2014年9月6日土曜日

めぐり逢わせのお弁当(ネタバレあり)

インド映画「めぐり逢わせのお弁当」。いい映画、好もしい映画であることは確かなのだが、傑作といえるようなものなのか、という疑問がずっと頭を離れないでいたところ、キネマ旬報最新号で、宇田川幸洋氏の連載「映画とコトバの間にはふかくて暗い河がある?」がこの映画を取り上げていた。
この連載はある映画についての雑誌や新聞の映画評をいくつも紹介していくのが基本だが、インド映画としては「この映画ほど多くの紙誌にとりあげられているものはめずらしい」そうだ。
多くは、歌って踊る従来のインド映画とは違う、静かな映画であるところに感動しているらしい。こんなインド映画もあったのか、と驚いている人が多いのだが、宇田川氏も書いているように、かつての日本はサタジット・レイのような静かで芸術的なインド映画ばかりが公開されていたのは私もよく覚えている。もちろん、「ムトゥ 踊るマハラジャ」のような歌って踊るインド映画の方が本来の主流なのだが、日本でそれが認識されたのは「ムトゥ」以後。しかし、今ではレイは忘れられ、「ムトゥ」がインド映画の基本になっているので、「めぐり逢わせのお弁当」が静かなインド映画として受けたようだ(宣伝もその方向でやっていた)。
宇田川氏のこの映画への評価はかなりきびしい。
「「静か」なだけがとりえではね」
宇田川氏はムンバイの弁当配送システムについて、リアリズムでかためるか、映画的なウソをあざやかにつきとおすかしないといけないが、この映画はどちらもやっていない、と言う。また、欧米で映画を学んだ監督が故郷で映画を作るとき、視点が外国人のものになってしまうという危惧を述べ、この映画の監督リテーシュ・バトラもそうなってしまう可能性があると指摘する。実際、この映画を喜ぶ評者は、宇田川氏によれば「ムンバイでもりそばが食えた、と感激しているような感じ」で、インド映画らしくない、ヨーロッパ・テイストを喜んでいるようだ。
「ここにインド映画の可能性を見るのはいささか、さびしすぎるのではないか」と、宇田川氏は結んでいる。
この記事を読んで、私はこの映画に対する迷いが吹っ切れた。
たしかに「いい映画」であり、好きか嫌いかと聞かれれば好きな映画だ。でも、積極的にほめるような映画ではない。
見ている間は楽しかった。ただそれだけ、の映画だと、実際、試写を見ながら思い続けていたのだ(そういう映画も好きだけど、積極的にほめるような映画ではないということ)。
迷いが生じたのは、クライマックス、お弁当箱の中に入れた手紙のやりとりが縁で、見知らぬ他人であった男女がカフェで会おうということになったとき。
女の方は専業主婦で、夫のために毎日弁当を作っているのだが、夫は不倫しているらしい。昼も愛人と食べるのか、弁当にも関心がなさげだったのが、誤って役所に勤める男性のもとに届き、男性が喜んで食べたのがきっかけで、手紙のやりとりが始まる。会おうと言いだしたのは女の方で、夫と別れる決心がついている。
しかし、男はカフェに来なかった。
いや、行ったのだが、女の姿を見ただけで帰ってしまった。
あとで、彼は女に手紙を書く。洗面所でなつかしいにおいがしたが、それは祖父のにおいだとわかった。自分はもう祖父の年に近づいているのだ。きみは若い。私と一緒になるべきではない。
これよりも前の方で、男が電車の中で席を譲られ、とまどうシーンがある。これが伏線だったのだ。
どうやら、この、老いへのきづきのようなものに、私は惹かれたようだ。それは自分自身がそういう年齢になっているからだろう。
しかし、こうした展開自体がすでに使い古されたものであり、そこに新しい味付けがないのは事実だ。
ちなみに、宇田川氏があげている雑誌や新聞の映画評の著者の名前を見ると、ほとんどが男性で、女性と思われるのは1人だけだ。媒体からしても、映画の主人公の男性と同じく老いを感じる年齢の男性が多いのではないかと思われる。そのあたりに受けると考えるとよくわかるのだが。


この映画で一番面白いのは、主婦の部屋の上に住む声だけのおばちゃんで、このおばちゃんの助言で主婦は料理したり手紙を書いたりする。とても庶民的な雰囲気だ。しかし、この主婦と夫は身なりがよくて、そこそこ裕福な感じもする。
次に面白いのは、役所で働く男がもうすぐ退職するというので、若い人が雇われるが、この若い男がやたらしつこくてうるさいやつだな、と思っていたら、主人公に変化を起こすけっこういいやつだったこと。
おばちゃんの方はイタリア映画には出てきそうだが、若い男の方のパターンはあまり見た記憶がない。一番ユニークなのは彼か?
インドはカースト制度があり、身分の差、貧富の差が激しいのだが、大金持ちの上流階級では女性は家事も育児も使用人任せ。インドでは女性が活躍しているのは女性が結婚しても家事や育児を人任せにできるからだそうで、その家事や育児をする使用人が貧しい女性だ。
日本でも、女性が結婚・出産しても高い能力を生かして仕事ができるように、東南アジアなどの女性を雇って家事育児を任せればいい、というような提案があった。女性を活躍する女性と家事や育児をする女性に分けてしまうわけだが、人を雇うとなるとお金がかかるので、やはり託児所や夫の家事分担の方が現実的であるだろうけど。
日本でも欧米でも、大金持ちで身分の高い女性は家事育児は使用人任せのはず、特に昔はそうだったはずで、「ベルサイユのばら」でもオスカルは乳母に育てられている。ヨーロッパのこういう古い時代の話だと、母親が家事育児をしないというシーンはあると思うが、こういうシーンって、そういえば、あまり見なくなったな、と思う。日本の時代劇でも、武士の妻が家事育児をしているように見える映画が多いが、実際はどうだったのだろうか。
「めぐり逢わせのお弁当」の主婦も、そこそこ裕福だけど家事育児は自分でする専業主婦というところが重要で、インドではそういう層ははたしてどのくらいいるのだろうか、ということも気になった。