カサブランカのパン屋を営むシングルマザー、アブラと、そこに住み込むようになった未婚の妊婦サミアの交流を描く映画で、評価の高い作品。
が、映画を見終わって、何かすっきりしないものを感じたので、ネットで検索してみたが、プロアマ問わず書いていることがイマイチ、ピンと来ない。
ていうか、2人の女性のほのぼの映画、みたいな宣伝チックな文章か、さすがにほのぼの映画でないことは気づいていて、シリアスな面に注目してはいるものの、底が浅くて読んでられない文章ばかり。
モロッコの女性の置かれた境遇を詳しく説明している文章も見当たらず、監督インタビューもそういうところにはほとんど触れていない。
モロッコでは婚前交渉と中絶が違法で、婚前交渉は女性だけが罰せられること、夫と死別・離婚した女性は立場が悪くなることなどがかろうじてわかる程度。
そこで英語のサイトをチラ見したところ、インターネット・ムービー・データベースに出ていた一般人のレビューにすばらしいものがあった。
いわく、この映画の2人の女性は全ての女性の象徴であり、彼女たちには選択の自由がないということを描いているのだ、と。そして、最初の朝は明るいが、最後の朝は暗い、というところに注目している。
このラスト、赤ん坊を抱えたサミアが眠るアブラと娘を見つめ、そのまま外へ出ていくシーンを、彼女は赤ん坊を養子に出すことをやめて自分で育てることにしたのだ、と解釈している文章が複数あった。しかし、私にはこのラストはそんな前向きのものには思えなかったのだ。
「彼女たちには選択の自由がない」という意見を読んだあとに映画を最初から振り返ってみると、そもそもの最初から、未婚の妊婦には選択の自由がないことがわかる。
冒頭、サミアのアップだけで描かれるシーン。美容師として雇ってくれと言うサミアに、声だけの相手はOKするが、住み込みのことを頼むととたんに拒否される。その後は家政婦として雇ってほしいと家々を訪ねてまわるが、当たり障りのない理由で断られる。
最初のシーンで、「その体で働けるのか」と言われるが、そのときはサミアの妊娠した姿は見えない。しかし、次のシーンからはその姿も見えるし、相手の顔も見える。
このシークエンスが何を描いているのかというと、それは、未婚の妊婦と関わり合いになりたくないと彼らが思っている、ということだ。
パン屋を営むシングルマザーのアブラにも断られるが、アブラは夜になっても外で座っているサミアを見て、泊めてやることにする。
未婚の妊婦と関わるとその人もまずい立場になるのであれば、アブラがサミアを泊めてやったのは相当に勇気のいることだっただろう。実際、アブラは困っている人を見捨てられない優しい女性だが、不愛想な顔でその本心を隠している。
このあと、サミアがまるで妖精のように、かたくななアブラの心を解きほぐしていき、アブラの悲しい過去、死んだ夫の遺体に寄り添うことさえ許されなかった女性差別のことがわかる。
サミアがなぜ未婚の妊婦なのか、その理由は明らかにはされない。彼女の様子から見て、おそらく恋人に捨てられたか、何らかの事情で結婚できなかったのだろう。彼女は家族にも妊娠を告げておらず、未婚の妊婦は家族にも頼れないことがわかる。
ただ、アブラと暮らすようになったサミアがちょっと明るすぎて、しかもアブラによい影響を与える妖精のような描かれ方なのが疑問に感じた。サミアの苦悩がここで途切れてしまうのである。
サミアの本当の苦悩は赤ん坊が生まれたときにはじまる。未婚の母の子どもは迫害されるので、養子に出すつもりだが、愛着が芽生えるのを恐れて、彼女は赤ん坊を抱かず、乳も与えず、名前もつけない。すぐに養子に出したいのだが、お祭りの祝日が続き、きちんとした施設が開いていない。施設で養子縁組しないと子どもが売り飛ばされるから、月曜まで待て、とアブラは言う。
しかし、赤ん坊を抱き、乳を与えたサミアはもう待てないのだろう。子どもを自分で育てるとしても、アブラのもとではそれはできない。それをすればアブラと娘の立場が悪くなるのだろう。
映画の中ほどに、娘がサミアのおなかを触っているのを見て、アブラがサミアを追い出すシーンがあるが、サミアが赤ん坊を産んだらアブラ母子が不利になるからそうしたのだろう。それでも、結局、アブラはサミアを探して連れ戻すのだが、このシーンも未婚の妊婦との関わりを避ける社会を表しているように思う。
最後に家を出る前、サミアは子どもを殺そうとするかのような行動をする。明らかに、彼女は追い詰められている。選択の自由はない。彼女は子どもを育てることを自らの意志で選んだのではない。
サミアは赤ん坊にアダムと名付ける。旧約聖書のアダムはイスラム教のコーランにも出てくる(イスラム教はユダヤ教とキリスト教から生まれた)。サミアとアダムは聖書のアダムとイヴと同じく、楽園を追われたのだ。
アブラの家は楽園だったが、そこで暮らすことはできない。自分で育てるとして、どうやって生きていくのか。サミアがかまどを借りに行ったとき、そこにいた女性たちが未婚の妊婦の彼女をさげすむ。どこに味方がいるのだろうか。
追記
この映画はきびしい現実を描く中にほのぼの映画の要素をてんこ盛りにしていて、そこがある意味、問題なのだと思う。
この記事ではほのぼの映画の部分についてはほとんど触れていないが、ネットで読んだ日本語の記事はほのぼの映画の要素について多く触れていて、問題については全く触れないか、触れても浅い。
部分的にほのぼの映画にすることで一般の観客に受け入れられることになり、アカデミー賞のモロッコ代表にもなったのだろうが、映画としては中途半端な出来になったと思う。