2014年9月19日金曜日

残るということ

「猿の惑星 新世紀」今日から公開なのだけど、なんか、アメリカでも日本でも相当評判よさそうだけど、そんなにいい映画なのかな?という疑問が。
久々に、解説という形で参加した文庫本ノベライズが大きな書店には積んであって、執筆過程ではいろいろあったけれど、やはり自分の参加した本が書店にあるのはうれしいことだ。もっとも、中規模書店では1冊も入らないところも多いようで、ノベライズはほんとに売れなくなっているみたい。アマゾンでも全然だめじゃん。「創世記」と「新世紀」の間にあたる小説「ファイヤーストーム」の方が売れてそう(これは映画化されていない)。
「新世紀」の方はねえ、ノベライズ読んだ限りだと、そんなにいい映画になるとは思えなかったのだよ、正直なところ。わりとよくある話で、「創世記」のような斬新さが感じられなかった。
映画も試写の日程とか全然知らされなかったので、見に行くチャンスもなかった。
8月に、ついにシニア料金で映画が見られるようになったので、いつでも安く見られるんだけどね。
このシニア料金て、証明書必要なのかな、と思って、健康保険証を持っていったのだけど、全然チェックされなかった。見かけでわかるのだろうか。わかるんだろうな、自分では若いつもりでも、若い人から見たら。


というわけで、人間は必ず死ぬ、誰でも刻一刻と墓場へ近づいているわけだが、さっき、変なツイートを見てしまった。
理系の若い研究者かその志願者か何かみたいなのだが、死んだあとも自分を残したかったら論文を書け、とかツイートしていた。博士論文を書け、とも。確かに博士論文は国会図書館に保存されるらしい。
でもねえ、かれこれ20年も前に私が作ったコミケ用の同人誌というか個人誌は全部、国会図書館に寄贈して、保存されている。こういうふうにして残りたいなら、わりと簡単にできる。
国会図書館は寄贈されたら受け取る、というところで、大手出版社の本でも寄贈しないとだめ。最近は寄贈しない出版社も多いらしい。熱心に寄贈するのはむしろ、自費出版の会社。「国会図書館に寄贈します」がうたい文句だから。でも、コミケの同人誌でも送れば保存してくれるので、そういう出版社で大枚はたく必要はない。
くだんのツイート者は、子供は別の人間だから自分を残したことにならない、とか、墓もいずれは消える、とかツイートしているが、日本がつぶれたら本なんか残らんだろ、と突っ込みたい。
東京に大地震で、国会図書館が破壊され、火事で全部消失、とか、普通にありうるだろう。博士論文なら、いろいろな人にも配っているから、誰かが持っていてくれるかもしれないが、その人が死んだとき、子供はきっとそれをごみとして捨てるだろう。
私のかかわった本も、解説を書いた「フランケンシュタイン」はすでに8万部近くは刷っていると思うから、そう簡単に全部消滅することはないと思うが、それでも日本沈没したらほとんど全部なくなるだろうし、そうでなくても本がそんなに長い間生き残るものではないのはちょっと考えただけでわかる。シェイクスピアや紫式部はごくごく一部の例外なのだ。
正直、「フランケンシュタイン」の私の解説が30年も残るとは思っていなかったよ、書いたときは。
私の若い頃には、やはり、上のツイート者みたいに、書いたものや翻訳で自分が死んだあとも自分を残したいと真剣に考えている人が身近にいた。それを聞いて当時の私(20代後半)が思ったのは、私は逆に、自分が死んだら自分に関するものは全部一緒に消えてしまった方がすっきりしていいや、ということだった。
その人は、書いたものを残すことで自分が死後も残りたい、と言いながら、自分のよいものしか残したくないと強く思っていた。でも、そんなことは無理なわけで、いいものと同じくらい悪いものが残ってしまうのだ(悪いものの方が多く残ったりして)。残すとはそういうことだ。だから、全部消えた方がすっきりするのに、と思ったし、今もその考えは変わらない。
ただ、残すのもむずかしいが、残さないのもむずかしい、自分の意志では。
というわけで、あっちこっちで書きまくってきたので、恥ずかしいものも含めて、しばらくは残ってしまうであろうなあ。