2026年2月23日月曜日

「センチメンタル・バリュー」を見て、連想した映画(ネタバレあり)

 「わたしは最悪。」の監督・主演による「センチメンタル・バリュー」。前作に比べると落ち着いた雰囲気の映画で、第二次世界大戦中の悪夢の要素もあり、リアルなシーンかと思ったら舞台だったとか、映画だったとか、少しトリッキーなところもある映画。

シネコンのある流山おおたかの森の駅前では何か市をやっていた。スケートリンクは氷の表面が溶けているようにも見える。



カンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞ノミネート、なのだが、初日から映画館は予約があまり入ってなくて、公開4日目だというのに入場者プレゼントのステッカーをもらえた。



映画なのだけど、完全ネタバレなので、支障のない方のみどうぞ。


主人公の舞台俳優ノーラは初日の舞台に上がるのをしり込みしてパニックになってしまうほど精神的に弱い、ということが最初に描かれる。彼女は子供の頃、自分の住む家の視点で家族を語る作文を書いたことがある。その家は赤い家で、母が住んでいたが、母は亡くなり、それがきっかけで、離婚して長らく家族から離れていた父親の映画監督がやってきて、ノーラと妹のアグネスと再会する。

父グスタヴは新作映画の主役をノーラが演じるよう頼むが、父親を嫌っているノーラは脚本も読まずに断る。ノーラの子供時代の家の視点で書いた作文によると、両親は仲が悪く、いつも口喧嘩をしていたようで、その痛手をノーラはいまでも背負っているのだ、

グスタヴは映画祭で知り合ったハリウッドスターのレイチェルを起用する。それを知って、ちょっと傷ついたような顔をするノーラ。

母が住んでいた家は父の所有物なので、母の遺品を片付ける姉妹。それらは愛着と思い出以外には価値のないもの=センチメンタル・バリューと呼ばれる。グスタヴはその家で映画の撮影をするつもりで、レイチェルを家に招くが、レイチェルの演技に違和感を覚えるようになる。

ノーラほどには父を憎んでいない妹のアグネスだが、父親が彼女の幼い息子を映画に出したいと言うと激しく拒絶する。アグネスは少女時代に父の映画に主演したことがあり、おそらく、父の映画に役者として利用されて傷ついたのだろう。

これに反ナチ活動家だったグスタヴの母、姉妹の祖母の過去がからんでくる。終戦後、結婚してグスタヴを産んだが、自殺してしまったこと、そして、ノーラも自殺未遂をしていたことが、新作映画のストーリーの大きな要素になっていることがしだいにわかってくる。

エル・ファニング演じるレイチェルがノーラと同じ髪型、髪色(金髪から黒髪)になって登場したとき、その姿がノーラにそっくりなのに驚いた。グスタヴはレイチェルの演技に違和感を感じていたが、レイチェルもそれは気づいていて、自分はこの役にふさわしくない、ノーラの方がふさわしいと思うようになる。

やがて赤い家は白く塗られ、その家の中でノーラとアグネスの息子が母と息子を演じるシーンになり、そして、というエンディングになるのだが、この、家のお色直しと、そしてレイチェルが髪の色を変えてノーラにそっくりになるのが、なんだか、ヒッチコックの「めまい」を連想してしまった。

ジェームズ・スチュアート演じる元刑事の探偵がキム・ノヴァック演じる金髪の女性を尾行するが、彼女は転落死。その後、彼女にそっくりだが黒髪の女性に出会い、彼女の髪を金髪にし、髪型も服装も転落死した女性そっくりにする。その結果、悲劇が起こってしまうのだが、「センチメンタル・バリュー」では、ノーラそっくりになったレイチェルは役を降り、悲劇にはならない。

緑の木々の中の赤い家が真っ白になったのも印象的だったが、「めまい」は緑が効果的に使われていた。

脚本を読んだノーラは父を理解し、実はこの脚本は父が自分と和解するために書いたのだと気づく。そうして、父と娘たちの長い間のわだかまりは消え、アグネスも息子の出演を許すのだが、父親が作ろうとしている映画がどういうものなのか、いまひとつわからない、アグネスは脚本は傑作だと言うが、見ているこちらとしては言葉で言われてるだけで、実感はない。舞台や映画のセットも、現実とは違うハリボテ感がある。

だから、一応、この映画をこういうふうに解釈したとしても、それは見かけだけのものかもしれず、役者たちの好演にもかかわらず、どこか作り物めいた感じがしてしまうのは否めない。

映画の前半、唐突に「スパルタカス」の愛のテーマが流れるのはいったいどういう意味なのだか、首をひねった。最初の方で、ピカソのポスターが部屋にあるのも気になった。

タイトルについていえば、母の遺品を並べているとき、ノーラは赤いガラスの花瓶を持ち帰る。最後、赤い家が白く塗られ、室内も白で統一されるが、この「赤」がノーラにとってのセンチメンタル・バリューということであり、最後にそれが取り払われたということなのか。

愛着や思い出以上の価値のないもの。年をとるとそういうものを断捨離しないといけないということを、近頃非常に強く感じているので、その辺も気になった。

ああ、それから、ハリウッドスターが主演することでネトフリがスポンサーになった、という設定になってるが、この映画自体はネトフリではないよね??? 劇場公開を望むが交渉中とか、アメリカ人が主演なので自国語ではなく英語の映画になってしまうとか、今の映画状況を垣間見せる。