1939年、「英国王のスピーチ」のジョージ六世がドイツとの戦いでアメリカの協力を求めるため、ニューヨーク州のハイドパーク・オン・ハドソン(原題)のルーズベルト大統領の私邸を訪れた史実にもとづく映画。ルーズベルトはローズヴェルトの方が確かに読み方は近いが、ローズヴェルトと発音しても英語は通じないと思うぞ。原音に忠実に、なんていったって限界があるのだ。え、今はリンカーンも林間だって? まあよい。
フランクリン・デラノ・ルーズベルトといえば、大不況時代の30年代から第二次大戦までの時代にアメリカ大統領をつとめ、いまだにアメリカでは大人気の大統領、というのはなんとなく昔から知っていた。彼にはエリノアという奥さんがいて、小児麻痺で下半身不随の大統領を助けて政治的にも活躍した、というのも美談として語られている。
1960年には「ルーズベルト物語」という映画も作られていて、ラルフ・ベラミーのルーズベルトとグリア・ガースンのエリノアだった。これは中学生のときにテレビで見て、障害者の大統領と彼を支える夫人というイメージを植えつけられ、以後、そのイメージをずっと持っていたし、大学時代に見た「追憶」で語られるルーズベルト夫妻もこのイメージに沿ったものだったので、この「私が愛した大統領」を見るまで、この夫婦の真実はまったく知らなかったのだ。
ちなみに、プレスシートには大学の先生の記事が2つ載っていて、いろいろ参考になったのだが、1人がこの「ルーズベルト物語」を原題の「カンポベロの日の出」と表記している。でも、日本の題名がついて、日本公開している映画なのだから、やはり「ルーズベルト物語」の表記がほしい、というか、先生も配給関係者も日本公開のことを知らないのだろう(つか、テレビ放送というカット版でも見たことのある私の方が少数派なんでしょうね)。
障害者の大統領を支える賢夫人というのはまさにグリア・ガースンのイメージそのものだったが、「追憶」でも、1945年、第二次大戦終戦を前にしてルーズベルトが亡くなり、そんなときにWASPの男女がエリノア夫人を笑いものにするのを聞いて、バーブラ・ストライサンド演じるヒロインが怒ってしまう、というシーンが印象的だった。
しかし、この「私が愛した大統領」を見ると、ルーズベルトは不倫が多く、しかも同時に複数の愛人を持つハーレム状態で、それに嫌気がさしたエリノアはさっさと夫と別居、その後は政治的な同志のような存在になっていたらしい。車椅子生活のルーズベルトの私生活を支えていたのはもっぱら愛人たち、そして母親だったようだ。
この映画はルーズベルトのいとこで、その後愛人となり、大統領とジョージ六世の出会いの場にもいたデイジーという女性の視点で描かれている。
いろいろな意味で面白い映画で、出演者もビル・マーレイ、ローラ・リニー、オリヴィア・ウィリアムズなど実力者ぞろい。特にエリノアのウィリアムズは「ゴーストライター」で印象的だった女優だが、レズビアンの女性たちと同居する男っぽい女性を魅力的に演じている。他の女優の演じる女性たちがみな女性的なのとは対照的で、また、言動がエキセントリックで、ルーズベルトがそこを利用して、そういうところはたとえ自分の発案でも全部妻の考えたことにしているみたいなのも面白い。
また、「英国王のスピーチ」で有名になった吃音のジョージ六世とルーズベルトの出会いがまた面白く、吃音の英国王と小児麻痺で下半身不随になったアメリカ大統領という、障害を持つ2人の指導者が出会い、やがて共感していくあたりも感動的。
今だったら障害を隠す必要はない、ということになるのだろうが、ルーズベルト大統領は障害を徹底的に隠し、また、マスコミもそれに協力していたようだ(「追憶」でヒロインが大統領の障害のことを知っているのは史実に反しているのかもしれない)。ルーズベルトがジョージ六世に、国民に障害を絶対に知られたくないと力説するシーンは考えさせられるものがある。古い時代には、国の指導者が弱みを持つことは許されなかった。漁夫王伝説(ワーグナーの「パルジファル」のルーツ)のように、病や傷を持つ王は国を滅ぼすと思われていた。第二次大戦が始まったばかりの時期に、大統領が車椅子だったり、国王が吃音だったりすることは、それだけで国の弱さと認識されたに違いない時代なのだ。だからルーズベルトは隠しとおし、ジョージ六世は吃音を治そうとした。そういう時代の国の指導者の苦悩がこの2人の出会いのシーンにはよく表れている。
この映画の難点は、こういう非常に崇高な感じのするテーマと、ルーズベルトの愛人関係という非常にレベルの低い話が一緒になっているところだ。最初のテーマだけだったら非常に立派な映画になるだろうが、それではきれごとすぎる。が、愛人関係の方も指導者の障害を隠すのと同じくらい今では時代錯誤で、同時に複数の愛人を持ってハーレム状態、しかも愛人たちは大統領を共有という、古い時代の一夫多妻制をルーズベルト大統領のような理想化された人がやっているというのは人間的を通り越して、ちょっとあれだよね、な感じが否めない。
デイジーをはじめ、ルーズベルトを共有する女性たちはみな保守的な感じで、自立したエリノアとは対照的なのだが、このあたりのデイジーたち保守的な女性たちの描写も今の目で見ると苛立ちを感じる。一方、エリノアも理想化されておらず、彼女の言動もあまり好意的には描かれていない。
言い忘れたが、この映画はイギリス映画。監督は「ノッティングヒルの恋人」のロジャー・ミッシェル。確かにアメリカではルーズベルトをこういうふうには描けまい。大統領と英国王の出会いでも、大統領が王の父親のようになり、王が成長するという、どっちかというと英国王が主役的描写で、この部分とルーズベルトの愛人関係が分離している感があり、しかも英国王に比べて、アメリカ人たちはクールな目で見られている感じもする。
障害を持つ2人の指導者の出会いの部分は申し分ないと思うが、愛人関係の方はもう少し、これは古い時代の話なんだよ、今とは違うんだよ、というような雰囲気にした方がよかったような気がする。