
そんなわけで、昔見たのはカットされ、吹き替えされ、音楽も変えられていたので、今回やっと、本物を見たことになる。


同じく中学時代にテレビで見ただけだった「地獄の英雄」。マスコミが災難を見世物にしてしまう話で、当時もすごい衝撃だったが、今見てもすごい。
まだテレビが普及する前の時代の話で、テレビ時代だったらまた違う様相になっただろうと思うが、遊園地までできてまさにサーカスのような見世物になっている。

この映画、原題は「エース・イン・ザ・ホール」なのだが、私が中学時代に見たときの原題は「ザ・ビッグ・カーニヴァル」だった。実は、この映画、公開直前に映画会社が勝手にタイトルを「ザ・ビッグ・カーニヴァル」に変えてしまったのだそうで、本来の「エース・イン・ザ・ホール」になったのはだいぶあとになってかららしい。下が公開時のポスター。

エース・イン・ザ・ホールとは、切り札とか奥の手という意味で、ポーカーの用語らしい。たぶん、これではわかりにくいと映画会社の重役が考えて、題名を変えてしまったのだろう。長いこと私は「ザ・ビック・カーニヴァル」で覚えていたので、「クライマーズ・ハイ」で「エース・イン・ザ・ホール」というタイトルが出てきたときは?と思ってしまった。


中学時代にテレビで放送したのだけれど、昼間の時間帯で見れなかったのが「破局」。ヘミングウェイの「持つと持たぬと」が原作で、ハンフリー・ボガート主演の「脱出」が最初の映画化(原題が原作と同じ)なのだけど、これは原作とはかなり違う。で、原作に近い形で映画化したのが「破局」。

監督のマイケル・カーティスは1950年に「情熱の狂想曲」、「燃えつきた欲望」、そしてこの「破局」を作っているけれど、「情熱の狂想曲」と「燃えつきた欲望」の黒人描写がユニークだったのでこれはどうかな、と思ったら、やはり、であった。

「情熱の狂想曲」は黒人のジャズに惹かれる白人の主人公が黒人の中に入ってジャズマンになる話、「燃えつきた欲望」は19世紀末の南部が舞台で、黒人はみな召使だが、肩をむきだしにした白人女性の前で黒人少年が目に手を当てて彼女を見ないようにしているのが印象的だった。

そして「破局」では、ラスト、重傷を負いながら生還した主人公を白人たちが取り囲む中、殺されてしまった黒人の船員の幼い息子が父を探して歩き回り、やがて白人たちはみないなくなって、少年だけが波止場に取り残される。主人公助かってよかったね、ではない、非常に印象深いラストだった。


というわけで、DVD10枚組セットを今月は4セットも買ってしまったので、当分見るものに不自由はしません。

2021年5月25日火曜日

「ファーザー」(ネタバレあり)

 アカデミー賞主演男優賞と脚色賞を受賞した「ファーザー」を見てきた。


南船橋。平日なのですいていたが、帰りの電車が激混み。
久々にポケモンセンターものぞく。

「ファーザー」はフランスのフロリアン・ゼレールの舞台劇を、ゼレール自身が監督し、脚色に同じく劇作家のクリストファー・ハンプトンが加わっている。

やたら評判がよくて、絶賛の嵐なのだが、私は疑問に思うところが多かった。

確かに舞台劇だったら非常によくできた作品なのだろうと思う。舞台は抽象的な空間なので、認知症の主人公アンソニーの見た現実と、本当の現実の違いが演出でくっきりと際立ち、効果的になるに違いない。

だが、映画はリアルな映像でできているので、それをアンソニーの見た現実と本当の現実として描くには、たとえばデイヴィッド・リンチのような才能が必要だ。

この映画にはそれが決定的に欠けている。舞台劇の作家の初監督作だから当然といえば当然なのだが。

ラスト、それまで別の人物を演じていた俳優たちが介護施設のスタッフとして登場するとき、「シャッター・アイランド」が頭をよぎったのは私だけだろうか。

スコセッシの「シャッター・アイランド」でも、主人公の見た現実と本当の現実が映像としてうまく表現されていた。それがこの映画にはない。

もちろん、この作品の性格上、そういう映像表現はふさわしくないのかもしれない。でも、非常に不十分な描写だということは事実だ。

最後の最後で、アンソニーが母を慕う子どもに戻ってしまうというのも、なんかありきたりな結末で、なんだかなあ。

アンソニーは2人の娘と一緒に写っている写真を飾っているけど、妻のことは1ミリも出てこない。他の人物の会話にすら出てこない。なにこの妻の不在。もとの舞台を見ればわかるのか?

「ミナリ」と「パラサイト」について、主人公の姉や妹の存在感が薄いという指摘をしていた人がいて、「パラサイト」の妹は存在感が薄いとは思わないが、「ミナリ」は本当にそうで、この種の薄さは確かに欠点なのだ。

アンソニーの認知症の描写も、私は認知症の人を何人も知っているわけではないが、ちょっと違うんじゃない?という感じはする。サッチャーを演じたメリル・ストリープの方がリアルに感じた。

そんなわけで、アンソニー・ホプキンスの演じるドラマとして作られた認知症患者を見るわけで、認知症の問題を提議するとかそういう意図はなさそうで、ただ、作られた認知症患者の見た現実と、本当の現実のドラマを見せるだけで、その描写も映画としてはたいしたことがないと思ってしまう。

ホプキンスはアカデミー賞を複数回受賞していてもおかしくないが、この演技がこれまでの彼の演技に比べて特別際立っているとも思えない。受賞してもおかしくないが、助演女優賞と監督賞をアジア女性にあげたから主演男優賞は黒人じゃなくて白人にしよう、みたいな意識がアカデミー会員にあったのではないかと思ってしまう。そして、ホプキンスなら誰も文句は言わないだろう、と。

そんなわけで、私にはかなり不満な映画だった。


追記 監督賞と助演女優賞がアジア人に加えて、助演男優賞が黒人だった。やはり、それで主演男優賞は白人に、ってなったと疑ってしまう。また、「ファーザー」の脚色で主人公をアンソニー・ホプキンスにあて書きしたようで、どうりでいつものホプキンスの演技そのものなわけだ。

2021年5月21日金曜日

「或る日曜日の午後」&「燃えつきた欲望」

 「いちごブロンド」の原作舞台劇の最初の映画化「或る日曜日の午後」(舞台劇と同じタイトル)と、大昔にテレビで見た「燃えつきた欲望」が入っているDVD10枚セットを買いました。



早速、この2本を鑑賞。

「或る日曜日の午後」は「いちごブロンド」と大筋で同じで、こちらもクーパー演じる主人公は刑務所に入っているけれど、入った理由がちょっと違う。「いちごブロンド」の方が狡猾な友人にだまされて、という印象が強く、刑務所で歯科医になる勉強をしているシーンもあり、「いちごブロンド」の方がていねいに作られてる感がある。

あちらでの評価も「いちごブロンド」の方が断然高いようだけど、「或る日曜日の午後」もきちんと作られた作品で、キャグニー主演の「いちごブロンド」がコメディになっていたのに対し、こちらはクーパーなのでシリアス。

かつて日本では一番人気のあった男優、ゲーリー・クーパーだが、この映画ではいつも酔っぱらっているような、なんとなくダメ男っぽい人物。キャグニーの方はいちごブロンドの女性に対して自分は片思いだとわかっていたが、クーパーの人物は・フェイ・レイ演じる女性と相思相愛だと思い込んでいて、それで友人に奪われたことを根に持っている。でも、実際は、彼女は主人公のことを思っていない。

最後、主人公が復讐を思いとどまるとき、キャグニーはその理由を言うけれど、クーパーは言わず、観客に想像させるようになっているのも興味深かった。


「燃えつきた欲望」は共演がローレン・バコールとパトリシア・ニールという豪華版、脇役もジャック・カーソン(「いちごブロンド」で敵役だったが、この映画ではいい人)、ドナルド・クリスプ、グラディス・ジョージという豪華版。監督は「カサブランカ」のマイケル・カーティス。

なのに実は日本未公開だったのだ。「燃えつきた欲望」はテレビで放送されたときの題名。

中学生のときにテレビで見て以来だけれど、今見ても非常に見ごたえがある。19世紀末の南部が舞台なので、黒人の扱われ方とかもいろいろ気になった。

配役順はクーパー、バコール、ニールの順だけど、この映画、「摩天楼」で共演したクーパーとニールの2作目で、この2人は「摩天楼」がきっかけでロマンスになり(つか、不倫?)、そういう意味でも当時は注目作だったようだ。

バコールはニールより先にスターになり、ハンフリー・ボガートと結婚した頃。

そんなわけで、この映画も「摩天楼」の2人、クーパーとニールが同じような役柄になっているところが注目なのです。

「摩天楼」同様、この映画でもニールの方が身分が上、クーパーは見下される身分。ニールの演じる女性はクーパーに冷たく接し、彼を翻弄する。

「摩天楼」では冷たくしても、実際は彼女は彼が好きなのだけど、この映画ではどっちかというとクーパーの片思いで、そのクーパーにバコールが片思いしている、という設定。

クーパー演じる主人公は父親の復讐のためにタバコ産業でのしあがり、ニールの父に復讐するのだけど、その過程で彼の周囲の人たちをも裏切っていき、邪悪な人間になっていく。清廉潔白な役が多い彼にしては珍しい役柄だけど、「摩天楼」の彼も肯定的には描かれていたけれど、人物像としては似たところがあった。

結局、すべてを手に入れ、ニールも手に入れるが、今度は彼の方が復讐されることになる。

バコールもニールも、ウエメセでクーパーにきついことを言う女性を演じていて、昔のハリウッド映画って、こういう、ガンガンものを言う女性がけっこういたなあと思う。

普通だったら、最後にバコールと結ばれるのだが、この映画は(原作小説のせいかもしれないが)、すべてを失って去っていく主人公で終わる。

同じころの映画で、カーク・ダグラス、ドリス・デイ、ローレン・バコール主演の「情熱の狂想曲」という映画があって、ここではバコールが悪女というか、問題を抱えた女性で、主人公は最後にデイと結ばれるのだが、「燃えつきた欲望」はこういう定番ではないラストだった。「風と共に去りぬ」みたいに希望を残すようなところもない。


このゲーリー・クーパー主演映画10枚組、半分近くは大昔にテレビで見ていた。「燃えつきた欲望」以外だと、「真珠の首飾り」、「サラトガ本線」、「久遠の誓ひ」は見た記憶がある。

何かにとりつかれて邪悪になってしまう人物といえば、カーク・ダグラス主演、ビリー・ワイルダー監督の「地獄の英雄」があって、大昔にテレビで見たきりだけど、これもこのシリーズの別の10枚組に入っていて、ヘミングウェイの「持つと持たぬと」の映画化でパトリシア・ニール主演の「破局」も入っている。

「持つと持たぬと」はハンフリー・ボガートとローレン・バコールの初共演作「脱出」の原作でもあるけど(原題が「持つと持たぬと)、こちらは原作とは違う話になっていて、「破局」の方が原作に近いらしい。「脱出」は何度か見たけど、「破局」はまだなので、ぜひ見たいです。

注 「情熱の狂想曲」、「破局」もマイケル・カーティス監督。つか、3本とも1950年なんですが。職人だなあ。

2021年5月16日日曜日

干潟とバラ園

まだ5月中旬だというのに近畿と東海が梅雨入り。関東も天気予報は今日から雨や曇りばかり。

まさか梅雨入りは予想しなかったが、晴れた昨日はお昼すぎに干潮になるので、谷津干潟へ。









土曜日のせいか、思ったより人がいて、マスクしないでジョギングする人、マスクしないで大声でしゃべる人に遭遇。

そして、去年の今頃は緊急事態宣言で閉園していた谷津バラ園が開いていた。
できるだけ人が写ってない写真を使ってますが、かなり混んでいました。大声で話す人多数。










何度も来ているので、1時間余りで退散。また干潟のそばを通って駅方向へ。

干潟やバラ園は屋外なのでまだよかったけれど、そのあと、ついつい、ららぽーととイケアへ行ってしまう。どちらも激混み。ららぽはすぐに退散したけど、イケアは来ると必ずビストロでホットドッグとチキンを食べるので、あまり並んでいない食券自動販売機で食券を買ったら、そのあとがすごい行列。しかも、すぐ後ろにマスクしないで大声でしゃべる客。

いったん列を離れて並びなおした方がよかったかもしれない。他の客はみなマスクして静かにしているのに。(食べるのは屋外のテーブル席にしました。風が強い。)

変異株になると黙っていても感染力強いらしいので、やっぱり人の多いところ、特に屋内はNGですね。特に並ぶのは絶対だめ、っていうか、平日に行けよ、自分、なのだけど、干潮が土日なもんで(なら干潟だけで帰れってことですが)。

行きと帰りの電車はすいていました。

バラ園はまだ七分咲きで、満開はこれからのようです。

2021年5月13日木曜日

「いちごブロンド」

 中学時代、一番好きなスターだったジェームズ・キャグニーの映画をテレビの洋画劇場でよく見ていたのだけれど、深夜の放送だったか何かで見られなかったのが「いちごブロンド」。

その後、見る機会もなく、DVDも気づいたらとっくに廃盤。一生見られないのかなあ、と思ったら、これが出ていました。



ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」はじめ、すごいラインナップ。
近所の書店にたまたま入ったら、売っていたので即買いました。

下はInternet Movie Data Baseから。

キャグニー演じる主人公が、好きな女性(髪がいちごブロンド)を友人にとられたばかりか、友人にだまされて無実の罪で刑務所に入る羽目になり、出所したあと、復讐の機会が訪れるが、という物語。

原作は舞台劇で、ゲーリー・クーパー主演の「或る日曜日の午後」のリメイクとのこと。

クーパーの方も、中学時代にテレビで見て好きだった「燃えつきた欲望」の入った10枚組セットに入っていることがわかり、ヨドバシカメラに買いに行く予定。

どうもクーパーの方は恋人を奪われた復讐のようだけど、キャグニーはいちごブロンドの女性とは相思相愛ではないので、友人にとられたこと自体はわりとすぐにあきらめるが、そのあと、企業家となった友人にだまされて刑務所行きになり、という、これは当然、復讐したいだろう、と思わせる展開。

キャグニーの演技はすばらしいし、いちごブロンド役のリタ・ヘイワースも溌剌として魅力的だけど、特筆すべきはいちごブロンドの友人を演じるオリヴィア・デ・ハヴィランド(彼女がヒロイン)。

彼女は「風と共に去りぬ」のメラニーがあまりにも有名だが、あの映画ではヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワードの演技が際立ち、デ・ハヴィランドは抑えた演技なのであまり目立たない。むしろ、この映画や「真夏の夜の夢」(これもキャグニー主演)のデ・ハヴィランドの方がその演技力や演技の幅広さがよくわかる。この映画でも、自立したフェミニストの看護師として登場し、やがてキャグニーの献身的な妻となり、夫が刑務所入りしたあとはまた看護師として働くといった、清楚な美しさと生活力を持った自立した女性をみごとに演じている。

このほか、50年代のテレビの「スーパーマン」ジョージ・リーヴスが隣の大学生役で出ていた。けっこう大きい役。クリストファー・リーヴが登場するまでは彼こそがスーパーマンだったのだ(空っぽの部屋の窓から飛び出していく)。

ちなみに、クーパー版のいちごブロンドは初代「キング・コング」のフェイ・レイだそうで、楽しみ。

そして、なにより、この「いちごブロンド」という映画、今の私に必要な作品だった。

最近、昔のことを思い出してトラウマになり、私をひどく傷つけた人の言動がフラッシュバックとしてよみがえって、かなりつらい気分だったけれど、「いちごブロンド」を見たら、本当の幸せとは何かとか、復讐は神がやってくれるものだとかいった結末が今の私に必要なアドバイスになっていた。

最後に、映画の中でかかっていた歌をみんなで歌いましょう、と、歌詞が出てくるのが楽しかった。DVD見ながらひとり応援上映。ああ、コロナの前にはあんなに応援上映に行ったのに。

2021年5月9日日曜日

もやもや

 東京五輪の記録映画の監督をまかされている河瀬直美の最近の発言が変だというので話題になっているが、もともと私はこの人の映画は嫌いだったし、さもありなんな感はある(去年の「朝が来る」は比較的好意的に見たのだが)。

もともと嫌いだった、好きじゃなかった、のなら、ふーん、と終わるのだが、そうじゃない場合はまた違う。

昨日、駅で電車を待つ間、時間があったのでエキナカの書店をのぞいていたら、この本がどーんとあった。

1970年代前半、竹宮恵子と萩尾望都が同居していた大泉の家に若い少女漫画家たちが集まり、大泉サロンと呼ばれていた、ということに最近注目が集まり、萩尾望都のところにも取材が来て迷惑なので、それをやめてもらうためにこの本を書いたらしい。

同居していた竹宮と萩尾が決裂するに至った背景は、竹宮がこの本で書いている。

この本のせいで萩尾の方に取材が来るようになったり、竹宮との和解を求められたりしたという経緯があったようだ。

竹宮の本は数年前に読んでいて、それによると、のちに評論家・小説家となる増山法恵が萩尾のファンで、文通がきっかけで友人となり、その後、竹宮と知り合った増田が萩尾を紹介、意気投合した3人は、竹宮と萩尾が増山の自宅近くに家を借りて同居、そこに少女漫画家たちが集まり、という具合になった。

当時、萩尾は講談社で描いていたが、講談社の担当編集者は萩尾の漫画が好きでなかったようで、何を持って行っても描きなおしを命じられる。萩尾から見たら、どこが悪いのかわからない、ということで、竹宮と増山に漫画を見せたところ、2人もどこが悪いのかわからない。講談社の担当に見る目がない、と思った竹宮は、小学館の自分の担当編集者に萩尾を紹介する。

すると、小学館の編集者は萩尾の漫画を気に入り、彼女の作品ならなんでもそのまま掲載するようになった。

一方、竹宮は当時は絵はうまいが漫画の構成力に難があり、また、萩尾と違って自分の世界を持たず、いろいろなタイプのものを描き散らしていたようで、担当編集者からは常に厳しい批判を受けていたらしい。

担当編集者が萩尾を全面支持し、自分には厳しく当たる、ということで、竹宮の中に萩尾に対する嫉妬が沸き起こり、そのせいで心を病むようになり、これ以上同居は無理ということで、同居を解消した、とされている。

私は竹宮と萩尾の漫画はリアルタイムで読んだことはなく、1990年頃に彼女たちの代表作を読んだ程度なのだが、周囲に漫画ファンがいたせいで、竹宮と萩尾の決裂については萩尾ファンサイドの意見を聞いて知っていた。それは竹宮が書いているよりもずっと複雑だった。

萩尾ファンに言わせると、「風と木の詩」も「トーマの心臓」も増山が出したアイデアで、それを2人がそれぞれ別の漫画にしたのに、竹宮は萩尾が盗作したと言って、萩尾を家から追い出した、ということになっていた。当時感じたのは、萩尾ファンは竹宮が大嫌いらしいということかな。みんながみんなそうではないのだろうけど、この2人はタイプが全く違うので、ファンもまったく別のタイプでもおかしくない。

そんなわけで、竹宮と萩尾の決裂について萩尾が本を書いたのか、これは読まねば、と思いつつ、電車の発車時刻が近づいたので買わずに帰り、ネットでいろいろ検索して、うーん、これは読まない方がいいのだろうか、という気になっている。

アマゾンを見ると、「読まなきゃよかった」という感想もある。

また、これを読んだ萩尾ファンの一部が竹宮に怒りを燃やし、竹宮の本にひどいレビューを書いていたり、ネットで竹宮を中傷しているのもなんだかなあ。もちろん、両者に配慮している意見の方が多いのですが。

萩尾は竹宮の嫉妬のことを、「排他的独占欲」みたいな言い方をしているらしく、それを、萩尾は嫉妬を理解できない、と評する人もいるようだが、私は「排他的独占欲」で合っていると思う。少なくとも、あの件に関しては。

それはつまり、竹宮が「風と木の詩」の企画を担当編集者に持ち込んだが、編集者は美少年同性愛ものなんかダメ、とまったく取り合ってくれなかったところがそもそもの始まりだと私は思うのだ。竹宮は「風木」のストーリーを思いつき、増山とその話をたくさんしていた。同居していた萩尾の耳にもそれは入るだろう。それが萩尾の中で彼女独自の別の作品になり、そして、萩尾の作品ならなんでも掲載する同じ編集者が、「風木」を否定し、絶対に出してくれない同じ編集者が、本にする。

この悔しさがわからない人は、残念ながら、多い。

時間はかかったが、「風と木の詩」を完成させ、大ヒットさせ、その後も活躍を続け、21世紀には大学教授となり、学長も経験した竹宮にとって、その悔しさはもう過去のものであり、あれは嫉妬だった、と述懐できる。

当時の竹宮が、すぐに許可をもらえて「風木」を描いたら、あれほどの傑作になったかどうかは疑わしい。増山は、時間がかかったが、その分画力が上がってよかった、と言っているし、竹宮自身、「風木」を描かせてもらう条件として、読者投票1位になる作品を描け、と、新しい担当編集者に言われて描いた「ファラオの墓」で、プロットやキャラクターを作ることを学んだ、と書いている。

一方、萩尾の方は、親友だと思っていた竹宮と増山から盗作だと言われ、3人の輪から排除されたことでひどく傷つき、それでこの話は封印してきたようだ。

萩尾と増山が友人だったのに、そこに入ってきた竹宮と増山の方が一心同体みたいになってしまったことも、疎外感を強めたんだろうなと思う。

「風と木の詩」は増山がブレーンだったことで知られていて、増山にとってもだいじな作品だったわけだから、2人で萩尾を責めることになってしまう。まさに「排他的独占欲」だ。

萩尾が竹宮と増山の話を聞いて触発され、自分なりの作品を描いて、それを先に発表したというのは第三者から見れば悪いことではないのだけど。

ひっかかるのは、萩尾は大泉サロンについて世間の関心が高まって自分にもアプローチがあることをやめてほしいので本を書いた、そして、これが最初で最後だ、と言っていること。

つまり、反論できないのだ。

そして、竹宮の本に比べて萩尾の本の方がはるかに世間の関心が高い、というのは、書店での置かれ方やアマゾンのレビュー数からわかる(竹宮の本は萩尾の本が出る前はレビュー数が少なかった)。

竹宮の本は若い漫画家が苦労の末に成功をつかむサクセスストーリーだが、萩尾の本には「竹宮が書かなかったことを暴露する」面があって、そういう要素で売れちゃうのかなというか、自分はそれで買おうとしていたわけだが。(そうじゃないこともたくさん書かれているそうです。)

最後に、アマゾンの竹宮の本についたレビューから。